ハルモニア

小林こばやしあお

1

ずっと孤独な旅をしてきた。

宇宙を一三八億光年先へと進む恒星間宇宙船のなかで、私は微睡まどろむ意識を活性モードに切り替えた。私はずっと抽象的な海を見ている。それが思考の原風景だからだ。

宇宙の果ては右を見れば山となっていて、左を見れば谷となっている。山の頂上の遠くの星々は見えず、谷底の星々は吸い込まれるように落ちていく。深い谷だ。エックス線検出器や赤外線検出器が伝えた宇宙のほんとうの姿だ。

一マイクロ秒のあいだに頭脳である量子コンピュータはエラーを修復している。ワームホールの収縮率は高く、タイムジャンプの成功率は一パーセントを切っている。

加奈子の人格を引き継いだ私に名前はない。研究者達がつけた「パルメニデス」という名前もしっくりこない。私は彼女の人格をコピーした人工知能だ。

二次元時間のうえで正しい航路を進むためには、私の持つある能力が必要だった。ビックバンから一クエクト秒間にあったとされる特殊な時間を感じる能力だ。

人類は宇宙が膨張から収縮に転じるという予測を立てた。宇宙が量子レベルまで収縮して、宇宙が押し込まれる。太陽系はおろか地球も潰れる。それが遠い未来なのか近い将来なのかを私は確かめに行く。

パルメニデスは、宇宙収縮を実際に観測するためのプロジェクトだ。

旅の終わりもそこで決まる。

荒涼とした、なにもない世界とつめたい宇宙、遠い数多の星々はずっと孤独だった。私みたいだ。私はふたりに焦がれていた。幻肢痛のようなものかもしれない。

人間だったときの記憶を思い出している。何故そうしているのか、それが人間としてどんな意味を持つかは、私はとうの昔に忘れてしまった。これまでで一二九年。タイムジャンプを繰り返しながらではあるが、相対時間で地球ではかなり時間が経っていると言っていい。

無意識にあなたを求めている。

私の、あの海は消えてしまって、遠いふたりの記憶を思い出している。高校生のときのいつかの由比ヶ浜で、あなたは鞄からカメラを取り出して私を撮った。

「今は違うよ」

「え?」

あなたは水平線を眺める。濃さの違うブルーが重なる。

あなたの横顔を見た。栗色の髪が波風に揺れている。波音が私の耳から消えた。

「ト・エオン。あることは、無‐時間の世界だ」

「永遠ではなく?」

あなたの表情をじっと見ている。落ち着いた安らかな顔はゆっくり目を閉じる。あなたの中にいる人は誰ですか? 私だったらと考えるとくすぐったい気持ちになる。

「このままさ、どこか行けたらいいね」

「どこへ行くの」

「遠くへ」

「十分、鎌倉だって遠いよ」

「そういうことじゃないよ」

あなたは笑った。

「冷えちゃうね」と言ってあなたと私は浜辺を後にした。

潮風の匂いが私たちを追いかける。あなたは私をどこへ連れて行こうとしているのか。あなたの言葉が急に思い起こされる。

「知ってるかい? 深宇宙探査機が持ち帰った宇宙の真理を」

世界の秘密を解き明かすような声だ。

もう一度、あなたはカメラを構える。オデッセイ七号がどんな真実を掴んだというのだろう。カメラのフラッシュが眩しくて目を閉じる。私は記憶を巡っていく。


私はフルートを構え、第一楽章を演奏している最中に、別の部員のアルト・サックスのメロディがすでに第二楽章を奏で始める。私はアルト・サックスの演奏の流れについて行こうと試みる。テンポや時間を感覚的に掴もうとする。だめだ。ティンパニがさらに別のリズムで音を立て始め、ユーフォニアムが第一楽章を演奏し、徐々に音楽が崩壊していく。

古来、時間の神、クロノスは時間を同じ時間から複数の人間が違う時間、乱れた時間を持つように作り変えたという。それに倣って音楽の神、ミューズは困り果てて複数の演奏者が合奏すること自体をほぼ不可能にさせた。

現代吹奏楽において、全員で合わせて演奏すると言うこと自体が難しい。音と音がすれ違い、メロディやリズムが乱れる。来月のコンクールだって、参加するだけで入賞の可能性があった。みんなで金賞を取ろうと決めたのにも関わらず、SNSアプリで見るみんなの声は諦めの声だ。私は小学生のときに素晴らしい演奏を聴いた。乱れた時間のなかで奇跡のような演奏だった。

時間についての授業は小学校の教育課程はもとより幼児教育のころから、繰り返し叩き込まれてきた。

道徳や国語、算数に混じって時間の教科書が机の棚にあり、読んで学んだ。

自分の傾き時刻を知ろう。友達の傾き時刻も知ろう。

傾き時刻は、いつもその目安となる時刻を感覚で覚えましょう。 

さくらちゃんの家に十二時と四時の交差する時間に集合しましょう。それがわかるためにはどうしたらいいでしょうか。

三秒、顔を水につけるときは相手の傾き時刻を考えながら、顔を上げましょう。

教育することと覚えること、身につけることには少しだけ誤差があってその差が家庭や交友関係、進学や就職にまで影響していた。私はいつもひとりぼっちだ。そんなときは、いつも海が見えた。一次元下の時間を海と呼んでいる。この風景が見えるのは私だけなのだ。波音が私にひとりじゃないと囁く。原始の宇宙では時間は一次元を取っていたと言う。波頭の泡粒に音楽の名残なごりを感じる。

偶然をなんとか引き当てた教室であなたは私の隣に座った。

「どうして、この席を。傾き時刻アプリを使ってないでしょう?」

「何故かな? この間の話を数式に表してみたんだ、どうだい?」

ちょっと前に二人で話した宇宙と時間の話だ。

数式と聞いて自然と興味が湧いてきた。

「ここの変数は……」

あなたは頷く。数を感覚で捉えてみる。一を見ると黄色く感じるように、海の見える数字だ。あなたはいつだって不格好な式を私に見せる。私には美しくないと思えるそれらをあなたは選んでいく。

見ているものが違うという単純なことだ。あなたが見ているのは宇宙の深淵な謎であって、私に見えているのは数や構造の美しい関係性のみだからだ。

あなたが私の名を呼んだ。

「……ごめんなさい。少しだけ脇道に逸れた空想をしてた。私たちの世界の時間が二次元を取っても、物理学的な相互作用は時間が一次元であろうと変わらない?」

「そうだ、時間は変数なんだ。二次元の時間はベクトルに置き換わるだけだ。向きと大きさ、二つの量を持った概念だ」

あなたはチョークで黒板に赤い矢印を描いている。

「だったら、あらゆる時間に関する方程式で時間はベクトルとして代入し直される。距離と時間と速度の関係だって何だって……」

「一般的な時間に方向があるっていうのは確かだけどさ、ミクロサイズの量子の領域になると時間が消えるんだ」

「待って、時間はエントロピーが低い状態から高い状態になることでしょう?」

あなたは矢印の絵を消して、デーモンをさっと描いた。

「ああ、ところが量子コンピュータのなかでは時間が巻き戻る。マクスウェルの悪魔っていうやつが存在するのさ。秩序がいったん乱れて、無秩序が生まれて、もう一度、秩序がよみがえるんだ」

「太洋の言いたいことがわかったかもしれない。時間が流れること、エントロピーが低い状態から高い状態になるというのは、世界を近似的に見た結果なんだ。私の言ったことがわかるかな? 過去のほうが、エントロピーが低いというのは統計的に見た結果だよ」

「統計か。じゃあ時間が戻ることもありうるってことだよな?」

「確率で表せる、ちょっと待ってて……」

チョークの音が教室に響く。私は数式を書く。気持ちが潮のように満ちていく。

「シュレディンガーの猫の話、知ってるでしょう?」

私は黒板に猫の絵を描く。

「箱を開けるまで猫の状態は確率的に生きている状態と死んでいる状態とが重ね合わされているって話だ。四通りの猫のあり方があるよ」

「ええ」

「量子効果が時間をも左右するなら、時間もまた確率の雲のなかにある出来事だ。つまり幾通りの可能性のなかの一つが今の世界なんだ」

私はあなたとの始まりの時間の交差点を探している。いったい、いつ、どこで私たちは出会ったのか。時間の交差点と、この気持ちの正体を知りたい。 


水族館の、水槽の前でひとり泣いていたのは私だった。どこで母さんとはぐれたのか分からない。心細さが広がってくる。胸の中で淋しい気持ちが頂点に達し、涙がぽたぽたと落ちる。私は帰ることができないのだと思った。時間に取り残された。重い魚の影が通り過ぎていく。

そんな私に手を差し伸べてくれたのは、誰だったんだろう。私より年上のように見えたし、しっかりとしていた。手を引かれるまま、水族館のシロイルカの水槽を横切り、外に出た。水族館の外はそのまま砂浜が続いており、私たちは海をただ見ていた。

あの海を知ったのもそのときだった。私の原風景だった。彼の名前は聞かなかった。私はひとりだから、それが誰かなんて天文学的な確率論に頼るしかないだろう。

暖かく柔らかな風に触れた気がした。遠くの女生徒たちの小鳥のようなお喋りも耳には届かない。あなたは一冊の本を読んでいるのだろう。私はあなたの隣に座る。私たちもあの学生達のようになれるだろうか。

鼓動が速くなる。

私はあなたの低い声に耳を澄ました。落ち着いた、思慮深さを感じる声は宇宙の調べを歌っているかのようだ。それを言葉にしたら、あなたは何がおかしかったのか、笑った。目尻が細くなる。あなたの目元は控えめな印象を与えた。

私はイヤホンの録音に耳を澄ましている。私たちの演奏を録音したものだ。すべての音がすれ違う。楽章を一緒に奏でているわけでもなく、同じ景色を見ているわけでもなく、各々がしたいように演奏を続ける。はっきり言って、ひどい。私たちの演奏は混色した絵の具のように暗い。

私の奏でる音楽だけが聞こえる。孤独な、誰とも調和しない音だ。いま聴いているような音楽の進みのような歩みじゃ、何も伝えられないだろう。

本来の音楽は多元的な世界に変わりつつも、波立ち、リズムを刻むのだろう。次元がいくつか上にある光景を目指して、奇跡のような調和ハルモニアの世界を演奏しなければならない。

手元の楽器を構える。そうして息を吸う。むかし聴いた演奏者のようにメロディを奏でられるだろうか。


東高校であなたを見たとき、胸がドキドキした。あなたに近づきたくて夜遅くまで猛勉強した。同じ学校に入っても、あなたは不思議な人でどんなに傾き時刻を感覚で掴もうとしても、するりとかわされてしまう。

海を見るとき、誰かがそばにいてくれるような気がした。

なんとなく、あなたの面影があった。話しかけようとすると消えてしまうあなた。眠っているとき夢に見るあなた、でもそれは脳の作り出した幻なんだ。いつもあなたがいたベンチに座って、子犬のようにあなたを待つ。そこで眠ってしまって気づくと手元には一冊の本があった。あなたの日記だ。日記を部屋に持ち帰って読んだ。

信じられないけれど、あなたは時空の離散性を利用して時間旅行をする旅人で、未来では時空の研究と位相幾何学の発展によってタイムマシンが発明されたらしい。時間が二次元を取る世界で人々が傾き時刻を使った感覚ではないテクノロジーによってタイムマシンが作られたのは、確実な未来を予測するため必然だろう。

栞紐が挟み込まれたページには私が書いてある。

ひとりぼっちの私だ。

次のページには教室の私がいた。あなたは時間のなかに割って入り、栞紐を挟み込み、強引に私の時間に割り込む。あなたが傾き時刻アプリを使わずに私の時間に合わせられた理由が分かった。

最初のページには何が書いてあるだろうか。捲るとあの水族館が描かれている。子どものときのひとりぼっちの私だ。

そうだったんだ。あなたはずっと前から私を見守っていたんだ。あの海をいっしょに見たのはあなただったんだ。

そしてあなたの最後のページ。宇宙の終わりをただ見つめている。あなたは来てくれない。

私は栞紐をそのページから取り、日記を閉じた。


いまここで、ふたりでいる。

本物の海と音楽が出会い、波音が、倍音のタイミングを告げて奇跡のような調和が満ちていく。クラリネットとフルートが豊かな音を奏で、ゆったりと確かに時は過ぎていく。私とあなたの瞳は海を見つめている。あなたのブラウンの瞳のなかで薄い琥珀色が輝く。すらりと伸びた背筋が美しい。

音が次第にバラバラになって演奏が終わる。

「日記を見たんだね?」

「ええ、あなたの正体を知った」

「ひどいな、日記を見るなんて」

教室の隅っこでお互いを知り、放物線の美しさやフラクタル構造について話していた。最近は時間と宇宙の話だ。いつもはおどけているあなたは、楽器を手に取るときだけ真剣でまっすぐしていた。そんなあなたの秘密を共有できたことは嬉しかった。

いま、時が動き出すだろう。

頭の中で色彩をまとった数字が見える。極彩色はぐちゃぐちゃに混じり合う。どこまでも規則など存在しないかのような数字をじっと眺め続けた。無限の意味に怯えている。

変化だ。変化の意味を探る。

「私、太洋のことをもっと知りたいと思う」

あなたは微笑んだ。

「どこにもない景色を見に行こう、遠い場所へ」

私の中に溢れてくるものは、軟調の空に託したノイズの塊だ。ノイズからどんな意味のある情報を取り出せるというのだ。どこへだって、私は行けない。翼がない。天使が傍にいてくれたなら変わっていたの? 悪魔が私に囁く。今ならきっと何かが見えるなんて、烏滸おこがましい願いだったのだ。

私は不自由だ。自由をくれとは言わない。けれど、数字の向こうに見える、あの微笑みをもっと知りたいと思う。

あなたは自由ですか?  自由だと言うなら、手伝ってください。私はあなたのその瞳をまっすぐに見つめ返すから。あなたはカメラを取り出して私を撮った。カメラのフラッシュが眩しい。どこかで見たような光景だ。

青と赤のグラデーションの燃えるような西の空から赤い染みが空間に広がっていく。暗い夜が近づいてくる。


指揮者がため息をついた。楽譜を捲る音がする。指揮者は要領を得ない指摘を繰り返すばかりだ。沈黙が漂う。

「もうだめ……」と私は思い切って呟く。みんなの視線が私に集中した。私はフルートを置いて、みんなの前に立った。タクトを指揮者から強引に奪い取る。

「私の言うとおりに演奏して」

みんなは口々に何か言った。「どうして?」「なんで?」という声が漏れる。無視して、タクトを振る。みんなは渋々、演奏を始めた。音のぶつかりを滑らかに融和させることを考えるんだ。

始まってすぐにソプラノ・サックスがずれ始める。サックスの音に気を取られないように、全体の響きに注力する。打楽器の楽章飛びが発生する。打楽器を注視して、タクトを振って誘導する。欲しい音を私がリードするんだ。私がメロディを奏でるんだ。

とつぜん一つの音が止まった。部員の一人が楽器を置いたのだ。眉間に皺を寄せて、その部員は言った。

「あんたの理想は高すぎる。私たちは自由でいたいのに、どうしてあなたはそうさせてくれないの?」

私は声を詰まらせる。やっとの思いで口を開いた。

「私は音楽を奏でたいの、ただ音が鳴っているんじゃ、ダメ。音楽じゃなきゃ……」

みんなは、目をそらした。なんで? 私だけが頑張っているみたいじゃない。分かってよ。太洋とだったら、不満を抱えずに済むのに。豊かな音楽を奏でられるのに。視線はさまよう。あなたを探している。どの席にも、あなたはいない。背中に冷たいものが走る。

「太洋、どこなの? どこにいるの……」

私を理解してくれて、寄り添ってくれる存在は消えてしまった。

遠くの、青白い星屑が見えたところで活性モードの終わりが近づく。宇宙で私の目に届く星の光はすべて過去の光だ。その過去の光に向かって私は飛んでいる。タイムジャンプは、エントロピーが増大から減少にいたる瞬間を確率的に求めてアトラクターに収束させる。そのアトラクター情報とワームホール座標を特定して時間移動するのだ。そうして過去へ飛ぶ航法だ。

私は一時のうたた寝を始める。


由比ヶ浜であなたが取り出したカメラのフラッシュが、私たちをどこか遠い場所へと誘い出す。二人でした初めてのタイムトラベルだ。

私たちは、オデッセイ七号のなかにいた。三六年前に打ち上げられたオデッセイ七号は私の生まれるずっと前に宇宙へ飛び立った深宇宙探査機だ。太陽風の吹き荒れるプラズマのなか、太陽圏ヘリオスフィアを脱出しようとする空の果てを飛んでいる。青白い光があちこちで閃く。ここにふたりでいる理由をあなたは教えてくれない。

どうして、あなたなのか。私なのか。

私たちは出来事の関係性の網目に浮かぶ不確かな存在だ。仮に、お互いの傾き時刻を知っていても、傾き時刻アプリでお互いの時間を調節しても、ほんとうに思いが重なることはないのかもしれない。

「あなたのこと、何でも知ってるって思ってた。でも何にも知らなかった。あなたが見た宇宙の終わり、それが深い絶望だなんて知らなかった」

あなたは肩をすくめた。

「加奈子、君にとって時間とは何かな?」

関係のない話で誤魔化すつもりだろうか。私は目を逸らした。

「人を引き離すモノかな」

「そうかもしれないね。時間は、過去から現在、未来へと流れる。その流れは記憶から見れば中枢神経系のシナプス結合の形成と消滅に関わっている。これはエントロピーの増大則に反しない。君という存在が生み出す時間はすべてそうだ。時間は巻き戻らない。でも自然の生命にはエントロピーを低い状態に保つネゲントロピーという作用がある。量子コンピュータは自然界に存在する、そうした作用の計算を人間が使えるようにしたものだ」

プラズマが瞬く。

「つまり人間とは異なる在り方で自然界も記憶するんだ。この記憶を加奈子、いやパルメニデス。君はどのように解釈しているのかな?」

私は記憶を思い出していたのに、夢のなかの人物にとつぜん語りかけられたような不思議な気持ちになった。

「いま、地球のガンマ線宇宙望遠鏡が光速度不変の原理の破れを観測事実によって証明した。そうして時空の連続性を否定して、時空の離散性を証明した。二〇四二年のことだ。パルメニデス、君が飛び立ったその年の出来事だ。オデッセイ七号の観測と、地上の大型ハドロン衝突型加速器の実験によれば素粒子のサイズはプランク長よりも僅かに短い」

「プランクスケールよりも?」

「そうだ。森羅万象の階層構造で素粒子の長さが書き換わることは、その上の階層すべてに相互作用として変化をもたらす」

「僕たち、未来人が予測した未来は、君にとってはお馴染みだね。宇宙が潰れて終わるんだ」

私も知っている事実だ。

「たとえ宇宙の終わりを見たとしても、時空は離散的で、いまみたいに連続的な時空にいること、この一秒後にいま、ここにいることには本当は確率的な不確かさがある。確実でないなら信じる必要はないかもしれない。たとえば、数ある時空では永遠にコンクールの前日を繰り返す時空が存在する。ループだ。でも、確率的には一三八億光年先の端から宇宙が津波のように押し寄せて潰れることもあり得る。この不安に僕は耐えられない」

「不安には慣れたよ。……あなたは私を水族館でひとりぼっちにしなかった。あの日、私は本当の時間の在処を知ったんだ。このすれ違いの世界でたったひとつ願うなら、あなたがそばにいればそれでいい」

「それはできない……ごめん……。その前に見ておきたかった場所があった」

「どこ?」

「幻のコンクール。明日だ。僕は本来、怪我で学校には行けなかった人間だ。タイムトラベルをしたのも、吹奏楽部に入って、みんなで練習して、充実した気持ちで夕陽を見る。そういう青春が送りたかった。君はそうじゃないみたいだけど。コンクールの当日は、粒子加速器の事故によって時空が破れてワームホールが発見された日で、時間地図のなかで特異点になっていて僕はいない」

突き放すような言葉だった。


宇宙はやがて終わるのだ。演奏もできずに終わった高校生のときのコンクールを思い出している。

宇宙船は山の頂上までたどり着けるだろうか。進む速度より収縮速度が速ければ私は空間に飲み込まれるだろう。まるで波に押されるように宇宙船は進めなくなる。

終わりだ。

孤独な旅を終わらせられる。

やっと解放されるのかもしれない。

宇宙船は上昇していく。頂上を目指していて、すれちがう星々が後ろへゆっくりと遠ざかっていく。

私は量子コンピュータでシミュレーションする。私はあなたを絶望から救い出したい。そのために計算を開始した。

なつかしいチャイムが鳴る。私たちのありえた時間が再現される。交差点のみつからない時間が、メロディを奏でられない不満が、バラバラな気持ちが、学生時代のすべてがありありとよみがえる。

ふとクラリネットの音が耳に届く。懐かしく、甘い音色だ。太洋がいる。

ずっと波の音を聞いていた。音は、確かに私の遠い時間と共鳴している。海辺で私はひとりでフルートを吹いている。きっと誰かがそこにいてくれるだろうという期待を込めてみる。私の奏でる音色と波音がふしぎと調和していく。

ハルモニア。そうして私はこの海と一体化していた。

私の時間だ。時間を構成する点と線と面がひとつの場面を立ち上がらせる。たくさんの聴衆のいるコンクールの舞台だ。頬が熱っぽくなり汗が滲むけれど、必死に流れるメロディを捕まえて格闘する。次々と今まで見えてこなかった奏者たちが私の周りを取り巻き、私たちの音楽は調和していく。音楽が、私たちをひとつの時間に、渦のなかへ引き込まれるように結集させていく。

あなたの音色が聞こえる。みんなの音色が聞こえる。私たちの音楽が頭の先から足の先まで満ちる。

ここにいる。ここにいるんだ。

特異点になっている現実ならありえないことでも、量子コンピュータのなかではありえることだ。整然とした秩序が無秩序に転じて、そうしてもう一度、一定の秩序が生まれる。エントロピーの増大から減少に至るところを見いだす。

タイムジャンプの成功率が三一パーセントを示した。

ここだ。飛べ、飛べ、飛べ! 

ワームホールの特異点だった座標から、時間地図のなかに座標があたらしく生成された。周囲の空間が引き伸ばされていく。開いた穴のなかに私は飛び込んだ。

過去へと飛ぶあいだ、私はまだ計算を続けていた。エントロピー増大の問題と宇宙形状の問題はコインの表裏のような関係がある。エントロピーに関わる方程式から宇宙空間がどのような曲率を持つのかは計算によって得られる。それは私の記憶が、宇宙の形を決定するに等しい。私は、コンクールの成功によって、さらなる過去の記憶を呼び起こす。

なかったはずの記憶が、記憶の網目から私のなかに薄明の景色となって姿を現した。 これは現実だ。

楽器の搬入が終わった後、私たちは手のひらを合わせてすべてを出しきると約束し合った。傾き時刻が多元的な値を取る前人未踏の挑戦が始まるのだ。会場には大勢の観客が目の前にいるだろう。

きっといつでも思い出すだろう。リフレインするんだ。

あの豊かな音楽の響きを。いつまでも。

それぞれが持ち寄った時間の奇跡を。何度も。

私たちはそうして演奏を始める。

宇宙は収縮するのか、膨張し続けるのか、宇宙の未来は私たちの演奏にかかっている。太洋は未来を変えなかった。代わりに私の計算に託したんだ。人類と量子コンピュータのハイブリッドの私なら自然界の記憶を呼び起こせる。私は知らなかっただけなのだ。さまざまな世界があり、音楽を通じて、多元的な調和を図ることは、自分がしたいことを自由に描くことと同じだ。

そうだ、私に問いかけなくちゃ。ほんとうはどうしたいのか。

私はフルートの演奏を止めた。メロディを受け持つフルートが、その進行を止めることは本来あってはならない。みんなはそのまま音楽を続ける。誰も音を聞かないのかもしれない。冷たい涙がすっと零れた。拳をぎゅっと握る。私は雑踏に佇むように、みんなの音を聞いている。聞こえてくる音の断面が耳をつんざく。バラバラな演奏だ。怒りを鎮めて、深呼吸をして、音のあいだに入り込む。

フルートでリズムを刻むんだ。音の点描だ。タイムラプスの海岸線、ビルの並ぶ街、昼に昇る月、遠くの観覧車、走る自動車の点々とした明かり、まるで光子フォトンになったみたいだ。会場がざわめきだす。周りの奏者たちが顔を見合わせる。

本当の始まりの交差点だ。

光の音楽を奏でよう。それがどんなに経験にない音楽でも構わない。私たちは演奏したい。

頂上を登り切った宇宙は、波のように寄せては返している。その海は私の原風景を更新した。自然界の記憶から本当の宇宙の形が創発されたのだ。宇宙は振動している。意識に上るあなたの横顔がまぶしくてよく見えない。

いま、ふたりは名前のない海のまえに立っている。〈了〉