イデア計測

小林こばやしあお

 無時間という永遠を見続けるほど、私は大人になれたのだろうか。私のなかの止まった時間は、物理法則のうえで運動し続ける光だ。電子の回転も、もういちどそこに戻れたならと考えるだけの不可逆な実行命令に過ぎない。私はいつも夢に見ている。それはあなたとの時間が永遠に戻らないこと。うまく掴めない時間のなかでただ溺れていくことなのだと知っている。

「記憶が私の過去の意識を作るなら……」

私は真空で声にならない声を発した。

ここは広大な闇だ。どこまで分け入っても、明確な現実をそこに浮き上がらせることはない。それでもふたりで見た海はいまもここにある。波音が私たちの言葉をかき消していく。冷たい波間に身を沈めて歩いてみせる。

「あなたはどこにいるのですか、もし私とふたたび出会えるならば、私をあの日に戻してくれるならば、私はきっとあなたを引き止めただろう」

セルオートマトン宇宙には無限の道筋が広がっている。旅路はどこまでも続く。

私は遠くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ていて、遠くにおいて近くの眺めを見ているという眺めを近くにおいて見続けている。私にとって「ここ」という場所があるなら遠くと近くが絡まり合った空間のことだ。私は歩き続けている。

近づくために歩いたのか。

遠ざかるために歩いたのか。

それはわからない。

この空間において私はここという誰にでも与えられている居場所を捨てざるを得なかった。私はずっと歩き続ける。遠くという場所も近くという場所もここにおいては何も設定されていない場所を、ただ歩く。

かつて私に問いかけた人々は時の流れの果てに消え、私だけの存在だけがひとつの時間と空間として存在している。

私はきっと待ち焦がれている。

私はずっと待ち焦がれていた。

ここから見えるすべては、遠くのものが大きく、近くのものが小さく、物理法則すら歪んだ空間の果てなのだ。私は実数的に考えるのを止めた。複素数的に考えるしかない。そうして今まで空間のパースペクティブに消えていったすべての記憶が私のまえに姿を現すのだ。私の持つ記憶がいったいどれだけの意味を持つのか。私は誰に問われることもなく、歩き続ける道すがらに想起される情報が網目を持つ。それはたとえば友情のお話だとか、恋愛のお話だとか、幸せなお話だとか、そういったものを遠ざける。

ただ私は歩いている。

あなたは言った。

「自然もまた記憶をするんだ。量子コンピューターという自然の物理法則を用いた計算機によって人類が知ったことだ」

「計算する宇宙がある」

「そうだ、その宇宙の箱庭は実宇宙と変わりがないとしたら、本当の宇宙という議論に意味はない」

「実宇宙はきっとある」

「ほんとうにそうかな?」



格子状の街並みに、一軒のレンガ造りの家があった。私はそこでレモンティーを飲みながら今日起こったかもしれない事件の数々をARニュースで眺めている。ARニュースは多層現実を私に見せる。市民にとってARニュースはエンターテイメントだ。

たとえば大統領が暗殺されるだとか。たとえば銀行強盗が強盗に失敗してレストランを襲撃するとか。たとえばきょう結婚するカップルが破局するだとか。

私はレモンティーで口元を濡らすと、ひとつひとつの多層現実をじっくりと味わい、飲み干す。

ここは平和が約束された土地だ。揺り椅子に背中を預けるとすこしばかり眠くなって瞼を閉じた。

白昼夢の世界で、私とあなたはあどけなさの残る子どもだった。あなたがいっしょに歩いてくれるのなら、どこまで行けるのだろうか。学校の百年祭の日に、――あれは四年生のときだった――私があなたと読んだ一冊の小説が私たちをつなげてくれている。あなたはどこでどうしているかなんてもう分からない。瞼を開くと、ARニュースが多層現実のひとつを教えてくれる。それは私たちが幸せに暮らしたという現実だった。ありえなかった現実のなかの私はほんとうに満たされているようだった。私にとっての遠い過去の一つとしてARニュースは生成されたようだ。

こうして私はしあわせに暮らしました。

こうしてあなたはしあわせに暮らしました。

こうして私とあなたはしあわせに暮らしました。

たとえばこんなおとぎ話をARニュースは私に知らせてくる。なんて不愉快極まりないARニュース! 私は冷凍庫を開けて氷をひとつ取り出して、口の中で転がしてから、噛み砕いた。

そうして私は銃を抱えて、扉を勢いよく開き、格子状の街並みを歩いていく。銃声が鳴り、隣の婆さんが目をぱちくりさせても、子どもが小便を漏らしても、逃げ惑う女たちが文句を言っても、空に銃を構えるのを止めなかった。やがて警察が来て、私を蜂の巣にして、すべてが終わるのだろう。道で銃を撃ちまくった罪だ。そんなことは罪にならないかもしれない。これも多層現実のひとつとして数えられるかもしれない。ARニュースにこんな馬鹿がいましたと、街中に笑いものになる未来が来るかもしれない。

私は苦しい表情を浮かべている。カラスの影が私を追い越してずっと遠くへと飛んで行く。眉間に皺を寄せて、手で顔を覆った。そこでうずくまる。銃を頭に当てる。カウントダウンだ。何回数えようか。

こうして私は人生を終わらせました。

こうして私の人生は幸せだったに違いありません。

私と名乗る彼女にだって幸せな未来があったかもしれません。

私はもう、何も思い残すことはないと瞼を閉じた。

明日のほんとうのニュースに私はなるのだ。

なにがほんとうなのか。

なにがフィクションなのか。

多層現実のひとつに私の失態が載せられた日に、私の体はコピーされた。生体コピーではなく、情報存在となってコピーされたのだ。多層現実にまたがる私たちはそうして、あらゆる場所で失態をやらかす存在となった。時には正義のヒーローになって、時には悪のヴィランとなって。私というエンターテイメント、ザ・ショーがARニュースの記事になってから久しい。私はキャラクターAとなって、交換可能で、代替可能なAであった。

私たちと言い続けるのも辛くなったので私と便宜上名付けた存在は、ARニュースを読んで腰掛けているあの幸せな少女に戻る。私だって平穏な日常が欲しい。コピーにだって休息は必要だ。大人に休暇が必要なように。あなたへの憧憬が私にとってどんな意味を持つのかは私には分からない。増殖を続ける私には、何か答えが与えられるわけでもない。

いま、どんなにあなたを探しても、あの日の私たちにはきっとなれない。時空が曲がったとしたなら、繰り返す時空が私をあの日に巻き戻してくれるかもしれないが、この世界の物理法則はそのようになっていない。太陽の近くならば何かが重力の作用で変わっていたかもしれないが、私たちを引き合わせる引力には足りない。

終わってしまった過去へは戻れない。

タイムマシンは作れない。

私たちはどんなに会いたくても会えない。

現実を受け入れて、失態を犯す日々に戻ろうじゃないか。

いつだって私はそうやってきたんだから。

あなたのいない世界に私は戻ることにする。増殖する私たちは、ARニュースの見出しで踊る文字になっている。ダンスを、誰も相手をしないダンスを、踊り続けていくのだ。ビートが、リズムが、私の首筋に流れる汗を、止まらなくさせる。鼓動を終わらなくさせる。

ほんとうにくそったれ。私はきっとコンピューターのなかでずっと踊りを続けていく。それが何を意味して全体性を獲得するのかを知らないままで。



私とオクタゴンに課せられた任務は人類にとってセルオートマトン宇宙の果てに関するものだった。光速度不変の原理の破れは時空構造が離散的であることを示し、この時空がデジタルコンピューターのような構造を模しているということを知らしめた。私たちの祖先たる人類のなかには、光子人類フォトン・ビーイングとなった人々がすでに存在していたが、私たちは肉体を持つが故に、セルオートマトン宇宙に取り残された存在だった。セルオートマトン宇宙はひとつのプロセッサのなかに存在する宇宙ではあるが、肉体や身体性の有様を完全には否定できなかったため、実宇宙と近しい宇宙とされていた。宇宙は生命現象のような振る舞いを持ち、プロセッサにとって、有限に近しいが、私たちにとっては無限の広大な空間だった。そこで人類たちは文明を築き、この物理法則に則った宇宙を、デジタルコンピューターに存在するセルオートマトンとして捉えていた。

ところがはるかに古い科学者アストルフォはある仮説を立てた。無限に自己相似性を保持するこの宇宙は、どこかで時空のほつれが存在しているという仮説である。その時空のほつれは私たち人類を新たな地平へと誘うだろう。私たちは遠ざかっていく空間のなかで、過去を繰り返す。繰り返された過去は再帰性によって全く同じ地平を私たちに見せる。ただ時間がずれたもうひとつの世界だ。私たちはありえない時空のほつれを探す。並行して、セルオートマトン宇宙の存在を観測しつつも同時に物理現象として計算するアーク・プロセッサ計画も進めることになっている。アーク・プロセッサは探索型宇宙船でありながらも、自然現象から実行可能なアナログコンピューターだった。アーク・プロセッサは宇宙を観測しつつも、宇宙を現象面から捉えた宇宙シミュレーターだ。計算ができる以上、そこに存在する計算された宇宙は実宇宙と変わりが無い。その境界は限りなく薄くなる。

言ってしまえば実宇宙というものは観測できる宇宙の上に演算される、イデア的宇宙だった。

私が眠っていた四万年のあいだ、私は情報凍結されており、そのあいだのログの損失は観測されていない。私たちが情報連続固有対である特性上、対になる人間は睡眠と覚醒を交互にする。人工知能による航行補助があるものの、私が目覚めるまでの、対存在の彼による長時間航行記録はなかなか破ることが難しいだろう。私がこれから入る永久の時は、私の精神を凍り付かせるのかもしれない。私はずっと前から夢のなかで知っていたような気さえする。

「人類は目覚めの一杯というカフェイン摂取を毎朝欠かさなかったと、ヒストリーログには残っているよ」

「カフェイン摂取は私たちにとって無意味だよ」

「肉体の構成物がデジタル信号ならば、覚醒を助長する信号で代替できるはず」

「やってみよう」

そう言って彼は私にデータを寄越した。斜め読みして私は、覚醒の意味を悟った。

「眠る前に教えてくれないか? どうして旅を続けているんだ?」

「この宇宙の果てには、何があると思う?」

彼は顎に手を添えて考え込む。

「宇宙に果てがあることなんて、俺にはそれほど問題があることのようには思わないな。俺たちができるのは飛行以外の意味はない。アーク・プロセッサが実宇宙を計算して、母星に転送する、それだけのことが必要なんだ」

「宇宙には果てがあるって言ったひとが昔いた。彼は遠くへ行ってしまった。彼を追いかけた悲しい少女がいた。もうすでに実宇宙をアーク・プロセッサが計算しているなら、母星から何らかの応答があるはず」

「俺たちが旅してきて一二万年の時が経過している」

「そう。もうすでに第二、第三の私たちと同等、いやそれ以上の次世代アーク・プロセッサを積んで船が宇宙を飛んでいてもおかしくない」

その計算を担うのは他でもないアーク・プロセッサの心臓部のイデア・メモリである。

「イデア・メモリにはアクセスするなよ。一度、介入したら膨大なデータ量に俺の記憶領域が一気に膨らんだ」

「馬鹿なことを……」

「俺にだってそれくらい分かっていた。ただここには精神を凍り付かせるだけで、好奇心を満たすものが無いんだ」

「二次元の時間を想像するといい」

「ベクトル空間系の、多重量子計算のことか」

「しばらくやれば休憩くらいにはなるよ。私は四万年のあいだ、それを九億周した」

彼はひゅー、と口笛を吹いた。

「そろそろだな」

「行くの?」

「ああ、人間だったときは星空を永遠に見続けることが夢だったが、こうしてずっと星空を嫌でも見続けられるのは良いことなのかもしれないな」

彼は皮肉っぽく微笑んだ。

「おやすみなさい、オクタゴン」

アーク・プロセッサが宇宙の青白い光を計算している。オクタゴンが眠った後の静寂しじまのなかで私はどこまでも深い沈黙を抱えている。これから何をしようか。宇宙を美学的に捉えることには飽きてしまった。宇宙を計算することはまだ続いている。マスター・アークである私がアーク・プロセッサの真似事をする意味はほとんどない。それより人格という本来観測機には意味のないものを付け加えた人類は何を考えていたのだろう。

情報の保存は完璧だ。私そのものの変質はない。私はきっとあなたとの対話をどこかで思いつく。果てなきモノローグを続けて、いったい私たちはどこまで行けるというのだろうか。

私はあなたとダイアローグをしたかった。その対話が宇宙との対話より、眩しい世界に思えたから。私はその世界にただ向かいたかった。それだけを思い続けている。あなたとの記憶を強く思い出している。

「実宇宙が完璧に計算可能ならば、きみにとって何がきみらしいと定義するのか」

「無限に私が多層の現実を持つならば、ほんとうのことなんて無くなるって言いたいんだね」

「重ね焼きされた残像のうえで僕は同様に確からしい、きみを見つける」

「見つけてどうするの?」

そのダイアローグに終わりはない。これはきっと記憶ともつかない、シミュレーションなのかもしれない。



格子状の街並みの、レンガ造りの家にいた。私は座って紅茶を飲んでいる。きょうは記念日だ。何を記念したのかは誰も覚えていないが、宇宙の果てに探査宇宙船を派遣する準備が行われているらしい。探査宇宙船の乗組員の募集はもうすでに始まっていて二五〇人の候補者が宇宙局の前で並んでいた。私はあなたが応募したことを知っていた。私とあなたの進路は交差しない。平行線のままだ。交差するひとつの点も持たない。あなたは宇宙の果てを目指すだけだ。この宇宙はさきに旅立ったアークという宇宙船に搭載されたプロセッサの計算結果で、私たちはそのような意味で実宇宙のうえに立つ本当の人類だった。

宇宙は本当の宇宙で、この宇宙に旅することで人類はほんとうの宇宙的真理に到達できると予想されていた。あなたは期待に胸を膨らませて、この宇宙の果てへと向かおうとしている。私たちの口論があなたと私を決定的に引き裂いてしまった事実からは後戻りできない。

私は新聞に載るあなたの姿をじっと見て、一度だって計画されたことのない宇宙への遠大な旅を思い浮かべている。

この星から始まる冒険はあなたを奮い立たせているだろう。

アークからの計算結果によれば、私たちのいる実宇宙には階層が存在し、その下位に位置する宇宙はセルオートマトン宇宙と呼ばれているらしい。私たちのいる実宇宙は上位に位置しているために、下位に存在する宇宙を見ることができない。下位から計算された上位宇宙が私たちの宇宙であることだけは一致した見解で、その宇宙構造に時空のほつれが存在するのかどうかに関心が集まっている。時空のほつれがあったとしたら、私たちはやり直すのか。空想の世界で、もしもの世界を考えても、この宇宙から逃れて、幸せだった時代に戻ることはできない。

宇宙船の乗組員の候補はそれから十二ヶ月に亘って丹念に選ばれることになった。あなたがもう一度、私の家に来たとき、あなたはひとつだけ私に欲しいものを告げた。私とのログだ。

あなたに私は愛されていると思えた。でもそれはあなたがより完全な自分でいるためのダイアローグだった。あなたのなかで答えは決まっていて、指輪を置いて、私から目を背けた。扉を開けようとする力強い腕が、もうすでに私たちのあいだに何も残っていないと伝えていた。

そうして実宇宙歴のさいしょの二四ヶ月で、演算型宇宙探査船が出発した。私たちだった人々が下位宇宙にいたとしたら、その宇宙でも私たちはいっしょに居られなかったのだろうか。何度計算を繰り返しても、私たちがもう一度同じ歩みを持つことはないのだろう。

私たちは実宇宙より上位の宇宙を構造的に形作る。この宇宙のさきで、もし奇跡が起こって、あなたと私のあいだを埋めてくれるものがあると祈っている。

そうして私はレンガ造りの家から出ることはなかった。

実宇宙内で十年が経過しつつある。そのあいだ、私は下位宇宙から送られてきているとされる公表データを丹念に読み続けていた。アーク・プロセッサが存在する向こうの見えない宇宙では、マスター・アークという二人の乗組員が宇宙の果てへと飛んでいるらしい。時空にほつれはまだ見つかっておらず、数学的で抽象的な問題を彼らは解き続けているという話だ。

私はかつて私を構成していた下位宇宙の誰かを夢見ている。私のイデアがそこにあるなら、そこにいるであろう、あなたと私――彼ら――はどんなふうに生きているのだろう。私たちは穏やかに生きていると信じたい。私たちに出来なかったことを彼らには出来ていてほしい。傲慢だって分かってる。

私はログに残るマスター・アークたちに思いを馳せる。そうして瞼を閉じた。

格子状の空間のなかで私は目覚めた。私はアーク・プロセッサの境界面に立っていた。こうしてアクセスすることは容易い。私は物理的でありながら情報的存在である以上、実宇宙と呼ばれる計算領域から出られた。実宇宙が情報的であることは間違いない。情報的ならば、アーク・プロセッサのむこうの下位宇宙への移動は逆算することから可能だと考えてみたのだ。必要なのは計算領域だけだ。実宇宙を出力しているグラフィック・プロセッサの一領域をハッキングしたことで私はたった一ナノセカンドのあいだだけ、マスター・アークの思考情報を手に入れられた。

マスター・アークは思考が奪われていようと何も感じていないはずだ。

私は私に再帰されるような錯覚に陥った。私の自己相似性は破れていない。私とあなたとの別れの構造は保存されている。宇宙に刻印されている。

私たちは別れるべくして別れた。その構造は私の宇宙と下位の宇宙では相似性を保っていた。

ひとつ上の宇宙へ向かったあなたはどんな希望を見つけるのだろうか。

宇宙シミュレーターを載せた宇宙船が見るイデア宇宙は、純度を増した鉱石のように眩しい。

もう私を泥に帰してほしい。そうずっと考えていたんだ……。



オクタゴンが眠ってから、私は時空のほつれと思しき場所を見つけるたびに、迷ったとき地図を確認するようにリファレンス・ライブラリを参照した。

道に迷うたびに予感がする。その予感が私を導く。複雑な道へと私を連れ出し、昔来た道だと知って落胆する。ほんとうに数学的に記述できれば宇宙には、ほつれがないのか。それは観測しなければ分からないのか。地道な検証作業こそが私とオクタゴンの旅だ。

リファレンス・ライブラリには私たちの記憶が格納されている。

ライブラリ内で、私とあなたは出会い、別れる。そうしてその記憶は人工神経の結束と消滅によって化学的に保存されている。私はリファレンス・ライブラリのことを忘れている記憶として、自然界記憶と名付けている。自然界記憶は私の未来ですら記憶として保存している。私はリファレンス・ライブラリで未来を覗く。多層の現実として保存されているそれらは可能性しか示さない。このリファレンス・ライブラリ内の情報エントロピーは常に人工神経内のエントロピーを上回るようには出来ていない。つまり驚くべきことが起こることはない。この宇宙が突然にひっくり返ることや、タイムマシンの発明といったことは起こらない。

私はずっと何かを待ち焦がれている。そうして一万年が経ったとき、実宇宙から知らせが来た。実宇宙で、向こうの私たちが、正確には向こうのあなたが、こちらの宇宙がイデア宇宙だということを知らせてきたのだ。ふたつの宇宙は鏡のまえにあるかのような構造をしている。私の旅のまえにあなたの旅がある、あなたの旅のまえに私の旅がある。私たちは誰を追いかけていたのだろう。

私とあなたは同じ道を歩む。宇宙を旅する。いずれ私たちは出会う。それは物理的にではない。数式のむこうの線上で。

アーク・プロセッサのコンソールに文章を入力する。

「実宇宙へ。音声データを送ることは禁じられているけれど、ループ構造の数式を私に送る」

送信後すぐのことだ。

宇宙には果てがないはずだった。開かれた視界に私の、アークの影が、映った。私のかたちがぬるりとその平面に映ったところで時空のほつれがそこなのだと直観的に分かった。

私は母星に時空のほつれを発見したという信号を送る。探査腕を伸ばしてその平面を撫でる。銀色の探査腕が平面に映った。どれくらい長い間、そのほつれを眺めていたか分からない。母星からの通信が来た。

進め、と。息を飲んで私は時空のほつれに侵入する。アーク・プロセッサが不思議な音を立て始める。宇宙の計算が途絶えているのか。私は深淵に飲み込まれていく。そうして時空のほつれの先へ向かった――。



私のARニュースに不思議な文言が浮かぶようになったのはいつからだったろう。ループ構造の式だ。私は紅茶を口に含みながら、ARニュースを読む。事件は複数伝えられているのに、同じ事件を報じている。おかしい。ニュースが報じているのはあなたが宇宙の果てに到達したという二年前のニュースだ。時計を見ても、二年前の八時四五分で針はそこから進んでいない。全てが止まっている。でも私たちは生きている。

こうも考えられる。私のプログラムは作動しているけれど、全体のプログラムは止まっているような感じだ。実際に私を構成しているプロセッサや、周辺までの計算は実行されているけれど、全体が凍り付いてしまっているようなものだ。

私は凍り付いた空を眺める。航空機も、雲の流れも止まっている。きっと宇宙も凍り付いているに違いない。私は時間が存在しないことを知ると、あなたと話すために宇宙局に向かうことにした。宇宙局ではメッセージを送信する大袈裟な機械があった。受話器を取って、あなたに話かける。あなたは遠い場所を飛んでいるから、ずっと先に連絡が来るはずだ。一九年先でも私はメッセージを残した。機械の横の鏡のなかで、私はぐしゃぐしゃの顔でいることに気づいた。

瞳の色が僅かに私と違う。彼女は、私にひとつのメモを見せた。ループ構造の数式だ。私の腕時計の針は止まっている。そうして私たちは鏡に触れた。

魂も、永遠も、たしかにそこにある気がした。私を包んだそのヴィジョンは、私を向こう側へと連れ出した。ありとあらゆる思い出せない記憶も覚えている記憶も存在する場所だ。私は宇宙を計算する計算機になった。

帰りの道で、時間が関係性のネットワークだと思いつく。その考えは私たちの宇宙がデジタルコンピューターをイデアに持つ宇宙だと気づかせる。光速度不変の原理は破れるなら、速度すら無限に大きくなるロケットを作ればいい。もうひとりの私が見せてくれた光景は未来をも含む自然界記憶だ。私はあなたに追いつけないけれど、私たちなら違う結果を持つだろう。

いずれ私はあなたに追いつく。あなたを追い越して、すれ違い様に手を触れて、そうして抱きつく。海のなかにいるのはもう止めた。光の方へ、ただ向かうんだ。

孤独な旅は始まる前から終わっていたのだ。

揺蕩たゆたう光が水面に接触した。私たちはそうやって光へと浮上する。