手紙

小林ひろき

1-1

重たい油が海を汚して、煙があちこちから上がっている、そんな熱い町。

ホナミは黄色い空気の霞む街を眺める。そして想像する。海の向こうを思う。ハルがやってくることを想像する。

海の向こうの風の吹く町。そして男の子。ハルは自転車を漕いでくるだろう。一生懸命に漕いだせいで汗だくで、ホナミは彼にハンカチを渡してやる。

「今日、手紙はないんだ」

「ええ。知ってる。もうすぐあの日だもの」

上空には雲。そのもっと上に、竜は飛んでいた。

「もし竜を落とせたらさ」

「何?」

「竜だよ。赤い竜」

「ヘキホド?」

「そう、だから――」

ハルの言葉はここで途切れてしまう。ホナミの夢だ。空想ではない無意識の見る、憧れの風景。

ホナミはすぐにエアロックを開ける。道は途切れ途切れになっていて、遠くの街はよく見えない。

ホナミは唄う。少しずつやってくる魔物を払いのけるように。

世界は水と油のように割れてしまった。いくつかの戦争の結果だ。水の国にはハルの町。油の国にはホナミが住んでいる。

「ヘキホドの、角だ」

食堂のオヤジが言った。

万能薬と言われるヘキホドの角。ホナミは二階からそれを見た。

きっとハルの町から来たに違いない、そうホナミは思う。

水の国は、いつだって竜に襲われている。だから人々は飛行機に乗って竜を落とす。ハルが言っていたことをホナミは思い出した。

「竜を落としたら、ホナミに竜の角を送るよ」

そんなこと子どものハルにできっこない。ホナミは嬉しさを感じながらもそう思った。

二階の扉が開いた。

手紙が来ていた。

――ホナミへ。空が開いたから、近いうちに会いに行くよ。

文は簡素で、写真が添えられていた。黄色い雲がぱっくりと開いて、油の国が見えていた。

ハルに会える。そうホナミは確信した。


1-2

竜の血が海を汚していた。

ハルの体に重力がかかる。弾丸は僅かだったが、倒せる自信はあった。火花。弾丸が竜の腹を貫通していく。

唸り声が辺りに響いて、竜が落ちていく。鱗がぎらぎらして眩しい。

ハルは思う。ここに来るまで何回、死んだだろう。

空で死んで生き返る。世界は眩しいままで、へキホドは強いままだ。

何回死んだかなんて主観の問題でしかないのだろう、パイロット達も慣れたという。

ヘキホド達の空は動いて、油の国の上にあるという。

いまよりずっとハル達が幸せだったころ。ハルは思い出す。ある女の子のこと。

ハルは写真を一枚撮って手紙に添えた。

郵便配達員がどこからともなく現れて、ハルは手紙を渡す。

つながっていると、気づかなくなったのはいつからだろうか、とハルは思う。

一本の道が、水と油の国を繋いでいた。ペダルを漕いで通った、あのいくつもの夜。朝にはホナミと会える。そう信じた日々。

ホナミは足が悪くて、小さな世界に住んでいた。コウガイだってホナミのおばあちゃんは言っていたことをハルは覚えている。

街で機械が音を立てている。ホナミの部屋はいつも微細に揺れていた。

「ハ、ル!」

別れるときはいつも決まって、名前を呼ばれた。どれほどの言葉にならない感情があったのか、ハルには分からない。 いつも笑顔で手を振った。そう答えるしかなかった。

初めて空に出たとき。ハルは死んだ。ヘキホド一匹を倒した。そして勲章を貰った。 生きていることと死んでいることが、ここでは断絶していなかった。多くのパイロット達は死んだ数だけ、ヘキホドを殺した。

竜を殺したとき、自分も死ぬのだ。そして墜落していく飛行機のなかでパイロット達は竜の魂を得る。少なくともそう信じられている。

ハルは自身の体を鏡に映した。

「だいじょうぶだ」

と確認を終えると、ぶかぶかの飛行服を着る。小柄な体格にぴったりと合う飛行服がない。ベルトをきつめに締めて部屋を後にした。

空。もうすぐ油の国というところ。飛行機のなかにハルはいた。生と死が混ざり合う戦場。

「死んじゃあ、いないんだ! 好きにやらせてもらう!」

ハルはそう叫ぶと、小さなヘキホドを二匹、殺した。

竜の血がべっとりと飛行機につく。そんなことお構いなしに、ハルは殺戮する。

竜の数は減らない。小さな竜の群れを飛行機が追う。無線から声がする。

「ハル、死んだからって、生き急ぐなよ」

無線の声は笑っている。

「うるさい。アキ」

ハルは無線を切る。燃料が尽きるのはどれくらい先だろう。何匹、竜を殺せるだろう。ハルは空に生きていた。


1-3

その日は来た。

飛行機から、彼が、ハルが帰ってきた。

ホナミは驚いた。ハルの目は爬虫類のように不気味だったからだ。彼の顔は醜くて別人だった。

あの眩しい笑顔はどこへ行ったのだろう。この人はハルなのだろうかとホナミは思った。

彼からヘキホドの角を渡された。こんなにも小さい欠片のために彼は何を失ったのだろう。ホナミは考えた。

「明日には空に戻るよ」

とハル。

「ハル、まだここにいて」

彼を繋ぎとめるためなら何だってしよう、そうホナミは思った。

いくつかの夜が過ぎて、ハルはリザードと呼ばれるようになった。


1-4

暗い一階の部屋を借りて、リザードは小さな竜を解体する。

ヘキホドはおおよその生物に備えているような構造を持ち合わせていなかった。 リザードはヘキホドの体を調べる度に、この生物が作り物なのではないかという考えを深めていく。

「ハル、おはよう」

ホナミだ。リザードは手元のヘキホドの骸に布をかける。そして立ち上がる。

「ハル、また大きくなったんじゃない?」

「そうだな」

太い声が部屋に響いた。

彼の背丈は天井に届きそうなほどだった。

油の国に来て、何度、月の明かりを浴びただろうか。日に日に体は竜のようになっていき、皮膚はざらざらする。 昼のあいだ、リザードはヘキホドの解体をすることが日課になっていた。

夜になれば、リザードは市場にヘキホドの角を売りに出かける。

リザードは思う。空に行けば俺は戦士に戻れる。そうしないのは何故だ。俺はこのままいけば竜に心も食い尽くされる。

恐れ、だった。

「翼が、翼があれば飛んでいけるのに」

空に戻れば、きっとアキが俺を殺してくれるだろう。

その日も収穫はあった。空の仲間が送ってきてくれるヘキホドの骸は、陸では貴重だった。特に角の売買の利益は大きかった。

万病に効く薬とうたわれているが、ホナミの病には効かなかった。

竜の骸と大金。何が出来るとリザードは考える。

朝日が昇って、街を照らしていく。リザードは朝日を浴びている間は、人間に近づく。

「この呪われた体、呪われた国……」

一人になると、運命を受け入れろと聞こえてくる。

一匹の竜が、弾丸によって死ぬ。

そしてコントロールを失った飛行機もまた墜落していく。

パイロットだった頃、リザードは、ハルは、何度目か分からない、死のなかで明日を考えていた。

空の日常はずっと戦いのなかにある。希望や明日なんて考えられない。

あの手紙が来た日から、覚悟は決めていた。


2-1

ハルは竜を殺す歯車。竜を、人間を、殺すための歯車。

竜は人間だ。

竜の魂は人間の魂だ。飛行機は何度も墜落して、でもハル達は死なない兵器。 彼らは兵器になったから、竜も平気。竜は前の時代の兵器。人間の魂を竜に変える。

多くの科学者や魔術師が手を組んで作った怪物達。陸の人間達は兵器に変えられて、人生を奪われて、泣くことも許されない。

ハル達はそのことを知らないし、竜達もそのことを知らない。人間だった頃の記憶なんて何回忘れただろう。 忘れることを繰り返して、残ったもの、大事なことだけで生きている。生きることができる。

ヘキホドは、死にたくなかった。だから死ぬ直前に兵士に乗り移ることにしたのだ。 ヘキホド達はそうして、兵士達の空疎な心に憑いて生き延びた。ヘキホドは生き残り、別の役目を演じる。

ヘキホドはヘキホドを殺す。殺されたヘキホドは兵士になる。それを繰り返して、ハルもまたヘキホドの魂に憑かれている。

竜がヘキホドと呼ばれたのは、なぜだろう。ヘキホドと呼んだのは彼の友だった。 友はヘキホドを殺し、ヘキホドに憑かれた。友は竜を殺して、死んでいく。

生き返るのはヘキホドの魂であって友ではない。ヘキホドのコピーが兵士になる。ヘキホドはそうして生きている。

ヘキホドの物語。

兵士にかかる呪い。

すべて誰も信じていない。語るものはヘキホドと見なされて、殺される。

だからヘキホドの物語は、みな知ってはいるが、隠されている。

兵士が戦う意味をなくすから。

空に生きる全てが竜なのだとしたら、陸を襲い、子どもを食らうだろうか。男達を八つ裂きにするだろうか。女の腹を食いちぎるだろうか。

兵士達は疑念を払いのけながら、自身が人であるために銃を構える。


2-2

夜、竜の姿になっていく体にハルは気付く。

「ハル?」

「もう時間だ。行く」

「待って、まだ……」

ハルはホナミを抱きしめる。

「わかっている。朝には帰る」

月明かりにリザードの体が浮かび上がる。

街路に出ると、嫌な予感を感じた。

リザードの目でハルは竜を捉えた。

「こんな低いところは何故? アキ達は何をやっている」

リザードは苛立つと、背中に違和感を覚えた。

翼だ。竜の魂が空を欲している。

「空へ行こう」

リザードが飛び立つと、ヘキホドがすぐ近くまで飛んできて、竜の言葉で何かを言った。

「リサト・エル・カスパ……ギー」

「猛獣め。俺にはそんな欲望はないんだ」

リザードは竜の言葉が分かった。この竜は狂い始めている。

竜は、言った。友を殺せ、と。

リザードはヘキホドに食らいつき、喉笛を噛み切った。竜の血の味が口に広がる。

「ギーシャ・コル・エス……ハルなのか?」

「アキ?」

ヘキホドは死ぬ直前になって正体を現した。アキだったのだ。

「なんで?」

「リーリ……空に帰ってきてくれ……リーリー……」

アキの体から力は抜けて、陸に落ちていく。工場の屋根にアキの骸が叩きつけられる。首から血が流れている。

アキの骸を運び出す算段がつくまで半日かかった。商人が怯えて話しかけてきた。

「リザードの旦那……。竜が国を攻めてくることなんて、今まであったでしょうか?」

「飛行士達がサボっているとでも?」

「そんな……。でも実際に」

「この骸を調べてみれば、すぐに分かる」

分かるさ……とリザードは呟いた。

街は相変わらず、黄色い空気が漂い、工場の振動がここにまで伝わってきていた。 臓物もないはずの竜の骸は重い。外骨格がはっきりと浮き出た竜の体は海老や昆虫のようだ。

中身は空っぽ。血液も少ない。紙でできたような構造物。 こんなものが飛ぶというのだから、竜は生物ではないのだろうとリザードは考える。 アキだったものの体を調べつくす。それは自らを知ることと一緒だった。

涙が出る。

「これが俺達の行く末か……」

リザードは手紙を貰った日のことを思い出す。飛行機に乗る前に簡単な儀式を行った。

「君達は戦士だ」

そう言って、怪しげな竜の被り物をした男がサーチライトのようなものでハル達を照らす。体が途端に軽くなったような気がした。

「エウルゴール・テラ・レール」

男は叫んだ。

「竜に勝つには、己も竜にならなければならない」

兵士たちも復唱する。

「エウルゴール・テラ・レール!」

儀式が終わると兵士達は飛行服に着替えた。続々と飛行機に乗り込む。そして最初の飛行で皆、死んだ。

リザードは気づいた。あの日、俺は生まれたのだ。竜になったのだ。人間ではなくなった日があの日だったのだ。

「人間を守るためだったのに、人間を救うはずだったのに……」

ホナミが扉を開いた。

「ハル? どうしたの? 泣いているの?」

「いや、遠い日のことを思い出した。ホナミ、俺は行かなくてはならない」

「どこへ行こうっていうの?」

リザードは天井に目を向けた。

「戦いに、戻るの……」

ホナミは震えていた。

「大丈夫。すぐに帰ってくる。これではっきりすることがある」

「何だっていうの? それは大切なこと? 私達のこの生活以上に。ねぇ……ハル。いつまでもここにいよう?」

「俺はハルじゃないんだ」

「へ?」

「ハルという青年はもうここにはいない」

「そんな……あなたはなに? 誰……? 出て行って!」

ホナミはそう言ったとき、「そんなのわかってた」と呟いたという。


3

荷物を積んだ飛行船が着陸する。飛行船のクルーが竜の骸を港に置く。

リザードはそれを眺めている。彼は飛行船のクルーが作業をしているところに近づいていく。

「船長はどこだ?」

「船長なら、中だ」

飛行船の中へとリザードは入っていった。中には髭を生やした男がいた。

「久しぶりだな。ハル、いやリザードだったか」

「レム。聞きたいことが山ほどある。空で何が起こっている?」

男にリザードは問いかけた。

「いま空では竜が増加している。狩り放題だ」

「そんなことは聞きたくない。兵士が竜になって、街を襲った」

リザードは写真を男に叩きつけた。アキだった、竜の骸の写真。

「兵士の呪いはどうなった?」

「兵士は今も兵士さ。ただ事情が変わったのさ。こいつは竜の成体さ」

「上は俺達を何だと思っている!」

「使い捨ての兵器さ。再利用可能な弾丸だ」

男は髭を撫でながら言う。

「お前たちは竜の卵だ。空で孵化させて、使うだけだ」

「俺達は人間だ……」

「だとしても、竜の魂を宿している以上は、お前たちは兵器だ」

「この運命を変える」

リザードは決心した。

「水の国まで乗せていけ。上の連中を殺して竜をすべて狩る」

「ガハハハ。そんなことができるとでも? 竜はこの世界に必要だ」

「何?」

男は煙草に火をつける。

「考えても見ろ。この世界で竜の骸を欲しがる連中のことを。皆、竜が必要なのさ。竜を狩って、売る――その莫大な利益。お前も知っているだろう」

リザードには聞こえていない。

「ごちゃごちゃ五月蠅い。俺が竜を根絶やしにする。あんなもの、何の役にも立たない。そう、ホナミだって……」

「陸の女か?」

男は豪快に笑う。

「いいか、レム。黙って俺を水の国に連れて行くんだ。金の問題なら、これでどうだ?」

「これは?」

男は生唾を飲み込んだ。

「竜の糞由来の香料だ。何度でもトリップできるぜ」

「……こいつはすげぇ!」

男はそれをパイプに入れると、火を点ける。蕩けるような甘い香りが空間を満たした。

「いいだろう。上を殺しにいけよ」

「交渉成立だ」

長く細い一本道の上空を、飛行船が飛んでいる。その下の油で汚染された海はやがて、ブルーの海と混ざり合う。 油は微細な泡となって、海に溶け込んでいく。リザードは忘れようとしていた。 ホナミも、あの町での生活も、すべて遠くの記憶のように扱おうとしていた。

飛行船の向かう先に峻険な岩山が見えてきた。岩山の先は霧がかかって見えない。そして海岸瀑。

そこは水の国だった。

岩山の上空を飛んでいると、鳥達が飛行船の下で羽ばたいている。

船長のレムはパイプを咥え、夢心地で居ながら、飛行船を操縦する。

やがて辺りは平地になり、草原の先に都市があった。空は澄んでいた。穏やかな風が吹いていた。

飛行船が都市にゆっくりと着陸すると、水の国の人々が彼らを出迎えた。飛行船のクルーが積み荷を運び出す。 そして人々が機械製品を運んでいく。飛行船のなかが空っぽになった頃、リザードは飛行船から出てきた。

そして街に向かう。街はリザードがいた頃より荒廃していた。度重なる竜の襲撃によるものかと思われたが、人々の話では違うらしい。

王が変わってから、街がおかしくなったということだった。王は言う。竜との戦いはやめない。 そのために国力の全てを竜殲滅のためにつぎ込む、と。

手紙があちこちで青年たちに配られた。それを受け取った青年たちは兵士にされた。 もうここには帰れないと知りながらも、彼らは空へ旅立っていった。

ところが、竜は倒されなかった。度々、水の国を竜が襲う。街は緊急事態に陥った。

王は地下から竜を解き放ったという。

人々はそれを恐れた。多くの者たちが都市から去ったという。

戦火が拡大した事実を知ったリザードの心に、炎が宿った。その炎は静かで、全てを焼き尽くそうとしていた。

「王は今、どこだ?」

リザードは城に着いた。門の前で兵士が警備している。リザードに気づくと、兵士の一人が言った。

「そこのお前。止まれッ」

兵士達が銃を構えた。

兵士達は見た。

巨大な竜を。

悲鳴、無力感、絶望、そして憎悪。暗い感情が渦巻いていく。

「こちら……セルリアン……各隊へ報告する……」

炎が空間を満たす。竜は兵士達を皆殺しにした。

「インディゴから……化物だ……」

「あいつ一人倒せない……」

恐れが城内に充満する。

リザードは通信機を拾う。

王を、出せ――。

リザードは王の間に着くと、玉座には王が座っていた。眠そうな目をしてリザードを見ている。

「何の騒ぎだ?」

「王よ。あんたを殺しに来た。竜との戦争を終結させるために」

「バカなことを。戦争はあと二週間ほどで終わる」

「何だと?」

「簡単なことだ。私は竜の子を戦争に投入する。その準備ができた。 人間と竜との混合物ハイブリッドだ。賢い竜が戦争を終わらせる。そうだな? ブルー」

奥から声がした。

「はい。計画は進んでおります」

王は笑う。

リザードは王に跳びかかって、その喉笛を噛み切った。王の顔は笑顔のまま、静止した。

「俺の用は済んだ」

奥から年配の男が出てきた。男の隻眼がこちらを睨む。

「何か用か?」

「いえ、この戦争は終わります。しかしそれは戦争が新たな段階に至ったということです。 竜の子を孕んだ女、ホナミさんと言ったでしょうか? 彼女が世界を始めに変えるでしょう」

「何だと?」

「世界の竜達を統べる者」

リザードは困惑した。リザードは思う。そうだったとしたら、俺は最初に彼女を殺さなければならない――。


4-1

あの人が空に帰ってから、私のお腹は大きくなっていった。

この子は竜の子に違いない。日に日にその確信は強くなっていく。

竜。私の竜。あの人はもう帰ってこないと思うけど、もし帰ってきたらこの子を殺すだろう。竜はいてはいけない存在だから。

ハル、助けてよ。お願いだから。

「ハル」

暗闇の中で名前を呼ぶ。けれどハルはいない。竜に食べられてしまったから。ハルは、あのまぶしい笑顔は永遠に失われてしまったのだから。

涙が出る。止まらない量でなく、少しずつ、ポトリ、ポトリと。

扉が開く。光だ。ハルの影。彼が私を連れていく。旅に誘う。ここから助け出してくれるような予感――。

彼は端正な顔立ちをしていた。美しい目。整った鼻。少し笑ったような口元。この子の父としてふさわしい人物。

光が遮られた。彼は消えた。

私はもう一度、彼に会いたい。リザードを彼が殺してくれる。

竜は私に心を開いた。

「私はヘキホド。竜の祖だ。お前は私の母になる女。私を受肉させ、この世に産み落とすのだ」

ヘキホドの声は淀んだ沼のよう。私をどんどん溺れさせる。

私はヘキホドの母になる。


4-2

リザードは城を攻め落とした。そしてリザードは油の国へ向かうことにした。

リザードは思った。ホナミを殺すこと。それが世界に対してしなければいけないことだ。 リザードは上昇していく飛行船の中で影を見た。人間だったころの自分の姿。それは美しかった。それは剣を構えていた。

素早くリザードに近づき、剣をリザードに突き立てた。リザードは熱いものが腹部を貫く感覚を覚えた。

「……がは」

リザードは自らが死んだと思った。しかし気づいたとき、腹には傷一つなかった。

月が昇った。

「リザード? 開けるぞ」

レムが言った。レムは扉を開けると、毛布にくるまったリザードを見つけた。

「何だぁ? 寝ているのかぁ?」

レムは毛布をとった。そこには美しい男が眠っていた。

「な……な……。何だ、お前は? リザードはどこにいる?」

「レムか。どうした。騒いで」

「リザードなのか? その体はどうした? 体は……戻ったのか?」

ゴトッと何かが落ちた。剣だった。

「こんなもの、持っていたか?」

リザードがその剣を鞘から引き抜くと、それは美しい魔剣だった。

リザードは飛行船から降りる。レムが言った。

「お前はその姿じゃ、目立ちすぎる。これでも被っとけ」

顔を隠すには十分な大きさの布切れだった。

油の国の黄色い空気がリザードを出迎えた。

工場から騒音がする。街特有のリズムがある。

リザードは思う。ホナミはどこにいる? 

ホナミの家は近いはずだ、とリザードは見当をつける。

上空に二匹の竜が見えた。竜は吠えた。

「見ろ!」

街の人々は上空の竜に気づくとその場で悲鳴を上げたり、逃げ出したりした。

甲冑のような硬い外皮に覆われた竜は、街におりてくる様子はない。こちらの様子を窺っているようだった。

「竜が集まってきているのか?」

リザードは、上空を見上げて言った。

しばらくして、飛行機が飛んできた。竜を狩る者達だ。

光の玉が竜に向かって飛ぶ。轟音がする。

リザードはその下をゆっくりと歩いていく。飛行機がどこかで落ちた。爆発音がする。

竜が吠える。竜はリザードに気づき、リザードを襲う。

目の前に竜が立ち塞がる。リザードは魔剣を鞘から抜いた。

目の眩むような光に包まれたかと思うと、鋭い魔剣が竜の硬い外皮を切り裂いた。竜は自身に起こったことを理解できない。竜はその場で崩れ落ちた。

「ギーシャ・ギーシャ・エル・バス……」

竜はリザードに語りかける。

「もうすぐ楽園は終わる、か」

竜の頭がドロドロに腐り落ちた。

臭いがあたりに広がる。吐き気のする、嫌な臭いだ。

リザードの表情は変わらなかった。

真っ直ぐに現実を見ようとする。

物音がした。街の隅からだった。リザードはそちらを見た。松葉杖をついた女だった。リザードはこの女を知っている。

「ひっ……」

「そこの女、竜を孕んだ女だな?」

「知らない……」

女は逃げ出した。女を追うリザード。すぐに追いついた。

「お前がホナミだな?」

リザードは静かに女に尋ねる。

女はガラス片でリザードの顔を切りつけようとした。

布切れが落ちた。

「え……」

ホナミはリザードの顔をまじまじと見た。

「ハル!」

続けてホナミは言う。

「どうして?」

ホナミは泣きそうな顔でリザードを見つめる。リザードは言う。

「全て、知っているんだ。この剣ですべてを終わらせよう」

再び剣に光が溢れ出した。


5

それから元気な男の子が産まれた。竜ではなく人間の子だった。

ハルはすべての竜を人に戻すために空へ旅立ってしまった。

けれど、ずっと手紙を書いてくれる。

彼はきっと帰ってこないだろう。彼が帰ってくるのは、この子が言葉を喋れるようになった頃だと思う。

その頃には私は生きていないだろう。

チヒロは何かを紙に書きつけている。

私はそれを知っている。竜の言葉だ。世界中の竜は私たちの言葉を待っている。 それがきっと、この争いを終わらせるきっかけになってくれればいいと思う。