リミット・オブ・ワールド

小林ひろき

朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。

薬指の指輪を外すとカレンは「じゃあ、行くわ」と言って、玄関から出ていった。コウは引き止めない。引き止めたところで人の気持ちは変えられないし、世界の理は変わらない。

カレンと出会ったのは三年前の大学のコンパだった。印象的な目元、つんとした鼻、コウの一目惚れだった。出会ってすぐに付き合い始めた。

一年半後には結婚した。学生結婚だった。


リミット・オブ・ワールド。世界の理は、コウが知っている限りでは二度目の周期に入っていた。世界は終わる。けれど新しく始まりもする。

コウたち、世界の人々は、関係を、国籍を、人種をシャッフルする。コウは最初ヨーロッパに住んでいたが、一度目の世界の終わりから向こうは日本にいた。新しい世界で出会った恋人カレンと、まさか別れが来るなんてコウは考えてもみなかった。コウが新たに経験する二度目の世界の終わりは切なかった。

あと七日でしなくてはいけないことが3つ以上ある。コウは家から出た。

「次は牛久、牛久」

車掌がアナウンスすると、電車は牛久駅に停まった。仏花を持つ手が震える。コウは肌寒いホームから改札へ上がり、カフェでコーヒーを飲む。じんわりとした温かさが胸に広がる。

記録では家族がいたことになっていた。コウは母親のアヤカの墓の前にいた。母親の記憶はなかった。二度目の世界でコウはよく知りもしない女性の墓に花束を供える。

「母さん……」

コウは自分の心のなかにある、母親への愛を込めて手を合わせる。世界が終わるとき、親子関係ですらシャッフルされる。だから、最後だ。

境内に梅の花が咲いている。

スマホのアプリの通知バッジが赤く灯る。友人のリョウからの伝言だった。

「あした、みんなで懇親会をするから来てくれ」

コウは返事を打つ。

世界が終わるまで六日。日本橋の会場で親交のある友人とお別れ会をした。リョウは日本に来て初めて出来た友達だった。シャッフル後の世界でみんな人に慣れていないなか、リョウはずけずけとコウの心のなかに入ってきた。リョウは少年のような笑顔で笑う。コウはリョウの笑顔が好きだった。

会場でお酒を飲みながら、世界の始まりから、六日後の世界の終わりについて語り合った。

「次の世界ではドバイで石油王の息子とかがいいな」

リョウは笑いながら言った。

「まず無理だって。確率的にもせいぜい不動産王だろ」

楽しい時間はあっという間に過ぎた。

今日、別れたら会うことのない友人たち。コウは一人一人の顔を記憶に留めた。写真も撮った。

世界の終わりまで五日となり、コウは住んでいるマンションの解約やら部屋の掃除やらを済ませた。あと五日でどこに飛ばされるかわからない以上、やっておくべきことは沢山あった。特に物は持っていけないことを考えると、辛いことだった。線をいくつも引いた愛読書も手放さければいけない。

コウは「世界について」という本を開く。

スマートスピーカーにコウは尋ねる。

「世界について教えてくれ」

「世界は管理局によって制限されています。人類はより良い未来を描くことが困難になってきました。管理局は考えました。世界を永劫回帰するモデルとして捉え直しました。繰り返しをすることでわたしたちの世界は安定的なビジョンを描くことができるようになりました」

「シャッフルは何故起こるのか」

「シャッフル、つまりアイデンティティ・シャッフルはわたしたちが他者になり続けることで、自己を鍛錬します。他者への想像力が欠如してきた世界でわたしたちは様々な生を獲得できる。未来への扉を開く鍵で特に重要なのは想像力なのです」

「わかったよ。世界は思った以上に自由ではないんだな」

コウは考える。世界がループするというなら、ぼくたちは籠の中の鳥だろう。

コウはうとうと眠ってしまった。

コウは直属の上司に電話をかける。

「ハヤセさんですか」

「ミカミ君、今までありがとう。次の世界で有望な若手が集まるか心配だよ」

「ハヤセさん、良くしていただいて、感謝しています」

ハヤセとの通話を終えるとコウは一息ついた。もうやることは無くなった。あとは世界の終わりを待つのみ。

コウは残りの四日の予定をぼんやりと想像する。

三食食べて、寝て、カウントダウンするテレビを見て、あまり年越しと変わらない。シャッフルまで、すべての関係を断ち切ったのだ。


女の子だった。茶色と赤色の中間くらいの色の髪、もちもちした大福のような頬。スモモという名前の子ども。コウはなぜスモモが部屋にいるのかよくわからなかった。

「きみ、何歳?」

「五歳!」

元気よくスモモは答えた。

「どこから来たの?」

「わからない」

「お母さんは?」

「わからない」

スモモは「わからない」を繰り返すばかりだった。コウは頭を抱えた。

スモモは座り込んだ。背負っていたリュックからスケッチブックを出してお絵かきを始めた。コウはリュックについていたタグに気がついた。タグにはスモモの住所が記載されていた。

「なぁ、スモモ。家まで送ってあげるから、一緒に帰ろう」

「わかった!」

コウは子どもの扱いに慣れているわけではない。兄弟は前の世界で一人、兄がいた。今の世界ではひとりっ子だ。いきなり小さな女の子を相手にするのはハードルが高すぎた。すぐに会話が続かなくなった。

「女の子って何が好きなんだ? お菓子? アニメ?」

「ぷいきゅあ!」

「ぷいきゅあかぁ、今も続いているんだな……」

電車のシートに座る。スモモはリュックからスケッチブックを取り出して、空想にふけりながら、絵を描いている。

コウは路線図を見た。目的の駅まで電車で十五駅。時間にして一時間はかかるかもしれない。リュックのタグにはスモモの名前と住所が記載されているだけだった。カミキ・スモモ。

「カミキかぁ。カレンと同じ名字だ」

「カレン?」

スモモは不思議そうな視線を送ってきた。

「カレンはぼくの婚約者。大切な人、だったかな。世界が終われば関係は持ち越せないからぼくたちは別れたんだ」

「別れる?」

「遠くに行くってことかな」

「悲しい……よしよし」

スモモはコウの腕をさすった。

「ありがとう、スモモ」

スモモは微笑んだ。

電車の窓から川が見えた。川は二つに分かれている。川の流れは速そうだ。

コウは思う。ぼくたちは世界が終われば、誓った永遠の愛も、過ごしてきた時間もすべて、帳消しになる。それでも人生は続いていくけれど、人生の速度は抗いようがないくらいに、ぼくたちを引き離していく。世界が終われば二度とぼくたちは会えない。でも、カレンを、君を、愛したいと思う勇気がぼくにはない。シャッフルされ、容姿も、何もかも変わってしまったら、ぼくはきみを探すことだって出来ないかもしれない。だからぼくは君を愛さない。

電車は走り続ける。ずっと向こうに東京スカイツリーが見える。ずいぶん遠くまで来た。コウは電車を降りるとスモモの手を握る。スモモを家に帰す。コウは心に決めた。

入り組んだ道をスマホのナビを見ながら進む。知らない街並みはコウを不安にさせる。ナビは滞りなく、スモモの家の住所へと案内する。目的地だ。

コウは言葉を失った。

空き地だった。

コウは隣の家の住所を確認する。間違いはない。なら何故? 

「ねぇ、お家は?」

「スモモ、ぼくにもよく分からないんだ……。きみの家はタグにある通りここなんだ」

「お家は……」

スモモはスケッチブックを取り出すと、コウに絵を見せた。絵には三角形の屋根の家が描かれていた。その家はない。

「帰ろうか」

「どこへ?」

「ぼくのうちで良ければ」

コウはスモモを連れて帰るしかなかった。日が傾いている。電車は橋を渡る。来た道を戻るだけだというのに、コウもスモモも黙っていた。

コウは考える。明日で世界は終わるなら、スモモには次の世界の親に会ってもらえばいい。解決だ。

コウはスモモの横顔を見る。スモモはじっと前を向いていた。自分の運命を受け入れるかのようだった。

「ほんとうにぼくって最低だな」


コウは自宅に着くと見慣れない靴が玄関にあった。靴クリームでテカテカし、整えられた黒い革靴だった。

リビングに男がいた。

「あなたは誰だ?」

「勝手に上がりこんで、申し訳ございません。わたしは世界管理局の者でして……」

「証明する物は?」

コウはスモモの手をぎゅっと握った。

「これが世界管理局の証です」

手帳のようなものだった。名前、スズキ・ジョバンニ・タケロウ。世界管理局、一級世界調整官とある。

「で、何の用ですか?」

「そちらのお子さん、カミキ・スモモさんの件で来ました」

「スモモの?」

「はい。スモモさんは管理局の手違いで世界の終わり前にシャッフルされてしまった方なのです」

「はぁ……」

「さらにスモモさんはこの世界の住人ではありません」

コウは驚いて何も言えなかった。

「スモモさんは未来の世界から来られた方なのです」

「ああ、それか! スモモの家が無かった理由は」

「そして、世界管理局としても言っていいことなのか分かりかねますが、スモモさんは、ミカミ・コウさん、あなたの娘なのです」

コウは何と言ったらいいかわからなかった。混乱している。

コウは思う。スモモがぼくの娘? どういうことだ。やっとのことで質問した。

「親子関係を結ぶ相手ということですか?」

「違いますね。血の繋がった親子という意味です」

「では母親は誰なんです?」


コウは自転車を漕いでいる。

スモモはコウの娘だということをコウは理解した。しかし母親の名前を聞いたとき、コウは動揺を隠しきれなかった。スズキは言った。

「母親はカミキ・カレン。あなた達はシャッフル後も関係が続いている、世界でも珍しいカップルです」

「ぼくたちは別れた。もうぼくはカレンを愛さないし、カレンもぼくを愛してはくれないだろう」

「しかし、世界管理局はあなたたちの未来を知っている。あなたたちはきっと再び出会う。それは運命なのです」

「嘘だろう?」

「でも証拠はあります。スモモさんだ」

スズキはスモモの手を引いた。

「わたしはスモモさんを未来へ帰します。わたしたち管理局が出来ることは、もうないでしょう」

「じゃあ、ぼくが、もしカレンを引き止められなかったら……?」

「残念ですが、スモモさんは消えます」

スズキは玄関の扉を開けて外に出た。

「待ってくれ、ぼくには勇気がないんだ。そんなこと、出来るわけがない」

「この笑顔を失うことになりますよ」

コウは思った。こんなの脅迫だ。

カレンの実家まで二〇分というところ。コウは一生懸命になって自転車を漕ぐ。

コウの頭のなかは真っ白だった。カレンになんて言う? なんて言えばいい? 月が輝いている。冷気で凍えそうだ。どうしてこんなに一生懸命になっているんだろう? いったいぼくはどうしたいんだろう? 

コウはカレンの実家の前に着いた。チャイムを鳴らす。

「どうしたの? こんな夜に……」

カレンは見るからに戸惑っている。

コウは言った。

「明日は世界最後の日だ。だから一緒にいたいんだ。それに話さないといけないことが沢山ある」

カレンは吹き出して笑った。

「そんなこと言いに来たの? まぁ、入って。温かい飲み物でも飲んで落ち着こう?」

コウはその日にあったことをすべてカレンに話した。スモモのこと、世界管理局のスズキの言ったこと、未来のこと。運命のこと。

カレンは黙って聞いていた。

「カレン、ぼくはスモモを失いたくないと思ってる。だからお願いだ。世界が終わっても、ぼくはきみを探し出すし、きみに好きだと言いたい」

カレンの目からぽたぽたと涙が溢れた。

「カレン……? どうしたの?」

「ずっとそう言ってほしかった。世界のシステムがわたしたちを引き離すってわかっていたから。関係を解消した。臆病だったのはわたしのほう……コウ、愛してる」

コウとカレンは手を握った。指輪はもうないけれど、強いもので結ばれた関係になったとコウとカレンは思った。

世界最後の日、コウはカレンをデートに誘った。「幸せだ」とコウは思った。「明日も彼女に会いたい」とも。

爽やかな風が吹いている。駅前の大型ビジョンに、ニュースキャスターが「こんにちは、世界最後の日ですね。皆さん、関係の解消はお済みですか?」と言う。

コウとカレンは顔を合わせ、笑いあった。

八日目からは新しい世界のはじまり。何が待っているやら。