マージナル・インターフェース・ユイ
小林ひろき
「私は――ユイ。マージナル・インターフェース」
と少女は言った。
頬にあたる微かな風で目を覚ました。VRゴーグルをかけたまま眠っていたらしい。神城祐司は軽い頭痛を覚えた。
ゲームのタイトルは、レインボー・すくーる。いわゆるギャルゲーだ。古いタイトルだが、人気があったためサルベージされた。
「レインボー・すくーる」の内容はこうだ。私立虹色学園高等部に転校してきた美少女に、モブキャラの主人公が気に入られて、恋をする。 内容はデートしたり、食事をしたり、さらにはここでは言えない内容にまで踏み込んで――。
脳裏に焼き付いたヒロインの姿、脳の深い皮質まで刻み込まれた愛の言葉。簡単に切り替えられるわけがない。
学校か、憂鬱だな。そう祐司は思った。現実はドラマやゲームじゃない。面白い点はない。
祐司はドキドキしたかったし、ワクワクしたかった。胸の躍るような体験や手に汗握る体験をしたかった。 でもそう思うことは現実の前では無意味だった。灰色の世界は色づくことはない。だから「レインボー・すくーる」は色彩豊かで魅力的に思えた。
ただの逃避。それでも良かったと祐司は感じている。息が詰まって溺れていくことは苦しいからだ。 祐司は自分の気持ちを肯定していたし、否定して楽しむようなマゾヒズムな性格は持ってはいなかった。
桜は散り始めていた。八重桜の花弁が道にピンク色の絨毯を作っている。祐司はその上を歩いていく。 どんなに世界が色彩豊かであろうと、祐司には関係なく思えた。
風は少し冷たくて、冬の名残りを感じさせる。祐司は心を世界に向けずただただ歩いた。 木漏れ日が眩しいなと祐司は思った。こんなところに美少女落ちてこないかな? と祐司は思う。 こういう空想を親しむ者は潜在的に厳しい状況や日常の中にご褒美が欲しいと感じている。祐司もまた、その一人なのだ。
祐司はなんとなく教室の窓辺を見ていた。祐司が瞬きをした時、窓辺の風景が盛り上がったかのように見えた。 網膜が像を結んでいく。それは人だ。存在感のない、少女がそこにいた。教室の隅っこでちょこんと座って読書する少女。 白く細い指、僅かに開かれた口元。ページを捲るゆっくりとした手つき。祐司はしばらく見惚れていた。あんな奴、いたかな? と祐司は思った。
チャイムが鳴る。
祐司は少女を探していた。少女は教室から出ると、トコトコとどこかへ行った。少女を追いかける祐司。走っていくと、そこは文芸部の部室だった。
ノックするのも忘れて祐司はドアを開けた。
カーテンが揺らめいている。桜の花びらが部室の中にまで入ってきていた。祐司は少し恐れを感じながら、一歩踏み出す。
少女がいた。でもこちらに気付かずに読書をしている。
祐司は呟いた。
「おい……」
少女は相手にしない。声が小さすぎるのだ。
「――おい!」
眼鏡から反射する光が眩しい。祐司は片方の目をつぶる。
「なに?」
不愛想な声。少女の顔は良く見えない。
「――君は? 同じクラスだよな。でも俺は君をよく知らないんだ。俺は神城」
自己紹介のつもり、間違ってはいないと祐司は思った。
少女は眼鏡を外す。
「私は――」
それは聞いたことのない名だ。祐司は聞き返した。
「え? 何」
「私は――」
この場合、分からないと言った方が正しい。祐司にはその声が判別できなかった。ノイズのようにも思われた。
「あ、そっか……」
と少女は何か思いついたようだった。
「私は林原ユイ。マージナル・インターフェース」
「マジ……なんだそりゃ?」
「いいから、あなたは私に気付いた。本来ここにいない、私に」
中二病か? と祐司は内心思った。ユイは告げる。
「私は本来、情報だけの存在。出席簿には載ってるけど、いない」
祐司は知恵を絞って言った。
「ゲームで言うNPCみたいな?」
「それとは違う」
「この時空間で処理できる情報のリソースが限られている。因みにNPCという概念では情報が増えすぎる。 情報を最適化していく過程で、いらなくなったものは虚空間に蓄積される。時々、それが現実再現に必要なものまで取り込むことがある。その際の敷居に立っているのが私」
わからん、と祐司は項垂れた。ユイは続ける。
「虚空間にあなたは取り込まれようとしている」
「そうなのか……へぇ」
祐司は納得しようとしても理解が追い付かない。無い頭で必死に考える。消えるってことか。
「どうして俺が?」
「それはわからない。あなたには私が見える。それがボーダーライン」
つらつらと告げるユイに腹が立って、祐司は声を荒げた。
「だとして、どうすればいいんだ? 俺は」
「簡単。この時空間においてあなたが有用だと示せばいい」
「有用?」
「創造してみて。なんでもいい。この世に何か新しい情報を残すことであなたのことは歴史に刻まれ、この時空間の情報が更新される。 それは私達にとっていいこと」
「具体的には?」
「端的に言えば彼女をつくること」
「そんなハードルの高いこと、出来るわけがない。俺はオタクで。非モテで。それで……」
消える……しかない? と祐司の脳裏に過った。
「レインボー・すくーる」
「は?」
呆気にとられて祐司は言った。
「何故それを知ってる……」
「世界をあなたのレインボー・すくーるにすればいい」
ユイは選択肢を祐司によこした。どれも良く知っているレインボー・すくーるのヒロインたち。
「深窓の令嬢、天然のボクっ娘、清楚な巫女、幼馴染のツンデレ娘。誰でもいい。選ぶだけで世界の情報は更新される」
「でもリソースは限られているんだろ? 情報が増えたら、まずいんじゃ?」
「更新されれば大きなリソースを獲得できる。競争の上で優位に立てる」
きょうそう? 何を言っているのだ、こいつは? と祐司は不審がった。
「教えてくれ、ユイ。ここはどこなんだ?」
「十三の世界の一つ。十三の世界は互いに競い合っている。世界は割れている。奪い合いの世界で、私達は独自の文明圏を獲得した」
「それがここなのか? ここは例えば箱庭だとでもいうのか?」
「端的に言うとそうなる。私達が作った情報決戦都市フレイヤは情報を生み出し更新を続けることで、進化し、競争に勝ってきた。さぁ選んで。 それがあなたにとっても、私達にとっても素晴らしいものとなる」
誰を選べと言うのか? 深窓の令嬢? 天然のボクっ娘? 清楚な巫女? 幼馴染のツンデレ娘? 祐司は頭を悩ました。 ちくしょー。どれも魅力的じゃないか。
「決まった?」
そうか……情報なら何でもいいのだと祐司は気付いた。祐司の脳はドーパミンを放出し、過去ありとあらゆる魅力的なヒロイン像を思い描いた。
「決まったよ、俺が彼女にしたいのは――」
世界の改変が始まった。
スマホの着信音で目覚めた。目を擦りながら誰だろう? と祐司は思う。
「……宮村アスカ?」
知らない名前だ。でも懐かしい感じがした。そして祐司は電話に出た。
「もしもし?」
「おっはよー。祐司ぃ、起きてる?」
「何だよ、アスカか?」
祐司はすでに知っている。彼女はクラスメイトの宮村アスカだ。変わり者の美少女。
「こんな朝早くから何の用だ?」
祐司は冷静になって尋ねた。
「授業後、教室に残っていて」
そう言ってアスカは電話を切った。何をするつもりだろう? と祐司は考える。 思い起こせば、四月からというもの、アスカの周りにいると変なことに巻き込まれる。いや巻き込まれ過ぎる。 アスカの前の席だというだけで、アスカに付き纏われるし、アスカが作った変なウェブサイトは来訪者が十万アクセスだし、 アスカのいない世界に俺が行ったり、またアスカが作ったという世界に俺が行ったりした。 神様もびっくりだぜ。不思議としか言いようがない体験。それに祐司はワクワク、ドキドキしていた。
今日もまた何かに巻き込まれるかもしれない体験。祐司は胸を膨らませて、アスカを待っていた。
夕焼けが校舎を照らす。西日射す教室でアスカが待っている。
祐司は思った。あれ? これは何だろう。どこかで見たことがある。あれはゲームの……。
「待ってたわ。今日は私達が出逢って、ちょうど一ヶ月。明日からは新時代ね」
「元号が変わるくらいで何だよ。驚きもしないぜ」
「こういうことは始めが肝心なのよ。聞いて、祐司。明日から私はある部を作るわ」
なんだろう、この既視感は。祐司は驚かなくなっていた。
「どうせナントカ団でも作るんだろ? 知ってるぜ。そういうことはラノベの世界でやることだ」
アスカの顔が引きつった。そして「え?」という顔のまま動かない。
「ごめん、ごめん。私、どうかしてたわ。祐司、今日は帰って」
アスカは作り笑いをしてみせた。
この日から祐司とアスカの関係は微妙なものになった。祐司はアスカと一緒にいるのが好ましく思えたが、何かが違う。
祐司は確かにワクワクしたかった。ドキドキしたかった。けれどそれは驚きたかっただけだ。 この世界がくれる、驚きを味わいたかっただけだ。恋愛とは関係がない。その事に祐司は気付いてしまった。
アスカも驚きを用意することに疲れただろう。そうして結んだ手と手は離れていった。
祐司は思った。何かを忘れている。大切な何か。
――それは何だったのだろう?
世界は分岐している。仮にA世界線とR世界線とおく。とある点を境に世界はA世界線に移行した。 情報量という観点から言えば、A世界線はR世界線より優れている。爆発的な情報の発生。それは渦に似ている。
創造的で豊かな世界。A世界線はまさしく彼らにとってユートピアだった。 A世界線は、十三の世界が奪い合う競争においては優位に立てる世界だろう。 A世界線は爆発的に情報を生産・消費する代わりに極端な破局を迎えることがあった。 それは欠点でもあったが、情報決戦都市フレイヤが生き残るための戦略であった。
世界は分岐後、さらに分岐している。しかし、A世界線を介したら最後、すべては悲劇的な結末に至る。 この競争はいつ終えられるのか? この勝利はいつまで続くのか? それは誰にも分らなかった。 情報を爆発的に生み出す存在をヒトの想像力を持って創り出す、この試行は何度も繰り返された。 答えははっきりとしてきた。魅力的なヒロインとは、類型的なものだ。結論はつまらないものだ。
祐司は何度も試された。一万人の祐司は彼らの前で答える。ヒロイン、それは――まただ、つまらない結果。 最初に離散していた答えはある数値を境に収束していった。答えは、はちゃめちゃツンデレ美少女。今回も同じ結果だったようだ。
別のサンプルも試された。答えは深窓の令嬢、天然のボクっ娘、清楚な巫女、幼馴染のツンデレ娘。あまりに類型的だった。
そしてA世界線は破局を迎えた。いや、迎えるだろう。それは時間の問題だ。
頬にあたる暖かい風で目を覚ました。祐司は退屈で握っていたゲームのコントローラーを放り投げる。レインボー・すくーるの何度目かのクリア画面だ。
祐司は思う。アスカとは完全に心が離れてしまった。
祐司は教室で窓辺を見ていた。葉桜が窓辺に散っている。
――何かが足りない。足りない? 何がだ?
祐司は思い出す。白くて細い指。僅かに開いた口元、ページを捲るゆっくりとした手つき。
ユイという少女。
気づくとここは教室ではなかった。黒くて何もない空間、取り込まれそうになる。
祐司は知っていた。ここは虚空間だ。なぜ知っているのかはよくわからない。そこに誰かがいた。少女。髪の長さは短くて眼鏡をかけている。
「またここに来たの?」
と少女は言う。
「また? ってことは、俺は以前にもここへ来たことがあるのか?」
「そう。こちらの操作で破局を免れるためのループ世界へ入った」
ループ? 何を言っているんだ。こいつは? と祐司は思った。
「待て。俺は繰り返しなんてしてないぞ」
「延べ一万回はループしている。あなたはヒロインとの破局から逃れられなかった」
少女は無表情で言った。
「そんな……」
祐司は恐ろしくなって、愕然とする。
「あなたが創出したヒロインは、この世界を発展させたけれど、終わらせもした」
そして少女は最後通告を祐司に伝えた。
「あなたは答えを出せなかった。あなたは虚空間に取り込まれるのを待つだけ」
死ぬ、か? それもいいかもしれないと祐司は思った。ヒロインを見つけられず、子孫を残さずに死ぬ。でもひとつ。引っかかっていることがある。
「なぜ俺は君を忘れられないんだ?」
「それは……」
少女の顔に動揺が見られた。
「だっておかしいじゃないか。情報は改変されているのに、体が覚えているのは」
沈黙。
「確認する。――私達もそれは考えてはこなかったこと」
一秒毎に、少女の顔は動揺と無表情を繰り返した。
祐司は勇気をふり絞って言った。
「こんなの答えじゃないかもしれない。インターフェースの君が好きだ」
A世界線からR世界線へと世界は移行した。
勝てない世界。
つまらない世界。
劇的ではない世界。
創造的じゃない世界。
――悲劇はまっぴらごめんだ。
空間に情報が満ちていく。他の空間からも奪わなければならないほどだ。十三の世界間に動揺が走る。 新たな世界の予感。無から有の生成。それはラブストーリーという物語。恋の成就により、世界にまた一つ情報が更新される。
世界は灰色じゃない、薔薇色だ。
祐司は白昼夢を見ていた。
祐司は思う。それはとても幸せな夢で、隣にユイがいて、今の自分とは程遠い世界の話だ。
誰かがドアをノックする。
「入るよ」
そこにはユイに似た少女が立っていた。
「ユイ」
「ユイ? 私はレイだよ。なにボーっとしてるの? 学校の支度は?」
「まだなんだ」
「待ってるから、早くしなさい」
朝の空気を吸い込むと不思議な味がした。
歩調を合わせながら二人は歩いた。お互いの距離に少し緊張する。日差しが強くなっていて眩しさを覚えた。
「この世界は破局しないのか?」
「え? 何? ところで祐司、レインボー・すくーるはもういいの?」
「何故それを知っている……」
世界はこんなにも安定している。そこは手を繋いだ、温かさを感じる世界だ。祐司は世界を肯定し始めている。
――でも気がかりなことがある。
ユイはどこだ。祐司はユイを探した。でも見つからなかった。あの窓辺に彼女はもういない。祐司は文芸部の部室へ向かった。そこに一冊の本があった。
これはあいつが読んでいた本だと、祐司は気付くとパラパラとページを捲った。栞がはらりと落ちた。 そしてメモも。英数字の羅列と「パソコンへ」という伝言だった。祐司は隅に置いてある、パソコンを起動した。 とても古い型で、黒い画面が表示された。Yuiとある。そこへ祐司は英数字を打ち込んだ。
画面にユイが映る。祐司はホッとした表情を浮かべた。
「ユイ、今どこにいるんだ?」
それに構わずユイは言った。
「フレイヤは他の世界との戦いに勝った。私の役割はもうない」
「戦いが終わったっていうんなら、なぜレイがいる?」
「彼女は私のコピー。あなたは私がいいと言ったから、フレイヤが用意した私。レイがいることによって、世界はこの上なく安定している」
祐司は目の前にいる少女と一緒にいる方法を考えた。わからない。
「レインボー・すくーるなんだろ? ここは俺の……」
しどろもどろになりながら祐司は言った。
「そう。でも世界を改変するには限界がある。私とあなたは一緒にいることが出来ない。存在する場所が違う」
「今、見えているのはどうして?」
「これは最後の挨拶をあなたに残したかったから」
一瞬、世界が止まったように祐司には感じられた。
「さよなら」
祐司の頬に涙が一筋伝うと、ドアをノックする音がした。
「祐司、いる?」
レイだった。
「今のは何?」
――現実なんてクソだ。
祐司はレイを無視して、全速力で走っていった。自分の部屋に入ると、VRゴーグルを被った。 ゲームを起動する。よく見慣れたタイトル画面。レインボー・すくーるのスタートだ。気が紛れればなんでも良い。
テキストが出てくる。――白く細い指。僅かに開かれた口元……。彼女に出会ったあの日の体験が蘇ってくるようだった。 でもこんなのは違う、リアルじゃないと祐司は感じた。ゴーグルを外すと黒い空間が開けていた。
「また消えるのか、俺は」
祐司は思った。ここにはユイがいないし、消えてもいいか。虚空間の中に俺は取り込まれるだけだ。助けもいらない。
暗闇に祐司は飲み込まれた。
情報決戦都市フレイヤに暗雲が立ち込めていた。R世界線は確かに安定した世界線だった。 しかしそれが崩壊した。システムの異常で虚空間が増大したためだった。虚空間は情報ブラックホールだ。
祐司は崩壊した世界の真ん中で、分解されながら浮いていた。
そこへ誰かが来た。
「私はマージナル・インターフェース。あなたはこの世界を崩壊させた張本人」
祐司はニヤリと笑った。
「レインボー・すくーるに俺の体験を刻んだのは君なのか?」
「そう。私には思い出というものがない。何かを残しておきたかった」
「なら、こっちに来いよ。きっと楽しいぜ」
ユイはそれを否定する。
「フレイヤがそれを許さない」
「フレイヤ、フレイヤってお前はどうしたいんだ?」
「私はインターフェース。それは考える必要がない」
「ユイには心がある。何かを残したいという心が」
祐司は考えながら話した。ユイは黙って聴いていた。
「自由にしたっていいんだ。フレイヤは勝利したんだろ? この戦いに。だったら……」
「それは、私がエラーするということ?」
祐司はよく意味が分からなかったけれど頷いた。
「エラーしても、いい……」
祐司はユイのなかに微かな意思を感じた。そうだ、あと一押しで説得できる。彼女を何がこの世界に留めておけるんだ?
「教えてくれないか?」
「え?」
「本の事でもなんでもいいんだ。思ったことを」
つまらなかったか? と祐司は焦った。
「本は現実がつまらないから見ていただけ」
祐司の心に様々な思いが交錯した。同じなのか? 彼女と俺が。祐司の口角が自然と上がる。
「なに笑っているの?」
「いや……俺と君が一緒だっていうからさ」
「お、な、じ?」
「レインボー・すくーるをやっていた俺と、世界を見張っていた君が一緒だったから、笑えたんだ」
「……違う……」
とユイは顔を紅潮させた。初めて人間らしい顔をしてみせたと祐司は感じる。
「レインボー・すくーるはもういい。俺は俺の世界を好きになりたい。そこに君が隣にいてくれないか?」
「そうすることで世界は安定する?」
「わからない。でも世界は勝手にどこかで戦争終結宣言を出したんだろ」
祐司はぎゅっとユイの手を握る。彼女はそっと手を握り返してきた。
――そのときの感覚を俺は忘れない。
首の疲れで目が覚めた。夢を見ていた? 祐司は首を揉みながら、テレビの画面を見た。レインボー・すくーるのクリア画面だ。
「また夢か……」
「何の話」
朴訥な少女がそこに立っていた。
「え?」
「どうしたの」
「どうしてここにいるんだ?」
「お母様から許可を取って……」
「そうじゃない。虚空間が現れたのか?」
「いいえ。現れてはいない。安定している」
祐司はユイの双眸をじっと見つめた。ユイは表情を変えずに、視線は真っ直ぐ祐司に返ってくる。
「あれ? ユイ。眼鏡は?」
「少し、イメージチェンジした。どう思う」
反応がおかしい、と祐司は思う。ヒロインらしからぬところが、ユイのいい所なのだ。
「何?」
「お前はレイではない証拠は?」
「私はオリジナル、でも証拠はない。信じてもらうしかない」
「レイはこの世界にはいるのか?」
「あなたとフレイヤが作ったヒロイン達は、この世界では存在は確認されていない」
祐司は少し寂しい思いがした。
A世界線とR世界線が崩壊した結果、フレイヤは元の世界線に戻ることになった。 その世界はまだ何も始まっていない世界。真っ白で無垢な世界だ。 箱庭の中で少年が下した結論はユニークなものだった。ヒトは世界に恋をした。 あれだけ嫌っていた世界を、現実を愛した。それは創造的でも安定的でもないかもしれない。けれどヒトはこの世界を選んだ。
新たな情報の発見はフレイヤの硬直した意思を変えた。 フレイヤとそれに連なるインターフェースがヒトと接触することによって新たな地平が開けた。 フレイヤは実験対象でしかないヒトに積極的にアプローチしていった。 インターフェース達が次々とヒトの歴史に関与した。フレイヤにとって無意味だった情報の多くが意味を持った。
例えば世界という言葉。ただの箱庭の背景でしかなかった、この言葉に、あなたと私がいること、そして共に生きていくこと、と情報が更新された。 漠然とした言葉はインターフェースを介してもっと深化していくことだろう。
レインボー・すくーるのクリア画面で祐司が笑っている。これもまた世界の裏側から見た真実だ。
ほぼ無に等しい空間から莫大な情報を生み出せる錬金術に、彼らは被験者の名を取ってユウジ・カミシロ効果と名付けた。力学的情報学に風穴が開いたのだ。
ユウジ・カミシロ効果を説明する。簡単な物語でいい。つまりはボーイミーツガールだ。この手順は幾度となく検証されている。 小説、アニメ、ゲーム。どこにだってありふれているのに成功例は身近にない。
ユウジ・カミシロ効果で生み出させる情報は莫大だ。宇宙を記述できるほどだ。 この物語はどこから来たのか? きっと有史以前からヒトに与えられた物語なのだ。ヒトは異なるヒトに出会う。 それが起源だったのではないか。ヒトが残してきた大切なミーム。
宇宙はより解像度の高い宇宙になった。
朝を告げる雀の囀り。祐司は目覚めた。ドアを開ける。露に濡れた菅草。澄んだ空気は少し甘かった。祐司は五感でこの世界を捉え始めていた。
この世界に驚いていると祐司は思う。現実にワクワクしてる。何が始まるというのだろう? この状態がずっと続けばいい。
祐司は世界が自分とシンクロし、自分も世界とシンクロさせていきたいと思う。
そこに誰かが立っていた。
祐司はそれに気付かず歩き出した。
「これはわかっていたこと。あなたが世界を生きるなら、私を知覚できなくなる」
言葉は、伝わる言葉にならなかった。
祐司は頬杖をつき、窓辺を見ていた。何かが脳裏に過る。忘れていることのような気がする。わからない。
インターフェースの出番はなくなった。しかし、ユイはバージョンを重ねた。 情報から肉体を持つほどまでに進化したユイは、世界に姿を現した。情報操作で祐司のいる学校へ転入してきたユイは、祐司のクラスメイトになった。
彼女は彼を見つけた。
――僕は彼女を見つけた。
それはレインボー・すくーるの最初のテキストだ。恋人になる二人の最初の出会いだ。祐司はそんな出会いをしたいと思う。
夏の眩しい日差しの中で、そこだけが鮮明に見て取れた。それが彼女だった。見惚れるなんて初めてだった。その時間はとても長いように感じられた。
「ずっと前から君を知っていたような気がする」
と祐司は彼女に言った。
「きっと気のせい」
と彼女。
祐司は彼女の微笑みを知った。
白い砂浜に小さな足跡がついた。それに続く二つの大きな足跡。波がそれをかき消していく。 波打ち際で祐司は期待と不安に胸を躍らせている。よちよち歩きの子どもが手をついた。砂浜に手形がつく。祐司はそれを見守っている。
子どもはまた歩きだす。
情報がまた更新された。これをシンジ・カミシロ効果という。それは成長の物語だ。 緩慢に見えるがとても力強い。一秒毎に成長する彼を祐司は見つめていた。
かつて情報を奪い合った世界は統合され、一つの世界が生まれた。世界は情報をシステムに組み込み、独自の進化を遂げた。
彼は五感を鋭敏に使って、世界を認識している。より解像度の増した世界がそこにある。それはとても身近で尊い。
祐司の影が消えていく。そしてユイの影もまた消えた。
――さよなら、父よ。母よ。
祐司の影は鳥になって羽ばたいていった。ユイの影は魚になって泳いでいった。
世界が塗り替わる。その景色を彼は何度も見送った。
フレイヤはヒトから離れていった。フレイヤが知性化したヒトは彼らが驚くほどに進化したからだ。 ヒトの種は一つのシステムを作り出した。それは情報のまとまり、それは豊かな思念を持つ一つの意思だ。
はるか未来、彼は別の異なる存在に出会う。彼は様々な物語を語って聞かせた。
彼は言う。
「出会った奇跡を謡おう。物語を語り継ごう」
相手は答えた。異郷の言語で話しながらも、それは調和に満ちていた。それは情報の受け渡しだけではなかった。 彼らは混じり合い、融合した。彼らは彼らであることを捨てたのだ。
情報が波のように打ち返す。この海は深くて広く、なおも澄んでいる。無限の意思の連なりが見せる万華鏡。それは二度と同じ様相にはならない。
彼は思うもこともなく、語ることも止め、ただこの海に身を横たえた。
彼は考える。我はどこにもいない。けれど在ることは確かだ。
光が地上に降り注いでいる。その光の粒子が彼のシナプスを刺激し、これから始まる物語を彼はじっと見据えていた。
彼方の山々が赤く輝く。高次生命の対話が静かに始まった。