マイ・ブルー・ヘヴン

小林こばやしあお

キャロルが、死んだ。

ナタリアの腕のなかで、彼女は息を引き取った。キャロルを寝かせた台のそばに、ナタリアは跪いて祈りを捧げる。

合わせた両手のむこう。

神様が、もしいてくれたならば、と。

ナタリアは家を飛び出し、走る。

農園を見渡せる丘の、ブランコの下。

ナタリアは、かつてふたりだったときの記憶を呼び覚まして、埋められた木箱を掘り出した。

土で汚れた木箱のなか。

一枚の洋紙がふたりの誓いを思い出させてくれる。

その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか? 

ふたりは誓ったのだ。

イエス、と。



少女の影を、もうひとつの影が追っていく。列車の音が遠くから鳴り響いた。

ひとつの影は止まる。さきを行く少女は農場の瀟洒な門に寄りかかる。彼女のちいさな唇が動いた。

「遅いってば」

言葉を投げかけた先に黒髪の少女がいた。

「キャロル、俺はきょう、これから仕事って分かってるだろ?」

キャロルと呼ばれた少女は口をへの字にした。

「そう言うなら。あした、また来て。同じ時間に」

「どんなご褒美をくれるんだい?」

「卑しい子ね。クッキーを焼くから、それでどう?」

「分かった」

「あなたって見た目以上に子どもね」

キャロルはナタリアの頭から足元をさっと見る。同年代の子たちより背は高く、細身でしなやかな体つき。ナタリアは自分のことを俺っていうけれど、キャロルは彼女が男性だったらと思う。頼りになるボーイフレンドになってくれたかもしれない。

キャロルはふと空のむこうに鳥が飛んでいることに気づく。鳥にもう一羽の鳥が飛んでくる。絡み合うように飛ぶ二羽の鳥たちがどこか羨ましい。

ここは農園だ。トウモロコシを育てている、このへんでは裕福な家でキャロルはその家の一人娘だ。ナタリアは従業員の娘で幼い頃からずっといっしょだった。背の高さが一緒だったとき、ふたりは手を繋いで農園の先のブランコに乗って、むこうをふたりで見渡した。遠くの街が、異国のように見えていた。いつかふたりでそこへ行けると誓いあった。ふたりだけの秘密を作って、契約書はちいさな木箱に入れて、ブランコの近くに埋めた。キャロルがその記憶も忘れたころ、ふたりは十五歳になっていた。

幸福な黄色いトウモロコシが実っていた。

ふたりがトウモロコシの入った籠を運んでトラックの荷台に積んでいると、ナタリアの黒髪をキャロルの父で農園主のブラッドが撫でた。葉巻を咥えた、小太りの男だ。ジーンズに手をつっこんで、ナタリアを観察している。キャロルはその視線が、嫌で、嫌で、堪らなくなって、ブラッドの注意を自分に向けさせる。

「ダディ、きょうの仕事はもう終わりなの?」

ブラッドは尋ねた。

「キャロルこそ。仕事はまだまだあるんだ。すこし向こうに行ってくれないか?」

ピクリ、と父の顔の筋肉が動いた。

キャロルは苛立ってその場から立ち去った。

キャロルは知っていた。

父の、あの眼差しは、男が女を見る眼差しだと。

そういう目でナタリアは見られていた。はっきりと分かったのは母親が弟を身籠った頃だ。男はセックスができなくなると他の女をいやらしい目つきで見るようになる。従業員の女たちを、娘たちをブラッドは執拗に見つめていた。ナタリアもそのなかにいた。キャロルはその視線を嫌悪した。

父は豚だ。

豚箱に行けばいい。

キャロルは肉をナイフで切る。何回も筋を切っていく。

毎夜、見る夢のなかで誰かを殺している。それはきっと父への、言葉では言い表せない憎悪だ。

夕食後、ブラッドがキャロルに声をかけた。

「ナタリアを連れてきてくれないか」

キャロルの背筋が凍った。振り向いて父の顔を見る。豚の顔ではなく、愛していた父の顔だ。その顔でナタリアと呼ぶのはやめてほしい。ぞっとする。鼓動が速くなって、キャロルは部屋から出た。

走っていた。

ナタリアのもとに行かねばならないとキャロルは急ぐ。

小屋の扉をノックする。なかにはナタリアがいるはずだ。

「はーい」

ナタリアの顔だ。キャロルはこれまでのことを話して、ナタリアを小屋の脇の倉庫に連れてきた。

「聞いて。ふたりで逃げよう……」

「ば、バカなこと言わないでくれ」

「あなたが父の餌食になるのは嫌……。あなたのため」

「俺のため……。俺のためなんかじゃない。逃げたら、キャロル。お前だってどうなるかわからない」

キャロルはナタリアのおでこにキスをした。

「キャロル……」

ナタリアは彼女に抱きついた。

ふたりの間で決心がついた。ふたりは夜の道を走った。


息が、切れ切れになる。ふたりの手はしっかりと握られたままだ。広い農園のさきに、やっとのことで着いた。背後からは光が追ってくる。光は、父のもとで燃えている。

断罪の火だ。キャロルだって分かっていた。ナタリアを守りたい。彼女だけは、と思った。

ピストルの音がした。キャロルはその音に、どきりとして銃口が向けられた気分になった。ブラッドはキャロルを殺すつもりだ。キャロルは、自分だけは殺されないと考えていたのかもしれない。キャロルは、父が家族にだけは手を出さないと思っていたのかもしれない。

そんなことはない、と分かった夜だった。


キャロルは椅子に縛られて、ドアのむこう、ナタリアが殴られているところをただ見ているだけだった。

「娘を誑かしおって!」

そんな、事実はなかった。彼女はキャロルに従っただけだった。

ひどい呻き声と、彼女を殴る音がした。父は、ナタリアをその夜、犯さなかった。父はナタリアを害虫みたいに扱った。ナタリアはただ耐えていた。

翌日、彼女は解雇された。

農園を離れたら、どうなるかわからない。年頃の少女の行くところなんて、そう多くはない。キャロルはそれ以上、考えたくなかった。自らの身勝手さに吐き気を催しながら、胸を掻きむしる。きのう、ほんとうに罰せられるべきだったのは彼女自身だったのだ。

キャロルはベッドの上で縮こまっていた。

部屋の窓のカーテンの隙間から光が差し込んだ。トラックが家のまえの広場に来た。エンジンのくぐもった音がしている。窓を覗き込むと、ナタリアの姿が見えた。

首をゆるやかに曲げた少女がトラックの荷台へとよじ登る。キャロルは花瓶に挿さった一輪の花を掴んだ。そうして階段を、音を立てて下りた。玄関を飛び出して、声を出した。声はかすれて、彼女に届かない。

さいご、かもしれない。ナタリアを、抱きしめられるのも、キスできるのも。いまはそういう時だ。キャロルはナタリアにそっと一輪の花を手渡した。

「これで、これで……」

許してください、愛しています、はなさない。なにも言葉にできなかった。自らを幼稚だとキャロルは恥じた。

涙が溢れた。それはナタリアも同じだった。

トラックはナタリアを乗せて出発した。

まるで家畜の出荷だ、とブラッドは言った。キャロルは耳を塞いで、永劫に自らの心をだれかに開くことはないと思った。


三年後、キャロルは実業家のロバートと結婚した。街にレストランを開き、そこで店長になった。コーンかわいそうなダイナーと呼ばれる、この店は、昼は繁盛しているが、夜はならず者たちの隠れ家になっている。キャロルもその事情を知っており腕力ではそこらのチンピラには負けないのだ。

午前二時といったところ。店のなかで不審な音がする。キャロルは恐る恐る銃を握りしめて、キッチンに向かう。

暗い群青のあかりの下に人影が見えた。食料を漁っているようだ。

「あんた、なに……」

人影はキャロルに向き直って、獣のような双眸でじっと睨んだ。数秒のあいだ、影はキャロルを観察して、さっと素早くキャロルに近づいた。キャロルの顔とその影の顔がひっしとくっついた。匂いを嗅がれている。キャロルは咄嗟にこの影を殺さないといけないと思ったが、匂いを嗅いで少しだけ躊躇した。

女の匂いだ。この辺のならず者たちのなかで女はいない、キャロルは素早く頭で理解した。

「コーンダイナーへようこそ……晩ご飯がないなら、開店時間にお願いね」

影は距離を取った。

すぐにキャロルは明かりをつけた。

肩口が露わになった服。

肩にはドラゴンと獅子の刺青。

腰にはピストルを何丁か。

明らかに堅気の人間じゃない。黒髪と痩せた白い頬、うつくしい瞳。妖精か悪魔のような気がしてキャロルはうっとりした。

レストランの明かりをつけて、その女を座らせた。脚は泥だらけだったのでタオルを渡して、じゃがいもを茹でてバターと、焦げつくくらいパリパリに焼いたベーコンを添えた。

皿のうえのものが無くなると、彼女から事情を聴いた。




彼女は語り出した。

冷たいトラックの荷台で、車はガタゴトと揺れている。自分とおなじ冷たい目をした女の子たちがそこには数人いて、降ろされるのを待っている。三日目にはすでに彼女以外はいなくなっていて、自分がどこへ向かっているのかさえ分からないでいた。

知るという行為は内面の発露だ。知りたいと思う事は、心の内側から来る。それをひとは隠したいと思って、ときに無知になり、わからないと嘆く。知りたいという心を隠すのは簡単だ。

彼女は知りたいという気持ちが、外界への意識が、無くなっていくのを感じていた。

どうでもいい。

カイロスは、来た。

彼女はトラックの荷台から降ろされた。

夜なのか昼なのかさえわからない。光に反応しなくなった体を、横たえる場所がなくて、壁に寄りかかる。力が足元から抜けていき、馬のように横になる。

彼女は自分が物体になったと感じて、涙すらも流れなくなった眼を心のなかで凝視している。

生まれてこなければよかった。

祖国イタリアから先祖が渡ってきて、大地に根を下ろした一族が生きていくのは難しかった。なにをするにも言葉が満足に通じない、よそ者扱いを受ける、定職につけない。それでも難しい世界で難しいなりに、正直に生きてきたつもりだった。誠実にやってきたつもりだった。

神はいない。少なくともこの大地には、いない。神は祖国には、きっといたのだ。彼女の先祖たちは神の国の住人だったに違いない。それでもどうしてか、新天地を求めてやってきた先祖を、彼女は馬鹿だと思った。だって馬鹿じゃないか。楽園を捨てて、こんな何もない大地にやってきて――。

彼女は自分の運命を呪っている。

「起きな」

白髪の老婆が彼女を起こした。立派で垢抜けた建物の奥に彼女を連れていく。

錆びついたシャワールームで体を温める。体はどんどん温まるのに、心は冷たくなるばかりだ。涙が、ぬるい水と溶けあい流れ落ちていく。タオルで体をごしごしと拭かれた。ふと、蠅がむこうに飛んでいくのが見えた。黒い点が次第に小さくなっていく。ずっと先には悪魔が住んでいるに違いない。

悪魔の贄が、わたしなのだと彼女自身は、悟った。

ひらひらとしたゲピエールを着させられ、老婆が矯めつ眇めつ眺めた。

「白じゃないね……」

そうして下着を脱がされる。老婆は黒いものを選ぶ。裸体でいることが自然であるかのように彼女は立ちすくんだ。老婆の前では彼女はマネキン人形だ。男を誘う格好でいることが屈辱的なのに、歯噛みする力さえなく、呆然としていた。

彼女の格好が決まった。

部屋の奥の扉がわずかに開く。隙間から三つの目が覗いた。

ブルーと、ホワイトと、ブラック。

色素の薄い白い目が引っ込むと、老婆が叫んだ。

「見世物じゃないよ、さっさとあっちへお行き」

「はーい」

カラフルな駄菓子のような声色が奥へ逃げていく。子どもたちを想像したが、老婆から自分とたいして年齢は変わらないと告げられる。

「ここは、どこなんです……」

「ホワイト娼館。きょうからここで寝泊まりしてもらうよ」

「つまり……」

「男の相手だよ。分かったら、とっとと部屋に行きな。頭のゆるいお嬢ちゃんだね」

老婆は肩をすくめた。頭はどんどん状況を理解していく。ここが新しい仕事場で、自分の体を売る場所なのだと。体が硬直しているけれど、痺れた腕が徐々に動き出す。彼女に与えられた部屋には年相応の女の持つもので溢れていた。

そのひとつひとつの名は彼女には分からなかった。憂鬱な、薄いブルーの寝具や、薄いラベンダーの色のカーテン。ここは人形の家だと彼女は思った。ファンタジィの世界だ。

彼女はここで男にとってのフィクションとなる。女優や踊り子になって、男を誘い、自らの性器でペニスを包みこむ。頭で分かっていた。ただ、そんな自分を想像するより先に、彼女は農園でのやさしい日々に溺れていた。琥珀色の夕陽が農園を包みこむ。彼女には母らしい母はいなかった。それと同じように父らしい父もいなかった。

未熟な家族がいた。

頼れるほど強くない父に彼女は逃げなかった。深く愛することをしない母に彼女は逃げなかった。そうして、父も母も、彼女のなかで溶けていった。彼女を生み出したものに、なにも見出せない。何度も記憶のなかに逃げ込んだけれど、記憶は何も答えてくれなかった。記憶のなかで漂うことが救いだったけれど、彼女が彼女であることは、揺らいでいた。

彼女の手に包帯が巻かれていた。ふと、柔らかく、やさしく、彼女を扱ってくれた両手と、その温もりを思い出していた。


姉妹と呼ばれる疑似家族を彼女たちは形作っていた。作り物の部屋で談笑している。ライラが外に出ましょうと言うので、緑の蔦で覆われた明るいテラスに彼女たちは歩いていった。ライラがブルーで、エミリィがホワイト、ローズがブラック。というふうに彼女のなかで整理がついていた。エミリィは弱視の女の子で、病弱な姿に惹かれて来る客は多いらしい。エミリィはその連中のことを豚さんと呼んでいて、ライラはいつもその瞳を見つめている。ライラには妹がいたが、性病で死んだらしい。ライラの庇護欲の残滓がエミリィに注がれているのは確かだった。ローズはクールで無口な女の子だったけれど、彼女とよく気が合った。

ローズはいちばん年上だった。だから、彼女やほかの女の子を妹分のように扱った。

小鳥のさえずりのように、ライラとエミリィが会話をするのを、彼女はじっと聞いていた。彼女の黒髪をエミリィは不吉だと言った。エミリィはよく物が見えていなかった。だけど死ぬ人間が分かるという噂があった。娼館の人間たちは、エミリィを怖がって、近づかなかった。彼女たち自身も、その噂を知っていた。ただ、人形たちはいつ死ぬか分からない。病気をうつされるとか、暴行されて死ぬとか、年長のローズが教えてくれたことだ。

エミリィの手には本があった。彼女は一瞬だけ、目が見えないのに本が読めるのかと訝ったが、ライラが朗読するものだと思ってその考えを取り下げた。エミリィが本を開く。となりでライラが本を覗き込んだ。ライラは文字が読めない。気づいたローズがエミリィから本を受け取り、朗読を始めた。

「そして、あなたはたとえば『われわれの国では裁判手続きはちがっています』とか、『われわれの国では被告は判決の前に訊問を受けます』とか、『われわれの国には死刑以外の刑があります』とか、『われわれの国に拷問があったのは、中世においてだけでした』とか。おっしゃるでしょう。それらは、正しくもあれば、あなたには自明に思われもする言葉です。しかし。私のやりかたには少しもさしさわりのない無邪気な言葉です。しかし、司令官はそれらの言葉をどう受け取るでしょうか。あの司令官がすぐ椅子をわきへ押しやり、バルコニーのほうへ急いでいく様子が、私には眼に見えるようです」

ローズの、低いバイオリンのような声音が、物語を前へ前へと押し進めた。彼女たちは広大なイマジネーションの海を泳いでいる。それは溺れることのない水で満たされている。きっと甘い水に違いない。蜜のような波間に四人はさらわれていく。

魂までは、自由なのだ。

エミリィは音程の外れた声で歌った。エミリィの銀色の髪が風で靡いた。

その夜、エミリィが死んだ。

客同士のいざこざに巻き込まれたらしい。当たり所が悪く、頭部から血を流して倒れているエミリィを彼女たちは部屋の外へと運び出した。老婆はぷりぷりと怒っていた。大事な商品を壊されたからだろう。エミリィの死体をローズが冷たい目で見ていた。その視線に彼女は気がつく。ローズと彼女の視線が交わる。ローズが口を開く。

「わたしたちは、ここで生きて、死ぬ。それだけは変わらない」

「でも……」

彼女の胸から、あるいは喉から言葉は出てこなかった。砂みたいに頭のなかで言葉が形にならずに、ただ消えた。

その日から、老婆は彼女たちに読み書きを教え始めた。老婆は経営者として人形たちに知性の礎を築こうと考えたのだ。おつむがあれば、だいたいのトラブルは回避できる。勘定ができれば、太客を見つけ出す力がつく。人形たちの態度や動きが変わるはずだと考えたらしい。

昼は学び舎で、夜は娼館となった。

ローズはいつも眠たそうにノートを開く。目を擦りながら、ペンを走らせるローズを彼女は観察していた。赤毛の、肩口まで伸びた髪が陽のひかりに照らされている。色素の薄い皮膚、頬、そして首から胸元のなだらかなカーブを目でなぞる。眺めるように自然に。スケッチをするみたいに。外界と彼女を分かつように。

ローズは気づかないふりを、きっとしている。彼女の視線が熱いものになるまえに教壇に立っていた老婆が彼女に注意する。

魔法は解けてしまった。時間がいつものように流れ出す。ペンの痕跡はつぎつぎと知識と言葉を彼女たちに齎した。

彼女たちの世界に、この館がある。街がある。都市がある。大地がある。大陸がある。知識は肥沃な土地となって、彼女たちにさまざまな作物を贈った。


雨の日だった。

「申し訳ありません……こちらといたしましても、ライラには適切な教育を受けさせるつもりです」

ライラが客を汚い言葉で罵ったらしい。客はご立腹で、老婆や従業員たちが非礼を詫びている。

窓の外の雨脚は激しい。ライラはこれから娼館の奥の部屋でお叱りを受ける予定だ。赤い絨毯が奥の部屋に続いていた。

彼女は部屋からライラを見ている。ライラは、かつての彼女だった。殴られ、鞭で叩かれる。

「ぎゃっ……ぎゃ……ぐっ……うぅ……」

皮膚に赤い筋が浮かんでも止めさせられない。暴力は雨の音でかき消される。老婆は彼女たちを商品だというけれど、その商品に老婆が手を出す矛盾を誰も追及できない。

ローズが彼女の肩をそっと叩いた。

「行きましょう」

彼女が屋敷の広間でソファに座り込むと、どっと汗が出てきた。

傍らでローズが紅茶を差し出す。

「いい香り」

「ありがと……」

洋服掛けに、蝋燭の火の影が落ちる。

ソファに座っていたローズが立ち上がる。手を後ろに組んで、雨の降る外を眺める。ローズが口を開いた。

「わたしね、二週間後にこの館を出ていくの」

「……えっ……」

彼女は唾を飲み込む。ローズは深く息を吸ってから、言った。

「わたしはここから出たら、心にドラゴンと獅子を住まわせて生きるわ。女でいることをやめるの。革命家になる」

ローズの瞳は相変わらず黒い。見つめていると黒いなかで深淵に灯る業火が輝いていた。

「だから、革命を起こしたら真っ先にあなたを、この牢獄から救い出してみせる。約束だ」

「ローズ、好きだよ」

「ありがとう」


彼女に客がついて、さいしょの夜が来た。

老婆は鼻唄を唄いながら彼女の身支度を整えた。

「客に粗相のないように、ね……」

「ありがとう、おばさん」

「おばさんじゃない。マチルダだ」

「マ……」

彼女は不器用に口をもごもごさせた。

「これからは、そうお呼び。いいね? 今夜はあんたのデビューなんだ。気を引きしめて、おやり」

彼女は頷いた。

部屋に入ると客の男を待つ。蝋燭のたどたどしい明かりが彼女の心を映しているようだ。

外では、月がときどき見えた。いまは暗いところから察するに、月が隠れている。ベッドに座りなおす。体が硬直してうまく動かせない。緊張しているのか。

扉が開いた。

客は大柄の男で、脱いだ服と拳銃をテーブルに置くと、彼女をベッドに押し倒した。男は笑みを浮かべ、平手打ちで彼女を殴った。乾いた音がして、痛みで意識が遠のく。ぼんやりと天井を見ていると、男の顔が彼女の顔を覗き込んだ。

窓から月明かりが漏れた。

――それは神秘的な夜だ。

彼女の腹につんと力が宿った。男をも、獣をも、打ち倒す力が、はっきりと彼女の体に現れた。彼女の視線はどこか遠い場所に投げかけられ、彼女の心は、遠いトウモロコシ畑にあった。

ものの一秒半。彼女は客の男を蹴り飛ばし、猫のようにくるんとベッドから抜け出した。テーブルに置かれた拳銃を手に取り、脅すこともなく、静かに引き金を引く。

館で銃声が鳴り響き、館は一時パニックに陥った。度胸の据わった男しかこの状況で冷静ではいられまい。

彼女は真っ先に表玄関に向かう。途中で、ある部屋の扉が開き、下着姿のローズとすれ違う。ローズは泣いていた。

「どうして! どうして、あなたに力が宿るのが先だったの? わたしだって、ここから出ていくのに。力はそれからだって手に入れられれば、よかったのに!」

彼女はなにかをローズに言いかけて、止めた。そして、走り去る。階段を音を立てずに下りる。

表玄関でマチルダが待っていた。

「あんた。逃げられるとでも、思っているのかい」

「わからない。けれど、州境を抜ければ分からない」

マチルダは不快そうな笑みを浮かべた。

「余計な知識をつけて……おまえたち、この娘にわからせておやり……」

銃声とともにマチルダの頬に弾丸が、かすめた。

「おのれぇ、小娘。あんたが手を上げたのは、このあたしだよ」

彼女は真っ直ぐにマチルダを見つめた。

「二回目は、ない。確実に、おばさんの心臓を撃ち抜ける……」

彼女の瞳をみて、マチルダは口をぽかんと開く。息が荒くなっている。心の底から怯えているのだ。言いようのない本能から来る畏れだ。

ホワイト娼館の扉を開くと、彼女は二度と、この館には帰ってこなかった。

彼女は出ていった先で賞金稼ぎになった。



「お涙ちょうだいの話は分かったよ。でもね、あんたが食い散らかした物や壊した扉や窓にも、ほんの少しのお金がいるんだ。いいかい? その分は働いて返してもらうからね!」

キャロルは腹を立てていた。

「でも、あたしはあんたに名前くらいはつけてやるよ。ドラゴナ……いや、リオーナ。これからよろしくね」

「リ、オーナ……」

リオーナはこくりと頷いた。まるで自身で名を確かめるように、その名をつぶやいた。

「あなたは……」

リオーナは鼻を爪で掻いた。

「キャロルよ」

「……よろしく」

キャロルは店の奥の暗がりから毛布を取り出した。リオーナに毛布を渡す。

「きょうはここで眠って。あした、ベッドを作るから。朝ごはんは七時よ。シャワーに入って。おやすみなさい」

朝日が昇ってきて、店のなかを明るく照らし出していく。つぎつぎと店のテーブルやイスが光を浴びて魔法にかかったように息づいていく。キャロルは店のなかを眺めると、キッチンに立つ。フライパンに割った卵を四つ、ベーコンを二枚ほど入れて、火にかける。ベーコンの表面に脂がじゅわじゅわと浮いてくる。バイクが店先を通る音がしている。焦げつくぎりぎりまで火を通す。卵もそろそろ、いい焼き加減だ。皿に並べて、パンも軽く炙る。時刻は七時というところ。

「リオーナ、起きて。朝食だよ」

目を擦りながらリオーナは店の床から這い出てきた。地面で寝ることは慣れていると聞いていたが、すこし可哀想だった。

リオーナにナイフとフォークを渡す。うまく使えないようだったのでジェスチャーで使い方を教えた。オーケー、と言ってリオーナは納得した。美味しそうに目玉焼きを頬張る姿は男の子みたいだった。キャロルは微笑んだ。

ずっとまえにこんな風景があったような気がする。遠い記憶を思い起こすには、それは昔すぎて、キャロルの心に霞がかかる。この店を始める前までの記憶はもうほとんど残っていない。

食事が終わると、リオーナに濡れた布切れを渡す。

「これで拭いて」

「ふ、く」

「こうだよ」

キャロルは布切れでテーブルを拭いてみせた。

リオーナはまた、オーケー、と言ってごしごしとテーブルを拭いた。

開店時間になって店の入り口にふたりで立つ。

扉が開くと、顔に深い皺の年取った男が入ってくる。見慣れた常連客だ。

男、マイルズはリオーナを見て、大きく目を見開いてから言った。

「新人かい? これでキャロルも引退できるな」

そう言いつつマイルズはリオーナのお尻を撫でた。

その手をキャロルは掴んでから、マイルズに対してにこやかに伝える。

「マイルズ、この店はこういうことをする店じゃないんですよ。こういうことをするなら余所でやってくれないかしら」

キャロルはぐっと力を入れる。マイルズは眉を動かして慌てている。

「わかった、わかったよ。キャロル。店ではこういうことはしないよ。でも、そのお嬢ちゃんがいいよって言ってくれるなら、話は別だぜ……」

マイルズはリオーナにウィンクした。

リオーナは獲物を捕まえる獣の目になっている。

「キャロル、銃は……」

キャロルは慌てて、リオーナを宥めた。

「リオーナ、ここは新しい仕事場だよ……。でも人を傷つけちゃいけない。わかったかい……」

「わかった。オーケー、オーケー」

リオーナの静かな闘志は潮が引くように消えていった。

彼女を見ていたマイルズは少し震えて、店の奥のカウンターに座った。

コーヒーで一服する客や、軽食を食べにくる客が次々と店に来た。リオーナの給仕人ぶりも板についてきた。キャロルはその姿に感心していた。

正午、いちだんとダイナーは忙しくなる。

リオーナは窓辺の席のテーブルを拭いている。外の景色を見やると、忙しく車が街を行き来していく。



彼女が店に来てからどれほど経ったかはわからないが、この日は客がまばらで、外の店先を掃除するリオーナは黒いフォードが店の近くに停まったことに気づいた。彼女は店に戻り、キャロルにそのことを伝えた。

白いジャケットの男が店の扉を開ける。

「ただいまー」

男は大声で店中に響き渡るように叫んだ。リオーナはびくびくして男を観察する。マフィアだろうかと思ったら、キャロルが喜びの声を上げた。

「ロバート!」

キャロルはジャケットの男に抱きつき、彼の頬にキスをした。

「おかえりなさい!」

「商談がうまくまとまったよ。これで来年までやっていける。キャロル、忙しくなるぞ」

ふたりは店の奥に消えた。

ガランとした店のなかでリオーナは座り込んだ。少し肩を落としている。

すぐに立ち上がると、仕事に戻った。



キャロルとロバートは家のリビングで寛いでいる。レコードでマイ・ブルー・ヘヴンを聞きながら、ふたりで肩を寄せ合う。ロバートはキャロルの髪を撫でて、そして軽くキスした。キャロルは新しい従業員のことと、リオーナが起こしたちょっとした事件をロバートに伝える。

「それはすごいなぁ」

ロバートは軽く驚いて、ほのかに揺れる明かりが作り出すムードに酔っていた。

「きょうは……」

「うん……」

ふたりは見つめ合う。じっとりとした空気があたりを満たす。

「愛し……」

扉がどんどんと叩かれた。

ロバートは肩をすくめて、むこうへ行った。

玄関で口論がして、銃声が鳴った。キャロルは驚いて、胸騒ぎを覚えつつ、店舗のある階に向かう。

店のなかで見た光景を彼女は受け入れられないでいる。何も言葉にならない。泣き崩れて、ロバートの血をかき集めようとする。

零れた血は元には戻らない。両手が真っ赤になって、うしろに人が近づいてくることにも気がつかないでいた。

そっと誰かが彼女の肩を抱いた。彼はキャロルの耳元で囁く。

「俺だ」

「あなたは……」

「現実を直視しないで。これは夢。悪い夢。だから、キャロル。君は眠って。ここに、いてはいけない」

キャロルの意識は遠のく。

傍らにいた彼は床に拡がる液体をぺろっと舐めた。




月光が大邸宅を照らしている。

リオーナは銃を二丁持って、アッバティーニ・ファミリーの邸宅に押し掛けた。ロバートの商談相手はイタリア系マフィアだった。酒の密売に加担させられそうになって、彼は犠牲になったのだろう。

店に零れていたのは彼の血だけじゃない。酒の味がした。ロバートはまともな人間すぎた。この時代、酒は売らない、作らないが当たり前だ。でも酒に酔うな、とは誰も言わなかった。アッバティーニ・ファミリーはこのへんでは、最大の犯罪組織だ。

黒い噂があれば、ここを訪ねるのが一番早い。

リオーナはふたりの門番をあっという間に片付けた。犬が吠えた。邸宅に明かりが灯る。つぎつぎと一階、二階と、光が漏れ出してくる。

正面玄関から、二階の窓にひょいっと登る。窓を足で割って、なかへと入る。誰もいない部屋だった。扉を開けて家主を探す。うろうろと暗い部屋を歩いていくと、とつぜん大広間に出た。

何かが奥できらめくと、それが人の腕なのだと気づくまで時間がかかった。一秒ほどの僅かな時間。殺気がリオーナの心臓を貫く。

殺し屋のお出ましだ。

身を低くして男が飛び出してきた。そしてジャンプ。手の先の鉤爪がリオーナを切り裂こうとする。リオーナは一歩後退して、すんでのところで猛攻を躱す。大きく空いた距離を異常な速さで詰められる。リオーナは殺し屋から距離を取り、弾丸で牽制する。

月光が大広間に差し込んだ。相手の位置が分かると、リオーナは空中を撃つ。ガシャンと照明が落ちてくる。殺し屋が気を取られているあいだに、足元を数発撃ち抜く。殺し屋は痛みで転がる。うずくまった殺し屋の頭に、一発の弾丸を打ち込んだ。

リオーナは用心棒のいなくなった邸宅のなかを自由に歩き回った。弾丸を銃に込めて、出てきた男を片っ端から殺して回る。

いちばん奥の、明るい部屋に入ると肘掛け椅子に女が座っていた。女はリオーナに語りかけた。

「待っていたわ、……ナタリア・・・・……」

「久しぶりだな、ローズ」

「わたし、あなたを探していたわ。あなたがホワイト娼館から出ていってから、がむしゃらに力を追い求めた。けれど、どこにもいなかった。あなたを偶然、あのダイナーで見かけたとき、ぞくりとしたわ。獣の目をしたあなたが子猫ちゃんに収まっているなんてね」

「ロバートを、なぜ殺した?」

「彼はあなたをおびき寄せる道具。意味なんてないわ。わたしはあなたが欲しかった。それだけ」

ローズは恍惚とした表情を浮かべている。

「それだけ、か。ローズ、お前は……」

「お前……言うようになったものね」

ローズは戸惑っている。

「私の最愛の人から愛を奪った。万死に値する」

ローズは微笑んだ。弾丸がナタリアの頬を掠める。

「なら、殺し合いをしましょう」

ローズが肘掛け椅子から立ち上がると、銃を二回撃った。彼女は眼帯を外す。見えなくなった白い眼がナタリアをぼんやりと見ている。

二発ともナタリアは避ける。ナタリアも銃をローズに向けて応戦する。壁や、家具に穴が開く。ローズが一気に距離を詰めて、銃を持った手を伸ばす。ナタリアがその銃を蹴り上げる。

「くっ……」

ローズが呻くと、彼女の頭をナタリアは蹴り上げる。ローズがふらつく。ナタリアはローズに向けて三発の銃弾を浴びせる。ローズの足はぐっと堪えて、上半身をぐにゃりと曲げて躱す。ナタリアはすぐに距離を空けて、後退する。窮鼠猫を? む、その喩えを知らないナタリアではなかった。ローズの頭は、すでに次の銃弾をナタリアへ放とうとしている。ぐっと腕の力が入ると、軟体動物のようにナタリアを狙っている。ローズの、その腕をナタリアの弾丸が撃ち抜く。軽く悲鳴が聞こえてくる。ローズは腕から血を流して腰からナイフを抜く。銃を捨てたことに疑問を抱かないはずはない。咄嗟にナタリアは腕を交差させて防御の姿勢をとる。

ローズが大声を上げながら、ナイフを手に、ナタリアへと突進してくる。ナイフがきらめく。そのナイフをナタリアは蹴り上げる。カラン、カラン、と床にナイフが落ちる音がする。至近距離でナタリアはローズの胸に弾丸を撃ちこむ。

ローズは口から血を吐いた。ナタリアは優しい声で言った。

「あなたらしい。わたしたちは、ここで生きて、死ぬ。自分がいつか、必ず死ぬことを忘れるなメメント・モリ

ローズの瞼をナタリアは閉じてやった。



キャロルの心は壊れてしまった。

ナタリアはキャロルを連れて、キャロルの生家に戻ってきた。

トウモロコシ畑は荒れていて、もういちどやり直すには時間がかかりそうだ。

新月の夜だった。ふたりは星空の下にいた。

「ロバート、ロバート……」

深い青の窓辺で、キャロルは時々、さめざめと泣いた。ナタリアの胸が痛む。キャロルの精神から、愛と喜びが消えたのが悲しい。愛した人がこうなってしまったことは絶望しかない。神様がほんとうにいるなら、キャロルの心を守ってやってほしいとナタリアは願う。

朝になって、キャロルが寝息を立てている。ナタリアはきょうも眠らなかった。彼女を守るためにタトゥーに刻んだ獅子とドラゴンに祈った。

キャロルとナタリアは昼食を済ませると、ナタリアはキャロルに濡れた布切れを渡す。

「テーブルを拭いて。キャロル」

「ふ、く」

「こうだよ」

ナタリアはテーブルをゴシゴシと拭いた。

ふたりで農場を散歩した。キャロルの手を引いて、ナタリアは進んだ。キャロルはあさっての方角を見ている。前を向かない彼女を歩かせる。

丘のうえまで行くことはできなかった。家に戻って、夕食の支度を始める。

「キャロル、神様に祈って」

彼女は何も答えない。幾度と、こんな夜を迎えた。ナタリアは黙って、スープを飲みこむ。味というものは家族や仲間がいて、初めて美味しく感じられるのだと教えてくれたのはキャロルだった。肉も野菜も、味がある。ただ豚のように腹を満たすだけでない精神の喜びだ。きっとキャロルもそのことを分かっていると信じる。信じるしかない。

戸棚にしまった拳銃をいつ使おうかと、ナタリアは思案していた。わたしたちは報われない。ふたりでいることに救いはない。きっとこれからも。このさき、ずっとだ。愛は失われてしまったんだ。

天国のような青空が見えた。

ひとりで出歩けるほどに回復したキャロル。でも彼女に意思は宿らなかった。どこか遠い場所を彼女は見ている。それをずっと見ていたかったと、ナタリアは幼い日の思い出のなかにいる。

キャロルが巻いてくれた包帯と、彼女の深い優しさをもう一度、思い描いている。自分もそこへ、最上の世界へ、行けるだろうか。

拳銃を持って、外に出る。

終わらせよう。

きっとだれもナタリアを責めない。

ふたりの時間の終わり――。

彼女の、目の前へ行く。引き金に指をかける。もうおわり、なんだ。

「キャロル……」

彼女はナタリアに微笑んだ。彼女が持っていたのは、一輪の花だった。

あの別れの日が過る。キャロルがくれた愛する気持ち、溢れ出る思い。

「……キャロル……ごめんなさい、あなたを愛せないなんて、嘘だった……」

ナタリアはキャロルの前で泣き崩れた。



無人称のレコードの音が聞こえて、マイ・ブルー・ヘヴンを唄っている。古く乾いた洋紙には彼女たちの、記録は残らない。〈了〉




参考文献 青空文庫 フランツ・カフカ「流刑地で」