日影の街
小林ひろき
1
この街の子どもが親から教わる最初の決まりごとは日向を歩いてはいけないということだ。日向を歩くなら傘を差す、それがこの街の人々の慣習だ。だからこの街で子どもが生まれると最初に贈られるのは傘だ。その慣習は身に沁みついている。祖父から送られた傘はボロボロだけれど今も使っている。
傘を差す人の往来。屋根のある市場に辿り着くと人々は差していた傘を閉じる。ビュセス・エフィンジャーは市場の端で傘を畳む。鞄に傘をしまい込むと真っ直ぐに歩き出した。市場の先には大学がある。ビュセスはそこに行かねばならない。影のある道を足早に通り過ぎる。
誰かに追われている、そんな感覚がビュセスにはした。後ろを振り向くと誰もいなかった。屋台で売られているフルーツの匂い、小料理店から漂うスープの香りがした。市場の先には太陽が照り付けている。
市場の先には広場があった。傘を差すと南東の方角へビュセスは歩き出した。太陽がきらめいていた。人々は快晴だというのに下ばかり見ている。大学は通りを渡るとすぐそこだった。
大学の研究室に待っているとプピルム・ブロック教授がやってきて挨拶をした。
「ビュセス君、待っていたぞ。」
「僕に何か?」
プピルムは不思議そうな表情をした。
「提出したレポートの件だよ。少し難点があるが刺激的だった。」
「そうでしたか、僕には自信がなかったのですが。」
ビュセスは快く返答した。
「二、三聞きたいことがあるんだが―。」
「なんでしょうか?」
教授が聞いてきたことはビュセスが診察した病の一つ、日影病のことだった。
「この日影病とは、どんな病だ?」
「この街特有の、影を作って暮らすことに起因した病です。不安や不眠、妄想を引き起こします。」
「なるほど、ここにある事例の少年は?」
「薬物療法によって今は良好な状態です。定期的に予後を見ています。」
「日影病の事例はほかにもあるのか?」
「ええ、街の真ん中で発症した少女もいます。」
「若年層に発症者が多いようだな。」
「確かに。高齢者には発症者はいませんし。」
「ビュセス。君には日影病の原因究明にも尽力してほしい。」
ビュセスは驚いた。憧れていたプピルム教授自身から激励されたのだ。頑張らずにはいられないとビュセスは思った。
研究室を後にすると窓からビュセスは通りを見ていた。傘、傘の群れ。家路につく人々の群れが、ある種、病的に見えた。
夕方、ビュセスは携帯電話でマーレ・コルディに電話をする。この時間になれば人は集まりやすい。レストランで夕食を取ることにした。
マーレがワインをグラスに注ぐ。
「仕事の方は進んでいるのか?」
「ああ、今日はプピルム教授から激励を受けたよ。」
「すごいじゃないか。あの厳しい教授からポジティブな意見を聞けるなんて。どんな事例なんだい?」
「マーレ。患者たちのことは口外できないんだ。だけれどなぜ、病気があるのか。仕事は山ほどある。」
「すまん、職業病というやつさ。つい詮索しちまう。」
悪いな、というふうにマーレは手を合わせて謝った。
食事はスパイスのきいた肉と、野菜だった。ビュセスは肉を頬張るとしばらく考え事をした。それが終わるとマーレの空のグラスにワインを注いでやった。
「今は何を追っているんだい?」
「とある銀行の幹部の横領事件だよ。悪党を懲らしめる、記事を書いてる。」
「しばらくはお互い忙しそうだな。」
ああ、とマーレは頷いた。
ビュセスは帰宅した。家は真っ暗だったので、照明をつける。ほんのりと部屋が明るくなるとビュセスは患者の資料を読みだした。明日の患者はキリギム・アレイ。日影病には二年前に発症した。不安、不眠などが症状に見られる。資料を通読するとビュセスは眠ってしまった。
次の日、ビュセスの診療所にキリギム・アレイが現れた。
「今日はよろしくお願いします。キリギムさん。」
キリギムは不安そうに一瞥するとうつむいてしまった。
「最近の調子はどうですか?」
「不安は取れました。夜はよく眠れませんが。」
ビュセスは病状をカルテに書き込んでいく。カルテには「影が怖い」と書いてあった。
「影は? その…。」
「影は相変わらず怖いです。影を踏んでいる間、ずっと誰かに追われているような感じがして…。いっそ傘を捨てて飛び出したいと思いました。」
「しかし、キリギムさん。この街の決まりは守らないと。」
キリギムは頭を抱えた。
「そうですね、決まり。確かにそうだ。でも光を浴びたい。そんな衝動もあるんです。」
「ダメですよ。光を浴びたら。」
「浴びたらどうということでもない、でしょう? 先生。」
「でも、それは絶対にいけません。」
キリギムはがっかりして俯いた。
キリギムが診療所を後にするとビュセスは天井を見上げた。光の中を歩いてはいけない。それを最初に教えたのは誰だったか。祖父? 父? 母? 誰だったのかはわからない。それは古い、とても古い教えだ。我々がこの世に生まれ落ちた時の約束のようなもの。ビュセスはそう思索すると、深く考え込んでしまった。
次の診察が始まる頃にはその考えはどこかに行ってしまった。
診療が終わる頃、ビュセスは夜の街を歩きだした。街灯はほんのりと人影を照らし出している。彼は影の事を考えていた。影を我々は作りながら生活してきた。今後そのことは変わるはずのないことだ。太陽の下に出たいなんて患者はなぜ考えるのだろうとビュセスには思えてくる。
携帯電話が鳴る。
「マーレか。どうした。」
「一杯やらないか?」
マーレはそう持ちかけて待ち合わせの時刻と場所を定めると電話を切った。
ビュセスとマーレは木のテーブルに腰掛けるとビールを煽った。ビュセスは昼の事を考えて、
「なぁ。太陽の下を歩きたいと思うか?」
マーレはあっけらかんとして、
「いや。ぜんぜん。」
「そうだよな、それが一般的な市民の考え方っていうもんだ。」
ビュセスはマーレに仕事のことを話したくなかった。マーレには守秘義務というものは存在しないということがビュセスには分かっていた。記事にされたくなかったら口外しないということも。
「まぁ、なんにしても太陽の下は別の世界ってことさ。」
マーレはうそぶいた。
「別の世界?」
「そう、閉じてみるんだよ。傘をさ。日中に。」
ビュセスには考えても見ないことだった。
「そしたら、消えた奴がいたって噂だ。」
「ここから消失する?」
ビュセスは困ったように返答した。
「そうさ。トリップしちまうのさ。ここからね。」
マーレは鼻の頭を赤くしながら言った。
「少し飲みすぎたな。ここでお開きとしよう。」
暗闇が街中を包んでいた。暗闇に抱かれてビュセスは安堵した。
キリギム・アレイは昼の街を歩いていた。一歩目は影を、二歩目も影を、三歩目は…―。彼は太陽の下を歩き出した。周りの住民たちは一旦、目を丸くした。光を浴びて超然と立っているキリギムを見た者達は彼を無視した。そこに誰もいなかったかのように。
一人の男が失踪した。通りに失踪人のポスターが張り出される。ビュセスがキリギムの失踪を知ったのはずいぶん後のことだった。マーレの言った事が思い出される。キリギムは太陽の下に出て消えてしまったとでもいうのか。
窓からは日の光が漏れ出している。ビュセスはブラインドを閉めるとキリギムのカルテを見ていた。影についての記述が引っかかった。そして言っていたことも含めて。太陽の下に出ていったのか。誰もしてこなかったことをキリギムはしたのか。マーレの言う通りだとしたら…。思考は目まぐるしく一つの洞察へと近づいていた。キリギムは言った。「浴びたらどうということでもない、でしょう? 先生。」確かに変わりはないはずだとビュセスには思えてならなかった。
ビュセスはプピルム教授に知恵を乞うことにした。プピルム教授のオフィスへと向かうと教授が中で待っていた。
「影から出た者について教えてほしいのですが。教授。」
「それは患者のことかな?」
「ええ。彼は失踪しました。」
「古くからここの住民は影を作って生きてきた。それは知っているな。影から出たということは、住民コミュニティから抜け出たということにほかならない。」
「ええ、でもそれでは辻褄が合わないんです。影から出たからといって見えなくなったわけでもあるまいし…。」
「探しても彼がいないことの理由にはならないという訳じゃな。」
「教授、教えてください。太陽の下に出たら私達はどうなるんですか?」
ビュセスはじっと教授を見て言った。
「君も臨床家なら実際にやってみるべきだ。それが一番の回答になる。」
日差しは強かった。ビュセスは傘を差した。ビュセスはふらりと太陽の輝く広場にやってきた。柱の並んだ広場は静かだった。ここが都市の中心部だというのに誰もいない。まるで太古の遺跡のようだ。
ビュセスは深呼吸をすると、ゆっくりとした動作で傘を畳んだ。日差しを浴びる。初めて浴びる光は少し暑かった。ビュセスは一人、自分が消えたのだと思った。通りをそのまま歩いてみる。影はどこにもない。光の中をゆっくりと進んだ。ビュセスは目が眩むようだと思った。よく形が見えない。遠くもあまり見えない。
傘が見えた。傘、傘。俯く人の群れ。人々の間を歩いていくと、人々は自分に気が付かなかった。
「そうか、キリギム・アレイはこんなふうにして消えたんだ。」
ビュセスはそう合点すると傘を差す。この土地に戻るのだ。
マーレにこのことを話したくなった。ビュセスはマーレに連絡した。
「太陽の下を歩いてみたよ。」
マーレは驚いて、
「気でもふれたのか? 」
「なに実験さ。」
「決まりを守れとは今更言わないさ。で、何か収穫があったか?」
キリギムがどこに消えたかはビュセスには分からなかった。
「影から「トリップ」できたのか?」
「いいや。」
ビュセスは否定すると、今の気分を話し出した。
「とても気分がいいよ。薬物療法なんかよりずっといいかもしれない。」
「それは良かったな。親が見たら泣くかもしれないのにな。」
ビュセスは閉口した。マーレは少し辛辣だった。彼の言うことにビュセスはどう答えていいかわからなかった。
「キリギム・アレイを知っているか?」
マーレは一瞬黙った。
「ああ、行方不明になった町民のことだろ。」
「そうだ。彼はぼくの患者だった。」
「そうなのか?」
マーレは声を荒げた。
「彼は言ったんだ。太陽の下に出たいという衝動がある、と。太陽の下に出てみて分かった。彼が消えてしまった理由は分かった。彼はここから、この住民コミュニティから抜け出たんだ。ここの連中は…僕も含めてだが…下ばかり、影ばかり追っているから何も見えないんだということをさ。」
ビュセスは自嘲気味に言った。
「彼の行先を知るものはいない。問題は彼が何処に行ったかということなんだ。」
「おい、待てよ。それは新聞屋と医者の仕事じゃない。俺からも何かキリギムの情報を教えてやれることはできるかもしれない。だが実際に捜索するのは警察だぜ、な?」
マーレはビュセスをなだめた。
彼は黙考していた。これを記事にすべきか。決まり事を破って消えた患者。それだけでこれはニュースになる。だが、それはビュセスを裏切る行為にならないか。
「ビュセス。これは俺と二人だけ、いやプピルム教授と三人の、秘密の案件にしよう。」
「それがいい。」
ビュセスは静かに答えた。ビュセスは電話を切ると足元の影を見つめていた。
キリギムが失踪してから七日が経つ。未だ彼の所在は掴めていない。ビュセスはしばらく日影病の患者の診察を続けた。日影病の患者たちは(キリギムと同じように)みな一様に太陽への執着を述べたわけではない。日影を作って暮らす我々のライフスタイルに起因するものだった。
ビュセスはカルテに病状を記入していくと笑顔を作って患者を安心させた。
「大丈夫です。必ず病気は治ります。」
彼はそう告げると、薬を処方した。
診察室の電話が鳴る。
「はい。ビュセス・エフィンジャーです。」
震えた声で相手が喋りだした。声の主はキリギム・アレイだった。
「キリギムさんですか。皆心配してますよ。いま、どこです?」
「アブロード通りの太陽の下です。携帯電話からかけています。」
「そうですか。キリギムさん聞いてください。影の下に入ってください。それか傘を差してください。そうすれば発見されやすくなるはずだ。」
キリギムは答えない。電話はプツリと切れた。
ビュセスは警察に連絡した。
「そうです。アブロード通りの、彼は太陽の下にいるはずだ。」
「何かほかにキリギムさんが言っていたことはありませんか?」
「ありません。」
太陽の下にいることは本来ありえないことだ。だからといって罰せられることではない。旅行者は守らないケースもある。ただ、守らなければ存在しない者扱いされることは間違いない。このキリギムのように。
診療所の下の通りが翳ってきた。そろそろ診療時間が過ぎようとしていた。ビュセスはカルテを片づけ終わると、夕暮れの街を傘を差して歩き出した。この街で幾度となく見た落日は胸に染み入るものがあった。いま、キリギム・アレイもこの街のどこかで一人彷徨っている。
家に帰ると、ドアのわきに男が立っていた。ビュセスは何か? と言いかける。五分刈りの、短く切った頭の男だった。
男は名乗った。
「おれはパイル・モロー。キリギムの友人だ。あんたキリギムの医者だろ。」
ビュセスは、そうだと答えた。男を見ると小さく震えていた。ビュセスは身の危険を感じつつゆっくりと男を観察した。男は中背で筋肉質ではなくどちらかというと痩せていた。傘は持っておらず、夜になってから外に出たものと思われる。
「私に何の用ですか? パイルさん。」
「おれはキリギムが心配なんだ。あいつは行っちまった。太陽の下に。」
ビュセスは太陽の下という言葉に驚いて聞き返した。
「なんだって?」
「ああ。おれはあいつを止めたんだ。あっちは危険だって。」
「何か知ってるんですか? パイルさん。」
パイルは一瞬ためらってから答えた。
「おれたちギャングの間じゃ有名な話さ。遊び半分で太陽の下には出るなってな。」
「それは一体どういうことですか?」
「太陽の下には「奴ら」がいる。あいつらに捕まったら帰ってこれない。」
「あいつらって誰の事なんです?」
パイルは確かに怯えている。
「中に入って詳しく話してください。」
「いや。」
「私もキリギムの行方が知りたい。協力してください。」
ビュセスはパイルを中に通した。パイルを座らせると、ビュセスはマグカップにコーヒーを注いだ。
「「奴ら」について教えてください。」
「太陽の下のギャングだって言われてる。影の下で暮らす人々を拉致したり、麻薬の密売をしたりする危ない連中だって。」
ビュセスには聞いたことがなかった。普段なら都市伝説かと思えてしまうことでも失踪したキリギムの事を考えると見過ごすわけにはいかなかった。
「警察には?」
「まだだ。」
「なら早くした方がいい。午後にキリギムから診療所に連絡があった。その「奴ら」から逃れてきて、かけてきたのかもしれない。」
パイルは頭を抱えた。
「君は太陽の下を歩いたことは?」
ビュセスは尋ねた。
「あるよ。あいつはおれに憧れてた。太陽の下を歩いてみたいってね。」
パイルが帰ってから、ビュセスはマーレに連絡した。
「マーレ。聞きたいことがある。太陽の下に住むギャングって聞いたことがあるか?」
「都市伝説だよ。それは。影の中で暮らすおれたちが抱いている、勝手なイメージだ。」
「今日、キリギムの友人を名乗る男が訪ねてきたよ。そいつの話じゃ、そのギャングにキリギムがさらわれたっていうんだ。」
「仮にそういう連中がいたとしたら、警察がもうすでに知っているはずじゃないか。警察の犯罪者リストに載っているはずだよ。」
「マーレ。太陽の下は不思議なことが多すぎる。ぼくらがどうなってしまうか、わからないんだ。」
「落ち着けよ、ビュセス。その友人のガキは何で先に警察に言わないと思う? 何か後ろ暗いことがあるんじゃないのか?」
確かにパイル・モローは太陽の下の者と関りがあったのかもしれない。ビュセスは困惑していた。
「だとして、なぜぼくなんだ?」
パイル・モローが訪ねてきた理由がビュセスには分からなかった。思いを巡らせてもこれだという答えが出ない。
「ぼくはキリギムにとって取るに足らない精神科医でしかない。」
ビュセスは感情的になって、
「ぼくに分かることなんて、何もないんだ。」
「まぁ、そう言うなって。太陽の下は別の世界だ。それはパイル・モローだって知ってる。やつは傘を持っていなかったんだろ? そいつも太陽の下のギャングだったとしたら? もしかしてそいつらがお前の実験を見ていたら…?」
「まさかぼくを引き入れようとしてるとでもいうのか?」
「さぁ、そこまではわからん。何にせよ、お前の何かを信じて助けを求めてきたんだ。それは確かな事だ。」
決まりを破ったからこそ、コンタクトを取ろうとしてきた、とでもいうのだろうか。パイル自身も、太陽の下のギャングの一員ではないのか。疑念は断ち切れなかった。
電話を切ると部屋は真っ暗になっていた。影が部屋中を覆っていた。目の前は何も見えなかった。外の風景に目を凝らす。街をすっぽりと闇が覆うと活気が漲っていくようだ。この街特有の夜が始まったのだ。街に出ると人ごみで溢れて、祭りのようだった。
太陽の事なんて皆忘れている。そう、それでいいじゃないか。太陽の事なんて忘れてしまえばいい。しかしビュセスはふらりとキリギムから連絡のあったアブロード通りに行った。石畳のある、商店の並ぶ通りだった。商店からランプの光が漏れる。路地から小さな動物が這い出るとビュセスの前を横切っていった。男がそこで蹲っていた。
「キリギムさ…。」
言いかけて止めた。そんなことあるわけない。男は露天商だった。きっとこれまでのことで疲れているのだ。
ビュセスは夜明けまでカフェで過ごした。朝日を感じると傘を差して家路についた。
街は昼の時間だった。商店はどこも締まって激しい太陽光の下で亡霊のように佇んでいる。特に日差しの強いところでは人はおろか小動物さえいなかった。街の中心の広場にキリギム・アレイは立っていた。太陽の下にいることが最も安全な事だった。危ない連中もここにはやってこない。「奴ら」は決まりを破らない。パイルならここに助けに来てくれるだろうか? キリギムは考え込んでいた。
塀にキリギムを捜索するポスターが張られていた。そこに行けばいいはずだ。だが影の下を通ることだけはごめんだった。キリギムは考えられるだけの伝手を考える。警察? パイル? 両親? 先生? 駄目だ。先生は電話したけれど話にならなかった。
キリギムはポスターを凝視する。光の中から見るポスターは見づらかった。警察への番号を探し出す。保護してもらえばいい。
携帯電話をポケットから出すとキリギムは連絡した。
「もしもし、警察ですか?」
「はい、こちら警察です。どのようなご用件でしょうか?」
「保護してもらいたいんです。」
「どういう意味でしょうか?」
「ポスターを見ました。今は訳あって太陽の下にいるんです。傘も忘れてきてしまったし、他に頼るところがないんです。」
「キリギム・アレイさんですか?」
「そうです。助けてください。今、中央広場です。」
「人を寄こします。しばらくそこで待っていてください。」
オペレイターは手続きを行っている。
キリギムは助かったと思うとそこに蹲った。
太陽が南の空に高く昇っていく。捜索は困難を極めた。場所は分かっているが、影の下がない。警察の捜索隊はうろうろと中央広場に向った。そこに小さな細長い影を見つけた。キリギム・アレイだった。
「キリギムさん?」
いくつもの影がキリギムを覆っていく。警察の捜索隊が無線でキリギムの安否を伝える。
「体の衰弱が激しい。いますぐに病院に搬送しろ。」
キリギムを乗せた車は病院に向った。
ビュセスがキリギムの帰還を知ったのはそれから十日後のことだ。彼の両親からの連絡だった。
「そうですか、彼は無事なんですね。」
ビュセスは安堵した。くわしく発見時の様子を聞く。
電話を切ると彼は大学へ向かうことにした。プピルム教授に教えを仰ぐために。
外に出ると南からやや西に傾いた太陽が街全体を照らしていた。これは傘を差さねばなるまい。傘を差すとビュセスは通りを歩き出した。
ビュセスはガラス張りの大学の廊下を歩いている。プピルム教授の研究室に着くと、中に入って恭しく頭を下げた。
「かしこまらんでくれ、ビュセス。」
「太陽の下に逃げ込んだ患者が帰ってきました。ひどく衰弱していたようです。」
プピルム教授は黙って頷いた。
「太陽の下を私も歩いてみましたが、薬物療法よりもいい効果がありそうでした。しかし、キリギムさんの様子を見ると…。我々が影を作って生きる上で太陽の下にいることが異例なのです。それがどんな結果になるか、見通せなかった私のミスでもあります。」
「影の下から太陽の下への転換は患者にとって、いい気分転換にはなったはずだ。しかし、太陽の下に居続けるということが我々にとってどんなデメリットがあるかは検討の余地がある。」
「研究対象としては魅力的ではありますが、日影病との関連はなさそうです。」
ビュセスは外を見た。傘を差す学生たちがキャンパスに入っていく。ブラインドをきつく締めると、ビュセスはこの街について考察した。この街のルール、傘を差して行動する不自然さについて。
「教授、なぜ我々は傘を差して行動するのでしょう? 旅行者はしないのに。」
「それが我々の築き上げてきた文明だからだ。」
「影を踏み締めても、何も見えません。視界が暗いことに慣れてしまっては太陽の下では何も見えませんし。」
「太陽の下に不用意に出ないことが重要だった。太陽の下は異界、つまり神の住むところだった。」
プピルム教授は淡々と話した。
「元は入ることが重要だった?」
「そうだ。太陽の下に入ることが神事だった。それが転じて影の下に生きることが一般的になった。」
「なるほど。」
「古くは、太陽の下に出た子どもが神隠しに遭ったこともある。今回もそうしたものに近いかもしれない。」
研究室を出ると、真っ暗な廊下をビュセスは歩いた。照明はなく、暗かったがビュセスは気にしなかった。大学の構内では今も授業が行われている。大教室を覗くと百名近い学生が講義を聞いていた。
門の前を抜けると傘を差して大学を後にした。ビュセスにはひとつだけ心配な事があった。あれからしばらく経つが、パイル・モローはビュセスの家にやってこなかった事だ。ビュセスは彼が太陽の下に出た事を心配していた。パイル・モローの言う「奴ら」についても気がかりだった。
キリギムは診療に来ていた。
「キリギムさん、パイル・モローの連絡先は分かりますか?」
「分かりますが…。」
キリギムは警戒した。
「あなたがいなくなった時、パイル・モローが私の家に来ました。」
キリギムは驚いて、
「彼は何か言ってましたか?」
「パイルはあなたが「奴ら」に攫われたと言っていました。」
「太陽の下にいるギャングですか?」
「知っていたんですか?」
「ええ。パイルが太陽の下に出るようになってから繰り返し言っていたことです。本当のことだとは思えませんでした。」
「彼は太陽の下を恐れていた?」
「そうだと思います。」
「私は彼のことも心配です。日影病なのではないかと。」
「彼も、ですか?」
ビュセスはええ、と答えるとカルテをざっと読んだ。
「その後、お変わりはないですか? その…太陽の下には?」
「もう出たいとは思っていません。」
キリギムは帰り際にパイルの電話番号を置いていった。早速、パイルに電話してみる。電話のベルが何回か鳴ったあと、パイルが出た。
「もしもし。パイルだけど。」
「パイルさん? ビュセスです。」
パイルは一瞬黙って、
「あんたか。何の用?」
「一度、診療にきてください。太陽の下についてお話を聞かせてください。」
パイルが診察室に来るとビュセスはにこやかに笑いかけた。
「お久しぶりです。パイルさん。」
「ああ…。」
パイルは落ち着かない様子で椅子に座った。視線はあちらの方へ向いたままビュセスを見ない。ビュセスは続ける。
「太陽の下に出た患者が異常行動を示しました。あなたにもその予兆があるようですね。」
「何のことだ、一体?」
「ギャングのことだ。私はあなたをまだ百パーセント信じ切れていない。」
「ギャングはいるよ。妄想だとでも思っているのか?」
パイルは声を荒げた。ビュセスは物怖じせずに答えた。
「私は妄想だと疑っています。太陽の下は不思議な事が多すぎる。分からないことだらけです。」
「あんた、あそこに出たのか?」
「ええ。」
「なら、「奴ら」が見えただろう?」
「いいえ。私は街中を歩いてみたけれど、見えませんでした。太陽の下で生きるなんて、とんでもない。そうだとしたら街の者ではないでしょう。何に怯えているんです? パイルさん。」
「影だよ。追ってくる、影、影。」
その告白にビュセスは気持ちがおさまった。患者は日影病だ。
「あなたには新種の病気の疑いがある。」
パイルははっとして答えた。
「キリギムと同じか?」
「そうです。」
「影の下でいられないのが特徴です。この街特有の病気ですね。」
パイルは今まで怯えていた自分が少し馬鹿らしくなった。
「それでどうすれば治る? 妄想を無くせるんだ?」
ビュセスは治療方法を説明した。その間、パイルは黙って聞いていた。診察が終わるとパイルは軽く会釈して診察室を後にした。
2
今月に入って、行方不明者が3人に上った。普段、静かなこの街ではありえない数だ。
また日影病の患者も急増していた。日影から太陽の下に飛び出して怪我する者もいた。マーレもこの事態を記事にせざるを得なかった。マーレはビュセスを頼った。ビュセスはこの分野では第一人者になっていたし、治療法も一般化していなかったからだ。マーレはビュセスにアポイントメントを取って面会した。
「ビュセス、この奇病の治療法について教えてくれ。」
「主に薬物療法と行動療法が基本だ。太陽の下も出てはいけない。」
「太陽の下は危険なのか?」
「ああ。一度出ると失踪してしまうケースもある。加えて患者は影を怖がるようになる。」
「影があるから俺たちは生きていけるというのに?」
「そうだ。そして太陽の下に逃げ込もうとする。」
「なんだか気の毒な話だな。」
「病気は若年者に特に多い。早めの受診を勧めるよ。」
マーレは行方不明者もこの日影病だと推し量って取材をした。取材ノートには大きく「影を怖がる」とあった。
警察にも出向いた。担当の刑事から話を聞き出すためだ。捜索は主に夜行われているという。
「昼は捜索を打ち切っているんですね?」
「昼は太陽の光が強すぎて影ができにくい。失見当識になっては仕事が進まないからな。」
刑事は笑いながら答えた。それをマーレは黙って受け流した。
「キリギム・アレイの件もある。行方不明者が自力で帰ってくることもあるさ。」
捜査本部の姿勢は極めて楽観的だった。マーレはそれには否定的だ。もし太陽の下にいたとしたら、失踪人は半永久的に捜査網に引っかからないことになる。マーレは苛立ちを感じた。
「ありがとうございました。とても…、とても参考になりました。」
彼は笑顔を作って、握手した。
しばらくして、消えた少女のひとりが自力で助けを求めて警察に保護された。彼女は太陽の下にいた。キリギム・アレイの一件と同じだった。残りの二人は今も行方不明のままだ。
失踪人の二人はイリアナ・スノウとミネヴァ・クローチェといった。マーレは彼女たちの両親の下へ取材に行った。
イリアナは街の中心部に住んでいた。昼に太陽が高々と昇る、この辺りは影はほとんどなかった。イリアナは外で遊んでいるところを失踪した。イリアナの両親は夜働いているから、昼は傘を差していれば済む。しかし、その日イリアナは傘を持って行かなかったという。
窓のない、箱のような四角い建物がイリアナの家だ。そこをぐるぐると回ってからマーレはスノウ夫妻に話を聞いた。
「娘さんは昼によく遊んでいたんですか?」
「ええ。活発な子だったから。」
とスノウ夫人。
「よく叱ったものです。太陽の下には入るなって。」
「失踪直後のことを話していただけませんか?」
スノウ夫人は黙ってしまう。続けて何かを思い出したかのように、
「あの子は空気みたいに、するりと消えてしまったんです。そうとしか思えません。」
マーレは取材を終えると、クローチェ夫妻にも取材に行った。街の中心から東へ数キロのクローチェ家は薄暗い街の奥にあった。家々のドアが並ぶ路地を入っていくとクローチェ家のドアがあった。マーレはベルを鳴らす。
「失踪されたミネヴァさんについて聞きたいことがあります。」
なかからクローチェ夫人が姿を現した。
「あの娘のことなら警察に話した通りです。他には何もありません。」
ミネヴァ・クローチェについては何も聞き出せず、マーレは家を後にした。途中、クローチェ家の裏に回ってみたものの、少し傾いた太陽が辺りを照らしているだけだった。
マーレは路地をぐるりと見渡したが、太陽の下はどこにもなかった。イリアナと同様に遊びに出て、いなくなったとは考えにくい。(可能性は低いが)人に攫われたか、日影病を考えてみるべきだとマーレは思った。人さらいなんて考えにくい。連れていくにはここは辺境の地だ。周りは砂漠だ。砂漠に出たら最後、どこにもいけない。空港に出られればいいが、そこを娘を一人連れたまま通過するのは難しい。残りは日影病だ。太陽の下に出ていこうとするらしいが、それがここには見つからない。マーレは取材ノートを見た。患者が影を怖がることが大きく書いてあった。目の前の路地は彼女にとって何だ? 怖れるべき場所だったはずだ。家の中も。そうマーレは推察すると真っ直ぐに路地から飛び出した。
太陽が南中すると、ますます日差しが強くなった。マーレは新聞社に戻ってきた。
マーレは小さな窓から太陽の下に浮かぶ傘を見ていた。そこから外れたようにうろうろと男が這い出してきた。男は巡回中の警官に取り押さえられた。決まりを破って太陽の下に出たはいいが、どうすることもできずに職務質問を受けるケースだ。大体は麻薬をやっている連中に多い。
マーレは広場に向うことにした。日影のない中央広場なら少女たちに関する有力な手掛かりも見つかるかもしれない。
結果はドンピシャだった。目撃者が見つかったのだ。目撃者はホームレスだった。
「女の子が遊んでいたんです。でもふらりといなくなってしまった。影なんてどこにもないのに。」
と語った。
マーレは困惑した。彼は取材を続けたが、それ以上の情報は挙がってこなかった。
イリアナ・スノウはその日、影を踏まずにどこまで行けるか試していた。ほんの気まぐれである。もちろん決まりは分かっていた。好奇心が旺盛な彼女はその実験を止めなかった。一歩、二歩、三歩…。両親の声が聞こえなくなってからしばらく経つ。まだ熟れてない果物の、青臭い匂いが漂ってくる。露天商のおじさんが座り込んで果物を並べていた。足元には大きな影がある。それを慎重に避けた。
中央広場に着くと、太陽の下はとても広くなった。太陽光は眩しくて、浴びると元気になった。すると彼女は広場を覆う不思議な影を見つけた。影はベールのように薄い。
「なんだ…。ここも影の中だ。」
彼女は呆れたように言った。
その影は彼女を包み込んだ。彼女は悲鳴もあげられなかった。
マーレはビュセスに連絡した。
「ビュセス、聞いてくれ。太陽の下に出たら消えてしまうなんて、あり得るのか?」
ビュセスは少し考えてから答えた。
「…あり得るよ。住民の共通認識から外れれば、自ずと太陽の下に出たものは消えるんだ。」
「行方不明者の一人はそんなふうにして消えたらしい。それ以降の足取りは掴めないんだ。ビュセス、助けてくれ。おれにはこの件はお手上げだ。」
「まぁ、落ち着けよ。マーレ。お前が太陽の下出たものはトリップするって言ったろ。
やってみればその通りなんだ。」
「トリップしちまったら自分の居所さえ掴めないから、帰ってこれないとでもいうのか?」
「ああ、そうだ。キリギム・アレイの件を思い出してくれ。」
マーレは数か月前のことを思い出す。
「だが、あれはラッキーだったというしかないだろ。彼が自力で帰ってきたんだから。」
「そうだ、彼は連絡手段を持っていたからな。だから助かった。消えた少女たちは自分たちの居所を周りに知らせるものを何一つ持っていないんだろ?」
「ああ。そうらしい。」
「夜になれば少女たちが帰ってこれるよ。」
「それ以外にいち早く見つける方法はないのか?」
「たぶん、ぼくたちにはない。日があるうちは、ぼくたちに主導権は回ってこない。」
「そんな…。」
マーレは落胆した。
夜の街の中をマーレは歩いた。夜の街はどこも活気で溢れ、昼とは大違いだった。露天商がアクセサリーや指輪を売っている。その隣では帽子や鞄が山積みになっていた。どれも値段が安かった。駐車場のフェンスに失踪人のポスターがずらりと並んでいた。イリアナ・スノウとミネヴァ・クローチェ。彼女たちはいまどこにいるのだろう?
ミネヴァ・クローチェはもやもやした影に追われていた。それは、あのドアの並ぶ路地の隙間から入ってきた。するするとそれらは大きな影の塊になり、少女を睨むと追ってきた。ミネヴァは立ちすくんで動けなくなった。しかし、なんとか動き出して影から逃れた。気づくと太陽の向きが大きく変わっていた。ここがどこか彼女には分からなかった。夕日は足元に長い影を落としていた。
「やだ、これじゃ帰れないじゃない。」
彼女は泣き出した。ミネヴァが泣いていると、見知らぬおばさんが、
「どうしたの?」
と聞いてきた。
「帰れなくなっちゃった。」
「しばらく、家にいていいよ。」
おばさんは柔和な笑顔を浮かべた。ここは東の街から西へ数十メートル移動したところだった。
次の日には警察へ保護された。ミネヴァは日影病の疑いでビュセスのもとに訪れた。ミネヴァは挨拶をしてから、こう答えた。
「影が怖くなくなる?」
「きっと治るよ。怖くなくなるよ。」
「なら、良かった。」
ミネヴァは笑顔になった。ビュセスは安定剤を処方すると、診察を終えた。
ビュセスは考える。どうしてここにきて日影病が増加したのか? 日影病は若年層に多いにもかかわらず、年配層も診察を受けに来る。これは何かの兆候なのか?
マーレは警察署に出向いていた。警察署は騒がしかった。理由を刑事に尋ねると、
「行方不明の少女が見つかったんだ。」
「何だって。 どこでです?」
「遺跡だ。」
「どうしてそんなところで?」
「おれが知りたいよ。」
「発見者は?」
「旅行者だ。電話がかかってきた。少女が倒れてるってな。いま救急で病院に搬送されてる。」
円柱の立ち並ぶ、遺跡の影に少女は倒れていた。旅行者が揺り起こすと意識があった。
「大丈夫か?」
「ええ。」
「痛いところは?」
「ありません。」
「何があったんだ?」
「言葉では言い表せない…。」
マーレは今日、大きく変わった事件を考えてみた。街から遺跡まで三十キロメートルはある。それを幼い女の子が太陽の下を通って移動したというのだ。驚くべきことだ。それに女の子の言動も少しおかしい。一度、ビュセスのところで診てもらった方がいいとマーレは感じた。
イリアナ・スノウはビュセスのもとに診察にやってきた。日影病の疑いだ。
「影から出たくなった理由は?」
「ほんの気まぐれよ。」
イリアナの返答ははっきりしていた。
「影が怖いと思ったことは?」
「ない。」
イリアナには日影病の兆候がなかった。ビュセスは困って、
「誘拐されたときのことを話してもらえるかな?」
「それは…。」
イリアナはそれが話してはいけないことだと分かっていた。馬鹿げていることだとも。
「長い回廊を歩いていたの。空に絡めとられたあと。上から街を見たわ。」
「それは何だい?」
「分からないの。影を避けて歩いていたら、おっきな影を見つけたの。」
「…それが?」
「それが私を包み込んで遺跡に運んで行っちゃった。」
イリアナの話は荒唐無稽だった。
「その大きな影はどこにあるの?」
「太陽の下。」
「どんなもの?」
「薄いベールみたいなもの。みんなは良く見えないの。」
太陽の下は不思議な事があることは分かっていた。しかし、イリアナの話ではその「影」にはまるで意思があるようだった。
ビュセスは彼女に治療しなかった。ビュセスは診療所から出ていくイリアナを見送った。
彼女は神隠しにあったとでもいうのか。
破れかけた地図をボロボロのポケットにしまうとカトイ・ルービックは彷徨うように歩き出した。カトイはふらりと太陽の輝く広場にやってきた。柱の並んだ広場は静かだった。中央に案山子が立っていた。カトイは困惑しているようだ。ここが都市の中心部だというのに誰もいない。まるで遺跡のようだ。
表通りは光が照り返している。表通りをカトイは歩いていた。この都市は昼だというのに皆昼寝でもしているのだろうかとカトイは思った。
数キロにも及ぶ表通りを抜けるとカトイは腰を下ろした。向こうに路地があるのに気づく。すると、声がする。そこはちょうど日陰になっていた。子どもが走っていく。その子どもにカトイはついていくことにした。
都市の中心部から外れた、住宅街の路地。露天商が果実を売っている。その匂いが充満している。カトイはそれを無視して先を急いだ。路地は買い物客でごった返している。表とは対照的な路地にカトイは驚くと子どもを見失ってしまった。
すれちがう人々は皆、顔が白い。彼らは日陰にいる。日向には出てこないのだ。日陰を縫うように歩いていく。カトイは街をゆく老人に聞いてみた。
「なぜ、日向を避けるんですか?」
「この街ではそういう決まりなのさ。」
決まり、ルールというわけだ。郷に入っては郷に従え、カトイは受け入れた。こうして陰を踏んでいくと、遊びのようで楽しい。
路地の奥には地下へ続く階段があった。カトイは空腹を感じていた。地下からいい香りがする。階段を下りていくとそこにはレストランがあった。カトイは大きく口を開け食べ物を注文する。肉のスープとパンだった。満腹すると、ずっと気分がよくなった。カトイはボロボロのポケットから財布を取り出すと代金を支払う。
地下から出ると夕方になっていた。闇があっという間に都市を隠した。路地から人々が出てきた。これが本来の姿という訳だ。広場には人々が溢れている。表通りは賑わっていた。カトイは街を一巡すると、自分の集落に帰ることにした。街で日光を浴びることが目的だった。ここに着いた途端、目的の半分以上は達成してしまった。二日ほど街や遺跡をぶらぶらして夜の露天商でアクセサリーを買って満足した。
三日目の朝、カトイは宿で朝食をとってから空港に向かうことにした。
空港は数人の客がいるだけでがらんとしていた。チケットを買うと、ベンチに座って飛行機を待った。
テレビには行方不明者発見のニュースが流れていた。場所は遺跡。旅行者に人気のあるスポットだ。カトイも行った事があった。
次の便は二十分後だ。外は相変わらず呆れるくらいに太陽が輝いていた。しばらくして空から轟音を立てて飛行機が着陸する。
カトイは飛行機に乗り込む。席に腰掛けると機内アナウンスが聞こえた。ベルトを締める。飛行機が離陸する。ふわっとした感触がお尻に伝わる。重力が少し無くなったように。
飛行機が高度を上げる。すると窓の外が暗転した。一面は闇。この星じゅう、闇に覆われている。カトイは窓から外の闇を見る。いつも見慣れた外の闇がカトイを迎えてくれた。カトイは安心すると飛行機の中で眠ってしまった。
飛行機が着陸すると、カトイは自分の住む集落に向った。カトイは夜目がきいた。ほんのりと明るい灯火が集落の目印だ。
「やぁ、カトイ。」
「おかえり、カトイ。」
集落の人たちが出迎えてくれた。カトイは家に着くとベルを鳴らす。彼は空を見上げる。星空はあの街となんら変わらない。
「おかえりなさい。」
キクマとササリナが出迎えた。
「ただいま。」
「夕食の支度ができてるよ。旅のことを聞かせて。」
レイナがカトイを急かした。
「わかったよ。夕食の時にな。」
カトイは街にいたとき不思議に思ったことを家族に話した。
「太陽の街の人たちは日中は傘を差すんだ。」
「へぇ。日傘をねえ。」
キクマは感心した。
「太陽の下には出てはいけないという慣習があるんだ。」
「変わってるわね。」
「こことは違って日差しが厳しいからね。なんとなく分かる気がするよ。」
「日光浴はどうだった?」
「とにかく気分が良かったよ。皆にも教えてあげたいくらい。」
カトイはウィスキーをグラスに注ぎ、キクマに渡した。
「大規模農地はどうだった? 広かったろ。」
「ああ。あれはすごかった。太陽の下一面に農地が広がってたよ。」
「あそこだけで全土の三分の一の食料がとれるんだって。」
レイナが得意げに言った。食卓には農地でとれた野菜料理が並んでいる。外は祭りのように賑やかだった。
太陽の街を中心にして三十の小都市とそれに連なる集落が点々とあった。
カトイは数時間眠ってから、太陽が昇らないことに気づいた。それはあの街で起こる不思議な体験だったのだ。そう気づくと、カトイはまた深い眠りについた。
イリアナの事を聞くためにマーレがビュセスの診療所にやってきた。
「ビュセス、イリアナの事を教えてくれ。」
「駄目だ。患者の事は口外できない。」
「そこを何とか頼むよ。彼女は日影病かだけでもいい。教えてくれ。」
「仕方ない。彼女は精神的に何の問題もなかった。」
マーレは驚いた。
「じゃあ、あのおかしな言動はどうなんだ?」
「ああ、誘拐されたことで混乱してるだけだろう。ぼくにわかるのはそれだけだ。」
ビュセスは彼女の事を少しでも隠したかった。イリアナ・スノウの言動は太陽の下の不思議なことの解明につながるかもしれないからだ。
「今回のはただの誘拐事件じゃない。」
「ぼくもそう思う。マーレ、これは口外するなよ。それは記事にするなってことだ。いいか?」
「ああ。分かったよ。どっちみち今回の事件は記事にしても無駄だろう。」
「どうしてだい?」
「まったくと言っていいほど、裏が取れてないからだ。不可解な点が多すぎる。」
マーレは黙り込んでしまった。ビュセスは、
「彼女は空からここ、この街を見たと言った。」
「何? どういうことだ?」
「分からない。それにこうも言っていた。」
「何だ?」
「「影に捕まった」って。」
マーレは沈黙した。何かを考えようとしても思考はバラバラと崩れていってしまう。彼女は日影病じゃない、しかも影にさらわれた…だから…。マーレは静かになった。頭を抱えると、考えを纏めるみたいにそこらじゅうをぐるぐる歩き回った。
「イリアナの証言が確かだとすると、そんなこと考えたくないが…、空に何かがいるのか?」
空がまるで圧力をかけたみたいに重くのしかかってきた。それが思い過ごしならいいとマーレとビュセスは思った。
マーレはイリアナ・スノウに取材を試みた。イリアナは取材を快く承諾した。
「単刀直入で済まないが、君は何にさらわれたんだ?」
イリアナは少し渋ってから、
「影。皆には見えないの。」
「どんな影だい?」
「薄くて、大きいの。」
「ふむ、それで何かされたの?」
「何もされなかった。一緒にお空から街を見たの。」
「空を?」
「そう、それでね…。その後は遺跡に飛ばされたの。」
マーレは三時間に渡ってイリアナに質問したが、それ以上の情報はイリアナの口から明かされなかった。
イリアナの件は新聞記事で取り上げられた。しかし、大きくは取り上げられなかった。
ビュセスは太陽の下で不思議な事が起こるのを知っていた。日影病―パイルのケースのような妄想が挙げられる。イリアナのケースは何だ? 妄想にしては彼女の言うことと彼女に起こったことは特殊だと言わざるを得ない。ビュセスはイリアナの証言を百パーセント信じた上で、プピルム教授に教えを乞いにいった。
「プピルム教授。少女が誘拐された件は知っていますね?」
「ああ。遺跡で見つかった子のことか?」
「ええ、彼女は日影病ではありませんでした。」
「そうか。」
プピルム教授は遠くを見ていた。
「太陽の下では不思議な事が起こる。今回の事件はそれに関連していることなんでしょうか?」
「それはきみの専門外だろう?」
「確かに、でも太陽の下で起こる奇病が何かの兆候だと思えてならないんです。それはきっと大変な事の予兆なのかもしれない。」
「ビュセス君。きみは太陽についてどれくらい知っているのかね?」
「太陽? 詳しくは知りませんが…。」
「この土地の太陽はな、約四百年前にこの土地に昇ったとされる。この土地にのみ起こる特殊な事象なのだ。
それまではこの星は闇に覆われていた。それがある日、何の前触れもなく太陽が現れた。太陽はこの星に恵みをもたらし、この土地に文明を作り出した。人々は太陽を崇拝した。これがこの土地の真実だ。」
「だから何だというんです? 教授。我々はこの土地の太陽について疑問を投げかけなければならない。」
「ビュセス君、太陽に触れてはならない。」
ビュセスは教授の態度に憤った。
「女の子が空に捕まったと言うんです。」
ビュセスはイリアナの証言をそのまま言った。
「これは何かが空にいるのではないでしょうか?」
ビュセスは考えを教授にぶつけた。
「落ち着きたまえ、ビュセス君。それは神に関わることだ。」
「神とはなんですか?」
「無論、太陽のことだ。」
ビュセスには教授の意見が前時代的だと思えてならなかった。ビュセスは考えを纏めた。古くからこの土地の空には何かがいるのは間違いない。イリアナの証言はそれを証明している。日影病の患者はより危険な立場にある。太陽の下に出てしまえばその「何か」に捕まる可能性が高まるからだ。ビュセスは影の中で感じた「追われている感覚」を思い出した。それが日影病になるのを促している。そのように考えた。彼は研究者だった。疑問に立ち向かわなければならない、その熱意が彼を追い立てていた。
カトイ・ルービックは悪夢にうなされていた。影に追いたてられるというものだった。彼は目覚めると太陽の下にでなければならないという衝動を感じた。彼は急いでベッドから出ると、身支度をして外に飛び出した。ササリナがそれを制止した。
「カトイ、どうしたの。」
「日光が、日光が欲しいんだ。ぼくは。」
「待って、冷静になりなさい。ここに日光なんてないのよ。」
「太陽の街に行けば、きっと…。」
「あの街までどれだけ離れていると思うの?」
「でも、悪夢を見るんだ…。」
「悪夢? なら一度先生に診てもらいなさい。」
カトイは近所の医者に相談した。医者は、
「原因が分かりません。でも太陽の街にはそういった症状を専門にした先生がいる。一度そこに受診したほうがいいかもしれない。」
カトイはもう一度太陽の街に向かった。街に着くと広場へ行き、そこから南東の方向へ向かった。大学病院の方向だ。大学病院では原因が分からないと言われた。そこでカトイはビュセスの診療所を教えてもらった。
太陽が少し西に傾いていた。白い土でできた四角い建物がビュセスの診療所だった。カトイはそれまでの経緯をビュセスに話した。
「それは大変でしたね。お話を聴くと、どうやら最近この街で流行っている日影病の疑いがある。」
「日影病ってなんですか?」
「日影にいると太陽の下に出たくなったり、妄想や不眠を起こしたりする病気です。」
カトイは静かに聞いていた。
「街以外の人ではあなたが初めての患者だ。街にはどれくらいいたんです?」
「三日ほどです。」
「短いですね。」
「そのときは日光を浴びに行きたいって思っただけなんですが…。」
「外から来る人は、そういった動機でこの街に来るんですね。」
ビュセスは関心を示した。
「お薬を出しておきます。」
「それだけですか?」
「今のところはこのようにして治療します。大丈夫。治りますよ。」
「あの…、太陽の下に出ても?」
「それはお勧めできません。影の中で過ごした方がいいです。それとこの街に滞在するなら傘を買っておいた方がいい。」
「傘を?」
「そうです。影を作って移動したほうがいい。」
「この街の決まりですか?」
「いいえ、ところで影に追われたという経験はありますか?」
カトイははっとした。夢によく出てくるシチュエーションだったからだ。
「経験ではないんですが、夢によく出てくるんです。」
「…夢ですか。」
ビュセスは淡々と答えた。おそらく日影病だ。
「夢であっても、その影には近づかない方がいいです。」
「…はぁ、そうします。」
「失踪者も増えていますから、お気を付けて。」
カトイは宿で静養していた。静養している間、カトイはこの街の太陽について考えていた。あの太陽は輝く星々と違っている。高度を上げれば届いてしまうのだ。太陽だけが違う場所にあるのは間違いない。空の星々よりずっと近いところにある。あの我々の知る太陽はスクリーンに映し出された幻なのだろうか。カトイはあの太陽とそれが作り出す影も恐れていた。夢が現実になるとでもいうのか。カトイは宿でじっとしたまま動かなかった。そうしていると太陽が沈み、夜になっていた。外は騒がしくなった。公道を結婚式の馬が歩いているのだ。車は渋滞して、クラクションが所々で鳴っていた。カトイは恐る恐る外を見てみた。ここの夜は故郷と比べて騒がしい。カトイは外に出てみた。結婚式のパレードを遠目に夜の通りを歩き出した。屋台が通りに沿って並んでいる。そこから煮込んだスープの匂いがしていた。しばらく進むとアーケードに出た。アーケードのなかはアクセサリーや衣装が並んでいた。鳥獣店にはオウムがとまっていた。カトイは目的を決めずにフラフラと歩いた。そうしていると恐れが自然と心の中から無くなっていくのに気づいた。
一面は闇。この星じゅう、闇に覆われている。彼は飛行機から見た風景を思い出した。
ビュセスは太陽の下を歩いてみることにした。空に何があるのか確かめるためだ。最初、太陽の下は眩しくてほとんど見えなかった。慣れてくると空を見上げることができた。ビュセスは空を観察した。太陽の下からは何も見えなかった。ただ青い空が見えただけだった。イリアナのいう「影」はどこにもなかった。
そのときだった。猛烈な風がふいた。ビュセスの目に薄いベールのようなものが見えた。
「…あれは何だ?」
ビュセスには大きな浮遊する物体が見えた。それは幾層もの薄いベールに守られた物体だった。それが太陽の光に透けて「影」を作っていた。さらに太陽はベールに映る像だったのだ。ビュセスはそれに驚いた。太陽は空高く存在していると思われたが、浮遊する物体の作り出す像だったとは思いもよらなかった。スクリーンは、この土地の隅から隅までに広がっている。
あんなもの人工物に決まっている、そうビュセスには思えてならなかった。ならば誰がそれを作ったのか? 何の目的で? 疑問が次々と浮かんだ。ただひとつ明らかなのは、あれがイリアナをさらったということだ。ビュセスはこの発見に興奮していた。彼は周りを影で取り囲まれているのに気づかなかった。影はさっと彼を取り込むとその場から消失した。
ビュセスは広い空間で目を覚ました。彼は近くにあった水差しに触れた。羽のように軽くデザインも洗練されている。水を飲むとビュセスは辺りを観察した。白い部屋だった。
「起きたようだね?」
何者かの声がした。声の主はこの部屋にいないようだ。
「ここは君の発見した浮遊するもののなかだ。」
「ここが?」
「そうだ。君は優秀だったよ。太陽の下に出て我々を観察しようとした。多くの者がそれをしないにも関わらずに。」
「ぼくをどうするつもりだ?」
「もう調査は終わった。君を元の場所に戻したい。」
ビュセスは自分が何時間も眠っていたことに気が付いた。
「ぼくに何をした?」
「簡単な調査さ。すぐに終わったよ。それともイリアナのように空でも見るかい?」
声の主は余裕たっぷりだった。
「君たち、とでもいうのかな? 君たちは何者だ?」
「我々はこの土地を観察する者だ。」
「どこから来た?」
「この星の外から来た。四百年前から光をこの土地の生物に与える実験をしている。」
声の主は饒舌だった。
「最後にいいか?」
「いいとも。」
「この土地の太陽はいつまで存在する?」
「無限に、とは言えない。」
「いつかは無くなるんだな?」
「ああ。実験が終われば用済みになる。」
それはこの文明自体が、ある時期を過ぎれば用済みになることを示していた。
「なぜ、こんな実験をしている?」
声の主は静かに切り出した。
「知性とは何だと思う?」
「知性とは環境に作用されるのか? それを我々は知りたいのだ。」
ビュセスは問いに答えられずに黙考した。
気づくと、街の中心から離れた神殿で目を覚ました。自宅に帰ると三十日ほど経っていた。ビュセスは神隠しにあった。マーレからの着信が数十件に上っていた。彼はぼんやりとした頭でベッドに倒れ込んだ。そして深い眠りについた。
ドアを叩く音が聞こえた。外が昼か夜か分からなかった。ビュセスは扉を開けた。
「ビュセス、心配したぞ。一体なにがあったっていうんだ?」
声の主はマーレだった。死体のように虚ろな眼差しをビュセスは彼に向けた。ビュセスは唇を少し動かした。声が出ない。一呼吸置くと、彼はなんとか話せた。
「マーレ、ごめん。頭がくらくらして何も思い出せないんだ。」
「この一か月、何してたんだ? どこに行っていた?」
「分からない。神殿で気づいた後は自宅に帰っていた。酒も飲んでないっていうのに。」
ビュセスはマーレに覚えていることをすべて話した。太陽の下で薄いベールに似た物を見たことと何者かにさらわれたことだ。マーレは不審な顔をした。
「お前の話は疑わしいぞ、かなり。」
「分かっているさ、でも本当の事なんだ。」
ビュセスはおどけてみせた。マーレはそれをあっさり無視した。
ドアを叩く音がした。マーレが扉を開けると、一斉に赤い装束の女たちが部屋に入ってきた。赤い装束の女たちは、あたふたしているマーレをよそにビュセスを囲い込んだ。ビュセスは赤い布を頭から被せられて外に連れていかれた。
女たちの赤い傘が通りを染め上げていた。通りの人々はみな固まったようにその一団を見ている。シャンシャンという鈴の音がリズムを刻む。ビュセスは足元を見て、やっとのことで歩いた。この一団がどこへ向かっているのか皆目見当がつかない。彼らはどこかの地下へ向かっていた。
地下はろうそくの灯火でほんのりと明るい。金属の燭台に火の光が漏れてぬめりとした。足元にはふかふかした絨毯が敷いてあった。そこに座らせられて、頭の赤い布を取られた。
周りには女たちが、そして正面に男が座っていた。男は見覚えのある顔だった。それはプピルム教授だったのだ。
「教授…。どうして?」
「私はこの教団の大司教をしている。ビュセス君、君は神の使いだ。」
ビュセスには突然すぎて心の準備ができない。
「ぼくが神の使いだって? 」
「きみは神隠しにあった。それは神が我々にメッセージを届けるためだ。イリアナ・スノウもそうだった。」
イリアナにもこのような事をしたというのか。ビュセスは驚いて、
「メッセージ? そんなものは分からない。」
「よく思い出したまえ。」
ビュセスは必死にさらわれたときの事を思い出した。しばらくして朗々と神託を下した。
「いずれ太陽は沈みこの土地から消える、と。」
皆は驚愕した。
「なんということだ。そんなことがあり得るというのか?」
プピルムは嘆いた。
「一体、何年後に太陽はこの土地を離れる?」
「それは神の選択次第だ、と。」
赤い装束の一団は苦しみ悶えているようだった。余程、ビュセスの言った事が効いたと見える。一団はビュセスを解放した。
地下から出ると太陽の光を浴びた。とても清清しい。ビュセスは一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
ぼくはほかでもない。ビュセス・エフィンジャーだ。
3
ビュセスは地上に出ると表通りへと走り出した。日差しが眩しい。表通りは人ごみで溢れかえっている。その中に、あの赤い装束の女たちがいた。ビュセスは気づかれないように日向を走っていく。あの赤い連中から逃げなくてはいけないという意思が彼を突き動かしていた。ポケットから携帯電話を出した。
「マーレか?」
「ビュセス? いまどこにいる?」
「それが分からない。どこかの地下に連れていかれたんだ。今はそこから逃げ出したけれど…。」
「お前を連れ去った連中はな、有名な宗教団体だ。確か名前は…。」
「プピルム教授がいた。」
「何だって? 教授が? 教徒に学者も取り込んでいたとは驚きだ。」
「中央広場に向ってみるよ。」
「分かった。ビュセス。そこで落ち合おう。」
太陽は南中していた。ビュセスは中央広場に辿り着くと辺りを見渡した。あの赤い装束の連中がいないか確かめるためだ。幸い彼らはいなかった。十分ほど遅れてマーレがやってきた。
「ビュセス、あの赤い連中は?」
「なんとかまいたようだ。マーレ、あの連中は…宗教団体って言ったか?」
「そうだ。太陽を信仰する宗教団体なんだ。」
「通りで、あいつらに太陽はいずれ沈むって言ったら驚いていたよ。」
「それ何の話だ?」
「空にさらわれた時の話をやつらにしたんだ。」
マーレは再び不審な顔をして、
「やつらは動揺したのか?」
「そうだ。なんとか逃げられたよ。あんな危ない連中がいるんだったら、平和に暮らせないな。」
「おそらく今回は特別だろう。あいつらはそんなに過激な組織じゃなかった。」
「やけにやつらの肩をもつな。マーレ?」
「昔、取材したことがあるんだ。その頃は穏健な団体だったんだ。」
「でも赤い連中はぼくに神託を求めてきたよ。無理矢理に。」
「そうだな。変わってしまったんだ。きっと。」
マーレは残念そうに言った。ビュセスは傘を持っていなかった。
「ビュセス、傘は?」
「家に置いてきてしまったな。そこで買ってくるよ。」
ビュセスは露天商で傘を購入した。また影に追われているような感覚がした。ふと空を見る。ビュセスにはあの薄いベールが見えていた。
「マーレ、あれ…。」
「何だ? 何も見えないぞ。」
「何だって? あれが見えないのか?」
マーレには薄いベールが見えていなかった。するとマーレが、
「お前は空に何か見えているのか? 」
空には浮遊する物体が確かにあった。
「…あれがぼくをさらったんだ。」
ビュセスは後退りした。すると声がした。
「ビュセス君。実験は終わりに近づいている。いや、何もこれからすぐにという訳ではないさ。我々がこうして君達にコンタクトを求めてきているのは分かるだろう? それは実験の終了を君たちに伝えるためだ。」
ビュセスは声の主へ向かって思いを伝えた。
「ぼくやイリアナに伝えてどうなる? ぼくもイリアナもこの土地の権力者ではないし、何もできやしない。ぼくらはただ太陽の下にいただけだ。」
ビュセスが喋り出したのにマーレは驚いて、
「ビュセス、誰に喋っている?」
声の主は続けた。
「古代の人々は我々とコンタクトするのが容易だった。太陽の下にいることができたからだ。しかしそれを君たちの文明は制度化し、ごく一部の者にしか我々の意思を伝えなくなった。太陽を信仰する者たちがそうだ。彼らに太陽の恩恵は享受された。太陽の下に出ないことによって人々は今、病に苦しんでいる。それは、この土地の慣習が生みだした病だ。それをよく知っているのは君だろう?」
日影病のことだ、とビュセスは思った。
「日影病は太陽の下に出たからといって治るわけでもない。光を閉ざすのは君たちの勝手だが、コンタクトをとるのが目的なら、使節をここによこせばいいじゃないか。」
「我々に恒星間航行をするだけの技術はない。」
「ここに来ることができないのか?」
「我々にできるのは異星文明とコンタクト可能な実験機をそこに飛ばす事だけだ。」
声の主は己の無力を語った。ビュセスは声の主の文明が今どうなっているか考えた。
「今、きみたちの文明はどうなっている?」
「わからない。スクリーンに映っているのは故郷の風景だ。」
ビュセスは空を見上げた。これが彼らの土地の風景だというのか。我々の土地とは違って光に溢れている。
「三百年の猶予を与える。」
「何だって?」
「時が来たら、実験は終わる。」
静かに声の主は言った。ビュセスは信じられないと思った。
「なぁ、マーレ。」
「どうした?」
「太陽が三百年後には消失するって。」
いつの間にか、赤い装束の女たちがビュセスとマーレを取り囲んでいた。プピルム大司教が姿をあらわすと彼女達はその場で座り込んだ。
「ビュセス君、神はなんと語ったのか?」
「ぼくが聞いたのは、この太陽が三百年後に消失することだけです。」
ビュセスはおずおずと答えた。
「何ということだ。この太陽の恵みもこのままでは無くなってしまう。」
「それに彼らは神じゃない。彼らは機械仕掛けの物でしかなかった。」
「ふむ、神がそのようなものだったとは…。」
プピルム大司教は思案した。
「我々は祈りを最後まで捧げなければならない。ビュセス君、きみには神の声を聴くために協力してもらうぞ。」
「嫌です。ぼくはそれまでの間、患者を診るのに専念します。教授、それでは。」
「待て。ビュセス君。神とのコンタクトができるのは君だけだ。」
「私は取るに足らない精神科医だ。コンタクトするには太陽の下にそのまま出ていけばいい。」
ビュセスはそう言い放つと、プピルムは覚悟したかのように太陽の下に出た。
「何も聴こえない。私には神の言葉を聴けないとでもいうのか?」
プピルムは絶望した。ビュセスとマーレはその場から離れることにした。
「いいのか? 教授は?」
「教授ならきっと大丈夫さ。それより太陽が無くなることの方が問題だ。マーレ、頼みがある。これを記事にしてくれないか?」
「構わないが、裏がとれるのか?」
「これはぼくたちの生きている土地の構造的な問題でもある。あの太陽が張りぼてだったのだから。その張りぼてが無くなればこの土地は闇に帰すだろう。この土地も周りの土地と同じようになるんだ。このことを多くの人が知らないわけにはいかない。」
「分かったよ。可能なかぎり、やってみる。」
太陽消失の記事は新聞で大きく報じられた。記事では人口問題、農地問題などが言及された。それを聞いた人々のショックは大きかった。
政府はこのニュースを事実無根だと主張した。確かにニュースが報じたのは浮遊する物体の意思なのだから、その主張は妥当であった。しかしプピルムを大司教とする、宗教団体はこのニュースに賛同した。これによって人々の意見は二分された。
太陽が昇っている、昼は平和だった。しかし夜が訪れると祭りのような賑やかさは狂乱に変わっていった。あちこちで火炎瓶が投げつけられ、強盗の被害が出た。太陽消失を信じる人々は列を作って、声高に叫んだ。それは悲鳴のようだった。誰もが冷静さを失って、暴れまわった。
朝、日が昇る頃になると人々は酔いが覚めたかのように、いつもの日常に帰っていった。太陽が人々の理性をコントロールしているようだった。それは悪夢のような毎日だった。店は次々と閉まり、郊外へ移転していった。露天商もどこかへ行ってしまった。太陽の下に出て寝転がって過ごす者もいた。慣習は崩れて日向に出て行方不明になったものも大勢いる。人々は三百年後の終末に怯えているようだった。太陽消失のニュースが流れて、たった十日で街はすっかり荒廃してしまった。
太陽消失のニュースから二週間が過ぎた。イリアナ・スノウは外に出て影踏みをしていた。昼の間じゅう、大人は地下に籠っている。外で遊んでいるのは無邪気な子どもだけだ。そこへカトイ・ルービックがやってきた。カトイは夜に出歩くのはやめておいた。自分も皆と同様に狂ってしまうのではないかと思えたからだ。カトイはイリアナに声をかけた。
「君は大人とは違うんだね?」
イリアナは気恥ずかしくなって黙り込んだ。
「影踏みは楽しい?」
「うん。でもここは誰もいないからあんまり楽しくないな。」
「ぼくも遊んでいいかな?」
「太陽が無くなったら影も無くなっちゃうね。こうして影踏みもできないね。」
「ずっと先の事だもの、知らないわ。」
「夜は怖くないのかい?」
「怖いけれど、元通りになるよ。きっとね。」
「街の人たちはどうしてあんなに怖がるのかな?」
「きっと、空にいる人たちが自分たちを見守ってくれなくなるから。」
「一体誰が、空にいるんだい?」
「見えないの? あの空にいる人たちが。ずっと空に浮かんでるの。」
「ぼくには見えないよ。あそこは眩しいから。」
「そう。」
「おっと、病院の時間に遅れてしまう。」
「お兄さん、病気なの?」
「そうだよ。だからごめんね。これ以上は遊べないや。」
「そう、また遊べる?」
「じゃあ約束だ。」
カトイはイリアナと約束すると、少し急いでその場から去った。
彼女は空にいる誰かに向って叫んだ。
「どうして? どうしていっちゃうの。行かないで。お願いだから。」
空にある浮遊する物体は自らの内に小型の宇宙船を建造していた。その小型の宇宙船は三百年かけて故郷に帰るのだ。これまでの実験データをそこに格納して、空にある物体は役目を終える。
小型の宇宙船が打ち上げられたのは、まだ暗い、夜のうちにだった。スクリーンには何も映っていなかった。数時間もすれば、太陽がそこに昇る映像を流しているだろう。
ビュセスの診療所にマーレがやってきた。
「ビュセス、教えてくれ。あれで本当に良かったんだよな?」
「ああ。ぼくたちは真実を公表したんだ。太陽はスクリーンに映し出された幻だ。彼らの都合で三百年後には消失する。」
「どうして、お前なんかにそれを伝えてよこしたんだ?」
「それは分からない。だけど彼らがただの一般人とコンタクトを取りたがっていたように感じたよ。」
「それは何故だ?」
「支配階級とは馬が合わなかったんだよ、きっと。ぼくたちにはやらないといけないことが山ほどある。これから太陽が無くなるんだ。新たな病も増えるかもしれない。マーレ、きみは次に何を追うんだい?」
「おれは記者を辞めることにするよ。罪悪感は感じてるんだ、今回の件で。あの記事のせいで街はめちゃくちゃになってしまった。」
「マーレ、それはきみのせいじゃない。」
「ビュセス、おれは責任を取りたいんだ。」
マーレは苦しげに答えた。彼はよたよたとその場を後にした。ビュセスは人さらいと対話して何かが変わってしまったとマーレには思えてならなかった。彼の態度は楽観的すぎるだろう。マーレが外に出て、すぐに彼から電話があった。
「ビュセス、大変だ。空を見ろ。」
ビュセスは診療所の窓から、何かが浮いているのを見た。それは浮遊する物体だった。しかし、ビュセスが見たときよりはっきりとそれは見えた。ビュセスはあまり驚かなかった。
「何だっていうんだ? ぼくが見たものと同じだ。」
「あれをお前は見ていたっていうのか?」
ビュセスは、もうあれとはコンタクトが取れないのを悟った。
影で街は覆われた。あれは大きな構造物だった。昼、外に出ていた人々は呆然と立ち尽くしている。何か言おうとしても何も言えなかった。そのうち一人が叫んだ。
「これは罰だ。」
皆が疑問に思った。罰とは何だろう。冷静さを失った事だろうか。皆が考え込んでいると赤い装束の女たちがどこからか出てきた。女たちはそこで礼拝した。神を礼拝するかのように女たちはその構造物を見ていた。
カトイ・ルービックは遠い場所からその様子を見ていた。彼はこの土地の先住民族がここをなんと呼んでいたかを思い出した。そう、屋根のある土地と。
マーレが叫んでいる。遠くて聞き取れない。ビュセスは窓からそれを眺めていた。影によって光が途絶えたとき、そこらじゅうで人々は失踪した人たちを発見した。その多くが衰弱して、倒れ込んでいた。
「医者だ。医者を呼べ。」
それは異様な光景だった。ビュセスはそこに駆け付けた。
「大丈夫ですか? しっかりしてください。救急車をいま呼んだから。」
そこらじゅうでサイレンの音がしている。しばらくすれば救急隊が来るだろう。そこにイリアナ・スノウが来た。
「お医者さん?」
「君は、どうしてここに?」
「もう空から声が聞こえないの。お医者さんなら分かってくれると思って。」
「あれは、もうぼくにも聞こえないよ。そんな気がするんだ。」
「行かないでって言ったのに。」
イリアナは目に涙を浮かべて、そう言った。
「泣かないで。ここにいる人を介抱して。」
「わかった。」
彼女は素直に答えた。
太陽が沈むまでその作業は続いた。幸い死者は出なかった。マーレは先ほど記者を辞めると言っていたのにも関わらず、記事の草稿をそこで書いていた。ただ彼には空に浮かぶ構造物が何なのかは分からなかった。この事態がどういったものなのか、想定できなかったのである。
政府の調査が空に浮かぶ構造物に及んだのはそれからしばらく経ってからだった。彼らは街に巨大な足場を建てた。彼らが入り込むと、なかは動力炉を除いて空っぽだった。政府は見たままを公表した。そのときのニュースも、何も本質的なことを語ることができなかった。
マーレはビュセスに真相を聞いてみた。
「あれは一体何なんだ? ビュセス。」
「ぼくが聞いたところによると、あれは巨大な実験施設だった。プピルム教授によれば彼らは四百年前にここへ来た異星文明なのだろう。彼らはそのときからスクリーンに太陽を映し出した。」
「太陽がスクリーンに映っているのはどうしてだ?」
「彼らは実験だと言ったよ。それにこの土地の生物に光をあてたときの反応を見たいって彼らは言ってた。」
マーレは黙ってビュセスの話を聴いていた。
「マーレ、ぼくは次の診察があるから。」
「ありがとう。ビュセス。」
彼はビュセスと固く握手を交わした。彼はこんな大それた話を空想ではなく、事実として公表するのに難しさを感じていた。
マーレが外に出ると辺りは暗くなっていた。夜になっても影は街から消えなった。マーレは影の中を歩く。影の中はとても広く、落ち着いた気分になった。
その日、街は静まり返っていた。浮遊する物体がそうさせるのか、人々は穏やかだった。騒ぎ立てることもなかった。
カトイ・ルービックはビュセスの診療所に行くため夜の街を歩き出した。石畳には小動物が這いずっている。カトイは少し遠回りをすることにした。夜空の光を浴びるためには浮遊する物体は邪魔だった。この気持ちはきっと病気のせいではない。街ですれちがう人々は誰も彼もぼんやりとしていた。こんな夜は久しぶりだった。なんの音もしない。騒ぎもなかった。遠くを見ると、星空の明かりが少しだけ見えた。
時間はたっぷりとあった。カトイは星空の下に立つ。屋根のない場所は自由だと感じられた。ゆっくりとそこに座り込むと深呼吸をした。
しばらくするとそこへ、イリアナ・スノウが来た。
「君は…。」
「こんばんは。」
「また会ったね。」
「お兄さんも影から逃れてきたの?」
「ぼくは星空が見たくて、ここにきたんだ。」
「そう。」
「影踏み、できなくなっちゃったね。」
「影踏みは、いいの。あの影がみんなに見えるようになったから。」
「影が?」
「うん。私だけじゃないって思えたから。」
少女は星明かりの下で微笑んだ。