ネムリカミ

小林ひろき

かつて火の時代があった。

神と呼ばれる超能力者たちの戦争で、世界は焼き尽くされ、滅びた。灰が地上を覆いつくし、陽は翳り、動物たちは死に絶えた。火は長い間、燃え続き、人々の心は凍てついた。その最中、最初のヒトが生まれた。

暗い夜の出来事だった。

雨がしとしとと降っている。男女が駆けていく。

女は臨月を迎えていた。

「もうだめ……」

「行くんだ、ほら」

「だって、もう……」

「ここでは、神に見つかる。別の場所でないと駄目だ」

神の目は絶対だ。神々は人を監視している。

「うっ……」

女が膝をつく。

そして最初のヒトが産まれた。

そのヒトは産声をあげる。そのヒトはふつうの赤子より一回り大きかった。

「ひっ……」

父になった男は怯えた。

そのヒトには大きな角が生えていた。

雷鳴。神が来た証だ。

「お許しください、神様。私達は――」

男は灰になって消えた。

「この子だけはお願いです。後生だから……」

女も灰になって消えた。

そして、そのヒトだけが残された。

ヒトの黒い瞳が神を捉えた。

神はその赤子を殺すだろう。

「あぶぶ」

そのヒトは何かを口にした。言葉のようなもの。

神はそれを無視した。

そして赤子を灰にする、はずだった――。

「ぐっ」

神の頬から血が垂れた。数百年ぶりに見る自身の血、そして痛み。神はその赤子によって裂かれたのだ。赤子は無邪気に神を殺した。

時を同じくして、七の場所で産まれた赤子達は異形の姿をしていた。彼らは自然が生み出した反抗者カウンターだった。神は次々と敗れた。

人間達はヒトに知恵を授ける教師になった。やがて人間は滅び、ヒトの時代、反抗暦C・Cが始まった。

メフィアはナタを振り下ろす。

里はこれから晩御飯の支度というところだ。

狩りに行った男達が帰ってくる。あれはメフィアの父。そして恋人。

このまぶしい光景をメフィアはよく覚えている。美しい彼らをメフィアはじっと声もかけずに見守っていた。

「おかえりなさい」

と母と姉達が言う。姉達の赤い髪をそっと撫でる父。フルドは父より一回り小さいが屈強な村の男だ。

メフィアは愛する男を見ると胸が苦しくなった。

「メフィア」

声がする。

どうしてかその声は懐かしくメフィアの心に響いてくるのであった。

メフィアは毎晩、繰り返しこの夢を見る。その夢はいつも甘い感傷を残していく。目覚めれば父やフルドの姿はなく、絶望的な一日が巡ってくる。父もフルドももうこの世にはいないのだ。

「メフィア、起きたのかい」

お婆がメフィアに声をかける。

「お婆、もう昼だね。ごめん。こんな時間まで眠っていて」

「メフィア、お前の気持ちも分かるが、もう一年になるんだ。心の整理をつけなくちゃ」

「分かってる。でも」

物憂げな態度をとるメフィア。

「薬草をとってきてちょうだい。メフィア」

メフィアは森を走り回るのが好きだ。こうしているとすべてを忘れられる。背中のエラで空気を吸い込む。新鮮な空気が体を満たしていく。自分が生き返ったような気がする。

かさかさと樹冠が揺れた。

「誰?」

メフィアは警戒する。鳥の大きな鳴き声。大鷹だ。

「大鷹が何でこんなところに?」

疑問はすぐさま消し飛んだ。

大鷹の趾がカッと開き、メフィアを捕えようとする。

メフィアはしなやかにそれを躱す。メフィアは手元にあった小さな石を投げる。しかし大鷹には届かない。

「ちぇっ」

メフィアは大鷹から逃げるため走り出した。

しかし大鷹の方が速度に勝るのですぐに追いつかれてしまう。メフィアは自分の足を信じた。

「足の速さなら、里でも一、二を争うんだい。逃げ切ってみせる」

メフィアは足に力を込めた。メフィアは走り出す。しばらく走ると木の根が足に引っかかった。転倒するメフィア。上空では大鷹がメフィアに狙いを定めている。

メフィアは思う。終わりだ。

馬の荒々しい足音が遠くから聞こえた。

そして矢のようなものが飛んできた。その矢が大鷹の目を貫く。大鷹は悲鳴を上げる。別のなにか金属の玉のようなものが大鷹に向かって投げられた。

それが大鷹に当たると爆発した。大鷹はどこかへ行った。

馬の足音は一頭どころではなかった。数十頭の馬がそこにやってきた。

「囲まれた……」

メフィアは警戒する。振り向くと、その男はいた。

「危ないところだったな」

メフィアより、一回り背の高いその男の額には大きな角が生えていた。

「お前はなんだ? 鬼か」

とメフィアは騒いだ。

「助けてもらって鬼とは失礼だな」

「う……」

そう言われては何も言えない。

「トト!」

別の男がそこに現れた。

「この女を館に連れていくぞ」

「え?」

メフィアは目を丸くする。

「客人として迎える」

「はい、ラーゼ様」

ラーゼと呼ばれたその男の馬に乗り、メフィアは彼らの館へと向かった。

森が消え、砂地を超え、見たことのない世界が広がる。メフィアにはすべてが新しかった。これはきっと父やフルドの知っていた世界なのだとメフィアは思う。

「お前、名は?」

「メフィアだ」

「俺はラーゼ。ここから少し遠い土地から来た。お前は見たことのない格好だが……」

「ケルルク族。あの森の近くで生活している。言っておくが温厚な種族だ」

「温厚ねえ……」

「うるさいな。私だってケルルクの娘だ」

「まぁいい。これからエフォニアの土地へ来てもらう。メフィア、お前を客として、もてなそう」

「変わってるな、お前」

「ラーゼだ」

「……ラーゼ。ちぇ」

しばらくの間、走っていると石柱が建てられた門のようなものが姿を現した。ラーゼによればそれがエフォニアの土地の印だという。

ラーゼ達はその石柱を特に気にせず、馬で駆けていく。

丘が見え、それを越えると、集落の一部が見えてくる。ラーゼ達は馬から降りた。集落の女達がそこに集まってくる。

「お前達、この娘の傷を癒しておやり」

「畏まりました」

年老いた女達がメフィアを取り囲んだ。

「ちょっと待て。ラーゼ。これはいったいどういうこと……?」

メフィアは女たちに連れていかれた。

「あんた達、私に何する気だい?」

「傷を癒すのさ。痛みがあるだろう」

メフィアは腕の疼きに気が付いた。どうしてか今まで気が付いていなかった。

「……いったいっ」

「そうだろう、薬草をペースト状にしたものを塗るよ。痛みが軽くなるはずさ」

肌に清涼感と冷たさが残る。

その間にメフィアは裸にされて、衣服を交換された。薬草になにか意識をボーっとさせるものが入っているようだ。その間、メフィアは抵抗できなかった。

気づけば香が焚かれた部屋で横になっていた。

ラーゼは自室で煙草を吸って待っていた。しばらくラーゼは物思いに耽っていた。

過去の出来事を思い返していた。それは幼いころ、語り部たちが話した伝説のことだった。

「昼は枯れ、夜は凍った」

語り部たちは言った。

「全ての命が失われたわけではなかった。逃れた人々は神を封じる手立てを考えた。それがあの塚だ」

幼いラーゼはその話を黙って聞いていた。

「いいかい、ラーゼ。この塚の封印を解いてはならぬ。このさきずっとだよ」

煙草の灰が落ちた。記憶は途切れて、ラーゼの視点は現在を見ている。

「――分かっているさ」

ラーゼは呟いた。

「準備が整いました」

と扉の奥から女の声がした。

「入れ」

すると扉の奥からメフィアが花嫁のすがたをして現れた。

ラーゼは面食らった。

「な、な……」

ラーゼは扉の奥に控えていた女に言った。

「おい、お前達。なにか勘違いしているな。この者は私の客人だよ。花嫁などではない!」

「左様でございますか。それは失礼しました。てっきり、そうした仲なのか、と」

「邪推してもらっては困る……」

ラーゼはメフィアの目を見る。心ここにあらず、という感じだ。

「困った奴らだ。薬まで飲ませたのか。仕方ない」

そうしてラーゼはメフィアを抱きかかえた。そしてそっと寝台に寝かせる。

メフィアは夢を見ている。男の形をした何かがメフィアに呼びかける。

「メフィア……メフィア……」

彼女はすくっと立ち上がった。

メフィアは思う。なんだろう。この感じは。体が勝手に動いていく。

彼女は館を出て、館の裏へと向かう。

そこは石が積まれた塚だ。塚には封がされている。

「メフィア……これを解き放つのだ」

呼びかけてくる声は言った。

メフィアはその細い指で封をなぞる。たちまち封は解かれた。

彼女は塚のなかへ入る。

ラーゼは目覚めた。何か胸騒ぎがする。

「おい、メフィア!」

メフィアはどこにもいなかった。

ラーゼは明かりを灯した。

「おい、トト。いるか?」

「はい、ラーゼ様。何用ですか」

「メフィアが、客人が消えた。探すのだ」

「畏まりました」

「いったいどこへ」

ラーゼは考えていた。そして最悪の想像を巡らせている自分に気がついた。

――神の眠る塚。

「確かめてみる価値はあるか」

塚のなかは暗かった。

メフィアはそこに男の体が眠っているのを理解した。メフィアはなぜかその男を知っているような気がした。フルドだ。メフィアは男にそっと近づき、口づけた。

その途端、男の体は生気を漲らせていく。

「ゴゴオゴ……」

男は何かを呟いた。

「わたしはなにを……」

メフィアは戸惑い、彼女はあるヴィジョンを見た。

人間の焼ける臭いがしている。

人間達が銃や戦車を使って争っている。そこに爆弾が落ちて、すべてを焼き尽くしていく。

彼はそのなかに立ち尽くしている。彼は兵士だった。

その時、彼はすべてを終わらせたいと切実に願った。その時、彼は彼を自己改変した。彼はその能力を使って、その場にいたすべての人間を灰にした。

その光景をまじまじとメフィアは見た。

「ちがう……ちがう……私は、フルドを取り戻したかっただけだ。でも何で……。この男はフルドじゃない」

メフィアは思う。偽物だ、こんなものは偽物だ。

「わたしはあなたを受け入れられない……」

「……ゴオグゴ」

塚のなかからメフィアは出て行った。彼女は泣いていた。

塚の外に出るとラーゼがそこにいた。

「お前、そこでなにをしている」

「うるさい。わたしはフルドを……」

「誰だ、それは。いやそんなことはどうでもいい。トト、いるか?」

ラーゼは叫んだ。

「神殺しの剣を用意せよ。封が解かれた。そしてこの女を捕えておけ。こいつは巫女だ」

巫女メッセンジャーですか」

とトトが言った。

「そうだ。これよりネムリカミを殺す。兵を呼べ」

ラーゼは館に戻ると戦支度を整え、出てきた。武装は簡素なもので、肌があらわになっている。トトと男達も塚に集まってきた。

「では、行ってくる。もしもの時は頼むぞ」

「はい」

ラーゼは剣を持って、塚に入った。

塚のなかに明かりを灯していくラーゼは緊張して、塚の奥に進む。

死者用の台に男は眠っていた。

「ネムリカミ、おまえには死んでもらう」

一瞬の出来事だった。

ラーゼは鋭利な刃物を男の胸に突き刺した。

「終わりだ」

「ゴッゴッ」

男は不気味な笑みを浮かべた。

男の胸に突き刺さった剣が灰になる。

「――なっ」

ラーゼは目を丸くする。

男が起き上がるとラーゼを突き飛ばした。ラーゼは片手剣を引き抜く。そして猛然と男に向かっていく。

片手剣が男の手に刺さる。しかし、男は気にも留めていない。

「こいつ!」

ラーゼは唸ると、じっくりともう一本の片手剣を手に握り男に襲いかかった。

メフィアは捕らえられ、館の奥にいた。外は明け方の少し前、青い世界が広がっている。

「どうしてあんなことを、私は……」

メフィアは心の整理がついていない。

「私はただ、ただ、フルドのいた時間が帰ってきて欲しくて、――だから、心の隙を狙われる。私はもうよくわからない。――そう言っていれば楽だ。もう、私は彼のことを忘れなくちゃいけない」

メフィアは自身のなかの暗闇の向こうへと歩き出した。

「フルド、あなたをもう利用させはしない」

メフィアは館にあった槍を手に持ち、外へ出て行く。

暁天のもと、メフィアは塚の前に現れた。塚から、手負いのラーゼが出てきた。

「く……メフィア、さては俺を殺しに来たか」

メフィアは泰然自若として答えた。

「違う。私もあいつを殺しに来た。私はあいつに利用されていた」

「まぁ、何でもいいさ。俺はもうじき死ぬだろう。この地も神の手に落ちる」

塚の奥から、狼のような唸り声が聞こえてくる。

男が塚から出てきた。男は空に向かって吠えた。それは獣を連想させた。

目にも留まらぬ速さで男はメフィアに近づいた。メフィアは男に押し倒され腰布を剥ぎ取られる。

メフィアは悲鳴も上げずに抵抗した。

ラーゼが剣を男の最中に刺すも、剣は灰になって消えてしまう。万事休す。

メフィアは男の腕に噛みついた。だが、無駄だった。

「助けて……お婆…………」

メフィアはある記憶を呼び覚ます。ケルルク族に伝わる昔話だ。

――いいかい。神が出てきたら、外に逃げるんだよ。外は神の領域じゃないから。

その言葉を思い出したメフィアはすっと力を抜いた。

「神さま、ここはあなたの土地ではない。早く立ち去りなさい」

メフィアは自分でもびっくりするほど冷静な声で相手を諭した。

男は止まらない。

朝日が男を照らす。

「――もうお終い」

男は突然、苦しみだした。そして血を吐いた。

「……グォバァホァ……」

「憐れな神よ。もうこの土地はあなたの住んでいた頃と違うのです。空気の精たちがこの地を満たしている。これがあなたには毒として作用する。わかりますか」

男は天を仰ぎ、絶命した。

男の遺体は土葬した。

ネムリカミはこれでもう目覚めることはなくなった。

すべてが終わるとラーゼとメフィアは館で治療を受けた。

「あの塚はどうなる」

とメフィアは尋ねた。

「壊す。もう必要がないから」

ラーゼは答えた。

「もうあいつのような神はいないんだな」

「ああ」

メフィアはそこで眠りについた。

「メフィア、メフィア」

彼女を揺り起こす声がした。懐かしい声だ。

「父さん?」

「メフィア、私達はもう行くよ。お前は強い子だからね」

「もう思い出さない。きっと、きっと」

「フルドが呼んでいる」

「さよなら」

「ああ、さよなら」

メフィアは目覚めた。夢を見ていたようだが、何も覚えていない。

朝だった。

ラーゼは奥で座ったまま眠っている。

メフィアは思う。この気持ちをなんというのだろう。安らぎ。長いこと忘れていた。

メフィアは立ち上がると朝の庭へと消えていった。