SFの小箱(1)テラフォーミング

小林ひろき

土の下には石灰石が埋まっていた。それもたくさん。

ぼくたちのいる星で、このことは幸運だった。

カフェインと砂糖を混ぜ合わせた飴を舐めながら、ぼくは二酸化炭素を吸収し、酸素を排出する藻類を蒔く。

むかしと比べ物にならないくらいに暖かいとはいえ、体がぶるぶると震える。

白い作業着はいつの間にか、赤い土と藻類とで、芸術的な配色になっていた。

いまがいつかは正確なところはわからない。地球から離れて五年は経過している。けれども、ぼくたち五十五人の科学者は誰も彼も若い顔つきをしているので、どういうわけか時間を感じさせない。最高齢のチャールズは還暦であるけれども。

むかし、火星開拓団が結成された。どれほど昔かというとぼくのお爺さんが生きていた頃の話だ。

無人惑星探査が一段落した後、アメリカのベンチャーや大手企業が、盛んに有人惑星探査を推進した。ぼくの父の世代で、火星着陸は成功した。合衆国は宇宙に金をどんどんつぎ込んだ。


テラフォーミング。


夢のまた夢と言われていた惑星の地球化ミッションが実際に行われ始めた。

すでに火星の上空にレンズを配置し、火星を暖め続ける装置があったとはいえ、極冠の氷が融け始めるにはまだまだ時間がかかった。

ぼくたちは火星の温室効果ガスを撒きながら、藻類を蒔く、実に愉快ではあるが、地味なミッションを続けている。

この星に都市が生まれ、人類の第二の故郷とされるのは未来の話である。

谷のあいだを白い帯状の柱が貫いている。柱の下には基地が見える。ぼくらの仮住まいである。同僚のリュウから連絡が入る。


「ロビン、おかえり」


「ただいま、きょうもミッションは終わりだ」


何気ない会話には違いがなかった。けれどもリュウの様子がおかしい。


「なぁロビン、基地がグループ4に占拠された」


ぼくは戸惑いつつ、リュウから情報を聞き出した。

ひとつ、グループ4は基地内の緊急武装セットを取り出した。

ふたつ、換気システムが掌握された。

みっつ、グループ4の首謀者はミカエルだということ。

ミカエルは優秀な科学者である。尊敬する科学者のひとりだ。なのにどうして? 



基地のなかでミカエル・エマーソンが紙巻の煙草をふかす。ミカエルは鼻をすすった。

ミカエルの記憶は遠い過去へと続いている。

それは例えば妹の事故だとか。

深い愛情を向けていた妹の影をいつもミカエルはどこかに感じていた。

影は幻覚だった。ミカエルは単調な基地の仕事が耐えきれずに麻薬に手を出していた。もちろん、麻薬など大量に持ってくることなどできない。ミカエルの手持ちはすぐに無くなった。


火星基地がミカエルによって占拠されて三時間が経過しようとしていた。

ぼくは少々手荒い方法で基地の内部に入り込んだ。

基地の設備を傷つければ、今後のミッションに差し障りがある。リュウの話ではミカエルたちが占拠したのは中央ターミナル。物資が入ってきたり、送りだしたりする、基地の重要な拠点である。 


ぼくは中央ターミナルへは向かわずに、まず、換気システムの奪還を試みた。

手元には車の中にあった温室効果ガスがある。

換気システムのある、基地の建屋に忍び込む。ミカエルの部下の後ろに掴みかかり、温室効果ガスを吸わせる。相手はすぐに意識を失い倒れこんだ。

ぼくはすぐさま換気システムの向きを変更する。石灰石を燃やす炉の風向きを中央ターミナルに集中させる。


ミカエルの仲間たちが咳をし始める。ミカエルだけが状況を理解していた。


「ちくしょう」


ミカエルは銃を持って、人質に銃を向けた。そして放送をする。


「誰だか知らないが、換気システムを元に戻せ」


その声をぼくは聞いていた。聞いていないふりをするのも面倒だったので、無線で答えることにした。

「ミカエル・エマーソン、基地から出ていけ。お前を追放する」

「その声はロビン・フィッシャーか。藻類蒔きごときが何ができるっていうんだ?」

「何もできないかもな」

そう言って、ぼくは管制塔によじ登る。

管制塔には火星のレンズシステムの微調整コンソールがあるはずなのだ。

うんうんと唸って、ぼくは火星の赤茶けた大地を見ている。どこまでもその悲劇的な大地は続いている。ぼくたちは絶対的な孤独に苛まれている。だから協力し合わなければ生きていけない。そのことを十分に理解していたはずなのに、ぼくたちはこんな無様な争いを続けている。ほんとうに。


「馬鹿げている」


ぼくはひとりで呟くと、管制塔のコンソールを操作した。本来、火星を暖めている巨大なレンズの角度をずらす。

ぼくの予想では、レンズの角度を変えてから一時間もしないうちに火星の気温は氷点下を迎える。

普段、半袖で生活している仲間たちには酷だが、勘弁してほしい。

おそらく基地の外で活動している研究者以外はこの環境では長くは持たないだろう。

ぼくは四五分でケリをつける気でいる。


幸せな夢を見ていた。

ブランコに揺られながら、ミカエルはドロシーと一緒にボーイフレンドの話をする。

世界にはふたりしかいない。こんなにも幸せで、満ち足りた日々。

ミカエルはこんなにせつなくて青い空を見たことがなかった。

そういえばあの朝も空は青かった。

妹の葬儀の日の朝、喪服に腕を通して、出かける日の空。

基地の外で日が沈んだのかと思うほど、辺りは暗くなった。冷気が満ちてくる。


「何が起こっている?」


「わからない。気温がこんなに下がるなんて、レンズをずらすしか方法はないはずだ」


「管制塔か!」


「おそらくは……」


暗くなった中央ターミナルに車両が突っ込んできた。車両は銃を持った科学者につぎつぎとぶつかる。悲鳴が辺りに響く。お構いなしにミカエルへと向かっていく車両。


「ロォオビィィン……!」


ミカエルは車両にしがみついた。ミカエルは銃で車の窓を突き破る。


「ミカエル、お前の死に場所は用意してやる」


ミカエルがしがみついた車は外に出ていった。

数キロメートルほど走る。ミカエルはその場で冷たくなっていた。



ぼくが帰ると、ぼくはこっぴどく叱られた。管制塔のレンズシステムを弄ったことや、ぼくの財産ではないものを無理なことに使ったこと。また基地を取り戻すためにした、あれやこれやが裏目に出る結果となった。

ぼくは罰として無給で、藻類蒔きをすることになった。




「火星の夕焼けは青いんです」

ニュースキャスターがにっこりと笑って言う。

確かにそうだ。夕焼けというドラマチックな場面に立ち会えればだが。 

なにぶん、火星は二四時間、レンズシステムによって暖めなければならない。だから一日中、第二の陽の光によって白夜であることを知らなければならない。

それもしばらくは。

ぼくたちは火星に特別な希望を描いているわけではない。ただ、世界の外へ行きたくて。たったそれだけの理由だ。

そして飽きもせず、来年には緑の庭園になる赤茶けた土地を見ている。

それもどうなるかは分からないが。

ただ信じている。

劇的ではないかもしれない。けれども確実に希望をつないでいく。




「ハロー、ロビンおじさん」


「なんだい? キャシー」


「わたし、おっきくなったら火星に行きたいの」


「おお、キャシー。それは無理な相談だな。こんな世界に君を連れて行くなんて、ぼくの心が持たないよ」


「どうして?」


「ここは希望の土地ではないのさ」




ロビンおじさんは火星のことをあんなふうに話したけれど、わたしの進路はもう決まっているの。

月まではお父さんが連れて行ってくれたから、火星だって、遠くないわ。

わたしだってもう大人。これからたくさん勉強して、ロビンおじさんに胸を張って逢いに行く。これは決定事項なんだから。

「火星の夕焼けのライブビューです」

ニュースキャスターが微笑むと、わたしは早速、物理の宿題を始める。

ロビンおじさんはわたしのヒーローでもあるってみんな知らない? 知っているよね。

火星の基地をひとりで救った英雄だもの。

そしてわたしはその英雄の姪。なにかがきっとできるはずだ。




火星、二四〇〇年中期。

テラフォーミングの成功例として突出した成果はないものの、太陽系圏の人類の進出は決定的だった。火星よりも住みやすく、地球に似た星の発見により、わざわざ火星での実験や研究をする科学者は少なくなった。

火星はかつて死んだ星とされてきたが、テラフォーミング計画の推進で海を作り出すことには成功している。火星に多くの有名大学の分校が建ったのも記憶に新しい。

火星の人口は地球に比べてやや少ない。自殺者が多い傾向にある。火星独特の孤独感はミカエル・シンドロームと呼ばれている。




ロビン、と誰かに呼ばれた気がした。

後ろを振り返れば、だれもいない。もうそろそろお迎えが来たかと思われたとき、幻覚でミカエルを見た。あの車のボンネットのうえで冷たくなって死んだ男の顔だった。それはとても満足が行ったかのような顔だ。


「ミカエル博士、理論的研究はいいのですか?」


「ああ、妹が待っているからな。研究はもうじき完成するし、クリスマスまでには帰る予定だ」


「クリスマス。ずいぶん懐かしい響きですね」


「よいお年を。ロビン博士」


「よいお年を」


彼の妹がどんなに幸せかは、ぼくにはわからない。ぼくは研究室の窓から緑の火星を見ている。ぼくの仕事がどうやら、完成したらしい。火星に光合成のサイクルが生まれたのだ。


ぼくの世界はここまで来れた。君はどこまで来れるか楽しみだよ。キャシー。(了)