SFの小箱(10)バイオハザード

小林ひろき

白く溶けていきそうな街角。じっとりとした暑さから逃げ込む。ふと開いた扉からクーラーの冷風を感じて、ふらりと神保町の喫茶店に立ち寄った。なかから男が飛び出してきて、咄嗟に避ける。何だったんだろうと思いつつ、アイスコーヒーのケーキセットを注文し、汗を拭う。夏だった。

受験を控えていた。模試はB判定でまずまずといったところ。疲れた頭にケーキの甘さは効く。

アイスコーヒーをごくごくと飲み干す。冷たい液体が喉を通過していく。冷風が肌に張り付くような感覚が心地良い。

喫茶店のなかには客が数人いた。誰も彼もがこの都会のオアシスに逃れてきた放浪者なのだろう。塾の後は予定らしい予定もない。店内の日常風景はこのまま続いていくのだろう。店から出ようとすると、カウンターの上のテレビから上擦ったリポーターの声が聞こえた。

「緊急事態です、ゾンビが秋葉原じゅうを闊歩しています。みなさんは家のなかにいてください! キャア!」

リポーターの女はゾンビに噛みつかれたようで、ゾンビになってカメラマンに襲い掛かる。

汗が滴り落ちた。店の客たちは口々に言った。

「ひどい……」

「どうする?」

「このまま店にいよう」

そうだ、店にいて事態が収束するまで待機するしかない。腹積もりは決まった。

突然背後から、ガタッという音がして、ビクッとして振り返る。後ろの席の人が倒れたのだ。

「だ、大丈夫ですか?」

腹に怪我をしているらしい。呼吸が荒い。脂汗を滲ませている。

「ここにゾンビ・ウィルスのワクチンがある……」

「ワクチンですか」

「そうだ、これを秋葉原のラジオ会館にあるワクチン工場に届けてくれ……!」

「無理です……」

「頼む、これを持っていけ」

手渡されたものを持った。ずっしりと重い。こんなもの持ったことない。実弾が入った拳銃だ。

どうしたらいいんだ。店にいてもゾンビが来て、みんな死ぬ。ワクチン工場へ走る? 勇気はないぞ。黙れ。考えろ、考えろ……。拳を固く握る。

決めた。僕は決心して足を踏み出す。扉を開けた。白く、風景は溶けている。

「待って」

振り返ると、たいそう背丈が高い女の子が立っていた。見たことある、同じクラスの確か、名前は……。

「山田」

「僕は市川」

「知ってる、同じクラスの子でしょ」

把握されていた。でも一度だって話したことはないはず。

「選択家庭科で卵を焦がしてたでしょ?」

黒歴史。頭を抱える。

山田はそう言うと、肩口の長さの髪をヘアゴムで後ろに結んだ。

「いこっか」

「分かった」

僕らは走った。

夏の暑さは容赦なく僕らの体力を奪っていく。ゾンビはまだ見当たらない。山田の後ろ、揺れるポニーテールを僕は追った。鼓動が速くなる。普段運動しない付けが回ってきている。息が上がる。見上げると雲一つない青空が広がっている。本当に何をしているんだ? 僕は。世界を救うなんて大それたことを、とんでもない。

白いワイシャツには汗が滲んで広がっていく。白い風景を僕らはただ走る。

コンビニが見えてくる。7の字を通り過ぎる。少しだけ後悔した。休んでいこう、なんて言えない。

「市川はさ、さっきまでどこにいたの?」

「高校受験の塾」

「そっか、市川はどこの高校を目指すの?」

山田は振り返らない。僕は少し考えてから言った。

「公立か、駄目なら私立のバカ高」

「私は……」

聞いてもいないのに山田は続ける。

「読モやってるから、高校は定時制かな」

読モ、読者モデルか。確かにいい選択かもしれない。

僕らに空いた距離。中三の夏なのだから、もう埋めようがない。僕らはほとんど知りあえずに別々の進路に向かっていく。淡路町を過ぎたら、万世橋を渡って、秋葉原だ。

明るい見通しが立ったところで、僕達の目の前に現実が立ちふさがる。

ゾンビだ。

凄まじい感染力。すぐにゾンビが現れるなんて。僕は頭を抱えた。血の匂いが漂っている。本当に嫌だ。ゾンビは目が悪いらしい。ゾンビに気づかれないように僕らはゆっくりと着実に進んだ。ゾンビは明後日の方角を睨んでおり、僕らとは視線が合わないらしい。時間が気になる。喫茶店から出て、時間はそうそう経っていないはずだ。足元に缶が転がっていることに気がつかなかった。誤算だった。コロンという音がゾンビの注意を僕らに向けさせた。

「市川!」

ゾンビが僕に襲い掛かる。山田の冷たい手が僕の手を引いた。僕達は路地裏に逃げ込む。暗がりのなかで僕らは息を潜めた。

山田は蹲っている。長く細い足を投げ出している。僕は山田の顔から目が離せなくなった。整った顔立ち、美しいアーチを描いた眉。ほんのりと赤い頬。アルカイックな口元。美しいものが目の前にある。僕は山田をじっと見てしまう。

「何?」

山田が僕の視線に気づいた。

「何でもない」

山田に手を差し伸ばす。僕らの戦いはまだ終わっていない。終わるわけにはいかない。左手の銃の重さを今になって感じる。

山田は埃を掃った。

僕らは再び、白い風景のなかへ溶けていく。

山田の右手には赤い歯形がくっきりと残っていた。

万世橋へと着いた頃には、僕は状況をはっきりと認識していた。山田が倒れたのだ。息が荒い。僕は彼女の腕に赤い歯形を見つける。こんなことってあるかよ。ゾンビ映画の基本だ。噛まれた人間はゾンビになるしかない。

山田は潤んだ目を向けて言った。

「ねぇ、市川。その銃で私を殺して」

彼女が僕の頬をその柔らかい手で撫でる。こんなに優しい女の子を殺す? 

「……できない」

「ねぇ、私がゾンビになったら、どっちみち殺さないとダメだよ?」

「わかってる、わかってる」

山田に銃口を向ける。引き金って重いんだ。知らなかった。

引き金を引こうとして、僕はワクチンのことを思い出す。

「山田、ワクチンが出来たら、すぐに山田を人間に戻してやる、ぜったいだ」

彼女は安心したようだ。繋いだ手からみるみるうちに力が抜けていく。

「うん、待ってる」

気を失った彼女を置いて僕は走り出した。

大きな黄色と赤色の看板が見えた。ラジオ会館だ。建物のなかに入る。キンキンに冷えた強烈な風に包まれて火照った体は瞬時に冷えた。ワクチン工場を探す。どこだ? 僕は天井に吊り下げられた「ワクチンはこちら」の文字に目を奪われる。まさか、これが? いやそんなわけない。逡巡して、信じてみることにする。矢印の方角へ向かった。薄暗い廊下を進むと明かりがついた。ガラス張りの壁の向こうに、何かの工場が見えた。本当だった。奥に扉がある。間違いない。僕はドアノブに手をかける。開かない。固く扉は閉ざされている。何度も試した。開かない。諦めかけたとき、僕の手には拳銃があった。

扉を無理矢理こじ開けると、真っ白な工場内へと進んだ。持ってきたワクチンを目の前の設備に差し込む。機械が音を立てて、作動する。僕は胸をなでおろした。ワクチンの量産ができる。喜びも束の間、背後から、ガスマスクを着けた迷彩服の男達が工場に押し寄せてきた。僕はあっという間に彼らに取り囲まれる。汗が首筋につたう。

「大人しくしてもらおう、我々は米軍の化学部隊だ。ワクチンの回収に来た」

米軍という言葉は何だか現実感がない。外からやや小さくヘリコプターのローターの音がする。本当の事らしいとはっきり分かった時には彼らが出来上がったワクチンを次々と運び出しているところだった。僕の喉から心臓が飛び出してきそうだった。やっと言葉になった。

「あの、みんなは、みんなは助かるんですよね? ゾンビになった人たちは!」

米兵の一人は口を噤んだ。そして僕に冷静になるように伝えてきた。

「え?」

「東京にはこれからミサイル攻撃がある、一時間後だ」

「そんな……」

僕は膝から崩れ落ちた。力が出ない。絶望ってこういうことを言うんだ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ!」

僕は米兵を押し倒し、ワクチンと注射器を奪う。それから工場から飛び出した。冷風がどんどん体の熱や僕の心を冷たくしていく。東京、終わる? そんな言葉が脳裏に過る。駄目だ、駄目だ、駄目だ。僕はラジオ会館から出た。会いに行こう、最後だからじゃない。彼女の顔を僕はもう一度見たい。

タイムリミットは迫ってきていた。次から次へと押し寄せてくるゆっくりとした動きのゾンビたちを横目に走る。息が切れそうになる。足だって痛くてしょうがない。僕は会いたいんだ。世界が終わる日に一緒にいたい相手がいる。こんな気持ちにどうしてなっているんだ? 分からない。東京のじっとりとした空気は生温い。風が吹いてきている。僕は今日初めて、気分が良いと感じている。今まであんなに時間があったのに、僕は山田と何もしてこなかった。学校から別れてそれきりの日々だった。放課後にラーメンを食べたり、カラオケに行ったり、マックで、コーヒー一杯で長話だって何でもよかったのに。後悔しているのか、目頭が熱くなってきた。

僕は――。

万世橋で、ゾンビになっている山田を見つけたのはすぐのことだった。こっそりと彼女の背後に近づく。

「あー、うー、あー、うー」

中学生にしてはたいそう大きい女の子の首筋に注射を打つのは大変だった。

山田ゾンビは倒れ込み、しばらく眠ってしまった。ワクチンが効いているのだ。

彼女が目を覚ました時には、日が傾き始めていた。彼女の視線が定まり、僕の瞳を見つめている。

「市川……」

「ワクチンを打った、元通りだ」

「うん」

山田の目から涙が滴る。背後にはゾンビたちがうろうろしていたが、気にしなかった。ゾンビは目が悪いのだ。

「市川、何で悲しそうな顔してるの?」

言われて気がつく。

「何でもないんだ、ただ山田にもう一度会えて嬉しかった、それだけなんだ」

空には三つの飛行機雲が伸びた。米軍の戦闘機だろうか。轟音が街中に響いた。機体からミサイルが放たれ、東京の空を両断していく。どこかにミサイルが落ちたらしい。爆発音が耳に届く。

「市川、手……繋ごっか……」

彼女の手は震えている。

僕の手と山田の手が触れ合った。冷たい手を強く握る。彼女も握り返してくる。遠くの空から鳥たちが羽ばたいていく。山田の横顔を見ていた。彼女の顔は綺麗だ、と思った。(了)