SFの小箱(5)質量保存の法則
小林ひろき
レベッカ。どうしてめそめそしているんだい? またクリフに泣かされたのかい? 全くクリフのやつは。自分は不幸だって? そんなことはないよ。いつも言っているだろう。君はたくさんの大人が救ってくれた幸運な子どもだって、一寸だけでも思い出してみてほしいんだ。
P246840へと向かう宇宙船の船内には、11人の乗客と船長、副船長、技術者、医師、看護師の5人が乗っている。窓の外には色とりどりの恒星が見えている。乗客たちはそれを眺めては楽しんでいる。
「式はあした、父さんたちは着いているって連絡があったよ」
温和な笑顔のモーガンが言った。
「楽しみだわ」
妻のエレナも笑顔で答えた。
ふたりは新婚で、結婚式をP246840 で挙げようとしている。ふたりの旅は順調かに見えた。
モーガンは慌てていた。彼は医師のいる医務室へ向かう。医師が問いかける。
「どうかなさいましたかな」
「あの妻が、その、えっと……」
「落ち着いてください。奥様がどうかされたのですか」
「産気づいてしまったんです。どうしよう……」
医師は手を胸に当てた。
「ご安心を。宇宙船には看護師もいます。こうした事態に直面しても大丈夫です」
医師は船長にこのことを知らせ、モーガンとエレナのシートに向かう。
乗客室は異様な空気だった。皆がエレナを気遣っていた。
無関心に外を眺める者は数人いたが、隣のシートのおばさんや、若い女性たちはエレナを見守っていた。
「お医者さんが来たよ」とモーガン。
「これで安心ね、ああっ!」
エレナの陣痛は強いようだ。
それから5時間ほどでエレナは元気な女の子を出産した。
この5時間は皆にとって神秘的な生命のショーだった。人々は劇的な最後を見終えるとへとへとになり、多くの人は眠ってしまった。
モーガンは小さな女の子を抱いた。嬉しくてたまらなくなった。この子を一生かけて守りたいとすら思えた。
彼にはいまだ膨大な時間が待っている。しかし愛こそあれば何度だって立ち上がれるように感じた。これは霊感に近い。自分の先祖の霊すべてが、自分と家族を守ってくれるに違いないという確信。モーガンはどこからその確信が湧いてくるのかよく分からないでいた。
しばらくしてモーガンは船長室に呼ばれた。
中には副船長が座っており、奥から船長がやって来て、軽く挨拶した。
「君が新生児の父親のモーガン君だね?」
「そうです。どうして僕がここに呼ばれたのですか」
「実はね、この船には僕達と乗客分の酸素しか載せていないんだ」
よく意味が分からなかったモーガンは聞き返した。
「はい?」
「だから、この船には新生児のための設備や、新生児のための酸素すら載せていないということだ」
モーガンは絶句した。
「何言っているんですか? 僕らは、僕らは、これから幸せでいられるはずなんだ。なのにどうして……」
船長はじっと彼の顔を見た。
「であるから、新生児は……」
彼は最後まで言わなかった。モーガンは全てを理解して覚悟を決めて言った。
「なら、酸素が足りないというなら……! 僕が降ります。降ろしてください。だから彼女を救ってあげてください」
一生の頼みだとモーガンは思う。そしてそう言った。
「船長、船長……」
副船長が横から言った。
「もうそんなジョークは止めてください。可哀想ですよ」
モーガンは副船長を睨んだ。
「こんな状況がジョークだって? 僕は覚悟しているんだ!」
船長はモーガンを見た。
「モーガン君、これはね、僕らが下した判断だよ」
モーガンは状況を理解できていない。脂汗を拭うとモーガンは船長に尋ねた。
「どういうことですか?」
「今は、つまり君たちの起こした騒動で、宇宙船は停止している。これはね、あってはならない事態だよ。僕達は漂流船になってしまった。僕達はこう考えている。ニュー・ニューイングランド宇宙基地に助けを求める。そして……」
モーガンは考えを巡らし尋ねた。
「燃料の再点火はできませんか?」
船長はまっすぐとこちらを見た。
「宇宙船の構造上、無理な相談だ」
モーガンは自分のしたことに対して冷や汗をかいた。
「ただね、僕達、宇宙軍が新生児ひとり救えないとなると、宇宙軍の名声が地に落ちることになる」
副船長が冷静に状況を説明する。
「現時点でわれわれは漂流船であり、酸素の残りが乗客分には足りない。ニュー・ニューイングランド宇宙基地からの応援はしばらく先でしょう。このまま行けばわれわれ全員が死にます。なにか打開策はありますか? 船長」
「副船長、なかなかシビアなことを言うね」
と船長は頭を掻いた。
「とりあえず、お茶の時間にしよう」
船長室に紅茶の香りが立ち込める。モーガンは船長のこの余裕に腹が立ってきた。
「うまいダージリンだな」
モーガンもどうしてか一杯付き合った。船長は不思議な人だ。
「確かに美味しいです。でもこんなこと、素人の僕が言うのもおかしいですが、のんびりしていていいんですか?」
船長が帽子を取ると、小さなモニターをこちらに向けた。船外活動の模様を映しているようだ。船外では技術者が宇宙船に何かきらきらしたもの――鏡! を取り付けている。
「これはね、ソーラー・セイルだ。試験運用中だが、太陽の光さえあれば推進力を得られる」
「技術的なことは分かりませんが、まさか、これで?」
副船長がざっと説明する。
「これでニュー・ニューイングランド宇宙基地まで飛びます。けれど、われわれの酸素が持つまで、です」
「ニュー・ニューイングランド宇宙基地には連絡をした。このソーラー・セイルでどこまで飛べるかによるけれど。モーガン君、君は乗客室に戻りたまえ」
「はい……」
モーガンはとんでもない状況と情報を知ってしまったと思った。肩がぶるぶる震える。赤ちゃんがすやすや眠るベッドの傍らに寄り添うと、どうしてか安心した。
「父親だ、僕は。父親なんだ。こんなに震えては情けないよな」
宇宙船はソーラー・セイルでゆっくりと加速し始めた。
目指すところはニュー・ニューイングランド宇宙基地だ。ソーラー・セイルでどこまで飛べるか、実験では8万キロメートルに達した。しかし、宇宙基地へは38万キロメートルある。倍以上の距離をソーラー・セイルは飛べるだろうか。
技術者のニックは事件のことを、いまこのように語る。
「事態はひっ迫していました。こんな事例はほとんどない。新生児ひとりのためにわれわれは冷たい方程式を解く必要があったのです」
副船長のアーノルドはこのように考えていた。
「われわれは死を覚悟していました。いくらヒロイズムを掲げたとして、現実に死んでしまっては意味がありません。ただ、皆は事態を悲観的に見ていたんです。船長のヤンを除いては」
じりじりと太陽光が鏡に当たる。ソーラー・セイルが機能し始めて一時間というところ、宇宙船はしっかりと目的地まで進んでいた。
モーガンは語る。
乗客室にいたひとりが言った。
「恒星の見た目の距離感がおかしい。この宇宙船の進行方向はどうなっている?」と。
彼は続けた。
「この宇宙船は進路を変えたんだな? そうなんだな! くそ、これじゃ契約に間に合わないじゃないか」
彼の一言で乗客たちは不安になったようだ。ざわめきが乗客室を満たした。
ざわめきを察知したかのように船長がアナウンスをした。
「こちら、船長のヤン・オールディスです。現在、この宇宙船は航路をニュー・ニューイングランド宇宙基地に向けております。理由はお分かりでしょう? 新生児ひとりのためです。彼女が生きるために、この宇宙船は引き返す判断をした。この新しい命を前にしては、僕だって敵いません。今から僕達はこの命を救うための運命共同体です」
乗客達は黙ってそれを聞いていた。
文句を言っていた乗客もいつの間にかヤンの言う運命共同体になっていた。
「それで、お父さんたちはどうなったの?」
「途中でソーラー・セイルが折れてしまったんだよ」
「え? それじゃあ、みんな死んでしまったの」
「馬鹿を言うな。僕は生きているじゃないか」
「うん、でもここが天国って場合もあるでしょう?」
「一理ある。僕らはしばらくして、宇宙軍の別の宇宙船に助けられたんだよ」
「そっかあ。なら良かった」
「他人事じゃない。レベッカ、君だってあの場所にいたんだよ」
「あんまり自覚がないなぁ」
「レベッカ。君はたくさんの大人が救ってくれた幸運な子どもなんだよ」
「うん」
クリフにいじめられて、泣いているのはもう止めた。そうだな、最初は私を救ってくれた全ての人にお礼を言わなくっちゃ。私は便箋をたくさん用意した。初めは誰がいいだろう。やっぱりお医者さんかなあ。いや、やっぱり……。
「宇宙軍、ヤン・オールディスさんへ」
そんなふうに書いた時、止め処なく涙が溢れだしてきた。どうしてなのかは、幼い私にとって分からなかった。
そうして何度も何度も挑戦したけれど、手紙は最後まで書くことが出来なかった。
あれから私は宇宙軍の基地で看護師として働いている。お父さんが子どものころから、ずっと話してくれたあの奇跡のような物語。その最後のページに私はいる。ヤン・オールディスはあれから大出世して、もう会って話すこともできない。でもちゃんと伝えたんだ。
ありがとうって。
私が生まれて、これまで生きてきたこと全ての道理は、あの人が示してくれたことなんだって。
だから、私の子どもたちにも言いたい。私たちは運命共同体よって。(了)