SFの小箱(6)エントロピーの増大則

小林ひろき

水素やヘリウムといった星間物質が漂っている。恒星から吐き出された塵が積もったり、太陽風に飛ばされたりしている。宇宙開闢からすでに何億年のときが過ぎたか。宇宙は膨張し続けている。星間物質は、漂い、広い宇宙のどこかへと飛ばされていく。始原の記憶が確かならば、わたしはこの塵のなかで目覚めたと言えるかもしれない。しかし、原始の記憶など取るに足らない。わたし、わたしはいつからここにいたのか? どこから来て、どこへ行くのか? よくわからずに流されて飛んでいくだけだ。


どうしてかわたしは目覚めた。いつからここにいたのか。わたしは子どもだったとも言える。記憶という現実リアリティの積み重ねがわたしのなかで芽生えた。わたしは何なのか。それすらもよくわからないでいた。輪郭のないぼんやりとした存在。わたしをなにと呼ぶか。わたしはわたしに違いないけれど、わたしとは何なのか。議論する相手もおらず、闇の中を漂い続けた。恐怖は感じなかった。はじめからひとりきりであることは、わかっていたから。わたしという生命の基盤がひとりぼっちであるということを固く信じているようだった。


そうしてわたしはたくさんの時を漂い続けた。時はわたしを構成する物質にとって、大した影響を齎さなかった。世界は広いことをわたしは知った。どこまでも明るく暗い闇のなか、わたしはきっとどこまでだって飛んでいけると夢想していた。わたしが子どもであるなら、その希望も幼い記憶のなかに置いていける、宝箱だったに違いないのだ。宝箱のなかにわたしはときおり小さな惑星とそのなかに生物を飼った。生物と話すことはできなかったが、わたしは他者というものをはっきりと理解したように思う。他者とはわたしにとっては理解しがたい存在なのだ。


ふとわたしが目覚めると、惑星が潰れていた。悲しかった。どうしてだろうと考えたとき、惑星が何らかの化学変化を起こしたということがわかった。化学変化とはいえ、単純な相転移で、この現象をわたしは理解しがたい現象だと理解した。いいや、憎いとさえ思った。わたしの大切な物を奪う現象にわたしは激怒していたのだ。

一度、散らばったものは元には戻らなかった。惑星は潰れ、なかの生物は死に絶えていた。水分は時折、凝固と沸騰を繰り返した。物の状態が見る見るうちに変わった。わたしはこの何かわからない現象に恐怖を覚え始めていた。

わたしはわたしのことを十分理解していたとはいえないが、わたしにもこの現象が襲い掛かることは目に見えていた。わたしは凝固し、沸騰し、死というものを迎えるのだと考えていた。それは飼っていた生物と変わらない。わたしは死を迎える。だったとして、わたしをいや、この世界を取り巻くわからない現象は何なのか、わたしは知りたいと思う。


わたしが次に目覚めるときはわたしの死んだときかもしれないなと思えたとき、わたしはわたしより鋭く世界を認識する――というしか言えない――誰かに出会った。わたしはその時、恐怖より幸福を感じた。祝福を受けた。きっとこれは自然界においては食べられるほど恐ろしい現象だと思われるが、わたしは食べられた先でもわたしを維持し続けた。それは網のような繊維状のもので繋がれていた。わたしを捕まえ、そしてわたしと交接し、わたしの意思を奪おうとする何か、いや、意思のようなものを感じ始めていた。つまり、誰かを。


彼は言ったのだ。宇宙は変わってしまったのだと。生殖器を介して伝わる悲哀をわたしは感じた。理解した。わたしは彼に言った。それでも、世界はこうして存在しているし、わたしもあなたも幸せなのは間違いない。彼はわたしに愛情を表現する光を見せて、次なる宇宙へわたしを連れていく。漂い続けた。わたしたちふたりは物質が変動し続ける宇宙で、確かな何かで結ばれていた。それが原子の結合であれ、生殖器の挿入であれ、なんでも良かった。わたしと彼はそこにいたし、存在していた。世界はわたしがいることを認めていた。わたしたちは、浮いていた。どこまでだって行けると彼は神経細胞のようなものをわたしに接合し、わたしは夢見心地で、彼の色彩のある世界を覗いた。世界は明るかった。


いま、わたしはまたひとり孤独な命を闇の世界から拾い上げた。彼もまた彼でわたしに生殖器を挿入し、わたしの意思と共鳴しようとした。そんなことを何度も何度も、繰り返して、巨大な風船のようになったわたしたちは旅を続ける。どこまでだってわたしは行ける。そんなとき、わたしの隣にいたガス状生物の少女が言った。


「わたしたちは神様に会えるわ、きっと」


考えたこともないことだった。神という存在がここにいるとしたらどんな姿をしているというのだろう。わたしは現実主義者なので、神というものはわたしたちの神経細胞にしか存在していない情報なのだと考えていた。わたしたちはこうして皆が一緒になった群れだった。群れには何か目標が必要だった。神を欲しても、無理は無かったのだ。


「神様はきっといるわ。こうしてわたしたちがお祈りしている限りはね」


ありえないと知りつつわたしたちは宇宙をぼんやりとした調子で浮かび続けた。わたしたちはとある恒星の静止軌道にいた。わたしたちは何度も太陽風に晒されながらも、わたしたちになるものをわたしたちになっていくものを探した。わたしたちは膨張し、また宇宙を彷徨い続けた。


どんなに飛んで行っても、どんなに進んでも、道の先は明るくはなかった。わたしたちは硬いペニスを抜き、バラバラになっていった。タンポポという植物がそうするようにわたしたちはそこで種子を蒔いた。宇宙の先で、ふたたびわたしたちがわたしという意思を持つかは分からなかったけれども、わたしがいたことは間違いなかった。だからきっとわたしが生まれるという僅かな希望があった。


風、風が吹いている。そんなとき、わたしは目覚めた。

もうすでに母さんがわたしを生んでからどれくらい経つのかは分からなかった。母さんという存在がいたこともどうして覚えているのかが不思議だった。わたしはわたしで旅を続けているらしいというところまで分かった。わたしは邪魔だった生殖器を取り除いて、彼にお別れした。彼は彼で重力に引かれて別の世界へと飛んで行った。わたしは風に乗りながら、オーロラのかかる惑星を見送り、ダイアモンドの雨が降る惑星を横切り、硫酸の海に浮かぶ自分を眺めていた。世界はただ美しかった。わたしは宇宙に起こっているエントロピーの異常な増大を無視して、好き勝手に気ままに宇宙を旅し続けた。オスとセックスがしたいとか、メスと手を繋ぎたいとか、そういう姉妹たちがするようなことはどうでもよかった。わたしたちは常になんとなくわたしたちのことを知っていた。世界中でわたしたちはネットワークを介して全て知り合っていた。

わたしの旅はそういうものではない気がしていた。ネットワークで知るかぎりのこの生物が出来ることの範疇を超えていた。わたしは次に目覚めるときは新世界にいると思う。これは確信に近いものなのだ。



老齢を迎えたわたしはもう世界に執着を持たなくなっていた。娘たちは宇宙をそれぞれの世界にしていったし、彼女たちの自由な意思で死んだり生きたりしていたからだ。

わたしたちは喜び、悲しみ、また喜んだり、悲しんだりした。世界は思ったほど大きくはなかったようだ。

わたしはわたしで神様という概念を理解し始めた。神とはそう、この宇宙において負のエントロピーなのだ。わたしたちは生まれ、生殖器で繋がりあい、そしてバラバラになる。この生命機構そのものはわたしたちが負のエントロピーを駆使しなければ生きていくことはできない。わたしたちの生命システムはエントロピー増大の法則に逆らうように、エントロピーの低い状態に保たれる。

わたしたちはきっと死を迎える。けれどそれは神によってなされることだ。わたしたちはこのやたらと燃え尽きる宇宙システムのなかで、安定的に生きていく方法を無意識に選び出した。これは啓示なのだ。


きょう、母さんが死んだ。わたしたちにとって死というものがどんなものになるか、その想像は出来なかった。わたしは母さんの残響を心に刻んだ。そして母さんの思索も共有した。わたしたち群れは永遠だと信じている。わたしたちは彼女の死を悼む。わたしたちは世界でたった一人のあなたから生まれた娘たちだ。わたしたちはあなたを愛していた。愛という言葉をくれたのはあなたに違いない。わたしの知る世界の知識も知恵もみんな、あなたがくれたものだ。わたしたちはあなたを忘れない。


わたしたちは彼女を忘れないと同時に、この世の神について考える。わたしたちはその神の名を知っている。この宇宙で発生したわたしたちが運よく生きてこられたのはその神のお陰である。わたしたちは宇宙の隅々を漂いながら、更新される情報を分かち合った。わたしたちはこの燃え尽きようとする宇宙で、燃え尽きた後も、この存在を信じる。


――信じている。


だから、わたしたちは何も畏れずに、宇宙をぼんやりと漂い続けるだろう。


わたしは目覚めてからの時を思う。姉妹からの情報の奔流はだんだんと勢いを無くしていった。経験や知識や知恵をそこから吸収していく。わたしだったものはどうやら、宇宙でバラバラになって消えていったのだろう。妙に体が軽い。ふと気がつけば、わたしは涙に近いものを生産していたようだ。ダイアモンドで出来た涙。刷子肢がたまたま拾い上げた美しい炭素の塊。わたしは何か悲しい出来事があったのだと悟る。わたしには記憶のない何か。抱きとめてくれていた誰かの存在だけを感じる。


わたし、泣いたのか……。


わたしは始原の記憶を求めて、逍遥の旅に出た。(了)