SFの小箱(8)バイオテクノロジー
小林ひろき
「この設計図通りに作ってください」
送られてきた設計図を確認する。間違いない。いまから私達は新しい体験をすることになる。全く新しい体験、つまりはりゅうこつ座風邪のワクチンの被験者になるということ。
本部は慌ただしい。
なぜなら同時多発的に様々な宇宙の地域で別々の風邪が流行しているのだ。
何から話すべきか。私達人類は21世紀初頭から宇宙の至る所に旅をし、ある者はそこに住みついた。しかし、テラフォーミングや肉体の改造をしても、人間の生物的な側面が消えてなくなることはなかった。免疫がなければ風邪をひく。ただの風邪とはいえ、重症化すれば死に至る。厳しい世界である。
宙局本部はワクチンの生産工場を各星系に作るように命じた。宙局感染症センターは各星系から送られてくるウィルスや細菌の分析を三日三晩続けて、対処法やワクチンのデータを送信していた。感染症センターは天手古舞の忙しさである。
どうしたって、人類が宇宙中に広がってしまった以上、止むを得ないことだ。
火星へと向かう宇宙船のなかに一匹の鼠が迷い込んでいた。人々はそうとも知らずに火星に鼠が入り込んだ。
「プロキシマ・ケンタウリにスーパー・アースが見つかりました」
「居住の可能性はまだありませんが、これは大きな発見ですね」
「確かに。恒星に近すぎることを除けば、地球型惑星であることは間違いありません」
テレビのスイッチをジョミィが切ると、彼は合成コーヒーを一口すすり、外に出た。火星の青い夕焼けが見える。ジョミィの仕事はレストランのウェイターだ。火星に美味いものなしと言われている。資源が乏しいからだ。でも、店長の作る燻製は美味しいと評判である。ジョミィは店の前の掃除をする。さっぱりとした店の前で見たことのない毛玉のようなものがちょろちょろと這いまわる。
「なんだ? お前」
ジョミィは触れるが、毛玉はどこかへ行ってしまった。
夜の帳が下りる。レストランの明かりにつられて、人々がやって来る。肉体労働を終えた疲れた顔たち。彼らを癒すのがジョミィの生きがいだった。
ふらふらと酔った客が店に入ってきた。
「何にしましょう?」とジョミィ。
「……水をくれ」
「かしこまりました」
客の腕は黒かった。ジョミィは水を運ぶ。閉店時間まで彼は席を離れなかった。
「お客さん、閉店時間ですよ、お客さん……?」
ジョミィは腰を抜かして叫んだ。
「店長っ、店長……」
「どうした?」
「この人、死んでる!」
この事件は火星で、小さな事件として取り扱われた。変死体の死因や解剖などをする設備は整っていない。病院は存在するが、小さな精神病院だけがあった。火星は次なるフロンティアのための準備をする場所であった。人類にとってはもはや注目するところのない荒れた大地だった。
ジョミィは目覚めると、あの黒い腕を思い出し、吐いた。何もない火星で死に直面することは稀だった。自分を取り巻くものが、不思議と信じられないものへと変質していく居心地の悪さをジョミィは感じていた。ジョミィが恋焦がれる隣の菓子屋のクラリス。彼女にどんな顔をして会えるというのか。死体を見た自分は何か死に取って代わられてしまったような気がして、クラリスを見ることさえできないでいる。
ジョミィは天井から物音を聞いた。
彼は昔読んだ小説のなかで豚の頭が語りかけてくる描写を思い出し、自分にもそんなことが起こるのかと思い、天井の物音と対話した。
物音は言った。言ったとジョミィは理解した。啓示のようなものだ。
二日後、ベッドの上で事切れているジョミィが発見された。
火星は次第に黒い闇に包まれていくかのようだった。
人々は家に隠れた。しかし、働かなければなるまい。男たちは外に出る。帰ってくることはなかった。
この異常な状況を警察官のゴードンは見逃さなかった。
火星にだって、地球と同様に秩序があるべきだと考えるゴードンは宙局に連絡を入れた。宙局には繋がらない。どうしてだ? とゴードンは思い、苛立った。浅黒い肌のゴードンは死んだ人間たちが皆、皮下出血をしていることに気が付いた。
死体の腐る匂い。土葬される顔たちは安らかな顔をしていない。
地平線のむこうまで並べられた墓標。白い点が赤い大地に規則正しく並んでいる。
宙局が火星からの連絡を受け付けたのは、連絡が来てから一週間後のことであった。各星系の同時多発的な風邪の流行は収まった。感染症センターに火星の状況が伝えられると、担当者は青ざめた。宙局は火星へ医師団を送ることになった。
ペストの流行。22世紀になって、歴史は繰り返されるのか。医療設備もしっかりしていない忘れ去られた星で、疫病は蔓延していた。
「こっちも酷いぞ」
「ああ、こんなに。ペストは火星にはいない菌だというのに」
医師団のカルロは、応援を宙局に頼んだ。
「火星でのペストの流行は私達人類へ自然からの挑戦と見て、間違いないでしょう」
プロキシマ・ケンタウリの地球型惑星で黙々と、作業員たちが工事を行っている。
「火星のニュースなんか見て、どうしたんだ」
とエドワードがハリーに尋ねた。
「いや、孤児院にいたとき一緒だったジョミィが火星にいるはずなんだ。大丈夫かなって」
「死亡者9万人だろ? 酷いもんだ」
「今も状況は変わってないらしい。俺達だって未知のウィルスや菌に晒されている可能性は否めないんだ」
「感染症センターのRNAデータパックじゃ、満足できないのか?」
「……かもな。宇宙はそれだけ分からない世界だということさ」
「なぁ、ウィルスってどこから来ると思う? あんな生物と無生物の間のものなんて、絶対に宇宙から来ていると思うんだが」
「パンスペルミア仮説みたいなものか。確かにウィルスは謎が多いな」
「痛っ……」
エドワードは腕を押さえた。
「大丈夫か? エド」
「なんかが刺さったみたいだ。一旦、基地に戻るよ」
ハリーは作業を続けて、8時間後に基地に帰った。ハリーは医務室で鉱物のような姿をしたエドワードを見つけた。
「おい、これは何だ?」
医師は言う。
「よくわからない症例です。これは見たことがない。あらゆる宙局のデータベースを探っても、わからない症例だ。全宇宙で、ですよ」
「シリコン生物か?」
「いいえ、組成はこの星の未知の金属だ」
ハリーは自室に戻ると、眠った。疲れはずっと抜けずにぐったりとしていた。眠ることもできないほど消耗していた。それに相棒のエドワードがあんな状態では作業もままならない。
「ハリー!」
ハリーの思考にエドワードが割り込んできた。
「エドワードなのか?」
「そうだ。俺は今あんな姿だが、生きているんだ!」
エドワードは話し始めた。
宇宙には様々なウィルスを作り出す巣が存在している。ウィルスはその巣から見れば幼体であり、人の体を介して成長し、約100年を周期に巣を宇宙に作り出す。このサイクルは多くのウィルスが有しているものだ。人類は彼ら、巣にとっての媒介者である。しかし、巣の媒介者にならずに済んだものたちも宇宙にはいた。エドワードのように自らと鉱物を融合させたハイブリットな人間である。彼らはウィルスと巣両方の免疫システムを体に構築することが出来るのである。
「エド、でもそうだとしても、それはもう生きているって言えないんじゃないか?」
「いいや、ハリー。俺の思念波はそんじょそこらの星々を越えて、宇宙の背景放射より遠くへ飛んでいける。俺は宇宙になったんだ」
「待ってくれ。ならジョミィはどうなったんだ? お前が宇宙ならそれも分かるだろう?」
「分かった。いま火星に行ってくるよ」
エドの思念波は火星に並べられた無数の墓標のうえへ。彼はジョミィの名前を見つけた。
「ハリー、すまない。俺はお前に悲しい事実を伝えなければならない」
「エド、分かったよ」
ハリーは泣き崩れた。ジョミィのあどけない優しい笑顔が目に浮かんだ。ふたりで見た地球の青さ。そして未知の世界。楽しかった子ども時代を思い出した。
「エド、聞こえるんだろ?」
「何だ」
「お前だって鉱物の媒介者になっているんじゃないのか? 自然の持つ巧妙なシステムにただ乗せられて、利用されているだけなんじゃないのか?」
エドワードは沈黙した。とても長い静寂。
「俺は、どうやら時間らしい」
「時間?」
「お迎えみたいだ。俺は上部構造へと移動する。この思念波は俺にとって最後のメッセージだ。どこかの巣が再び活性化を始めている。気を付けるんだ。いいな?」
「おい、エド。待て! 待ってくれ!」
エドとの交信は途絶えた。
医師にそのことを伝えると、エドの石像が崩れたことを教えてくれた。
強かな自然のなかの人間なんて、ほんとうに弱いものだ。システムの上の一時の夢みたいなものだ。
ハリーは眠りにつく。そして明日、自分も鉱物と一体化するように自らを仕向けるのだろうかと考える。いや、しない。俺は俺のものだ。俺の体を自由にできるのは俺だ。俺しかいない。
眩い星々を背景に珊瑚が産卵するように、暗い世界にウィルスが解き放たれる。どこへとも知らずにウィルスは銀河風に乗せられて、飛んでいく。ああ、我ら。我らは広がっていく。宇宙の隅から隅へと、媒介者を求めていく。
ある朝、一人の少年がくしゃみをする。ミクロな世界で自然の所業が達成される。彼の体の中で、ウィルスは自身を増やし、成長する。たったひとつの体から、彼らは再び、巣に帰るまで。
今、宇宙中の媒介者達が、幼体を成熟したものへと変化させている。それは音楽のように、巣をふたたび作り出す。この音楽は止まない。演奏者たちは楽器を演奏し続ける。歌い続ける。人間である私達はあまりに儚い。一時の繋がりが、宇宙に存在する生命のサイクルを回す。円は、続く。