SFの小箱(9)生命倫理
小林ひろき
探検隊が大地に降りたのは、嵐の夜だった。
地球型の惑星、H‐3208は、豊かな自然と海のある星だ。周期的に地軸が乱れることによって起こる気候変動に目を瞑れば、定住も可能だと判断されている。
この惑星には、ノビェ・イエと呼ばれる先住民族がいた。彼らは二足歩行をする爬虫類のような生き物で、言語を使用し、小さな文明を築いていた。ノビェ・イエと私達はジェスチャーや彼らの言語を学ぶことで、親交を深めた。私達は彼らの伝承や神話に興味を持ち、彼らは私達の科学技術に興味を抱いた。
私達は彼らに様々な科学技術を見せた。ノビェ・イエは魔法でも見るかのように目を輝かせた。私達は深い感動を覚えている。
私達は彼らのなかでも一際存在感のあるシャーマン、エリゥに興味を持った。エリゥは彼らの年齢で言えば17歳。彼女は不思議な力を持つ一族の娘だった。不思議な力とは嵐を察知する能力だ。彼女に私達は尋ねた。
「どうして嵐が来ることが分かるのか?」
「啓示のようなものです。私の頭の中で唄が聞こえるのです」
「唄?」
「そうです、この土地の精霊が唄っているのでしょう」
彼女は私達に唄ってみせた。とても美しい唄だった。
私達は惑星の中で様々なサンプルを取った。植物の種子、菌類、動物の毛、ノビェ・イエの毛髪、唾液、何でも調べた。
科学者のモーリーはサンプルの一覧を作り、詳しい分析が来るまで、ノビェ・イエたちと話した。半年も滞在すると、ノビェ・イエの言葉の簡単なものは覚えることができた。水、風、土。彼らの神話は自然から成り立っている。伝えるものは唄の形式を取っていた。唄はエリゥの一族が伝えたものだ。ほかのノビェ・イエたちが演奏する。愉快な音楽会が開かれる。人間もノビェ・イエも唄う。いい夜だった。
私達も地球の唄を紹介した。彼らは口ずさむ。ノビェ・イエたちは地球の唄を覚えるのに時間はかからなかった。
彼らの言語能力には舌を巻いた。彼らの耳はよく、私達の言葉を理解するスピードは速かった。彼らは私達の唄のむこうにある物語を覚えた。私達も彼らの神話をよりよく知った。私達は友好な関係にあった。
エリゥは嵐の予感を察知した。彼女は狂ったように唄った。唄った後、彼女は頭痛がすると言って寝込んでしまった。
私達は静かな海を眺めている。ほんとうに嵐など来るのだろうか? 心配になるくらい穏やかな海だ。数時間後、海は急に荒れた。強い風が吹いている。私達はテントをたたんで、調査艇に避難した。
マグカップにコーヒーを注ぐ。湯気を吸いながら、私達はぼんやりと嵐がおさまるのを待っていた。モーリーとルーシャスがコンピューターの前で、データを眺めている。ちょうど、ノビェ・イエの遺伝子の分析が済んだところだった。私達はモーリーの説明を黙って聞いていた。ノビェ・イエの遺伝子は地球の爬虫類とそんなには変わらなかった。彼らの卓越した言語能力を説明することは出来なかったが、不思議なことにエリゥの遺伝子は他のノビェ・イエとは微妙に違った。
エリゥの遺伝子を私達はさらに調べた。違っていたのは脳の一部を異常に活性化させる遺伝子だ。
モーリーは考えた。この遺伝子が彼女を特別なものにしている。頭痛や、特別な力を発現させているのはこの遺伝子に違いない。
モーリーは遺伝子治療をエリゥに施すことにした。
静かで穏やかな昼下がり、モーリーはエリゥに治療の説明をした。
エリゥは首を縦に振らなかった。
モーリーはどうして? と彼女に尋ねた。
「わたしをわたしにしているのはこの力なの。わたしを否定しないで」
「でも長引く頭痛や、自分が自分でなくなるような事は、もう無いんだ。君は君だ」
「わたしは、いいえ、わたしたちは治療を望んでいない」
モーリーは絶句した。彼は、調査艇に戻ると溜息をついてシートに座った。ルーシャスがやってきて、モーリーに言った。
「これは仕方のないことだ。彼女を取り巻くもの、文明、社会、民族すべてが彼女の意思とは関係なく、彼女の力を必要としているんだ」
「でも、それじゃ……」
「彼女は力を受け入れているよ」
モーリーはしばらく黙ってから、コンピューターの前で何か考え事を始めた。
豪雨だった。眠ることが出来なかったエリゥは、調査艇に明かりが灯っているのを見つけた。モーリーのことを考えていた。エリゥの恋人のマハがやってきて、エリゥを抱いた。エリゥはもしこの力を手放したら、全てを失うのではないかと怯えていた。家、家族愛、恋人からの愛。でも、あの人が私の苦しみを無くしてくれるというのなら……。エリゥは葛藤していた。
「マハ、私の力が無くなってしまったら世界はどうなると思う?」
「ノビェ・イエのあいだで飢餓や、戦争が起こる」
「私はこの力の犠牲なの?」
「エリゥ、君を支えるから。安心してほしい」
エリゥは涙を流した。
「マハ、私は苦しいの。あの人だけが私を解放してくれると言った。運命から、この縛りから」
「エリゥ。だいじょうぶだ」
調査艇でモーリーがひとりで分析を進めていると、誰かが調査艇に入ってきた。
「モーリー」
エリゥだった。
「どうしてここに?」
「この間の話を詳しく聞きたい」
モーリーはエリゥに私達の治療方法を教えた。エリゥは全てを聞いて、言った。
「もし、ノビェ・イエすべての人に私と同じ遺伝子を組み込むことが可能だったら?」
「能力が発現する可能性はゼロではないよ」
ふたりは考えた。ノビェ・イエが彼女と同じ存在になれば、彼女は解放される。
「よし、では薬を作ってみるよ」
「モーリー、ありがとう」
その晩にエリゥの唄が森中に響き渡った。嵐が来るのだ。揺れる調査艇の中でモーリーは薬を作り始めた。モーリーとエリゥの企てを私達が知ったのは、薬がノビェ・イエの全住民に投与された後だった。
「なんてことをしてくれたんだ、モーリー」
「班長、私は彼女を救いたかったのです」
「あなたという人は」
私達はノビェ・イエの住む森に向かった。そこらじゅうで唄が聞こえてくる。住民たちは狂ったように音楽に酔いしれて、唄っている。これがモーリーのしたことなのか?
「ハ・スラータ・キ・ビニィ」
ノビェ・イエの人々は答えない。エリゥが姿を現す。
「エリゥ、この唄はいったい?」
「皆、喜んでいるんです。精霊の祝福を受けているわ」
「精霊? これはモーリーがした悪行だ」
「私達の世界は変わる。嵐が来ることを皆が知るようになる。世界は前進したの!」
エリゥは満足そうな顔だ。
「エリゥ、私達はノビェ・イエを友人だと思っている。友人をこんなふうにしたまま帰れない」
「リリーナ班長、もう世界は変わってしまった。ノビェ・イエは唄うの。もうすぐ大きな嵐が来るって」
班長は唇を噛んだ。
「話が通じない。このままでは文明そのものが崩壊してしまう」
ルーシャスが班長に言った。
「班長、調査艇に戻りましょう。ノビェ・イエは私達と接触したことで変わってしまったのです。私達は禁断の果実を彼女たちに与えてしまった。その罰は地球で受けるのです」
とても大きな嵐がやって来る。黒い大きな雲がノビェ・イエの森を覆った。
「事の顛末は以上です」
私達は生命倫理委員会の席で全てを告白した。厳しい表情がこちらを見ている。
ノビェ・イエの森での私達の行いは世界中に知れ渡った。
私達は愚かだった。
歴史に学ばない大馬鹿者だった。
これは失態だ。
H-3208はこのまま自然保護区域として、人間たちに見守られることになる。ノビェ・イエたちは唄い続ける。嵐は止まないだろう。
モーリーはその後、研究者を辞め、郊外の森で静かに暮らしている。私達、探検隊のメンバーが揃うことはもうない。私達の犯した罪は消えない。
私は妊娠した。
出生前診断では子どもに障害があると分かった。私はこの子をどうするべきなのか? ねぇ、モーリー。教えて。あなただったらどうするべきだと考えるの?
静かに着実に時は進んでいく。私は一人になって考え込んでいる。あのノビェ・イエの森の唄が今でも聞こえている。
数日前に、モーリーの母親から連絡が入った。彼は自殺したという話だ。彼は最後までノビェ・イエの人々のことを思っていたらしい。公園のベンチに座って、物思いに耽る。探検隊がしたあの奇跡のような日々を思い返している。私達には輝ける未来が描けた。けれど、私達は今も悩んでいる。どうすればノビェ・イエを救えたのか。私達は苦しんでいる。たった一人の少女の苦しみとノビェ・イエ全住民の幸福とを秤にかけてしまったこと。
今も衛星写真でH-3208を見る。美しい海と自然の中で、嵐がやってきては、静かになる。
彼らに私はもう一度会いたい。
会って、美しい神話を聞きたい。彼らの世界に触れたい。私達は夢の中でノビェ・イエに出会う。
赤ん坊がお腹を蹴ると、私は現在に意識が引き戻される。
幻のように、エリゥが傍らに立っていた。
彼女の威厳のある目が私を見ている。私はどうすればいい? 母親としてどうするべきなのか? 答えは出てこない。
「あなたはどうするべきだと思う?」
エリゥは鼻唄を唄う。それはどこか懐かしい旋律だ。
彼女はノビェ・イエの言葉で話し出した。完全には理解できないが、韻を踏んだ言葉だった。
ノビェ・イエの森で、人々は唄っている。嵐が来ることはもう話題にすらならない。彼らの言葉と言語は唄に溶けて、あの美しい空に舞い上がる。かつて人間が来たこと、彼らが私達を一つにしたこと。
ノビェ・イエたちは唄い継ぐ。波の音が調和した音楽をかき消す。すべての神話は唄の中にあった。