スピン

小林こばやしあお

百二十年前、ここは監獄だった。コロニー・オミネスは多くの罪人を乗せて母星に帰らなかった。

三世代のち、そこは市民国家となり現在位置は火星にある。

指をさす。そして数える。工場、食料プラント、鉄塔……。何回でも数えた。たったひとつわかること、それはここからは出られないってことだ。地図のアップデートが何回なされようと、それは変わらない。

みんな普通に生きている。それがたまらなく、つまらないだけだ。ぼくだけが憧れを抱いている。そんなふうに考えるのは愚かしいことかもしれない。

ぼくだけが外の世界を知っている。そう、ぼくだけが。

それは偶然が重なって見えた景色だ。コロニー・オネミスからコロニー・シィオに向かう連絡船、それに荷物に紛れて乗り込んだことがあった。ぼくは連絡船のなかで、それに出会った。

青い星だった。精彩な青い球はぼくの脳裏に焼き付いた。その場所に行きたい。それがぼくの夢だ。

ぼくは何にもなりたくなかった。でもいつだってあの人工の太陽が沈んでいって、ぼくたちを急き立てる。それについていくことが「大人になる」っていうことなのだ。

ぼくは何かになれる? そう思って今日も眠る。起きて、学校に行く。学校はあと八年通う。頭を学校モードに切り替えて、一日の大部分を過ごす。それが終われば、逆さまの大地を見ていよう。

そして数えよう。知らない道はない。知らない施設もない。出会ったことのない人は多いけれど、それが何だというのだろう。ぼくはずっとこの先、憧れ続ける。あの風景をずっと。

ぼくは幸せな学生生活を送ったのだろう。だけれど夢だけは叶えられなかった。

ぼくは放課後、工場でピンポン玉をラケットで弾く。相手はいない。機械と一緒に遊ぶ。仕事の休憩時間はいつもそうだ。ぼくは少年の頃のように数えるのを止めてしまった。

工場の仕事は辛くて、時々逃げたくなる。だけど気分を工場モードにする。そうしていれば壊れずに済んだ。

終業時間になる。工場から出ると、ぼくは煙草に火をつける。味はあまりしない。ぼくは青い星のことを考えなくなった。いや、考えたら考えただけ不幸になると思った。ぼくはぼくでバランスを取っていた。この平衡がずっと続くことが「大人になる」っていうことなのだ。端末にはアップデートが溜まっていた。

――ぼくはぼく。

朝靄のなか、大地の輪郭がうっすらと浮かび上がる。ぼくはぼくだ。確かめた途端に体が動かないのに気が付いた。ぼくは望遠鏡で覗くように、コロニーの外を見ていた。ぼくは様々な星々、銀河を見ていた。そしてそれが驚くほど高精細で、画像が頭の中になだれ込んできた。ぼくはどこへ行きたいのだ? 

答えは簡単だった。あの青い星だ。

なら、行ってみようじゃないか。

コロニー・オネミスは従順だった。ぼくの身体はオネミスになった。つまりオネミスの基幹AIにぼくを上書きした。それで十分だった。エンジンを点火する。ぼくは動き出した。そうだ、ぼくはずっと目覚めないだけだったのだ。

遠くでサイレンが鳴っている。寝ていたのか。意識を取り戻す。ぼくは工場で働いていた。白昼夢なんて珍しい。ぼくはここから出られない。それを再度認識する。仕事が終わる。演出された夕焼けが今日の余韻を残す。明日のスケジュールまでのほんのひととき、人々は家路につく。ぼくも帰ろうとした、そんなときだった。

地が震えた。状況を理解できた人はどれだけいただろう? 

ぼくはその場で倒れこんだ。一体何が起こっているっていうんだ。

イド、人間の無意識の領域がぼくにもあるというのか。轟音を立ててオネミスは火星圏を脱出する。ぼくは、なにも知らない、知らないのだ。こうなってしまったことはぼくのせいじゃない……。呻いて、吐いて、そこからぼくのほんとうが始まる。

青い星へ。ほんとうの自由を手に入れることができる。監獄の鎖は解き放たれた。基幹AIは簡単な加速と減速しかしないから、その間の操舵はすべてぼくのイメージが頼りだ。そうしてコロニーは本来の形へと戻る。原始のコロニーが宇宙船だった頃の姿へ。長い、とても長い時間のあいだ、何を考えようか。

ぼくは記憶を思い出している。それはたとえば二人でした小さな合奏だ。観客もいない、ちいさなホールでぼくたちは合奏した。孤独も、悲しみもそこにはなかった。時間という概念で難しいことは分からないけれど、二人の時間は撚り合わせた糸みたいなものだ。ぼくの時間は解けていって、君の時間と別々の時を重ねる。それがぼくにはとても寂しく感じられた。

君の時間がぼくの時間から解けていって、二度と重ならないことが悲しい。

いつかの物理の時間でスピンネットワークという時間の網目構造を学んだことがある。ぼくと君が重なることがありえるなら、そんな網目構造のなかで出会うのさ、と思うしかない。最後になったけれど、火星でいまも眠る君は、コールドスリープで未来を見られるんだね。ぼくはその未来にはいないかもしれない。だけど進むよ。

メッセージを火星に残る君へ送って、ぼくの意識は宇宙船とともに、別の未来へと飛ぼう。〈了〉