時間衝突後
小林ひろき
白い、近未来的な施設はVRセンターといった。VRセンターに入ると、もうすでに先客がいた。暖房は効いておらず、寒かった。受付で保険証を渡した。ここはゲームセンターではなかった。立派な医療施設だということを忘れていた。中に案内された。二〇〇人は入りそうなホールだった。
プラネタリウムのように広くて丸いホールだ。受付で渡された数字のカードを手に目的の席に着いた。ソファは柔らかくそのまま眠ってしまいそうだった。近くに座っていた、親子連れを見ていた。男の子がゴーグルを被って無邪気に笑っていた。それは微笑ましかった。しばらく待っていると、スピーカーから音がした。館内アナウンスが聞こえた。
「VRセンターにようこそ」
思わずくすりと笑ってしまった。それはテーマパークのようだった。私達は楽しみのためだけに来ているわけじゃなかった。だから余計にそれは変に聞こえた。
「ここ、西東京VRセンターはみなさんの精神状態を若く保つ、最先端のVRが体験できます」
そう、ここはアンチエイジングの役割を担う施設だった。ただし身体ではなく心の方だ。中学生でここにお世話になるなんて思いもよらなかった。心の中で嘘をついた。
精神の年齢は今年で二十八歳だった。
ちゃんと数えたので間違いはなかった。あそこにいる、男の子は本来ならば十九歳くらいだろうか。身体と心のギャップはなかなか埋まらなかった。だからここに来たのだ。みんな、このことに関してはまごまごしていた。成長しない身体が、老いていかない身体が不思議だったし、奇妙だった。
このVRセンターが導入されたのは年をとった精神をリセットするためだ。装置は簡単なものだった。ただ懐かしい映像をしばらく見るだけだったからだ。
「さぁみなさん。ゴーグルを被ってください。上演を始めます」
アナウンスに従うと、目の前に東京の風景が映し出された。
それは夏の風景だ。太陽が眩しい。
目を逸らしたくなるほど強烈なノスタルジアを感じた。この風景はとても古い、十四年前の東京の風景だった。十四年前というと修のことを思い出した。なぜあんなに仲が良かったのに忘れていたのだろう。修は仲の良かった友達だった。彼との最後の会話らしい会話は何だっただろうか。そういえば蝶の話だった。夢で自分が蝶だったのか、蝶が自分だったのか、何だか分かりにくい話をしていた。
「だから、何なの?」
そう聞いて、彼はお茶を濁した。今日初めて知ったことを話しているのだろうと思った。好奇心が強い子だったからだ。
どうして別れてしまったんだろう。今では頻繁に連絡を取り合っていなかった。そしてなぜ忘れていたんだろう。その事はすこしだけショックだった。二時間ほどして、VR体験は終わった。伸びをするとコートを羽織った。外は真っ暗だった。VR体験は初めてだったけれど、悪くはなかった。残念ながら若返ったとはいえなかった。それだけが心残りだった。
メールが届いていたことに気が付いたのは、しばらくしてからだった。
『明里、今度会おうよ』
不思議な気持ちだった。忘れていたのにしっくり感じられる修からのメールだ。
返事は保留にした。
今度が一体いつなのか、それはこの街の者には決定権はなかった。彼が決めてしまえば都合がよかった。外では時間がはっきりと経っているだろう。こんな夢の中のような世界で修の存在だけが異質だった。修は東京が変わってしまった頃にこの街から出ていった。あれから十四年が経ったけれど彼は不思議と変わっていないようだった。しばらく歩きたい気分だった。それからどこかに消えてしまいたいような気分でもあった。VRセンターの裏は雑木林だった。しばらく林の中を歩いてみた。土の感触が柔らかかった。
修と再び会うことがお互いにとって幸せなのかはよく分からなかった。
時によって世界は分断されている。
あれからずいぶん時が経つけれど、実際は時間など経過していなかったのだ。表面上の時間、つまり時計は刻々と時間を示した。だから最初、人々は変化に気づかなかった。それを人々が知ったのは随分経ってからのことだった。時間が静止したのは東京だけのようだった。この街の外は普段通りの時が進んでいる。
ただし海外にまで視野を広げると問題は単純じゃなかった。他のある都市は時が急激に進んだ。またある都市は時がゆっくりと進んだ。
帰宅すると玄関は真っ暗だった。両親はまだ帰宅していなかった。二階に上がると鞄を置いた。机に向ってメールの文面をもう一度見た。時計の秒針が一周している間に考え込んだ。
修のことが頭から離れない。
二十八になった彼はどんな大人になっているのだろう。返事を書くことにした。
『いいですね。今度会いましょう。予定はありますか?』
敬語になってしまった。
距離が遠すぎたからだ。送ってから少し期待した。返信はすぐには来なかった。電話してもよかった。でもしなかった。
音楽を聴くことにした。それは大事な儀式だった。私の中の心と身体の溝を埋めるためだ。やっていることはVRセンターと変わらない。私の心はそこで過去に帰った。少女に戻ると、強くその頃の風景を思い出せるだけ刻み付けた。そうしていれば年をとらなかった。でもそれはとても窮屈な思いがした。二十八の私はこの小さな身体の中に押し込まれて、心は低い声をもらした。私は未だにまごまごしていて、静止した時の中で自分を保っているのがやっとだった。
次のVRセンターの後に修と会うことにした。それまで一週間あった。過去と向き合うのに十分すぎる時間だ。音楽はいつの間にか何回目かのループをしていた。
二度目のVR体験はスムーズだった。VR体験に順応していた。懐かしい映像にも慣れた。楽しんでさえいた。VR体験が終わるとすぐさま頭を切り替えた。今日は修と会う日だった。待ち合わせ場所は中学校の最寄の駅にした。ドキドキしていた。背の高い男性が声をかけてきた。
「明里、久しぶり」
その男性が修なのだと気づくまで少しだけ時間がかかった。
「明里、どうしたの?」
「何でもない」
変わったね、なんて言えなかった。時間の流れを改めて感じた。彼は東京の外にいたのだということがはっきりと分かった。修は落ち着いていた。精神的な子どもっぽさはなかった。それが少しだけ寂しかった。
「明里、どうしたの? 暗い顔して」
「いや、何でもないの。いいから。行こ」
周りから見たら兄妹に見えたかもしれない。カフェで他愛ない会話をした。本当にどうでもいいような事だ。圧倒されていた。年をとるってこういうことなんだと思った。修と会うことであの頃に戻れる、と期待していた。でもそんなことはなかった。修と別れてから音楽を聴いた。少し寄り道をすることにした。通っていた中学校の近くを歩いた。何もかもが懐かしかった。
時は容赦なく流れていた。けれどこの身体はここから出られなかった。東京の外はずっと遠くに感じられたからだ。
修は外の世界を知っていた。彼が今頃になってどうして東京に戻ってきたのか分からなかった。その理由を知りたかった。メールを彼に送った。
『また会いませんか?』
返事はすぐに来た。
それだけが嬉しかった。
コーヒーの香ばしい香りがした。
VRセンターの受付で配っていた。紙コップを受け取るとじんわりと手が温まった。三度目のVR体験の日はとても寒かった。小雨がぱらついていた。参加者は二回目に比べて少ない。中に入ってソファに落ち着くと、ゴーグルを被った。いつもの館内アナウンスが聞こえた。しばらくしてから映像が始まった。
二〇〇〇年頃の東京の風景が映し出された。今は見ることができない風景だ。涙が出そうになった。理由が分からない。いつも通りのスケジュールでVR体験は終わった。
予定を確認する。修と会うことになっていた。前のようにドキドキすることはなかったけれど、楽しみだった。
待ち合わせ場所で修に会った。修は黒いレインパーカーを着て、ビニール傘を差していた。
「やぁ、明里。久しぶり」
屈託のない笑顔をこちらに向けてくる。言葉を交わすと修のイメージが崩れていった。駅前を彼と歩いた。ギターの弾き語りを一緒に聴いた。ファミレスでお酒を飲む彼を見ていた。そうしながら、彼と疎遠になった理由を思い出していた。
喧嘩をした。
確かそうだった。いまなら過去の過ちを正せるだろう。
「あのね、修。言いたいことがあるの」
「何?」
「あの時は…………」
「あの時って?」
ごめんなさい、が言えなかった。修もきっと忘れているから。それから何も言えずに修と別れた。
帰り道に喧嘩の理由を思い出した。彼は写真を撮るのが趣味だった。撮ってほしいと言ったら断られた。彼はポートレートを撮ってくれなかった。それが原因だった。今思えば、恥ずかしかったのかもしれない。
雨は止んでいた。
また修は会ってくれるだろうか。メールを送った。
『次のVRセンターのあと、会いませんか?』
返事は家に着くころに届いた。
四度目のVR体験は充実していた。すっかり慣れきっていた。ずっと前の風景のはずなのに、今は身近に感じられる。
今はそう、二〇〇三年だ。この体験の中では子どものままだ。それがとても自然で違和感がない。身体と心がぴったりと合った感じがする。
「本日のVR体験はこれで終了します」
立ち上がると身体が軽く感じられた。若返ったとでもいうのだろうか。修との待ち合わせ場所に向おうとすると、男の子が担架に乗せられて運ばれていくのを見た。救急車が来ていた。周りの大人がひそひそと話している。
「急性の老化現象らしいですよ」
「怖いですね」
人々は年をとらなくなったけれど、稀に身体に老化現象が起こることがあった。数十パーセントの確率らしい。医者は老化現象を一つの病として捉えていた。救急車は病院へと向っていった。待ち合わせ場所に着くと修が待っていた。
他愛ない会話を交わした。
「写真は撮ってるの?」
「ああ、写真は高校生で止めてしまったけれど今はスマートフォンで撮るくらいかな。AIが発達してきているから加工は簡単だし……。これがモノクロ風でね」
彼は撮った写真を見せてくれた。とても精彩な写真だった。
「きれいだね」
彼は頭を掻いた。
あっという間に時間は過ぎていった。時計を確認すると終電の時間が近づいていた。
「じゃあ修。また今度」
次の約束もVRセンターの後にした。
あれから何度もVR体験をしてきた。その度に修と会っている。懐かしい話に終わりはなかったし、修からいろんな話を聞いた。彼は旅をしていたらしい。この街の外の事、外国の事は特に刺激的だった。彼の海外のフォトライブラリーは見ていて楽しかった。旅でいろんな物を見てきたという。
「東京みたいに分断された地域にも行ったよ」
髭が早く伸びて大変だった、などと冗談を言った。この街の外。それは考えもしないことだった。家と学校、そしてVRセンターの往復の日々は退屈はしなかったけれど面白みもなかった。ただ安心はした。こうしていれば年をとらない。それがこの街の大多数の価値観というやつだった。確かに外の世界は刺激的だろう。でもそれを秤にかけても安心をとったのだ。ランナーが通りすぎていく。それを見送ると修に視線を戻した。修の顔には確かに時の流れが刻み込まれていた。
眩暈がした。
「大丈夫、明里」
「なんでもない」
少し疲れているのだろう。体力は中学生のままだから。
「あのね、修。私達が疎遠になった理由、覚えてる?」
「さぁ、覚えてないな」
「覚えてないの? 写真、撮ってくれなかったでしょ?」
まったく彼は覚えていないようだった。
「今なら撮ってくれる?」
「いいよ」
修はスマートフォンのカメラのシャッターを押した。
「その写真、貰ってもいい?」
「シェアするよ」
彼との諍いの原因はこれで無くなった。それが嬉しかった。
何度目のVR体験だろう、分からない。ソファにもたれかかると背中に柔らかい感触がした。人々は帰る支度をしている。その日は少しだけVR酔いをしていた。気持ち悪い。修と会う約束をしていた。修とVR体験のおかげで大分若返った気がする。こうしていると彼を利用しているような感じがして少し嫌だった。
もう十年は経つのだろうか。外の時間はよく判らなかった。彼もまた東京にいるようで、時の流れの影響を受けずに済んでいるのだろう。この街は大きな航時機だ。
ただし行き先は分からなかった。
音楽を聴く、あの儀式をしなくなったのはいつからだろう。それは修の好意に気づいてからだった。今日もこれから修と会う。気持ちは複雑だった。彼はきっと過去を見ている。それがすばらしいと思っているから。少し前なら同じ気持ちでいただろう。でも考えは少しずつ変わっていった。
今の姿を見てほしい。
「やぁ、明里。久しぶり」
「ねぇ、修。今度、付き合ってくれない?」
「何?」
「VRセンターに一緒に行ってほしい」
「いいけど……。突然、どうして?」
「修も東京に来て、かなり経つでしょ? それに知ってほしいの。私のこと。ダメかな? でも最初に言っておくけど、かなり退屈だよ」
「なんだ。でも、いいよ」
修はスマートフォンでVRセンターの情報を漁っていた。
次の日曜日、二人でVRセンターに行った。
広い会場に案内されると二人で過去のVR体験をした。ここが医療施設ということを忘れるくらい楽しかった。駅前まで歩いていく途中で、記憶が途切れた。始めはアルコールでも飲んだのかと思った。でも違う。
病院のベッドで寝ていた。
「私、どうしたのかな?」
呟くと母さんが言った。
「内臓に老化現象が見られるんですって」
「そうなんだ。修は?」
「一緒にいた男の子? あの子はまたしばらくしたら、お見舞いにくるって」
窓から青白い光がさしていた。今は朝か夜か、判らなかった。
どうしてか、彼が遠くに行ってしまったように感じられた。帰ってこないとすら思えた。しばらく眠った。どうすることもできなかったからだ。どれくらい経っただろう。スマートフォンのライフ・ログは真っ白だった。
修が面会に来た。少ししてから呟いた。
「私、死ぬのかな……?」
「明里は死なないよ。大丈夫」
彼は優しかった。とても強かった。絶望している自分が恥ずかしかった。彼が出ていくとき私は次の約束をしたかった。けれど彼に縋りついてようで格好悪い。
「次は一週間後に来る」
母さんが入院に必要な道具を揃えていると、修が母さんに何か話していた。私はメディカル・カプセルに入るとすぐに意識を失った。
目が覚めたとき、見ている窓が違った。向こうの扉が開くと修がこちらを見ていた。
「ここは?」
「明里、遠いところに転院したんだ。ここはマンハッタン。ニューヨークだよ」
彼の言っている意味が分からず唖然としていた。
「まさか東京から出たの?」
「そう、君をメディカル・カプセルごと空輸したんだ。ここに着替えを置いておくよ」
なんて大胆な事をするのだろう。彼が病室から出ていくと一人になった。
混乱していた。服を着替えた。
「あれ? どうしてだろ……」
少しだけ丈が短い。サイズを確かめたが間違いはなかった。
成長した? 何が何やら分からない。
ニューヨークと言えばテロがあったことを思い出す。大きな二つのビルに飛行機がぶつかった。そのイメージが拭えなかった。
でもここはずっと未来のニューヨークの筈だ。そんな事はおそらく過去になってしまっている。
でも悲劇はずっと変化していた。
二〇〇三年十一月三十日、この世界の時間波と異なる世界の時間波が衝突した。時間は私達の知るように一つだけじゃなかった。科学者たちはこれを時間衝突仮説と名付けた。ここ、ニューヨークでは時が早く進んだ。人々が次々と生まれ、生きて、老化し、死んでいった。ここではいつでも誰かが悲しみに打ちひしがれている。いつも病院の窓から見えるのは葬儀社のバンだった。
とんでもないところに来てしまったなと思った。
そこに再び修がやってきたので尋ねてみた。
「どうしてニューヨークなの?」
「ここは医療の質が格段に上がっているからだよ。それだけ人が死んでいるから……だけど」
「私の症状は治るの?」
「それは、間違いないよ」
彼は即答する。
「でも明里にはしばらく眠っていてもらうよ。治るまでメディカル・カプセルの中にいてほしい」
それからは治療と休養とを繰り返した。
歩けるようになった頃、中庭を散歩した。白衣を着た老人に声をかけられた。
「あんた、ニホンジンか?」
訛りの強い日本語だった。
「ええ。そうです」
「どこから来た?」
「東京です」
「儂は青森にいたんだ。東京の事は前から知っていた。時の止まった都市は医学の面から見ても興味深い。VRセンターはやっているだろ? 保険適用の」
ヴィの部分だけ聞き取れた。それ以外は判らなかった。
「ここでは少しばかり時の概念が違う。お前さんも少しばかり驚くかもしれんが、おっと……。時間か」
バイブレーションが鳴った。老人は歩いていった。
病室に帰ると修が待っていた。
「探したよ、明里」
「ごめん。中庭に行っていたの。ねぇ、修。私の背、伸びたかな?」
「確かに。東京にいた頃と違うね」
「それってここがニューヨークだからかな?」
「そうかもしれないね。成長したのかな」
思えばそれが始まりだった。身体の年齢と精神の年齢のギャップは、それから徐々に埋まっていった。若さに縛り付けられない時間を手に入れたのだ。
病室には小さなコルクボードがあった。
写真が飾られている。自分が写っていた。ここに来てから数日のものだ。修は事あるごとに写真を撮っていた。まるで何かの記念のようだった。大半は自分が眠っている間の事で、少し照れる。彼は私の回復を喜んでくれた。今日も彼が来るだろう。
それは幸福な事だった。
「明里、調子はどう?」
「だいぶ、良くなったわ。検査の結果も順調だし」
「今日はVRセンターに行ってきたよ」
「どうして?」
「少しだけ、精神的に疲れてきたからね。簡易検査で分かったんだ」
「どんなVR体験をしてきたの?」
「二〇〇〇年ごろのニューヨークだよ」
東京じゃないのが少しだけ残念だった。
「摩天楼を上から見てきた。この風景だけは変わらないから。鳥になったみたいで気持ちよかったよ」
彼は見た目にはそれほど年をとっていないように見えた。
「花、持ってきたよ」
「前のは?」
「もう枯れちゃったんだ」
「早いね」
お互い、ニューヨークの時の速さに慣れつつあった。こうしている間にも時が物凄いスピードで進んでいる。けれど二人でいれば平気だった。
「病気が良くなったら、今度セントラル・パークに行こうよ」
「気が早いんだから」
こうして未来の予定を立てるのが楽しかった。私達の前には輝かしい未来があった。時間というものをこれほど強く感じたことはなかった。一方で東京に帰ることも考えていた。提案すれば修も快諾してくれるだろう。
私達は幸せだ。こうなったからには永遠に生き続けよう。
中庭のベンチに座っていると、あの老人が声をかけてきた。
「もうニューヨークには慣れたか?」
隣に座ると老人は続ける。
「儂の世代はこの急激な変化に慣れることはなかった。青森から帰ると、ここが未来都市になっていたからな。知り合いもだいぶ死んだ。若い者はあっという間に老けていった。命というものを改めて考えさせられる」
「それだけ医療の質は上がったんですよね」
「なんて皮肉だと思わないか? 会いたいやつはみんな天国に行ったよ。あんたも気を付けるといい」
「何に、ですか?」
「運命というやつ、かな」
「あの、最後に名前を聞いていいですか?」
ヴィクター・ギブスン、と老人は答えた。
「ありがとう、ヴィクター」
バイブレーションが鳴った。それに気づくとヴィクターは端末に指示を出す。そして彼はベンチから立ち上がった。
「どこに行かれるんですか?」
「向かいの病棟だ。容体が悪化した患者がいる」
彼は急いで中庭を横切っていった。
中庭では子どもたちが遊んでいる。ボールが転がってくるとそれを彼らに返してあげた。患者だろうか。手首にバンドをしている。修が来るまで時間があった。しばらく遊ぶことにした。
次の日、葬儀社のバンが窓から見えた。
ニューヨークに来て一ヶ月が経った。その頃になると病棟の事にも詳しくなっていた。この病棟は一般病棟だ。そして中庭を挟んで向かいが小児病棟と特別病棟だった。一緒に遊んだ子どもたちは、小児病棟ではなく特別病棟に入院しているらしい。それが不思議だった。
お昼ごはんを食べた後、中庭に行ってみるとヴィクターが疲れたように座っていた。
「お疲れですか?」
「まぁ、な。診ていた患者が一人死んだ」
何て言ったらいいか分からない。
「まだ幼いのに、気の毒だった」
聞くと特別病棟の話らしい。
「特別病棟ではどんな病気の患者がいるんですか?」
「遺伝性の病気だ。生まれつきテロメアが短い子どもたちだよ。彼らは今を生きていくしかない」
「今を?」
「そうだ。ここでは時間の流れが早い。彼らの寿命を考えると死は逃れられない」
東京に来れば、と言いかけた。それは甘かった。
「時間が停止していたとしても、寿命は変わらん。運命というやつだよ。お前さんも彼らには深入りするなよ。それがお互いに幸福だ」
少し寂しい気分になった。子どもたちは入院生活の中で小さな光だった。だから悲しかった。その日も子どもたちとボール遊びをした。今日は彼らの笑顔を直視できなかった。現実を知ってしまったから。その事を修に話した。彼は少し悩んでから、ある提案をした。
「写真を撮るよ。そして子どもたちにも見せてあげよう」
あの小さな友人たちにできることはなかった。意味なんてなくても何かしたかった。
次の日からそれは始まった。修は写真を撮るようになった。子どもたちははしゃいでいた。この輝きをどこかに留めておきたかった。
修は彼らの病室に写真を飾っていった。殺風景な子どもたちの病室はそうして色づいていった。
ヴィクターは黙ってそれを見ていた。
現実はそんなにうまくいかないようだ。次の一週間で男の子が亡くなった。
悲しかった。仲良くならなかったら良かったのかもしれない。
ヴィクターは言った。
「お前さんなりに頑張ったよ」
そんな言葉が欲しかったわけじゃない。幸福はいつかは終わること、その事がきつかった。
それでも続けられたのはなぜだろう。
隣に修がいたからだ。修は細かな一瞬をカメラに収め続けた。今日も子どもたちは写真を見るだろう。気に入ったものがあればプリントアウトしてあげた。
かわりに小さな手紙をもらった。文字を覚えたてで文章にはみえなかった。それでも嬉しかった。
その夜も特別病棟の様子を見た。遅くまで明かりが点いている。誰かの容体が悪化したのだろうか。心配だった。じっと向かいの病室を見ていた。
冷たい空気が病院を覆っていた。葬儀社のバンが入り口に停まっているのが見えた。死んだのは特別病棟の男の子だった。涙はどうしてか出ない。ヴィクターの言葉を覚えていたからだ。そこまで感情移入してない。だから、きっと大丈夫だ。
修が男の子の両親に写真を配っていた。時間は限られていたというのに、それはたくさんあった。
「ありがとう、って言われたよ」
「そう」
「明里、写真は続けるよ」
「でも悲しいだけじゃない?」
「やり遂げるよ」
彼は力強く言った。だけど、どうしようもなかった。これからいくつもの死と出会う。時の流れに抗えない弱さがあることを知った。ヴィクターはどんな気持ちを抱えているのだろうか。ヴィクターと会ったときに聞いてみた。
「患者が亡くなるときは辛いですよね?」
「そうでもない」
意外な回答だった。
「この街に生きている限り、この運命からは逃れられない。儂もそうだ。医療はどこまでも発達したが、全ての命は救えない」
「達観してますね。」
少しだけ嫌味を言った。彼は笑いながら答える。
「儂もあの世へ行く立場になりつつある。救ってほしいなんて思わないがな。
お前さんたちがしてきたことを否定はしない。だが、あれで彼らが満たされたのは一瞬だけだ。
人は生きていく限り永遠を望むだろう。だがそれが満たされない願いだと知ったらどうだろう? 儂らはそれを本人に伝えていかなくてはならん。それが道理というものだ」
「でも……」
言葉が喉に引っかかって出てこない。否定したかったけれど、認めてもいた。
「だとしたら、私達は?」
「東京に戻る、か。それも選択肢の一つだろう。だが老化現象からは逃れられない」
「死ぬことはないんじゃ……」
「勘違いするな。加齢しないのがいつまでも続くとは考えられない。遺伝子が活動する限り、寿命があるだろう」
「そんな…………」
永遠を望んでいたけれど、それは幻想だったとでもいうのだろうか。愚かだった。
「医療従事者から言えることなんて死の宣告だけだ。生きているものはその生を謳歌していずれ死ぬ。違いはそれが長いか短いかでしかない」
この街、いや全てにおいて当たり前の事なんだと思った。
修は今日も写真を撮る。それは子どもたちが生きている証だった。また自らも生きている証。それは鏡なんだと思う。彼がやり遂げたいと言った理由もそこにあるんじゃないかと想像する。
「修、その写真は?」
「今日、警戒を解いてくれたんだ。女の子が」
嬉しそうに写真を見せてくれる。その子は最初、あまり写りたがらなかったのだという。その写真は次第に子どもたちの両親をも明るくしていった。
こんな日常はおそらく長くは続かない。修も気づいてくれるかと思ったけれど、彼はどこまでも子どもたちについていった。眩しくなる時がある。彼は強かったのだ。彼に引っ張られてここまで来られた。笑顔を絶やさずに、そして子どもたちを直視できた。
ありがとう、と簡単に言えた。彼は困った顔をしていた。
「ホント、小さなことしかできない」
「でも、子どもたちはきっと嬉しかったんじゃないかな?」
彼は黙って頷いた。
今日はVRに行く修を見送った。彼も時の呪縛から逃れられないのだろう。精神が年をとったからだというが、不安だった。それを口にした事があった。修は言う。
「僕は精神と肉体がリンクしてるように考えるよ。肉体がこの時間に晒されている以上は精神もまた老化している。逆もきっとあるんじゃないかな? 精神を若く保てば肉体にもポジティブなフィードバックがかかると思うよ」
それは医学的に根拠があるとは思えなかった。
「一度、先生に診てもらった方がいいよ」
「明里、僕は大丈夫。元気だよ」
強情だった彼を説き伏せるのは簡単じゃなかった。
検査をした。この不安は的中した。彼もまた老化現象が見られたのだ。そのせいで緊急入院することになった。入院している間、彼はベッドを抜け出した。勿論、そんなことはしてはいけなかった。
行き先は特別病棟だった。写真を撮っていたのだ。
彼を叱った。
「本当に強情ね、修は! 」
「ごめん、明里。ただやり残したことを増やしたくなかったんだ」
「やり残したことって? 」
「僕の老化現象はね、ずっと前から分かっていたことなんだ」
初耳で驚いた。
「それって一体……」
「僕は死から逃れられない」
ヴィクターの言葉が過った。
「死ぬということが分かっていたら、やれることをしようと思わないかい?」
「でもそれは……」
無茶というしかなかった。そして自分の中で何かが揺らいでいた。ショックだった。このままだと暗闇に飲み込まれてしまう。何も言えなかった。修は写真を撮るのを止めなかった。それからの彼はとても遠かった。たっぷりと遊んできてここに帰ってくる。でもそんな彼を見ていて満たされていた。彼を見守るのがきっと正しいんだと思う。
修はたまに思い出したようにアスタナのことを話した。とても遠くにある理想郷。そこでは時間がゆっくりと流れるという。こことは真逆の都市だ。
「きっとまたそこに行けるといいね」
「そうだね」
握った手は力強かった。けれどきっと強がりなんだと思う。生きていると精一杯伝えたかったのだ。
でも死の匂いはそこから消えなかった。
一人で中庭のベンチで座っていた。疲れていたのかもしれない。ヴィクターが話しかけてきた。こうして彼と話すのも久しぶりだ。
「修が入院したの」
「そうかい」
「彼が遠くに行ってしまうかもしれない。私……どうしたらいいの?」
「落ち着け。いつも言っているだろう? 覚悟するしかない」
「覚悟?」
「そうだ、運命を受け入れろ」
確かにそれは逃れられない終末だ。この遠近法の先を見ていれば答えは決まっている。悲しかった。寂しかった。とても辛かった。
今日も彼に会いに行く。それはきっと自分のために。
彼の病室の前に行くと先客が来ていた。女の子だった。伏し目がちにこちらを見ている。警戒しているのだ。それを横目に通りすぎる。注視しては駄目だと思ったからだ。
「こんにちは」
「やぁ、明里」
彼はあまり変わらなかった。涙は出てこない。大丈夫だ、きっと。
「今日も写真を撮るの? 」
「そうだな、今日はモデルが来てくれないみたいだから……」
いたずらっぽく病室の入り口近くを見た。女の子がすたすたとこちらにやってきた。ぺこり、とこちらに挨拶する。修の隣に座った。彼はカメラを構えた。女の子はじっとカメラのレンズを見ている。カシャっと音がした。
「撮ったよ」
彼はカメラの出来を女の子に見せてあげた。面白そうに彼女はそれを見ていた。この風景はあまり変わらなかったから少しだけ安心した。
「修、今日の検査は? 」
「もう終わったんだ。明里はもう外出していいんだっけ」
「そうだけど、どうして? 」
「外の風景をこのカメラで写してきてほしいんだ」
それは大役だったと思う。カメラの知識はまるでない素人なのだから。
「じゃあ、セントラル・パークに行ってみるわ。その途中を写してくる」
ガチガチに緊張していた。こんな事は苦手だった。
外出届にサインし、スマートフォンで道を確認する。セントラル・パークへは徒歩で一時間弱の道のりだった。実際歩いてみると、ニューヨークの街並みを見るのが楽しかった。
セントラル・パークは広大な芝生や池があった。気持ちいい風が吹いていた。
何を撮ったらいいのか、よくわからない。空を撮ったり、自然の風景を撮ったりした。あまり面白みのある写真は撮れなかった。修ならこんなときどうするんだろう。二時間ほど公園内を歩き回った。カメラはずしりと重かった。
帰るとき街並みや通りの風景をカメラで撮った。少しだけ寄り道をした。VRセンターだ。ニューヨークのVRセンターは初めてだったから興味が湧いた。受付で見てみたい場所を選ぶ。ニューヨークとアスタナを選んだ。風景はアーカイブ化されていて、好きな時に好きな場所を選べるようになっているらしい。東京のVRセンターと違って、ここでは医療施設というよりかはエンターテイメントの要素が強いようだ。
ホールに案内されるとソファに座った。アナウンスが聞こえた。
「さぁみなさん。ゴーグルを被ってください。上演を始めます」
映像が始まる。異国の風景が広がる。これも過去の映像だが、懐かしいとは感じなかった。こうしていると風景の中に没入してしまう。
アスタナの風景もニューヨークのそれとあまり変わらなかった。アスタナの日常を体験していないから、そう見えるんだと思う。VRはアスタナの空気までは再現できない。それに鑑賞者である私にアスタナの記憶がない。でも修もこの景色を見たのだ。彼はこの風景を懐かしいと思うだろうか。
九十分のVR体験が終わった。ゴーグルを外す。
辺りは暗くなっていた。でも真っ直ぐ歩けばいいだけだったから心配いらなかった。歩きながら今日の事を振り返る。大丈夫、写真は撮った。子どもたちは喜んでくれるだろうか。
病院に帰ると修が待っていた。
「明里、おかえり」
「ただいま。今日は少し疲れた。カメラで写真を撮ってきたよー」
伸びをすると、彼の背中に寄りかかった。カメラを修に渡す。
「おつかれさま。よく撮れてるね」
「本当にそう思うの? お世辞じゃなく」
彼は頷く。
「それに外の風景はここからとても遠いから、きっと子どもたちは喜ぶんじゃないかな?」
「距離は近いよ」
「違う。ここにいると、つい外の事を忘れそうになるから」
確かにここにいるとニューヨークのイメージは絞られる。――病棟、医師、看護婦、死の匂い、葬儀社の黒いバン。それがいつも近くにあるから遠いものは見えなくなってしまう。見えなくなったら、それは無いのと同じだ。特にここでは遠い風景は光になり得る。外に出て、歩いてみて分かった。
「そういえば、修。VRセンターでアスタナを見てきたよ」
「いいなあ。僕も見たいよ」
「今度、見に行こう。約束だよ」
約束をした。それは叶わない夢かもしれない。けれどそうすることがきっと光になるだろう。
修の容体は日に日に悪化していった。写真を撮るのは私の方になっていた。子どもたちの事を撮るのもそうだ。
ある日、病院にVR体験用の機器を持ち込んだ。病院に許可はとってある。彼にアスタナを見せるためだ。彼の頭にゴーグルを被せる。
「これでいい?」
彼が尋ねると、ゴーグルの具合を見た。少し緩んでいるのでそれを直した。
「いいよ。映像を始めるね」
彼は楽しんでくれた。
「明里、ありがとう。これがアスタナに行ける最後の方法だった」
「最後だなんて、そんなこと言わないで」
彼にとってその風景がどんなものなのかはよくわからない。でもこうすることがきっといいんだと思う。彼はここから出ていけないから。
それから刻々と時間は過ぎていった。彼はあまり元気ではなかった。段々と目に光を無くしていった。彼の内臓は確実に老化していた。
あの冷たい空気が病室を覆っていた。段々と悟っていくのが辛かった。彼は明日には死んでしまうかもしれない。冷水を肌につけてるみたいな嫌な感触がした。
その日は来た。彼にさよならを言う。けれど彼には届かないみたいだ。彼の心音が止んだ。
修の事を思い出す。どんな時でも彼は強かったのに今回ばかりは負けてしまった。あの強い彼にはもう会えない。
朝靄のかかった中庭のベンチでぼんやりとしていた。あんなにはっきりと見えていたのに未来が見えない。どうしたらいいんだろう。誰かに縋りつきたかった。そして泣きたかった。抑えていたせいで、涙は出てこない。
泣けないのは感情移入しなかったからだ。それに深入りしなかったから。彼のことが好きだった。なのにそれも言えずに彼は逝ってしまった。
それからの日々はあまり覚えていない。
予後は安定していたから、修と一緒に帰ることにした。帰るときにヴィクターに挨拶した。
「色々ありがとう、ヴィクター。」
ヴィクターは何も言わなかった。
日本に帰国した。修の両親には連絡を入れておいた。遺体を彼の両親に預けると東京に向った。
あの晩秋の空気が待っていた。すうっと深呼吸する。家に帰ろう。
両親には少し驚かれた。年をとったからだ。背も伸びた。時の流れるスピードの速いニューヨークにいた、その証だった。
部屋で一人になると荷物を整理した。写真がいっぱい出てきた。修が撮ったものだ。何枚か見ているうちに涙が出てきた。昔、VR体験をした時も涙が出そうになったことがあった。理由が分からなかった。けれど今ならそれが分かる。撮った人の気持ちが分かったからだ。同じようにこれを撮った修の気持ちが分かる。それはきっと愛おしかったからだ。涙が出てしまいそうなくらいに。
家と学校そしてVRセンターの日々も変わらなかった。年をとってしまった私が過去に行く必要もなくなった。どこへ帰ればいい? あのニューヨークの日々以外はどこにも居場所なんてなかった。ニューヨークはここから未来にある。必要なのは未来に行ける装置だ。でも未来にあった私達の日々はもう無いんだ。思い出に浸ることもできない。ショックだった。
パソコンでリアルタイムのニューヨークを見る。これが今、いや未来にある筈のニューヨーク。ニューヨークはずっと速いスピードで動いていた。修との日々を思い出すこともできない。病院はあったけれど、ヴィクターはもういないだろう。まるで別の場所を見ているみたいだった。
ここにいたら、修との記憶を忘れてしまうだろう。それは嫌だった。
時間を手に入れるのは簡単だ。東京から出ていって、時間性災害の外に逃げ込めばいい。今まで思いつきもしなかった事だった。
それは臆病だったからだ。私達の知らない自由を修が教えてくれた。そうだ、一歩踏み出せば、東京から出ていくことなんて簡単だ。どんなに年をとったっていい。本当の時間に再び出会うために私は踏み出そう。
東京の朝は靄がかかって見通しがつかなかった。けれど電車に乗り込むとすべてが自明のように思えた。時間の谷を越えたとき本来の時間が私を待っていた。たくさんの時が流れたように思う。さよなら、東京。