熱帯魚
小林 蒼
雨がしとしと降っていた。ぼくは御茶ノ水方面の中央線に乗る。朝の通勤ラッシュは過ぎて、お昼前の中央線は空いていた。ぼくは座席に座ってゲームに没頭している。きょうは弟の翔太はいない。
濡れたズボンが足に纏わりついて気持ちが悪い。
電車の外の風景は次々と変わる。神田川が見えてきた。紫陽花が見えて、今は六月ということを思い出した。
ぼくは母さんが昨日言ったことを思い出す。
「熱帯魚、明日までに処分してね」
「うん。分かった」
ぼくはそう答えたことを今になって後悔している。いったいこれをどこへ捨てろというのだろう。
まず思いついたのは川だった。近くの駅から中央線で大きな川に辿り着ける。そこで処分しよう、そう思い立ってぼくはいま、ここでこうしている。
待っていれば川が。帰れるぞ、熱帯魚君。いや、ハッピー君。
橋に立って熱帯魚を放流しようとしたところだった。
「ちょっと、君、ここで何してるのかな?」
警察官だった。
ぼくは何も言えなくなって、熱帯魚を放つのを止めた。
「何でもないです」
そう言って走って逃げた。湿った空気を吸い込むと、ぼくの意識もその風景に溶けていきそうだった。凍えそうだ。何だろう、この気持ち。
ぼくは熱帯魚の様子を見る。まだだいじょうぶ。ハッピー君は元気だ。
電車にもう一度乗って、ぼくは秋葉原に着いた。
秋葉原の電気屋さんにはやっぱり熱帯魚が売られていて、その美しい姿にぼくは惹かれていた。ぼくの熱帯魚も負けていないぞ、と思った。ぼくは売られている熱帯魚の前でハッピー君を見せびらかそうとした。
彼ら、熱帯魚同士は意思の疎通を図るのだろうか。
ぼくにはわからない。
だって彼らは生き物じゃないから。電子の海を漂うモノだから。
彼らが泳ぐこの海は、この世界は、現実じゃないから。
ただぼくは母さんに言われた通りにハッピー君を捨てに行く。
ぼくは秋葉原の空を大きなクジラが泳いでいるのを見た。
ぼくは初めてクジラと言うモノをみたけれど、こんなに大きいんだ。
世界からクジラという生物が消えて久しい。
ぼくの知っているクジラは図鑑のなかにしかいないけど、あれを作った人たちもきっと同じなんだろう。
電気クジラは空を泳いでいる。クラウド・ホエール。
それを言ったら僕のハッピー君だってクラウド・熱帯魚だ。
ここに実体はない。たぶんスマホのメモリのなかにしかいない。アップロードされたライブラリのなかにあった、熱帯魚。それはクラウド・インフラを使って、ダウンロードした仮初めの存在。
確かに母さんはぼくに熱帯魚を処分するように言った。
でもどうやって? ぼくは秋葉原の上空に浮かぶクジラを見ながら考えている。
答えはまだない。
ぼくは歩いた。
荒れ果てた神保町の街を。デッド・メディアが並ぶ本屋という店の並びを歩いていく。
紙の本なんて、ぼくが生まれる前になくなってしまった。
だけど、それに執着する人達が集まってくる、ふしぎな場所だ。
人の影はあまりなくて、平日の昼じゃ仕方ないと思う。
人がいれば、そのメディアがどんなふうに使われているのかを確かめてみることができる。
焦げ臭い臭いがする。
何かが道の先で燃えている。現実と仮想の境界で著しく何かが揺らいでいる。
ぼくは何が燃えているのか確かめた。
熱かった。紙が燃えているんだ、と気づいた。
紙を燃やしてどうするというのだろう。ぼくは尋ねた。
「ねぇ何をしているの?」
「忘れているのさ。こうしていれば物語を思い出さずに済むから」
「これはなに?」
「物語、いや本さ」
本と聞いたとき、ぼくはふいにハッピー君と別れる方法を思いついた。
ぼくはコンビニで紙を買った。
そして、ぼくは紙にハッピー君との思い出を書いた。書いて、書いて、でもすっきりはしなかった。ぼくには文才はなかった。文才のせいにはしたくなかった。なんとかして、ぼくは思い出を物語に落とし込もうとした。
肩が痛くなるくらい、書きまくった。
そしてライターでその紙を燃やそうとした。けれど、紙はそんな簡単には燃えてくれなかった。
「燃えてくれよ」
ぼくは呟いていた。
「なんで消えないんだ」
消えてはくれなかった。忘れようとすればするほど、記憶は纏わりついてきた。
ぼくはハッピー君をどうしたら捨てられるのだろうか。
熱帯魚を見ている。
ぼくは早く自由になりたかった。熱帯魚を処分する。こんなの簡単なことだ。
でもそれができない。ずっとできない。できなくて悲しい。
ぼくはいつまでも自由じゃない。このたったひとつのミッションも熟せないなんて。
一人になる場所を見つけよう。でも街中で一人になんてなれない。
とにかくぼくと熱帯魚が向かい合える場所に行こう。
時間制のホテルに入る。
変わった形のベッドとジャグジーバス。
ぼくと熱帯魚は向かい合っている。熱帯魚の、ハッピー君の目が、ぼくをぼんやりと捉えている。
彼らの世界にぼくはいる。ぼくは彼らからどんな風に見えているんだろう。彼らに命はないことをぼくは知っているけど、その精彩な鱗と揺蕩うひれを見ていたら、命が宿っているように感じる。ぼくはそれを乱暴に掴みかかって、めちゃくちゃにしようとする。そうすればすべてが終われるって。終わるって。そう思えたから、そうした。
ぼくは熱帯魚から何の物語も引き出せずに、それを捨てることにしようとしている。
おねがいだ。ぼくは一体、これをすることの意味を見いだせずにいる。
だから、教えてほしい。ぼくはこの青い感情をなんと呼んだらいい。
ぼくは頭のなかを巡る電流が消えてしまえと切に願っている。
制服のなかに熱帯魚を匿ってぼくは学校に行く。
スクリーンの前でぼくは学んでいる。でもここでは何も教えてくれない。熱帯魚を捨てる方法をぼくは知りたかった。
「伊佐美君、ここ解いて」
数学教師の山中がぼくに促す。
ぼくは何をするにも気力が湧かなかった。
「わかりません」
そう言って誤魔化した。
「あとで職員室に来なさい」
「はい……」
先生は凛とした佇まいの人だ。時代が時代だったら戦士みたいな人だろう。
綺麗だとか、美しいとかとは違った位相の人だ。
「最近、集中力がないね、君」
「家で色々あって」
「そうなの、悩みがあったら言いなさい」
「悩みというか、熱帯魚が捨てられないんです」
「熱帯魚ねぇ。見せて」
ぼくはキーホルダーのようなものを差し出した。スイッチを押す。熱帯魚が姿を現した。
「消して」
「どうですか」
「うーん。私にできることは例えば思い出にしてしまう、とか」
「もう、しました。けど、駄目だった」
「そう」
山中は考え込んでしまった。
「そうだな、放課後に理科室に来て」
西日が射しこんでいた。外では運動部が活動している。山中のすらっとした背中が見えた。
「山中先生……」
「お、来たな」
「熱帯魚、捨てる方法を教えてください」
「それより、人類史を聴きたくないか」
山中は人類がこの熱帯魚と一緒だと話した。
「だとしたら、ぼくは何なんですか」
「わたしたちはかつてあった人類のコピーなんだよ。この世界も元あった世界のコピーなんだ」
その話を聴かせられるのは一八歳と決められているらしい。
「ぼくはコピーなんかじゃない」
「確かにそうとも言える。みんな自分に命があると信じている」
「信じているって……」
「わたしたちはどこからかダウンロードされたコピー。世界は本来、眠っている」
ぼくは熱帯魚を捨てたかった。けど、それを構成する世界そのものも、この熱帯魚と一緒だ。
「それを教えて、先生。ぼくらはどうなるっていうんですか」
「大人になる」
「それだけ」
「そうだ」
ぼくは逆方向の中央線に乗って、熱帯魚を、世界を、捨てずにいる。〈了〉