ヤタワタリの島

小林こばやしあお

作中に出てくる神話用語はすべて架空のものです。遠未来の日本でクレオール語のなかで神話が再構成されたものという設定です。



「にぃに、見えたよ」

そう妹が言うと、鳥肌の立つような郷愁が迫ってきていた。ボートを漕ぎ続けて二時間、見上げれば天の川が見えた。視線のさきには、ヤタワタリの明かりが目に入り、気持ちを孤独から引き上げてくれる。

妹の褐色の肌を見つめる。夏をヤタワタリで過ごしてきたというので、肌が焼けている。俺は、何も持ってきてはいなかった。爺さんの残した懐中時計とこの体ひとつだ。妹は俺の手を引き、ヤタワタリの港にボートを泊めさせた。灯火のぼんやりした明かりとホタルイカの漁を終えた男たちの群れを横目にヤタワタリのお社を目指す。ふと、見上げれば、星が涙みたいに落ちてきそうな夜だった。

ヤタワタリの夜は、人を詩人にする。

爺さんの言葉だ。ほんとうにそうだ。妹は遠くから手を振っている。すぐに追いつくと、手を挙げた。そうして夜は星空に飲まれていく。



ヤタワタリのお社には、量子コンピューターがある。そこで俺と妹は約束を交わした。きっと戻れるって。きっとだいじょうぶだって。

「にぃに」

「ああ、ここはアマノヤシロ、仮想現実だ」

「にぃにの記憶が、私たちの宇宙の形を、決定する」

そう言って俺は量子コンピューターに手をかざした。あたたかな光が俺を包みこむ。

一体どれだけの時間が進んだのだろう。

俺の意識は遠い天の川のさきへと進む宇宙船、ハバキリノヤのなかにあった。事故で記憶を失ってからの記憶を思い出している。どんな記憶の連なりでもいい。それが量子コンピューターの記憶を作る。人の脳の記憶は神経細胞の結束と消滅、そうしたエントロピーの増大の法則から逃れられない。いっぽう自然界に眠る記憶はどうだ。その記憶はネゲントロピーといった作用を用いて記憶される。自然界のそうした記憶の計算を取り出して使えるようにしたものが量子コンピューターだと言える。

記憶はまた形をゆらゆらと変える。夜光虫の光の波が浜辺に打ち上がる。俺だけに見える柱が高く天へと伸びている。いつの間にか辺りは明るくなっていた。

「もういいのかい?」

爺さんの声がした。爺さんの腰にはあの懐中時計がぶら下がっている。

「まだだよ、記憶は完全じゃない」

「そうか」

爺さんの視線のさきに塔が消えていた。爺さんのにっとした笑みが俺をふたたびハバキリノヤの意識へ戻した。遠くの星々の風景は変わらない。当たり前だ。宇宙の形を変えるなんてそうそう出来るわけがない。妹の言葉を思い出している。ヤタワタリの夜へと俺は戻っていく。

あれはずっと前のことだ。ヤタワタリのお社でいつの間にか眠りこけていた俺は、妹の声に揺り起こされた。

祭りの日だった。

アジアと日本の文化が混在する現実のヤタワタリでは、夏に祭りが催される。灯籠流しの点々とした明かりが夜の波間へと漂っていく。さきの津波ではたくさんの人々が流されて亡くなった。うちの爺さんもそうだ。

爺さんはよく笑う人だった。逞しい腕で俺をおんぶしてくれたことがあった。煙草の臭いにおいがした。それでも爺さんのことが好きだった。何度だって帰れるならば、あの時間に帰りたいと思った。それは叶わなかった。爺さんと歩いた黄昏時にいまも俺の心は囚われているのかもしれない。それでも前に進むためにヤタワタリの島から出たのだ。そうして、たくさんの外の世界を知った。それでも永遠の時間があるならば、あの瞬間以上のものは無かった。無時間を永遠と信じるほど、俺は達観していなかった。タイムトラベルが出来たとしても、どんなに輝く瞬間に出会えたとしても、心を揺らす風景はたったひとつだけなのだと知った。

海の匂いがした。

ヤタワタリから出て二年目の冬、島が大津波に飲まれたと知った。



「にぃに、もう知ってるんだよね」

仮想人格となった妹の声は、そっくりそのままで泣きそうになるくらいだった。

あの島は、ヤタワタリは無くなった。しかし、アジアの復興プロジェクトで仮想現実アマノヤシロが建設されることになった。そこで俺はコンセプト・デザイナーになった。

どれだけの費用がかかっても、その島を再現することの意味はあった。ヤタワタリは日本に残された最後の神の眠る島だった。

神とは、何なのか。それは祀ること、それ以上の意味はない。祀ることによってそこに人心と神気が満ちて、そこは神の土地となる。

神は宇宙の形を決める。宇宙の形は曲率から算出される。もうすでにわかっていたことだが、深宇宙探査機カガミノミコトがプランク長がプランクスケールより僅かに短いことを素粒子観測から発見した。プランクスケールは森羅万象のあらゆる相互作用に影響する。ドミノ倒しのように宇宙のあらゆる変数が影響し合う。こうして宇宙の終わりの予測が立った。その終わりに対抗するためにヤタワタリを再興し、神事による宇宙の曲率算出をする。それがアマノヤシロ・プロジェクトだった。アマノヤシロのおかんなぎたる俺はそうして量子コンピューターを用いた宇宙の曲率算出を始めることとなった。

――海へと潜る。深く、息の続く限り潜る。それは記憶の深さに影響する。

妹の産まれた日のこと。彼女が産まれなかったら、俺の人生はもっと淋しいものだっただろう。彼女が生きていなかったら、俺の人生は終わりだったんだ。記憶はいつも優しい。妹の笑顔を何度も記憶から呼び起こすたびに何度も泣きたくなる。俺は胸をかきむしって、心臓を潰したくなった。妹は津波で死んだんだ。

黄昏時に別れたあの微笑みを忘れたくない。仮想人格の妹はたしかに俺の知っている彼女そのものだけれど、妹じゃない。その事実は変わらない。彼女のほんとうの笑顔に会えるのは、夢のなかだけなんて悲しい。その笑顔を、もっと見せておくれ。

俺はつぎに目覚めたとき、ヤタワタリを外から見ていた。ヘリコプターから眺めるヤタワタリは自分が知っている大きさよりも小さくちっぽけだ。フォンが鳴って、電話に出る。

「にぃに、いまから面白いものが見られるよ」

妹はそう言って、イルカが泳ぐ海のうえのボートから俺に手を振っていた。そうして、津波が押し寄せる。俺は悲鳴を上げる。そうしてボートは転覆して妹を死なせた。

そんな記憶を何度も見せられた。それが記憶ではなく、過去の俺の恐れそのものだということに気がついた。俺の記憶は量子コンピューターによって冷静さを取り戻す。時間は巻き戻る。マクスウェルの悪魔が微笑み、俺たちを無垢な少年と少女へと戻す。何も知らない俺たち、きっとそれでいいのだ――。

「にぃに、だめ」

にぃには神さまの役目を果たすの、それがあなた・・・のしなければならないこと……。これは記憶なのか。背の伸びた妹が俺の手の指をさする。

そうして、そっと包む。あんなに小さかったあの手が、こんなに大きいだなんて知らなかった。

「量子コンピューターにはね、未来もそこにある」

「記憶だけがそこにあるのではないのか?」

「ええ、それが人間の言う記憶と呼べるものかは分からないけれど、未来の時間が量子コンピューターには記憶できる」

「だったら、教えてくれ。俺には何が足りない? 俺に、俺の記憶に! 宇宙の曲率を、正しい宇宙を教えてくれ!」

「それはね……」

妹の面影は薄明の海へと消えた。



目覚めると、畳の匂いがした。扇風機の音がしている。起き上がると俺の背丈は子どもの大きさだった。少し驚く。気温はまとわりつくような、嫌な夏の暑さではない。なつかしい子どもの頃の温度だ。ほっと一息つく。麦茶の入ったグラスに水滴が滲んでいる。誰もいない部屋でひとり、黙っていると外は不気味なほど静かだった。夏の盛りだというのに、蝉が鳴いていない。おかしいと思って縁側から外に出る。俺の家の上空に大きな石が浮かんでいる。島をすっぽり覆うほどの石だ。あまりの現実感の無さにたじろぐと、空気が振動している。なにかの爆発音だ。

島の上空に浮かぶ石から聞こえてくる。部屋の奥から爺さんの声がした。

「起きたか?」

「爺さん、あれは何だ」

俺の口調は大人のもので、その違和感を爺さんは気にせずに続けた。

「ヤタワタリの、ミミギノイキタリ。すべてを終わらせる最後の時間が始まる」

終わる? 世界が? そのことを爺さんは知らないはずだ。爺さんは、この時空は何なんだ。これは現実か、夢か? 記憶のなかに、こんな現実があっただろうか。

「俺には……俺には……やらなくてはならないことがある」

「知っている。世界は終わるのだろう?」

「それを知って、ミミギノイキタリを止められないのは何故だ」

爺さんは煙草に火を付けた。ふぅーと息を吐く。白い靄があたりに煙る。

「ミミギノイキタリは世界を滅ぼすために存在しているわけではないからだ……」

「なに?」

「世界は一度、滅ぶ。そうして新生する。お前が記憶を巡っているのは、記憶が宇宙の原初の姿を見いだすためだ。ただ本来のヤタワタリはそれを望んでいなかった」

「ヤタワタリに意思や思惑があるというのか?」

「そうだ、世界の理を人間はすべて掴んだと思っている」

爺さんの瞳の奥が輝く。

「すべては一度、変転する。流転したものよ、何度もこの風景を見ているだろう?」

それは、と言いかけて俺は目を閉じる。眩しい光が閉じた眼を襲う。閉じても閉じても光は止まらなかった。襲い来る光にただ対抗しようとして、気持ちを強く保つ。光は俺を暴く。俺を冒す。俺を未知の世界へと連れ出す。なつかしい手のひらが、妹の体温が、彼女の手が俺を連れ出す。この風景を俺は何度も見ている。

未来の記憶は、世界を崩壊へと誘っている。それでも世界の均衡を取り戻さなければならない。俺にだってそれくらい分かる。エントロピーが分子の運動の乱雑さを示すなら、それを静かな海に帰してやらなければならない。そうだ、津波に襲われるまえの静かなヤタワタリに、過去へと引き戻す。それが俺の役目だ。



どれだけ深く、記憶の奥底に潜っただろうか。未来の記憶をも内包した記憶の海へと俺は泳ぐ。そうしてヤタワタリの始原の光景に巡り会った。神話の時代のヤタワタリを俺は見ている。ミツカヒコがヤタワタリに棲みつく様を遠くから見ている。それは天から覗くミニチュアのようで、俺は手を差し伸べてやろうとするが、どこからか伸びた別の手に止められる。その手が誰の手なのかはわからない。

胎児には記憶があるという。前世の記憶というオカルトではなく、胎児がその姿を人間ヒトに変えるまで数十億年のあいだのすべての記憶がDNAを通して、再現され、その胎児の心にはすべての生命の記憶が再生される。人は人になれば、その記憶は忘れる。わらべの時は語ることも童の如く、思うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが、人と成りしは童のことを捨てたり。

人は人になる前には世界そのものに近い動物だったのだ。

ただ忘れてしまっただけだ。

数十億年に満たない時間が、宇宙そのものの未来を決定することはできない。ただ記憶を思い出すということは一種のタイムトラベルで、相対性理論は時間と空間はひとつにする。俺はふたたびハバキリノヤのなかの宇宙船に乗る自分と心を同期させた。時間と空間を異にするということは、この世界の時間は乱れているのかもしれない。一人一人がまったく違う時間感覚を持ち、時差を持つようなものだ。時間が傾いでいるのかもしれない。動物の時間が心拍数によって変わるように、人それぞれの時間が砕けて、共通の夢が無くなるのだ。

記憶の海が作り出す宇宙で、俺はほんとうの宇宙の形を、見つけなければならない。遠くが歪む。そうして宇宙の曲率が急に負の値を取り始めた。宇宙が波立って形を変えていく。何かの予兆なのかもしれない。

「ミミギノイキタリが始まったのか……」

それは影の如く、忍び寄ってきた。

宇宙の終わりが目前に迫ってきている。それはどこか空間を異にする宇宙で、記憶の隅から時間を侵食する。じわじわと褐色へと変わっていく世界の切れ端の、その向こうの風景で幼い俺と妹がヤタワタリのお社でアガノミタマに触れる様を見ていた。アガノミタマには世界の秘密が隠されていると爺さんの昔話で聞いたことがある。ミツカヒコがヤタワタリで見つけたアガノミタマによってここは神の住む島となった。アガノミタマはお社に奉納されていて、それを暴くことは罪に問われる。

俺と妹はたしかにアガノミタマに触れたのだ。世界はそこで混沌に囚われる。そうだ、どうして忘れていた? 俺たち兄妹はアガノミタマを通して、すべての記憶を、宇宙の語りそのものを知っていた。宇宙は調べとなって、俺たちにヤタワタリから去るように命じた。俺も妹も幼かった。その意味をはっきりと理解できなかった。そうしてヤタワタリは神から見放されたのだ。

ハバキリノヤが揺れる。こうして俺が量子コンピューターを介して、世界に接触しているのは、宇宙の形を取り戻す使命以上に、アガノミタマを元の場所に戻すことに他ならない。アガノミタマはたしか懐中時計のなかにあったはずだ。あの日、爺さんは俺たちの悪行を知っていた。それを見逃した。なぜだ? 

俺はふたたび爺さんとの記憶に立ち戻る。

黄昏時の、あの永遠の時間に俺は帰っていく。



怪我をした。擦り傷のような軽いもので、だから爺さんが俺をおんぶして運ばなくてもよかった。妹とお社に忍び込んだ後、なにかを見て驚いて、俺はただ躓いて転んだだけだったのだから。

「いいか? 今度、坂を下りるときはゆっくり辺りを見回すんだ」

「わかったよ、俺の不注意だった」

「分かればいいんだ」

何度も思い返した台詞が耳に伝わっていく。俺にとって大切な記憶そのものだ。懐中時計を首にかけて、きらきらした文字盤が辺りの風景を映している。俺の鼻がそこに映り込むと、爺さんは何気なく訊ねてきた。

「お社に入ったな?」

俺は気まずそうに答える。

「うん……」

「あそこで何を見た?」

何を見たんだっけ。そうだ、あれは……。

――柱だった。

「懐中時計を返してもらおう」

「わかったよ」

それを爺さんに伝えた俺を、もうひとりの俺が見ている。視線が爺さんに交わると、爺さんはいるはずのない俺に視線を向けた。目と目が合う。

はっきりと分かった。爺さんはこの時空の人間じゃない。死んですらいない。生きている。それがどんな姿なのかはわからないが、禍々しい姿で俺を見ている。ずっと親しい人間のフリをしていたその異形は、俺と言葉を交わす。

「ヤタワタリに何をしに来た?」

それは、言った。

「アガノミタマを奪う、そして我が宇宙を作り直す」

「それがどんな意味なのかを知っているのか? 世界を壊すということだ」

「世界は何度も壊してきた。ゼロか一か、それが重要なことだ」

「爺さん、いやお前は何度、世界を……!」

「知らぬ事だ。私には何も。ミミギノイキタリを起こすことで宇宙はヤタワタリと共に私の怒りに晒される。宇宙は退転を繰り返し、私にふさわしい世界となる。忌まわしい神代は歴史から姿を消す」

俺にはもうこの過去は過去じゃない。現実にある。未来が量子コンピューターにあるというなら、この異形を、止める術はあるのか? 時間を巻き戻すシステムでこの異形を消し去れるのか? それはできない。どんな因果も、どんな世界も、この怪物の侵入を許したならば、それはどうにもならない。爺さんが、いやそう信じていたものが、世界を破滅させるものだったなんて――。

俺は爺さんの懐中時計を奪おうとする。そのなかにはアガノミタマがあるはずだ。

「無駄だ」

手にしていた懐中時計にはアガノミタマは入っていなかった。

「何で……」

俺は小さな悲鳴を上げる。

「アガノミタマをどうした?」

爺さんはにっと笑った。あの笑みがこんなに不気味に感じられたことはない。

「アガノミタマは霊的な物質だ。そも懐中時計になど仕込めるものではないよ」

俺は喉が急に痛くなった。息苦しい。

「っ……」

おかんなぎよ、アガノミタマを腹のなかに孕め。お前を食らい私がミミギノイキタリの向こうへと意識を飛ばそう……」

「く……」

腹が割けそうな痛みが走る。俺は記憶の隅で消えてゆくとでも言うのか? 

空間を異にする俺が量子コンピューターを用いて俺を記憶から引き上げる。俺の脳のなかの記憶が改変されたことを知ったらしい。俺はその改変を量子コンピューター内の妹の仮想人格に伝えた。

「あれは何だ、何なんだ?」

「量子コンピューターに巣くうデーモンかしら」

「未来へも、あれ・・は介入できるのか」

「わからない。あの存在は私たちの知るずっと昔からヤタワタリを見てきたようね」

「ミツカヒコより前か?」

「いいえ、おそらくあれはミツカヒコと同時代の何か」

始祖ミツカヒコは、ひとりでヤタワタリへ来たわけではない……」

「何か、彼らについて記憶の中で見なかった?」

そうだ、あの始原の風景に伸ばされた腕は誰のものだったか。

「記憶の海のなかで、ミツカヒコへの介入を止める存在がいた……」

「それは?」

「あの爺さんではなかった……ただそれ以上、アクセスできなかった」

「にぃに、だとしたらもう一度そこへ潜ってほしい」

「できない……」

「どうして?」

「怖い」

「怖い?」

「そうだ、俺にはあの爺さんが爺さんではなかった恐れが加わった。爺さんは俺の記憶の柱そのものだった。それが崩れた……俺にだって分かる。黄昏時のあの永遠が俺をここまで連れてきたんだ……」

「にぃに、もう一度。きっと戻れる」

妹が俺を抱きしめた。その温もりは、その質感クオリアは、本物だ。ほんとうの人生の意味とか、永遠とか、魂とか、どこにあるのか分かった気がした。




ボートでヤタワタリの始原の風景へと漕ぎ出す。ミツカヒコがヤタワタリに降り立ったその日に、神話ではない、その瞬間に俺は立っている。これは俺の遡れる最大の時間跳躍だ。思い出しているのは生命記憶の領域だ。数十億年の生命史のなかから、ミツカヒコがヤタワタリへ来たその日を再生している。

暗い海が俺を飲み込もうとしている。

風が俺を吹き飛ばそうとしている。

ミツカヒコがアガノミタマを掘り出した。そうして神がこの地に降り立ったと神話では伝わっている。しかし――。

夜はいまだに暗い。俺には、刻一刻と過ぎる時間がそれほど神聖な時間とは思えなかった。俺は立ち上がってミツカヒコへ向かっていく。ところが誰かに腕を掴まれた。

「爺さん?」

敵意が漲る。俺は目をかっと開いて、爺さんを倒した。思ったより軽い爺さんの体は、簡単に倒れた。

爺さんはあの笑みでにっと笑った。

「何を笑ってる?」

「大きくなったな」

それは俺の良く知っている爺さんだった。あの禍々しい異形を宿した存在ではない。

それでも俺の理性は彼を疑っている。

「アガノミタマを食うつもりだろう?」

「あれはお前のなかにあったのか……片割れは海に沈み、土地へ戻ったはずだが」

「片割れ?」

「そうだ、お前さんの妹の腹にアガノミタマの片割れはあった」

「俺にはもう何が何やら……」

頭を抱えると爺さんは言った。

「ミツカヒコがヤタワタリへと上っていくぞ」

「ヤタワタリはこの島だろう?」

「違う。この島をヤタワタリと呼ぶのは間違いだ」

え……と俺は首を傾げた。

遠くのミツカヒコが白い柱状の何かへと上っていく。いつの間にあんなものが建っていたんだ? あれは、そう。俺がアガノミタマを手にした日に見えた柱そのものだった。

「柱は無限に続く階段世界。神さまが人に許した最後の塔だ。八咫渡りヤタワタリとは、あれを本来指すものだ」

「ヤタワタリのむこうへは何があるんだ?」

「神へ繋がる。お前さんが知っている私は、そこへと向かおうとしている……」

にぃに、聞こえる? 声が直接、頭へと流れ込んでくる。

にぃに、ミミギノイキタリは止まらない。けれど、ヤタワタリに外敵を侵入させてはならない――。

声は妹ではなかった。

「この声は?」

「量子コンピューターに存在する自然の記憶そのものが具現化した神霊だ」

「爺さん、あんたは誰だ?」

「神代の昔のアガノミタマの所持者だ……」

「なら、教えてくれ……俺はどうしたら……」

「役目を果たせ、お前に託された使命を」

俺はもう一度、量子コンピューターに戻って、いくつものエントロピーの式を書き出した。熱とエントロピーに関わる方程式が出揃った。その方程式が宇宙の曲率算出のために必要だからだ。それは俺の記憶が宇宙の形状を決めるに等しい。方程式を使ってミミギノイキタリを止めてみせる。

記憶の連なりは、事象のあらましは、ミツカヒコがヤタワタリを上り、そうして神の島を作ったことから始まる。神の島、ヤタワタリはそれまでの別の神々を放逐してしまった。追放された神々は神の力を取り戻すために何度かアガノミタマを取り返そうとしたのだ。そうして何千年と時が経ち、愚かな俺たち兄妹がアガノミタマを解き放ってしまった。ミツカヒコを新たに求めた神は、柱を地上へ落とした。その柱へと新たなミツカヒコが上るのを待っていたが、その存在は訪れなかった。代わりにいま、追放された神がヤタワタリへと上ろうとしているのだ。

その記憶がミミギノイキタリを静めるはずだ。

ハバキリノヤの俺が量子コンピューターにその記憶を入力していく。そうして自然界の記憶が宇宙の曲率を決める。曲率は負の値を取っていたがやがて振動していき、それが新たな世界を創造する――。



波の音を聞いていた。波がぷつぷつと立つ音がする。遠い日に俺が亡くしたものに思いを馳せる。ヤタワタリを上る異形を止めるべく、俺はヤタワタリを上り始めた。

前へと進む人影を大声で呼び止める。

「待て!」

それは仮想現実の見せる幻ではない。しっかりとした現実だった。

爺さんの顔は変形していき、龍の顔になった。赤い瞳に見つめられると息が苦しくなる。

「お前がミツカヒコになる資格はない。私がミツカヒコになりて、この世でミミギノイキタリを起こし、宇宙をやり直す!」

「もうよせよ、俺には分かっている。帰るんだ、元いた世界に。俺たちは夢のつくった存在だ」

「なに……?」

「時間は人類の見る共通の夢だ。虚構のひとつだ。同じ時間を人々が生きているなんてまやかしだ。時間と空間を異にする俺が、ハバキリノヤとヤタワタリにいることは常人の時間感覚では不可能なことだ。時間軸は俺の中では、ほんとうは二軸に分かれている。

空間もそこで割れる。各々が並行宇宙に存在するようなものだ。その宇宙は、記憶するというエントロピーの増大則によって統合されている。統合されているのだから、その前の状態がどんなものかが分からない。人間の脳の不可逆的なシステムがそれを担っている。夢はそうした生の情報を脳に一時的に溜めおくシステムだ」

「夢ならば、醒めるはずだ」

「いいや、醒めない。眠り続ける。生物には眠りという生理機構が備わっているが、それは中枢神経系より原初の散在神経系の時代から存在する。眠りは覚醒よりまえの意識状態なのだ。動物や魚類、軟体動物に意識があるとするならば、それは人間の見る夢のようなものだろう」

「黙れ、黙れ、黙れ! 世界は、私の知る世界はひとつだ。夢ではない!」

龍は次第に体の大きさを変化させた。その大きさが天を覆うほどになると、俺は体の底が熱くなるのを感じた。

そうだ、知っている。

気づけば、俺もまた蒼穹そうきゅうを覆う龍となっていた。

光の龍と黒き龍が互いに絡み合う。そうして牙を立てる。肉片が飛び散り、黒き龍は赤い瞳から血の涙を流す。構わず俺は己の光をさらに輝かせる。闇を払うように、黒き龍は退く。

光の龍はヤタワタリのうえへと昇っていく。そうして神気を纏う。黒き龍はそれを追う。黒き龍は口から火を放つ。数千度の火柱のなかで、超精神体である俺は形を損なわない。

「なぜだ、なぜ、お前なのだ……」

「俺は記憶から、過去から逃げなかった。お前は何度世界をやり直した?」

「それが違いだと……」

黒き龍の言葉が波間に消えていく。俺は口から激しい炎を吐いた。黒き龍は体を三つに割かれる。赤い瞳から涙が零れる。その涙がヤタワタリの向こうに三つの島を作った。

新しい神話が始まるのだ……。

空間を異にする俺はハバキリノヤのなかで時間を、またひとつに統合しようとしている。それは自分の存在を無かったことにすることに等しい。

自然界の記憶が自然に帰り、人間の及ばぬ宇宙へと変転する。

それが前より退転するかは誰にも分からない。宇宙はミミギノイキタリを受け入れる。そうして宇宙が終わりを告げた。



アマノヤシロが解体された夜、ヤタワタリのあった海でアガノミタマの星屑が浮かんで青い光を放つ。海は生命の原初の世界だ。生命の時間は急速に巻き戻り、時間は、生命のあいだで一度、ひとときの夢となって万物に同じ夢を見せた。ミミギノイキタリという夢が生命の記憶に刷り込まれると、またつぎのミミギノイキタリまで夢は生命の時間に取り込まれる。宇宙の語りは、俺という語りを、待っている。

そうだ、海よ。海よ、記憶を眠らせて。〈了〉