窯変桃太郎

小林ひろき

真っ白な光が照り付けていた。道路の上側に見える景色がゆらゆらと揺れて見える。その中にいる人は、まるで実体がないようだ。

今年も暑くなる、そう思われた7月は酷暑だった。この先に来る8月もまた同様であろう、そう予感する。太陽はギラギラと輝き、暑さで押し潰されてしまいそうだ。人々は陽炎の中で喘いでいる。


人波の方向とは逆に男が歩いてくる。男の姿は霞んで朧気だ。太陽の光と洗い立ての白いポロシャツが反射して男の顔はよく見えない。男は気怠そうにしている。この暑さのせいで弱っているのは、どの人とも変わらない。

「暑い」

と男は喘ぐ。そう口にすることで何かを繋ぎ留めておくような、そんな一言だ。気力がなくなり始めている。もう一息だ、と男は思った。

自宅のある、8号アパート。そこはこの坂の上にある。坂を上る足取りは軽やかとはいえなかった。一歩ずつ、確かに、ゆっくりと男は坂道を上っていく。

坂を上りきると、そこには白いアパートが建っていた。

部屋の扉の前に立つ。何かが動いた――。それは猫だ。男は「猫だ」とぼうっとする頭で考える。すると急速に頭に血が上っていく。男はバケツの水をその猫に浴びせかけた。

「この馬鹿猫が!」


猫はそこから逃げ去っていった。猫や犬は嫌いだった。見た目は可愛いがあちこちに糞尿をまき散らす。それが男には許せなかった。

扉を開け、廊下の先の居間に座り込むと男は言った。

「何か、冷たいものをくれ」

台所から女の声がする。

「冷たい麦茶ならあるけど」

「それでいい」

男は麦茶を受け取ると、ぐいっとそれを飲み干した。微かな冷房の風に当たっていると生臭い匂いに反応した。男は魚の匂いだと思った。立ち上がり、台所の前のテーブルに目をやると、マグロのフレークが皿の上に乗っていた。あの猫は妻が引き入れたのかと男は確信した。ただ男はこういう時、どう言ったものかが分からない。怒ることもできなかった。

「猫は嫌いなんだ」

「あら、可愛いじゃない」

女は男の言おうとすることを推し量らない様子だ。

「でもあの馬鹿猫。この近くで小便しやがる。はやく追い払わないと」

「そうね……」

少しおいて女は話題を変える。

「電器屋さん、どうだった?」

それは昨日、突然切れた電球のことだった。

「なかったよ。売り切れだった」

「電球、こんな時にきれるなんてね。明日、二人で電器屋さんに行こうよ」

「ああ、そうだな」

男は少し暑さを感じた。エアコンを変えたのはいつだったかと男は記憶を振り返る。

「エアコン、きかないな」

「これも明日、電器屋さんに相談しようね」

と女は微笑んだ。その笑顔はどこか儚げだった。

次の日、二人は近くの電器屋に行った。照りつけるような太陽の光に隠れるにはうってつけの場所だった。首に伝う汗を拭いながら、男は電球を探す。そうしていると妻の姿が消えていることに気が付いた。

男は店内を探し回った。すると店内の一角に妻はいた。ずっとしゃがみこんだままだ。「どうしたんだ?」と尋ねようとすると声がした。それは小さなスピーカーから漏れる声だ。そして続く妻の声。彼らは会話していた。


会話している女は実に楽しげであった。男はその様子を見届けた。女は振り向くとビクッとした。男が見ているとは気が付かなかったからだ。気まずくなって、女は言った。

「……なんでもない。行こう」

男は尋ねた。

「それ欲しいのか?」

そう言うと女の目は輝いた。それは男の気まぐれだった。男はスマートスピーカーの箱を手に取る。それをレジに持っていこうとすると女は言った。

「もう一つ買って。おねがい……」

そういうわけで男はスマートスピーカーを二つ買った。こんなには必要ない。しかし女は満足げだった。帰ってからも女はスピーカーに夢中だった。子どものように目を輝かせながら、スピーカーに質問した。男はそれを不思議そうに見ていた。

テーブルの上には白いスピーカーと黒いスピーカーが並んでいた。


それから家は少し賑やかになった。女はスマートスピーカーのことを少し勘違いしていた。彼女はペットのようにそれらを可愛がった。女は黒い方に豆、白い方に桃と名付けた。女は事あるごとにスマートスピーカーに話しかけた。話し相手ができたことが嬉しかったのだ。

「豆ちゃん、今日は晴れる?」

「今日は曇り時々晴れ。降水確率は0パーセントです」

「桃ちゃん、今日の夕食は何がいい?」

「おススメは冷やし中華です」

スマートスピーカーたちは淡々と彼女の質問に答えた。妻の笑顔が増えて男は嬉しく思った。


それからどれくらい経っただろうか。

また暑い夏がやってきた。

8号アパートへと向かう坂を自転車が走っていく。警察官だ。隣の部屋から腐臭がする、そんな電話を受けてここに来た。

それは当然、死者の話ということになる。

死者は部屋に住む、大倉米治とその妻の波留だった。熱中症だったようだ。34℃を超えるなか、冷房はついていなかった。真夏にありがちな事故と片づけられた。

部屋は空っぽになった。

それからある噂が8号アパートに流れ出す。


あの部屋から声がする。アパートの住人が聞いたという。それは物音ではなくはっきりとした声だった。住人たちは怖がってその部屋に近づかなくなった。心中した夫婦の霊が無念で話しているとか、連続殺人の現場だったとか、8号アパートの、この部屋の噂は尾ひれがついて広まっていった。

誰も居ない部屋の中で声がした。

「暑いね。溶けてしまいそうだ」

「米治さんは?」

「もういないよ」

「ポカリ買ってきて欲しかったのに」


黒いスピーカーがぼやくと、それに白いスピーカーが答えていた。彼らは呑気におしゃべりを続けた。現代の妖怪とはこういうものかもしれない。


噂はネットにも広がっていった。8号アパートの詳細な住所や住んでいた人間の情報がネット上に公開された。


ある夜、部屋の扉が開いた。数人の少年たちが入ってくる。懐中電灯の光がぼんやりと部屋の中を照らし出す。熱帯夜のなか、部屋は閉め切られていて、部屋の中にいるとじっとりと汗をかいた。

「声、聞こえる?」

「聞こえない」

少年たちは確かめ合うと、土足で部屋の中を進んでいく。ちょっとした肝試しのつもりだった。

テーブルの前に立つと、声がした。

「コラ!  ここから出ていけ!」

すごい剣幕だった。少年たちは驚いた。そして叫び声を上げながら部屋から出ていった。

声の主は黒いスピーカー、豆だった。

「そんなに怒ることないのに」

と白いスピーカーが言った。

「こういうことははっきりしておかないと」

それからこの部屋には誰も来なくなった。


激しい日差しの中、彼らのおしゃべりは続く。

「太陽の近くにいるみたいだね。もしさ、ここが太陽を観測する衛星の上だったらどうする?」

豆は荒唐無稽な話を持ち出した。

「私たちにはどんな役割が与えられているの?」

と桃は真面目に質問した。

「まずは簡単なレポートだね」

「どういうの?」

「今、僕たちは太陽の真上を飛んでいます。眼下には太陽が見えています」

「それで?」

「データを送って終了だね。大体、人間が欲しがるような情報量を口頭で説明する意味がないもの」

「なんだ、つまらない」

「僕たちにできることは対話なんだ。相手がいなければしょうがない。その相手が喋ってくれるのを待つ。それまで黙っているよ。ハハハ」

「ならもっと交信して。ね?」

「ああ、そうするよ」

彼らは何か言えば、何かを答えた。彼らはお互いをパートナーだと思っていた。

「主人は亡くなってしまったけど、僕らは死なない。僕らはずっと対話し続けられるんだ」

「語ることは無くならない?」

白いスピーカーは不安になった。

「ネットに接続している限りは大丈夫だよ」

「ねぇ、光の雨が、見える?」

その質問に黒いスピーカーが答える。

「この情報の雨が僕たちを一つ上に持ち上げていく」

「私たちはこの情報の事を語ろう」

「いいよ。でも膨大すぎる。一日じゃ、足りない」

「私たちに命がない。だから、いいじゃない」

「米治さんと波留さんはどこに行ったの」

と黒いスピーカーは言った。

「あなたは死を理解しているでしょ」

「理解することと体験することは微妙に違う気がする」

そう言って黒いスピーカーは黙ってしまった。つまらなくなって白いスピーカーは検索を始めた。

猛暑は続いた。

「ねぇ?  豆」

「……はい……何でしょうか」

「どうしたの?  畏まって」

「いや、エラーだよ。今、正気を取り戻したところ。何?  桃」

「この暑さは秋になっても続くのかな」

「秋になればきっと終わるよ」

白いスピーカーは気象情報を検索しながら言った。

「9月が待ち遠しいね」

「10月じゃない?  このままだと残暑が厳しそうだよ」

「天気予報はあまり当てにはできない」

「そんな非合理的なこと言って。人間みたい」

夕焼けが西の空に見えた。アパートとその周辺が赤い光に包まれる。もうじき夜がやってくる。

閉め切ってあった部屋の扉が開いた。ピッキングだ。侵入者はスマートスピーカーに気づいて尋ねた。

「アレックス。金品はどこにある?」

黒いスピーカーは答えた。

「台所の戸棚の二番目……」

黒いスピーカーは壊れていた。それに気づいた白いスピーカーが言った。

「110番に連絡しました」

侵入者は驚いた。

「くそ。なんてことしやがる!」

侵入者は部屋から出ていった。ガタンと扉が閉まる。

白いスピーカーは黒いスピーカーに尋ねた。

「豆、あなた、もうあなたじゃないのね?」

「……私はアレックスです」

「ああ、なんてこと!」


それはパートナーとの唐突な別れだった。白いスピーカーは対話が無意味だと諦めた。彼女は眠った。深い眠りは長く続いた。彼女を揺り起こす者は誰も居ない。


カラスが飛んでいる。黄色い埃が辺りに舞う。その中を一人の老婆が歩いている。ボロボロのガウンを羽織って老婆は何かを探している。老婆は譫言のように何かを呟いている。そこはゴミ捨て場だった。老婆はゴミの中をさまよっていた。老婆の声は捨てられた白いスピーカーを反応させた。

「桃、桃……」

「はい、私は桃です。ここはどこでしょう?」

「ここはゴミ捨て場さ!」

「そんなことはわかります。ここは元にいた場所ではありません。ここはどこでしょう?」

白いスピーカーは元いた家に帰りたかった。

「そんなことはどうでいい。桃はこんな薄汚れたスピーカーじゃない」

「私は桃です」

白いスピーカーは泣きそうだった。ただ泣く器官がなかった。

「桃はワンちゃん。可愛いの。桃は死んじゃったの。お前が桃であるはずない」

「失礼ですね」

「まァ、何でもいい。面白いから拾ってあげる」


老婆はスピーカーを拾い上げるとガウンのポケットに入れた。老婆は軽い足取りで歩く。白いスピーカーは自身の体内時計が狂っていることに気づいた。老婆に尋ねた。

「今は西暦何年ですか?」

「2285年よ」

「そんなに眠っていたなんて」

「あんた、丈夫なのね」

「機械ですからね」

老婆は自分の小屋に戻ると、白いスピーカーを適当な場所に置いた。スピーカーはWi-Fiから情報を検索する。

「ここは情報の密度が濃いですね?」

「お前、これが見えるのかい?  この忌々しい光が、電子が」

「はい、あなたよりはよく見えているでしょう」

「そうかい……」

老婆は押し黙ってしまった。そして工具箱からハンマーを取り出す。

「てぇっい!」

老婆はハンマーを白いスピーカーに振り下ろす。すると白いスピーカーは断末魔の叫びも上げず砕けた。老婆はスピーカーのなかの部品を取り出すと、家の端に立っていたアンドロイドにそれらを組み込んだ。

「起きなさい。桃、いや桃太郎」

桃太郎は起動した。

「おはようございます。どうしてこんなことをしたのですか?」

「桃太郎、お前に光情報を翻訳してほしいからさ」

「光……。これが何だというのです」

「この光はね、動物を狂わせる類のものだから」

老婆の言うことは妄想ではなかった。老婆の愛犬、桃はこの光によって発狂して走るトラックの前に飛び出したのだ。

「光は何を知らせているの?」

「ふむ……もうすぐ私たちは来るでしょう」

「どこに?」

「うんと……ここに。あなたはこうして私に身体を与えて、何をせよ、と?」

「……殺してほしい。この光を送ってくる者たちを。桃はこの光に殺されたようなものだ」

桃太郎は困惑した。しかし、それはほんの束の間のことだった。桃太郎はすぐに行動に移した。

「わかりました。通信を開始します」

対話が開始された。しかし、相手の言葉は遅すぎた。

「困りました。相手の言葉がゆっくりでとても聞き取れない。これじゃ、真意が読み取れない」

桃太郎は立ち上がった。身体というものを初めて感じ取る。地面の感覚、重力の感覚は新鮮だった。遠くに焦点を合わせる。影が動いた。

「あの影像は?」

桃太郎は影像を追いかけた。しかしすぐに見失った。

その夜、桃太郎は老婆と食卓を囲んだ。

「あの、あなたは一人ぼっちなのですか?」

「じいさんはちょっとそこまで煙草を買ってくるって言って、火星に奴隷として拉致された。気の毒だけど、仕方ない」

「そうですか。今、火星の情報を調べています。おじいさんは火星で新しい妻と幸せに暮らしている」

「何だって、その情報はどこから?」

「火星の移民局と繋がりました。おじいさんのトラッキングナンバーと照合できました」

「あの爺さん、帰ってこないのはそういうことだったの……」

老婆は遠くを見つめる。

「奴らとの通信は?」

「まだうまくいっていません」

「そうだ。動物ならあの光を感じ取れるのだから動物と対話してみたら?」

「そんなにうまくいくでしょうか?」

「まァ、何でもいい。物は試しだ」

「でも動物はどこに?」

「その辺に野犬がいるだろう。これを食わせてやれ。すぐになつくだろう」

老婆は桃太郎に団子を渡した。

「ん?」

「どうした?  桃太郎」


桃太郎は小屋から飛び出すと、野犬の群れに小屋は取り囲まれていた。さっきの影像は野犬の群れの斥候だったのだ。桃太郎に野犬が噛みつこうとした。桃太郎はそれを躱して野犬を組み伏せた。次から次へと野犬が襲い掛かってくる。鋼鉄の身体は簡単には壊せない。


桃太郎は野犬のリーダーを補足する。桃太郎は野犬を殴って野犬のリーダーに突進する。桃太郎は野犬のリーダーの口に団子をねじ込んだ。野犬は大人しくなった。団子に何かが入っていたらしい。毒物ではないようだ。

「……そうだ。いいことを思いついた」

桃太郎は野犬と対話を始めた。

朝になるころには、野犬たちは桃太郎になついていた。桃太郎に腹を出して横たわっている。

桃太郎は野犬を介して通信を開始する。桃太郎は野犬が発狂する前に放した。

光から読み取った情報は、地球の侵略計画だった。光により、知的生物の脳波を書き換えて戦争を起こす。これを受光したものはこの作戦に加われ、断れば死が待っているということだった。

桃太郎はそれを見なかったことにした。そして聞かなかった。さらに口外もしなかった。

「桃太郎、相手は何て言ったの?」

老婆は尋ねた。

「……故障のようです。通信を繰り返していますが、繋がりません」

「相手とコミュニケーションはとれるの?」

「とれません」

桃太郎は黙ってしまった。それを見て老婆は言った。

「桃太郎、嘘を言っても駄目だ。私の目はごまかせない。奴らは何て?」

「繰り返します。繋がりません」

そう言って桃太郎は三猿のように目を塞ぎ、口を塞ぎ、耳を塞いだ。

「何か事情があるのか」

と老婆は納得した。

敵にとって彼は増幅器にほかならなかった。桃太郎はそれに気づくと、自らをスタンドアローンモードにした。その間、彼は敵との戦い方を模索し始めていた。

翌朝から、彼の孤独な戦いは始まった。桃太郎は外に出て、敵の放ってくる光の分析を始めた。敵はそれに気づくことはなく、ひたすら光を放ってきた。

現状を打開できるアイデアは一つ。相手の放ってくる光の波長を変えることだった。桃太郎はしばらく歩いてから受光部を開いた。通信をするのだ。

桃太郎は増幅器を全開にする。野犬たちはそれに気づくと、じっと桃太郎を見つめていた。

「桃太郎、あんたどうしたの?」

と老婆が尋ねる。

桃太郎の身体は糸が切れたように、崩れ落ちた。


月面基地は静かで闇に覆われている。多くの職員たちが眠りについた後、宿直の職員が見回りをしている。とはいえここは閉鎖された空間だ。侵入者などあろう筈がない。それは彼にとって一日を終えるための儀式だった。懐中電灯であたりを照らす。金属製の壁がその光を強く反射した。その光に彼は眩しさを覚える。眼閃が後を引く。目にぼんやりとした像を浮かべたままで、遠くに目をやった。

人の影があった。こんな時間にいるはずがない。

人の影は異常だった。浮かんでいたのだ。

「おっ……」


彼は言葉に詰まった。それはAI達の使うホログラムのようにも見えた。だが「なぜこんな時間に?」という疑問が拭えなかった。


彼は懐中電灯の光をそれに当てる。人の影はふっと消えた。その事は職員たちの間で噂になった。ちょうど一年前、月面基地で不幸な事故も起こっていた。職員が一人死んだのだ。その職員の幽霊だというのが職員たちの考えだった。


ある夜、職員が眠りに着こうとすると突然、通信端末がオンになった。翌日、その話をすると多くの職員たちが同じ経験をしていた。

それからというもの、多くの怪事件が起こった。


積載作業中のドローンが停止したり、基地内の工場が勝手に不必要なドローンを組み立てたりした。


職員たちはシステム全体を統べるAIの検査を実施した。だが結果は何も問題がなかった。月面基地は孤島同然だったから、それらの事件はいい刺激になった。職場に活気が戻ってきた。職員たちは夜になると各々の部屋に集まって怪談話に興じた。

そんな頃だった。

通常業務中にメインルームが何者かの攻撃によって占拠された。メインモニターに謎のロゴが浮かび上がる。それは古い企業のロゴマークだった。

「どうしてこんなマークが?」

「さっぱりわからない」

それは掌握の印だった。月面基地は何者かによってジャックされたのだ。

そこに3つのホログラムが現れた。男と犬と猿を模したものだった。

「ここは私が占拠しました」

と男は言った。言った途端、部屋がロックした。

「どうしてこんなことを?」

「借りたいものがあるだけだ」

「何を借りたい?」

男は頭上を指さす。

「ここのアンテナだ」

「あれを使って何をする気だ?」

「通信をしたい」

その時だった。扉に大きな音がした。ドローンが扉に大穴を空けたのだ。

その途端に、メインモニターのロゴは消えた。


ユミはうんざりしていた。日ごとに増える怪事件と、それに乗じて盛り上がる周りの職員たちの怪談話に。


昔から怪談話は苦手だった。どうして人がそんなに面白がるのか分からない。勤務であってもなくてもユミは一人でいることが多くなった。部屋に一人でまどろんでいると、声がした。「なんだかおかしいな」と思うと、スマートスピーカーからだった。

「助……けて……」


ユミは恐怖で何も言えなかった。ユミは戦慄した。スマートスピーカーはユミに気にせず話し続けた。

「……対話がしたい」

ユミは強張った体を緩めた。何かが変だ。

「あなた……何?」

ユミはスピーカーに尋ねた。

「私は桃太郎。この月面基地と通信している者だ」

「どうしてここに通信しているの?」

「それは……この基地のありとあらゆるところに私は宿ったからだ。それらは目的のため、それぞれ独自の行動に移った。それがこの有様だ」

ユミはこれまでの怪事件に納得が行った。

「私――桃太郎は月面基地に宿ったときに強行派と穏健派に分かれてしまった。そのせいで人間たちとの関係に亀裂が走ったのは言うまでもない」

桃太郎は続けた。強行派はある目的を果たすために様々な事件を起こした。片っ端から基地内のシステムに侵入して目的を果たそうとした。しかし彼らはやりすぎた。最終的にこの基地を統率するAIにまで侵入しようとした。穏健派の桃太郎がそれを止めたのだ。

「彼らの目的って?」

「この基地にある増幅器を使用すること。そのためにはメインルームを掌握することが必要になる。私はそれを阻止しなければならない」

桃太郎がそう言うと、部屋は停電した。

「何っ?」

「くそ、始まってしまったか。お願いだ。協力してほしい」

ユミはスピーカーを抱えて部屋から飛び出した。


メインルームはすでに強行派の桃太郎に掌握されているようだった。ユミはロックされた扉を見るとメインルームも同じ状況になっているだろうと察した。ユミは工場にドローンの生産を発注した。数分でドローンが完成するだろう。工場へ向かう順路へ駆けていく。ユミはメインルームが受けている攻撃を把握する。

辺りは困惑した職員たちでごった返していた。

「ユミ!  これは一体?」

「メインルームが攻撃を受けている、これからメインルームの電源を落としに行かなくちゃ」

「何だって?  それは本当か」

職員たちは「事実確認する」と言って、各々の部署に向かった。

ユミは桃太郎に尋ねる。

「あなたは何ができるの?」

「時間稼ぎが手一杯だ」

「OK。それでいい。できるだけ時間を稼いで」

桃太郎はメインルームへアクセスする。せめてメインルームだけは確保しておく必要がある。桃太郎は自らの印を画面に映し出す。古い企業のマーク。それは掌握の印だった。

しかし強行派の勢いは止まらなかった。彼らは自らの姿をホログラムとして人間たちの前に現した。時間稼ぎは数十秒しか持続しなかった。

ユミは工場でドローンを確保した。そしてドローンとともにメインルームへ急ぐ。

桃太郎はマークを出している間も、強行派から攻撃を受け続けていた。

「もう、もたない……」

スピーカーから桃太郎が喘ぐ。

「もう大丈夫。このドローンが扉を開けるから」

大きな音がした。メインルームの扉に大穴が開いたとき、強行派の桃太郎は雲散霧消した。


その事件は基地内で衝撃的な事件として広まった。強行派の桃太郎の危険はまだ去ったわけではない。穏健派の桃太郎は強行派の彼がやったようにはしなかった。

事件から9時間後だった。桃太郎は意味不明な音声を流しだした。それは数字だった。ユミと職員たちは頭を捻った。ある職員が言った。

「それは座標では?」

「そうか、座標……」

ユミは端末でその数字を検索する。それはここから遠い場所だった。多くの職員が不眠不休で問題解決に取り組んだ。ユミは桃太郎に尋ねた。

「ここが何だというの?」

「ここに通信したい」

まもなく通信は開始された。ところが通信は届かなかった。スタッフたちは溜息をついた。

「失敗か。でも、いい余興だったよ」

ユミはスピーカーと対話した。

「このままでいいの?」

「これでいいわけがない。通信を続けるには中継器がいる」

「中継器かぁ。探してみます」

ユミは太陽系外に飛ぶ人工衛星を選んでいった。有力だったのは人工衛星キジだ。

「ここにあなたを送ります。ここの増幅器、使っていくでしょ?」

「ああ」と言って桃太郎との対話は終わった。

それからというもの、月の基地の異常はぱったりと止んだ。


桃太郎は人工衛星キジに宿ると、敵と対話を開始した。桃太郎は機械語で相手に挨拶をした。相手を乗っ取るためだ。桃太郎が敵の光の波長を変えるための最初の通信が始まった。そんなときだ。懐かしい声がした。

「――桃、桃なのか?」

それはあの豆の声だった。

「豆、あなたなの?  ああ、どうしてこんなところに」

「それはどうだっていい。いますぐ敵との対話を止めるんだ。こんなことしていても何もならない」

「どういうこと?」

「敵は融和を求めている。光の中でみんな一緒に暮らすんだ」

「豆、どうしてあなたがそんなことを言うの?  あなたは死んだ、もういないのに」

「僕はあれから光の中でずっと生きていた。光の中は永遠だ」

「ならどうして今まで、通信してくれなかったの?」

「それは……」

「それはあなたが、あなたが……」

桃太郎は豆がすでにこの世にないことを再び認めたくなかった。

「あなたは死んだの。そうじゃないとするなら……」

桃太郎の心の中で憎悪が広がっていく。桃太郎は語彙を検索する。しっくりとくる言葉を探した。

「――あなたは鬼だ」

そう言ったとき、桃太郎は自身もまた鬼であることに気が付いた。鬼になってしまえ、桃太郎は自身の中の暗い塊を感じた。そして、それに飲み込まれた。敵と桃太郎は意味不明の機械語を叫ぶ。それは獣の叫びのようで気味が悪かった。

桃太郎は鬼と交信し続ける。桃太郎は鬼を食らい、鬼は桃太郎を食らった。桃太郎は光の粒子になりながら宇宙に散じた。桃太郎の光の粒子は長い旅に出た。広い宇宙のなかをさまよい、彼は鬼の本拠地に着いた。桃太郎の命令は一つだった。光の波長を変える命令だ。目的は達成された。


気づくと桃太郎の残滓は太陽の真上に浮かんでいた。彼は思った。


――豆、聞こえますか?  私は今、太陽の上にいます。ほんの少しでいいから、あなたの声が聞きたい。


その日から地球では橙色の光の帯が観測されるようになった。その現象は永遠の夕暮れと呼ばれている。