『緑の家路』

桓崎由梨(Yuri Kanzaki)


 その夜も、カナはひとりで、荒れ野の闇の底に立っていた。
 季節は夏だったが、荒れ地の夜の常で、気温は氷点下までさがっていた。夜気を吸い込むと体中が凍てつい た。身震いするたびに、霜が音をたてて砕けた。彼女は、少しでも早く朝が来ないものかとそればかり考えてい たが、しかし日が昇れば昇ったで、今度は灼熱の太陽に照りつけられる苛酷な一日が始まるのだ。
 遠くで、車の音が聞こえた。
 カナは思わず耳を澄ました。空耳だろうか。いや現実の音だ。しかし、その音はこちらへは近づかず、遥か彼方へと遠ざかった。彼女は、ほっと溜め息を洩らした。今の自分が、駆け寄って助けを呼ぶことのできない体である事を呪った。いったい自分は、あと、どれぐらいの間ここに放置されているのだろう。二年か、三年か、それとも一生か。複雑な想いにかられながらカナは空を見あげる。
 政府から公役に就くことを命じられて三年になる。公役といっても、鞭でひっぱたかれて重労働を強制されるような類の仕事ではない。ある程度の体力は必要だが、完全な個人作業なので、上司や監視の目を気にしなくていいぶん、むしろ気楽なぐらいだ。その代わり、きちんとした建物のある場所ではないので、完全な戸外での暮らしが続いている。街の灯りは、地形の関係でここからは見えなかった。空の一部が照らされて、ぼんやりと白くなっているのが分かる程度だ。

 三年前、カナは政府から一通の手紙を受け取った。それは彼女に、公役の順番が回ってきたことを知らせる手紙だった。貧乏くじを引いてしまったなと彼女は思った。職場の仕事は順調だし、恋人ともうまくいっている。こんな時、三年もの間この街を離れねばならないとは。だが、公役は国民の義務なので避けて通るわけにもゆかない。彼女は嫌々、役場で手続きを済ませた。
 出発の日、役場まで出向いてゆくと、玄関前に、年齢も性別もバラバラの市民達が六十名ばかり集まっていた。彼らは三々五々にかたまって、税金や社会への不満を話題にしながら、世間話に興じていた。
 やがてカナを含んだ六十余の市民達は、トラックに乗せられ、郊外の荒れ地へと運ばれていった。太陽に炙られ、ひび割れ、乾燥しきった赤い大地が延々と続くところ。それがこの国の大半を覆う荒れ地の姿だ。
 車は一定区間ごとに停車すると、その都度、市民をひとりづつ荒れ野に降ろした。カナの担当は第三十七区だった。トラックが走り去ると、彼女は手荷物を片手に、しばらく辺りを歩きまわった。日光は容赦なく地上にふりそそぎ、服を着ていても、その下の皮膚が灼けてしまいそうな感覚があった。気温は、軽く四十度を越えているように思えた。
 カナは適当な場所に腰をおろすと、水筒の口をあけて水を飲んだ。薬が混じっているので少し苦い。だが、渇きのほうが勝っていたので、あまり気にはならなかった。三本持っていた水筒を全てカラにしてしまうと、自分の体に変化が起こるのを、じっと待った。
 まず最初に彼女を襲ったのは、強い眩暈と頭痛だった。天地がぐるりと回って起きていられなくなり、目を閉じてその場に横たわった。体温が急激に下がってゆく。体中がむず痒い。荒れ野を吹く風は、大量の砂粒を砂漠から運び彼女の体を埋めていった。肺呼吸が止まった。活発な皮膚呼吸が始まった。聴覚が失われ、海の底へ潜った時のように音がくぐもった。彼女の精神は深い闇の底に落ちたかと思うと、やがて爆発するような光に押しあげられて空高く舞いあがった。
 次に目をあけた時、カナの背中には、一本の逞しい樹木が生えていた。

 カナの種族は、人間と植物の中間に位置している生物で、本来は、季節や環境に応じて人間と植物の設定を切り換えて生活する、二種混合の生物である。彼らは植物期になると地下へ潜り、体を繭(まゆ)で保護し、そこから芽を出して、地上に樹木部を形成する性質を持っている。この樹木部は、植物期の終わりには倒壊し、体から脱落する。そんなふうにして、昔は、文字通り「冬虫夏草」のような生活を送っていたのだ。
 だが、そのような生き方も、今では、時代遅れな生活方法に過ぎなくなっていた。時代が進んで、他の植物の繁殖を操つる技術が発達するようになって以来、人々は次第に自ら植物になることをやめ、光合成の能力を捨てていった。今ではよほど食べるのに困っているか、悟りを開くために修業しているような人でなければ、自分からすすんで植物になろうという者はまずいない。
 公役というのは、政府の指示で植物になっていることをいう。これは環境改善対策のひとつだった。植物期のカナ達は、他のどんな植物よりも逞しくしぶとく、また成長のスピードが早い。そこで普通の植物が成育できないような不毛の地に赴くと、その場所で自ら樹木になり、地下から水や養分を吸いあげる作業を開始する。地上に葉を落とし、土地を肥沃に変えてゆく。そうしていると、やがて野生の植物が共生を求めてまわりに集まってくるようになる。植物の種類が多様化すると、土地の質も次第に変わってゆく。まずは自分達の力で荒れた大地を甦らせ、除々に通常の植林計画を進めてゆこうというのが、最近の各国での流行政策なのだった。

 三年間、カナは病気や日照りに倒れることもなく、無事に毎日を過ごした。地上の樹木部は、樹高三十メートルに達し、地下にはその何倍もの根が伸びていた。繭は、地中で、しっかりとカナの体を保護していた。繭を食い破ろうとする害虫は、外壁を覆っている毒性の強い粘液で溶かされ、細菌の侵入は、内壁の結晶部分によって遮断される。繭を通してカナの体に送られてくるのは、水と栄養と酸素。そして樹木部が捉えている外界の様子。閉ざされた世界の中で、彼女は植物の感覚を使って見聞きし、感じとる。植物としての方法で世界を把握する。風の意味を知り、野生の植物や生き物の声を聴き、特殊な信号を使ってそれらと会話をする。
「mmm.www.mmm.www.mmmmmwmmmmmwmmmmwwmmmmm......」
「pqpqpqpqpqpqpqppqpqpqpqpqpqpqpq.ppp」
「""""""oooooo""""""oooooo""""""''''""""""""""""""""」
 その波長は、時には音楽や小鳥のさえずりのようにも感じられ、カナを退屈から救ってくれた。が、中には、「(            )」や「※%※%※%※%※%※%※%※」のように、難解で意味の分からない言葉もたくさんあり、工事現場の騒音のようにしか感じとれない会話も少なくなかった。
 そんな時、カナはやはり公役など早く終えてしまいたいと思うのだった。
 早く元の生活に戻りたい。街に戻ったら、真っ先にしたいのは食事だ。味覚を取り戻したい。おいしいものを食べて、お酒を楽しみたい。友達と遊びにゆきたい。湯の華のたっぷり入った風呂で、のんびりしたい。それから、それから、それから……。

                *

 伝言連絡官は気が重かった。樹になった者の言葉を聞き分けられる能力を持っていると、時には、こんな悪いニュースも伝えに行かなければならないのだなぁ。損な役回りだ。大昔、人は誰でも、樹になった者の言葉が分かったという。だが、今ではこの才能は、特殊技能の一種なのだ。彼は役場の事務職かたわら、伝言があると、緑化計画地区まで出向いてゆく任務を負っていた。
 今日の伝言内容は、公役期限が切れているのに人間の姿に戻れなくなっている者への原因説明だ。何と説明すればより少ないショックですむのだろうかと考えたが、どう伝えても、その人を悲しませることに変わりはないのだという結論に、やがて達した。こんな汚れ役を押しつけてきた上司が恨めしかったが、今の職場には、自分以外の連絡官がいないのだから仕方がない。
 灼熱の地を渡り、第三十七区に入ると、すぐに彼女の姿が目にとまった。小さな緑地帯の中で風に吹かれている、堂々たる一本の樹木。連絡官は車を降りると、緊張した面持ちでその前に立った。心臓が飛び出しそうに高鳴っていた。

 公役の期限が切れても、なぜかカナは人間に戻ることができなかった。いくら待っても樹木部の倒壊が始まらず、体調にも何の変化も見られない。
 彼女を迎えに来た役場の職員は、「こういうのは、個体差があることだから」と言い残して、逃げるように街へ帰っていった。
 翌日、別の人間がやって来て、彼女の幹から組織サンプルを採っていった。
 二日後、また別の男が訪れ、ためらうような表情でカナの前に立ち、静かに語り始めた。
「あなたが樹木から人間に戻れないのは、公役を始める時に飲んだ薬が原因なのだそうです。あの薬は、植物への変化を助けて、植物期の期間を制御するための薬なのですが、その薬のせいで体質が変化して、植物期が終わらなくなっているのです。この現象は、既にあなた以外にも報告例があって、研究所で治療薬を開発中です。ですから、治療薬ができるまで、このまま公役を続けて下さい。それが政府からの伝言です。家族や職場には、役場から連絡がゆきますから、どうぞ宜しく……」

 最初の言葉を発した時から、連絡官は、自分が政府の身勝手な言い分の片棒を担いでいるような気がして、やりきれなかった。いつできるとも分からない治療薬を待って公役を続けていろなど、自分が、直接相手に伝えることがないからこそ考えられる指示に他ならない。彼が伝言をつたえ終わると、彼女は、激しく枝葉を揺さぶって抗議した。三年で帰れると思ったから我慢したのだ。これ以上、待てるわけがない。次々と繰り出される激情と悪口雑言の前で、連絡官は、ただ沈黙を守った。底の浅い励ましをしたところで、この人の現実の前では何の役にもたちはしない。それならいっそ、言いたいことを言わせてやるほうが、どんなにいいか分からないではないか。
 彼女は訴え続けた。わたしは街へ帰りたい。大切な人や、友達のいる場所 へ。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
 しかしそれは、連絡官には、どうにもできないことだった。

 ……また、夜が一段と冷え込んできたようだ。
 カナは気孔から、そっと息を吐いた。葉にびっしりとついた霜が、カサカサと音をたてた。
 寒さに震えながら、いろんなことを考えた。こんなことになるなら、公役など拒否しておけばよかった。市民の中には、公役に反対している者も少なからずあったのだが、そういう人たちは大抵「考え方が古い」とか「環境保全への意識がない」などと言われて白眼視されていた。私は、そこからはみ出るのが怖かっただけなのだ。私はエコロジストでも何でもない。ただ己の小心に負けただけの人間なのに、その結果がこれだとは。
 やがて彼女は、決意を固めた。
 帰ろう、あの街へ。
 人の姿をしている必要はない。このままで帰ればいいのだ。そして、懐かしい人たちや友人にもう一度会おう。誰かの助けを待っているのではなく、自分の力を使って自らの家路を辿るのだ。
 カナは街に向かって地下茎を伸ばし始めた。樹木部への栄養のめぐりを制御して、硬い土を割る力に転化した。植物期に入っている彼女には、人間としての五感はない。だが、方角を知ることはできるし、大気の状態を知ることもできる。気温を感じることも、風が運んでくる様々な情報を知ることもできる。植物の感覚を使って集められた情報は、特殊な伝達経路を通ってカナの体に集められ、そこで整理された思考を生み出してゆく。こんなことをして自分の体がもつのだろうかとも思えたが、荒れ地で、ひとり悶々としているよりはよほどましに思えた。望んでいるのは些細なことだ。あとは、それを叶えるための行動があるだけだ。
 カナは、数年の歳月をかけて街へ辿り着いた。地下では何度もコンクリートの壁にぶつかり、それを迂回しながら、ようやく街の真下に地下茎を食いこませることができた。
 舗装が老朽化している部分を狙って芽を伸ばした。何度も頭突きを繰り返すと、湿った煎餅が曲がるようにアスファルトが持ちあがり、さっと差し込んできた光に、先端部が地上へ出たことを知った。そこは繁華街の一角だった。芽の先端は、車道と歩道の間に頭を出したのだ。時刻は真昼。車や人々が、せわしく行き来している。
 植物の立場から見ると、街の地理はよく分からなかった。もう少し見晴らしをよくしなくては。夜になって人通りが絶えると、彼女は枝葉を伸ばしてある程度の樹高を確保した。そして、次の地点に新たな地下茎をはわせた。街中に次々と芽を出し、それぞれのポイントを「眼」として使った。おかげで遥か彼方の赤い大地に本体を置きながら、カナは、自分の街の様子を知ることができるようになった。懐かしい懐かしい、私の街。そして私を見捨てた人達のいる、陰鬱な街。
 街角で枝葉を伸ばしていると、時々、役場の職員に雑草と一緒に刈り取られてしまうことがあった。カナはその都度、新しい芽を出し直した。育っては刈られ、育っては刈られしているうちに、ある生物学者が彼女の正体に気づいた。どうやらこの樹木は荒れ野で働いている誰かの末端部であるらしい、と彼が世間に公表すると、たちまち物見高い人々が、街の中で葉を繁らせていた彼女の回りに集まってきた。やがて、ニュースを聞きつけたカナの両親や友人達が訪れた。彼らはカナの名を呼び、彼女に抱きついた。記者達のカメラのフラッシュが何度も光った。カナは皆が歓迎してくれるのは嬉しかったが、騒々しく話題にされるのは、何か違和感があり馴染めなかった。
 しかしそれも束の間のことで、月日が流れ、彼女の姿が街中に溶け込んでしまうようになると、人々は、とりたてて彼女に関心を払わなくなった。定期的に訪ねてくれるのは両親だけになり、友人たちは忙しさにかまけて足が遠退いた。
 カナのかつての恋人は、街頭に立っている彼女の前を、毎日通勤で通ってゆく。彼はカナの側を行く時、必ずちょっと目をあげた。カナはその視線を毎日受け止めた。それが今の二人の挨拶だった。一年程たつと、彼はこの道を通らなくなった。彼女はそれでもしばらく待っていたが、それっきり、彼と会うことは二度となかった。
 あの人、誰か、別の人と家庭を持って私から離れていったのかしら。それとも、公役の順番が回ってきて荒れ野に行ってしまったのかしら。もしそうだとしたら、私みたいに公役で災難に遭ったりなんかしていませんように。無事に帰って来れますように……。
 そう祈ってから、彼女は、誰にも聞こえることのない声で激しく泣いた。
 人間であったなら――運命が、もう少し違っていたならば。

 街は毎日、似たような日々を繰り返していた。大小さまざまな家から吐き出される人々の群れ。雑踏。信号。満員電車。ぎっしり人間を詰め込んだオフィス・ビル。夜。繁華街。レストラン。飲み屋。ネオンサイン。誰もが自分の持っているささやかなものを、この世で最も価値あるものだと信じ、それを貶めるものと争い続けている夜。
 カナは退屈だった。そこで今度は、荒れ野の本体と街を繋ぐ地下茎の上に芽を出し始めた。痩せた地の底から水と栄養を吸いあげ、照りつける太陽の元で光合成を行う。荒れ野と街を繋ぐように一直線に伸びた地下茎。その上に生えた木々の芽は、まるで、荒野から街へ家路を辿る人のための目印のように見えた。
 樹木部が育てば育つほど、自分の中に力強いリズムが湧きあがってくることを彼女は知った。自分の存在を重荷に感ずる感覚は、毎日少しづつ消えていった。空へ空へと枝葉を伸ばしている姿は、天に向かって祈りを捧げている人の姿にも似ていた。
 やがて、年末祭が訪れた。
 街ではあちこちの街路樹に電飾が巻きつけられ、夜になると黄色い光が明滅した。人々は、カナにビニール・コードを吊るすのはさすがに遠慮してくれていたが、まわりで一斉に豆電球がきらめいていたので、彼女の葉はそれらに照らされ、艶やかな緑色に光っていた。
「綺麗ねぇ」
 宵の口、側を通りかかった少女達がカナを見あげながら言った。カナは彼女達に向かって静かに微笑んだ。しかし、それは彼女達には見えない類の微笑だった。少女達は、まるで蛋白石の輝きのような光を瞳に宿しながら、樹の下でしばらく立ち話をしていた。学校のこと、祭りのプレゼントのこと、男の子のこと。少女達が立ち去るとき、カナは届かぬ声で、よかったらまた話を聞かせてね、と言葉をかけた。綺麗だと言ってくれてありがとう。嬉しかったわ。本当に……。

 連絡官は、時々、街中のカナの側を通った。理由は、そこが繁華街に通じる場所だからというだけのことだった。
 彼は、いつ見ても鮮やかな緑を繁らせている彼女のことを、少し不思議に思っていた。そして同時に、ほんの少しだけ羨ましくも思った。が、それを口に出して誰かに言うことは、決してなかった。カナに告げることもなかった。彼はただ、毎日のように彼女の下を通り、酔っぱらって混濁した意識で、頭上の緑の葉を眺め続けたり、よろけて樹幹部に倒れかかったり、樹の下で休んだりした。転勤で別の土地へ引っ越すことになった日まで、彼は日課のように、樹の下を歩き続けた。

 歳月は更に流れた。カナは時折り、自分の意識が、ふっと途切れてしまうような感覚を味わうようになった。寿命が、もう尽きかけているのだろうか。だが、死ぬという感じはあまりない。むしろ、自分が何か、とてつもなく大きなものに引き寄せられ、飲み込まれ、その一部になって永遠に活動してゆくような、そんな力強さすら感じていた。もしかしたら今自分は、人や植物という存在を離れ、何か別の生き物になってゆく途中なのかも知れない――と、そんなことをぼんやりと考えた。
 赤い大地は、住みついて以来、あまり変わり栄えしていないように思えた。公役と緑化計画は、果たして本当に効果をあげているのだろうか。荒れ地は減っているのだろうか。砂漠化は抑えられているのだろうか。もしかしたら私達は、近い将来、嫌でも全員が植物に戻らなければ生きていけないような、そんな時代を迎えるのではないだろうか。
 荒れ地を吹きぬけてゆく熱風が、カナの梢を激しく揺さぶった。周囲に生えている草たちのつぶやき声を聞きながら彼女は思った。もし、今のこの存在を完全に越え、自分の向こう側に横たわるあの大きな流れの中に呑み込まれてしまったら、今までわからなかった自然の言葉がわかるようになるのだろうか。騒音にしか聞こえなかったあの植物たちの会話が、音楽のように聞こえるのだろうか。深淵の底から響く、叡智に満ちた声を聞くことができるようになるのだろうか。
 彼女はそんな妄想を、ひとり、荒れ野で描いてみるのだった。

(了)


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