(1)
駄目だ。
この本屋にも置いてない。
おれは肩から下げたデイパックを担ぎ直すと、狭い通路を蟹のように横歩きして、埃っぽい古書店の外へ出た。
道路から、排気ガスの混じった、ムッとする熱い空気が肺の中へ侵入してきた。頭上からは、容赦なく夏の陽射しが照りつけてくる。クーラーの排気熱と共に、太陽に灼かれた道路と歩道が街全体の温度を上げていた。立っているだけで汗がじわりと吹き出した。暑さに顔を歪ませながら、おれは額の汗を拭った。
神戸の新開地から元町まで延々と続く、JR高架下の古書店を次々と回り始めて五・六時間がたつ。途中、自分が欲しかった本や、友人から頼まれていた本を見つけては、レジで代金を払い、デイパックに詰め込んできた。古書店で大量の本を買いあさる際、このデイパックというのは非常に役に立つ。鞄自体が軽くて丈夫なうえに、いざとなれば背中へしょってしまえば良いので、重さも場所も気にならない。見慣れない人は、山へハイキングに行った帰りなのかと錯覚するが、おれ達古書マニアにとっては必需品だ。嘘だと思ったら、今度古本屋へ行った時に、お客の格好をそっと観察してみるといい。十人のうち何人かは、必ず、おれと同じ格好で本を物色している筈だ。
昼食には冷麺を食べ、喉が乾けば、自販機のコーヒーを立ち飲みして一息つきながら、次から次へと古書店の軒をくぐった。天井まで届く書棚の前に立ち、いつも眺めている新旧色とりどりの背表紙に視線を走らせながら、おれは目当ての本を楽しく真剣に探し続けた。
世の中に、これだけたくさんの大型書店がありコンビニがあり、新刊書も続々と出ている中で、わざわざ古本屋巡りをしている奴がいるなんておかしなことだと思う人もいるだろう。もっともな言い分だ。だがまあ、おれにはおれなりの事情があるのだ。欲しい本・良い本がすぐに絶版になってしまうので、うっかり買い逃した本は古書店で手に入れて読むしかない――という、今の日本の、厳しい出版事情も要因の一つではある。が、それよりも何よりも、おれは古本屋巡りが好きなのだ。本に囲まれているとホッとする。読むのは勿論好きだが、本を触ったり撫でたり、装幀にうっとり見とれていたりすることが、どんな娯楽よりも魅力的に感じられるのだ。
軽い夕食を摂るために足を踏み入れた土曜日の三宮センター街は、若いOLやサラリーマン風の男、学生風のカップルなどでいっぱいだった。きゃあきゃあ言いながら道いっぱいに広がって歩く女子高生、横断歩道の雑踏は、殺人的と呼べるほど混雑していた。歩きながら煙草をふかしている連中も大勢いる。火が点いている先が他人の肌に触れたらどうする気なのだこの馬鹿野郎っ、と思うが、そうやって歩き煙草をしている連中の大半は、実は若い女性ばかりなのだった。中年男のしみったれた歩き煙草ならまだしも、モデルにでもなれそうな綺麗な顔をした二十代の女の子達が、雑踏の中で、歩きながらスパスパと煙草を吸っているのである。世も末だ、とおれ思うが、直接注意してやる勇気も腕力もおれにはない。せいぜいが「こいつ、後ろから蹴り飛ばしたろかっ」と思う程度のことで、それすらもすぐに忘れてしまいそうになる。情けない話だが仕方がない。おれは強面の効くお巡りさんでも、他人を説得出来る弁舌家でもないのだ。
人の群れを押しのけるようにして、ファースト・フードの店に入った。比較的味の良いローストビーフ・サンドを食わせてくれる所で、いつも重宝している店だ。三十歳を越えると、ハンバーガーのように脂っこいものはもう食えない。塩辛いフライド・ポテトなど食うと、それだけで生活習慣病になるような気がする。
食後、薄いコーヒーを飲みながら、手帳に書き込んだ書籍名の上に、ボールペンで一本づつ線を引いていった。
今日は、わりあい収穫があったほうだ。古書の探索には波みたいなものがあって、欲しい本が、わっと一遍に見つかる日もあるし、全く見つからずに終わる日もある。特定の本を欲しい欲しいと思い詰めていると、ある日突然それが古書店の棚にあるのを発見して、
「あっ」と仰天したりすることもある。こういう時、おれは人智を超えた力の存在を信じざるを得なくなる。本好きのために存在している、本の神様の存在を信じるような気分になってしまうのだ。
おれは中学時代から、かれこれ二十年近く古書店巡りを続けている。だから、姫路から神戸あたりまでの古書店のことはほぼ完璧に知り尽くしているし、大阪の古書店事情にも多少は詳しい。それでも今まで、どうしても見つけられないでいる本が何冊かあった。
その一つが、室井龍星(むろい・りゅうせい)という名前の幻想小説作家が書いた『書棚の育て方』という本だ。限定版の箱入り書籍である。
「どうだい。そろそろ、どこかの書店で目にしなかったかね、例の本」
「無茶言わないで下さいよ。そう簡単にゆくなら、とっくの昔に、ここへ持ってきてますって」
次の週の土曜、古書店《しおり書房》を訪れたおれは、レジの奥の畳の間に座らせて貰い、安斎さんの奥さんが出してくれた冷えた麦茶を、何杯も、がばがばと飲んでいた。
「室井龍星はマイナーな作家ですから、あれ以外の本だって、なかなか見つからないんです。ましてや箱入りの限定本……」
トラ猫のジェイムズが、ミャーと鳴きながら、おれの脇をすりぬけていった。音もなく畳の上から床に降りると、レジの前の椅子に座っている安斎さんの膝の上へ、反動をつけて飛びあがった。飛び上がる前の、もじもじと体を揺する姿が愛らしかった。
安斎さんは、ジェイムズの喉の下を撫でながら、低い声で笑った。
「おれがもう少し元気だったら自分で探すところなんだけどな。こう膝を痛めてしまったんじゃ話にならん。幸田くんには期待してるんだから、頑張ってくれよ」
「そう言われましてもねぇ」
おれは困惑しながら、ジェイムズを撫でる安斎さんの手元を見た。皺がまた増えたかな、と思った。整形外科で膝の手術をして以来、安斎さんは、ますます老け込んだように見える。
《しおり書房》の安斎光生さんは、昔、神戸の海運会社に勤めていた。海運不況で会社が倒産した後、以前からやりたかったという、古書店の経営を始めたのだ。
古書の世界も今はチェーン店化が進み、昔のように、主人の個性によって置いてある本が違うというタイプの店は減りつつある。コンビニみたいな明るく広い店内に、ベストセラー作家の本ばかりが並ぶという、おれから見ると、ちょっと違和感があるような古書店が、近頃は増え始めた。それでも書籍を丁寧に扱ってくれているなら良いほうだ。サインの入っているページをわざわざ開いて、窓際に陳列している店を見たことがある。本やサインが日光で色褪せることなど、何も考えていないのだ。こういう店を見かけると、いったいどんな奴が店長をしているのかと思い、気分が悪くなる。本が流通物であり、金銭と引き換えになる「商品」に過ぎないことは承知しているが、それでももう少し、いやだからこそ、もっと愛情を持って貰いたいと思ってしまう。
会社勤めをしていた頃には、安斎さんも自分で古書店巡りをしていた。関西の古書事情に関しては、おれなど足元にも及ばない大先輩だ。《古本探偵》という綽名は、こういう人にこそ相応しい。だが、膝の関節を痛めてからは、自分の店でじっとしていることが多くなった。その分、古書仲間にあれを探してくれ、これを探してくれと言い始めた。
おれは、安斎さんの店に出入りしているうちに彼と仲良くなれた、数少ない客の一人だ。安斎さんは人の好き嫌いが激しく、気に入らない客や無礼な人間とは口もきかない。そんな人が、いったいおれのどこを気に入ってくれたのだろうと思うことがあるが、きっとおれの性癖を見越して、いろいろと頼み事をしたいと思ったに違いない。おれは他人から本探しを頼まれると、よっぽどのことがない限り断ったりはしない。自分が探すついでもあるので、他人が探している本の探索も、ついつい背負い込んでしまうのだ。そういう点が、安斎さんには都合が良かったのだろう。事実おれは、かなりの古書を、安斎さんのところへ運んだ覚えがある。
勿論、これはあくまでも請け負う対象が本だからだ。そして依頼人が、少なくともおれの友人であること、おれが好意を持っている人間である場合のみに限られる。たとえば職場の同僚――おれは郵便局の貯金課に勤めているのだが――が、アイドル歌手のコンサート・チケットが欲しいので何とかしてくれと言ってきたとしても「だったら、チケットぴあの前で一晩徹夜していろ」と、冷たく言い放つだけである。おれは書籍以外の娯楽に興味はないし、無条件に他人の頼み事を聞いてやるほど、お人好しでもないのだ。
「安斎さんに教えて貰った書店は全部回ってますし、定期的に開催される古書市も、みんな覗いてるんですけどね」おれは、申し訳なく思いながら答えた。「それでも全然駄目なんです。こんなこともあるんだなぁ。もう七・八年近くになりますから」
「そうか……」安斎さんは目を細め、遠くを見るような眼差しになった。
「あれは読書家なら誰でも欲しがる、最高の値打ちをもった本なんだがな」
「そんなに面白い内容の本なんですか」
「面白いなんて程度の言葉じゃ、とても言い表すことの出来ない本だよ」
「読まれたこと、あるんですか」
「いや、ない。だが、粗筋だけは知っている」
「見つかったら、ぼくにも読ませて下さいね。室井龍星の作品は確かに面白いです。夢があって、冒険心があって……。最近では、ああいう純粋な意味での物語小説は、なかなかありませんからね」
「時代のせいだろうな」安斎さんは言った。「架空の世界が、現実よりもきらめいて見えた――遠い昔の夢だよ、あれは」
奥の部屋から、安斎さんの奥さんが顔を覗かせた。安斎さんより七つ年下の、この上品な感じの小柄な女性の名前は、志織(しおり)という。この書店の名前の《しおり》は、奥さんの名前からとったのだ。このことを知っているのは、安斎さんと仲良くなれた客だけだ。普通の人は、本の栞(しおり)の意味だと思っている。
「スーパーに行ってきますけど、今夜のおかず、何がいいですか」
「任せるよ。夏は、どうも食欲がなくていけない。そうめんでも食おうかな」
「そんなんじゃ、いつまでたっても体力が回復しませんわ」
「小鯵(コアジ)の南蛮漬けなんか、どうでしょうか」おれは横から口を挟んだ。
「千切りにした野菜をたっぷり加えて。あれは、冷蔵庫で冷やして食っても旨いんですよ。骨ごと食べればカルシウムの補給にもなりますし」
安斎さんが笑いながら言った。「君は妙なことを知っているんだな」
「食欲のない時には、酢を使った料理が一番です」
おれは立ち上がると、デイパックを担ぎ上げた。
「じゃ、また。暇を見つけて、遠出した際にでも探してみます。関西以外の古書店ならあるかもしれないし」
「頼んだよ」
「夏バテには気をつけて下さいね」
店の外へ出ると、夕方の風が、さっと吹き抜けた。アスファルトに熱せられた、むっとするような夏の風だった。自分のほうが夏バテしそうだと、おれは思った。
(2)
信じられない出来事というのは、ふいにやってくるものらしい。
京都に住む友人の家を訪問した帰り、途中下車してふらりと立ち寄った梅田の古書店で、おれは心臓がひっくり返りそうな驚愕に見舞われた。
何の変哲もない古書店だった。昔ながらの地味な感じの店だ。くだんの本は、レジの奥の小さな書棚に別に入れられていた。ビロードのように柔らかな赤色の箱の背表紙に、そのタイトルは、麗々しいデザイン文字で描かれていたのだ。
『書棚の育て方』――と。
まさか! と、その瞬間、おれは思った。
体中の筋肉が、ビリッと震えたような気がした。
八年間探し続けても見つからなかった本なのだ。大阪へは古書市があるたびに出かけているし、この店にも足を運んだことがある。だが、今の今まで、一度も見かけたことはなかったのだ。何てことだ。この機会を逃したら、もう二度と見つけられないかもしれない!
おれは、レジで他の客の精算をしている古書店の主人の顔をそっと見た。親切な人だろうか。こちらの足元を見て、ふっかけてくるタイプだろうか。いやそれよりも――あの本には、いったい幾らぐらいの値がついているのだろう。あまりに高いと持ち合せがない。後日出直すことになる。
レジの客が立ち去ると、おれは主人に向かって声をかけた。
「あのう、すみません」
「はい、何ですか」
店の主人は、鼻の上の眼鏡を中指の先で押し上げながら答えた。年齢は五十代の後半といったところだ。長年この仕事をやってきたのか、一種独特の落ち着きがある。
おれは訊ねた。「そこの棚にある『書棚の育て方』という本なんですが」
主人は首を捻って棚を見た。彼が口を開く前に、おれは続けた。「売り物ですか」
「ああ、これね」主人は無造作に本を棚から引き抜いた。手に持って、にやりと笑った。「お客さん、この本、欲しいの」
「はぁ」
「室井龍星の本って、数が少ないから値がはるんだよね」
「知ってます」
「これ、一冊、五十万円するんだよ」
五十万――
おれは、ごくりと唾を飲み込んだ。
いくら絶版になっている古書とはいえ、たかだか二百ページ前後のハードカバー一冊に、なぜそんな高値がつくのだ――と思う人は古書マニアにはなれない。この場合、おれの背中と額に汗が滲み出てきたのも、値段に驚いたからというよりも、五十万という金をどこから工面してこようかとか、本当に五十万で売って貰えるんだろうか、まさか偽物ではないだろうな、という様々な思惑が、頭の中を、びゅんびゅんと駆け巡り始めたからなのだった。
「どうするの」と、店の主人が促した。「買う気がないなら、しまっちゃうけど」
「ちょっと待って下さい」おれは鋭く制した。「いきなり五十万と言われても手持ちがありません。手付けを払えば、取り置きしておいて貰えるんですか」
「そうだね。二・三万ほど入れといて貰おうかな。残りを持ってきたら、すぐに引き渡すよ。ただし、他の人が五十万以上出すと言い出したら、その時には、あんたの権利は保証しないからね」
「わかりました。でも、その前に、ちょっと中を見せて貰えませんか」
「あいよ。どうぞ」
おれは本を受け取ると、主人の目の前で、箱からそっと中身を引き出した。本は少し痛んでいた。ページに染みが飛んでいる。が、そんなことは、この本に限っては問題じゃなかった。肝心なのは中身だ。おれは本を開くと、扉のページをめくった。そこが完璧に袋綴じ状態のままで、上から撫でると、中に微かな異物感があることを確認した。この本を見つけた時、その条件にかなっているもの以外は絶対に買わないように――と、安斎さんから注意されていたのだ。
おれは本を箱に戻すと、取り敢えず二万円を入れて預かり証を貰い、店の外へ飛び出した。携帯電話で番号をコールした。安斎さんはすぐに電話に出た。
おれは叫んだ。「見つけました。室井龍星の『書棚の育て方』。相手は五十万だと言っています。どうしますか」
《買え、幸田くん》安斎さんは、何の躊躇いもなく答えた。《他人の手に渡る前に、何としてでも君が押さえろ。急げ》
「でも、五十万ですよ!」
おれが半ば呆れていると、電話の向こうで、低い笑い声が響いた。
《その店の主人は、その本の本当の値打ちを知らない。知っていたら、そんな安い値段をつけたりはしない。いや、元の持ち主だって、そもそも手放そうとはしなかった筈だ。おれは、そういう人物が現れてくれることを、長い間、期待してたんだ。こんなチャンスは二度と巡ってこんぞ。迷うな幸田くん、今が買い時だ》
「でも五十万なんて、今、持ち合せがありません!」
《銀行のCDは、まだ動いてるんだろう。君の貯金をおろしたまえ。本を持ってきてくれれば、おれのほうは耳を揃えて即金で払う。手間賃として、プラス・アルファをつけてもいい。時間を無駄にするな。店の主人が頭の切れる奴だと、サクラを使って値を釣り上げられるぞ。すぐに買え、急ぐんだ》
普通の人が聞いたら、正気の沙汰とは思えない会話であろう。古びた書籍一冊に、いい歳をした大人が、五十万円の大枚をはたこうというのだ。おれは以前、ある有名作家の初版本を八万円で買ったことがあるが、その時でも回りじゅうからキチガイ扱いされたものだ。それなのに今度は五十万。もっとも今回は、金を払うのはおれではなくて安斎さんなのだが。
おれは承知して電話を切ると、銀行へ走った。そして書店に戻り、室井龍星の本を手に入れた。
『書棚の育て方』を渡すと、安斎さんは、初孫が出来たみたいに喜んだ。おお、よくやったよくやった、と言いながら本に頬擦りした。
「五十万で安いと言いましたよね」おれは訊ねた。「値をつけるとしたら、幾らぐらいになるものなんですか」
「値なんて、つけようがないほどさ。それでも無理につけるとしたら――まあ、一千万単位の値段になるかな」
おれは本気にしなかった。ひどい冗談だ、と思った。
安斎さんは店を閉め、おれをレジの奥の部屋に招いた。畳の間にあがり、卓袱台の前に座った。安斎さんが、化粧箱から中身を抜き出した。上品な、時代の経過を感じさせるような赤い装幀の本が机の上に乗った。やや薄目のハードカバー。どう考えても、気が遠くなるような値がつく本には思えない。
「これは戦前のものなんですか」
「いや、六十年代初頭ぐらいのものだ。そんなに古い本じゃない。作品自体、晩年に書かれたものだしね」
カッターナイフを持ち出すと、安斎さんは、袋綴じのページを丁寧に切り開いた。中から、和紙で出来た小さな紙包みを取り出した。嬉しそうな顔で彼は言った。「おれが欲しかったのは、これなんだ」
紙包みは、薬包紙ほどの大きさだった。破ると、中から黒い種子が一つ出てきた。
掌の上に乗せると、安斎さんは、それをじっと眺めていた。遠い時代の、夢を追うような目をしていた。
「一週間ほどしたら、またおいで」と言って、彼は微笑んだ。「その時、たぶん、面白いものを見せてあげられると思うから」
おれは約束通り、次の週に再度《しおり書房》を訪れた。
閉店間際に来てくれと言われたので、夕刻に訪問した。安斎さんは、またしても店を早々と閉め、おれを中へ招き入れた。とても機嫌が良かった。病院を退院した時だってこれほどではなかった。何だか、肌の色まで艶々しているような気がする。
「あの本どうでした。面白かったですか」
「ああ最高だよ。おれの宝物だね。その成果を、これから見せてあげよう」
成果? 何のことだろうと思いながら、おれは二階へ続く階段を昇った。《しおり書房》は、二階が安斎さん夫婦の住居になっている。だが、さすがのおれも、そこまであがらせて貰ったことはなかった。細く暗く、ぎしぎしと音がする階段を安斎さんの背中を見ながら昇ってゆくと、どこか、得体の知れない異世界へ迷い込んでゆくような気がした。
案内されたのは、安斎さんの書庫だった。売り物にするのではなく、彼自身が読みたい、保管したいという思いで集めた、膨大な数の書籍が収納されている部屋だ。小説、図鑑、歴史書……安斎さんの第二の脳とも言うべき場所だ。
書庫を覗かせて貰った途端、おれは目を見開いて息を呑み込んだ。部屋にめいっぱい詰め込まれた書棚の数や、そこに並べられた膨大な量の書籍に驚いたのではない。部屋の壁を塞いでいるひときわ大きな書棚――その棚一面に、ツタのような奇妙な植物が繁殖し、傍若無人に手足を伸ばしていたのだ。
「何ですか、この変なものは……」
あまりの気味の悪さに、おれは思わずあとずさりした。書棚を覆い尽くしている植物は、堅くしなやかな細い枝と幹は薄茶色、それらに等間隔にスペード型の肉厚な緑色の葉がびっしりとついている。葉は太陽の光を浴びているわけでもないのに艶々と輝いている。まるで夏の盛りの樹木のようだ。ピンと伸びた葉先と丸く浮き上がった葉脈は、栄養が充分にゆきわたって樹が喜んでいる証拠だ。元気のない枝や、茶色く萎びた葉は一枚も見あたらなかった。まだまだ枝葉を伸ばしてゆきそうな気配すらあった。放っておけば部屋中に膨れ上がり、窓ガラスを突き破り、家屋の外壁にまで、ぐんぐんと枝を伸ばしてゆくのではないかと思えた。剪定を忘れられた観葉植物が、人間に嫌がらせをするように無節操に繁殖して書棚を乗っ取ってしまった――そんなふうに感じられる光景だった。網の目のように張りついた枝の間からは、書棚に残っている本の姿が見てとれる。よく見るとそれらは、流行が過ぎて役に立たなくなった実用書だったり、古雑誌だったり、安斎さんが個人的に嫌っているタイプの小説本だったりした。植物はそれらの本の間に根を降ろし、細い根毛をページの中に差し込んでいた。この樹は本を食って生きているのだろうか? そんな馬鹿なことを一瞬考えた。
「この程度のことで驚いてちゃいかんよ」
安斎さんは樹に占領された書棚の前で立ち止まり、おれのほうを向くと、親指を立てて見せた。「まだ、奥があるんだ」
樹木の葉と枝を両手で掻き分けると、安斎さんは、片足を書棚の中へ突っ込んだ。体をぐいっと前へ出すと、あっというまに中へ入り込んで姿を消した。
おれは「あっ」と叫んで、その場所に駆け寄った。ここにある書棚が幾ら大きいからといって、大人一人が身を隠せるわけはない。書棚には仕切り板がはまっているのだから。おれは大声で安斎さんの名を呼んだ。すると、中から返事が戻ってきた。
「心配しないで、君もこっちへ入ってごらん。大丈夫だ。痛いことや苦しいことはない。ちょっと狭いドアをくぐる程度の感覚だ。そちらの部屋にも簡単に戻れる。全部、実験済みだ」
実験? 実験って、いったい――
何が何だかわからなかった。この奥へ入れば全てわかるのか? おれは心を決め、安斎さんと同じように、えいっ、とばかりに書棚の中へ身を踊らせた。
その瞬間、信じられないような光景が目の前に広がった。
柔らかな陽差しに似た光が周囲から押し寄せてきた。体に染み込んでくる光の暖かさと、眼前に出現した空間の広大さにおれは呆然とした。いったいどこまで続いているのかと思うほどの広い部屋の中で、おれは言葉もなく立ちつくしていた。足元には淡緑色の絨毯が敷かれている。微かに緑の香りを感じた。森の中で感じるような濃密な香りではなく、微かに鼻の奥をくすぐる程度のものだ。その明るく広大な空間の中に、数え切れないぐらいの本数の書棚が、整然と立ち並んでいた。しかもその殆どが、まだ空の状態で書籍を詰め込まれるのを待っている真新しい書棚だった。安物のベニヤ板を組み合わせたような品物ではない。しっかりとした上質の木材で作られた、艶々と茶色に輝く大きな書棚だ。おれはその一つに近づいた。仕切板の縁を撫でた。滑らかな手触り。ため息が洩れるほどに心地良い。くらくらするような陶酔感を覚えた。
書棚の前には、安斎さんが、にこにこしながら立っていた。おれは唸り声をあげながら天井を振り仰いだ。頭上には、夜のように暗い空間が存在していた。そこには星座が輝いていた。太陽の姿はなかった。それなのに広間全体は、真昼のように煌々とした明るさで照らされていた。
「ようこそ、異次元書庫へ」安斎さんが、笑いながら言った。
「異次元――って、何ですかそれは」
「ここは、おれ達の住んでいる世界とは別の空間、すなわち異次元空間だ。表の書棚を占領していたのは、ここへの扉を開く樹――室井龍星の本の中では《ドア・ツリー》という名前で呼ばれている樹木だ」
「えっ、じゃあ、あの樹はもしかしたら先日の……」
「そう、あの種から育てたんだよ。おれが欲しかったのは、このドア・ツリーと異次元書庫だったんだ。君も書籍マニアならわかるだろうが、本というのは捨てない限りどんどん増えてゆく。そしておれ達のような書籍愛好家は、普通の人間にみたいに、そう、ひょいひょいと本を捨てることが出来ない。いや、そもそも、捨てるしかないような価値の薄い本は買わないと言うべきかな。いずれにしろ、早晩、在庫管理に頭を悩ますようになる。日本の住宅事情は厳しいからね。書棚はあっというまにいっぱいになり、段ボール箱に詰めて押し入れに放り込んでも、まだスペースが足りない。古い本をひっぱり出して読もうなどという気を起こした日には、大変な騒ぎになってしまう。そんな苦労を解決するには、個人で、図書館レヴェルの広大なスペースを確保する以外に道はない」
「ここが、その空間だというんですね」
「そうだ」
「ぼく達の世界とは、空間的に別世界にある場所だから、幾らでも本が収納可能だということなんですか」
「その通り」
「あの、室井龍星の本には」
と、おれは興奮に震えながら確認した。
・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「文字通り、この書棚の育て方が書かれていたのですね」
安斎さんは、笑いが止まらないという感じだった。当然だろう。本好きなら、蔵書の保管には誰だって頭を悩ませている。現実空間以外に、幾らでも本を収納出来るスペースが作れたとしたら――これはもう、宝くじが当たったどころの騒ぎじゃない。夢のような話だ。
「おれが幾ら本好きでも、この広い空間を、自分の蔵書だけで埋め尽くすということは絶対にあるまい」安斎さんは晴れ晴れとした表情で言った。「なぜなら、それだけの量の本を自分の余生で読み切るなんて、とうてい不可能に決まってるんだからな」
「あの樹は、何を養分にして育っているんですか」
おれは訊ねた。
安斎さんは答えた。「ドア・ツリーの養分は本の活字だ。あいつは活字を食べて生きているらしい。だから異次元本棚を維持するためには、ある程度の数の書籍を犠牲にしなければならない。それを考えると少しだけ心が痛むね。ただ幸いなことに、ツリーの成育は、活字内容の質の高低には左右されないらしいんだな。だから古雑誌や新聞でも、活字が印刷されているものであれば、何とか生命を維持させることが出来るらしい。
それにね、古書店を経営していると、買い入れの際、いろんな種類の本が持ち込まれてくるだろう? 中には、棚に並べたくないような本も何冊かあるんだな。カルトな宗教団体が発行しているような怪しげな本、政治的に偏向した団体が出している本、売るには痛みすぎている古い本、内容に間違いのある無責任な健康書――。せっかく持ってきて貰ったものを、買えないからという理由で持ち帰って貰うのも、お客に対して気の毒だ。だからこれからは、そういうものを《肥料》にするつもりだ。人間にとって肥やしにならない本なら、せめて、植物のために肥やしにしてやりたいとは思わないかね」
「そういうことも、あの本に書いてあったんですか」
「勿論だ。『書棚の育て方』は、ドア・ツリーの成育法から始まって、異次元書棚の使い方、その応用方法、この書棚にまつわるエピソードなどを書き綴った本なんだ。でも、室井龍星がこんな本を書いたことを知っている人は少ないし、実際に手にした人でも、種の部分の封がすでに切られていたり、きちんと育てることが出来なかったりで、本当にこんなことが可能なんだと信じている人は皆無に近かったようだね。なんせ、生物学者じゃなくて、幻想小説作家の書いた本なんだから、空想上の出来事だと思われていたのも当然だろうさ」
「でも、安斎さんは信じたんですね」
「ああ」
「なぜですか」
「……世の中に、一つぐらいは、夢のように美しく不思議なことがあってもいいとは思わないかい?」
もっともだな、と、おれは思った。
その時、黒っぽい色の生き物が、目の前を、ふわっと飛ぶように通りすぎた。吃驚するほど大きな、女郎蜘蛛のように脚の長い蜘蛛だった。
「何ですか、今のは」
「ああ、あれは古書につく紙魚や、ダニを食べてくれる蜘蛛だ。室井龍星の本によると《司書蜘蛛》という名前の蜘蛛らしい」
安斎さんは、そっと手を伸ばすと、蜘蛛を手の甲にのせた。「おとなしい蜘蛛なんだ。勿論、毒はない」
おれは、ほうっとため息をついた。
「幸田くん」
「はい」
「あの本、五十万じゃ安いだろう?」
おれは頷かざるを得なかった。
そして、室井龍星自身は、いったい、どこであの種を手に入れたのだろうかと、ふと思った。答えを見つけることは出来なかった。が、なぜ、それを本にしたのかだけは想像がついた。きっと、読者に対するサービスだったのだ。自分の本を買ってくれる読者、本好きの人間に対する、気前の良いサービス……。室井龍星は、そういう作家だったのだ。
安斎さんの蔵書の一部を異次元書棚へ運ぶ手伝いをしたあと、おれは夕食をご馳走になり、暗い夜道を一人で自宅まで戻った。
その夜は、久しぶりに興奮でなかなか寝つけなかった。目を閉じると、不思議な書棚の奥で、司書蜘蛛と戯れながら、自分の本を、じっくりと読み直している安斎さんの幸せそうな姿が目蓋の裏に浮かんだ。奥さんが、その横でお茶を入れている。トラ猫のジェイムズが、足元にじゃれついている――
翌朝、おれはいつもの日曜より早起きした。朝食をしっかり摂り、元気いっぱいになったところで家を後にした。
マンションの階段を駆け降りると、おれは暑い街の中へ飛び出した。夏はまだ盛りだ。だが、じきに涼しく過ごしやすい季節がやってくるだろう。
腹の底から湧きあがってきた決意を、おれはもう一度噛み締めた。心の中で繰り返した。
・・・・
おれは必ず、室井龍星の『書棚の育て方』を、もう一冊見つけてみせるぞ。そして今度は、自分の家に、あの異次元書棚を作るのだ。たとえ何年かかっても、絶対に絶対に、やり遂げてみせるぞ!
その日以来、おれの古書店巡りに、一層熱がこもるようになったのは、言うまでもないことである。
(了)