忠犬ヤキール号の最後の墓

森尾路地

市中心にある中学から物理の講師枠で採用通知が届いたとき、私を自分と同じ律法師にしたかった父は、

「お前、それで後悔しないかね?」

と念を押したが(もちろんそれはちょっとした圧力のつもりだったのだろう)、

「教会の学校じゃありませんか、お父さん。ねぇ」

母はそう言って私を擁護してくれた。

「物理学だと。ずいぶん教えたことと違う方へ行くじゃないか、え?」

ぶつぶつと愚痴を鳴らす父の背中を押して書斎へいざないながら、母は私のほうを振り返って言った。

「お前はヤキールが居なくなって、考えたんだ。私にはわかってるよ」


その言葉はまったく不意打ちだった。私は二人の後ろ姿から目をそらせた。 気が付けば背が曲がって、自分より小さく見えるようになっていた二人の後ろ姿から――そして視線を暖炉そばの柱に巻き付けたままのロープと、 その先の藁の上に置かれた首輪に目を移した。

それはあの時、十二年前のヤキールが居なくなった十三歳の夏の嵐のあの夜と、変わらず全く同じままでそこにあった。


私はあの時と同じように、今は取り払われた柵のあったあたりに立ち、その首輪をぼんやりと見つめていた。

そしてふいにその視界がにじんだ。

私はあふれてくるその涙の理由が、両親の許しを得たことからくる安堵感からか、あの夏の出来事を思い出したからか、自分でもすっかりわからなかった。


*** *** *** ***


私の村には、生まれた時に墓を建てるという風変わりな風習があり、学校の同僚がそれに触れるときからかって言う 「マサダ砦の覚悟(古い玉砕した砦だ)」で、都会の連中がいかにそれを奇異に思っているのかがよくわかる。

しかし当の村人たちはいたって平然と、それが当然のこととして、生まれたての赤ん坊のために、天寿を全うすることを祈って成人用の墓を建てる。 風習というのはそういうものなのだろう。

昔はともかく、これは決して強制ではなかった。

現に市内から越してきたイツァクの父親は断固としてこの奇怪な風習を受け入れず、墓守の爺さんと会えば毎回はじまりは季節のあいさつでも、しまいは口論になるのが常だった。

墓守爺さんはそんな時、決まって小学校から帰りたての私をつかまえて、そのにわか宗教裁判の証人に据えるのだった。

今、大人になってわかることだが、墓守爺さんはこれが言いたくてヤキールの墓を建てたのだ。

「あんたは町に行きゃ偉いのかもしれないがね、偉いというのはこの子のことを言うんだ。この子は自分の子犬のために、墓を作ったんだ」


そんな時、私は決して笑わないように努めた。いかに爺さんのその言いっぷりが可笑しくとも。

なにより爺さんの売り文句に合わせてにやにやしようものなら、爺さんの言葉を真に受けて、本当に自分が偉いと思ってると誤解されかねない。

子供心にそれだけは避けたかった。

それはとんでもないホラ話で、ヤキールの墓はじいさんが勝手に作ったのだ。

それもこちらには、ただで作ったことをいつまでも恩着せがましく言うからたまったものではなかった。

狭い村だ。そんな謀りごとはすっかり知れ渡ってしまっている。もちろんイツァクの父親にもだ。


イツァクの父は押し黙った私の顔を覗き込んで、こう答えるのだった。

「いけませんな、ベナトさん(墓守爺さんのことだ)。子供の未来は村の新しい未来ですぞ。古い習慣の押しつけは」

二人の押し問答はどこまでも続いていった。

そう、夕飯時になってイツァクが母親に言いつけられて父親を迎えにくるまで。

私は私で、なし崩しに閉廷した裁判を背に家路に着き、一部始終を欠席していた重要参考人――もとい参考犬のヤキールに報告の体で語って聞かせるのだった。


ヤキールは黒い毛並みの中型犬の雑種で、母が仲の良いご近所から分けてもらい我が家の一員となった。

まだほんの子犬だったが、その黒目がちな瞳は知性の輝きであふれていた。

父の説教を聞かされている私のそばに、まるで頃合いを図ったかのように寄り添い、私と並んで父のほうを向くのだ。

その様子を見ていた母がふき出してしまい、これには父も閉口して話を切り上げてしまう。

「犬は聞かなくてもよろしい。まったく」

それでも父の、こういうお説教のおしまいの合図である『行ってよろしい』の言葉が出るまでおとなしく腰を落とし前足をまっすぐに背筋を伸ばして姿勢よくしていた。

やれやれと首を振り振り書斎へ引き上げる父に聞こえるように、母はこう言う。

「二人とも、ちゃんとしたわねぇ。テーブルにクレープがありますよ」

それは祭日に食べるものがずいぶん簡単になったものだったが、それでも私はいわずもがな、ヤキールもお気に入りで、しっぽの振りようといったらなかった。

それもこれも、母の見事な戦略だった。私が父のことを、嫌いになってしまわないように――。 ともかく、父の話を真剣に聞こうとしているように見える、まだ幼いヤキールの鼻先まで短めの横顔をよく覚えている。


*** *** *** ***


そんなヤキールに最初の災難が訪れたのは、私が十歳の時だった。

ヤキールは子犬から成犬へと変わる、そのさなかの体躯だったと記憶している。


まわりの級友に遅れてかかったはしかで、私はずいぶん熱を出して寝込んでいた。

ヤキールはうんうんうなっている私に寄り添い、心配そうに鼻をならして時折私の額の汗をなめたりしてくれていた。

「子供はみんなかかるのよ。死んだりゃしないよ」

母がそう言って笑うのを聞き、私は熱でうなされながらも笑みが出た。

笑う私を見てもヤキールは、鼻を鳴らすのはやめこそすれ、私のそばを離れようとはしなかった。


母の言葉は正しく、やがて私はほどなく恢復したが、今度はヤキールが、私がすっかりよくなるのと入れ替わりに、 食堂の隅にしつらえられた自分のわらの寝床に横になったまま起き上がらなくなってしまった。

舌を出してあごを上に向け、まるでその様子は私のはしかが伝染ったかのようだった。


母も父も、首をかしげるばかりで、

「犬にはしかがうつるなんて、聞いたことがない」

と、水皿の水に砂糖を混ぜてどうにか飲ませようとした。


二晩越えてもヤキールの病状が変わらないのを見て、私よりも先に母が青ざめた。

もしヤキールがこのまま死んでしまったら、私に世の中でもっとも辛いこと、近しい者を失うことを教えなければならなかったからだ。


「ヤキールはお水を飲まないかもしれないね、それでね」


母はそう私に言いかけては口ごもりを繰り返した。『ヤキールは』と『お水』の間に、 『もう』の一言を挟む、ただそれだけのことだが、それがどれだけ残酷な仕事だったことだろう。

そんな母の苦しい胸の内を救ったのは、当のヤキールだった。

次の朝に何事もなかったかのように、そう、スコールが通り過ぎたあとのからっと晴れた青空のように、いつも通りはあはあ舌を出し、両脚をまっすぐ立てて。

「なんだい、お前のせいでずいぶん砂糖を無駄にしたよ」

そういってヤキールを追い立てる母の目のふちに、涙が浮いていた。

当のヤキールのほうは、何が折檻の理由か全く理解しかねる様子であったが。


ヤキールの病気が快癒してから、墓守爺さんが父のもとに訪ねてきた。

「墓をな、直したところなんじゃ」

「墓?」

父と爺さんは律法師と墓地の管理人の関係だから、商売柄は密なはずだが、実際は父が墓守じいさんを歓迎した様子を見たことがない。


話もそぞろに、追い返してしまった。

「あなた」

「うん、大人の犬の大きさに直したんだそうだ。金を出してくれだと。どうせ浮かせた手間賃で酒を飲みたいのだろう」

おしまいのそれが疎んじる理由だ。二人の会話はそんな内容だったと思う。私はその話の内容には十分に注意を払わなかった。


*** *** *** ***


最初の災難から一年、二年と、ヤキールはたくましい成犬の体つきに育ちあがった。

川で遊ぶにも今までは、彼が深みに向かって泳ぐだけで気を張って姿を追わねばならなかったが、 今や立場は逆転し、深みに近づく私を追い抜いて、まるで牧羊犬が群れから離れた一頭を遮るように進行方向をふさいだ。

弟がいなくなった代わりに、兄貴が急にできたようだった。

山で狩りをするときも、何をするときも、あの小さな子犬が、中型犬とはいえずいぶん立派になったものだと、父ですら感心した様子だった。

そして、私も。

「ヤキール、こいつは食べちゃダメだぞ。腹をこわして死んじまうからな」

そう言って狩りで仕留めた獲物を自分でさばき、ごみを集めて畑に埋める様子を見て、母が私を食堂に呼んだ。 その顔がどこかあの、ほうきで子犬のヤキールを追い回した時の面影だったので、私にはうすうす何の話か先に知り得た。


「あの時ね、お前になんて説明しようかと思ったんだよ」

果たして、母の話はヤキールの最初の災難の話だった。もしこれが父なら、きっと天に召されただの、地に帰っただのの言葉を並べただろう。

もっとも私はそれはそれでありがたく受け止めたと思う。

しかし母は不器用ながらも真心のある人だった。

あの時の自身を再現することで、青年には今少し届かないが、それでもそろそろ少年からは脱皮しようとしていた私に、 長さの尺度を持つ不思議な価値、いのちについて訴えたのだった。


そして、私は国民中学に上がる歳になった。墓守爺さんの宣伝係の役を引き受けるのは、苦痛になり始めた。

ある日のこと、爺さんは例によって新しい入植者に墓を勧めていた。 もちろん私を呼び出し、例の手で新しい村人を黙らせようという魂胆だった。私は爺さんの面子をおもんばかって、 得体のしれない風習があることを知ってうんざりした顔の哀れな入植者の姿が見えなくなってから切り出した。

「墓の話の時にぼくを呼び出すのはこれっきりにしてよ」

爺さんは意外そうな顔をした。

「知らないとでも言うのかね。お前さんの大事な犬だよ。墓のおかげで今もぴんぴんしてるじゃないか」

今度はこちらが不可解さを顔に出す番だった。爺さんの言っていることが、すぐには理解できなかった。

「墓がちゃんとあるからだよ。あの犬があんだけ立派に育ったのは。わしが墓を直しただろう? ほら、だからさ」

私の心に遠雷の音が響いたような気がした。遠くに黒雲のような不安が、こちらに近づいてくるのが見えたようだった。

「でかくしたから犬もでかくなれたのさ。あのときは墓が子犬の大きさだったろ」

爺さんはヤキールの最初の墓が子犬の大きさだったから成犬になるのに障ったと言っているのだった。

言葉を失っている私をどう解釈したのか、爺さんは続いて畳みかけてきた。

「だからよ、あの時の金はわしがもってもいいんだ。今度あそこんとこの木を切っちまうのにいくらかもらえりゃ」

爺さんはすでに父に金の無心をして断られたのだろう。私を篭絡ろうらくしにかかってきた。

「とにかく、墓の話のときに僕を呼び出すのは勘弁してよ」

私は新しい村人が増えるたびに『犬の墓の少年』として第一印象を持たれることにはいいかげんにうんざりだったので、立ち合いはかたくなに拒絶した。

「切っちまったほうがいいぜ、もう朽ちてぐすぐすだ」

背中に爺さんの声が追い打ちをかけたが、私はその場をさっさと立ち去りたかった。

背後の声はしばらく続いたが、私は聞かないように全く注意しなかった。

なにせ、これでろくでもない茶番劇に出演せずに済むことがうれしくて仕方がなかったのだ。


その年の初夏は、穏やかならぬ雰囲気だった。

蚊が媒介する伝染病の警報が出て、町から医者が村々を予防のために回診するようになっていた。

水たまりを埋めたり、川のよどみを解いて流れを良くしたり、村のみんなも色々と、真剣に対策に奔走していた。

というのも、イツァクの父という比較的大きな犠牲者が出たからだった。

一家の大黒柱を失ったイツァクの家は、市内の親戚を頼って引っ越していった。

「お墓なんて関係ないんだぜ。ヤキールを大事にな」

イツァクは頑固な親父さんと勝気なお母さんに囲まれて、すっかり人間が老成していた。

私に気を遣っていたのだろう。しかし私はその言葉を、なぜか『ヤキールの墓を大事にな』という意味に受け取らずにはいられなかった。なんとも罪深い迷信だ! 


「先に建てといたほうがいいに決まってる。あとから用意するよりは、よ」

墓穴を掘るときに、爺さんはまるで自分の主張が正しいことを誇るかのように言っていた。

しかしそんな爺さんのことも、慌てて墓を建てた新入り村人の何人かのこともみんな気にする余裕もなく、とにかく新しい犠牲者を出さないように必死だった。

イツァクの父親は、夕方に熱を出して医者を呼ぶ間もなく、その日の夜に死んだからだ。

出血してむごい有様だったと聞いた。


「エライ苦しみようだったとよ」

爺さんはそう言いふらしていた。墓の重要性を新しいほうの村人たちに示すためだろう。

それがいかに不心得に聞こえようとも、みな当の本人は善意でやっていると思っていたので、玄関先であしらいこそすれ、爺さんをなじったりはしなかった。


村の雰囲気は一変した。


たった一人だったが、自分の暮らしの中での予期せぬ死を目の当たりにして、村人たちはみなすっかり怯え上がっていた。

無理もない、イツァクの父親は本当に、日が昇り切る前、まきを割っていたのだ。

それが忌々しい足の長いねずみ色の虫っけらのたった一刺しで、無理やり人生の終幕を、緞帳を滝のような速さで落として迎えてしまうのだから。


「ヤキールは表に出さないようにな」

私は、父がヤキールの名を呼んだのは、この時が初めてだったと今も信じている。

その証拠に、母も驚いた顔をしていた。よく憶えている。

しかし彼女の頭には、過去の苦い思い出がすぐによみがえったようだった。

「ええ、そうしますとも」

すでに町や隣村で、病が家畜をも倒すことが知られていたのだ。はしかの時とはわけが違った。

やたらとぬかるみにぼうふらを見つけて鼻から突っ込んでは泥だらけになるヤキールがいちばん危ない。

母はヤキールが蚊帳を破らないように冬の暖炉用の柵を巡らせた(現に一組やられていた。ヤキールには恰好の遊び道具に見えて仕方なかったらしい)。

ただならぬ雰囲気を察したのか、それとも新しい遊びと勘違いしたのか、ヤキールは油の味のする柵をかじりながらも無理に飛び越えようなどとはせず、 蚊帳の中を生活圏とすることに甘んじてくれたようだった。 蚊帳の中でふたりでじゃれあうのも、楽しかった。


やがて夏も盛り間近、例年の季節の嵐が来ようというときになり、ふたたび墓守爺さん が金の無心にやってきた。例の、墓場の朽ちかけた木を切るだのの話の様子だった。

「切っちまったほうがいい。あの木はよ、嵐が来る前に」

「今は墓場の造作をしている場合ではなかろう、それに沼も近い。あそこは一番危ない」

会話は押し問答になった。父がいかに拒絶しようとも、爺さんは引き下がらなかったのだ。

「神父さんや、お前さん勘違いしとる。蚊なんてどうでもいいんだ。墓のほうが大事なんだ。村の連中もじゃ。 わしが常日頃あれだけ言って聞かせてきたのに、何一つわかっちゃいなかった」

爺さんはいつにも増して頑張っていた。それは見事なまでの墓守り精神というほかなかった。 父の言うようにすなわち酒代 なのだとしても、それでも墓を先に立てて話をもっていくあたりあっぱれと言うほかない。

「ベナト、墓場はぬかるみを埋めたんだろうな? 普段誰も近寄らないのを良いことに、ほっぽってるんじゃないだろうな?」

父に図星を突かれ、墓守爺さんは口ごもった。

「とにかく、墓場の修繕よりも、病気を防ぐことのほうが大事なんだ」

「だからそうじゃなくて墓じゃよ。病気もなにもかも」

玄関から、そして外の通りに出るまで墓守爺さんは押し出されていった。


*** *** *** ***


「イエシバ(イツァクの家族名)の最初の兆候を覚えているか? 彼の妻から聞いたか? 

ヤキールを遠巻きにうかがいながら言う父の言葉が、ひっかかりもせずに私の耳を通り抜けた。 私は近づくことを禁じられた柵の向こうのヤキールをぼんやりとした頭で見つめていた。

母はかすれた声をようよう絞り出した。

「いいえ。あっという間だった、とだけ」

ヤキールは横倒しになって喘いでいた。家の中は夏の湿気を含んだ空気でひどく蒸すようで、それも相俟っていっそうヤキールが苦しんでいるように見えた。


はやり病はヤキールを襲った。ヤキールの容態はまるで嵐とつながっているかのように、雷鳴とともに風が立つと息を荒くし、 風が窓を割らんばかりに叩くと、ヤキールも七転八倒して苦しみ始めた。口から泡を吹き、黒く美しかった目は充血した白目をむいて……私は目を背けることすらできず、 ただただ最愛の友人の断末魔を見届けているだけだった。そして、肩に置かれた手にようやく気づき、振り返ったところで悲鳴を上げた。

「いやだ! !」

父が手にした猟銃は、口径の一回り小さい私のものだった。母は耐えられず、その場に居合わせることを避けるために台所に逃げ込んでいった。

「お前の手で楽にしてやりなさい」

それは父の教えの中で、最も受け入れがたいものだった。

「できない」

教えに背くことを断じて許さぬ父だったが、この時ばかりは押し黙ったまま私に今一度銃を押し付けるだけだった。

その銃から逃げるように踵を返した私は、昼なお薄暗い嵐の中へ飛び出していった。


「この嵐の中、何しに来たんじゃ。危ないというに」

墓場の入り口を通り抜けるときに、門扉わきの墓守小屋から爺さんが叫んだのが聞こえた。相変わらず木がどうこうと騒いでいるようだった。

私は墓場の一番奥まったところの大樹の陰にあるうちの墓、その中の自分の墓に、ぬかるみに滑って足を取られながら駆け寄った。

人間のそれと変わらぬ大きさで、平石がたててある。ヤキールの墓だ。

私は大樹に突き刺すように立てかけてあったつるはしをもぎ取った。取るときに朽ちた幹が砕けたが、嵐でさんざん湿った樹木のこと、手ごたえもなく、私は全く気に留めなかった。

つるはしはずしりと重く、雨に濡れた柄が滑って、振り下ろす途中で手からすっぽぬけそうだった。ヤキールの墓めがけて振り下ろせば、すっぽ抜けてもいっそ好都合だと思った。

まだまだ大人の男の腕力には届かない、非力な両腕でつるはしを振り上げたところで、背後から墓守爺さんの怒声が響いた。

「何をする! そんなことしたらお前の大事な犬ころがお陀仏じゃぞ!」

爺さんの言うことは、私の目論見とはあべこべだった。

墓が、墓がいのちを閉じ込めているんだ。

これさえ壊せば、その忌まわしい呪縛から解き放たれる。

ヤキールは助かる。

爺さんの警告を無視し、私はつるはしを力いっぱいヤキールの墓石の薄い広いところめがけて振り下ろそうとした。

雷鳴がとどろき、黒雲に覆われて真っ暗な墓地を黄色い光が切り裂き、そして真っ赤な炎が巻き上がって私を吹き飛ばした。

「あぶない!」

墓守爺さんが何か叫んだようだが、あの嵐の中、私の耳に届いたとは考えにくい。

ぬかるみから這い上がった私は、その声にはっと顔を上げた。つるはしが立てかけてあった木が、炎に包まれ私めがけて倒れこんでくるところだった。

私はまったく体が動かなかった。

その時、二度目の雷鳴があたりの空気をつんざいた。

その雷光の中黒い影が躍り出て、私の胴体めがけて突進し、もろに私を突き飛ばした。

さっきまで私が立っていた場所に倒れてきた木が、炎をまき散らして粉々に砕けると同時に、黒い影はうなり声のような轟音とともに空中に渦を巻いて消え去ってしまった。


それと同時だった。

突如嵐は引きはじめ、まるで逃げ出すように雷鳴が墓場から、村から遠ざかっていったのだ。

まだ黒い影を端に残した雲の間から陽が差す様子は、父が時折見せてくれる奇跡画のようだった。

村人の歓喜の声が聞こえたような幻覚すらあった。

私はずいぶん長い間立ち尽くしていたがようやく我に返り、くすぶって煙を上げ続けている倒木と一緒に腹で真っ二つに割れた墓石に気が付いた。

「こんなことは初めてだな、わしは」

私の背後に立った爺さんは泥だらけだった。

私はつるはしを振り上げた時の怒声を思い出し、爺さんの叱責を覚悟して身を縮こまらせた。

しかしその予想に反して爺さんは、早くも乾いて明るい色に変わりつつある体の泥を落としながらこう言った。

「危なかったな、お前さんの墓を砕こうもんならば。もう少しでお陀仏だったぞ」

そうして落雷を受けて炭になった木を棒でどかして、下の墓石をあらわにした。


『忠犬ヤキール号 彼は主人を守った』


墓碑銘は爺さんが勝手に考えたのだろう。砕けた上半分にそう彫られていた。

今まで見にも来なかったが、墓石も墓碑銘も、人間のそれと遜色なく立派だった。


嵐の中飛び出した息子を出迎えた両親は、何も言わずに帰宅を受け入れてくれた。

もっとも私が泣くだけ泣きじゃくるので、叱責しようにも機会がなかっただけかもしれないが。

嵐が去り、すっかり乾ききった家の中の空気は、飛び出す前のそれとはまったく正反対に清々しかった。


天窓からの光がヤキールの蚊帳に射し込み、彼の寝床を照らしていた。

寝藁の上には亡骸の代わりに首輪だけがぽつりと、王冠のように置かれていた。


*** *** *** ***


嵐は蚊の溜まりも吹き飛ばしたのか、その時以降はやり病はぴたりと治まった。

その時の村人たちの喜びようと言ったらなかった。実際それ以降、あんなにみんなが怖い思いをしたことはない。


父も母も多くを語らなかった。

父は息子に銃を突き出したことが間違っていたと考えているようだった。そして素朴で敬虔な母の苦しみは、どうのこうの言って善良な良人が苦しむことだった。


父は私に教えるのではなく、相談をすることが多くなった。

教会の祭礼の敷物の色とか、お客さんに出す食事の好みとか。

母は前にも増して、それに口を出さなくなった。出す必要がないと判断したのだろう。


私はヤキールの首輪をそのままにしてくれるように母に頼み、大学で学ぶため市に出て、教師の口の知らせを持って帰るまで、お願いの通りそれはそのままだった。

それが私が捧げた彼の墓だ。


思い出すのは、当時まだまだ子供の気の抜けていなかった私は、ヤキールが病気も追い払ってくれたのだと本気で信じたことだ。

いや、今でも少しだけ、何か手の及ばないときには――例えば母が買い物に出ているときに町で事故の知らせがあったりとか―― そんなときは神様より先にまず、ヤキールに祈っている。(了)