僕と君の左右世界

杉村 修

僕の見ている世界は二つある。

左目は、あたりまえの世界を映し出す。何気ない日常の一幕を。左目の中で、中学生の妹が慌ただしく、 食パンとベーコン、それにスクランブルエッグというメジャーな朝食を食べて足早に家から出ていった。

母は「片付けて!」と一言文句を言ったが、もう妹には届かない。空になった皿やコップを渋々と片付ける。僕はそれを目で追った。

じゃあ、右の目で見る世界はどうだろう。右の目で見る世界だと、キッチンにいる母の足下に、 一つ目小僧が立っている。ちょこんと、こっちを見ているので手を振ると、母の足にまた隠れた。

「義人、今日も仕事でしょう? 間に合うの?」

「大丈夫、大丈夫。あの工房、時間にうるさくないから」

僕は時計の修理を仕事にしている。そして時計店ではなく、修理工房に勤めている。

どう違うの? とよく聞かれるが、僕はいつも「時計の修理を専門に行っている会社だよ」と答えている。 その会社は当然大きくない。山の中にあって、元はペンションだったものを改築したのが社屋だ。

「ごちそうさまでした」

僕はそう言って二階へ向かう。

途中、洗面台でもう一度歯を磨いた。

部屋に入るとリュックの中に白衣やメモ帳等を入れ、工具箱を持って車へと向かう。

助手席には既に一つ目小僧が乗り込んでいた。

「おはよ」

『はよ~』

ちょっとした言葉なら、一つ目小僧は喋れる。そしてウキウキとボタンを押して窓を開けた。

僕はその間にシートベルトを着ける。

「それじゃ出発!」

『ぱーつ!』

そして僕は会社まで車を走らせる。

スキー場が近くにある僕の仕事場は、山の中腹と言える場所にあった。だから、夏でも流れる風は涼しい。 周りは別荘やペンションが並ぶちょっとした避暑地だ。

別荘持ちなんて当然お金持ちだから、そういう人たちから僕の勤めている工房に時計修理の依頼が持ち込まれることも珍しくない。 一般的に、時計を修理やメンテナンスしてまで長く使い続けるのは、高級時計を持っている人だからだ。

道中、一つ目小僧と他愛もない話をして工房に到着(ちなみに、会話できているかは怪しいところだ)。 車を駐車場に停め、時計修理工房「セピア」の扉まで歩いていく。

……あれ? 

そこで僕は違和感を覚えた。

工房の入口に、水色のワンピースを着た女の子が体育座りをしていたのだ。 しかし、それは右の目で見た世界であって、左の目の世界に彼女はいない。

一つ目小僧も気付いたようで、僕に構わず、たったったっと彼女のもとまで走っていった。

『やー!』

一つ目小僧は手を上に伸ばし、少女に声をかけた。

『なによ。あんた』

彼女はゆっくりと顔を上げ、一つ目小僧を睨み付ける。可愛い、というより綺麗な子だなと思った。

『お化けじゃない』

『ばけー』

『で、そこのあんたも私が見えるの?』

どうやら、気付かれてしまったらしい。僕はしばし固まってしまう。

ちょうどそのタイミングで、彼女の後ろの扉が開いた。

「遅いぞ~義人」

セピアの女主人・影原イオリが顔を出す。この工房の責任者、社長、工房長……まあ肩書きはいろいろだ。

「影原さん。その子は?」

「ん?」

影原さんは隣にいる女の子を横目で見る。見られている間、その子もじっと睨みを利かせていた。

「うん、ただの悪霊だ。義人、塩撒いとけ」

『はあ!?』

女の子が叫ぶ中、影原さんはまた工房の中に戻っていった。


『やーやーやー』

「君は元気だね」

一つ目小僧が先頭に立ち、いつものように工房の廊下を歩いていく。そう、悪霊がどうこう言ってる場合じゃない。僕には仕事があるのだ。

『なんで、私が……』

後ろの方でブツブツと声がする。ちょっとしたホラーだ。いや、完全にホラーだった。しかし、夏の朝からホラーをやっている場合じゃない。

僕は作業部屋に着くと、工具箱を下に置き、

時計のパーツを洗うための洗浄液をガラス棚から取り出した。そして、机の上にあるシャーレに流し込んで蓋をする。

『ねえ、あなた怖くないの?』

「まあ、もう日常ですから」

後ろを振り返ると少女がいた。右目で見て頷く。やはり、左の目の世界には彼女はいなかった。

『あなた、名前は?』

「佐々木義人だよ」

『私はアイリ。名字は忘れたわ』

彼女は壁にもたれかかって窓から町の風景を眺める。

「いいところだろ?」

僕はアイリに工房から見える景色を自慢した。彼女は『うん!』と、とびきりの笑顔を作る。 そこで僕の心は揺れてしまった。いやいや、女の子の笑顔に見とれている場合じゃない。

僕は席に着き、今日修理する時計を袋から取り出す。そこには青い紙も入っており、 修理して欲しい内容や、傷の場所等、事細かに指示が書いてあった。

今日の依頼はクォーツ時計だった。電池交換で直らなかったものがこの工房にきたということだ。

『ねえ、あなた時計職人なの?』

作業中、アイリが僕に話しかけてくる。

「まあね」

時計のパーツはとにかく小さい。ばらして組み立てるだけでも神経を使う仕事だ。 アイリは空気を読んでくれる子らしくて、僕の集中する気配を読み取って、すぐに静かになった。

さて、始めるか……。

僕は時計のケースの裏蓋を工具で開けた。

クォーツ時計は電池を動力としている時計だ。機械式の時計に比べて精度が高くて、時間がずれない。 安価な機械式時計は一日で二十秒ずれるとも言われるが、 クォーツ時計は安価なものでも一ヶ月で十五秒くらいしかずれないと言われている。それにクォーツは針の音も静かで、さらには壊れにくい。

その特徴からクォーツ時計は仕事用で、機械式時計はプライベートや社交用と使い分けている人も多い。

『ねえ、終わったの?』

「ああ。うん、終わったよ」

僕はキズミという目に着けるルーペを外した。作業中、アイリはずっと黙っていてくれた。

『本当に動かしちゃった。凄いのね。あなた』

「影原さんに比べたらまだまだだけどね」

僕は次に修理する時計を持ちに、一度部屋を出た。


その日は夕方四時くらいには作業が終わった。工具を片付け、コーヒーカップを持って窓から町を眺める。

相変わらずいい景色だ。隣に幽霊がいなければ、特に平和な一日だっただろう。

『決めた! 私、あなたについていくわ』

仁王立ちを決め込んだ少女が僕をじっと見つめる。

『やー?』

「は……?」

いやいやあなた幽霊でしょ? 

と僕がつっこむ前に、彼女はその理由を述べた。

『あなたといたら成仏できそうだし!』

「まじか」

僕は一つ目小僧と目を合わせる。彼は『やー!』と元気よく腕を伸ばした。

「君、本当に付いてくるの?」

『あたりまえでしょ』

「はぁ……」

僕はため息をついた。さっき修理が終わった時計が、時を刻んでいた。


『ああもう! むっかつく~。なにあれ!』

一人増えた帰りの車内でアイリは怒っていた。帰りがけに影原さんから塩をまかれたからだ。

まあ、しょうがない。僕はなにも言えない。車内では僕の好きなゆったりした曲調の音楽が流れていた。

少し暑いなと思って窓を開ける。

夏だから、五時を過ぎてもまだまだ陽は落ちない。エアコンだったら快適に冷えるだろうが、このくらいの暑さなら窓を開けた方が気持ちがいい。

『やー!』

一つ目小僧も元気いっぱいだ。ちなみに僕の仕事中はいつも後ろのテーブルで仰向けになって寝ている。静かでありがたい。

『そういえば義人!』

「なんですか?」

『私のこと、知りたい?』

「いえ、結構です」

結構マジで言っているのだ、これが。

これ以上生活をぐちゃぐちゃにされてたまるか、一つ目小僧だけでも大変なんだぞ、と。

僕と一つ目小僧は友人関係、いや家族のようなものだ。ばあちゃんがまだ生きていた頃から傍にいて、 僕を助けてくれた。例えば僕がバランスを崩して階段から落ちそうになった時には、 クッションになってくれてケガがなかった。友人であり、恩人でもある。

そして僕はアイリと友人関係を築くつもりはなかったのだが、彼女は勝手に話し始めた。

『私ね。多分生き霊なんだ』

何故か人間以外のものたちは、いつも僕に個人的な事情を話したがる。

昔からそうだった。

今から通る道路にいる首長女も、電柱から覗きみている河童も、みんな僕に心のうちを明かしてきた。

結果、彼らの悩みを解決する度に、左目で見える世界にも変化が現れ、僕にはゴーストバスターなんてあだ名がついた。

もちろん彼らは僕の右目でしか見えない存在である。しかし、残念ながら彼らの声は両耳で聞こえるし現実世界に反映される。 つまり、妖怪や幽霊のせいで変な音が聞こえていたりすると、僕が問題を解決した途端、ストンと怪現象が無くなってしまうのだ。

この生き霊らしき少女の件でもそうなるんだろうか。

「はあ……」

余計なことを考えているうちに車は僕の家に到着した。一つ目小僧は僕と同じ側のドアからたったったっと降りていく。

アイリはポルターガイストで巧みにドアを開け、降りたあとは指をくいっと曲げる。それでドアが閉まった。 これができるということは、彼女はなかなかパワーが強い生き霊と言える。

「ただいま」

今日、看護師の母は夜勤でいないはず。父も出張で三週間は帰ってこない。妹も友達の家に泊まると言っていたので、今日は帰ってこないだろう。

アイリと一つ目小僧を二階の僕の部屋に招き入れた後、サイダーを一階の冷蔵庫から取り出して戻る。 部屋に入ると、一つ目小僧はテレビを見ていて、アイリは適当に雑誌を読んでいた。

そして彼女は突然顔を上げ、真剣な表情を作った。

『ねえ。なんで、義人には私達が見えるの?』

そんなことか。それなら別に話しても問題ない。

「最初はいつだったかな? 物心ついた時にはもう見えてたよ。君らの声も聞こえていた」

『怖くなかったの?』

アイリが心配そうに僕の顔を覗き込む。

「一般的にはそうだよね。でも、僕の家では違った。ばあちゃんが霊媒師でさ、逆に喜ばれたよ」

『変な家ね』

アイリは少しだけ笑う。

「そういえばアイリは生き霊なんだっけ」

『多分ね』

「どうしてそう思えるの?」

少し考えてから彼女は口を開いた。

『たまにね、病室で看病されてる自分が見えるの。多分お母さんなんだろうけど、いつも手を握ってくれて。 だけどね最近、あっ消えちゃうんだって思うようになったんだ。だから私、あまり長くないのかもね』

彼女はまた笑った。怖くなかったの? と僕に聞いてきた幽霊は、消えるのが怖いという気持ちを少しだけ表情に滲ませていた。


ピピピピピピ。

眠気が消えない。目をさすりながら僕は目覚まし時計を止めた。今日は金曜日。妹は家にはいないから、朝飯の心配はしなくていい。

ふと横を見ると僕を見ている女の子がいる。

「あの、アイリさん? そこにいられると非常に怖いんですが」

『あら、ごめんなさい』

彼女は口元をゆるめて、部屋から出ていく。これで着替えられる。

「仕事に行くか」

『やー!』

部屋に残った一つ目小僧が声を上げた。


「おはようございます。影原さん」

「おはよう、義人。今日は早いじゃないか」

影原さんは工房の入口にあるプランターの花に水をあげていた。

「今日もよろしくお願いします!」

「ああ、元気がよくてなにより! って言いたいとこだが、あまり変なのは連れてくるなよ」

僕の後ろのアイリと一つ目小僧をチラッと見て言う。

「ははは……」

僕は笑うしかなかった。


『ねえ、なんであいつも私達が見えるわけ?』

「影原さんは僕の従姉なんだよ」

『納得』

「それじゃあ僕は仕事の準備を始めるから、悪いんだけど一つ目小僧をお願いするね」

『はい、はーい』

と、返事をするとアイリは一つ目小僧をぬいぐるみのように抱える。なかなかお似合いで、姉弟みたいだ。

『やー!』

一つ目小僧もいつになくご機嫌だった。

それから僕はいつものように白衣に着替えて、洗浄液と指サックを準備する。 指サックは時計の中の機械、つまりムーブメントを触る時に使うもので主に手の親指、人差し指、中指に装着するものだ。 あとはドライバーとピンセット。準備ができたら、深呼吸してからムーブメントをばらし始める。

今日の依頼はスイス製の機械式時計だ。自動巻きと言って、腕の運動の力で動力であるゼンマイが自動で巻き上がるようになっている。

慎重に、ピンセットとドライバーを巧みに使いながらパーツを一つ一つ外していく。ばらしたものは洗浄液の中に入れていった。

「さて、と……」

『義人、あなた本当に時計職人みたい』

アイリが目を輝かせて褒めてくれた。

「一応ね」

正確には修理工だけど。僕はそう言うと、刷毛で歯車等のパーツを洗っていく。 このタイミングで、磨耗している部分は交換することになっている。とりあえず、今回は問題なかった。 洗い終わると、ドライヤーの熱風で乾かし、パーツ入れにパーツを一つ一つピンセットでつまんで入れていく。

次は組み立て作業だ。慎重に部品を組み立てて時計の形に戻していく。 続いて、オイラーというオイルを挿す工具で磨耗するかもしれない箇所にオイルをつけていく。

次に組み立てる。またオイルをつける。また組み立てる。これの繰り返しでようやく時計が組み上がる。

最後は測定器で時間のずれを見ながら、テンプという機械式時計の心臓部にある部品を動かしつつ時間を調整していく。

「ふぅ……」

僕は息を吐いた。

パチパチ、と後ろから拍手が聞こえる。アイリからだがちょっと恥ずかしい。

『生まれ変わったら、私、時計職人になりたい!』

「素敵な夢だね」

そう答えた。そして今日も時間は穏やかに流れていく。この生き霊との生活はなんとなく悪くないな、と僕は思ってしまった。


「疲れた~」

『やー!』

僕と一つ目小僧は家のリビングのソファーにぐったりともたれ掛かった。

『お疲れ様~』

アイリも笑う。夕飯を作って食べてリビングでくつろぐ。妹が帰ってくるまでは、僕と一つ目小僧とアイリがここにいても問題ない。

「ん……?」

そこで僕は、棚に置かれたカラーの紙を見つけた。手に取って絶句する。

「これって……」

それは、学校から配られたプリントのようだった。


『本条愛里さんについて。交通事故に遭われた三年三組・本条愛里さんは、今も治療中です。 家族の方からお見舞いに感謝しますと御礼の言葉をいただきました。はやく帰ってこられるよう皆さんも応援してあげてください』


印刷された中学生の写真は、僕の隣にいる幽霊と同じ顔だった。

「ただいま~」

その声にビクッと肩が震える。どうやら妹の愛美が帰ってきたらしい。愛美は霊感がなく、アイリと一つ目小僧は見えないはずだ。

「おかえり、愛美」

「帰ってたんだ」

まあね、と返事をしたところで、愛美は冷蔵庫へ向かう。

「なあ、一つ聞きたいんだが。お前のクラスに本条愛里さんっているか?」

「いるよー、今入院中だけど」

僕には、隣にいるアイリがどんな表情をしているか確かめることができなかった。

けれど、もう踏みとどまれない。これを知ってしまったら、現状維持なんて無理な話だ。

「愛美、あのさ。一度その子に会わせてくれないか?」

「えっ?」

リビングは静まり返った。

数秒の時間が長く感じられる。愛美は冷蔵庫を覗いたまま、背中だけで答えた。

「……いいよ。ただ病室には入れないと思うけど、それでいいなら」

「いいのか?」

予想外の回答に目を見開く。意外にあっさりとオーケーをもらえて驚くしかない。

「どうせ、いつもの霊とか妖怪の関係でしょ。お兄ちゃんいつもそうだもん。わかりやすい」

「すまん」

「じゃあ今度の月曜日ね」

「学校は?」

「夏休み」

そこで愛美は二階へと麦茶を持って歩いていった。そうだった。今は夏休みだ。社会人をやっていると、それを簡単に忘れてしまう。

『そこまでしなくていいのに』

アイリの方を向くと彼女は困った表情をしていた。だけど少しだけうれしそうだった。

『やー!』

一つ目小僧はいつものように手を上に上げた。


日曜日は静かな朝だった。

目を開けるとアイリの顔が目の前にある。相変わらずこの右目にも困ったものだ。いきなり視界に入ってくるのだから、いまだに驚いてしまう。

『おはよう、義人』

「アイリさん、怖いんですけど」

アイリはどうやら寝ていないらしい。というより、僕が見てきた幽霊はみんな寝ていない。

僕はベッドから出ると朝食を食べに一階へと下りていく。一つ目小僧はまだ寝ていたので起こさなくていいだろう。 幽霊は寝ないし、妖怪は寝る。そういう違いがあった。

ところで、僕は朝はお米と決めている。ご飯に味噌汁、焼き鮭。うん、メジャーな組み合わせだ。

『ねえ、私ね。思い出したことがあるの』

アイリはテーブルを挟んで僕の目の前の椅子に座り、神妙な表情で話しかけてきた。

「何を?」

僕は味噌汁を飲む。

『時計よ』

「時計?」

『うん。私が初めてお母さんからもらった時計。動かなくなっちゃってね、よかったら修理してもらいたいなって思って、確か……』

話を聞き終わった後、僕はパソコンで調べ物をする。今日のための準備だ。

「よし!」

僕はパソコンを閉じて、シャワーを浴びに一階へと下りる。天気も良いから、今日は牧場に行くことにした。 といってもタダの牧場じゃないし、タダの牧場と言えるかもしれない。

まあとりあえず、今日の時間を大切にしようってことだ。

「アイリ?」

『何?』

「今日は連れて行きたいところがあるんだ」

僕の言葉に、アイリはちょっと身構えたようだった。

『どこに行くの?』

「まあ、付いてきてよ。悪いとこじゃないから」

アイリはひとしきり考える。

『……わかった』

どうやら納得したらしい。

さあ、今日はお出かけだ。車を走らせるので、まずは一度ガソリンスタンドに行かなきゃな、と思いながら僕は家の外に出た。

『やー!』

おいていかれたくないと、慌てて一つ目小僧が走ってきた。


「さあ!  着いたよ」

僕は後ろに座っている二人に笑顔で告げる。

『やー!』

『えっ、なんで牧場?』

一つ目小僧はいつもどおりで、アイリは少し不満げだ。

「まあまあ」

と僕はシートベルトを外して外へ出る。二人も同じように車から降りた。

『いらっしゃい』

ドアを閉めた直後。

僕の首もとに冷たい息がかかった。

「やあ、雪女さん。夏でも涼しいね」

『あら、褒め言葉?』

「僕なりのね」

と雪女と会話を交わす。

『あんた本当、そっち関係に人気あるのね』

「それは、褒め言葉と」

『ないない』

どうやらアイリは雪女よりも冷たい性格をしているらしい。

『それにしても、雇い主にこきつかわれて嫌になっちゃうわ』

雪女はこの牧場で働いている。仕事は主に熱中症で倒れたお客様を冷やすこと。

最近は国内どこでも暑い。もちろん緑が多いこの牧場も例外ではなかった。

「とりあえず。ぐるっとまわってみようか」

僕達は牧場入口まで歩くことにした。

「ん?」

駐車場にバスが三台ほど停車し、中からぞろぞろと中学生が降りてくる。多分修学旅行だろう。

……僕の修学旅行は散々だったなと思い返す。この右目のせいで嫌なものをたくさん見た。 京都に行った時なんか……まあ、想像はつくだろう。あの「京都」だからさ。 もう大賑わいでやかましいし、ポルターガイストも。怪異現象のオンパレードだった。

『ねえ、義人?』

「ん?  なんだいアイリ」

近くの遊具で一つ目小僧が雪女と遊んでいる。ちょうどローラー滑り台を滑り降りているところだ。けど、アイリは仲間に入らず僕の隣にいた。

『明日のことなんだけど』

「不安?」

『……うん』

「そっか」

僕達はベンチに座りなが空を眺めた。僕はなんとなく思った。思ったから言っておく。

「実は君が初めてじゃないんだ。生き霊の子って」

『そうなの?』

アイリは目を丸くする。

「そしてね、肉体の方が覚めると自然と生き霊だった時の記憶って無くなっちゃうんだ」

『そ、そうなんだ』

アイリは動揺を隠せないでいる。

「恥ずかしい話、実はその子が好きだったんだ」

『そ、そうだったんだ……』

アイリは近くの森を見たり、空を見上げたり、鼻歌を歌ったりと情緒不安定な仕草をする。

「実際に会う機会があって、彼女からは、「あなた誰?」ってさ」

静かな風が吹いていた。

『……ショックだった?』

「まあね」

だからさ。

だから……。

「思い出を少しでも作りたいんだ」

それは僕のわがままだった。自分勝手すぎる思い出作り、今まで友達すら満足にできなかった僕の……。

『うん! もちろんよ!』

それはアイリが見せた初めての、本当の笑顔だった。

結局、こうしてみると普通の人から見れば僕は変な人なのだ。

誰もいないのに誰かと話している。実際さっきの修学旅行生達も僕のことを異質な存在と見ていて、怪訝な顔を向けてきた。

恐がっているのか、笑いをこらえているのか。いや、本当はそんな風に見ていないのかもしれない。 僕は霊が見えるとかじゃなくて、精神的な病を抱えているのかもしれない。

つまり、僕にはこれが現実であるかどうかなんて、実際はわからない。 ただ単に、事件や事故がこれまでに偶然起きただけなのかもしれない。その原因も妖怪や霊の類いじゃなかったかもしれない。

まあ、でも僕としては実際に幽霊や妖怪はいるとしか言いようがないのだ。だいたい、一つ目小僧は僕に触ることができるわけだし。

だから周りからどう思われるかについては、気にはしていても悩んではいなかった。ちなみにそれは、ここの牧場主、藤岡さんのおかげかもしれない。

「よう、義人」

「どうもです。藤岡さん」

「また、来てくれたのか」

「はい」

と藤岡さんは隣に座っていたアイリを見る。

「今度は女の子の霊か」

『ええええー!』

アイリは声を上げる。

そう、僕の周りには見える人が多いのだ。そのおかげで、僕は独りじゃなかった。

「雪女さん。元気そうでしたね」

「まあな」

藤岡さんはタバコを一本取り出した。

「牧場内は外でも禁煙では?」

「ちっ、こまけえな。お前のばあさんみてぇなこと言うな」

「修学旅行の子達にばれたら大変ですよ」

「かもな」

そこで藤岡さんは立ち上がりアイリを確認するかのように顔を近づけて、ため息をついた。

「よく聞いとけ幽霊。情が入ると未練が残る。強い心で自分の身体に戻るんだな」

アイリは固まった。

「俺も昔、情を持たせてしまった幽霊がいる。幽霊は妖怪とは違って情がわきやすい。酷いもんさ」

『その人は……』

「ん?」

『その幽霊は最後はどうなったんですか?』

アイリの言葉に藤岡さんは夏の空を見上げる。

「幸せそうに逝ったよ。その日もこんな快晴だった……」

アイリは静かに頷いた。

先ほどの僕の発言とは真逆の言葉を聞かされる。そう、僕はこの話を聞かせてあげたかった。 僕は彼女の意思まで曲げたくなかった。いろんな話、いろんな結末を聞かせてあげたかった。

藤岡さんはまた息を吐くと、一人で歩き始める。

「あと、義人。お前が独りで話してると周りが心配する。気を付けろ」

と言ってチーズ工場の方に帰っていった。

『やー!』

勢い良く声を上げて、一つ目小僧が戻ってくる。一緒に遊んでいた雪女さんは、藤岡さんのあとを追いかけていったらしい。

『ねえ、義人?』

「ん?」

『いこ?』

彼女は僕の手を握る。触れているような触れていないような……。そしてそれは、冷たい感触な気がした。

『やー!』

一つ目小僧も僕のもう片方の手を握る。

「はははは」

『えっ! どうしたの?』

「いや、やっぱり僕は、僕なんだなってさ」

アイリは気味悪そうに、一つ目小僧は僕と同じように笑っていた。

彼女の手は確かに冷たかった。だけど脈打つ音が、僕にはしっかりと聞こえていた。

『へんなの』

「うん、変だけど、それでいいんだ」

それから僕達は牧場内をまた歩き始めた。ある程度歩くとアイリが何かを見つけた。

『ひまわり!』

黄色く背の高い花が多く咲いている。

『やー!』

一つ目小僧は僕に肩車をねだる。仕方ないから持ち上げた。

『ちょっと感動!』

アイリの方はちょっとどころではなく感動しているようだった。

「はじめて?」

『たぶん、というか絶対!』

何か事情があったんだろうか。僕にはわからない。だけど、彼女のコロコロ変わる表情はとても素敵だと思った。

『ねえ! あっちのあの動物は?』

「ひつじだよ。毛はないけどね」

『ふふ、毛の無いひつじさんも可愛い!』

アイリはひつじに近づく。柵の前まで行くとひつじ達は逃げていった。

『なんでよ! 私幽霊なのに?』

「見えてるのかもよ?」

僕は笑いながら言う。そのあとも資料館やふれあい広場なんかを周り、やっと牧場の出入口に戻った。

「帰ろっか」

『うん! 楽しかった』

『やー!』

そして帰りの車の中はとても静かだった。一つ目小僧は疲れて寝ていて、アイリはただ黙って窓の外を見ている。 何事もなく家に着いた。一つ目小僧とアイリは、二階の僕の部屋に行ってしまった。

残された僕は一階で夕食の準備を始める。今日はパスタにした。シーフードミックスとオリーブオイルを入れ味付けする。

「よし、できた」

野菜ジュースや食器を準備して、早速夕飯にする。

これは上出来だった。食器を洗い片付けて部屋に戻る。

「ん?」

中は何故かガサゴソと騒がしい。

「なにやってるんだ?」

部屋のドアを開けると、二人とも元気だった。

『トランプでもしましょ!』

『やー!』

ベッドの上で二人は僕を待っていたようだ。

「まあいいか」

僕達は、早速トランプを始める。なんだか修学旅行のようだと思った。修学旅行の夜は普段と違うから楽しい、らしい。

「で、最初は何をやるんだい?」

『大富豪よ』

「ルールわかる?」

『やー!』

一つ目小僧は自信があるようだ。そして、意外と強かった。何を考えているのかわからないからだ。 僕もわざと表情を変えたりして負けないよう工夫した。

問題はアイリ。彼女はすぐに顔に出る。わかりやすくてすぐに負けてしまう。でも最後は僕が負けたので、なんとか機嫌を直してくれた。

『ああ、たのしかった!』

アイリはどうやら満足したようだ。と思っていたら、突然聞かれる。

『どう?  思い出作りは』

ああ、僕の話を気にしてくれたんだな。これは彼女なりの優しさだと気付く。

「うん、楽しかったよ」

『ねえ』

「うん?」

アイリは僕の顔を覗く。

『もし私が退院したら、会いに来てもいいかな?』

「もちろん」

『その時は時計、持ってくから』

「うん」

『ちゃんと直してね。約束よ!』

「うん」

『忘れないからね』

「…………」

僕はこれには頷くことができず、沈黙の時間が訪れた。一つ目小僧は僕とアイリの顔を交互に見る。

『覚えてるよ……きっと、忘れるわけないじゃん』

「うん」

僕は今度こそ頷く。

『義人は忘れるって言うけどさ、私は忘れないと思ってる』

そう告げる彼女の笑顔はひどく寂しそうだった。


次の日の朝は静かだった。起きてすぐに外出準備を始める。最後に部屋の机にある車の鍵を手に取った。

『行くんだね』

後ろからアイリの声がする。

「そのつもりだよ」

霊体と肉体を引き合わせる。そうすれば彼女はいずれ目を覚ます。これはばあちゃんから教わったことだ。

「お兄ちゃん! 行くよ!」

下の階から妹の声が聞こえた。

「お留守番頼んだよ、一つ目小僧」

『やー!』

僕はアイリに向かって振り向いた。

「行こう。アイリ」

アイリは黙って頷き、僕達は部屋を出た。

自宅から病院までは、まず田園を抜けて県道に入り、徐々に街中へと進んでいくことになる。

「愛美、なにを持ってきたんだ?」

途中、僕は愛美が抱えている紙袋が気になった。

「一学期分のノートの写し。ほら私、学級委員だから」

「へえ」

それは僕にとって、いやアイリにとっても嬉しい気遣いだった。バックミラーを見るとアイリから自然と笑みがこぼれている。

街中に入ると街路樹の緑が目に入ってきた。窓を開けるとセミの声が響き渡る。今は夏だと叫んでいるようだった。

それから数十分車を走らせ、市内の総合病院に到着した。

「お兄ちゃんもくる?」

「僕が行っても変だろ?」

車を駐車場に停めてそう言うと、後部座席から『ついてきて』と声がかかった。

少しだけ時間が流れる。

「やっぱり、病室には入らないけどその前までは行くよ」

僕達は受付で話を聞き、エレベーターで七階まで昇った。その間ずっと、右の目に映るアイリの姿は震えていた。

そして、病室の前までたどりつく。

「それじゃ、お兄ちゃんはここで待ってて」

「ああ」

(さあ、アイリ。行くんだ)

そう促すと彼女は頷き、愛美と一緒に病室の中へ入っていった。そこには家族がいるようで、何か会話している様子が窺える。

十分程経った。愛美が一人で部屋から出てくる。

「行こ」

「ああ」

これで、僕の役目は終わりだ。アイリの生き霊は病室から出てこなかった。身体が目を覚ました様子もない。

僕はなにを期待していたのだろう? 

病室からアイリが戻ってくるとでも? ずっと話していたいとでも思ったのだろうか。 もしそうなったら、僕はどんな表情を作るだろう。無表情か、笑いかけるか、安堵するか、それとも……。

「お兄ちゃん?」

そして今の僕はどういう表情をしているのだろう。

「ん、どうした?」

「ううん、帰ろうか」

「ああ」

これでよかったんだ、よな……。

僕は消え入りそうな声を出して、しっかりと前を向き歩き始めた。


夏と秋が冬が過ぎて、春。今日も僕は時計修理工房で働いている。

最近は時計職人の数も減り、技術を継承する人が少なくなった。実は時計職人の志望者は増えているのだけれど、 職人を育てる余力が会社にない。だから時計を修理できる人が少なくなっている。

さらに最近は時計を修理するまでもないと思う人も多く、使い捨てにされることが多い。

基本的に、機械式時計は三年に一回、電池で動くクォーツ時計は五年に一回、 修理用語でいうオーバーホールをした方が良いと言われている。けれど、そんなことはしない人が多い。 普段メンテナンスをしていない時計が壊れると、修理職人の負担は増える。結果として、潰れてしまう工房が多いのだ。


それでも僕は時計修理職人を続けている。今日も僕の後ろには一つ目小僧がいて、ソファーに仰向けになり眠っている。

アイリがいなくなって半年以上経った。実はあれ以降何故かもやもやとした気分が晴れない。

何故だろう。

何か大切なことを忘れているような。

『やー!』

と、寝言を言いながら一つ目小僧が目覚まし時計を落とした。

電池が床に散乱する。そのタイミングで僕はハッと気付いた。

――時計を修理して欲しいの。

思い出した。アイリから頼まれていた約束があったんだ。

それは彼女から僕への最後の依頼だった。

でも、今さらどうすれば……考えているとチャイムの音が鳴った。

「こんにちは」

工房に誰かが来たようだ。

その音に一つ目小僧がビクリと反応し、起き上がる。珍しい。どうしたんだろうか。さっき目覚まし時計を落としても起きなかったのに。

一つ目小僧はそのまま走って部屋を出ていった。

僕は不思議に思いながら、受付まで歩いていく。ドアを開くと、そこにはお客さんがいた。

「えっ?」

女性と、女の子がそこで待っていた。高校の制服を着たその子は車椅子に乗っている。僕はしばらく声が出なかった。

「……あのう」

「あ! いらっしゃいませ、時計修理ですか?」

僕は母親らしき女性に話しかけた。

「はい、こちらなんですけど」

女性はバッグから袋に入った腕時計を取り出した。

「少々お待ちくださいね」

僕は時計を手に取り、くまなく調べる。女性用のクォーツ腕時計だった。外装はキズもなく綺麗だが、針は動いていない。

「それではまず、電池交換で直るものなのか調べてみます。五分ほどお時間いただきますね。 お待ちになっている間、あちらに時計の展示室がありますのでよろしければご覧ください」

「よろしくお願い致します」

母親が言うと女の子も会釈した。

僕はその場で工具を使い時計の裏蓋を開けてみる。それから、電池電圧を測定器で測った。 電圧が下がっていたので、電池交換をして五分ほど様子を見る。

五分後、問題ないことを確認して展示室にいる親子を呼びにいく。

「電池交換だけで済みましたので、どうぞこちらへ」

受付の方に彼女らを呼び寄せる。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

「実はその時計、裏蓋と言うんですかね。電池が入るところが開かないって、どこでも言われて、電池交換できなかったんです」

女性の言葉に僕は頷く。

「そうですね。少し固かったですね。けれど、問題なく電池交換できましたのでご安心ください。 それとまた、すぐに止まってしまった場合は修理預かりとなります。その際はご来店か、こちらのボックスに時計を入れて送ってください」

箱を渡しながら説明しているとき、突然車椅子の女の子が僕の手を掴んだ。

「よ、よ、よひ……と」

「えっ?」

「愛里! すみません。この子、病院から退院したばかりで……」

「いえ、大丈夫です、全然……」

僕は車椅子の女の子から目が離せなかった。

「よひと、あ、ありがとお」

「こ、こちらこそ、どういたしまして」

僕は腕時計を彼女の手に渡して、涙がでそうな目で笑う。

彼女は時計が動いているのを確認して、僕に向かって優しく微笑む。

僕の右目と左目の両方には、しっかりと彼女の姿が映っていた。


〈了〉