シュレーデゲンの穴

ヴィンセント・オーマー / 白田英雄

「センパイ、センパイー」

「え?う?あっ。背中に頭から突っ込んでくるの止めなさいと何度も……」

「それより、センパイー、この記事に書いてある実験のことって知ってますかー?」

後輩の差し出した端末には、『世界初、電送タイムトラベル実験 明日』と見出しのある記事が表示されていた。

「うちのこのまえ見ていた研究テーマと関係あるのかなーって思ってー」

妙に元気な後輩の頭を押さえておしのけながら、いやな予感を覚えつつその記事の本文を目で追った。

「ゴシップ記事なんか参考にしてると教授にまた怒られるぞ。と言いたいところだが、一応目のつけどころだけは良いと言ってやろう。 ただ参考にはならんと思うよ。」

「?  古い実験だからですか?  それ」

かわいらし気に小首を傾ける彼女に苦笑い。

「いや、この実験、やるまでのことはニュースになってるけど実験そのものやその後のことはニュースになってるのそんなにみつからないだろ?」

「そうなの?」

「いやいや、探せよ、おい。みつからないんだよ。俺も小さかったころだけど、おもしろくもない結末だったからなぁ。 みんなすぐに忘れ去られたということと、色々とタブー視されて記事にされなくなったんだって聞いている。 もちろん、学術的な追試や理論的な研究は一応続いたけどな」

「ちなみにどういう研究……」

「ちゃんと論文検索したのかよ。俺もさ、あんまり詳しくはないんだけど……」

「んじゃなくて、この実験って何の研究だったんですかー?」

ちょっと話すことに疲れそうな気がした俺は近くの椅子に腰をかけた。

「論点は三つある。ひとつは物体の電送技術の進歩。 ニュートリノバーストによる電送技術の確立、 そして、太陽系の比較的近くにエルゴ領域が予想されたカー・ブラックホールが観測されたってことだ」

「えるご…」

「そうカー・ブラックホールの……」

我思う故に我有りこぎと・えるご・すむ……」

思わず一見真面目そうにしてるそいつの顔を、マジマジとみつめてしまった。

「話の腰折るなよ。小人は住んでないだろうが、カー・ブラックホール、 つまり回転してるブラックホールは周囲の時空を引き摺ってエルゴ領域というものを作り出しているものがある。 ブラックホールの規模とか回転速度の条件が整ってないといけないけどな」

今度はちゃんと聞いてるみたいだな。

「エルゴ領域では回転の軸に沿った座標軸が、時間の座標軸と役目が入れ替わっていて、 ブラックホールの周囲を回るだけで時間を進めたり戻ったりすることができるとされている。 ま、時間って何かっていう問題は別にあるんだけどな」

直接の研究テーマと関係がなくても、やっぱりブラックホールというと色々と想像が膨らむ。おもしろいだろ? 

「なんで入れ替わんの?」

「ちょっといい加減な説明になるが、カー時空の計量は、十分遠距離ではシュヴァルツヴァルト時空の計量、 いやニュートン物理と一致するんだが、エルゴ領域に近付くと軸まわりの回転角度方向と時間方向の符号が逆転するんだ。 本来は主観時間と時間方向の符号が一致してるから、時間の変化が主観時間と一致してるんだが、 エルゴ領域ではその役割が回転方向の角度に移されることになるんだ。 エルゴ領域ではブラックホールの回転方向と逆の回転は許容されてないが、 回転の度合いによっては主観時間が逆転してるような動きを取ることができる、とされてる」

「されてる?」

「うーん。 逆転じゃないけど、地球をまわる人工衛星の時計を精密に計測することで時間のずれが発生するってことは確認されてるって聞いたことがあるな。 おまえが持ってきた記事の実験はその時間の逆転現象を、 物体の電送実験と組み合わせることで実証しようとするものだったんだ」

「あ、わかった!  電波をエルゴ領域に飛ばして、電波を未来に送るんだ!」

こいつ、頭が悪いわけではないんだよな。

君を未来に送り返してやれるのだセンド・ユー・バック・トゥ・ザ・フューチャー!」

「いや、だからフューチャーじゃなくてさぁ。」

いや、やっぱり悪いのか?

「電送で物体を過去に送ることで、その物体が経験した時間旅行を実証しようってわけよ」

後輩は目をしばたかせた。

「え、ちょっとパイセン、なんで未来じゃなくて過去なんですか?」

「パイセン言うな。考えてもみろよ、ブラックホールは近場とは言っても何十何百光年も遠くにあるんだ。 電波が普通に戻ってくるんでもその倍の時間がかかる。さらに未来になんか行ったら誰が観測結果を記録できるんだ?」

「あ、そうか。電波が飛んでる時間をタイムマシンで逆戻りさせて、今に戻るようなタイミングにするってことか!」

よくわかってらっしゃる。

「もちろん、色々と問題はある。

ブラックホールの周囲では重力が急激に変化するから、ある程度の大きさを持った物体は遠心力と中心力にひっぱられて 引き割かれることになる。いわゆる潮汐力ってやつだ。 さらに悪いことに、カー・ブラックホールの場合は中心からの距離によって時間の進みが異なるから、 物体は時間レベルでも引き割かれて、素粒子レベルで違う時代にばらまかれることになる。」

「よくてゲルバナね」

「それわかるやついるのか?

そこで発案者は、大きさが発生しない方法として、当時実用化されはじめたばかりのニュートリノバーストを電波のかわりに使うことを考えたらしい。 ブラックホールまでの距離を考えれば、ほぼ方向が揃ったニュートリノだけをブラックホールに送ることができるって思ったんだな。 直進性の強いニュートリノも、ブラックホール周辺の曲がった空間に沿って何周も回って出てくることができる。 というのもエルゴ領域はいわゆる事象の地平の外にあるからだ。」

「それは画期的だねー。で、何を運んだの?」

「本人だ?」

「え?」

「実験を立案した本人が乗ることにした」

「それまた思い切ったことを」

人体を電送させること自体は当時からすでにポピュラーな移送手段として使われてるので、それ自体には問題ないんだよなぁ。

「問題はノイズだ、とその研究者は考えた」

「ん、まあとーぜんっすね」

「誰も経験したことの無い長距離の移送だ。間にブラックホールを介することにもなる。 当時考えられていたエラー修正コードにも不安を抱いた件の研究者は、クラウドファンディングによって巨大なプロジェクトを複数立ち上げて、 新しいエラー修正コードのコンペを行った上で特許を取ったんだ。それだけじゃなくて、電送信号そのものも改善して、 ホログラッフィクな手法で情報の損失を抑えようとしたらしい。らしい、というのは俺もそのあたりのことは詳しくないからな。 なんでも、プロトコルをオープンソース化して、フルタイムのコミッターによる改善を三年の年月とのべ数万人の人手をかけたらしいね。」

「へー、ヒマ人だったんっすねー」

「お前が、言うな」

「それで、それで?」

後輩が先を促してきた。

「軌道も精密に計算されて、電送信号が送信されて5分後ぐらいに電波が戻ってくるようにした。そして、実験の日を迎えたってわけだ」

ふと気付くと、いつのまにか後輩は俺の前に椅子をひっぱり出してきて、熱心に俺の顔をのぞきこんでいた。

「で、お前は『シュレーデゲンの穴』って知ってるか?」

一瞬狐につままれたような顔をしたあとで彼女は少し考えてから答えた。

「えぇっと、高度に精密で複雑な準備の必要となる量子重力実験においては、 ほんの僅かな見落しでカタストロフィックな失敗をすることがあるってやつでしたっけ?」

「そのシュレーデゲンってのが、実験を提唱した研究者の名前なんだ」

「え?」

事の真相に気付いたのか、彼女はさすがにちょっと慌てたような顔になっていた。

「既知の現象について、おそらくシュレーデゲンの予想は正しかったんだろう。 空間的な広がりをできるだけ小さくしたとは言っても、信号を送るにはある程度の時間の信号の蓄積が必要になる。 つまり、複数のニュートリノを同調させて信号にする必要があるわけだ。 そこらへんのエラー補正コードE C Cの技術は完璧なはずだった。

でも、シュレーデゲンはブラックホールの近傍が尋常じゃない環境にあることを失念していた。 ブラックホール近傍は重力がとても強いから、量子重力的効果から時間方向の素粒子の非線形なトンネル効果が発生する。 それぞれのニュートリノはブラックホール近傍を通過するときに、バラバラに小さな時間跳躍を繰り返してしまい、 通過する時間の長さに従ってエントロピーが増大、つまり情報が均一化してしまうんだ。

つまり、信号はばらばらになって、順序が組み換えられてノイズになってしまった。 こうなってしまっては、どんな信号電送手段でも元の情報を復元することはできない。 実験場では元のニュートリノバーストの送信時間よりも長い時間、ノイズが受信されただけだったそうだ」

さすがにショックが大きすぎたのか、彼女は一言も発しなくなっていた。

「電送輸送の歴史において、このことは唯一の人身事故と言われていて、このことについて言及することはやがてタブーになっていった。 もちろん、研究者たちの手を止めることはできないし、 さっき言った実験の失敗理由はそういった研究者の研究によって明らかになったことだ」

しばらく俯いていた後輩は、やがて肩を震わせはじめた。

俺が彼女の肩に手をやろうとしたところで、がばっと顔を上げた彼女は、満面の笑みを浮べてこうのたまわった。

「じゃあ、この研究を発展させて、うまくパイセンを電送することに成功すれば、うちも有名人すねー!」

「何聞いてたんだお前。俺を引き合いにするな、そしてヤメレ!」