第1回
[その1]/[その2]/[その3]
春の人事移動で第八太陽系第八惑星に赴任が決まった時、田畑耕作の脳裏に、突然、幼いころの記憶がよみがえってきた。
居間のテーブルの上にうっかり投げ出されたままの大人向けの雑誌。そしてその片隅に載っている「あなたも無人星のオーナーに」という広告。
大人向けの情報にその年齢に満たない子供がアクセスすることが他のメディアにおいては厳重に制限されている中で、あの古風なセルロースの紙で作られた雑誌や本は、年齢制限の盲点だった。なにしろ、手に取ることができさえすれば、あとはページを開けて中を見るのに何の障壁もないのである。
「そうだ、子供の頃、ああいいう広告をこっそり見ては、自分も大人になったら星を買おうと思っていたのだっけ」
雑誌の広告に載っているのは、大概どこの太陽系のものとも知れぬ直径1kmにも満たないような彗星や小惑星の類いで、人間が住めるわけもないのだが、それでもその星に君臨する唯一の知的生命体となることを考えただけで、少年だった田畑耕作の胸はときめいたものだった。
「子供の頃は何でも想像するだけで楽しかったものだが」
田畑耕作は、自分がこれから配属される第八太陽系第八惑星のことを考えた。地球直行便が出ている第三惑星でさらにローカル艇に乗り換えてようやくたどり着く辺境の地。その唯一の有人施設に、たった一人で配属されるのだ。
(島流しも同じじゃないですか)
できることなら田畑耕作は、上司にくってかかりたかったが、おとなしい抑制のきいた性格は、それを不服そうな眼差しに変換するだけにとどめた。
(まあ、そうなんだけどね。事実上は)
上司のあいまいな笑顔は、そう告げていた。
勤め帰りの市電の中で、千年前からほとんど進歩していない堅い座席に腰をおろしてぼんやりと窓の外を眺めていると、昔見た広告の一つが、奇妙にあざやかに何度も何度も思い出されてきた。
それは、よくある長細い形のでこぼこした小惑星の写真のついた広告だった。一見何の変哲もない小惑星の写真なのだが、よく見るとごく小さな石ころのような衛星が一つくっついていた。
「天然衛星付きか」
市電にゆられながら、田畑耕作は少年の頃に見た広告のことを考え続けた。
「どんな小さなやつでもいい。ああいう天然衛星付きの惑星が自分のものだったら」
自分があの小惑星のオーナーになれるのなら、星に君臨する絶対の王だと誇れるのなら、どんな逆境も乗り切っていける、と田畑耕作は思った。
美々絵JE5825Nは泣いていた。
薄暗いカフェの壁際におかれた小さな古びた木製のテーブルの上に、美々絵JE5825Nの目からこぼれ落ちる涙が、小さな水たまりを形成している。
この店のように内装に木材をふんだんに使った20世紀風のカフェでコーヒーを飲むことが、一昔前に大流行したことがあった。
最近は25世紀風のツリボリにすっかり人気を奪われてしまって滅多に見かけることはなくなったが、それでも20世紀カフェのいくつかは繁華街の片隅にまだひっそりと生き残っていた。
美々絵JE5825Nが泣いている店も、そんな流行遅れの店の一つだった。開店した当時は大混雑で足の踏み場もないほどごったがえしていた店内も今は閑散としていて、美々絵JE5825Nの他に客の姿はない。
美々絵JE5825Nは、今でも20世紀風のカフェが好きだった。街の合唱隊に所属していて、1000年も2000年も昔の歌を毎日ごく当たり前のように歌っているためかもしれないが、昔のものに囲まれていると不思議と心が落ち着いてくるのだった。
だが、今日ばかりは、いくらこのカフェの年代物の木製の堅い椅子に腰を下ろしても、本物の植物の豆から抽出されたコーヒーに自分で砂糖と牛乳で味付けして飲んでも、飲み終わった後で骨董のカップを裏返して「松茸社謹製」の印を眺めても(20世紀カフェにおけるマナーとされていた)少しも心を落ち着けることができない。
彼女が泣いているのは、エリーEF2263Nが一時間ほど前にカフェに入ってきて、丸木台太の乗った宇宙艇が第八太陽系第四惑星付近で消息を立ったらしいと教えてくれたせいではなかった。
「そろそろ別れようかと思っていたところだったし、台太くんのことはどうでもいいんだけど」
でも、エリーEF2263Nだけはどうしてもゆるせない、と美々絵JE5825Nは思った。
エリーEF2263Nのことを思い出すたびに、美々絵JE5825Nの目からは大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
昨日の午後3時54分まで、美々絵JE5825NとエリーEF2263Nはとても仲の良い友だちだった。
それから24時間と少し経った今、美々絵JE5825Nの心の中には、エリーEF2263Nへの嫌悪だけが存在している。
「今日の合唱隊の練習をさぼったのも、エリー、あなたに合いたくなかったからなのに。わざわざこのカフェまで、わたしを探しにくるなんて」
合唱隊の練習で顔を合わせなくても、どうせ同じ学校の同じ学年だし同じ寮に住んでいるのだから、いつかは顔を合わせなければならないのは分かっていたが、今しばらくは絶対にエリーEF2263Nに顔を合わせたくない、と美々絵JE5825Nは心に決めていたのだ。
「ああ、この星さえなかったらなあ」
美々絵JE5825Nは、首から貴金属合金の細い鎖でぶら下げていたペンダントの蓋を開き、蓋の裏側にはめ込んである写真をじっと見つめた。
衛星を伴った、細長くてちょっと変わった形をしている小惑星の写真だった。
マスターは、まもなく閉店時間なのにどうしたものかと考えていた。
すでに路上に出していた看板は店内にしまって「準備中」の札を出してあるので新たな客が入ってくることはないのだが、壁際の二人掛けの席で泣いているあの小娘を追いだすまでにはまだしばらく時間がかかるだろう。
「こんなことが、前にもあったな」
マスターは、昔、この娘と良く似た若い女が、やはり閉店間際に壁際の席で一人で泣いていた時のことを思い出した。もう15年も前のことだ。単調な宇宙飛行士の職に嫌気がさし、退職金をもらって当時はやりだした20世紀風カフェを開業したばかりの頃だった。
「あの頃はよかったんだが」
当時、店の中はいつも人でごったがえしていた。開店直後から閉店まで客足が途切れることはなく、人々はみな楽しそうに談笑して、マスターが丁重にいれたコーヒーを味わって飲んだ。
その中で、あの女だけが笑っていなかった。柔らかい栗色の長い髪をした線の細いおとなしそうな女だった。壁際の二人掛けのテーブルについてコーヒーを注文すると、涙をテーブルの上にぽたぽたと落として泣きはじめた。閉店時刻になり、他の客がみな帰っていっても、いつまでたっても泣くのをやめないのでついにしびれを切らして声をかけると、女は突然ナイフを取りだして暴れだし、あやうく刺されそうになった。
あの時、警報装置を緊急作動させるのがあとちょっとでも遅かったら、どうなっていたかわからない。
「まったく近ごろの若者は、いったい何を考えているのやら」
駆けつけた警官が暴れる女を麻酔銃で撃ち、奥の大テーブルの下で縮こまっているマスターを救い出してくれたとき、マスターはそう言ってため息をついたのだった。
「まあ、思えばあれが俺のコレクションの原点だったのかもしれないが」
マスターは、カウンターの下の棚の一番隅に作り付けてある隠し扉を開けて、さらにその中に作られている引き出しの一つをそっと引きだしてみた。ビロードの内張の上には、マスターがこの15年間かけて集めてきたイニシエフォールドと総称される古風なフォールディングナイフのコレクションにまじって、あの時の女が撃たれた時に取り落としたナイフが並んでいた。
エボニーのハンドルに金で細かい装飾が象眼されており、アラベスクに囲まれた岩とも隕石ともとれる奇妙な模様が一際目を引いた。
21世紀初頭に多くのイニシエフォオールドの名品を世に送り出したアステロイド・セレス社の小惑星マークに似ていたが、小惑星の形がずっといびつでかなり細長い。それに、よく見ると、小惑星らしい形のそばに、もう一つ小さな点のようなものが象眼されていた。どうやら、衛星付き小惑星をかたどったものらしかった。
(第2回に続く)
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