第6回
[その13]/[その14]
「はい、そこまで」
カウンターの向こうでケンの声がした。
マスターが顔を上げると、女はいつのまにか自分の背後からいなくなっていた。
ジョーが、カウンター席から腕を伸ばして、女をカウンターの外側につまみ出したのだった。
ジョーは、その女を自分の隣の席にぽんと置くように座らせた。
すかさず、ケンが、氷水の入ったコップを女の頭の上にかざした。
「あっ!ちょっと、待った……」
何が起こったのかよくわからないまま立ち上がったマスターは、ケンがコップの水を女の頭からかけようとしているのを見て、あわてて止めようとした。
だが、遅かった。
頭から水をかぶった女は、髪の毛から水を滴らせながらけげんな顔でケンのほうを見た。
女の隣にいて水がすこしかかってしまったジョーは、小声で悪態をつきながら少し離れた席に移動した。
「水をもう一杯くれ。いや、その水差しをよこせ」
ケンは、マスターが恐る恐る押してよこした水差しの注ぎ口から、床が水浸しになるのもかまわずに、女の頭の上から水を流し続けた。
女の表情が、みるみるうちに変化してきた。
先ほどまでの思いつめたようなこわばった表情が消えた。
マスターに追いすがってカウンターの中に入ってきた時とは、まるで別人のようなおだやかな顔だった。
「ほら、思った通りだ」
とまどっているマスターに、ケンが説明した。
「こいつは藍性体だ。無理してこんな恰好で出歩いてたものだから、乾いてきちまったんだろう」
ケンは、水をしたたらせながら気持ちよさそうにじっとしている女の身体をぴったりとつつみこんでいるワンピースの襟回りを少し裂いてそこから水差しの注ぎ口を差し込むと、肩、背中、胸と、水差しが空になるまで水をかけてやった。
裂けた襟あしから、女の背中と肩に並んでいる藍性体特有の色素の描く規則正しい模様が、水に濡れてつややかに光っているのが見えた。
「本来は水辺に住んでいるもんなんだ、こいつらは。陸用ウェットスーツでも来ていりゃいいものを、近ごろの若いもんは、ファッションだかなんだか、似合いもしないのにすぐに何でも真似したがるからな」
マスターは、掃除道具入れからモップを取りだすと、大急ぎで床にこぼれた水をふき取りにかかった。
「そうだ、自分のものとなるかもしれない小惑星に名前をつけよう」
その考えに取りつかれて以来、田畑耕作は、朝も夜も勤務時間中も時間外も、ただひたすら考え続けるようになった。そして、よい名前を思いつくたびに、一枚の上質紙の上に、黒鉛を芯にした木製の鉛筆で書き留めていった。
名前を思いつくと、まず、鉛筆の芯が薄く削り取られていく感触を楽しみながら紙の上に書き込むのだが、しばらくして、やはりあれはよい名前ではなかったと思い直すと、今度は名前の上に二本の線を引いて、リストからはずしたことにする。
うっかり、同じ名前を二度もリストに書き加えてしまうこともあった。だが、気がついたら直ちに余分な名前は二本の線を引いて消した。
名前を考え初めてから1ヶ月後、田畑耕作氏のリストには、二百五十以上もの名前が連なるようになっていた。
「第一太陽系の小惑星群には、太古の神々や英雄や絶世の美女といった有名人の名前がつけられているというようなことを聞いたことがあったっけ」
リストに265個の名前が書かれたある日、田畑耕作は急にそんなことを思いついて、太古の有名人の名前を思い浮かべようとしてみた。
しかし、学校で古代史を選択しなかった田畑耕作の記憶の中にはほとんどそれらしい名前はなかった。
「二十世紀あたりの人物なら、なんとか少しは知っているような気もするが」
二十世紀史なら、義務教育過程で少なくとも一度は習う。
だが、田畑耕作が子供の頃習った二十世紀史を思い出そうとしてみても、自分のものとなるかもしれない天然衛星付き小惑星の名前にふさわしい神々や英雄や絶世の美女の名前となると、どうもそれらしいものの見当がつかない。
そもそも、二十世紀に、神々は、いたのだろうか?
英雄は、いたのだろうか?
絶世の美女は、いたのだろうか?
田畑耕作氏は、三日三晩、リストに付け加えるのにふさわしい二十世紀の有名人の名前を考えたが、何も思いつくことはできなかった。
リストへの新しい名前の追加が止まった。
1ヶ月と2週間ぶりに、田畑耕作氏は、何か他のことをしようという気になり、自分の仕事机の上を片づけ始めた。
机の上に山と積み上げられた食器、書類、各種娯楽機器類を、少しずつ片づけていくと、やがて、奥のほうにすっかり隠れてしまっていたモニターの画面が見えるようになってきた。
「第八太陽系第四惑星付近を航行中の宇宙船からのメッセージを受信しました」
仕事机を三分の二ほど片づけた所で、モニターの左下にそう表示されているのが読み取れた。
(第7回に続く)
「惑星もみの木」のTopページへ