第4回 メイフラワー・チルドレン


 お昼を食べに出かけたファミレスのトイレで後ろからぽんと肩を叩かれたとき、自分でも驚くほどの素早さでカオル君が相手の手首をねじりあげていたのは、ひとえに軍事教練のたまものというべきだろう。野戦ではトイレもへったくれもないし、そもそもシムにトイレは無用なのだが、シムを撃破できない敵でもスパイを送りこんでオペレータを抹殺することはできるのだからという理由で、あらゆる場面を想定した数々の行動パターンをいやというほど叩きこまれてきたのだ。トイレット・マニュアルにいわく、
『外出時には排便あるいは他の目的であっても個室の利用を一切禁止する。突然の下痢など緊急の場合には医務室、交番などを利用すること』
『公衆便所での排尿時には出口直近の便器で用を足し、その際絶えず背後に気を配ること』
『緊急時に備えて常時括約筋の訓練を行うべし。また咄嗟に排尿を停止できないほど膀胱を緊満させてはならない』
『瞬時に急所を収納できるよう、常にゆったりとしたズボンを着用すること。ファスナーの使用は禁止する』
 などなど、危機回避のマニュアルは微に入り細を穿っていた。それにしても個室の使用を禁じるなんて女性版のトイレット・マニュアルはいったいどうなっているのか、いささか興味を惹かれるところではあった。
 何はともあれ、カオル君はマニュアルに従って排尿を即時中断し、しずくが付着するのもいとわず右手でペニスおよび睾丸を保護しつつ素早く収納、同時に左手で相手の手首をつかんだままくるりと体の向きを変えた。その間0.5秒。
「いたたたた、僕だよ、カオリン、手を離してよ」
 不意を突かれて相手の声はうわずっていたが、どこか聞き覚えのあるその声に驚いたのはカオル君のほうだった。
 世の中広しといえども、カオル君のことをカオリンなんて呼ぶやつはひとりしかいない。
「ひょっとして…ヒカリン?」
 赤く手形がついた手首をさすりさすり、痛みに顔をしかめながらも声の主は精いっぱいの笑顔を作ろうとする。用心深く半身に構えながら、カオル君はまじまじと相手を観察した。年の頃は自分と同じぐらい。背は5センチほど高い。ぼさぼさの長髪にヒゲ面、ニコニコマークの黄色いTシャツにベルボトムのジーンズ、革のサンダル。肩からは何色とも形容しがたいズックのショルダーバッグを下げている。まるで半世紀前からいきなりタイムワープしてきたような珍妙ないでたちだ。顔立ちはまあハンサムと言ってもいいけど、ちょっぴり眉が濃すぎるし鼻の下が間延びしている。柔和そうな目はくぼんで隈どられている。見覚えがあるようなないような、どこにでもいそうな顔。でもこの耳は… とたんにカオル君の脳内データベースがネコタ小隊長の耳障りなレクチャーを再生しはじめた。
『目と唇で人相の90パーセントが成り立ち、これに鼻を加えればほぼ完成だ。言いかえれば、目と口と鼻をいじれば顔なんていくらでも変えられるってことだ。だが耳の形は作りかえるのが難しいしひとつとして同じものがない。耳紋といって犯罪捜査に利用されているくらいだ。だから、いいか、耳の形だけで相手を識別できるようトレーニングを積むんだ』
 …確かに見覚えがある。突然、10年近い歳月をくぐりぬけて鮮やかに記憶がよみがえった。薄くて大きくて先のとがった、思わず手を伸ばして曲げてみたくなるような耳の持ち主。悪魔くんとあだ名されていたそいつの名前は
「やっぱりヒカリンだ。懐かしいなあ。でもどうして?」
 握手しようとして手を差し出したもののしずくがついたままなのを思い出し、いやそんなことより握手そのものが危機回避マニュアルで禁止されていたんだった。仕方なくそのまま大きく弧を描いて手を鼻に持っていき、小鼻のあたりをこすって見せる。
「最近こっちに転勤になってね。君がこのあたりに住んでることをネットで知ったから気をつけてたんだ。君は今や有名人だもんな。そうしたら本物のぴかぴか頭が目の前を横切ったじゃないか。急いで後を追いかけたってわけさ」 
「はは、なんにしても久しぶり、10年ぶり?だもんねえ。よかったら僕らの席に来て一緒にお茶しない?」
 ヒカリン〜本当の名はヒカル〜はほんの一瞬口ごもった。
「いやーそれがさ、もう昼休みも終わりだしこれから急ぎの仕事があるんだ。悪いけど、住所を教えてくれないかな。そしたら明日にでもこっちから会いに行くから」
「そうなんだ、じゃあ」
 メールアドレスか電話番号を教えてくれっていうのが普通じゃないのかなあ、ちらっとカオル君は思ったが、言われるままに住所を告げた。通信は盗聴されてるもんでね、ヒカル君は口の中でつぶやいたのだが、もちろんカオル君に聞こえるよしもない。
 席に戻るとシム掲示板で引っ掛けたふたごのひとり、ユカだったかミカだったか忘れちゃったけどどっちでも大した違いはないや、が大げさに首を傾げながら尋ねた。
「あれぇ、トイレで誰かに会ったんじゃないのぉ?」
「ん? 小学校時代の友達に偶然会ったけど、どうして?」
「なんだかねぇ、カオちゃんの後を追いかけるみたいにしてトイレに入った男がいたからさぁ、気になっちゃってぇ」
「そうなんだ。よく見てるね」 
 品定めするみたいにふたごを眺めまわしながら、上の空でカオル君は答えた。黄色い花模様を散らした赤と青のそろいのチャイナドレス。太ももはあくまでも白く、足首はあくまでも細く、カオル君の理想の足だ。ふたごと3Pってのは初めてだな。右と左がいいかな、上と下に並ばせようかな、それとも前と後ろ?
「えーでもその人出てこないねぇ。ひょっとして食い逃げとかぁ?」
「なんだか急いでたからね。ちょっと目を離したすきに出て行っちゃったんじゃないの?」
「そうかなぁ、でもぉ」
 あたしたちプロが監視していたのに。
 その頃ヒカル君はというと、トイレの手前にあった従業員専用関係者以外通行禁止のドアから何食わぬ顔でスタッフルームを通り抜け、裏口から外に出ていた。食い逃げでつかまったりしないよう、あらかじめテーブルにはコーヒーの代金を置いてある。急ぎ足でレストランから離れるヒカル君は似たような格好の若者とすれ違いざま肩をぶつけてちょっとよろけてみせ、差し伸べられた掌につかまるふりをしながら暗号の書かれた小さなメモを滑りこませた。
「おっと」「失礼」
 濃いオレンジ色のサングラスに付けひげの若者は2ブロック先でメモを広げながらコンビニに入り、FAXの送信を頼んだ。くしゃくしゃになった買い物メモには今月発売されたばかりのゲームソフトの名前と右向きの矢印がなぐり書きしてあった。「作戦を続行する」という暗号を若者はどこかに向けて送信した。

「へえぇ」
「そぉなんだあぁ」
「ふぅん」
「なるほどねぇ」
 ふたつ並んだお尻を交互に攻めたて、ユキだったかミキだったかどちらかの中で1回戦を終了したカオル君を挟みながらふたごがこだまを返しあっている。なぜかふたりともファミレスでカオル君に声をかけてきた男のことを知りたがって根掘り葉掘り訊いてくるのだった。カオル君が上の空で彼女たちの質問にまともに答えてくれないため大した成果は得られなかったが、要約するとこんないきさつだったらしい。
 ヒカルとカオルは小学校最後の夏休みの一月前に同じ学校に転校して出会い、夏休みを互いの家に入り浸って過ごし、新学期が始まって早々にふたたび別々の学校に転校、以後今日までまったく音信不通だった。
 どうして今の今まであいつのことを忘れていたのだろう。あふれ出る記憶の奔流に流されながらカオル君は自問していた。そうだよ、まるまるひと夏をあんなに熱狂して過ごしたのに。子供ってそんなものなのかしら。それともこれはボクの性格なのかな。いっときひとつのことに、それこそ全身全霊を傾けて熱中しても、ある時期が来るときれいさっぱり忘れて別のことに熱中してしまう。まるでゲームソフトを入れかえるみたいに、あるいはOSを上書きするみたいに。
 だんだん思い出してきたぞ。ボクとヒカルとは同じ週の月曜と火曜に転校してきて、ひとつしかないクラスに編入されたんだ。最初はなんだか虫が好かないヤツだったけど、ゲームの話をきっかけにすっかり打ち解けたんだ。ボクとヒカルとの間には共通点がたくさんあった。都会から田舎に引っ越して来たこと、父親がいないこと、ゲーム好きなこと、それにたしか血液型も星座も一緒だった。性格や見かけは正反対といってもいいくらいだったけどね。ボクは背が低くて引っ込み思案で成績はよくなかったし、体育が大の苦手だった。あいつはのっぽでリーダー気質で成績優秀、スポーツ万能だったもんなあ。いつもこざっぱりしたカッコいい服を着てた。なのに今日は、うっ
 連想の端っこをぱっくりくわえられてカオル君は思わず声を上げた。よーし2回戦開始だ。
「…あいつ、妙な格好してたよなあ」
「あら知らないのカオちゃんたらぁ、あはん」「もごごごご」
 おしゃぶりされている/おしゃぶりしているユカだったかミキだかが同時に声を上げた」
「あれってタイヘイレンのユニフォームなのよぉ、うふん」「ふがががが」
 おしゃぶりの口を休めてカオル君が尋ねる。
「大変例? 鯛返礼? って何さそれ」
「タイヘイレンよぉ。あん、止めないでぇ、台湾平和連合だったかな。台湾に平和を!連盟とかそんな名前だったかも、うっく」
「だから何それ」
「反戦活動家ってやつよぉ」
 ポジションを交代したユキだったかミカだったか、どっちでもいいや上手なら、が意味ありげに目を光らせながら答えた。

(第5回に続く)


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