|   
                    マルヴェスターに呼びかけられた鬼は錆びた声で答えた。 
                    「やっと来たかマルヴェスター。この二千五百年の間何をしていたのだ、さっさとガザヴォックとケリをつけてしまえ」 
                    マルヴェスターは憮然として答えた。  
                    「そう簡単にはいかん。ガザヴォックにはまだまだ謎が多過ぎる。それに、どうやらあの魔法使いの相手はわしでは無いらしい」 
                    それを聞いたザークは少し嬉しそうな声を出した。 
                    「ほう、やっと気が付いたか。それではアイシム神の魔法使いは出現したのか」 
                    「うむ、候補者らしい者は現れたがまだ成長途中らしい。本物になれるかどうかもわからん」 
                     老魔術師は首を振ってそう言うと、鬼を見上げた。 
                    「もう一人候補者がいた。わしの弟弟子のセリスだが、これは五百年前にマルバ海で死んだ」 
                     ザークは本気で落胆したようだった。 
                    「なる程。それではお前達に頼むしか無いな」 
                     そう言って鬼が背を向けると、崖の下に立っているザークの背中がベリック達の目の前に来た。その幅広い背中には太い縄で繋がれた棺が吊り下げられていた。棺の上部にはガラスが嵌め込まれた窓があり、雪が張り付いた隙間から美しい女性の顔が見えた。ベリックやフスツ、ナバーロ達バルトール人の目に涙が溢れた。ナバーロが感極まったように叫んだ。 
                    「おおおおお、ようやく見つけました。女神様」 
                     ザークが顔をねじ曲げて後ろを向くと、ボリボリと顎を掻いた。 
                    「そういうわけか、さすがの俺も自分の背中の事はわからん。ここにいるのはバリオラであったか」 
                     一同は驚いて鬼を見上げた。マルヴェスターが尋ねた。 
                    「おぬし、知らなかったのか」 
                    「何やら俺と相容れない存在があるのはわかっていた。しかしこの縄は引きちぎれないし、前に回す事も出来ない。棺のような物が下げられているところまではわかっていたが、中に何者がいるのかまではわからなかったのだ」 
                     マルヴェスターが帽子の鍔を弾いて雪を落とした。 
                    「ガザヴォックだ。おぬしはロッグ陥落の日にあの魔法使いに止まった時の中に引き入れられて、同じく罠にかかったバリオラ神を背負わされたのだ」 
                     ザークの濁った瞳に怒りの色が宿った。 
                    「なる程、くびきの鎖を俺から外しても新しい魔法で縛っていたわけだ。いまいましい化け物め」 
                     マルヴェスターがクツクツと笑った。 
                    「お前に化け物呼ばわりされてはガザヴォックもたまったものものでは無いな」 
                     ベリックがザークを見上げて不思議そうに尋ねた。 
                    「くびきの鎖ってなあに」 
                    「ガザヴォックが我々始祖の生き物達を縛った魔法の事だ。ドラティもバイオンもそれで縛られていた」 
                     そして長い腕を伸ばして麓の谷のほうを指差した。その指先には赤い曲がった爪が見える。 
                    「その魔法がそこに来ている」 
                     ベリックは驚いた。 
                    「ガザヴォック本人が来ているの」 
                    「いや、本人では無いだろう。しかし誰が魔法の鎖を持って来るにせよ、鎖をかけられれば俺の魂は再びあの魔法使いの物になる」 
                     その時、坂になっているザークの足元の地面の下のほうにざわめきがあり、黒い防寒鎧の一団が登って来るのが見えた。それを見たサシ・カシュウがうなずいた。 
                    「マコーキンの目的はもう一度ザークを捕まえる事だったんですね。しかも、ガザヴォックの魔法を託されて来たとは」 
                     ザークも驚いていた。 
                    「追手は魔法使いかと思っていたが、人間であったか。余程の者であろう」 
                     そしてベリックを見下ろした。 
                    「短剣の守護者よ、その短剣で女神を取り戻すがいい」 
                     
                     マコーキンは山の中に立ち尽くしているように見えるザークを目指して、雪の中を登って行った。隣ではバーンが息を荒げている。少し遅れて一人だけ赤い鎧のバルツコワと兵達が続く。マコーキンが隣のバーンを見て言った。 
                    「とんでもない生き物がいるものだ」 
                     バーンもあえぐように答えた。 
                    「まさしく怪物」 
                     ザークは逃げる様子も無く立っていた。マコーキンはその鬼の後ろの崖の上に人の姿を認めた。 
                    「あそこに人がいる。何者だろう」 
                     バーンも振りしきる雪の中を透かし見た。 
                    「わかりません、一人は子供のようです。もう一人は大きな帽子をかぶっている。まさか」 
                    「ベリック王と魔術師マルヴェスターか」 
                    「おそらく。残りの人影は王の部下でしょう」 
                     マコーキンはゆっくりと歩を進めてザークの足元に立った。そして恐れ気も無く鬼を見上げた。 
                    「いにしえの大鬼ザークと見た。私はソンタールのマコーキン。ガザヴォック様の命によってそなたを連れに参った。一緒にグラン・エルバ・ソンタールに来るが良い」 
                    ザークは咆吼を上げた。マコーキンは耳をふさぎたくなるほどの絶叫を風のように聞き流した。そして、小手をかざして崖の上に立つベリックを見上げた。 
                    「初めてお目にかかる。バルト―ルのベリック王よ」 
                    崖の上のベリックは雪の中に軽やかに響く声で笑った。 
                    「初めてじゃ無いよマコーキン将軍。三年前、ドラティに捕まってあなたの要塞に捕らえられた事がある」 
                     マコーキンは記憶をさぐった。 
                    「そうか、あの時の少年か。やはりドラティは只の子供を連れて来たわけでは無かったのだな」 
                    「ザーク」  
                     ベリックは叫んでバザの短剣を抜いた。青白い光が燃え上がるように輝いた。ザークが崖に背をもたせると、ベリックはその背中に飛び降りてバザの短剣でザークの首に下がっている棺の縄を断ち切った。女神の棺はザークの足元の雪の中に突きささるように落ちた。ザークは背中に手を回して、滑り落ちそうになったベリックを受け止めると棺の横に下ろした。そして両手を握りしめて開放の雄叫びを上げた。 
                     
                    「感謝するぞ、短剣の守護者」 
                     ベリックは白い雪に煙る鬼に向かって叫んだ。 
                    「走れザーク」 
                    「おお、天にかけて」 
                     ザークは雪の中に駆け出した。マコーキンは呆気に取られてその光景を見つめていた。 
                    「何だ、何が起きたのだ」 
                     ベリックは雪の中で女神の棺を抱くようにしながらマコーキンに答えた。 
                    「見ての通りさ、ザークを逃がした」 
                     バーンがマコーキンの隣で叫んだ。 
                    「マコーキン様、ザークとベリック王を早く捕らえなければ」 
                     マコーキンもすぐに我に返った。 
                    「バルツコワ、ザークを追え。俺も天にかけてあの鬼を逃がさん。兵を麓に沿って配置しろ。決して逃がすな」 
                    「はい」 
                     バルツコワが兵を率いて雪の中に駆け出した。マコーキンは崖の下の雪の中に座り込んでいるベリックを見下ろした。 
                    「まだ兵はいる、抵抗は無駄だ、ご同行願おう」 
                     ベリックはニヤリと笑った。 
                    「ならば全力で死ぬまで闘うぞ」 
                     いつの間にかベリックの後ろに仲間達が立っていた。マルヴェスターが無言で杖を雪に突き刺すと、雪が吹き上がるようにして壁になった。マコーキンは剣を抜くと雪の壁に突き刺し靴で蹴破ったが、すでにそこにベリック達の姿は無かった。それを見たバーンがマコーキンに叫んだ。 
                    「マルヴェスターを相手に不用意な追跡は無駄でしょう。ザークを」 
                     マコーキンはさっぱりした顔で振り返った。 
                    「おお、ザークを追え」 
                     バーンは雪の中を転げ降りるようにして、軍を指揮しているバルツコワの元に駆け寄った。 
                    「これはまずい、マコーキン様のためにも決してザークを逃がしてはいかん。逃がしたら、グラン・エルバ・ソンタールでの支持を完全に失って将軍は抹殺される」 
                     バルツコワも険しい表情で答えた。 
                    「わかっている、俺の生まれはランスタインの麓だ。雪の中の追跡ならばまかしておけ」 
                     そう言い残して、赤い鎧の戦士は走り去った。 
                     マルヴェスターの魔法でマコーキンの目をくらましたベリック達は、先ほどの洞窟に逃げ込んだ。フスツの部下のビンネが担いでいた女神の棺を広い背中から降ろすと、ベリックとナバーロが飛び付いた。フスツが棺をこじ開けるとベリックが小さな腕いっぱいに女神を抱えて抱き起こした。黒い髪に厚い唇。しかしかつて輝きを放っていた踊りの神の顔は蒼白だった。そのバリオラのかすかな声が少年の心に届いた。 
                    (私の声が届いたのですね。お帰り息子よ) 
                     
                     この時、名も無き星の反対側にいたマスター・メソルにも女神の気配が届いた。バリオラ神の巫女は額の宝石に手を当てて涙を流した。 
                     
                     女神の気配はあっという間に消えた。覗き込む神官長ナバーロの顔も蒼白だった。 
                    「女神のお力が消えかけている。おそらく、マサズを通じてベリック王に呼びかけられたのが最後の力だったのだろう」 
                     マルヴェスターが杖を引き寄せて言った。 
                    「雪が降る。女神を棺に戻しなさい、まずはロッグに連れて帰ろう」 
                     こうして一行はバリオラの棺を引きながら、帰りの途についた。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     サルパートの峰を降りたカインザーのロッティ子爵は、サムサラ城で部下のエンストン卿が率いてやって来た訓練中のバルトールの若者達と合流する事にした。馬を進めてゆくと、平地の中にまるで山を造ったかような立派な城の景観が見えて来た。かつてクライバー男爵と立て籠もってソンタールの大軍と戦った砦の面影はすでに無く、延々と塁が築かれた堅固な城がそこにはあった。ロッティは先着して野営しているバルトール軍の中を駆け抜けると、エンストン卿に軽く声をかけてそのまま城の門に走り込んだ。そして城の最上階の部屋でカイト・ベーレンスと一緒に軽食のテーブルを囲むと話し始めた。 
                    「カイト、全部を話してくれ。何でマコーキンの動きが俺の所に届かなかった」 
                     額の秀でたカイトは来たな、と言った顔で片目をつぶった。 
                    「客人がいましてね」 
                    「アシュアンだな」 
                    「他にエラク伯爵とマスター・モントです。三人がちょっとした計画を持っていて、この付近をしばらく静かにしておきたかったようです。マコーキンはグラン・エルバ・ソンタールを出ると真っ直ぐにランスタイン大山脈を北に越えましたから、どのみち我々にすぐに打てる手は無かった。まさかマキア王に出撃してもらうわけにもいかないでしょう」 
                     ロッティはうさんくさそうにカイト・ベーレンスを見た。 
                    「あの狸達は何処に行ったんだ」 
                    「伯爵を狸なんて言っちゃいけませんよ」 
                    「かまわん。三人は何処に行った」 
                     カイトは諦めたように両手を広げた。 
                    「ユマール大陸です」 
                    「何だと」 
                    「ソンタールとの話し合いの手がかりを掴むために、ユマール大陸に逃れている先代のソンタール皇帝の息子に会いに行きました」 
                     普段冷静なロッティもさすがにこれには驚いた。 
                    「話し合うって、何をだ」 
                    「もちろん戦いをやめるための話し合いです。実際、私はそろそろ誰かがやってもいいとは思っていました。現在の力で消耗戦をやっていたらシャンダイアは滅びるし、ソンタールが受ける損害もかなりの大きさにのぼるはずですからね」 
                     ロッティは立ち上がると、きちんとガラスが嵌め込まれた窓から外を眺めた。 
                    「そんな事、黒の神官達には何の関係も無い事なのかもしれんぞ。シャンダイアもソンタールも一緒に滅びてしまえばむしろ好都合なのかもしれん」 
                    「そこが問題です。相手が人間なら何とか交渉の余地もあるでしょう。しかし、ガザヴォックが相手ではどうしようも無い。アシュアン達がどうするつもりなのか私にはわかりませんが、とにかく三人共死ぬ覚悟でいる事は確かです」 
                    「オルドン王には知らせたか」 
                    「はい、三人が出発してからすぐに」 
                    「王は何とおっしゃっていた」 
                    「放って置けと。アシュアンもまた戦士だから、彼の戦場で戦って来いと」 
                     ロッティはニヤリとした。 
                    「さすが戦士の王だ。他の王ならば大慌てしている所だろう。それでこそ、俺達も存分に動ける。それでは俺も俺の戦場に行くか」 
                     カイトも立ち上がって窓のそばに寄った。 
                    「赤の要塞でマキア王に合流するんですか。少し戦局の外にある地域に戦力が増え過ぎます。ここにいて、一緒にソンタール軍に備えませんか。バルトールの若者達にも良い実戦訓練になると思いますよ」 
                     ロッティは首を振った。 
                    「いや、赤の要塞に行くよ。だがサルパート人とバルトール人が同じ所に長期間いられるとは俺も思っていない。サルパート人は消極的だが、バルトール人は血気盛んだ。俺は彼らを連れて東に向かう。マコーキンが何をしているのかは知ら無いが、バルトール人の若者達をベリック王に届ける」 
                     カイトは妙な顔をした。 
                    「正直に言っていいですか」 
                    「何だかセルダン王子のような口癖がついているような気がするが、言ってみろ」 
                    「どいつもこいつも」 
                    「何だって」 
                    「どいつもこいつもって事です。アシュアンとあなたはカインザー貴族の中でも状況を把握する力に優れていると思っていたのですが、ちょっとガッカリです。あなたも死にに行くような物ですよ」 
                     ロッティはちょっと傷付いた顔をした。カイトは続けた。 
                    「今のところ、ソンタールの西側はトルソン、私、マキア王のラインで防衛しているわけですが、そこから単独で突出する事になります」 
                     ロッティは窓ガラスを指でつついた。 
                    「バルトール兵は有能だよ」 
                     カイトは窓からバルトール人の兵達の野営地をながめた。テントの張り方、水の確保、食料の配給、そしていざという時の防御の備えまで、細かい所に注意のゆきとどいた設営をしている。 
                    「あれはカインザーの野営地では無いな」 
                    「その通りだ。俺達の野営地なんてただ寝て食うだけのもんだろ。カインザー人も少し見習って勉強したほうがいい」 
                    「無理でしょ」 
                     ロッティはカラカラと笑った。 
                    「そうだ。俺自身が面倒だ」 
                    「でしょうね。止めても無駄みたいだ。マスター・モントがよく手配してくれたおかげでここには物資が豊富にあります。必要なだけ持って行ってください。防寒用具もたくさんありますのでお忘れ無く」 
                    「ありがたくもらって行くよ。それからオルドン王に俺の書状を送ってくれ。カインザー本国にいる俺の騎馬部隊と歩兵を呼び寄せる」 
                     二日後、準備を終えたバルトール軍はさらに北に向かって移動を開始した。そこにはすでに軍としての風格さえ備わりつつあった。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     ベリック達はロッグに再び帰還した。都市に入る時、ナバーロが白い布に包まれた女性を背負っていたが、まさかそれが女神だとは誰も気付かなかった。力持ちのビンネが背負おうとしたのだが、年老いたバリオラ神の神官は自分で背負うと言って聞かなかったのだ。雪は深く降り積もっている。マルヴェスターが薄暗い空を見上げてつぶやいた。 
                    「かつてはバリオラ神の力で冬でも暖かい都だった」 
                     都市はベリック達を静かに歓迎した。ここを出た時にマスター・マサズの口を借りてバリオラ神がベリックに呼びかけた事が人伝てに広まっていたのだ。以前に宿泊していた宿の戸は叩く前に主人が開いて一行を招き入れた。見上げると宿の屋根には黄色い旗が掲げられている。扉をくぐる時、主人はナバーロの背の女性を不思議そうに見つめていた。 
                     部屋に戻り、以前のままに置いてあった椅子に崩れるように座るとベリックが誰にともなく言った。 
                    「これから僕たちは、どうすればいいんだろう」 
                     女神をベッドに入れて、苦しそうな顔で床に腰を下ろしたナバーロが答えた。 
                    「バリオラ神の力を取り戻すには、他の聖宝神と巫女であるメソルの力が必要でしょう」 
                     マルヴェスターが首をかしげた。 
                    「旧バルトール領を回復すればここに他の聖宝神を呼べるが、まだ無理だ。癒しの神エイトリ神の元か豊穣の神ミルトラ神の元に行くしかあるまい」 
                     サシ・カシュウが首をかしげた。 
                    「マスター・メソルは何処にいるのでしょう」 
                    「ブライス達が順調に使命を達成していれば、そろそろ会っている頃だ。だがグルバとザラッカを倒さねばここまでやって来る事は出来ない」 
                     ナバーロが言った。 
                    「メソルならば女神の復活に気が付いているはずです。あるいはどうにかして一人でやって来るかもしれませんが、今の我々にはどうする事も出来ない」 
                     サシがため息をついた。 
                    「聖宝の守護者を集合させてクラハーン神の元に行くには、まだずいぶん時間がかかりそうですね。いっそ真っ直ぐにロッグの近くの港から船でシムラーまでバリオラ神を運んではいかがでしょう」 
                     これにもマルヴェスターが首を振った。 
                    「駄目だ。我々だけが先行してもクラハーン神は会ってはくれまい。最も重要な一人を連れて行かねばならない」 
                    「指輪の守護者ですか」 
                    「そうだ。それでもシムラーでの滞在は短期間になる。南にいるセルダン、ブライス、スハーラとここにいるベリックが落ち合うのはセントーンの首都エルセントという事になるだろう。エルセントから船で大急ぎでシムラーに向かうのだ。エルネイアはある理由で三か月程度しかセントーンを離れられない」 
                    「どうしてですか」 
                    「ミルトラ神がセントーンを守るために力を発揮するには盾の守護者が必要なのだよ。エルネイアがセントーンにいなくてはならない。出来ればソンタール側のセントーンへの総攻撃が開始される前にエルセントへ行きたいのだが、まずはこのロッグをおさえておかないと」 
                     ベリックがベッドで眠る女神を見やって尋ねた。 
                    「一つ気になっている事があるんです。なぜガザヴォックはバリオラ神を消滅させなかったのでしょう」 
                     サシもうなずいた。 
                    「確かにわかりませんね。何かのために女神が必要だったのか、ザークへの枷に使うつもりだったのか」 
                     マルヴェスターがポツリとつぶやいた。 
                    「あるいはただ楽しんだのかもしれん」 
                     サシがゾクッと身を震わせた。 
                    「鬼と女神をおもちゃにしたと言うのですか」 
                    「ガザヴォックと言うのはそういう男だ」 
                     マルヴェスターは素っ気なく答えた。一瞬部屋の中の者達はシンとした。恐怖を振り払うようにサシが言った。 
                    「ところで、この都はどんな情勢になっているんでしょう。やけにあっさりと私達はこの宿まで来てしまいましたが」 
                     フスツが左頬の傷に手をやった。 
                    「イサシはいるはずだ。傷がうずく」 
                     フスツが宿の主人を呼ぶと、小柄な主人はオドオドしながらやって来た。部屋の中央の椅子に座ったベリックは直接主人に問いかけた。 
                    「マスター・マサズはどうしてるの」 
                    「イサシ様が戻られてから、塔の中で王のご無事と女神のご帰還を祈り続けております」 
                    「軍を率いて戻ったトンイは」 
                    「それが」 
                    「どうしたの」 
                    「トンイ様は牢に繋がれています」 
                     ベリックは頭に手をやった。 
                    「やはり僕を逃がしたのがばれたか」 
                     宿の主人は少し驚いた。 
                    「そうだったのですか」 
                     フスツが尋ねた。 
                    「違うのか。しかしトンイを牢に入れられるとすればマサズだろう」 
                    「いえ、兄のピスタン様がトンイ様を投獄なさいました」 
                     サシがうなった。 
                    「どうやら何かが起きているようですね」 
                     そこに、様子を探りに行っていたクラウロとトリロが戻って来た。フスツが宿の主人を下がらせようとすると、主人がフスツに小さな袋を手渡した。 
                    「トンイ様からです。王がお戻りになったら渡して欲しいと」 
                     フスツはうなずいて受け取った。主人は素早く部屋を下がった。フスツはクラウロに尋ねた。 
                    「いい所に帰ってきた。何が起きているんだ」 
                     クラウロは首をかしげながら説明した。 
                    「どうも兄弟喧嘩が発端のようです。イサシが戻って、マサズ様と共に何かを始めたようなんです。それをめぐってご兄弟が喧嘩をしてマサズ様がピスタン様に命じて反逆罪でトンイ様を投獄したようです」 
                    「どうもわからんな」 
                     そこでフスツは宿の主人から渡された袋を開けてちょっと覗くと、バヤンに手渡した。 
                    「バヤン、薬らしい、調べてくれ」 
                     薬物に長じたバヤンは注意深く袋の匂いを嗅いだ後、荷物の中から小さな箱を取り出した。ベリックが興味を持って見守る前でバヤンは箱から小さな皿を出すと、袋を振って中身を皿に入れた。それは黄色い粉だった。次にバヤンは箱の中から小さな瓶に入った別の薬を取り出して黄色い粉に振りかけ、さらに水を注いでしばらく見守った。黄色い粉は赤く変色した。バヤンは険しい表情で振り向いた。 
                    「危険なくらい純度の高いモッホの粉に、毒が混じっています。こんな物をつくれるのは」 
                     フスツがうなずいた。 
                    「ジザレだ」 
                     サシが驚いた。 
                    「グラン・エルバ・ソンタールに潜入しているバルトールマスターですね。なぜトンイはこんな物を持っていたのでしょう」 
                    「イサシが持ち込んだのだろう。おそらくはマサズにこれを使わせているに違いない。トンイはそれを知らせるために少し盗んで王宛にここの主人に託したのだ」 
                     子供ながら察しの良いベリックの表情が曇った。 
                    「暗殺か。バルトール人ってやっぱりこういう事になるんだ」 
                     マルヴェスターがベリックを慰めるように、椅子の前にしゃがみ込んだ。 
                    「この民を救うのはお前なんだよ。そのために帰ってきたんじゃないか」 
                    「そうですね。マサズに会いに行きましょう」 
                     ベリック達はナバーロを女神のそばに残すと、都市の中央の塔に向かった。部屋を出る時にベリックが振り向くと、心なしか神官長は疲れているように見えた。マサズの塔の中に入ってみると、そこはガランとして人影も無かった。サシがキョロキョロしながらつぶやいた。 
                    「どうしたんでしょう。何かここまでうち捨てられた印象がありますが」 
                     マルヴェスターが杖で上を差し示した。サシがうなずいた。 
                    「答えは上って事ですね」 
                     一行は螺旋状の階段を上がり、最上階のマサズの部屋に入った。そこにはいつものようにマサズが巨体をベッドに横たえており、甘いモッホの粉の匂いが漂っている。そしてマスターのベッドの横に長身のピスタンと黒い服のイサシが立っていた。ベリックは横になっているマサズに注意してみたが、そこからはかつての精気が消えていた。ほお紅も差しておらず、頭に塗ってあった金粉もすっかりはげていて病的な斑が浮かんでいる。そこにあるのはただの白い肉の塊のようにさえ見えた。イサシがニヤリとして尋ねた。 
                    「クリルカンでの首尾はいかがでした」 
                     フスツが答えた。 
                    「目的は十分に達成した、次はマサズに引退してもらう番だ」 
                     ピスタンが怒りの表情を浮かべた。 
                    「唐突に何を言うか。まだマスター議会は解散したわけでは無い、バルトールは各マスターが支配しているんだ」 
                    「しかし王は戻った」 
                    「女神が復活していない」 
                     イサシが冷たく言い放った。 
                    「ベリック王がロッグを出発した前夜、マスター・マサズは女神の声を伝えたそうですね。その女神が帰ってくるまでは、バルトールの実権はマスターにある。それとも女神の所在をご存じか」 
                    「それは」 
                     フスツは口ごもった。とその時、ゴボゴボとした声でマサズがうめいた。 
                    「ベリック王、宿にお戻りください。この都はもうしばらく私の都でございます」 
                     マルヴェスターがベリックの肩をポンと叩いた。 
                    「戻ろう」 
                     外に出たベリックは夕陽に血のように染まる塔を見上げた。 
                    「僕はまだ子供なのかなあ」 
                     サシ・カシュウが笑いかけた。 
                    「いいえ、立派な王です。ただ少し、即位するのに手間がかかるだけです」 
                     一方、塔の中で部屋から出て行くベリックの後ろ姿を見送ったイサシは、隣に立つピスタンにささやいた。 
                    「王が戻った。躊躇している時間は無い、弟の始末は出来るな」 
                     ピスタンはさすがに手足が震えた。 
                    「わかっている」 
                    「お前の親父はもう動けない。トンイを始末してベリック王を追い出せ。それでこの都はお前のものになる」 
                     ピスタンはすがるような目で確認した。 
                    「マスター・ジザレは支持してくれるんだろうな」 
                    「そう約束してくれた」 
                     そう言った次の瞬間、イサシの目が大きく見開かれた。イサシが背中に激痛を感じて振り返ると、後ろにマスター・マサズが立ち上がっていた。 
                    「マサズ」 
                     マサズはイサシの背に刺したナイフを握ったまま幽鬼のような顔で言った。 
                    「わしに毒入りのモッホの粉を飲ませて動け無くしたと思っておったのだろう。残念だが、わしの体は常人とは違うのだよ」 
                     イサシはうめいた。 
                    「長年モッホの粉を飲み続けて、モッホの粉の麻痺も新しい毒も効かなくなったか」 
                    「そうだ、さすがに毒は効いているがまだ動ける。王が戻られて、これでもう思い残す事は無い」 
                     イサシは腰の短剣を引き抜くと振り向きざまにマサズの腹に突き刺した。マサズは転げるようにベッドから落ちた。しかし落ちた肉の塊のような巨体はすぐにヨロヨロと立ち上がろうとした。 
                    「化け物」 
                     さすがのイサシも思わず叫んだ。立ち上がったマサズは血だらけの顔で腹に刺さった短剣を掴んで笑った。 
                    「何のためにこの分厚い腹があると思うのだ。ピスタン、イサシを殺せ」 
                     ピスタンはガクガクしながらもイサシに斬りかかった。イサシは背中にナイフを刺したまま転げるように切っ先を逃れた。 
                    「ピスタン、貴様もグルか」 
                     ピスタンは冷や汗が噴き出した顔で答えた。 
                    「いや、親父は本当に動けないと思っていた。だが、これで貴様も殺す事が出来る」 
                     ピスタンは悲鳴にも似た声を上げて斬りかかった。ヨロめきながらかわし続けたイサシだが、ピスタンの踏み込みの一瞬のスキをついて斬り返すと、一気に胸をえぐった。ピスタンはゴボゴボと血を吐いて床に崩れた。次の瞬間、影のように歩み寄ったマサズが再びイサシの背中にナイフで突き刺すと、そのまま体重をあずけて倒れ込んだ。巨大なマサズの体の下でイサシは懸命にもがいた。 
                    (死んでたまるか、こんな親子に殺されてたまるか) 
                     ようやく這い出たイサシは、マサズのベッドの下に落ちているわずかなモッホの粉を懸命になめた。痛みが徐々に消えていく。悔しさに顔をしかめながら、無人の塔の中でイサシは懸命に外への階段を這い降りて行った。 
                     
                     ベリックはその夜、ロッグの北の地域にある牢にトンイを訪れた。牢番は王の来訪にあわてて一行を通してくれた。崩れかけた建物の地下にある牢の中はガランとしていた。 
                    「誰も入れられていないのかなあ」 
                     フスツが説明した。 
                    「ここでは問題は大抵当事者同士で解決してしまいます」 
                    「なる程」 
                    「ここに入れられるのは政治犯だけですが、それもごく短期間で処刑されてしまいます」 
                     ベリックはまたため息をついた。ランプの光を頼りに進んで行くと、暗い牢の最奥の格子の中でトンイは待っていた。ベリックは嬉しそうに声をかけた。 
                    「やあ、トンイ」 
                     ベッドに座っていたトンイはハッと顔を上げてニコリとした。 
                    「おかえりなさい王」 
                     そういって小太りの男は立ち上がると、ベリック達の後からついて来ていた牢番に合図した。 
                    「王が戻られた、開けてくれ」 
                     牢番はトンイの牢の鍵を開けた。ベリックは驚いた。 
                    「あれ、出られるの」 
                     トンイは少し寂しそうな顔をした。 
                    「ええ、あなたが戻られたと言う事は父が死んだという事です。早く塔に参りましょう」 
                     フスツの目が厳しくなった。 
                    「そうか、マサズとお前で何か謀ったのか」 
                    「塔に行けばわかる」 
                     トンイは走り出しそうな勢いで先頭に立った。 
                     塔に戻ったベリック達は血の海の中で死んでいるマサズとピスタンを見つけた。トンイは二人の亡骸の前に立ち尽くした。その目からは次々に涙がわき出してはこぼれ落ちた。そして静かにベリックを振り返った。 
                    「父の策略でした。父はモッホの粉に耐性があります。毒も簡単には効かない。イサシの差し出す毒入りのモッホの粉にかかったふりをして、イサシを殺すつもりでした。私も関わりたかったが、父はもしもの時に私を生き延びさせようと安全な牢に閉じ込めてしまった」 
                    「ピスタンは」 
                    「兄は何も知らない。イサシに踊らされてこの都を乗っ取るつもりだったようです」 
                    「そのイサシの背後にいるのはマスター・ジザレだ」 
                     フスツが部屋の中をうろつきながら吐き出すように言った。 
                    「イサシはどこだ」 
                     サシがマサズの腹に刺さっている短剣を指差した。 
                    「イサシという刺客は短剣を獲物の腹に残して行きますか」 
                     フスツがマサズの腹の短剣を見た。 
                    「いや、そんな男では無い。おそらく相当の傷を負っているのだろう、トンイ」 
                     トンイは駆け出して行って部下をかき集めると探索を命じた。翌朝、宿に待機していたベリック達の元をトンイが訪れた。 
                    「イサシは見つかりませんでした」 
                     ベリックは残念そうだった。 
                    「そうか、残念。トンイ、こっちに来て」 
                     そしてベリックはトンイをバリオラ神の眠っている部屋に連れて行った。トンイはベッドの中の女性をしばらく見つめていたが、やがてガクガクと膝をついた。 
                    「まさか、これは」 
                     部屋の中にいたマルヴェスターが答えた。 
                    「バリオラ神だ。クリルカン峠で解放してここまで連れて来たが、消耗されていてこのままでは回復させられない。これから我々は女神を連れてセントーンに向かう。豊穣の女神ミルトラのお力を借りてみる」 
                     ベリックはトンイを見た。 
                    「王は帰還した。女神も必ず復活させる。まずは密かにこの事を世界中のバルトール人に知らせて欲しいんだ。そうすれば世界中からバルトール人が帰ってくる」 
                    「ええ、しかしそうなるとどうなるのか不安な気もいたします」 
                     サシ・カシュウが笑った。 
                    「大丈夫でしょう。タフな思考がバルトール人の特徴のはずですよ」 
                     ベリックはナバーロを見た。ナバーロは首を振った。 
                    「何処までもついて行きたい所ですが、どうやら私の寿命も常人並に動き出したらしくて、すっかり体が弱くなってきました。おそらくメソルがこちらに向かって急いでいる所でしょう。セルダン王子達と一緒ならばエルセントに来て、バリオラ様に付き添ってくれるはずです。私はロッグで女神を迎える準備をしたいと思います」 
                    「あの破壊された聖堂を修復するんだね。体に気をつけてね」 
                    「はい。ありがたいお言葉にお礼を申し上げます」 
                     トンイもうなずいた。 
                    「市民達は喜んで協力するでしょう。それから王の宮殿も復興させないといけません」 
                     ベリックは首をかしげた。 
                    「おっきい物はいらないよ」 
                    「いや、カインザーやセントーンに負けてはいけません。やはりバルトール人の誇りとなる建物にしないと」 
                     サシがベリックに耳打ちした。 
                    「王、家臣の要望をかなえるのもまた王の勤めですよ」 
                     ベリックはため息をついた。そしてふと気が付いた。 
                    「バリャノギワキの古戦場で会ったボック公爵の子孫って、生き残っていないの」 
                     トンイが残念そうに答えた。 
                    「最後の王族であった公爵家は北の将に惨殺されて全滅してしまいました」 
                    「そおかあ、公爵の屋敷があった場所はわかるのかな」 
                     ナバーロがうなずいた。 
                    「それは憶えております」 
                    「そこに教会を一つ」 
                    「承知いたしました」 
                     ベリックは荒野を駆けめぐる亡霊の軍団の姿を思い出した。そしてボック公爵との約束を守るための道のりはまだまだ険しい事に心を引き締めた。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     その頃、セントーンの都エルセントには不気味な噂が流れていた。大鬼ザークが北方の山岳地帯に出没していると言うのである。さらに、ソンタールの軍勢を見たという報告もあった。ある日、女魔術師ミリアは意を決したように真っ白な髭のレンゼン王の元を訪れ、偵察の役を願い出た。 
                    「どうやら私が行って来ないといけないようです」 
                     同席していたセントーン軍の総大将ゼリドルが心配そうに尋ねた。 
                    「ザークは危険では無いのか」 
                    「はっきり言って危険だわ。古代生物の中では最も危険と言ってもいいと思う。だから私が行くの。ゼリドル、西側だけでは無く北にも備えてちょうだい。ソンタールはかつて月光の将が失敗した北を迂回する作戦も考え始めたのかもしれないわ」 
                     ミリアは部屋を出るとその足でエルネイア姫を訪ねた。エルネイアは自分の部屋で美しいカードを並べて占いをしていた。壁にはセルダンが出発の前につくった服がかかっている。これにはミリアがこっそり魔法をかけて虫がついたり色褪せたりしないようにしていた。 
                    「エル、出かけてくるわ。北方の不穏な噂を調べてくる」 
                     エルネイアは金色の髪を揺らして心配そうに振り向いた。 
                    「やめて。変な占いが出たの」 
                     ミリアはエルネイアの手元を覗き込んだ。妖精のカードに黒い龍のカードが重ねられている。 
                    「妖精は誰」 
                    「あなたよ」 
                     ミリアは王女を抱きしめた。 
                    「私は大丈夫。あなたを守るためにここにいるんだもの。すぐに帰ってくるわ」 
                     エルネイアの制止を振り切った魔術師ミリアは、その日のうちにエルセントを出発した。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     サムサラ城から北進したロッティ子爵は、二万のバルトール兵を連れて赤の要塞に着いた。兵達を要塞の外に駐屯させて要塞の中に入ると、聖王マキアが自室で不機嫌な顔で待っていた。大きな部屋が嫌いらしいマキア王は、北の将の殺風景な謁見の間には全然手をつけていなかった。そして隣の小さな控えの間のほうの壁を絨毯と地図で埋め尽くして自分の部屋に決めた。その部屋の奥の椅子に、おなじみの緑と赤の地に金糸で精緻な模様をほどこした服を着た聖王は、腰までずり落ちるような格好で座っていた。 
                    「二週間前、アシュアンがエラクとモントを連れてアントワを出航したぞ」 
                    「私もサムサラ城に寄った時に、初めてカイトに聞いて驚きました」 
                     マキア王は疑わしそうだった。 
                    「まあいい。お前が連れて来たバルトール人はここには長く置いておけんぞ」 
                    「すぐに出発しますよ」 
                    「何処に行くんだ」 
                     ロッティはちょっと笑った。 
                    「行くと心細いですか」 
                    「意地悪いやつだな」 
                     マキア王は机の上の書類の中にうもれたように置いてあったグラスから、高価なワインを飲み込んだ。そして真面目な顔になって座り直した。 
                    「わしはまともな軍隊など持った事が無いので良くわからんのだ。この要塞は今戦局の中でどういう位置づけにあるんだ」 
                     ロッティは棚から勝手に酒を取り出して自分のグラスに注いだ。マキア王はこういう事には細かく文句を言う性格では無い。 
                    「マコーキンが復帰してランスタイン山脈を北に越えたそうです」 
                    「それは聞いた。こっちにやって来ればここが攻撃されたんだろうが、やって来ない。東に向かったそうだ」 
                    「となれば、どちらにしても戦場はロッグから東、あるいはセントーンでの決戦になるでしょう。ここは戦場から外れます」 
                     マキア王の顔が少し明るくなった。 
                    「わしはここにいればいいのか。お前達が東に行って戦って終わらせてくれるか」 
                    「そうはいきません。シャンダイアは五つの王国が協力し合ってやっとソンタールと戦う事が出来るんです」 
                     マキア王はまた椅子に沈み込んだ。 
                    「やはり駄目か。それでわしはこれからどうすればいい」 
                    「ソンタールの西側はトルソンのポイントポート城とカイトのサムサラ城がおさえています。二人の後ろにはオルドン王が控えている、そう簡単には抜かれません。私はこれからバルトール軍を率いて東に向かいます。ソンタールからランスタイン大山脈を越える街道の出口にあたる月の門リナレヌナをおさえれば。事実上バルトールは回復できる。サルパートは完全に安全圏に入ります」 
                     マキア王は机の上の地図を指で辿った。ロッティは続けた。 
                    「まずは私とベリック王の動向に注意してください。マコーキンに敗れればここまで退却して来ます。その時はここが戦場になる。逆にマコーキンを駆逐出来ればベリック王と私がバルトールを守る。そうなればトルソンとカイトが動きます」 
                    「エルバナ河の西岸をおさえるのか」 
                     ロッティはハッとした。 
                    「驚くな、わしは馬鹿では無い。兵の動かし方は良く知らんが、そのくらいの事はわかる。同時にあの大河が簡単に渡れるものでは無い事もわかるぞ。たとえ西岸の拠点をいくつか落としても、長大な岸など守れるものでは無い」 
                    「その通りです」 
                    「そこから先がわからん、ブライス達が来るまで待つしかないだろう」 
                    「そのザイマン艦隊の元にソンタールの海軍提督ゼイバーの艦隊をやらないように牽制するのです」 
                     マキア王は机の上をポンと叩いた。 
                    「なる程、それで我がサルパートは何をすればいい」 
                    「トルソンとカイトが大軍を維持するのに必要なのは何だと思いますか」 
                     マキア王は顔の横で指を振りながら考えた。そしてポツリと答えた。 
                    「食い物と酒だ」 
                    「ご明察です。カインザー軍がかつて二度もポイントポートの町を奪いながら、ソンタール大陸で敗れた最大の理由が補給路を確保しなかった事です」 
                     マキア王は少し得意そうだった。 
                    「それはそうだろう、カインザー貴族がサルパートの王に協力を求めた事など無いのだから。まったくもって馬鹿な話だ。まかせおけ、最前線に立って戦えと言われると困るが。食い物くらいはきちんと運んでやる」 
                     ロッティは安心した。サルパート人はこういう几帳面な作業が得意だったからだ。 
                    「そうだロッティ。アシュアンが牙の道に温泉をつくってくれと言い残して行ったそうだ。さっそく工事に取りかかっている。傷付いた兵は送って来い」 
                    「それは助かります。ついでに人間の入った温泉の残り湯を、川に流す前に一度池にでも溜めておいてください」 
                    「どうするんだ」 
                    「馬だって傷付くんです」 
                     マキア王は妙な顔をしたが、わかったと手を振った。ロッティは満足して王の部屋を後にした。 
                     赤の要塞で装備を整えたバルトール軍が故郷に向かって進軍を開始したのは、それから二週間後の事だった。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     ロッグでは珍しく雪が止んだある朝、女神の様子を見に行ったベリックは、女神が美しい目を見開いている事に気が付いて目を疑った。呆気に取られているベリックに女神は細い声をかけた。 
                    「おいでベリック。他の者達も呼んでちょうだい」 
                     ベリックの知らせを受けた者達が驚いて駆けつけた。バリオラはマルヴェスターを見上げて笑った。そこにはかつて激情の神と呼ばれた溌剌とした精気はうかがわれず、弱々しく儚い印象すらあった。 
                    「変わらないわねマルヴェスター」 
                     マルヴェスターも微笑み返した。 
                    「あなたも。いつも面倒を起こす」 
                    「エルディよ。エルディが巫女の宝石に触ったわ」 
                     ベリックが顔をほころばせた。 
                    「ブライス王子がメソルおばさんを見つけたんだ」 
                    「それもとても近い。おそらくソンタール大陸だと思うわ」 
                     マルヴェスターの顔にも喜びの色が浮かんだ。 
                    「エルディ神がソンタール大陸に立ったという事は、ブライス達が南の将を破ったという事だ。よし、行くぞ。まずはエルセントに集合する」 
                     マルヴェスターは女神の目覚めを喜ぶ者達を残して表に出ると、右手を高々と上げた。すると何処からともなく白い伝令鳥がやって来てその手に留まった。老魔術師が懐から小さい紙を取り出して何かつぶやくと、紙には文字が浮かび上がった。マルヴェスターは紙を鳥の足の管に入れて封をすると大空に放った。 
                     鳥の行方を見送ったマルヴェスターが一息ついて視線を下ろすと、一匹の白い猪が立っていた。 
                    「クラハーン神のお使い。デクトだな」 
                     猪は魔術師の心にデクトの声で語りかけた。 
                    (お久しぶりでございます賢者様。大変な事が起きました、アーヤ様の魂がガザヴォックに捕まりました) 
                     マルヴェスターは蒼白になると、うめきながら両手を顔に当てて天を仰いだ。 
                    「しまったわい。カインザーはあの魔法使いの魔法と最も無縁の場所だと思うておったに」  
                    (かつてドラティを捕縛していた鎖がセスタにもたらされたのです。これからアーヤ様を連れてエルセントに向かいます) 
                    「そうしてくれ、他の守護者達も集める。良く集合場所がわかったな」 
                    (クラハーン神の元に行くには、そこから出発するのが一番と思いましたので) 
                    「まさにその通り。アーヤを頼む」 
                     猪は軽く牙を振って挨拶をすると走り去った。シャンダイアの相談役である魔術師は拳を握りしめて立ち尽くした。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     不思議な男デクトにうながされてカインザーのマスター・アントこと、アントン・クライバーはカインザー大陸を離れる事になった。同行するのはデクトと意識不明のアーヤ・シャン・フーイ。カインザーのバルトール人の責任者であるクチュクとベリック王の身代わりの少年ダンジはセスタに残り、噂をうまく操りながら北に向かう。そして本物のベリック王に合流してこの換え玉芝居を終わらせる予定だった。元々は一時的に周りの人々の目をごまかすのが目的だった。オルドン王も本物のベリック王がロッグに向かう事を承知し、セスタに集まっていたバルトール人もロッティ子爵と共にソンタール大陸に渡った今となってはこの芝居は役目を終えていた。 
                     出発の朝、見送りの人々の中からアシュアン伯爵夫人のレイナが進み出てアントンに近付いた。 
                    「何処にいるのかわからないけれど、もしうちの人に会ったら早く帰るように伝えてちょうだいね」 
                     アントンは人の良い夫人に微笑んだ。そして皺の無いはずの夫人の顔に、かすかな皺と隈を見つけてかなり辛い思いをしているのだと悟った。 
                    「わかりました。行く先々で消息を聞いて、必ずお伝えいたします」 
                     次にすっかりお腹が大きくなった母親を見た。ポーラは笑顔を見せた。 
                    「あなたがエルセントに着く頃には産まれているかもよ。お父さんに伝えてね、女の子よ」 
                    「そうなの」 
                    「間違い無いわ」 
                     ポーラは短くした明るい栗色の髪を輝かせてそう断言した。その時、屋敷の裏手からかん高い馬のいななきが聞こえてきた。 
                    「しまった、フオラを忘れてた。ちょっと行って言い聞かせてくるね」 
                     後ろで見守っていた長身のデクトが首をかしげた。 
                    「フオラとは立派な名前の馬だ。賢王バルジャンの星の名前じゃ無いですか」 
                    「アーヤの乗馬なんだ」 
                    「ああ、アーヤ様のお名前の中のフーイを男読みのフオラにしたのですね」 
                    「うん。でもアーヤの前にはベリック王が乗っていて、その前にはゾックを操る魔法使いが乗っていた」 
                     デクトは興味を持ったようで厩までついてきた。そして馬を見るなり言った。 
                    「連れて行きましょう」 
                    「やっぱりあなたもそう思いますか。以前にアーヤがガザヴォックの鎖に触ろうとした時に、この馬が止めた事があったんです」 
                    「何か不思議な魔法の感じがします」 
                     こうして今では立派な馬に成長した栗毛の馬は仲間に加わった。セスタを出発した一行は青の要塞を通過して、シゲノア城の近くの港からザイマンの用意した高速艇に乗って一気にエルセントを目指す。アントンはアーヤの魂を縛っている魔法の鎖を箱に入れて運ぶ事にした。この鎖は一体の相手しか縛れないとデクトが言っていたので、アントンに危害は無いはずだった。 
                     そのアーヤは馬車の中で静かに眠っている。白い巻髪の中の小さく美しい顔はデクトの魔法で少し赤味が差しているが、あの灰色の瞳は開かない。馬上のアントンの頭上をセスタのぶ厚い城壁の天井が過ぎてゆく。ここを出れば、僕達を守るのは自分達自身だけだ。馬車の中の少女を覗いてアントンは心に誓った。女王が再び笑顔を取り戻す日まで命に代えても守り続けると。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     マコーキンのザーク追跡は難航した。一万の兵は機能的にランスタイン山脈の要所をおさえていったが、慣れない雪に妨げられた。その間、東の将キルティアから縄張りに入らないよう警告があったが、マコーキンはこれを無視した。しかしさすがの勇将も冬山の行動の困難さに探索を諦めて、春の訪れを待つ事にした。 
                     この頃には、さすがに参謀のバーンも心配をし始めた。ザークの捕獲に手間取り、ベリック王を逃がし、東の将キルティアの支配地域を侵している。かつてマコーキンがこれ程使命に手間取った事は無かった。やはりこの将にこういう任務は向いていない。マコーキンは大軍を指揮して戦場にいてこその英雄なのだ。バーンは懸命に首都の貴族達に連絡を取って、何をするかわからない性格の東の将が兵を差し向けてこないように運動した。 
                     もう一人の幹部である色白のバルツコワは、顔を雪で焼きながら北国出身の兵達を集めて狂ったようにザークを追いかけた。そして春の雪解け水が涼やかな音をたてはじめた頃、ついにある谷に追いつめた。もしマコーキンの手にくびきの鎖が無ければ、ザークも存分に戦って逃げ延びていたであろう。しかし、くびきの鎖を持つ相手への抵抗はガザヴォックの手に落ちる事であった。マコーキンは谷を封鎖して雪が消えるのを待った。 
                     
                     やがて春が来た。マコーキンは谷沿いに軍を進め、再び鬼を見上げる地に立った。 
                    「ザーク。おしまいだ。おとなしくガザヴォック様の元に参ろう」 
                     ザークがうなり声を上げた時、マコーキンの耳に心地よい女性の声が響いた。 
                    「そういう事なのね」 
                     ふと視線を下げると、ザークの足元の茂みの中から淡い黄色の服装の女性が現れた。雪山用の厚い服を着ていても、その姿は充分に魅力的に見える。 
                    「どうやらザークはあなたから逃げているようね。見たところ只の人間だけど」 
                     マコーキンは不思議な女性の美しさに目を瞠った。 
                    「美しいお方よ、我が名はソンタールのマコーキンと言う」 
                     黄色い服装の女性は溶け残った雪の中に歩み出た。鼻筋の通った彫りの深い顔に黒い瞳、漆黒の豊かな髪が風に吹かれてなびく。その姿は気品に満ちていた。 
                    「あら、噂の西の将についに会う事が出来て嬉しいわ」 
                    「もう西の将では無い」 
                     女性は腰に左手を当てて、右手で髪を掻き上げた。マコーキンの後ろの軍の中から賛嘆の声が上がった。 
                    「私の名はミリア」 
                     マコーキンの隣にいたバーンがうめいた。 
                    「何と、翼の神マルトンの魔女。最悪の相手だ」 
                     ミリアはバーンを睨んだ。 
                    「あなたが参謀のバーンね。失礼しちゃうわ」 
                     そう言ってザークを見上げた。 
                    「ザーク、あなたはどうするの。マコーキン将軍に捕まってガザヴォックの所に行く気はある」 
                     鬼は突如出現した魔術師にちょっと驚いたようだった。 
                    「嫌だ。それくらいなら、ランスタインでマルヴェスターに殺してもらっていたよ。ところでお前、どうやって俺に気付かれずに近付いた」 
                    「気付いてると思ってた。鳥になると魔法の気配が下がるのかしら」 
                    「マルヴェスターの鳥には気付いたぞ」 
                    「あの人はにぎやかなのが好きだもの。ところでそのマルヴェスターもずいぶん近くに来ているようじゃ無い。後で聞かせてね」 
                     マコーキンは笑った。 
                    「その先は私がお話ししよう。魔術師マルヴェスターとベリック王に関しては私のほうが詳しく知っている。私はロッグの南でベリック王の軍と遭遇した」 
                     ミリアは美しい眉を寄せた。 
                    「ベリックの軍ですって。ますます詳しく聞かなきゃ。あの連中、連絡を怠り過ぎ」 
                     マコーキンがマントを雪の中に落とすと、銀の竜をあしらった精緻な模様が渦巻く鎧が現れた。若き将軍は右手で愛剣バゼッツ・アランをスラリと抜き、左手で鎧の腰の袋の中から一本の細い銀色の鎖を取り出した。そして二三回振って拳に巻き付けた。 
                    「ザークは私が連れて行く。美しい女性に乱暴な事はしたく無いが、邪魔はさせない。バーン、バルツコワ、谷をしっかり封鎖して手は出すな」 
                    「マコーキン様、無謀です。相手は魔女と鬼です」 
                     ミリアが一緒にしないでとつぶやきながら、雪を蹴飛ばした。マコーキンは笑った。 
                    「無理は承知。しかしこれが私の受けた命令だ。ガザヴォック様は兵の数は関係無いと言っておられた。この私が対決し、決着するのだと」 
                     黒い鎧のマコーキンは湿った地面を踏んで進み出た。ミリアも微笑みながらザークの前に出た。 
                    「最近のあたしの相手は男の子ばかりね。夏にやって来た茶色い髪の魔法使いは逃がしたけど、あなたは逃がさない。ずっといい男だし」 
                    「テイリンに会ったのか。それでは私からも聞く事がたくさんある」 
                     二人は相手に向かってさらに踏み出した。 
                   (第八章に続く) 
                    |