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                    ソンタール大陸の西の端に位置するサルパート山脈の西側にも夏が来ている。カインザー大陸の中央部の大都市セスタを出発したバルトール人のクチュクとダンジは、荷馬車の御者台に二人並んで揺られていた。日差しが暑い午後だった。のんびりしているように見えるが、実はバルトール人の要人である二人の移動速度はとても速い。 
                     乾いた風に厭きたクチュクが馬車を止めると、肩と足がゆったりとした動きやすい緑色の服を着たダンジが水を汲みに走った。短い髪ですばしっこいベリック王によく似た少年の後ろ姿を見送って、クチュクはこの少年の将来にそろそろ気を遣ってやらなければならないと思った。 
                     やがて水を入れた水筒を手に戻って来たダンジは、手をかざしてまぶしい太陽を見上げた。 
                    「私達は何をしているんでしょうね」 
                    「バリオラ様の弟神のご意思に従っているのさ」 
                     クチュクはそう答えるとダンジが差し出した水をうまそうに飲んだ。そして丁寧に尻の下に敷いた座布団の具合を直した。 
                     
                     ロッグを目指してセスタを出発したクチュク達の元に、ベリック王がロッグを掌握したと言う知らせが届いたのは、二人がポイントポートまで進んだ時の事だった。ロッグの新マスター・トンイによって世界中のバルトール人に布告された王の帰還宣言の中には、ベリック王がダンジを身替わりに残してサルパート、ソンタールと潜入して行った冒険も一部を除いて公にされていたため、ダンジは無理にベリック王のふりをしてロッグに戻る必要が無くなった。 
                     その情報を受け取った夜、クチュクとダンジはカインザーに残ったバルトール人の世話をするためにセスタに引き返す相談をしていた。不思議な訪問者の来訪を受けたのはその時だった。 
                     その老人は誰に案内されるでもなく、いつの間にか部屋の中に立っていた。ダンジがすぐに気が付いて立ち上がった。 
                    「どなたですか」 
                     白衣で長髭の老人はゆっくりと部屋の中央に歩を進めた。 
                    「ベリック王が首都に帰還したそうだな」 
                     ソファーに座っていたクチュクが、動こうとしたダンジの手を掴んだ。 
                    「尋常なお方ではありませんな」 
                     ダンジは老人をじっと観察した。 
                    「ベリック王や、アントンが言っていた。不思議な人がいたら魔法使いだと疑えって」 
                     老人は微笑んだ。 
                    「私の力は魔法では無い。むしろ魔法以前の力と言ったほうが良いだろう」 
                     クチュクとダンジは驚いた。そしてハッと気が付いたクチュクが立ち上がった。 
                    「エイトリ様ですか」 
                     老人はにっこりした。 
                    「そなた達に頼みがある。サルパートの峰に登って巫女の学校に行って欲しい」 
                    「学校ですか」 
                    「そうだ、そこにエレーデという少女がいる。その子をロッグに連れて行って欲しいのだ。ベリック王が彼女を必要とする時が来るだろう」 
                     クチュクは首をかしげた。 
                    「エレーデ、馬と話す少女ですね」 
                     エイトリはうなずいた。 
                    「丁重に扱った方が良い、もしかしたら、そなた達の女王になるかもしれぬ」 
                     クチュクは右手を額、胸、膝と触れてサルパートの正式なおじぎをした。老人はうなずくとクチュクに尋ねた。 
                    「そなた、何か私に聞きたい事がありそうだな」 
                     クチュクは驚いた。 
                    「はい。知恵の神ならば良いご助言がいただけるかと思った事がございます」 
                    「声に出さずとも良い、心で考えてみなさい」 
                     クチュクが神妙な顔で目をつぶると、しばらくしてエイトリが微笑んだ。 
                    「それはロッグに行けばわかるだろう」 
                     エイトリ神は静かに手を上げて消えた。ダンジが尋ねた。 
                    「クチュク様、何をお聞きになったんですか」 
                    「うむ。ロッグに行けばわかるらしい。それから教えるよ」 
                     
                     二人は翌日、サルパート山脈の西側に向けて出発した。ロッグに急ぐためならばサルパートの東側を進むのだが、学校への道は元々からサルパート領だった西側のほうが整備されていて早く旅する事が出来たのだ。そしてかつてセルダン達が通ったように、マットを経由してネイランの町に着いた。そこでクチュクはバルトール人の部下を呼んで尋ねた。 
                    「山の上の学校の様子はどうだ」 
                     地元の農民の姿をした部下が答えた。 
                    「特に変わった事はございませんが、エレーデ様を連れだす前に会っていただきたい男がおります。すでにこの宿にて準備させております」 
                     クチュクは日焼けしてカサカサになった鼻の先に軟膏を塗りつけながら言った。 
                    「いいよ、ここに連れておいで。それからカインザーのオルドン王にロッティ子爵の領から馬を三頭送ってもらうように頼んでおいたのだが」 
                    「それは船ですでに到着しております。見事な馬が三頭」 
                     クチュクは軟膏のケースをテーブルに置いた。クチュクの部下はクチュクとダンジの前に荒々しいイタチのような顔つきの男を連れて来た。この付近の村人の格好をしているが、どうにも似合っていない。おそらくクチュクの部下が無理やり着せたのだろう。クチュクは男を観察しながら尋ねた。 
                    「名前は」 
                    「バンダラでさあ」 
                    「ああ」 
                     クチュクは合点した。エレーデの父親の部下だった者だ。 
                    「私はクチュク。カインザーのバルトールマスターの配下の者だ」 
                    「へえ、そううかがってやってめえりやした。おらの一党はバルトールの要人にはひどい目に会っとりますので、逆らわない事にしとります」 
                     バンダラは少し恨みがましい声で言った。 
                    「おや、そうだったか。それは気の毒な事をした」 
                     そう言ってクチュクは座り直した。 
                    「今日、来てもらったのはエレーデの件だ」 
                    「やっぱり連れて行きますかい」 
                    「ああ、復興作業が始まった北の都ロッグに連れて行く」 
                    「なんでかね。あの子あ変わった子だが、こんなおっきな戦争の中で何が出来るんだね」 
                    「私にもよくわからない。ただ聖なる宝の守護者と守護神が必要としているらしい」 
                     バンダラは泣きそうな顔をした。 
                    「おら達にゃ、もう止める力あねえ。だが、このまま行かせちゃあ、おらが頭としてやっていけねえ。仲間はサイダルのお頭の恩を忘れていねえ」 
                     クチュクがニヤリと笑った。 
                    「国の支配者が誰に変わろうと、商人の仕事に変わりは無い。ついでにちょいと稼ぎのいい裏の商人の仕事も無くならない。今、その世界を支配していたバルトール人が続々と故郷に帰りつつある。裏の世界がガラ空きになるぞ」 
                     バンダラの顔色が変わった。 
                    「それならおら達でも儲ける事が出来るか」 
                    「ああ、やり方次第だが」 
                     バンダラは迷ったような顔をした。 
                    「だがどうやったらいいんだ。おらは山賊しかしたこたねえ」 
                    「まかせておけ、私はロッグに住むつもりは無い。この商売が楽しくてね。ロッグにエレーデ様を届けたらまた戻ってくるから手を組まないか」 
                     バンダラは怪しんだ。 
                    「なんでおらと組むだ」 
                    「ただ何となくな。サルパートには使える人間がいなくて、誰か適当な人物を捜さなければならなかったんだ。それがエレーデ様に縁の者なら申し分無い。お前もこの土産話を持って行けば部下達に面子が立つだろう」 
                    「まあ、そらそうだが」 
                    「だがな、私が商売で自由に動き回るためには、やはりシャンダイアの世になったほうが都合がいい」 
                    「そらそだ。おらだってサルパート人だ。ソンタールあ敵だね」 
                    「ならば私達にエレーデをあずけておくれ。どうやらそれが大切な事らしいんだ」 
                     バンダラは大きくうなずいた。 
                    「しかたねえな。おらに出来る事があったら言ってくれ。ロッティってカインザーの貴族にもいつでもやって来いって言われてるだ」 
                    「ほう、それは。思ったよりお前は重要人物なのかもしれないな」 
                     バンダラは嬉しそうな顔をして帰って行った。それを見送ったダンジがちょっと不満そうな顔でクチュクに文句を言った。 
                    「いいのですか。僕はバルトール人は地下商人から足を洗うと思っていましたが」 
                     クチュクはホッホッホッと笑った。 
                    「世の中はそう単純では無いのだよ。バルトール人が辞めても地下商人は無くならない。国を治めるためにはむしろそういった者達とうまくやっていく繋ぎの存在こそが必要になるんだ。私はそこでベリック王のお役に立てる。しかしお前はどうもこの職業には向かないようだね」 
                     ダンジは不満そうな顔でベッドに向かった。 
                     
                     翌朝早く、クチュクとダンジはカインザーから送られた立派な馬に乗り、残りの一頭を引いて出発した。すでに連絡を入れていたため、学校に着くと二人はすぐに建物の中に招き入れられた。 
                     建物の中はとても涼しい。落ち着いた静謐な静けさに満たされたエントランスの、磨き抜かれた木の艶やかな色合いが旅の二人の疲れを癒してくれる。ダンジが心地よさにため息をついた時、エレーデが正面にある幅の広い階段を急ぎ足で降りて来た。クチュクは目を細めて不幸な生い立ちの少女に挨拶した。 
                    「エレーデ様、エイトリ神の命によりお迎えにあがりました」 
                     エレーデは黒い大きな瞳で答えた。 
                    「はい。エイトリ様のご意思のままに私は従います」 
                    「いいえ、これはエイトリ神のご意思では無いと思いますよ」 
                     エレーデはちょっととまどった。 
                    「そう、なんですか」 
                    「ええ、たぶんベリック王のお心をエイトリ神が察したのでしょう」 
                     エレーデははにかみながらも嬉しそうに笑った。 
                    「エレーデ様の乗馬を用意してきました」 
                    「あの」 
                    「はい」 
                    「どうして私に様をつけるのですか」 
                     クチュクはクスリと笑った。 
                    「それは将来の練習です。あまり気になさらないでください」 
                     そう言ってクチュクはエレーデを庭に連れ出した。そこにはロッティ子爵の数ある名馬の中から選んで送ってもらった栗毛の美しい馬がいた。 
                    「まあ」 
                     エレーデは馬に駆け寄ると、二言、三言話しかけた。そしてクチュクを振り返った。 
                    「クチュク様、香水を少し控えていただけますか。ルランが気分が悪くなると言っています」 
                    「はあ、ルランですか」 
                     エレーデは栗毛馬の首のあたりをやさしく叩いた。 
                    「この仔よ」 
                    「でも香水は商人のたしなみでして」 
                    「駄目」 
                     少女は断固として言い放った。クチュクは首をすくめて従う事にした。こうして、エレーデ、クチュク、ダンジの三人は馬でロッグに向かって出発した。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     ユマール大陸の首府モンゼラットの図書館を出てマスター・ケイフの館に戻ったサルパートのエラク伯爵は、蒼白な顔でアシュアン伯爵、マスター・モント、ケイフの三人が話をしている部屋に駆け込んだ。 
                    「すぐに皇子ムライアックを迎えに行こう」 
                     酒を手にしていたアシュアンがちょっと驚いた顔をした。 
                    「わしらもそう言おうとしていた所だ」 
                     エラクは一瞬とまどったような顔をした。 
                    「どうして」 
                    「ライケンが明日、出撃する」 
                    「おお、もう状況はそこまできていたか」 
                     マスター・モントが尋ねた。 
                    「そっちはどうして早くムライアックを迎えに行きたいと思ったんだ」 
                    「どうにも気になる事があるんだ。とても我々の手に負えるとは思えない」 
                    「まさか、黒い冠の魔法使いを見つけたのか」 
                     エラクは激しく首を振った。 
                    「まだわからない。そのうちマルヴェスター様にでも会った時に確認したい。今はともかくここを離れたほうがいいと思う」 
                     大きな体のケイフが勢いよく立ち上がった。 
                    「よし」 
                     そこで、ちょっと首をかしげた。 
                    「迎えに行くのか」 
                     アシュアンが指で唇をちょっと触った。 
                    「建前ではそうなっておるが、ここでは君のやり方でいいよ。何と言うのかね」 
                     ケイフはサラリと笑った。 
                    「脅してさらう」 
                     アシュアンとエラクは顔を見合わせて肩をすくめた。エラクがつぶやいた。 
                    「似たようなものでしょう」 
                     ムライアックの屋敷は意外な事にケイフの館の近くにあった。ここではライケンの力が絶大であるため、ライケンの庇護下にあるムライアックの屋敷は警備もほとんどいなかった。四人は易々と屋敷の庭に入ると、庭に面した一階にあるムライアックの部屋に忍び込んだ。ケイフが我が家のようにスタスタと大きなベッドに歩み寄って、無防備に眠っていた皇子を少し乱暴にゆすり起こした。 
                    「皇子お迎えにあがりました」  
                     赤い横縞の寝間着を頭からすっぽりかぶったムライアックは、眠そうに体を起こすと同じ模様の帽子を直しながらぼやいた。 
                    「一日早いぞ」 
                    「事情が変わったのです」 
                     ムライアックは帽子を取って、手で髪の毛をクシャクシャにするとベッドに腰掛けた。 
                    「いつもながら無礼な奴らだ。お前達がシャンダイアの使いである証拠は持って来たか」 
                     モントがニヤリとした。 
                    「それはあなた様のお命です」 
                    「ああ、どういう事だ」 
                    「もうまもなく将ライケンの部下達がここを襲うでしょう」 
                     それを聞いたとたん、ムライアックは飛び起きた。 
                    「なる程、俺には選択肢が無いな」 
                     腕を組んでそれを見ていたアシュアンが感心した。 
                    「あなたは長生きできるかもしれませんね」 
                     ムライアックは洋服をかき集めて身に着けながら無愛想に応じた。 
                    「ありがたい褒め言葉だ。お前が予言者であったら嬉しいね」 
                     ムライアックを含めた五人はそそくさと屋敷を逃げ出すと、街中の奇妙な通路を通ってケイフの屋敷に戻った。屋敷の窓からムライアックの屋敷の方角を見たケイフが無言で空を指さした。窓の外を見たムライアックが蒼白になった。 
                    「屋敷が燃えている」 
                     エラクが身震いした。 
                    「間一髪でしたね」 
                     ムライアックが肩を落とした。 
                    「さて、探索が始まるぞ」 
                     アシュアンが言った。 
                    「しかしあまり本気では探さないでしょう。ライケンは強大です、セントーンの戦いで功績を挙げればその力はさらに強大になる。皇子に気を遣うより今は目の前の戦闘に集中したほうがいい」 
                     ムライアックは首を振った。 
                    「そんな単純なやつじゃないんだ。大物なんだがけっこう神経が細かくてな、ここまで力を蓄えてじっとしていられたのは恐ろしく用心深いって事でもあるんだ。セントーンを攻めながら、俺に暗殺者をし向けるくらい簡単だ」 
                     ケイフが厳しい声で言った。 
                    「暗殺者の相手は俺にまかせてもらおう」 
                     
                     翌日、アシュアンとエラクの両伯爵は人混みにまぎれてライケンの出撃を見に行った。ムライアックはモントの見張りの元、ケイフの屋敷にこもっている。案内役のケイフが艦隊の彼方の水平線を指さした。 
                    「海面を見てみろ」 
                     見渡す限りの海面がきらきらと輝いている。アシュアンがため息をついた。 
                    「美しいものだな」 
                     ケイフが首を振った。 
                    「違うんだ。七本足のイカのソホスがひしめいて海面が乱反射しているんだよ」 
                     輝きが一瞬静まった。そして大きな波となって水平線に消えた。その後を四百隻の戦闘艦が次々と出撃して行く。アシュアンはそれを眺めてうなった。 
                    「想像を遥かに越えているな。これはセントーンは本当にあぶない」 
                     戦艦の出航は丸一日続いた。さすがに見厭きたアシュアンはケイフの屋敷に戻ったが、エラクは海辺の食堂に席を取ってその出撃を最後まで見送った。最後に海獣の旗印のライケンの巨大戦艦が行く。元々は月光の将の月の旗印だったのだが、ユマールに渡って巨大な蛸のような海獣の旗印に変えられたものだった。エラクはライケンの巨大戦艦のまわりを注意深く観察した。 
                    「魔法使いはどこでしょう」 
                     付き合っていたケイフが疲れたような顔で答えた。 
                    「ライケンの船でしょう」 
                    「果たしてそうでしょうか。私には冠の魔法使いと謎の巨獣は、ライケンとは別の行動を取るような気がするんです」 
                     艦隊が出撃した後を小さな船が走り回っている。湾内が混乱しないように戦艦の出航を整理していた船だ。エラクがふと目を港に流れ込む運河に向けると、黒塗りの地に金と赤の奇妙な模様を施した小さな船が水面を滑るように湾内に入って行って、小さな船の中に紛れ込んだ。エラクは舳先に立つ金髪の人物が自分のほうを見て、微笑んだ気がした。 
                    「ケイフ殿、今の船の舳先の人物」 
                     ケイフがうなずいた。 
                    「ゼリッシュだった。故郷に帰ると言っていたのは今日だったからな」 
                     エラクがケイフを見た。 
                    「図書館の司書が一人で船に乗って出るわけは無い。おそらく母親の具合が悪いと言うのは嘘でしょう」 
                     ケイフが尋ねた。 
                    「どういう事です」 
                    「わかりません、ただ。あの若者が何かの力の鍵になっているような気がします」 
                     ケイフの屋敷に戻ると、エラクはアシュアン達を集めて言った。 
                    「私はこれからセントーンの首都エルセントへ行く事を提案いたします」 
                     アシュアンが首をかしげた。 
                    「セントーンか。戦闘のど真ん中になるぞ」 
                    「あそこにはレディ・ミリアがいます。ロッグに行っているマルヴェスター様の他で一番知識があるのはあの方でしょう。どうしても知らせなければなりません」 
                     四人のシャンダイア人はムライアックを見た。ムライアックが少し怒った顔をした。 
                    「俺に何が選べるんだ。お前達についていくしかあるまい」 
                    「どなたかソンタール内にあなたを保護してくれる勢力は無いのですか」 
                    「あったのさ。でもいつの間にかライケンが潰してしまった。俺を自分だけの駒にしておきたかったんだ」 
                     エラクが尋ねた。 
                    「皇帝はどう思っているのでしょう。すでに皇位につきながら即位式を行っていなかった人物は」 
                    「もちろん、ライケンの保護が無くなったら真っ先に俺を殺しに来るだろう」 
                    「いったいご兄弟のうち誰が即位するのですか」 
                    「ハイ・レイヴォンだ」 
                    「それはご兄弟のうちの誰なんです」 
                     ムライアックはきょとんとした。 
                    「知らん、皇帝になれば名前が変わる。俺は兄や弟の幼名しか知らん。それより早く俺を安全な場所に連れて行ってくれ。グラン・エルバ・ソンタールの貴族達には常に反体制の者がいる。そういった勢力と連絡を取れれば今のソンタールが少しは変わるかもしれん」 
                     エラクがうなずいた。 
                    「そうしましょう。それにもしかしたら今度即位する皇帝がガザヴォックやハルバルトの傀儡である可能性もあります。もし先代皇帝の子で無ければ、あなたはシャンダイアの力を借りて簒奪者を追放できる」 
                     ムライアックはため息をついた。 
                    「そうなれば良いが」 
                     ライケンが出撃した翌日。アシュアン伯爵、エラク伯爵、マスター・モント、皇子ムライアックの四人は、マスター・ケイフの用意した船でこっそりとユマール大陸を脱出してエルセントに向かった。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     聖なる巻物の守護者スハーラの父親であるサルパートのレリス侯爵は、カインザー軍への補給の準備のためにサルパート山脈の東側を北へ南へと奔走した。そし数か月後、ようやく準備を整えて赤の要塞にがんばっている聖王マキアの元に戻った。レリスが要塞の上階にある王の部屋に入ると、マキア王はいつものように椅子に寝そべるように腰掛けて、本を読みふけっていた。レリスはせきばらいを一つして王に声をかけた。 
                    「王、トルソン侯爵とベーレンス伯爵の軍が発進するそうです」 
                     読書中の王は目も上げずに応えた。 
                    「ふむ。補給の準備はどうだ」 
                    「万端整いました。十四万の軍の移動にあわせてこちらの補給路も動きます。サルパートとカインザーを合わせた物資は充分に用意出来ました」 
                    「よし」 
                     マキア王はそれきり興味を失ったように本に集中した。レリス侯爵は不思議な王だと思った。その気配を察したマキア王はジロリとレリスを見上げた。 
                    「何だ、まだ何か用か」 
                    「王として、何かをしてみようとはお思いになりませんか。命令とか視察とか」 
                    「サルパートの民が万全の準備を整えたんだぞ。俺が何をする必要があるんだ」 
                    「それはそうですな」 
                    「どうせ民衆は王など信じておらん。せめて俺が民衆を信じてやらないでどうする」 
                    「なる程」 
                     マキア王は手にしていた本を隣のソファーにポンと放り投げた。 
                    「レリス、冷静になれ。サルパートの民は現実的で堅実である事が特徴だ。俺達が冷静に頭を使えるから三千年間もシャンダイアは戦ってこられた。カインザーの戦士達だけだったら、とっくにシャンダイア等ソンタールに攻め滅ぼされている」 
                    「はい、王。よくわかっております」 
                     マキア王は続けた。 
                    「少し乱暴者の息子に影響され始めてるんじゃないか」 
                    「息子ですか、いえ、私に息子はおりませんが」 
                    「スハーラは娘だろう、ならばザイマンのブライスは息子だろう」 
                     レリスはたじろいだ。 
                    「い、いえ。まあ、そうなるはずですが」 
                     マキア王はニヤリとした。 
                    「まだ結婚式を挙げていなかったな。いつ挙げる」 
                    「王、これから大きな戦いが始まるのですよ。いつになるかわかりません」 
                    「だが、スハーラとブライスは一緒にいる。今頃はエルセントだ」 
                    「何をおっしゃりたいのですか」 
                    「エスタフを送り込め。エルセントで式を挙げさせてしまえ」 
                    「あの神官長がわざわざ戦場に行くはずが無いでしょう。それに私の気持ちにもなってください、娘の結婚式にくらいは出席したいと思います」 
                     マキア王は髭の無いあごをかいた。 
                    「ならばお前も行く方法を考えろ。そうすればスハーラとブライスを結婚させて、ついでにエスタフをしばらくサルパートから追い出していられる」 
                    「ふううむ」 
                     レリス侯爵も少し真面目に考え込んだ。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     緑の要塞に攻め寄せたソンタール軍の総大将マング・ジョール侯爵は、小さいながらも綺麗に模様が施されたテーブルを前にして朝食を食べていた。向かい側には息子のラムレスとその友人のクラウス・ゼンダが座っている。その時、陣全体がざわめきだした。これ程の大軍になると、わずかな動きも騒然とした大騒ぎに聞こえる。マングは駆け込んで来た部下に静かに尋ねた。 
                    「何事だ」 
                    「敵が近づいています」 
                     マングは水の入ったコップを置いて、胸にかけたナプキンで口をぬぐった。 
                    「数はどのくらいだ」 
                    「それが、約千四百」 
                     マングは耳を疑った。 
                    「千四百だと」 
                     ジョールは同席していた、ラムレスとクラウスを見た。 
                    「どう思う」 
                     ラムレスは隣のクラウスを見た。 
                    「どう思う」 
                     マングは口ごもったクラウスに手を振った。 
                    「遠慮するな。君の参戦を許したのはラムレスの友人という理由だけでは無い。サルパートのサムサラで直接カインザーの貴族と戦った経験を活かして欲しいと思っているんだよ。傭兵のガッゼンもしかり」 
                     ラムレスは笑った。 
                    「オルソート伯爵はガッゼンを評価していないみたいですよ」 
                    「彼は、傭兵を嫌っている」 
                    「クラウスと陣替えしましょう。ガッゼンを僕の隣に持ってきたほうが喧嘩が起きなくていい」 
                     マングは部下に髭を整えさせながら言った。 
                    「いや、オルソートとガッゼンは独立して戦える。お前とクラウスを引き離して、お互いに心配されては軍を動かす邪魔になる。話を戻すぞクラウス、千四百のカインザー兵をどう思う」 
                     クラウスは慎重に口を開いた。 
                    「おそらくは偵察でしょう。でもカインザーの九諸侯の誰かが率いているのであれば、今のうちに全力をあげて全滅させる事をお勧めいたします」 
                     マングはうなずいた。 
                    「戦場においてはきわめて有意義な意見だ」 
                     侯爵は部下を見た。 
                    「そのカインザー兵はどんな様子だ」 
                    「赤い鎧の兵千二百と黒い軽装の兵二百」 
                     それを聞いたクラウスの手が震えた。 
                    「赤い鎧の兵はクライバー男爵だ」 
                     ラムレスが手を叩いた。 
                    「いきなり勇将のおでましだ。黒い二百は誰だろう」 
                    「わからない。でもクライバー男爵はどうしてもここで殺したほうがいい」 
                    「よし」 
                     マング・ジョールがそう言ったところにオルソート伯爵が入ってきた。細身のいかにも貴族然とした品の良い初老の紳士だ。 
                    「敵が来たそうだな」 
                    「偵察だと思う。だが、優秀なクラウスは全力でつぶせと進言してくれた。出撃だ」 
                    「ならばわしが行く」 
                     マングは眉を上げた。 
                    「やらせてくれマング、隣で傭兵どもがわしらの兵を馬鹿にしている。わしらだとて実戦で戦える事を見せてやる。それに相手は寡兵だ」 
                     マングはうなずいた。 
                    「頼む。一兵も残すな」 
                     オルソート伯爵は急ぎ足で出て行った。マングは息子達を振り向いた。 
                    「先は長い。まずは我が友人の手並みを見てみよう。間違っても傷はほとんど無いはずだ」 
                     クラウスは心配そうだった。 
                    「ならば良いのですが、敵の数は五、六倍には見積もったほうが良いですよ」 
                    「その敵の実力も見てみたい」 
                     
                     三百人の部下を引き連れてクライバーとベロフの後を追いかけた元山賊の頭バンドンは、ちょうど小高い山の間を通る比較的幅の狭い道にさしかかった所で部下達を止めた。 
                    「クライバー達に半日の遅れ、ここまで一日。クライバーとベロフは明日にも敵に遭遇する。明後日にはここを逃げ帰る」 
                     横で部下が笑った。 
                    「てこたあ、ここで二人の男爵の後を追いかけて来る奴らを防げばいいって事だ」 
                    「そうだ。近所の村を駆け回ってロープを集めて持ってきた網を結べ。左右の林の下生えを切り払って、大弓をつくれ。男爵達が通り過ぎたら、左右からこの道に網をかける」 
                    「簡単に切り払われちまうでしょう」 
                     バンドンはニヤリとした。 
                    「ザイマンのニガッソ男爵がいいものを持ってたんだ。夏場の虫対策の香草だ。網にこいつを縛り付けて火をかけろ。猛烈な臭いがして、しばらく馬が嫌がって通れない。防ぐのは数時間でいい」 
                     バンドンの部下は手際よく準備を始めた。 
                     
                     ベロフは動きを止めたジョール軍の雲霞のような軍勢の中にガッゼンの傭兵部隊を探した。斥候の報告では向かって左側に進軍してくるはずである。ベロフが抜刀隊に突撃を命じようとした時、磨き抜かれた鎧の一軍が色鮮やかな鳥の旗を掲げて前に出て来た。本隊のジョールの鹿の旗は動いていない。ベロフは後ろにいるクライバーにどなった。 
                    「あれはゼンダか」 
                    「いや違う。ゼンダは大熊の旗だ。オルソートという貴族だろう」 
                    「邪魔な」 
                     べロフの抜刀隊を頭にした千四百の騎馬部隊は、オルソート軍の中央からやや左寄りを軽々と粉砕して突破した。前方に傭兵軍、右にマング・ジョールの本隊、そして背後にオルソート軍を背負う。クライバーが馬を走らせるベロフに向かって叫んだ。 
                    「ベロフ」 
                     ベロフはジロリとクライバーを睨むと、馬を止めた。馬の足元の土埃が傭兵部隊の方向に流れて消える。ジョール本隊のざわめき、後方のオルソート軍の混乱。しかし傭兵部隊に音は無い。 
                    「師匠、帰ろう」 
                     クライバーは数年前まで使っていた呼び名で呼びかけた。ベロフはうむとうなずいた。そして再びオルソート軍を突破して帰還の途についた。ジョール軍の左翼でこの展開を見ていたクラウスは隣にいた従兄弟で参謀のダイレスに叫んだ。 
                    「追うぞ」 
                    「御意」 
                     ダイレスは足が速い騎馬隊五千に追撃の命令を出そうとした。そこに最高指揮官のマング・ジョールの使者が来た。 
                    「追撃はお控えください」 
                    「なぜだ。今倒さなければ後で必ず災いとなる」 
                    「今、あなたが進めばオルソート様の面子がつぶれてしまいます」 
                    「何て事を」 
                     しかし結局クラウスは追う事が出来なかった。その後、ジョール軍全軍が進軍を開始したが、待ちかまえていたバンドン達の妨害で思うように進めず、ベロフ達は無事に要塞に逃げ込んでいる。そして四日後、いよいよジョール軍が緑の要塞に押し寄せた。 
                     
                     要塞軍の総大将デル・ゲイブは会議室のベランダに立って、要塞を包囲した大軍を見回した。ソンタール軍は要塞をびっしりと取り囲むように布陣し、両翼は海岸線にまで長く伸びている。デルは太めの腹を叩いた。 
                    「来たな」 
                     そして左に立つバイルン、ベロフ、クライバーの三将を見た。三人の後ろにはバンドンとニガッソ男爵が立っている。 
                    「ブライスならそれなりに戦闘の指揮をしたのだろうが、残念ながら俺は陸戦はさっぱりわからん。海戦ですら怪しいくらいだ。当面の指揮は頼む」 
                     バイルンが答えた。 
                    「おまかせください」 
                    「無理はするな。ザイマン人からみればこの要塞は海を背にした最前線に過ぎない。損害をあまり出す前に海に出る。二月もすればカインザーからの援軍が来る。反撃はそれからでいい」 
                    「わかりました。それまで存分に楽しませてもらいましょう」 
                     ベロフがソンタール軍の海岸線に沿って薄く長く伸びた野営地を指差した。 
                    「なんともまずい布陣だ。まずは広い海岸線を船で移動して両翼をいじめてやりましょう。こちらは好きな所を攻められる」 
                     クライバーが敵の旗を確認した。 
                    「思った通りだ。海岸に陣を敷いたのは向かって右がマング・ジョールの息子。左がオルソート伯爵。戦慣れしたゼンダとガッゼンは海岸と陣の間にかなり距離を置いている」 
                     デルは右に立つベゼラのほうを向いた。 
                    「艦船の整備は」 
                    「完了しました」 
                     バイルンはベロフを睨んだ。 
                    「いいか、まず狙いは海岸線の兵だ。深入りして傭兵部隊に突っ込んだりするなよ」 
                     ベロフは何か言いかけたが、クライバーに肩を叩かれた。 
                    「ガッゼンはその時が来たら、正々堂々正面からうち破ればいいでしょう」 
                     ベロフはうなずいた。海岸線の彼方でソチャプの蔦が揺れている。こうして緑の要塞の攻防戦が開始された。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     セルダン王子とエルネイア姫とマスター・メソルはミルトラの泉を出発した。 
                     帰りの馬車では、セルダンはエルネイアと並んで馬車の席に座る事にした。並んで、同じ風景を同じ方向から眺めるというだけの事で、これ程満ち足りた気分になれるとはセルダンには意外だった。 
                     メソルは帰りは馬を選んだ。バリオラ神が力を取り戻したと知って以来、このバルトールマスターはすっかり狡猾な女海賊に戻ったように見えた。エルネイアは休憩や宿泊の度にこの知識に満ちた経験豊かな女性と楽しそうに話し込んでいたが、セルダンはその光景を見て内心おだやかでは無かった。ある時、メソルがセルダンに話しかけた。 
                    「どうした王子」 
                    「いえ、何も」 
                    「エルがあたしの悪影響を受けないかと心配かい。安心おし、あの娘は他人に影響される程子供じゃない。でも、あんたの助けを必要としているよ」 
                    「たぶん、これからは一緒に行動出来ると思います」 
                    「だといいね」 
                     話題を変えるためにセルダンはメソルに尋ねた。 
                    「一つわからない事があるんです。バリオラ神はミルトラ神の事を姉って呼んでいましたよね、女神の姉妹関係ってどうやって決まるのですか」 
                     メソルが眉を寄せた。 
                    「私も不思議だったんだが、後から生まれたほうが上なんだそうな。神の力は生まれた時から失われ始めるので、より若いほうが強いらしい。もっとも実質的には力の差などは無いんだろうが、ようするにちょっとしたこだわりだろう」 
                    「ふううん」 
                     二人は妙に納得した。 
                    「ところであたしは、エルセントには寄らないで真っすぐにロッグに向かう事にしたよ」 
                    「そうなんですか」 
                     メソルは楽しそうに笑った。 
                    「心細そうな顔をするんじゃ無い。一時もバリオラ神の元を離れていたくないのさ。それに巫女がいなければバルトールの再興は無い」 
                    「それではナバーロという神官の方にもよろしくお伝えください」 
                    「まさか歴史上の神官長に会えるとは思っていなかった。それも楽しみだ」 
                    翌朝早く、マスター・メソルはロッグに向かって分かれて行った。 
                     
                     旅を急いでセルダンとエルネイアはエルガサール城に戻った。馬車を降りてマルヴェスターを探すため城内を歩き回っていると、カンカンに怒ったトーム・ザンプタが磨き抜かれた廊下を向こうからやって来た。ザンプタはセルダンを見るなりぶちまけた。 
                    「あの馬鹿どもが」 
                    「どうしたんですか」 
                    「南の将の要塞に残してきた連中だ。ソチャプを武器に使いたいと言ってきおった」 
                     セルダンは緊張した。 
                    「なる程、要塞にもソンタール軍が向かったんですね」 
                    「許さんぞ」 
                    「でもあそこに残してきた連中ならば何でもしますよ。それにたぶん父のオルドン王以外の命令は聞かないでしょう」 
                     ザンプタは両手の爪で空中をかきむしった。 
                    「くわあああ、わしに戻ってくれとも言ってきたがそうもいかん。いったいミリアはどこに行ってしまったんだ」 
                     そう言いながら、ザンプタは体のどこからか水を噴き出して廊下を汚しながら去って行った。セルダンはエルネイアに言った。 
                    「レンゼン王に帰還の報告をしてこよう」 
                    「そうね。その後はスハーラと服を選ばないと。シムラーって北の果てで寒そうだもん」 
                     そしてセルダンの不安そうな顔を見て不吉に笑った。 
                    「あたしとスハーラがあなたとブライスに寒い格好をさせない事は約束するわ。もちろんベリックもよ」 
                     
                     シムラーに向かう予定の旅の仲間達はほぼ準備を終えていた。エルネイア姫が戻った以上、一刻も早く出発する必要があるのだ。そんな忙しそうな城の中、ベリックとの舞の訓練に疲れた体を引きずってアントン少年はマルヴェスターの元に行った。マルヴェスターは厩でアーヤの乗馬のフオラを調べている所だった。老魔術師はアントンを見るなり言った。 
                    「よくこの馬を連れて来る事を思いついたな。帰りにアーヤが乗るからシムラーにも連れて行こう」 
                    「僕も連れて行ってください。僕は誓ったんです。女王が再び笑顔を取り戻す日まで命に代えても守り続けるって」 
                     マルヴェスターは首を振った。 
                    「駄目だ。シムラーは危険と魔法でいっぱいの島なのだ。セルダン達にまかせておきなさい」 
                     アントンは悲しそうな顔をしたが、懐に手を入れてマルヴェスターに小さな箱を手渡した。 
                    「ドラティの鎖です」 
                     マルヴェスターはうなずいて箱を受け取った。 
                    「お前は賢い子だな。いずれシャンダイアで重要な役割を担うだろう」 
                    「それには女王が回復しないといけません」 
                    「そうだ。そしてこのセントーンが陥落しない事も大切なのだ。頼むぞ、これから二か月の間は聖宝の守護者がいなくなる。全力で守ってくれ」 
                    「はい。おまかせください」 
                    「さすが勇将レド・クライバーの子だな」 
                     アントンはそう言われて嬉しそうだった。 
                     
                     セルダン達が戻った翌朝、寝坊助のブライスがなぜか早々と目をさました。そして起きあがって背中をボリボリかきながらひとりごちた。 
                    「こういう時は大抵」 
                     のっそりとベランダに出たブライスを、黄色いドレス姿の暁の女神エルディが待っていた。 
                    「おはようブライス」 
                    「遠路はるばるお疲れ様です」 
                    「バリオラ姉さんの力が戻りつつあるので、このあたりまで来るのが楽になったの。でもソンタールの攻撃が始まれば、またここにバステラ神の力が広がって来る事が難しくなる」 
                    「ついに来ますか」 
                    「ユマールの将ライケンが出撃したわ。四百隻の大艦隊よ。海流に沿って少し南下してから、ドン・サントスの支配するグーノス島あたりで西に向きを変えてここに押し寄せる」 
                    「四百か。たいへんな数だ」 
                     エルディは手すりに絡まる蔦の葉の裏で眠っていた蝶をそっと起こした。 
                    「以前にエルセントに来る前、海底都市トンポ・ダ・ガンダであなたに会った時に私が言った事を覚えているかしら」 
                    「親父の元に急いで帰れと言ってましたね。俺たちは急いでザイマンに戻った」 
                     エルディは珍しく辛そうな顔をした。 
                    「また同じ事を私が言いたがっているとしたらどうする」 
                    「まさか、親父がまた何かをやりだしたんですか」 
                    「ザイマン中の船を集めて艦隊を組んで出航したの。北に向かって流れる海流に乗っておそらくグーノス島の西でライケンの艦隊と遭遇するはずよ」 
                    「ばかな。ザイマンのほとんどの船は今、デルの手元にある」 
                    「ええ、まともな戦艦は王家の数隻だけ。後は商船、漁船の改造したもの。それでも数は百五十に満たない」 
                    「全滅だ」 
                    「ドレアントはそのつもりだわ。若い船乗りや戦士はあなたと一緒に南の将との戦いに参戦したので、今度の艦隊に乗っているのは皆年輩の者ばかり。全員死ぬ覚悟よ」 
                    「しかし俺はザイマンに戻るわけにはいかない。シムラーに行かなければアーヤが死んでしまう、女王を死なせるわけにはいかない」 
                    「そう。だから戻れないのはわかっている。あなたにも覚悟して欲しいの。もうザイマンの王はあなたよ」 
                    「わかった」 
                     エルディはそっと後ろからブライスに腕をまわすと消えた。ブライスは南の空を見上げて涙を止める事が出来なかった。 
                     
                     その日の昼過ぎ、ザイマンの高速艇の前に剣の守護者セルダン、冠の守護者ブライス、短剣の守護者ベリック、盾の守護者エルネイア、巻物の守護者スハーラの五人が立った。その後ろに指輪の守護者アーヤを抱いたクラハーン神の神官デクトと、魔術師マルヴェスターが立つ。見送るのはセントーンのレンゼン王、ゼリドル王子、魔術師トーム・ザンプタ、アントン、マスター・リケル、フスツと四人の部下達。そしてその前に、吟遊詩人サシ・カシュウが進み出た。サシは胸に手を当てて朗々とした声で旅人の無事を願う歌を歌った。その歌声を聞きながらセルダンはなぜか暑いと思った。 
                    (僕が旅立つ時はいつも夏だ) 
                     やがておだやかな海面に心地よい南風が吹き始めた。旅人達を送る風を受けてセルダン達は北の果てシムラー目指して出航した。 
                     
                     ・・・・・・ 
                     
                     マスター・トンイの元で復興が始まった北の都ロッグに、世界中から続々とバルトール人達が戻りつつある。夏でも蒸し暑くはならずに、むしろ時折涼しい風が吹くはずのロッグだが、今年ロッグに冷たい風は吹かなかった。踊りと激情の女神バリオラの力が戻ってきたのだ。 
                     瓦礫の山だった聖堂の再建の指揮をしていたバリオラ神の神官ナバーロは、額の汗をぬぐって青い空を仰いだ。そして後ろに立つ人影に話しかけた。人影は若い女性で、顔はヴェールで隠している。 
                    「ロッグが暖かいうちに私は眠りたいと思います」 
                     後ろに立つ人影はやさしく言った。 
                    「お前に寒い日々は二度と来ないよ」 
                    「もうすぐ巫女の長、マスター・メソルが戻るでしょう。そうしたらおいとまごいをさせてください」 
                     人影はナバーロの肩にそっと触れた。ナバーロが深く息をした。 
                    「おお、疲れが消えた。ずいぶん楽になりました」 
                     若い女性はゆっくりとナバーロの横に並んだ。 
                    「お前に最後の仕事を頼みたい」 
                    「この老体にまだお役に立てる事がございましたか」 
                    「遠くサルパートの峰からエイトリの声が届いた。もうすぐここにクチュクという商人に連れられてベリックの后となるかもしれぬ娘と、一人の少年がやって来る」 
                    「おお、王に早くもお后が」 
                    「娘の世話はメソルが見るだろう。お前はその少年を神官として教育して欲しい。しばらくベリックの身替わりをしていた賢い子だそうだ」 
                     ナバーロの顔に笑みが広がった。 
                    「その仕事が残ってございました。神官を育てないといけません」 
                    「頼むぞ。それでは私はボックの屋敷跡を見てくる」 
                     ナバーロの顔にまた悲しみがよぎった。 
                    「ボックの魂はまだ救えませんか」 
                    「ベリックがもう一度ここに戻ってくるまでは。だがそれも遠い日ではあるまい」 
                     そう言って人影は静かに去った。 
                     
                     ロッグの西、美しき大都市リナレヌナを守るようにカインザーのロッティ子爵とロッグのマスター・トンイの軍が布陣している。リナレヌナの南、約十キロの地点にソンタール帝国からランスタイン大山脈を越えて来る街道の出口がある。ロッティは街道の出口付近の両側に周到に兵を配置した。長大な列になってやって来る敵を両側から攻撃し、浮き足だって出口に急ぎ出したら後方からリナレヌナの前に追い出して包囲して殲滅するのだ。十二万のソンタール軍はもう数日の所まで来ているはずだった。兵の配置を見回っていたロッティの元にマスター・トンイがポクポクと馬を進めてやって来た。 
                    「ロッティ子爵、妙な事態になってきました」 
                    「ん、どうした」 
                    「敵が止まりました」 
                    「何」 
                    「山から降りて来ません」 
                     ロッティはランスタインの頂を見上げた。 
                    「降りてこないだと」 
                    「ええ、どうやら敵はこちらの意図に気づいたようです。それでも、数にまかせてやってくると思ったのですが、あと四日の所でピタリと止まりました」 
                     ロッティは風の匂いをかいだ。 
                    「もう夏だ」 
                    「そうです。敵にとっては幸いに山は夏の過ごしやすい気候。補給は後方からいくらでも出来ますので、短くてもあと三か月は上で頑張れます」 
                     ロッティは首を振った。 
                    「こっちはそんなに待てないぞ。一刻も早くセントーンに行かなければならない」 
                    「はい。やっかいな事になってまいりました」 
                     ロッティの表情がけわしくなった。 
                    「これは俺が敵をなめていた。敵の指揮官の名前は聞いていたよな」 
                    「はい。パール・デルボーンと言います」 
                    「その男に関する詳しい情報が必要だ」 
                    「それが、私どもの情報網でもよく正体が掴めていない人物なんです。東西南北にユマールを加えた五将以外の軍隊で十万を越す大軍と言えば、通常複数の貴族の連合軍です。ところが今回の十二万は一人の人物が率いているんです」 
                    「パールとは何者だ。ソンタールの五将のうちで生き残っている三人はセントーンを包囲している。他にここまで思い切った作戦を取れる人物がいたのか」 
                     トンイがつばを飲み込んだ。 
                    「わかりません。貴族ですが、デルボーン男爵家はそれ程家柄が高いわけでは無い。実戦の手柄も聞きません。グラン・エルバ・ソンタールのマスター・ジザレならばあるいは何か掴んでいるかもしれませんが、彼は何を考えているのか何の情報も送ってこない」 
                     ロッティはもう一度ランスタインの山々を見上げた。 
                    「情報無しか、これは考えようによっては五将より扱いが難しいかもしれないな」 
                     
                     そのランスタイン山脈の街道の上で震えている男がいる。まだ若い、おそらくは二十代の後半と言ったところだろう。体を柔軟に動かせるために奇妙な鱗のような銀色の鎧を着ている。宝石を散りばめたヘアバンドに短めの金髪。鞍の両側には先がふくらんだ短い槍がズラリとさげられている。これが男の得意の武器投げ槍だ。男は山道に白いうさぎを見つけておもむろに槍を投げた。槍は一撃でうさぎを地面に串刺しにした。 
                    「取ってこい」 
                     男は部下が取ってきたうさぎを槍からはずすと騎乗していた生物の口元に押しつけた。生物は長い舌でうさぎを絡めとるとバリバリとかみ砕いた。大型の牛のようなこの生物は魔法学校から送られたものである。男は部下にどなった。 
                    「おい寒いぞ。夏だからって、やっぱり寒いじゃねえか」 
                     横にまるで、友人のように並んでいた四人の部下は笑った。 
                    「でも冬よりははるかに良いでしょう、事実我々は寒くありません。パール様が寒がりなんです」 
                     パールと呼ばれた男は驚いたように部下を見た。 
                    「そうなのか」 
                    「たぶん。そんなに寒いならば山を降りて、一気にリナレヌナにいる敵を殲滅してしまいましょう」 
                     パールは体に腕をまわしてクションと一つクシャミをして首を振った。 
                    「駄目だ。相手はカインザー軍だ。ノコノコと一直線に街道を進んで平野に出たところで皆殺しになっちまう。ソンタールの兵はそんなに強く無い」 
                     部下は残念そうな顔をした。 
                    「しかし我々はそれ程弱くありませんよ」 
                    「そいつは、ソンタールの中での事だろう。ここで待つ。待っている限り負けない」 
                    「しかし勝てません」 
                    「当分それでいいよ。敵がどう動くか見てみよう。それより、瓜を持ってきてくれ。あれはうまい」 
                     パールは持ってこさせた瓜を部下にも勧めてガツガツと食べた。そして種を眼下のリナレヌナに向かってはき出した。 
                    「あの月の門が、俺の未来への門になる」 
                     部下が不満気に文句を言った。 
                    「やっぱり攻めないと未来はきませんよ」 
                    「じゃあ攻める。だけどもうちょっと待て、東の将キルティアから連絡が入った。魔法使いのテイリンがこっちに帰って来る」 
                    「小鬼の魔法使いですか、マコーキン様が欲しがってグルバ様に連絡を送ったと聞きましたけど」 
                    「だがグルバは死んだ。おそらくテイリンはマコーキンの呼び出しを知らない。ちょっと借りてもマコーキンは文句を言わないだろう」 
                     部下が隣で瓜を食べて、うまいとうなってから言った。 
                    「それならばもうちょっと東に行かないと」 
                    「えっ」 
                    「だってゾックの繁殖地はもっと東の旧月光の将の要塞の近くだったはずです」 
                     パールは唇をとがらせた。 
                    「これは困った。東に行きたいが、この数じゃ街道以外の道は取れない」 
                     そう言いながらソンタールで密かに六番目の将と呼ばれている男は東の山並を睨んだ。 
                   
                   (シャンダイア物語 第四部 打ち捨てられた都 完結) 
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