| 
			
			  夕暮れだった。太陽はダワの町の背後から薄暗い湾内を照らしている。緑色の堅い皮膚をしたホックノック族の姿になったトーム・ザンプタは、港の海面に顔を出してぐるりと辺りを見回した。手を海面に出すと、体をぴったりと包んでいる気泡の上をコロコロと水滴が落ちる。 
			   海面には所々赤い筋のようなものが浮いていた。日ましにその数が多くなっている。グリム虫は海水では長く生きられないが、死んでもその色は赤い。ザンプタは湾内を埋め尽くすユマール艦隊の黒々とした巨大な影を見上げた。 
			  (ライケンもさすがに異変に気づいただろう。これはすでにシャンダイアとソンタールの戦争を超えた災害だ) 
			   湾内をしばらく泳いだ後、さらにグリムの毒の濃度が高いトラム川に入った魔術師は、河口付近の岸辺に黒い衣をまとった人影を見つけてその近くの岸に上がった。そして瞬く間に人の姿を整えると、その人影にゆっくりと近寄った。夕日を浴びて黒い頭巾から流れ出た黒髪が鮮やかな橙色に光っている。しかしその姿からは闇の世界の魔力が感じられ、その力の禍々しさにザンプタは驚いた。 
			  「お前さん、並大抵の魔力の持ち主では無いな」 
			   黒い衣の人影が頭巾をはねのけると、真っ白な頬の美しい顔が現れた。黒い瞳の女は悲しそうに言った。 
			  「ついにここまで毒が来てしまいました」 
			   ザンプタは合点がいった。 
			  「成る程、お前が黒い巻物の魔法使いレリーバだな。しかしこの毒は自分で流したのだろう」 
			   黒い巻物の魔法使いは首を振った。 
			  「いいえ、この毒を流したのは二人の姉です」 
			  「姉妹は三人だけか」 
			   レリーバはコクリとうなずいた。そしてうつむくと川に向かって座り込んだ。ザンプタも隣に座った。 
			  「わしは長いことザイマンの奥地の沼に棲んでおった。だからこの世界の出来事をあまりよくは知らん。だが三人の娘が強大な魔法を手に入れたという話は風の噂に聞いた事がある」 
			  「力は手に入りました」 
			   レリーバはそう言って両手を見つめた。 
			  「その手の中の何を失った」 
			  「すべてです」 
			   その時、女の気配が変わった。警戒したザンプタは立ち上がって距離を取った。女の瞳が赤くなり、面白そうな声で言った。 
			  「いいや、失ったのでは無い。捨てたのだ」 
			   ザンプタは驚いて女を観察した。すると女の瞳が金色になった。 
			  「シュシュシュ・フストか、これは面白い。魔法比べと行こうではないか」 
			   ザンプタはつばを吐くと、後ろに跳びすさった。そしてポンポンと軽く足を踏み替えて身構えた。 
			  「なる程、三人か。黒い巻物の魔法使いレリーバとは三姉妹が一体になった怪物であったか」 
			   突然レリーバの黒髪がサラサラと伸びると渦を描くようにザンプタに襲いかかった。しかしザンプタはつまらなそうにその毛先を片手ではじいた。レリーバは驚いた。 
			  「何をした」 
			  「黒髪の魔法は人間の男にしか効かん。その位の事も知らんのか」 
			  「なる程」 
			   赤い瞳になったレリーバが感心したように言って指を振ると、ザンプタの足元が緑色の毒の水たまりになって煮え立つように泡を浮かべた。ザンプタは足を気泡でくるんで水たまりに浮かんだ。 
			  「どうやらわしとは魔法の相性が悪いようだなレリーバ。わしは水と水の中の空気を自在に操る。毒はほとんどの場合、水を使ってその効果を伝える。お前の美しい体を使った魔法も、人間の男にならば効果があるだろうが、わしは人間では無い」 
			   赤い瞳のレリーバが考え込んだ。 
			  「殺す前に話がしてみたくなった」 
			  「話し合いにはわしも賛成だ、こんな所で余計な魔力は使いたくない。お前さんはこの川のグリム虫を消せるか」 
			   ザンプタが川面を指差すと、金色の瞳がはじかれたように大笑いした。 
			  「消すだと。グリムは悪魔の虫だ、一度発生すれば余程の事が無いと消えない。かつてこれ程の規模で発生した事は無いだろう。消し方はこっちが聞きたいねえ」 
			   ザンプタは恐ろしい形相になった。 
			  「ならば、わしがこの川の毒を消すしかないな」 
			  「ははっ、そんな事出来ないね」 
			  「始祖の生き物をみくびるでないぞ」 
			   レリーバの瞳が黒くなった。そこには涙が浮かんでいた。 
			  「よろしくお願いします。もうあなたしかいない」 
			   ザンプタはその時何かを思い出したが、それが何かよくわからなかった。うーんとうなって、記憶を探るように空を見上げたがやはり思い出せなかった。 
			  「お前さん、ミリアに会った事はあるか」 
			  「翼の神の弟子ですか。いいえ」 
			  「バルトールの情報網によると、どうもマコーキンの所にいるらしい。機会があったら寄ってみるがいい」 
			  「どうしてですか」 
			  「わしはザイマンにこもった後の事はよく知らない。しかし最近マルヴェスターと色々と話をして情報を仕入れた。その時に聞いたような気がするのだが、ミリアがタルミの里で何かをしたらしい。タルミの里は魔法を手にした三人の娘の出身地だ」 
			   赤い瞳になったレリーバがせせら笑った。 
			  「育ちの良い女魔術師に何が出来たって言うんだい」 
			  「わしもよく思い出せんのだ。その時はマルヴェスターもわしも、さほど重要な話だとは思っていなかった。ただ三人の娘の話に関して、三人の男の話が出てきたはずだ」 
			   レリーバの顔色が変わった。 
			  「ばかな」 
			   ザンプタは軽く手をあげてレリーバを制した。 
			  「年頃の娘が三人、突然故郷を離れた。追いかけようとする男がいてもおかしくはあるまい」 
			  「しかし殺されてしまう」 
			   これにはザンプタが驚いた。 
			  「お前さん、タルミの里を離れた後の事をどれ位知っているんだ」 
			   赤い瞳のままレリーバは首を振った。 
			  「ほとんど知らない。だがもうどうにもならない、二百年も昔の出来事だ」 
			  「わしはこの星の最初の生き物だから人間の時間感覚はよくわからん。だが魔法にかかれば二百年などあっという間だろう。体はそのままではなくても、魂が転生するかもしれん。ミリアは翼の神の弟子だから、その程度の事はしてのけるかもしれんぞ」 
			   レリーバの白い頬がひきつるように震えた。赤い瞳から涙が流れ、それは金色の瞳になっても黒い瞳になっても止まる事が無かった。 
			   日が落ちた。夜を告げる港の鐘の音の中、一つの影は北に歩き出し、もう一つの影は川に飛び込んだ。 
			 その夜も鉄豚亭に前夜と同じメンバーが集まった。ザンプタは開口一番、ブライスとベリックの二人の王に告げた。 
			  「わしはトラム川の毒の浄化のために上流に向かう。お前達はダワを初めとするトラム川流域の町や村から、人々を避難させてくれ」 
			   ブライスが肩をすくめた。 
			  「おおっぴらにそんな事をすれば、ユマールの将ライケンに気付かれちまうぜ」 
			  「ふむ。そこから先はお前さんたちが考えてくれ。わしはグリムの毒の事で頭がいっぱいだ」 
			   ベリックはうつむくと、小さな顔に険しい皺を刻んで考え込んだ。やがて意を決したように顔を上げて親友のアントンと目を合わせると、アントンがうなずいた。ベリックもうなずき返してブライスを見上げた。 
			  「方法は一つしか無いね」 
			  「どうするんだ」 
			  「ライケンと協力しあって避難するんだ」 
			   さすがのブライスとザンプタもこれを聞いて驚いた。 
			  「おい、さすがにそれは難しいぞ」 
			   これにはアントンが答えた。 
			  「もちろん聖宝の守護者の二人が表に出ちゃ駄目です。ここはバオマ男爵を町の責任者としてライケンに交渉に行ってもらうしかないでしょう。僕も付いて行きます」 
			   ザンプタがユマールの将の客となっている吟遊詩人サシ・カシュウに尋ねた。 
			  「ライケンとはどんな人物だ」 
			   サシの人間観察力には定評がある。 
			  「小柄ですが、見た目の良い人物でそれなりに威厳があります。しかし尊大で、かんしゃく持ち。権力を手に入れるためには陰謀でも暗殺でも、拷問でさえも平気で行いますが、芸術好きで必要の無い殺人はしません。あまり人の命に興味が無いのでしょう」 
			  「恐るべき俗物だな」 
			  「ええ、ソンタールの将の中では最も食えない人物です」 
			  「実直なバオマでは相手にならんな」 
			  「おそらく会ってもらう事も出来ないでしょう」 
			   ブライスがやれやれといった顔をした。 
			  「それでは俺しかいないだろう。ベリックのほうがうまく立ち回るかもしれんが、子供というだけで馬鹿にされる」 
			   サシは首をかしげた。 
			  「しかし、もしかしたらその場で殺されてしまうかもしれませんよ」 
			   部屋の入り口の扉の横でそれを聞いたフスツが、頬の傷をゆがめてナイフを取り出すとパチンと鳴らした。 
			  「俗物ならば一番大切なのは命」 
			   ザンプタもうなずいた。 
			  「その手しかあるまいな」 
			   ベリックがブライスのお尻をポンと叩いた。 
			  「僕の出番だ。僕とフスツ達でライケンの部屋に忍び込んで話をつける。サシ、手引きを頼む」 
			  「かしこまりました王」 
			   ブライスは少し憤慨したように言った。 
			  「あまり俺を用無しにするなよ」 
			   ザンプタがピタピタと大男に歩み寄った。 
			  「お前とライケンが顔をあわせるのはあまりに危険だ。南の将亡き後、この世界に残った三大艦隊の指導者のうちの二人だからな」 
			  「まあな。しかし、そのうち二つはソンタールだ。俺だってライケンを殺してやりたいよ」 
			  「お前さんは、アントンとバオマと一緒に住民を避難させる準備をしてくれ。わしはベリック達の話がついたらトラム川に入る」 
			  「それしか方法は無いのか」 
			  「さっきレリーバに会った。レリーバは自分にもグリムの毒は消せないと言っていた」 
			   部屋の中が凍り付いたようになった。ベリックが尋ねた。 
			  「レリーバがダワに来ているのですか」 
			  「ああ、だがもう北に去った。わしは戦う事も出来たが、力はすべてグリムの毒のために使いたい。アントン、マルヴェスターとミリアに使いを出してくれ。レリーバは三人の姉妹が一体になった魔女だと」 
			   少年はきょとんとした。 
			  「それはどういう事ですか」 
			  「わしにもわからん。とんでもない怪物だった。しかし三人のうちの一人はまともだ、その一人にミリアに会うように言っておいた」 
			  「ミリア様はマコーキンの元にいると、アタルスが伝えてきたんですよね」 
			  「そうだ、レリーバの事はミリア達にまかせよう」 
			   ザンプタはそう言った後、ベリックに近づくと耳元でささやいた。 
			  「エルセントに戻ったら、エルガデール城の裏庭の池のほとりに行ってみなさい」 
			   ベリックはハッとした。 
			  「ザンプタ、あなたは」  
			   ザンプタは厳しい声で命令した。 
			  「さあ、時間が無いぞ。もう何も言うな、各自急げ」 
			   ブライスとベリックが仲間達を引き連れて部屋を出て行くと、ザンプタは部屋のベランダに出て星を見上げた。 
			  (星に憧れ、花を愛した海の精霊が毒にまみれて川底で死ぬのか、まあそれも良いだろう) 
			   高い夜空に、星が一つ美しく流れた。 
			       (第六章に続く) 
			
			 |