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                    すでに秋風が肌に冷たい快晴の朝だった。 
                     トラゼール城の総大将ゼリドル王子は、崩れ落ちた断崖の縁に立って東の将キルティアの軍勢を見下ろしていた。眼下では黒い鎧の大軍が旗をかかげて戦歌を歌っている。その声が地鳴りのようにトラゼール城とそこに立て籠もる兵達を取り巻いていた。歌声には水が滝のように岩壁から流れ落ちる音も混じっている。ゼリドルの隣にいたベルガー子爵が崖の下を覗き込んで悔しげな表情を浮かべた。 
                    「ゼリドル様、水が尽きます」 
                    「残念だ。セルダンがシャンダイア軍を率いてグラン・エルバ・ソンタールに攻め上る時の先陣を務めたかったのに」 
                    「私も無念です。こうなったら兵に体力が残っているうちに総攻撃をかけて、キルティアの率いる兵を一人でも減らしてみせましょう」 
                     ゼリドルは首を振った。 
                    「いや、ならん」 
                    「それではここで力の続く限りキルティア軍を引きとめますか」 
                    「それもならん。もはやここでの抵抗は無意味となった、ここにいるセントーン軍の精鋭部隊を出来る限りエルセントに帰還させたい。撤退だ、すべての兵に支度をさせよ」 
                     翌日、撤退の準備を整えた全軍がトラゼール城の中庭に並んだ。ゼリドルは大声で共に戦ってきた兵達に告げた。 
                    「よいか、すでにトラゼールの盾は砕かれた。しかし我々には盾の都エルセントが残っている。生き延びよ、何としてでもエルセントに帰り着け、そして首都を敵の手から守るのだ」 
                     ベルガー子爵が叫んだ。 
                    「光の盾に栄光あれ」 
                     兵達の唱和と雄叫びが響き渡り、ゼリドルの号令が下った。 
                    「城門を開け、我が屍を踏み越えて進め」 
                   城門が開かれると、ゼリドル率いる騎馬隊が先頭に立って坂道を駆け下った。これまでの激しい戦いに生き残った八万の歩兵達も涙を風に散らしながらその後に従い、堅陣を組んで待ち構えていたキルティア軍にくさびのように突き刺さった。さしもの東の将の軍もその痛みにひるむように後退した。一度キルティア軍を圧倒した後、トラゼールの地形を熟知したゼリドル軍は幾隊にも分かれてトラゼール市街からの脱出を試みた。一方わずかな騎兵を率いたゼリドルは、紫のセントーン旗と盾の旗印をかかげてキルティアの本陣に向かった。 
                     一方、東の将の命令を受けたキルティア軍の兵士達は、自分達に向かって来る部隊の先頭を走る大柄な戦士に狙いを定めて襲いかかった。 
                     ゼリドルの美しい鎧はまたたく間に鮮血に染まり、雄々しい王子の行く手を阻んだキルティアの兵士達はバタバタと倒されていった。やがてキルティアの山猫の旗印が近付いた頃、ゼリドルの横に馬を並べていたベルガー子爵がうめいた。ゼリドルが顔を向けると、忠実な子爵のクビに深々と矢が突き刺さっていた。 
                    「ベルガー」 
                     ベルガー子爵はもんどりうって馬から落ち、そのまま息絶えた。ゼリドルは涙を振り絞って馬を進めた。それからどれだけの時間を敵と切り結んでいただろうか、ゼリドルはふと疲れたと思った。そして突然目の前が瞬くように白くなり、肩と腰に衝撃を感じた。馬から落ちたのだ。 
                     薄れそうな意識の中で懸命に目を開くと、しばらくして色彩が戻った。セントーンの王子は体を転がしてうつぶせになり、丁度右手の先に落ちていた剣を拾い上げると、それを杖に立ち上がった。すると、目の前に美しい赤髪の戦士が立っていた。ゼリドルは馴染みの顔を見付けて微笑んだ。 
                    「やあ、キルティア」 
                     キルティアも微笑んだ。 
                    「ゼリドル、ここまでよくぞ戦った。王子自らが囮になって兵を脱出させるとは驚いたぞ」 
                    「私が残れば君は私の所にやって来る、逃げ散った兵など追わない」 
                     キルティアは嬉しそうだった。 
                    「私の性格を理解してくれる男がいたとは驚きだ。しかしセントーンの王家の血とは囮に出来る程に軽いものなのか」 
                    「いや、私は王家ではない。我々はシャンダイア女王の家来に過ぎない。シャンダイア軍はカインザーのセルダンが率いるし、セントーンはしかるべき人物が候として治めるだろう」 
                     ゼリドルはそう言って剣を構えた。 
                    「キルティア、君と剣を交えるのは何度目であろうか」 
                     キルティアはカラカラと笑って剣を抜いた。 
                    「今、数えていたところだ。八回だよ」 
                    「そうか、俺が勝ったのが五回のはず」 
                    「ばかな、私が五回、そなたが三回だ」 
                     キルティアの横にいた部下がキルティアを止めようとしたが、東の将はうるさそうに手を振るとゼリドルの前に立った。そして愛おしそうにゼリドルを見つめた。 
                    「立っているのも辛そうだな、私から攻めてやろう」 
                    「光栄だ」 
                     キルティアは走り寄るとまっすぐにゼリドルの胴を突き刺した。すでに剣を持ち上げる力すら残っていなかったゼリドルは身をキルティアに預けるようにして力を失い、剣を落とした。キルティアはゼリドルの体を抱くように受け止めると、ゼリドルの耳元でささやいた。 
                    「私が嘘をついた。そなたの勝ちは五回、これで私が四回。これが最後の勝負ゆえ、我らの勝負はそなたの勝ちじゃ」 
                     ゼリドルは微笑むと息を引き取った。こうしてセントーン王国の柱、ゼリドル王子は戦場に倒れた。 
 東の将キルティアはゼリドルの体から引き抜いた剣を東の空に向けて、取り囲んだ兵達に向かって叫んだ。 
「残るはエルセント、いよいよセントーン王国の首都だ。ライケンもマコーキンもパールも来るであろう、油断するな、今ここにいる者以外はすべて敵だと思え」 
 トラゼールを陥落させたキルティア軍十五万は東に向けて進軍を開始した。一方、ゼリドルの元で戦っていた兵達の大半はトラゼール郊外に逃れ、一旦ミルバ川を遡って対岸に渡り、川を挟んでキルティア軍と平行するようにエルセントに向かった。 
 ・・・・・・・・・・ 
                   馬と話が出来る少女エレーデは、エルセントの中心に翼を広げた白い鳥のように築かれたエルガデール城の中庭にあるベンチに座っていた。智慧の峰サルパートの山賊の娘として生まれ、バルトール王の友人となり、叡智の神エイトリに出会い、打ち捨てられた都ロッグまで旅をして、そこから魔法使いに連れられて竜の背に乗ってやって来た。この城に集う若者達は皆不思議な運命を背負っているが、運命を受け入れて戦う訓練を受けていた。しかしいきなり運命に投げ込まれたために、心の準備が追いつかない少女はとまどっていた。 
                     中庭からは大きな城の窓が光を反射しながら並んでいるのが見えた。エレーデはその窓の列を眺めながら、初めてエルセントに降り立った日の事を思い出した。 
                     セントーン王国の首都エルセントは、高い空の上から見下ろしても、どこまで続いているのか果てが見えない程の大都市だった。古き竜ドラティの息子アンタルは、その街並みの上空で器用に旋回すると、都市の西の郊外にある小高い丘に向かった。そこには長髭の老人と白い衣の女性が待っていた。その老人に呼ばれるようにアンタルは着地の体勢に入った。エレーデの後ろでテイリンが怯えたような声を上げた。 
                    「あの老人がマルヴェスターか」 
                    「ええ、そうよ」 
                     小型の竜が着地すると、マルヴェスターが幅広の帽子を手で押さえながら驚いたような顔で見上げた。 
                    「こいつがドラティの子供か、親父にそっくりな怪物じゃあないか」 
                     エレーデは滑り降りると待っていたスハーラの腕の中に飛びこんだ。この数か月に出会った人の中では最も心を許せる人だったのだ。スハーラは目に涙を浮かべて小さい友人を抱きしめた。 
                    「いらっしゃいエレーデ」 
                    「ベリック王は」 
                    「南の戦場に行っているわ。でもブライスやザンプタが一緒だから心配しないで」 
                     スハーラはエレーデの後ろに降り立った若者に視線を移した。 
                    「あなたがテイリン師ね」 
                    「はい」 
                     マルヴェスターが興味深そうに髭をしごいた。 
                    「おぬしには聞かねばならん事がいっぱいあるぞ」 
                    「私もです」 
                     その場で二人の魔法使いは座り込んで話し出した。竜の子供はどこへともなく飛び去り、長い旅の間に男共の勝手な振る舞いに慣れたスハーラは、マルヴェスターとテイリンを置いたままエレーデを連れて城に戻った。 
                     二人が乗る馬車の窓の外には美しい街並みが延々と続いていたが、エレーデはそこが静かな事に驚いた。 
                    「スハーラさん、エルセントはいつもこんなに静かなの」 
                    「男達が皆戦場に行ってしまったのよ、遠からずライケンの艦隊が海上を封鎖する可能性が高いので、商船も出港してしまったわ」 
                     やがてエルガデール城の壮麗な姿が見えてきた。エレーデは幼い頃に本を読んだ事が無いため、おとぎ話という物をつい最近になって巫女学校の図書館で読んだ。少女はそのおとぎ話に出てくるような城だと思った。馬車は見上げるような城門をくぐって城の中に入っていった。 
                     馬車は長い庭園を抜けて城の建物の入り口に到着した。城では年老いたレンゼン国王と妻のエリダー女王が、息子のゼリドル王子の妻シリーとその二人の男の子と共に留守を守っていた。もう一人、賢そうな小柄な男が王の参謀として城にいた。自らをマスター・リケルと名乗った男は値踏みするようにエレーデを観察すると、短く言った。 
                    「ここではしばらく時間があります。丁度良い機会ですので、たっぷりと礼儀作法を勉強しましょう」 
                     この勉強に一緒に加わったのがシャンダイアの女王になるべき運命のアーヤ・シャン・フーイだった。歳の近い二人の少女はすぐに仲良くなったが、独特の色彩感覚とわがままで暴走するアーヤと山育ちのエレーデの勉強はなかなか進まず、リケルが用意した教師達は頭を抱えた。 
                     やがて南方の港町ダワの戦いで守備隊が敗北した知らせが届き、ベリックがフスツ達を連れて帰って来た。土埃で白っぽくなった服を着たベリックは、城門を抜けると城まで続く広い花壇の真ん中を馬で走ってきて、入り口で待っていたエレーデの前に降り立った。 
                     二人は不思議な気持ちで見つめ合っていたが、やがてベリックが間抜けな声で尋ねた。 
                    「やあ、こんな危険な所に来ないでサルパートにいれば良かったのに」 
                     エレーデはちょっと怒った。 
                    「サルパートから来たんじゃないわ、ロッグから来たのよ」 
                     ベリックは目をパチパチさせて驚いた。 
                    「何でロッグにいたの」 
                     エレーデの表情が険悪になった事に気付いたベリックは、あわててエレーデの手を取った。 
                    「ちょっと来て」 
                     ベリックはエレーデを裏庭にある池の畔の草陰に連れて行った。そこでベリックはしばらくキョロキョロしていたが、探している物はエレーデが先に見つけた。 
                    「まあ」 
                     エレーデが見つめる先の木の陰にピンク色の薔薇が咲き乱れていた。ベリックがエレーデの隣に立った。 
                    「僕がシムラーに行っている間に、トーム・ザンプタが育ててくれたんだ。一輪と頼んだのに、こんなにたくさん咲かせてくれたなんて」 
                    「ザンプタ様にお礼をしなければいけないわ、いつエルセントに戻ってくるの」 
                     ベリックがエレーデに悲しげな目を向けた。 
                    「たぶん、帰ってこないと思う」 
                     ベリックはダワでの出来事をエレーデに話した。エレーデは薔薇の花の横に座り込んでいつまでも泣きじゃくった。 
                     しばらくしてベリックとエレーデが城の入り口に戻ると、フスツとマルヴェスターが待っていた。フスツが言った。 
                    「ダワでの出来事は私のほうから説明させていただきました」 
                    「トーム・ザンプタについては」 
                     フスツは首を振ったが、マルヴェスターはベリックに優しく微笑んだ。 
                    「知っておるよ、海が泣いていた。彼はこの海に最初に生まれた命だったのだからな」 
                    「トラム川の水は浄化されたのでしょうか」 
                    「ああ、西に現れた吟遊詩人が海の精霊を讃える歌を歌っているそうだ」 
                    「サシ・カシュウも無事だったんですね」 
                    「風の噂では吟遊詩人はさらに西に、ソンタール帝国に向かったらしい」 
                    「危ない人だ、もうこれ以上仲間を失いたくはないのに」 
                     マルヴェスターがベリックとエレーデの肩を抱いた。 
                    「あの男は大丈夫だよ」 
 それから数日後、快晴続きのセントーン全土に激しい雨が降った。エレーデと部屋の中で遊んでいたアーヤは、雨を見て窓から中庭に飛び出すとスブ濡れになってはしゃぎながら踊り回った。エレーデは驚いて窓からアーヤに声をかけた。 
「まあ、どうしたのアーヤ」 
「エルよ、エルネイア姫がミルトラの泉に着いたの。あなたわからないの」 
「わからないわ、どうしてわかるの」 
 アーヤはクビをかしげて頭にピッタリと貼り付いた細い髪を指先でいじった。 
「どうしてかしら」 
 ただ、その日から急に城の中も町の中も活気付いたように見えたので、エレーデもセントーンの力の源がエルネイア姫とミルトラの泉にある事を知った。 
 大雨の日からしばらくしてセルダン王子とエルネイア王女がエルガデール城に戻って来た。びっくりする程美しいエルネイア姫が戻った事で城は華やかになったが、聖宝の守護者達が揃うという事は首都決戦が近付いたという事でもあった。 
 その夜、エルガデール城の食堂にはシャンダイアの主立った者が揃った。食卓の中央には当然のようにアーヤが座った。その左にレンゼン王とエリダー女王、シリーと二人の子供達。アーヤの右にはセルダン、エルネイア、スハーラの守護者達。アーヤの向かいにはベリックとエレーデが座り、ベリックの隣にマスター・リケルとフスツ。エレーデの隣にテイリンが座ったがその横の席は空いており、マルヴェスターはビールのジョッキを持って窓際に立っていた。 
 食事中はアーヤとエルネイアの二人が思いつくままに様々な話をまくしたて、心得た他の者達は適当に相槌を打ちながら食べ物を口に運び続けた。エレーデは尽きる事の無いアーヤとエルネイアのおしゃべりに驚いていたが、かすかな馬の鳴き声を耳にして思わず立ち上がった。 
「フオラが呼んでいます」 
 マルヴェスターがジョッキを口から離してうなずいた。 
「行きなさい、フオラの言葉は重要だ」 
「エルネイア姫とテイリン師を一緒にと」 
 テイリンが驚いた。 
「馬が私を呼んでいるのですか」 
 マルヴェスターが意外な顔をした。 
「元々はお前の馬だろう、カインザーのライア山の山頂で手放した馬だよ」 
「ええっ」 
 育ち盛りのベリックが肉の塊を頬張りながらうながした。 
「行ってみればいいよ、エレーデが馬と話す所は見物だよ」 
 エレーデがちょっと恐い顔になったので、ベリックは口をつぐんだ。するとエルネイアが立ち上がってスタスタと歩き出した。 
「行くわよ」 
 エレーデとテイリンは急いでエルネイアの後に従った。三人が裏庭に出ると、戦いに馬が駆り出されたためにガラガラになった馬小屋の隅でフオラが待っていた。フオラはテイリンの顔を見ると嬉しそうにいなないた。テイリンは驚いて馬の首を叩いた。 
「これがあの小さな馬なのか」 
 エレーデが微笑んだ。 
「そう、こんなに大きくなったの。やあっ、て言ってるわ」 
 テイリンは不思議そうな顔をした。 
「そこまで訳すのか」 
 エレーデは何か言いたそうにテイリンの細い顔を見上げたが、首を振ると咳払いしてフオラに尋ねた。 
(エルネイア姫とテイリン師を連れてきたわよ) 
(ああ、テイリン師は顔を見たかっただけだからもういいよ) 
 エレーデはちょっと考えてこれは訳さない事にした。 
(エルネイア姫にシムラーでの出来事を伝えたい) 
 エレーデはそれをエルネイアに伝えた。エルネイアは頬に手をあてて声を上げた。 
「きゃあ、忘れてた。フオラ、あなたは記憶を失っていなかったのよね。さあ早く教えてちょうだい」 
 エルネイアはしばらくフオラの口元に耳を寄せていた。そして振り返った。 
「フオラはこう言っています。セントーンの水が大きく汚されています、そして三人の姉妹がセントーンに災いをもたらしています。セントーンの力が枯れつつあり、エルネイア姫はシムラーの豊穣の座から、クラハーン神の力を借りてセントーンに力を送りました」 
 エルネイアの目に大粒の涙が浮かんだ。 
「そう、ミルトラ様が弱っているの。毒の川はトーム・ザンプタが命をかけて浄化してくれたけど、三人の魔女が女神の力を奪い続けている」 
 テイリンがその話を聞いて言った。 
「その魔女はレリーバだ」 
「どうして、レリーバは一人でしょ」 
「三人の姉妹が一体になった魔法使いなんだ」 
「不思議な人ね」 
 エルネイアはフオラの首に腕をまわした。 
「思い出したわ、魔女と戦った時のあなたは勇敢だったわね」 
 フオラが得意げないななきをあげた。エルネイアはそのフオラの柔らかい口をめくりあげた。 
「お礼に歯を磨いてあげなくちゃ」 
 魔法の馬は必死の抗議を行ったが、エレーデは訳さなくていいと判断した。 
                   (第二十章に続く) 
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