魔法の電話にかけてみて
小林 蒼
「私時間、午前九時となっていますが、貴時間、午後四時の藤原様はご在宅でしょうか」
「お待ちください、時刻差、現在十二分となっております。保留音のあいだ、お待ちになりますか」
「ではそれで」
コーヒーを作ってしばらく待つことにした。メロディが流れているあいだ、デスクに座り込んで、コーヒーを飲み干すと、くるくる回る気晴らしのオモチャが私の心を和ませる。出社時間まではしばらくあるというのに、もうすでに六割の社員がタイムカードを切っている。デメキンの異名を持つ上司、勅使河原はすでに出社済みと。
かつて時間の神さまが、言葉を乱した神さまのように、人々の時間を乱した。私たちには共有できる時間など無く、テクノロジーで時間を共有するようになった。魔法の電話がまさにそれだ。世界一般では、時間と空間は分割される。限りなく時間の意味は透明になる。空間そのものを構成する空間量子が連続することであらゆる出来事の網目ができて、そのあいだで事象が発生と消滅を繰り返している。空間が時間を創発するのだ。私たちは並行世界に生きている。それを繋ぐ幾何学が魔法の電話の仕組みだ。
魔法の電話は、私たちの時間のズレを誤差三時間まで埋めることができるらしい。
こんなことは日常茶飯事なので特に気にならない。予定アプリに視線を移す。きょうは花火大会か。行けないだろうな。
「藤原です、西村様でしょうか」
思考が途切れていることに慌てて気づき、電話へと意識を戻した。途端にどっと緊張して、話すことメモを見ている。
私は電話を終えると、あの人に電話をかける。ずっと前に旅立った、彼との電話だ。もうずっと前、二十年前の春に、桜の木の下で私と彼は約束した。何を約束したかは思い出せない。ただ幼い、あどけない私たちはきっとつまらない約束をして別れたのだと思う。彼の微笑みの裏に何が隠されていたのかは知りようもない。
私たちは魔法の電話を時々した。懐かしい話に花を咲かせることもあった。私の日常に疲れた心を癒やすためでもあった。
「原田か、何かあった?」
相変わらず、朗らかな声色だ。原田と呼ばれるのも久しぶりで、なんだかくすぐったい。
相川透はずっと繋がっていたかった友達だ。
時間のズレが局所異常を起こした結果、彼の相対時間速度は私よりかなり遅く進む。私が魔法の電話を以てしても、せいぜい二十年の差が関の山だった。それを良いことに大人達は相川透の意識を深宇宙探査機レボルシオンに格納し、地球と外宇宙のパイロットとして運用している。私は相川透との思い出が懐かしくて堪らない。もう一度彼に会いたかった。
「原田、聞いてる? ゴジラ野村って凄いんだなぁ……」
もう誰も驚かなくなったホームラン王の話をする相川君を見ると、子どものときテレビのまえで一緒に野球観戦した思い出が深く蘇る。今だったら鈴木拓が凄いんだよ、なんて子どもの私なら言ったかもしれない。
「古くさいよ、いまどき野村の話なんて誰もしないよ」
「早く大人になっちまったのはそっちのほうだろ?」
交換手が時を告げる。
「時刻共有サービスです。こちらの電話番号は残り十分で、通話時間が限度を超えます。続けてご使用なさる場合は一を、止める場合は二を押してください」
何度だって帰れるかもしれない。あの時に、あの場所に、桜の木の下でなにを彼と約束したのか思い出せるかもしれない。彼に一度聞いてみたけれど、はぐらかされるばかりだった。
勅使河原がどっさりと書類のデータを置いていったのが、勅使河原時間で午後五時のことだった。時間の差こそあれ、魔法の電話でそれほど時間が経っていないことを説明すれば、なんとか誤魔化せるかもしれない。私は書類の束を処理しつつ、勅使河原に魔法の電話を使ってみる。
――イヤミな声だ。
「西村か、何の用だね?」
ねの音の語尾が下がる。勅使河原がすごく苦手だ。
「勅使河原さん、すこし書類の提出期限を延ばして頂きたいのですが……」
「西村、注文が多いとは思わないかね?」
私は、はい、はい、を繰り返すばかりだった。作戦失敗だ。
今日の花火大会、どうしてそんなに行きたいかというと、相川君が花火の話をしていたからだ。相川君の意識の見ている夏は、こんなに暑くなくて、むしろ夕方は涼しいくらいで、海風が心地よかった。潮の香りが川沿いを漂い、どこからか映画館のポップコーンみたいな色のついた匂いがして、心が華やいだ。
思い出のなかの夏だった。
もう過去になっている時間がいつだって問いただしている。もう期限切れの思いがどうにもポケットの中で疼いて離れない。相川君はどうしてるだろう。相川君は野村のホームランアーチを見ているかもしれない。私は夜がものすごい速さで迫ってきていることに動揺している。あっという間に私の就業時間で、人の影も、オフィスには見えないだろう。
もうなんだっていいや。
私は魔法の電話で相川君に電話をかける。二回ベルが鳴ってから、遠くの花火の音が耳に入ってくる。私はあの時に近づいている。相川君が見上げる花火の空は私の見上げる空とまったく同じなのだろうか。相川君の声が聞こえた。
「原田?」
相川君は走っているようで、息が荒い。電話の向こうでなにが始まっているのかが掴みにくい。相川君の時と、二十年後かの私の時が花火の打ち上がる音と重なる。
「あ……」
「あ……」
ふたりで同じ反応をしておかしくなってしまう。
相川君がふふって笑って、私も同じ反応をした。花火の色までは電話口から伝わってこないけれど、私たちは思い出を分かち合った。相川君の意識は遠い銀河のさきにあることを知っている。知識で知っていることと分かっていることは違う。彼はいつもの相川君で私が知っている親友だった。相川君が意識を変えたら、もう彼の時間は遠い旅路の果てにある。相川君は野球を見ている彼では無くなって、私は仕事場で黙々と仕事を熟す機械みたいな生活に戻るだろう。
打ち上がった花火の音が頭の中で何度も鳴っては消えていく。魔法の電話が限度時間いっぱいになった。
私は二度目のさよならを言う。
相川君、また会えるよね?
そう思って、会うことなんてできないと知っている。私たちの時間は桜の木の下から始まって遠のいていく。春の季節が何度巡っても、アキレスと亀のように私たちは追い抜かれることのないレースを走っている。
この距離をどうにだって私たちは克服できない。
●
「私時間、午後九時となっていますが、貴時間、午後九時の西村隆也と繋がりますか」
「お待ちください。時刻差、三分となっています」
花火の余韻が胸の中にある。私は普段の時間に戻ろうとして落ち着こうとする。隆也はきっと今頃電車のなかかもしれない。繋がって、言葉を交わすといつもの私たちだ。甘えた声で隆也に愚痴をこぼして日常に帰る。三分差という気軽さが私と隆也との親密さだ。
きょうはスーパーでお惣菜を買って帰ろうと思って、隆也に伝えた。隆也は朝食のパンと野菜ジュースを買って帰ると言って、通話が途切れた。
ホームの電光掲示板が点々とした時刻の列車運行を伝えている。ダイアグラムを人工知能が制御しているとはいえ、私の列車が来るまで遅い。
アプリで深宇宙探査機の軌道を見ている。
彼の意識がどうしてるかという思いが脳裏に掠める。
その思いはやがて霧のように消え、列車がやってきた。
魔法の電話によって時間の統計情報が集められているからこそ、電車のダイアグラムが人々の時間の最小公倍数的な運行時間システムを維持している。列車に揺られながら、列車の到着時刻を確認している。遠のいていく仕事場近くの雑居ビルの明かりが遠くの山沿いの点々とした街明かりに変わっていく。
列車を降りて乗り換えるためにもう一度列車を待つ。
星は見えない。小学生のときに訪れた軽井沢で星はよく見えたと、ふと思う。
一等星を見に行こうと言ったのは誰だったか。
相川君だった。彼が一等星をいっしょに見ようって言って、みんなの列から離れていって、手を引かれて、私と相川君は二人きりになった。
相川君は急にピッチャーみたいなフォームで夜空にボールを投げるふりをした。彼は星しか見てなくて、何も見えてなくて。つまらなくて仕方がなかった。ふたりで先生に怒られて、夜中にいっしょにレモンスカッシュを飲んだ。点々と、何でもないいくつかの記憶が現れては消えていく。
彼は確かに遠い世界にいる。
部屋の鍵をくるりと開ける。隆也はシャワーを浴びているらしい。私は買った物を冷蔵庫に入れて、買った卵がひとつ割れていることに気づいた。ちぇっ、とこぼして熱湯の中へ卵を入れた。卵がゆであがる間に、服を着替える。皺の寄ったジャケットにハンガーを通して、テレビをつける。数時間前のニュースのなかの選択肢から、気になるニュースを選んでぼんやりと眺める。
滅多にかかってこない魔法の電話が急に鳴りだした。
「は、はい。西村香織です」
「もしもし、西村香織です」
同姓同名の人物か? 私は少し考えて言葉を発した。
「なにかご用ですか」
「ちゃんと説明するわ。混乱するよね。私はあなたよ。正真正銘のあなた。正確には三十年後の私だけど……」
少し戸惑った。
魔法の電話にこんなことができるなんて思いも寄らなかった。私は未来の私と話してるなんて!
「香織、あなたに話したいことがある。相川君はいなくなる」
目の前が真っ暗になったような気がした。
「私の時代には相川君との魔法の電話は出来なくなっている、そのことを伝えたくて……」
「相川君はどこへ?」
三十年後の私はなにも言わない。鍋がぐつぐつ音を立てている。その音だけが部屋に響いている。
「相川君に会えないってことなんですね……」
仕方ないかもしれない。相川君は過去の時間を生きてるひとで、遠い、それこそ銀河の果てを進む探査機に同期させられている魂なのだから。
三十年後の私は気まずそうに黙っている。
カタカタと卵の殻が鍋に当たる音だけがしている。
私は受話器を持ったまま、ガスのつまみを回し、ぱっと火が消える。湯気が眼鏡に当たって辺りが何も見えなくなる。眼鏡を取ってぼんやりとした視界のなかで答えを待ってる。
「相川君は私たちの世界から完全に消えてしまうわ。それでもいまを大切にしてちょうだい。私はもうあの瞬間には行けないから」
あの瞬間ってなんだろう。私は聞き返そうとすると、時刻共有サービスが限度時間いっぱいであることを知らせる。未来の私は相川君と私にとって大切ななにかを知っている。
私は魔法の電話がただ時間切れになっていくのを黙って待っていた。すべてが過去になってしまったらと思うと私は怖くなる。
隆也がシャワーから出てきた。タオルでごしごしと身体を拭き、リビングで茫然と立ち尽くしている私を見ている。目が合ったところで、私は作り笑いをして、お惣菜を冷蔵庫から出した。
煮物の味はすこし薄かった。
そこからのテレビのバラエティ番組の笑い声も、隆也の話す声さえも聞こえなかった。隆也には相川君のことは伝えてなかった。彼のことを話してもいいのかずっと悩んできた。胸が苦しくなって涙が溢れる。心配する隆也をよそに私は言葉を濁した。
落ち着いたところで温かいお茶を隆也が淹れてくれた。
私は相川君のことを隆也に話した。どんな反応をされても仕方ない。相川君は私の大切なものの一部で、その思いをずっと抱えて生きてきたんだから。
隆也は黙って聞いていた。その夜、ベッドで横になって隆也と手を繋いで眠った。
未来の私からの魔法の電話の話はしなかった。
相川君の軌道のさきには、何もない。
いや、ダークエネルギーが支配する空間が広がっている。目に見えない宇宙を支える力が支配する空間に相川君の意識は飛ぶ。そんな未来がいつか来る。
相川君はいつも通り、野村泰実の話を長々と話している。
時間がない。相川君に何から話せば良いか分からない。相川君、もうあなたは私の手の届かない場所まで行ってしまう。あなたの意識は途絶して、帰ってこない。そのことを伝えるのに、こんなにも勉強しておけば良かったって思ったことはない。
野球選手の話を楽しそうにする相川君へ言った。
「相川君、もし、連絡が取れないようになったら、どうする?」
相手に委ねるようなズルさが憎い。
「原田、もう終わりってこと?」
「ちがうよ、私が言いたいのはそんなことじゃない。あのね……」
真実を話した。
「原田、ずっとひとりの時間を過ごしていた俺に君はずっとそばにいてくれたよな」
相川君の声は震えていた。怖いんだ、男の子だって。
「連絡が途絶えるって、それって死ぬってことなのかな?」
突然の質問に何も答えられなくなる。
「そうじゃないって思う。三十年後の私から見たら、相川君と私の交差点はなくなるってことなんじゃないかな?」
「そっか、なら今すぐってわけじゃない」
「相川君、もっと楽にしていいんだよ?」
相川君は息を継いでから言った。
「原田、女の子と付き合うってどんな感じなのかな」
ぽつりと相川君は呟いた。
相川君だってそういうこと考えるんだ。ホームランアーチの話より、もっと彼と話がしたくなった。相川君は頬を染めているかもしれない。いろんな彼の顔が見たかった。
それからはずっと電話をして、思い出を作った。ガールフレンド、彼女、そんな響きに満足していた。
航空宇宙局の知らせが来たのは寒い朝のことだった。深宇宙探査機レボルシオンはダークエネルギーが集中すると言われるD領域へ侵入するらしい。そのあいだの通信は途絶し、相川君からの連絡はできない。これが正式なレボルシオンの探査の始まりだと担当者は熱っぽく語ったが、取り残された相川君を思うと、ずきずき胸が痛む思いだ。
私は魔法の電話を何度も利用したけれど、その通信が一切、彼に通じることはなくなった。野村の話を楽しげにする彼の声が聞きたい。もう何にも私には残されていなかった。
花火大会の日がまた迫ってくる。打ち上がる大輪の花が、彼とのたったひとつの思い出を蘇らせる。どうして彼は走っていたんだっけ。そうだ、あの日は私と彼が喧嘩した日だった。
ふたりで示し合わせた時間に彼が三時間遅刻してきた。
そういう日だった。
ちょうど彼の時間が私と明確に違うのだと気づいた日だった。
忘れていた傷――。
記憶の隅でいつも私はひとりで待っていた。あの時間の孤独をなんとか忘れるために生きてきた。相川君がいない時間がこんなに寂しいことだなんて思ってもみなかった。
待ち合わせなんて似たもの同士の人間しかできない。
私と彼が違う人間だなんて嫌だった。
ずっと同じで、そばにいて、未来が続いていくのだと思ってた。
私は花火大会の日に、彼から逃げ出したんだ。いっしょに花火が見られたのが大人になってからなんて、皮肉だ。
私は自分から桜の木の下で彼にさよならを言ったんだ。もう会うことがないって約束まで取り付けて、ふたりにある距離がとても遠いのだと知ったから、私は彼から逃げ出したんだ。
レボルシオンの軌道がD領域へ入ってから、一年があっという間に過ぎて、二年目の夏が過ぎた。海風の匂いが鼻をくすぐる。もう何も残されていない、暑さも虚しさも退いていかない。
私は、もうダメだ。缶ビールを片手によろよろ川沿いを歩く。隆也のいる部屋に戻って、抱きしめてもらいたい。紫色の雲が、世界を潰そうとしているみたいだ。
レボルシオンのアプリも、アンインストールしてしまった。私にとっての大切なものはもうどこにもない。
「時刻共有サービスです」
ふいに鳴りだした電話に驚く。着信はどこからだ。勅使河原からだったら、川に電話を投げ捨ててしまおう。
「……うっ……」
少女の声だった。めそめそしてる。
「原田香織です、彼と喧嘩しちゃった」
紛れもなく過去の私だった。
●
彼女は二十年前の私だった。未来に生きている私に、何が出来るっていうんだ? もう相川君のことは過去になってしまった私に。
「どうして私なの?」
「交換手さんがそうしなさいと言うから」
番号を共有するなんてプライバシーもへったくれもないな。私はため息をついた。
「あの……、未来の私だったら相川君に謝れるって思った」
真面目か。どうしようもなく真面目で愛おしい、過去だ。
でも私は彼女の、原田香織の頬を叩いてやるしかないんだ。もう答えは決まってる。
「彼を追いなさい。彼に届くのはもうあなただけなんだ……」
「でも……彼は」
「関係ないよ、私、知ってるよ。原田香織がほんとうは寂しがり屋で相川君のことを想ってること」
めっちゃ照れくさ……。言ってやらなくちゃいけない。
「時刻共有サービスをうまく使うの。三時間なら誤差よ、誤差」
そうだ。私たちに空いた距離は決定的じゃない。テクノロジーで埋められる。あれからふたりの距離はとても遠くなってしまった。もう届かないほどに、だからあの花火をいっしょに見られたなら私は相川君にほんとうのさよならが言える。いや言ってやるんだ。
「ねぇ、香織って呼んでいい?」
尋ねられてドキッとする。
「いいよ、何?」
「香織さん、相川君のこと、いまも好き?」
ひとつ息を吐いた。もう言ってしまえ。
「ずっと野村泰実のことしか喋んない人だけど、好きだよ」
沈黙ができた。電話口のむこうで彼女が笑った。
「わかった……がんばるよ。相川君を引き止めて、いっしょに花火を見たい」
見えないけれど花火は今頃フィナーレだろう。
あの日の相川君にはもう連絡がつかない。それでも過去が変わったはずだ。信じるしかないのだろう。
「時刻共有サービスです」
まだいたんだ。あなたは? って聞こうとした。
「よく頑張ったね、西村香織さん。交換手の西村香織です」
良く通る声の割りに年齢を感じさせる威厳があった。
「そうだったんだ。未来の私が……」
うまいこと出来てる。未来の私たちがなんとかして原田香織に勇気を出させたんだ。未来の私は低い声で言った。
「すべて過去になってしまうことだった、相川君とのことは」
「未来でもそうなんだ……」
「ええ、私たちがいくら頑張っても彼の時間は、人間の耐えられる時間のさきにある。肉体は無くなって、彼の意識はずっと記憶の街にいる。すべてあの花火の日で交差点を無くしてしまう。それがとても私は嫌だった。苦しかった。だから過去を変えたいって思った」
「でも知ってるよ。原田香織がうまくやれたとしても時間は戻らない。私たちは私たちの現実を、相川君を亡くした世界を生きるしかない」
世界に潰されてしまうような気分だ。もうやってられない。
「そうね、でも知ることはできたはずよ。私たちは時のなかで忘れながら生きていく。それが良いことなのか、あなたは知ってるはず」
「良くなんてない……。だって私は、戻りたいよ……」
くそっ。くやしくて堪らない。
「お願い、相川君に、メッセージを入れさせて」
何でもいい。ただ伝えたい。相川君に馬鹿だって、お人好しだって、探査機に乗らないでって、そばにいてって……。
「わかったわ、それは今のあなたにしか出来ないこと」
相川君へのメッセージを残すと、夜空の星が次第に大きく輝いて、一等星が明るく光った。すると硬式球が空から落ちてきた。
「これはいったい?」
「きっと素敵なことよ」
拾ったら、そのボールは消えてしまった。どこかで子どもたちの笑い声が聞こえた気がした。
D領域を超えたレボルシオンからの知らせを聞いたのはずっと後だった。相川君とはそれきりでレボルシオンの意識は無くなって、機械の返信音しかしなくなったらしい。ダークエネルギーは未知のエネルギーでは無くなって、反発する重力が宇宙を構成するフィラメント構造を支える力なんだとかなんとか。
私は魔法の電話の交換手を勤めて三十年目だ。あの年齢での転職は思い切りが良すぎたと思うが、この職業は気に入っている。
人が人を思うとき、このサービスがある。
私は戻らなかった過去を抱きしめて生きている。
次の仕事だ。
機器からよく見知った声が響いた。
「私時間、午後三時の相川香織です。貴時間、午前四時の相川透に繋いで貰えますか」
原田香織が、あの日からの私がどんな思いでこれまでの時間を、相川君との時間を繋いできたか、その苦労は想像し難い。
いや、苦労だなんて言えるのはちょっとした負け惜しみだ。
私は頑張ったんだ。知ってるよ。
想像するんだ。ホームランアーチを二人で見た感動や、言葉のキャッチボールを繰り返す難しさや、夏は花火を見たこと、繰り返す春は桜を何度だって見て、笑い合って時間を過ごしたのだろう。そういう現実があるんだと思うと勇気が湧いてくる。
相川君の声は優しかった。
――私に気づいて。
なんて、言わない。あなたがそこにいてくれて嬉しい。
レボルシオンの意識がもうそこにはないと知っている。レボルシオンをアプリで眺めるとき、空になった容れ物が宇宙の仕組みを解明してくれると願っている。それまで私が離れた時間を繋ぎ止めるんだ。
私は交換機を手で押してスライドさせていく。
空間量子が相互作用しあって、透君の知らないずっと未来と永遠にも近い過去を連結させる。
誰でも骨になるのは宿命だ。時の向こう、相川君と出会う。相川君はあっという間におじいちゃんになって、野球の話を繰り返し何回だって彼女にして、一等星も、花火も、桜の木も、遠近法の彼方へ、すべては終わっていく。記憶のなかで広がっていく。
私は交換機をふたたび作動させる。時間の不思議は私が解くのだ。〈了〉