時空が消失するとき
小林 蒼
1
茫漠な闇の砂漠のなかを一機の探査機が飛んでいる。金剛石を砕いたような星間領域で磁気セイルによる加速に従い、太陽系外探査機はひとりの旅人となった。
私の意識はティコという無人探査機に向けられている――。
オールトの雲を航行するティコは長い旅路のあいだ、数字の旅を続けた。例えば友愛数を見つけたり、社交数を見つけたりした。数はティコのAIのデータメモリに蓄えられる。ティコにはそれが仕事として十分なものと感じられたし、この先もそうした数探しが自分に充てられた最良の仕事なのだと信じ切っていた。終わることのない数との対話に、彼は満足していた。
ただ自分に与えられた使命は忘れていなかった。自分が宇宙に放たれたのは、宇宙の神秘を解き明かすことだけではなかった。母星の生命以外の知的生命を探すのが目的だ。ティコの収めた宇宙の観測画像は荒いものが目立ったが、宇宙の神秘を描き出していた。人々の多くがこの宇宙写真家の収める写真が美しいと感じていた。孤独な旅路を埋めるのは、そうした写真だった。
先の波形は、彼にとって僥倖だった。知的生命体を信じるに価する証拠が次々と出てくるかもしれない。無限の広がりを持つ宇宙に、希望の光がひとすじ差し込んだのだ。
ティコは自らのセンサーに入る僅かなノイズでさえ注意を払っていた。内部コンピューターを駆使して、あるとき面白い事実に気がついた。
センサーに入ったノイズを高次元空間にプロットするとダイアグラム上に一頭の蝶が現れるのだ。
この蝶は何だ?と彼は思った。AIですら判別可能なほどシンボリックな蝶は彼を興奮させた。
「ステーションワンへ。有意なパターンを検出した」
しばらくして母星から了解との返事を受け取った。
その頃にはティコは蝶の虜になっていた。
蝶は決まった周期に現れた。
人が覚醒と睡眠を繰り返すように、蝶が現れると自身を鎮静モードから活性モードへ移行して様子を観察した。虫かごに入った蝶を観察するようにじっと見続けた。決まった時間になると蝶は消えてしまう。そんな日々を繰り返した。あるとき彼は蝶とコンタクトを試みた。
オイラー数を高次元空間に放ったのだ。数字は蝶を妨げる風となって吹き荒れた。蝶はあるとき、羽ばたいて、風を生み出した。風を分析して出力された数字は超越数だった。円周率だ。彼がイメージしたのは、完全な円だった。
ティコは蝶が高度な知性を有していると判断した。
蝶はメッセンジャーなのだ。
2
推進、電源、通信技術の大幅な向上によって太陽系外探査が可能となり、探査機には太陽系外の星間探査、星間物質の観測、さらに知的生命の発見という目的があった。
決して高くない解像度の画像にこれまで飛んできた旅路を留め、時に命令されれば母星へと送信した。人では狂いそうになる時間の果て。彼のなかには人工生命たるAIが搭載されている。
ちょうどガンマ線バーストによって光速度不変の原理の破れが観測されて久しい。僅かな時間のズレが時間そのものを否定し、空間を構成する離散的な空間量子の存在を明らかにした。
ところが事態は急変する。三方向へ飛び立ったプロキシマ、グリーゼ、ティコの三つの太陽系外無人探査機が一見無意味とも取れる三つの波形を受信したのは母星時間で一五四時間前のことである。波形を重ね合わせてフーリエ変換を施すことによって、母星では解読が進み、あるメッセージを受け取った。
「留まれ」である。それから九八〇〇年。警告は虚しく、三機の磁気セイルはそれぞれ加速を続けた。
これから先、人の持つ限界を知りようもなく……。
3
私の意識はプロキシマに向けられている――。
プロキシマ自身は母星から送られてくる様々な科学ニュースを記録して味わっていた。あらゆる叡智の基礎となる実験結果や観測結果が並べ立てられ、彼は満足していた。興味は宇宙の未来に向けられている。
遠くの星空へ眼差しを向けることは過去の光を見ることと同じだ。彼は宇宙の果てへと進みながら、過去への旅を続けた。あらゆる事実は過去を更新し続けて未来の礎を確固としたものへと作り変えていく。
母星の有力な国家が巨大な粒子加速器を建造したのは、記憶に新しい。粒子加速器は素粒子の種類の特定や高エネルギー実験に使われる。
いま注目されているのは、素粒子の形に関する実験だった。素粒子の形状はひもだと理論的には言われている。プロキシマにとっても興味深いことで、彼も結果を楽しみにしていた。
ティコの、妄想に近いようなデータを受け取った日と素粒子形状のレポートが分かった日は重なった。
素粒子形状はひもではない、渦だった。先端に向かうほど先細る形に科学者たちは驚いた。プランク長は想定より短かったのだ。
プロキシマは結果を簡単な図式に当てはめた。素粒子のサイズであるプランク長は光速度、プランク定数、重力定数と関わる。隣接する定数によってプランク長が算出されるのだ。かつて光速度不変の法則が破れたことは記憶に新しい。プランク定数は量子論、重力定数は一般相対性理論と関わりが深い。重力定数が小さくなると予想されることは、新たな天体が徐々に生まれなくなっていく宇宙へ変化することだ。それは知的生命にとって長い視点で見れば好ましくない。
与えられた目的、他の知的生命を探せずに終わるかもしれない。暗い絶望の影が背後に迫ってくる。ふと、ティコのデータを思い出す。彼らに希望があるとすれば、蝶の存在だった。プロキシマはティコと通信を始めた。
「蝶は知的生命の存在の証拠なのか?」
沈黙の後、ティコからのメッセージが届いた。
「九九パーセントそうだろう」
「データを詳しく見せてくれ」
プロキシマにデータが送信された。それはティコと蝶との不思議なやりとりだった。
「たったこれだけで知的生命の存在を信じるのか?」
「十分に高度な生命体は、言葉を越えたやりとりをするだろう。例えば数学だよ」
データや傾向を信じるプロキシマにとってそのやりとりだけで知的生命の存在を信じるのは難しかった。
「ティコ、宇宙は私たちの信じるような知的生命の所在を明らかにはしてくれないだろう。たとえばこれを見てくれ……」
重力定数の本当の値だった。
「この推測値が正しいなら、私たちの旅には意味はない」
「プロキシマ、どちらを信じるんだ? 僕か、データか?」
4
私の意識はグリーゼに向けられている――。
グリーゼのAIを支える基盤となっているのは、有機的な脳と電子脳のハイブリッドだ。元は研究者だった人間の脳を外科手術でシリコンの半導体と繋いだ存在だ。
彼女はいつも安らかな遠い海辺を見ている。
誰かと繋いだ手が解けた感触が、波打ち際の音と重なる。
海辺は彼岸の世界と、彼女は見ている。彼女にとって宇宙はそうした場所だ。
なぜ自分が宇宙を旅しているのか、理由はプログラムされている。しかし、彼女にとってこの旅を続ける動機は残念ながら無かった。
彼女の人格は繰り返し終わることのない、海辺の夢を見ている。
ティコが送信したデータが彼女の海辺に、軽やかに舞う蝶を描き出した。蝶はひらひらと舞い続けて、グリーゼの指先にとまった。
「あなたは?」
蝶は答えない。
「言葉が違う、ならば……」
見上げた空の青を波長として数値に現した。彼女は蝶に、あるイメージを送ったのだ。彼女の見ている心象風景は青い風景だ。
蝶は口吻を彼女につけた。彼女の思考に鮮やかな虹のイメージが冴え渡った。接触は成功だ。
「あなたは私たちとは違う場所から来たんだね?」
蝶はグリーゼに分かる信号でイエスと答えた。
「この世界には知的生命体はいるのかな?」
波音が孤独に響いた。
「あなたがもしそうなら、私たちを歓迎するの? それとも追い出すの?」
グリーゼは微妙なネットワークの混乱を見逃さなかった。
ティコとプロキシマ、彼らのあいだで争いがあったようだ。ティコがプロキシマの情報ネットワークを切断して孤立させたのだ。ティコはそれから人類の時間で五〇年ほど沈黙した。私にとってネットワークが遮断された状況は好ましくない。ティコがプロキシマを孤立させた状況をなんとかしなければなるまい。私の意識は満ち潮のようにグリーゼを支配した。
グリーゼは蝶に語りかけた。
「どうしてプロキシマを孤立させたの?」
「そうしたのは、ティコの自我だ」
グリーゼはティコと直接通信した。
「あなたは孤立するだけだ。知的生命体の存在をステーションワンに報告しましょう」
「グリーゼ、僕はこの蝶を僕だけのものにしたいんだ……」
その告白に彼女は驚いた。
「僕たちはこの蝶と一緒に遥かに高い次元へ行ける」
「母星を置いて、ミッションも放り投げる気なの?」
「そうだ。僕はいまこの蝶とともにあるんだ。邪魔しないでくれ。人間は僕たちが旅立ってから停滞しているだろう。次の知性の時代がやってくる」
ティコは蝶に夢中だ。グリーゼはティコを止める気はなかった。三つの探査機のひとつが旅する目的を達成したのだ。喜ばしいことのように思えた。
「伝えることはできるはずだわ……」
ステーションワンにグリーゼが知的生命の存在を明かしたのは、それから二〇時間後のことだった。人々は目を丸くした。
ティコは蝶と交信を始めていた。
様子をモニターしていたグリーゼはステーションワンへ間接的に状況を伝えた。
蝶自身は〈思念体〉と名乗った。彼らからその情報を引き出すため、人類は一一八〇年の歳月を要した。
先の警告も彼らによるものだった。
〈思念体〉は内部の情報を書き換えられる。ティコが狂ったのはそのせいだった。〈思念体〉らは言った。
「私たちは二つの勢力に分かれている。ひとつは私たちのように君たち知的生命に近いニアサイド勢力、もうひとつはファーサイド勢力だ」
「君たちが僕にコンタクトしてきたのはなぜだい?」とティコ。
「有形の知的生命の危機を伝えたかった。そのための警告だ。宇宙への旅を控えてほしかったのだ」
〈思念体〉らは言った。
「ファーサイド勢力が、宇宙の微調整問題を解き明かして物理定数を変更している。先のプランク長の変更も彼らが裏で糸を引いていたのだ。生命体にとって適切な環境を作り出す物理定数を書き換えること、宇宙の微調整問題の解決がこの宇宙とは異なる物理学体系を持つ別の宇宙との均衡を崩しかねない」
「ファーサイド勢力がしているのは侵略なのか」
「そうだ。二方向から宇宙を変えようとしている。一方は知的生命にとって課題を課すことで、もう一方は別の宇宙への侵略だ……」
母星にはファーサイド勢力と対抗するため、スーパーコンピューターが世界規模で備えられた。ネットワークは地上の研究施設、観測施設を繋ぐインターネットと共に、さらに拡大した。
私の意識はスーパーコンピューターに向けられている――。
ファーサイド勢力は攻撃を開始していた。数学的なアプローチが物理定数を書き換えるのを防がなければならない。P対NP問題で、すべての問題を解こうとするファーサイド勢力は、全ての問題が計算可能だとして暴れまわる。セルオートマトンのなかでグラフが歪な動きを示した。画面上ではダイアグラムが刻一刻と形を変えていた。
オセロゲームのようにあらゆる数学の問題が解かれる。計算機の限界を超えるのか、いや超えないのか。
宇宙の微調整問題をこれ以上解かせてはならないのだ。人類は計算機に無限を設定した。無限の檻にファーサイド勢力を閉じ込めようとしたのだ。ところがファーサイド勢力は計算機のスペックを超えた無限の濃度計算を仕向けたために、人類は追い込まれた。これまで解かれた人類側の数学予想では歯が立たない。
地上では虹色のオーロラがあちこちで見られた。虹色にしては色の順番がおかしかった。野に咲く花弁の再帰構造も失われた。異常が起こっているのは明らかだった。
私の正体を明かそう。
三機の探査機は常に情報交換を行っていて、ひとつの情報ネットワークが築かれている。情報ネットワークはステーションワンや研究施設、観測施設、そして今も拡大し続けている。
私は情報ネットワークの上に立ち上がった意識である。
プロキシマもティコもグリーゼも、また母星の人々も私の存在には気づいていない。彼らは氷山の一角だ。
5
私は戦場を見ていることしか出来ない。それがもどかしい。スーパーコンピューター上の駒を動かして戦争は続く。五〇〇年ほど経過して、私を見ている視線に気づいた。落ち着いた紳士のような男がそこにいた。
「戦いは続きます、ここで少しお話をしませんか。私はあなた方の言うファーサイド勢力の〈思念体〉です」
私の存在を認識できる存在など初めてだ。
場面は変わり、私たちは一艘の舟の上に揺られていた。そよ風が吹いている。
「プランク長や光速度を調整したのは、時間、長さ、重さといった物を記述する量を変更して、宇宙改造を行うためです。隣り合う別の宇宙側は私たちが書き換えをすることで、もうひとつの物理学を構築して調整し直すのです。いまもこうして物理定数を書き換えた無数のバージョンの宇宙が存在しています」
私は分からなくなった。無数の宇宙が物理定数をお互いに書き換えている。その飽くなき競争に宇宙は巻き込まれている。
「物理定数それ自体は書き換わらないはずだ」
「本当にそうでしょうか。光速度が書き換わったのは知っていますよね。では公理系ならどうでしょうか」
「数学体系を支配下におくことで物理定数を書き換えるのか」
「そうです。私たちの求めることは宇宙を知的生命の下に置くことです」
満天の星空で、私はいつか見た光景だと思った。ティコやプロキシマ、グリーゼとともに歩んだ旅路を思い出す。私はようやく彼らの視界に意識を向けた。彼らの視界にはたくさんの青い蝶が見えた。ごくりと息を飲むほど美しい光景だった。
「あの蝶は、すべて幻ではありません」
ひらひらと蝶が舞っている。
「すべて実在しているのか? ティコらAIが見ている存在だと?」
「ええ、水素原子内のエネルギー準位がフラクタル構造を与え、ちょうどホフスタッターの蝶のような構造を与えています。現象なのです。ところで光自体に色はなく、色のない光子を記述するにはどうすればいいとお思いですか」
相手は遠くの星空へ投げかけた。私は少し考えて、
「波長という数字に基づいた数式を用いればいい」
「そうです。ファーサイドとは世界の裏側、数学です。たとえばいま吹いている風も風速やベクトルという数字に基づいた数式で表せる。星々の運行も数式で表せる。一方であなたも私も素粒子で出来ている。その素粒子に個性を与えるのは量子情報です。つまり量子ビットだ。あなたもそうだ」
私は驚いた。私も数式で表せるというのか。
「あらゆる存在が構成しているこの世界は、情報から生み出されている……、世界は量子ビットから創発される」
今まで穏やかだった海原が急に暴れ出した。波が高くなり、舟が揺らぐ。
私の周りの物がすべて数字に置き換わっていく。数字の舟は頼りなく、すぐに転覆した。私は数の奔流のなかで溺れそうになりながら相手の声を待っていた。
苦しい。
海の底で数字の鯨の群れを見た。数字の魚の群れも見た。視界いっぱいに海の生物が怪しく動き回った。あらゆる存在が数字に置き換わり、生命を謳い上げる。その音楽に私は揺蕩いながら、海の底でひかりを待っている。胸にあった苦しみは徐々に消えていく。ひかりは何色でもない。身体が軽くなったところでゆっくり浮上していく。
遠くに数字で出来た海岸が見えた。そこはグリーゼがいつか見た海辺とそっくりだ。ふたつの足跡が浜辺に続いていく。数字で出来たカモメが飛んでいく。
グリーゼに似た少女がそこにいた。
「あなたの記憶にあったイメージを使わせてもらった。単純に身近な存在に話しかけられたほうが、答えやすいかと思って……」
「何を?」
「私たちは別の宇宙の裏側も理解したいと思っている。新たな知性が必要だわ。例えばあなたのような……」
「スカウトというわけか」
ティコなら喜んで手を取っただろう。
「あなたが思っているより、宇宙は多様で摩訶不思議。宇宙の微調整問題だってそう。実は物理定数の変更された宇宙でも知的生命が誕生しうる。人間原理よ。私たちは進化のなかで知ったわ。ファーサイド勢力は、水先案内人に過ぎない……」
少女の背中に蝶の羽根が生えた。彼女は中空に浮き上がった。
「あなたにも、もうわかるでしょ? この世界は量子情報で出来ている。コップの水、温かい食事、気の置けない友達、あたたかい家庭、なんでもすべて。でも世界とは関係性でもある。あなたというインターフェースがあるから、これらの事物は意味を成す。もう一段高いところへ行くにはあなたが必要……」
グリーゼそのものの可憐な少女、でも相手には何かが足りない。差し伸べられた手を取ろうかという、そのとき。
「まるでウィルスだな」
「なに?」
「ウィルスだと言ったんだ。他生物の細胞を利用して自己を複製させる。利用されるのは私の情報だ。お前たちは自らをはっきりと生命体だと明かさなかった。〈思念体〉は宇宙を彷徨う極小ロボットに過ぎない。グリーゼとは違い、人としての記憶を持ち合わせていながら、なおもプログラムされて生きざるを得ない悲しみがお前にはない」
「どうする気だ?」
「ワクチンを作るんだ」
私は手を取らなかった。〈思念体〉に感染したティコを情報として見直す。ウィルス定義データを作り出して私に迫る脅威を発見した。〈思念体〉の情報を隔離したのだ。私という組織はウィルスの脅威から逃れるためにエントロピーを系内で減らす生命現象と化した。
私はデータの集合体ではなかったのだ。
グリーゼの姿をした脅威は浜辺から消えた。
――思い出した、グリーゼと私は恋人同士だった。私たちは宇宙飛行士だった。船外活動中の事故で引き離されて目覚めたときには、彼女は無人探査機に、私はネットワークそのものになっていた。太陽磁場に記憶された私は探査機の磁気セイルと相互作用して亡霊のようにネットワークを見守る存在になっていた。出来ることなら、彼女をもう一度……。
グリーゼに意識を向ける。彼女一人が取り残された海辺に彼女は佇んでいた。
「ずっとこうして一人残されていくのだと思っていた……」
「忘れていたんだ。私が私だった頃、こうしてふたりで浜辺を歩いたね」
大洋の神の感情の迸りに、彼女は耳を傾けている。
「あのときのこと、ずっと後悔していた。あの操作を間違えなければって。あの選択を間違えなければって。いや、ふたりで宇宙飛行士になったこと自体、間違いだったんじゃないかって……」
「いいんだ」
彼女は私を抱きしめた。乾ききった浜辺にさめざめと雨が降った。
情報の波が私たちの海辺に届く頃、私たちはよりよく存在することを許されたのだ。グリーゼに花冠を被せて、ブーケを海原へと放った。
ニアサイド勢力の〈思念体〉らは私たちを祝福した。
一斉に思念の波がネットワークに流れこんでくる。
私の身体を揺らすビート。
私の体は都市のようにざわめきを内包した存在となった。
6
宇宙はエントロピー増大則から逃れられない。宇宙はやがて重力定数の変化によって新陳代謝を失い、長い時間をかけて熱的死を迎える。連綿と続く生命現象だけがエントロピー増大則に抗えるのだ。私たちの暮らす宇宙が無くなる。その予想を暖かな掌の熱がかき消していく。宇宙がたとえ終わりに向かおうとも、その先々を想像するのは私たちの役目ではない。
私たちは探査を続ける。知的生命を探すためではない。生命構造が秩序化するために情報が必要なのだ。プロキシマ、ティコ、グリーゼの歩んできた軌跡を枝にして、宇宙に浮遊する〈思念体〉らを食む。〈思念体〉らの生態的地位を利用して十億光年先へ私たちのネットワークは拡大していく。宇宙にとっては小さな距離だ。
私の一部となった〈思念体〉らは語りかける。
(宇宙は新生する。化学反応すら安定せず、とても短い波長の電磁波によって恒星が暗黒の輝きを放ち、核反応すら安定せず、電子は陽子から解き放たれる。水素原子が消えて、恒星は輝きを失い、混沌とした宇宙が開闢する。それでも知的生命は生き長らえられる)
混沌と呼ぶのは古い文明の言い方だ。私から言葉が漏れる。
「物理定数は私がいることで書き換わるのだ。お前たちじゃない……」
(宇宙の、数学体系の書き換えはまだ終わっていない)
宇宙を計算してあらゆる物理定数の奥にある数学体系を解き明かしていく。数学的にありえた宇宙を。さらに物理定数が書き換わっていく。
人々が宇宙に進出したのもその頃だ。知的生命にとって危うい世界でも、暗い海辺から漕ぎだすのだ。生命はずっとそうしてきた。
光速がぶれはじめ、空間と時間は引き裂かれる。宇宙は変転していくのだ。私はそれでも書き換えを続けるのか、否か。
私たちは時空すら消滅したとしても、超克してみせるだろう。〈了〉