宇宙の心臓 ショートストーリィ版
小林 蒼
私には、なにもなかった。
痛い、あまりに痛い、心の傷口が開いてしまわぬように飛び続ける。ノアズ・アークにかつての星空の画像、かつて生きていた動物のDNA、人間の受精卵を乗せて運んでいる。立体映像に映された透明な地球には数億人の人々が犇めいている。彼らの意識は保存されて街を形成していた。
ふたつの街の崩壊まで時間がなかった。
額に汗が滲む。中継点にバイパスを施すことで過度に集中した電子の人々を離散させた。手術はつづく。
自らが犯した罪。のこり四〇秒弱。
街にデジタルの朝日が降り注ぐころ、私は暗黒の平野を駆ける馬となる。
きっと夢を見ている。かつてあった地球という星の、滅びの記憶を。
◆
小さな星が組織化して大きな地図を描く午後、座ったシートの感触がわずかに残る。私にはやらなくてはならないことがあった。
私は知っていた。明日あいつが旅立つことを。あいつはあいつで考えたのだと思う。それでもあいつとの別れがこんなに早く来るなんて思ってもみなかった。私は知っていた。私とあいつはどこまでも一緒の地平線を見ているはずだと。でもそんなことは真実をすこしも映し出してはいなかったということを、私は知った。
「じゃあ、行くよ」
「こんなとき何も出てこないなんてね……」
私とあいつには思い出があった。あいつの見ている星空を私は盗みたがった。あいつの描く星空は真実を映し出していた。
ピンホール式のプラネタリウム。大きな星空を閉じ込めた世界だ。私はあいつの見た美しさを全部欲しがった。愚かだった。
となりにいたあいつの肩をグーで突くとあいつは少し怒った。私はあいつの見ているもの、どんなものでも奪いたかった。どんなにあいつにとってありふれたものでも良かった。あいつの見ている映画に嫉妬した。あいつの聴いている音楽に苛立った。あいつのやっているゲームに目を奪われた。あいつのそばにいたかっただけなんだと今は思う。私があいつとの関係を始めたのはいつなのか。思い出せない。それができればきっと私はあいつを愛せるだろう。
気づけば、あいつの部屋でピンホールプラネタリウムを点灯して、眠った。あいつの肌の匂いがして、私は私という心に気づいた。滑らかな腕の曲線と手首にひっかき傷。鏡に映った裸体を見た。
あいつの仕事場ではいつも映像が流れていた。小さな街がそこにはあり、政治があり、経済があり、交通があり、商業があり、教育があり、軍事があり、戦争があり、世界があった。あいつの好きな星空があった。
あいつは知っていた。このコスモスフィアが未来の地球の似姿であることを。シミュレーションプロジェクト、プラネタリウムはあいつの手がけた最初の仕事だった。克明な模写によって描かれたデッサンのようにあいつの地球はつぎつぎと国際情勢を予測した。あいつの仕事はただ見ることを最大限に活用したものだった。空を飛ぶ数十台の監視衛星をリンクさせて、AIによるアルゴリズムからあらゆる世界の動きを予測する、そんな仕事だった。
コスモスフィアの小さな街に私たちの家を発見する。それは私とあいつと、あいつとの間にできた小さな娘の家だった。私たちはいずれ婚約をして、娘を儲けて、あの小さなレンガ造りの家に住むのだと、コスモスフィアは予測したのだ。私はすこし笑って、薬指を噛んだ。小さな痛みの感触がした。
あいつとコスモスフィアの予測の話はしなかった。コスモスフィアはそれから著しい成長と投資ファンドの力を借りて、未来を予測する権力として国際的な問題にも使われるシステムになった。
あいつとの小さな家をピン止めして、眺めた。いずれ来る未来が私たちの幸福になるのかはわからない。私たちは予測された確率の世界にいるに過ぎないとしても、確証が必要だった。
あいつが私と結婚しようと申し出た夜、コスモスフィアの未来予測があるストーリーを描き始めた。
大国が小国の領土を獲得するための競争はやがて紛争になる。小さな火種が燃え広がり、世界を焼いた。私たちはコスモスフィアの描いた未来をふたたび、いや何度だって眺める。間違いだって言ってくれないかと何度も尋ねる。どうしてなんだ。私たちは、やがて娘といるであろう小さな家がミサイル攻撃で粉々になる未来を知った。
80パーセント以上の確率で未来を失う。
それでも一緒にいるべきなのか、私は渋った。
ただ一緒にいたいと感情では分かってる。20パーセント低い確率。でも理性はどうだろう。私たちは理性を呪った。起きてもいない紛争に気を揉むことじゃないと母と電話で話した。そうかもしれない、と頷くばかりだった。
あの一発のミサイルが落ちたとき、世界がコスモスフィアの予言通りになったと知った。コスモスフィアが予測してくれたお陰で私たちは世界を先取りした。この紛争が早く終わってほしいとただ祈った。
眠れない日々が続き、睡眠薬を服用して昼まで眠ってしまった日に、世界が終わる瞬間に立ち会えなかったことを知った。あいつは仕事場で頭を抱えていた。憔悴しきった顔だった。
どんなに頑張っても未来を変えられない。あいつはあいつで考え続けていたみたいだ。
別れようとあいつが言ってきたのは、そんな日々が続いた頃だった。
コスモスフィアが予測した未来の、あいつのそばに私がいないなんてありえるのか。私は葛藤した。言葉にならない激情が心を焼いた。歯噛みして、夜を耐えた。あいつは顔を背けたままだった。
コスモスフィアの予測で、近日中には我が家の空で戦闘がある。地下鉄構内に避難した私は、怯えているばかりだった。寒気がしてうずくまる。それでもあいつは仕事場に残っていた。コスモスフィアの性能を上昇させるプログラムを熱心に書いていた。電磁パルスの影響で通信が出来なくなった夜、構内からふらりと外に出た。いつもと変わらぬ街並みと暗い空と、戦闘の音は遠くに伏せているようだった。私は理性に逆らって走り出していた。
未来も、予測も、何だっていい。
私はただあいつのそばにいたいんだ、誰が私の居場所を脅かしても。そう思えた。
ピカっと雷のような光があたりに走った。遠くの戦場の、血の争い。
私の足は止まらなかった。あいつの仕事場についたとき、上空を戦闘機がものすごい轟音を立てて飛んでいった。私は階段を下りた。息を潜めて、静かに、あいつの肩を抱いた。あいつはうずくまって眠っているのかと思えるほどに静かだった。あいつは口を開いた。
「エヴァ、もう終わりだ……」
「コスモスフィアがそう言っているの?」
「全世界に争いは飛び火する。すべて予測通りになった」
かぶりを振って、こう言った。
「きょうは雨の日なの……」
雨など降っていなかった。それは心の原野に降る雨だ。その雨に濡れたときには、乾いたタオルなど用意しているはずもなく、私たちは共に流す涙を洗い流すだろう。涙など元から流していなかったかのように振る舞うだろう。私たちは甘い夢を見ているに違いない。私たちはきっと小さな星空にいる。その星空の下にはいったいいくつの夢が、人が、子どもたちがいるのだろう。
「ねぇ、倉庫からプラネタリウムを出しましょう」
「そんなものを今どうして?」
「コスモスフィアが見ていない夢を描きたいから」
ピンホール・プラネタリウムをつけると、天井に浮かび上がる星空を目に焼き付ける。この風景は永遠に残るんだ。この星空だけは誰にも侵されない。この星空だけはあいつの心を脅かさない。それでもあいつは星空を見上げず、呟いた。
「エヴァ、ずっと前にさ。コスモスフィア上に小さな家があっただろ?」
「ええ。娘のいる小さな家ね」
「あれに気づいた日、俺はさ――」
私たちは、幸せなのだと悟った。同じ夢を見ていたことを知ったからだ。
固く手を握り、遠くの戦闘の音を聞いている。漏れ出す朝日に今日が来たのだと感謝する。戦火は世界中に広がった。人類が地球を脱出する計画に参加するために私は北米へ、コスモスフィアの仕事を続けるため彼はオーストラリアへ行くことに決めた。あいつの俯いた顔をどうにもできなかった。
あいつが旅立つ日、私はふたたび元の私になった。
あいつとの記憶をただ抱いて夢を見るのを終わりにする。
◆
私のさきには遠い旅路がある。
地球型惑星を目指して人々を運んでいる。
この星間領域は核融合ラムジェットに必要な水素が枯渇していた。核融合ラムジェットは五〇〇キロメートルの直径を持つ水素収集用のスクープで、核融合の燃料となる水素を星間物質から収集して飛ぶ推進システムだ。
コスモスフィアの原型を元にした、透明な地球上にはかつて存在した地球人の記憶が保存されている。私は北米にいった後、一度の世界大戦を経て、このノアズ・アークの司令官となった。あの戦争からあいつとは離れ離れになってしまった。
もうなにもなかった。肉体は疾うに果て、この記憶と意思と、命令だけがあった。地球の記憶や記録も、もうずいぶん更新されてきてはおらず、私に関することも更新されることはなかった。
「司令、地球について教えてほしい」
複数のノアズ・アーク上で生まれたエージェントたちが尋ねる。私だってそこまで地球に詳しくなんかないが、滅びの時代を語るには物語が必要だった。あいつとの物語だ。
あいつの話をするとき、いつだって胸が痛む。なぜだろう。あいつと見たプラネタリウムが最後の思い出だなんて。
どうしてあの星空のデータを忘れずに持っていたのだろう。分からない。地球から旅立つ日は慌ただしく、家に置いていくものは決まっていた。
旅立ってから熱心に書き出しているのは、あいつとの記憶だった。
時間は限られていた。
つぎの地球型惑星まで当初三二五年かかるとされていた航路は、宇宙へ飛び立ってみれば三五〇年かかると予測された。この誤差は宇宙望遠鏡がセファイド変光星の明るさの変化率を甘く見積もっていたからである。
宇宙船に積まれた受精卵のための冷却剤は、のこりの二五年まで持続しない。
地球脱出計画の全容は系外の地球型惑星を目指し、宇宙船に積まれた量子サーバーにアップロードされた人類の精神データを解凍、そして肉体にダウンロードする手筈だった。
私たちは決断を迫られていた。
肉体を捨てるか、航行速度を上げる手段を講じるか、それとも――
私は記憶を用いたリッチフロー方程式で宇宙の航路短縮を狙う。宇宙の距離は変わらないが、宇宙の形状を小さく手術できればいいのだ。数理外科医だった頃の経験が活かせる。
データに記録されたエントロピー情報から手術に必要な宇宙の幾何学的予想を引き出し、計算する。つまり私の記憶の行く末が宇宙の形すら決定づけるのだ。
あと少しのところであいつとの出会いの記憶を思い出せないでいた。
何千回、何万回と擦り切れたビデオテープを見るかのように記憶を思い出した。あいつの顔も何度も思い出しているのにその顔がはっきりとしなくなった。声すら分からなくなった。
何度も航路短縮の可能性を計算した。私は困り果てた。最後のピースが足りない。
二人で眠った部屋。
ルームライトがあいつの背中を照らしたところでその日の記憶は終わった。眠りに入り、そうして夢を見ることすら忘れてしまった。未来を描くことすらなかった。
無限の追憶だ。
程なくして連絡が入った。
◆
クリアスフィア上の私の邸宅であいつを、正しくはあいつの記憶情報を持った代理人を待っていた。がらんとしたソファに腰掛け、扉が開くのを待っていたのだ。期待はしてなかった。あいつは地球が滅んだ日に死んだはずだ。少なくともあいつの意思がここに来ることはありえないことだった。
おそるおそる、尋ねる。
「何しにここへ?」
「航路の第二版を届けに来た」
宇宙には水素濃度が濃い、核融合ラムジェットの推進に適した航路が存在する。地球に残ったあいつの最後の仕事は電波観測による宇宙航路の発見事業だったらしい。
航路の第一版は星空のデータのなかに隠されていた。あいつはずっと地球を見ていたわけではなかった。あいつの視線はずっと遠い宇宙に注がれていた。大切なことに気づかなかった。
あいつの代理人は新たな航路を託したのだ。
私の乾いた心に温かな雨が降った。
あいつの代理人はクリアスフィアへに至るまで三十一の中継基地を挟んだとも言った。
人類の末裔たちが生きている。私たちの飛ぶ航路に人類の作った階段が届こうとしているのだ。
「あいつはどうしているんです?」
「もうこの世にはいないだろうな……」
代理人の眉根が下がった。こうして代理人が訪ねてくるのだ。それは間違いないだろう。
私は代理人を帰らせた。
扉をそっと閉める。
告白しよう。私の時間にあいつがいないことなんてなかった。こうして飛行を続けていけば、あいつがどこからか現れてくるのだと思っていたのかもしれない。たとえ、あいつが死んでいたとしても暗黒のなかであいつの存在が見えない希望だった。
メールボックスに小さなファイルが届いていたことに気がついたのはしばらくしてからだった。
ちょうど私が第二航路を飛んでいるところだった。
「エヴァ、もうかれこれ君が旅立って何年になる? 元気か?」
短い挨拶と一緒にコスモスフィア上に小さな家を建てたとあいつは言った。ミサイルで吹き飛んだあの家をもう一度建てたのだと言う。コスモスフィアのデータをダウンロードする。小さな家が建っていた。
涙を流す器官なんてないけれど、胸から何かが込み上げてきた。
家には誰も住んでいないし、誰も帰ってこない。
あいつとの記憶のなかだけに存在する未来そのものだった。家はちょうどクリアスフィア上の私の邸宅に似ていた。無意識に同じ形にしていたのかもしれない。家のデータフロアにアバターで入っていく。木製の扉が開いてエントランスには小さなキャンドルが三つ飾ってあった。リビングテーブルの花瓶にドライフラワーが挿してある。窓からは夜の闇が見えた。あいつが手招きをした。
「屋根に上ってごらんよ」
「ガタガタする」
「足元に気をつけて」
「ここでいい?」「どうだい」
「すごい。星空がこんなにいっぱいに見える!」
「ずっと眺めていたんだ。君が飛んでいく宇宙の果てを思い描きながら」
本来、こうやって使うものだったのか。あいつの遠くを見る瞳を見つめた。
「あなたも来てくれれば良かったのに」
「世界は一度滅んだ。電子政府が各地で発足されて俺もその動乱のなかで仕事をしていたんだ」
「ニールス、きっと二人の時間がこうして重なると知っていた」
「知っていた、か。俺は闇のなかを歩き続けただけだった……」
小さな家で、あいつのプロファイルデータはそれ以上のことを言わなかった。
ひとりきりになってあろうことかクリアスフィア上にコスモスフィアの圧縮データを上書きした。
数億人の人々は混乱して、地球の幻に戸惑った。
リーグから抗議があった。私は無視した。ただの破壊だ。
のこり四二秒でクリアスフィアとコスモスフィア、両方の世界が破壊される。一秒が数十年に引き延ばされるような感覚のなか、私は大事なことを思い出したい。
クリアスフィア上にあの家があった。透明な星には確かにあいつとの記憶が存在していた。
◆
闇のなかを歩き続けたのはあいつだけではなかった。
遠い宇宙の果てを進みながら、任務を遂行するために旅を続けていた。
その旅路は決して美しいことだけではなかった。時にリーグの信頼を失っても、ノアズ・アークは大いなる任務を達成しなければならない。私たちは小さな世界だった。コスモスフィアの次世代型が組み込まれたクリアスフィアは、未来を予測しながらあらゆる破局から逃れられた。あいつの作ったテクノロジーに助けられてここまで来た。
どうか、思い出させてくれないか。
あいつとの始まりを。
あいつとの些細で、それでいて決定的だった記憶を。
もう忘れてしまっていい残骸だなんて言わないでくれ。
時の流れに消えないでくれ。
遠くの夜空を見上げるとき、その星々はすべて過去の光だ。心はいちど遠くて愛おしい過去へ還るだろう。私は過去を歩きながら、それが未来を歩くことなのだと知っていた。重ね焼きされた二枚の世界はあいつとの過去を映し出してくれるだろうか?
私たちの時間をコスモスフィアが記録していた。出来事と並んだ出来事、出来事の裏にあった出来事とを見て、眺めて、触れて、確かめたかった。私は自分の影を追う。追体験した私の時間に空白の一時間があった。雨音、ペトリコールの匂いだ。そして手首のひっかき傷。
フラッシュバックした。
何も見えないんじゃない、白い光に包まれているんだ。
私を呼ぶ声がする。目の前にあいつがいた。意識がぼんやりとしている。濡れた体でいる。ああ、私はあの日、死にたかったのだ。バスタブで手首を切って……。
手当てした後、あいつとふたりで星空を見た。あいつは星空を写真に収めていた。
あいつは何も言わなかった。母親みたく悲しんで泣いたり、父親みたく自分の意見を一方的にまくしたてたりしなかった。
ただ黙って隣にいた。あいつの視線は遠くへ投げかけられていた。
そのとき、ここにいていいんだと思った。
先を急ぐ旅で私は宇宙に外科的手術をしてきた。そのとき大切な記憶も切り取ってしまっていたんだ。手首を切り裂いた痛み、手術の痛み、心の痛み。痛みがずっと覚えていた。宇宙の心臓をもういちど縫合しよう。
ふたつの街は崩壊を始めていた。
地上に映るふたつの世界は、渾然一体となり、溶けていきそうだ。かき混ぜた温水と冷水は二度と元には戻らない。
私は数理的手術を用い、街の区画を繋ぎ止めた。記録と記憶が溶け合い、縫合痕が残った。街はすべて壊れなかった。私の記憶に映るのは、ひとつの風景だった。
窓辺にラタンの木が揺れていた。夜風は私を導く、そんな予感を漂わせる。
あの日と孤独な旅路の上で、私は少なくとも二回死んだ。
私には、なにもなかった。
――居場所を見つけて、すべてが魂の望むままにならずとも、知っている。
私には、なにもなかった。
――見上げた星空が二人を繋いでくれる。
私には、なにもなかった。
――一度だって何度だって生き直せる。エヴァと呼んでくれた声を、忘れない。
私には、なにもなかった。
――航路の短縮なんてもういいさ。あいつの手が私を押してくれる。
目の前にあった暗黒はすべて消えた。気づくとリッチフロー方程式に必要なピースは揃っていた。宇宙の幾何学がうねりを伴って変わる。光に包まれ、そして――。
気づけば懐かしい星の静止軌道に浮かんでいた。変わらずあの星は朝日を迎えていた。
遠い旅路だった。
喉につまったグッドバイをやっとのことで口に出せる、この星で。