SFの小箱(21)スペースシップ
小林 蒼
星々は遠方に見え、静かだった。時間は船内時間で夜八時だ。アルデバランの南方を飛んでいるのは確かだが、はっきりとした位置はわからない。目立った恒星はなく、しばらく留まる惑星もなく、気の滅入る日々だった。俺はひとりブリッジに立っていた。親友のアルバートは奥の寝台で横になっている。しばらくすると遠くに光る箱状の物体が見えた。最初デブリかと思われたが、それはどこかからの脱出船であるらしいことが分かった。宇宙船を脱出船へと近づけると、奥にいたアルバートが目覚めた様子で出てきた。
「どうしたんだ? ウィリアム」
「デブリかと思ったんだ。いや、脱出船だよ、どこから流れてきたんだろう……」
「いくつかの船が消息を絶っている宙域だ。ありえない話じゃない」
脱出船におもむろに近づく。通信が入る。
「……だれかいませんか?」
慌てて、俺は答える。
「遭難した様子だ、助けましょうか」
「いえ、私たちは問題ありません」
複数の人間が乗船しているらしい。それだけは分かったので様子を伺う。
「食料を分けて頂けませんか? ここ数日、飲まず食わずなのです」
アルバートへ目配せすると、彼が食料が載せられた箱を用意した。脱出船に梯子を渡し、届ける。宇宙船内のモニターからその様子を見る。箱はゆっくりと脱出船のソケット状の器具に収まり、なかへ届けられた。
アルバートと視線を交わす。成功した。気づけば一時間ほど経っていた。
「通信はこのままでいいですか?」
「ええ。食料はありがとうございます。これで妻も生き延びられるでしょう」
「奥様がいるのですね」
「はい……」
「あなた方は一体どこから?」
「ノーヴェンバー号をご存知でしょうか?」
アルバートは口を覆った。その理由は明らかだ。アルデバラン星系で最近消息を絶った宇宙船である。その生き残りだ。助けなければいけない。そう思い、宇宙船のライトを脱出船へと向けた。
「……光は止めてください」
通信相手が嫌がっているので止めた。
「ありがとうございます、眩しいのがめっきり苦手になってしまったのです」
「そうなのですか、すみません」
脱出船は数秒間沈黙した。その数秒が永遠にも長く感じられた。
「ノーヴェンバー号から脱出したあとのことをお聞かせ頂けますか?」
俺はかしこまって尋ねてみた。
「ノーヴェンバー号はたいへん豪華な宇宙船でした。ホテルのような設備と優秀なクルーに恵まれた理想的な宇宙船です。ところが宇宙船がスペースデブリ帯に引き裂かれ、船員達は乗客を残して我先に逃げ出しました。地獄のような光景でしたよ」
俺は喉をごくりと鳴らした。
「残された乗客はいくつか残された脱出船を取り合うようにして乗り込みました。私と妻もそうでした。この脱出船はちいさく四人乗りでした。疲労と怪我で二人が脱出船のなかで息を引き取りました。絶望感と飢餓で狂いそうになったとき、私たちは光の帯を見つけました」
「光の帯?」
「そうです、光の帯です。きらめく光の帯が宇宙空間で道のように伸びていました。それを目指して脱出船の操舵をしました。そこで沈みかけた宇宙船を見つけました。宇宙服を着て、なかへ入りました。幸い空気がまだ残っていて、私たちはヘルメットをとりました。船室には食料や日用品がそのまま取り残されていて、私たちはかぶりつくように食料を貪りました。船室のドアノブを触ると、なにかじっとりとしたモノがへばりついていました。あとでそれが船内の至る所に見られることが分かりました。それは胞子でした」
「キノコやカビですか」
「ええ、キノコの胞子がびっしりと扉に生えていて、気味が悪かったです。船室から出ると通路が黒く染まっていて、キノコが生えていました。私はそれを手で擦って落としました。手が黒くなりました。血のようにも見えました。船内を歩き回って、私たちは船内の中央の広い部屋で過ごすことになりました。寝台が二つあり、他の部屋よりは綺麗でしたから……。それで事が起こったのです」
通信が一度切れて、もう一度雑音が混じる。俺は耳を澄ませた。
通信相手が言った。
「妻の横顔を見て眠りについた日、その顔に小さなニキビが見えました。瘡蓋のようにも見える、黒っぽいニキビです。私は彼女の顔を撫でました。そのニキビは臭い匂いがしました。彼女は怖がって顔を掻き毟っていましたが、やがて止めました。それから数日、夜に彼女がふらりとどこかへ消えていきました。私は二日目の夜に彼女を追いかけました……。彼女が通路の奥で蹲っていました。「どうしたんだい?」と声をかけると、彼女は振り向きます。彼女の口元が真っ黒になっていてあのキノコを食べた様子でした。私は冷や汗を出して、彼女にキノコを食べるのを止めさせました。彼女は虚ろな視線を私に向けるばかりでした。約束をしてから、私たちは向かい合って食事を取ることを止めました。彼女の顔にはあの黒いニキビがあったからです。あのニキビはキノコを思い出させるから。私たちは孤独に耐えました。毎夜声をかけることも少なくなり、妻は次第に夢遊病者のようになりました。ふらふら夢を見ている彼女が壁に生えたキノコを一心不乱に食べていました。その姿を見てから私は彼女を避けるようになりました。ところが私は夜、甘い香りがすることに気づきました。お菓子のように甘ったるい匂いです。食料は十分にあるはずなのに、空腹が抑えきれません。私はふらりと空調の音が辺りを包む部屋から部屋を渡り歩いていました。帰ってきて、妻がすやすやと寝息を立てているのに安心しました。でもなぜでしょうか。黒いニキビは頬全体に広がっていました。私はだんだん気がおかしくなったようでした」
俺は彼の言葉を黙って聞いていた。声の主の通信はひどく深い宇宙の片隅で孤独に響いた。
「それで数週間後のことでした。甘ったるい匂いに耐えられなくなった私はそれを手探りに探そうとしました。壁全体がチョコレートになったみたいで、天井はキャラメル、頬をかすめる微風にはラム酒のような香りがしました。至る所から美味しそうな匂いがして私はとうとうおかしくなったと自分を責めました。だってこんなの、おかしいから。
私は手元にあった黒っぽい何かをガツガツと食べていました。後ろで黒っぽい顔をした妻が立っていて、私たちは顔中をペロペロと舐め回しました。そうしてお互いがお互いの空腹を満たすために、妻の頬から伸びていたキノコを口に含んでいました。私たちはお互いを美味しいと感じていたし、それが自然なことだと思い込んでいました。私たちはそうして疲れ果てるまで、その場の黒いキノコを食べていました」
俺は気分が悪くなってきた。声の主は静かに告白を続けた。
「妻の頬が半分くらいになった頃に、私は妻を置いて、エンジンルームに向かっていました。なにかにエンジンルームへ誘われたように、です……。エンジンルームは無人でしたが、何か黒い柱があちこちに伸びていました。青白い光に照らされていました。ちょうどチェレンコフ放射というのかな、わかりません。
黒い柱はすべてあのキノコだったのです。そうして気づけば、柱がうごめいて一本の柱になりました。柱は人型に形を変えていきます。いつから私たちの近くにいたのでしょうか。ずっと前から? 分かりません。宇宙船に乗り込んだときから? 分かりません。
それは私の目の前へ腕を差し出しました。
私は恐怖の余り、絶句していました。それが私の唇を撫でました。あの甘ったるい匂いと味が口に広がります。私の意識はそこで途切れました。目覚めたときには私は強い衝動にかられて、妻と共に黒い部屋で座り込んでガツガツ、ガツガツと、キノコを食べ続けました。指先から、髪の生え際から、性器から、黒いニキビがふつふつと湧いて出ても、私たちは饗宴を続けました。私たちはお互いを見つめて、キスしながらお互いの舌を味わいました。ぶつぶつした黒いニキビの感触がしました。甘ったるい味がして、私たちの体はキノコになっていました。体をキノコに占拠されていたのです。日に日に黒色に覆われていく身体、私たちは人間でなくなってゆくほかありませんでした。いままでただの人間だったというのに! 私たちはそれから誘われるように脱出船に戻りました」
俺はこの脱出船を迎え入れることはできないでいた。彼らは、もう人間ではない何かだ。
アルバートは拳を握りしめて震えている。その瞳をまっすぐ受け止めて、俺はその脱出船とドッキングした梯子を解いた。ゆっくりと脱出船は宇宙へ流れていく。
通信はまた再開した。びくりと肩を震わせると、声が呼びかけた。
「神のご加護を! さようなら……」
そう声の主は言って、通信が切れた。モニターのなかの脱出船は見る見るうちに小さくなったが、その軌道に光の帯が見えた。俺たちはスペースシップをアルデバラン星系へと向ける。まだノーヴェンバー号の生き残りがいないか確かめるために。ハイパードライブを行うレバーを傾けようとしたそのとき、俺はためらった。もう一度戻って、脱出船を助けるべきではないのか……。
アルバートは動揺した眼差しを向けて言った。
「ウィリアム、もうあそこには……」
信心深い人間の男と女がいた。ただそれだけだった。彼らの別れの言葉を俺たちは明らかに返さなかった。光の帯はたゆたうように宇宙空間に煌びやかな光を振りまいて、ただ宇宙を流れていった。はるか遠くで光は海綿のような扇状になり、ゆらゆらと揺れていた。〈了〉