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                    少し前のこと、クリスとよばれる一人の男が雑居ビルのオフィスの一室を訪ねた。 
                     そこは何の変哲もないビルだったんだけど、いったん扉を開けると中は思ったよりも広くて、ハイテクのかたまりって感じだった。 
                    「ミスター・リャンの紹介で来たんだが……」 
                    「伺っております。」 
                     カウンターの向こうの男はクリスに席をすすめ、笑顔を顔に張り付かせながら言った。 
                    「お客様は、今日は『処置』をお受けに参られたのでしょうか?」 
                    「あ、いいや、まだよく分からないんだけど……」 
                     カウンターの男はにっこりと笑いながら、うなずいた。 
                    「ええ、大概の方がお客様と同じような気持ちでこちらへいらっしゃいますが、皆様新しい処置に満足しながら帰っていかれます。」 
                     クリスは部屋の中をきょろきょろ見回した。 
                     部屋の明るい色彩は、ここで非合法な医療行為が行われているとは全く予想もできない。 
                    「え~と、その、完全な性転換なんて本当に可能なんですか?」 
                    「もちろんでございます。 
                     最初の被験者――実はこの方法の開発者なのですが――は、十年ほど前に性転換に成功しています。それ以来、何百人もの方がこの方法の恩恵を受けていらっしゃいます。 
                     そうですね、お客様は今日が初めてでございますから性転換の必要性の説明からいたしましょうか。」 
                     男はカウンターの向こうの席に腰掛け、営業スマイルを浮かべながら説明を始めた。 
                    「そもそも、この世に完全な男と女というものは存在しないということはご存知でしょうか? 大概は肉体か精神のどちらか一方が中間的なものを持っているものなのです。そして、人口のかなりの割合で生まれついた性と心の性が一致しない例が存在します。 
                     これは発生学的にも裏付けられていることなのですが、胎生期もしくは出生直後の段階で男性ホルモンの分泌が異常になると、生殖器または脳の生殖を司る部分が、遺伝子で決められた性と異なる発達をすることがあるのです。社会生活での性役割のほとんどは後天的に得られたものなのですが、こういった発達をした人たちの場合、成長後のホルモンバランスにも影響いたしますから、たとえば考え方のパターンが異性的であったり、同性を好きになってしまったりすることもあります。 
                     もちろん、今あげましたのはあくまで特殊な例のことなのですが、身体的、精神的なさまざまな理由から、自らの生まれついた性に対して不満を抱いている方は大勢いらっしゃるのです。 
                     以前はそれらの不満と折り合いながら暮らしていくか、もしくは不格好な整形外科手術によって外見をそれらしく変えるなどの方法に訴えるしかなかったのです。 
                     しかし、」 
                     男は語気を強めた。 
                    「今はそのような悩みを恒久的に、完全に取り除くための画期的な方法が存在するのです! 
                     この方法をお試しになる方の中には、もう一つの性を楽しんでみたいとおっしゃる方ももちろんございます。私たちはそのようなお客様にも満足がいくようなサービスを提供させていただいております。 
                     あらかじめお断りしなければいけませんのは、不幸にしてこの方法は未だ合法的なものとはみなされておりませんことで、当然私どもといたしましても、かなり高価な金額をお客様からいただかないことにはなりません。 
                     しかし、お客様がたの内なる必然性はあらゆる代償を払っても実現するべきものであることを、私たちは重々承知しております。」 
                     クリスは男の話に興味を覚えたみたいだった。 
                    「具体的にはどうやって変換を行うんですか?」 
                     男はいくつかの写真をクリスに見せた。 
                    「単純に申しますと、遺伝子治療とクローニングおよびアポトーシス制御の総合的施術ということになります。 
                     こちらをご覧ください。 
                     これが遺伝子組み替えのために開発された特殊ウィルスの電子顕微鏡写真です。 
                     お客様の場合、このウィルスは全身の細胞に感染して、Y染色体の性決定遺伝子を組み替えまして、X染色体に変換いたします。 
                     女性のお客様の場合はもう少し話が複雑になりまして、つまり、X染色体二つのうちどちらか一方だけに感染するようにうまく制御しなくてはなりませんから。 
                     もちろん、染色体を入れ替えただけでは変換が完成しないのは、先ほど申し上げた通りでございます。 
                     こちらの水槽をご覧ください。 
                     お客様はこの水槽で約一カ月間変換が終わることを待つ必要があります。」 
                    「一カ月間だって? そんなべらぼうな!」 
                     男はクリスの勢いにもひるまず続けた。 
                    「よくお考えください。あなたは性転換を望んでいらしたわけですが、変換が完了した後、そのままもとの職場や家庭にお戻りになられるおつもりなのでしょうか? さきほども申しましたように、今は私どもの技術は合法的なものとはみなされておりません。お客様がいくら真摯にこの技術の適用を望んでいらしても、お客様の周りにいらっしゃる方々はそうは思わないでしょう。 
                     お客様は変換後には元の職場や家族のもとに戻ることはできないのです。 
                     私どもはこの期間を利用して、お客様の新しい身分を用意することができます。」 
                     男はいったん言葉を切ってから、再び話しはじめた。 
                    「話を戻しましょう。 
                     この水槽の中で、性器や脳の一部がアポトーシスによって削られます。脳の記憶自体には影響が出ないことが確認されておりますから安心してください。アポトーシス作業と平行して、クローニングによって原始生殖器官、つまりミュラー管やウォルフ管や尿生殖洞などの諸器官を再生させます。これらの器官のあるものは成長のある段階で失われてしまっているものですから、いったんこの状態に戻す必要があるのです。この時点で、お客様は第一次性徴前の未分化な胎児の状態になります。 
                     あとは、クローニング技術の応用でホルモンバランスを調整しながら器官を再生することで、処置は完了いたします。たとえばお客様の場合でしたら、男性ホルモンの分泌を抑えることで、脳と性器が女性化することになりますね。」 
                     クリスはちょっとめまいを感じながら言った。 
                    「ずいぶんとややこしいことをするんですね。」 
                    「とんでもございません。口で説明すると難しく聞こえますが、ほとんどの技術が百年も前から実用化されていた技術の応用にすぎません。なにも心配なさる必要はございませんよ。」 
                     男はクリスの顔を見ながら片手ですばやく端末に何かを打ち込んだ。そしてコードのついたプレートを取り出して、クリスの前に置いた。 
                    「さあ、こちらに右手の手のひらを押し当ててください。」 
                     クリスはなんとなくいわれるままに右手をプレートの上に置いた。 
                     男は端末の出力を確認するとにっこり笑ってプレートをしまった。 
                    「では、こちらへどうぞ。」 
                     クリスは感じのいい落ち着いた色彩の部屋に案内され、すすめられた飲み物をすすった。 
                     男が持ってきたパンフには先ほど説明があった内容が絵入りで詳しく説明してあって、クリスはその説明に見入った。クリスは学生時代発生学に興味を持ったことがあったのだ。 
                     パンフには処置の価格も記載されていた。非合法である割には意外なほど安価なことに、クリスは興味を抱いた。 
                     しかし、パンフ自体はプリンタで印刷したそのままという感じで、何回も使いまわされたように端が擦り切れている。ということは、このパンフは人に配ることを目的にしたものではないということか。秘密をまもるため? それとも……何かおかしいぞ。 
                     本当におかしい。 
                     急に眠気が襲ってきたのだ。 
                     男が部屋に戻ってきた。 
                     クリスは彼に何か言おうとしたが、意識はまだはっきりしているのに、舌一つ動かすことができなくなっていた。 
                    「まもなく準備ができます。 
                     お客様の支払い能力などを調査するのに手間取ってしまいまして申し訳ございません。 
                     後のことは全て私どもにお任せいただいて、まずはごゆっくりとお休みください。」 
                     そして、視界は暗転した。 
                   目が覚めたときに最初に目に入ったのは見知らぬ天井だった。 
                     そして、相棒がいた。 
                     ということは、ぎりぎりで助け出されたのか。 
                    「やあ、アル、ぎりぎりで間に合ったようだな。」 
                     クリスはおとり捜査で違法な性転換業者を摘発していたのだった。 
                     アルは、しかし何か困ったような顔をして首を振った。 
                    「連中をみんなお縄にするということならイエスだ。連中は処置のすんだ客を戸籍上から抹消し、自分たちの組織が斡旋する仕事に就かせていたらしい。だが……」 
                    「なにか、不都合でもあったのかい?」 
                     アルはしばらくいいづらそうにしていたが、意を決して話しはじめた。 
                    「連中があんなに迅速にことを運ぶとは予想していなかったものだから、俺達が現場に到着したときにはおまえを水槽に放り込んでしまった後だったんだ。 
                     おかげで技術者一人と付きっ切りでおまえの水槽を見張ってなくてはならなかった。」 
                     アルは冗談めかせて笑ってみたが、笑顔はどこか引きつっていた。 
                     クリスは言われてはじめて自分の声が異様に甲高く聞こえることに気づいた。 
                     そんな。 
                    「それじゃあ、またおとり捜査を続けなくちゃいけないな。」 
                     しかし、アルは暗く沈んだ声で告げた。 
                    「それができないんだよ。」 
                    「できないって、……俺は捜査から外されたのか?」 
                    「いや、そうじゃなくて、おまえがもう一回あの水槽の中に飛び込んだとしても、もとには戻れないんだよ。 
                     なんでこの施術が違法とされていると思う? ちょっと試しにやってみるってことができないからなんだよ。 
                     一度転換をやると、ウィルスに対して免疫ができてしまって、二度と感染しないんだ。つまり、おまえはもう元に戻れないんだよ!」 
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                   さあ、どうだったかしら? 
                     いまじゃ信じられないことだけど、いまから何十年か前にはこんなこともあったらしいんだよ。 
                     あのころに性転換した連中は今もウィルスに対する抗体ができちゃってるから、もとに戻ることができないそうさ。 
                     今はもうそんなことはないさ。 
                     互いの性を自由に行き来できるようになったし、法律も今となってはこれを禁止しきれないってわかったもんだから、いっきょに合法化されたしね。 
                     まだ体験者は少数派だけど、一度は試してみるべきだと思うわよ。 
                     体験者のあたしが言うんだから間違いないわよ。 
                     え? 
                     クリスがあの後どうなったかですって? 
                     そんなこと知らないわよ。 
                     案外、今ごろ他人に性転換をすすめてるかもね。 
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