人は生まれてくるまでに子宮の中で進化の夢を見ているのだという説を聞いたことがある。すなわち、ほんの小さな細胞のひとつから、やがてエビのようになり魚のようになり爬虫類のようになり、そんな風に地球の生物進化の過程を一通り体験して、脳の深い処にその記憶を刻み付け、そして人の形となって生まれてくるのだと。
もちろん我々は普段それを意識しない。
ただ、時折何かの拍子に、その遠く深い記憶が泡のように浮いてきて、疲れた大脳皮質の表面に淡い波紋を拡げることもあるのだろう。
我々が理由のない畏れや感傷にしばしば囚われて立ちすくむことがあるのは、案外そんな記憶が原因であるのかも知れない。
畳みを擦るように近寄る足音が聞こえた。わたしは眼を閉じて眠っている。
やって来たのはわたしの可愛い孫たちに違いなかった。
二人の孫の息遣いが聞こえる。
やがてわたしの顔の上に軽く硬いものが置かれる感触があった。
空の紙箱のようだった。
眠っているわたしに何か悪戯を考えて、驚かせようとでもしているのだろう。わたしはどこで起きあがって、子供たちの期待に応えようか考えた。
うんと大袈裟に、思いっきり驚いてやらねばならない。
様子を窺いながら箱の下でそっと眼を開くと、思いの外の光景が拡がっていた。
目の前いっぱいの星空である。
星と星を結んで白鳥やら琴やらの星座の線も引いてあった。
赤や緑や黄色い星の光が眩しい。
きっと、箱の内側を赤や緑や黄色の様々な色に塗り分けて、その上を黒のクレヨンで真っ黒に塗り潰したものだろう。塗り上がった真っ黒の分厚なキャンパスを鉛筆代わりの細い棒で引っ掻くと、下の色が浮かび上がる。
わたしも子供の頃にそうやって、よく花火の絵などを描いて遊んだものだった。真っ黒い画面に鮮やかな花火の色が浮かび上がって、描きながらも自身でうっとりと見入ってしまったのを覚えている。
それにしても、こんなに強くその星々が光り輝いて見えるのは、多分、箱の底が薄く、外の明かりが透けて来るからなのか。
そういえばこんな風な、豪華絢爛な星空を、わたしはずっと以前にも何処かで見たことがあるのを思い出した。もちろんそこには星座の線など描かれてはいなかったが、漆黒の空を埋めて瞬く星の輝きは今と変わらないような気がした。
記憶は曖昧である。
それが何処の星での出来事であったのか、ハッキリと思い出せない。
ただ、断片的に思い浮かぶのは、とても静かな、星降る夜の出来事だったということだ。 わたしは温かな沼地に身体を伸ばし、水辺に茂った湿性植物の隙間から首を立てていた。伸ばした身体の半分は水の中にあって、かすかな水の揺らぎに心地よく揺れている。降り注ぐ星の光は冷たく、鱗に覆われたわたしの身体も金属のように輝いていた。
美しい夜には美しいことが起こる。
やがて年に一度の、彼女たちの行進が始まるのだった。
その日、その日だけが、この荒れた惑星に、空を圧して横切る赤色巨星の、腐ったような鈍い光は届かないのだった。
わたしは沼の向こうの、闇の中に暗く沈んだ森を見詰めていた。そこは雌株だけで構成された、彼女たちの巨大な群落だった。
すでに樹が彼女たちの誕生を促して、光の粉を撒きはじめていた。暗い森の中を金色の雲がたなびき、森の底が積もった光の粉でうっすらと輝いていた。
それは実に不思議な光景だった。
その光の底から彼女たちは生まれてくるのだった。
輝く地面の底を割ってむっくりと起きあがるように立ち上がって来るのだった。
青く白く輝く肢体は人間の女そっくりだった。
頭の上にぶ厚な花弁の、毒々しい花を咲かせた人間の女そっくりだった。
しなやかな輪郭の若い人間の女そっくりだった。
次から次へと裸の女が森の底から生まれてくるのだった。
やがて、彼女らはその長くすらりとした肢体を森の中央に持ち寄り集うと、踊るように跳ねて、一斉に森から飛び出したのだった。
そうして水面に淡く影を映しながら、雄株の待つ荒野へと行進を始めるのだった。
雄株は荒野で興奮していた。
醜くねじれて地を這う枝の節々に突起を開いて彼女たちを歓迎していた。
突起からは紅い舌のようなシベを延ばし、盛んに精胞を飛ばしていた。
精胞は雪のように荒野に舞い、辺り一面に降り注いだ。
その降りしきる雪の中を彼女たちは誇らしげに、胸を突き出し、頭上いっぱいに開いた巨大な雌蕊の、美しい生殖器の花をかざして歩き続けるのだった。
降り積もる精胞の雪を、ぶ厚な花弁にどん欲に受け止め続けるのだった。
わたしは時間を忘れてその光景を見詰め続けた。
見詰めても見詰めても見飽きることがなかった。
それからまた時間が流れた。
矩形に切り取られた窓の外を星が流れていた。
わたしは丸く丸めた身体の真ん中に頭を置いて宙を眺めていた。窓の外を星が流れるのは疑似重力を得るために船が回転しているからであり、本当のところは、秒速数百キロメートルの速度で航行し続けているこの船からでさえ、たとえ何時間経とうと、ほとんどそこに見える恒星の位置は変わらないことをわたしは知っていた。
宇宙は広大で、孤独だった。
クルーの一人が支柱から支柱を伝ってやって来るのが見えた。もう、船の暮らしも随分になるというのに、いまだに何処かぎこちなく滑稽な感じだった。
高圧高密度の環境で進化した我々の身体だ。宇宙船の環境にはいつまでたっても馴染めないものがあるのだろう。
「眠れませんか?」
「ああ」
とわたしは答えた。
「ちょっとリズムが狂ってしまったのだろう。いつもよりほんの少し星を見上げている時間が長くなってしまった」
クルーは頷いてわたしと一緒に宙を見上げた。
無数の星々が静かに回っていた。
「もうどれがそうだったか見分けられませんね」
「ああ。 ……見分けられんね」
鸚鵡返しに答えてわたしは眼を閉じた。
閉じた瞼の裏にもやはり燦然と星が輝いていた。
いまでは見分けられなくなってしまったあの惑星からの眺めだった。刻み付けられた記憶はわたしの瞼の裏から消えない。
そこは老年期の惑星だった。
腐った赤色巨星に灼かれて荒廃した地表の、奇跡的に残った泉の周囲に、わずかばかりの残存生物種が細々と世代を繋いでいた。
やがて全てが灼き尽くされる、死を待つだけの惑星だった。
不足したマテリアルの補給のためにその惑星に立ち寄った我々は、仲間の一人をそこで失った。
寡黙で、一途な情熱を持った若い仲間だった。
どうして彼がその惑星で死ななければならなかったのか、わたしはくり返しその事を考えていた。
堆積したマテリアルの採集以外に、なんの興味も持てないと思われていた惑星だ。
しかし我々はその惑星で奇妙な植物の奇妙な振る舞いに遭遇したのだった。
それは頭の上に花弁を開いて二足歩行する、奇妙な植物だった。
すらりと伸びた花茎に見事な花を咲かせて、二本の脚で雄株の間を練り歩き受粉する不思議な植物だった。
その姿は我々が遠く目指す、銀河のはずれの、青い惑星。そこに住む”人間の女”に良く似ていた。
若い人間の女だった。
若い人間の女が頭上に花の冠を戴いてしなやかに歩く姿に似ていたのだった。やわらかで、引き締まって、なめらかだった。
我々はその美しさに吸い寄せられ、酔ったように長い時間を見とれていたのだった。
それはまさに”美”への遭遇だったと言うべきかも知れない。
”女”は受粉をすると彼女らの森へ還り、適当な宿主を見つけると着生した。宿主に跨り、その身体に深く根を伸ばして養分を吸い上げ成長するのだった。そうやってまた、大きな樹に育っていくのだった。
彼女たちの犠牲となるのは、大抵は森の中の小動物か大きめの果実、あるいは動物の死骸などだった。だから深い森の中で、行方不明になった我々の仲間を発見した時には驚いた。どう考えても、彼は自らの意志で宿主になったとしか思えなかったからだ。しかも彼は、その時人間の男の姿にメタモルフォーゼしていたのだった。
薄暗い緑の森の中で、ギリシャの彫像のように均整のとれたたくましい身体が、朽ちて苔むした倒木の幹に寄り掛かかっている姿は、まるで絵のようだった。
彼の顔面は艶めかしい女の脚で締め付けられ、すでに女の根が、血管のように、彼の奥深くに侵入していた。
わたしはその凄惨な姿に胸を衝かれた。それもまた美しいと思ったのだった。
「あいつももう、完全にあの森の一部となっているでしょうね」
「多分、そうだろう」
「悲しいですね」
「ああ。悲しいな」
森の樹は、基本的に、宿主となった生き物の栄養価によってその成長が左右される。きっと彼に跨ったあの女の樹は、とびきりの素晴らしい樹に育ってゆくのだろう。わたしにはその姿が想像出来るようだった。悲しくはなかった。むしろ羨望するような気持ちさえあった。
「あいつ、われわれの旅に絶望していたんでしょうか」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れないし……」
わたしは曖昧に答えることしか出来なかった。
我々の旅は長く、繋ぐ希望は僅かだ。
この男が言うとおり、どこで絶望してもおかしくはないのだ。
けれども彼が死を選んだのはそういうことではないのだとわたしは思っていた。
絶望だけが人を死に駆り立てるわけではない。
美しいものもまた、人を誘惑する。
彼は森の中で美しい妖精に死への誘惑を受けてしまったのではないだろうか。だからこそ彼もまた、美しい姿に変身して、自身を美への供物としてビーナスのもとへ差し出したのだ。わたしにはそんな風に思えた。
彼の頭上で勝ち誇ったように胸を張る裸のビーナスを見た時、わたしにはそれが確信として伝わったのだった。
「わたしもあいつのように、あの青い惑星に着いたら、人間の男にメタモルフォーゼするつもりです。こういっては何んですが、あいつの変身した姿、カッコ良かったです」
深刻な気分が一転した、無邪気なクルーの告白にわたしは苦笑した。
彼の場合には、美は生きる力へと作用したようだった。
「あなたは?」
訊かれて戸惑った。
わたしはあの青い惑星に着いたらどうするのだろう。
何も考えてなかった。
何処か静かな水のほとりで、その惑星の生き物に混じって、ひっそりと夜空を見上げていられればそれでいいような気もした。
それよりも大切なのは、我々がどのように姿形を変えようとも、この記憶を、我々の旅の歴史を、脳の深い処へ刻み付け、決して忘れないよう世代を越えて受け継ぐことなのだと思った。
ガンガンと、四隅に何かを打ち付ける音が響いた。
読経に混じってすすり泣く声もする。
孫たちは何処へいったのだろう、まるで誰かの葬式みたいだ。
と思ったところで心当たりがした。
わたし自身の葬式だった。
わたしが四角い箱の中に収められ今蓋をされているところなのだ。
おかしなものだと思った。人間は死んでも意識があるものらしい。
しかし、それもまた当然かも知れない。
胎児が生まれるまでの間に進化の夢を見るというのなら、死んでからもまた、夢の続きを見ても不思議ではないだろう。
いやそれとも、生まれて生きて死んで、その全部が夢の中なのかも知れなかった。
星座が回っていた。
夢の中でわたしはいつの間にか宇宙船に乗っていた。支柱がいっぱいあるおかしな船で、わたしの身体は蛇のように長く伸び、支柱から支柱へうねうねと伝い歩いていた。
ほんの一時、わたしはある星に滞在していた。それからまた別の星にも。
とりとめもない夢はまだまだ続く。
終
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