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箱の降る町

安岐野一星

 『箱』を描いた絵ばかりになりそうでちあき先生は少しこまっている。雑木林をバックにみごとに咲きそろった秋桜を子供たちに見せようと、わざわざ秋晴れの一日を選んで裏山につれ出したというのに、あいにく前の夜『箱』が段々畑のまんなかに降ってきていた。
 でも聡たちにとってはこれ幸いだった。水彩の筆をあやつって樹木の葉っぱや花の彩りの細かい違いを描きわけるのはとてもめんどくさい。その点ま四角な『箱』ならかんたん――そいつを画面の中央に大きく描いておいて周囲に申しわけ程度に草木をそえておけばいいのだ。誰かがそうやっているのをクラスの全員がつぎつぎにまねたものだから、どの絵もどの絵もみんな同じような絵柄になってしまっていた。
「なんであの立派な百日紅の枝を描かないかなあ? ほら、山崎くん。きみの真正面に見えてるじゃない? わざわざ横っちょの景色を描かなくてもいいでしょう?」
 言われて山崎くんはにやにや頭をかいた。漢字の書き取りは苦手でも小学校四年ともなれば世渡りの術をけっこう身につけている。なんとか難しい樹木は描かずにすませたいわけだ。チームプレイよろしくわきから斉藤くんが助け船をだした。
「先生、おめでとうございます。どうぞつつがなくおたっしゃで」
「……こらこら。なあに関係ないこと言ってるの?!」
 頭をこつんとひとつ叩いたものの先生の顔には思わず晴れやかな笑みがこぼれてしまい、それでどうやらふたりとも無罪放免になった。
「なんのこと?」
 大人しい性格なので友達同士の遊びにあまり積極的に加わらないでいる聡はいつもクラスの情報にちょっとうといのだ。
「知らないの? 先生、もうじき学校をやめるのよ」
 仲間の輪からふり向いて多恵子ちゃんがまるで弟を相手にしているような偉そうな口ぶりで教えてくれた。
「結婚して春からべつの町の学校で教えるんだって」
 おどろいた顔がかなりこっけいに見えたのだろう。多恵子ちゃんはかたわらの由佳ちゃんの腕をほらほらという具合にひき、ふたりして聡を見てその場でくすくすと笑いころげた。いささか気分を害して立ち上がり、彼は写生道具一式をかきあつめるとすこし離れた裕美ちゃんのいる場所へ移動した。
 ま新しい鳶色のカーディガンを着て裕美ちゃんはひとり彼岸花を描いていた。ノートの端に少女マンガの主人公の顔を描いているぐらいで裕美ちゃんの絵はなかなかうまい。図書館でときどき宮沢賢治やエンデみたいな高学年向けの本を開いていることもある。ただいつもちょっと変わった夢のようなことを言ったりしているせいかクラス友達とは離れてひとりでいることが多い。聡とは幼なじみということもあって、男女を意識しはじめる年頃にもかかわらず登下校の時もよく話をする。前髪がうっとうしいのか目をすこし細めるようにして朱色の花を見つめている裕美ちゃんのかたわらにうずくまると聡は小声で言った。
「ちあき先生、学校をやめるんだって?」
「そうだって――聡ちゃん知らなかった?」
「うん」
 そう言ったきり彼は黙り込んでしまった。いままで身近な人が二度と会えない場所へ去っていったという経験はついぞなかったのだ。入学してはじめての担任だった佐々木先生、つぎの担任だった阿部先生、相川先生――には職員室に行けばいつでも会える。人生は新しい出会いはあっても別れなんかない、といままで何となく聡は思っていた。でもよりによっていちばん好きだったちあき先生が自分たちを残してどこか別の場所へ行ってしまう――その事実はなんだかちょっと受け入れがたかった。もうすこし歳が上だったらあるいは自分のそのいたたまれないような気持ちに別の名前を与えられたかも知れない。でも聡はどうともわりきれないままに自分の心をもてあましていた。
 男友達の気持ちをさっしていたとしても表情には出さずに裕美ちゃんは黙って絵を描きつづけている。川のほうから吹き上がってくる風がスケッチブックをのせたスカートの端をはためかした。秋の日ざしが裕美ちゃんの襟足を照らし、おくれ毛が茶色く透き通って震えていた。聡はなんだか気はずかしくなって目をそらすと大きなため息をひとつつき、絵の続きを描きはじめた。四角い線をていねいに消しゴムで消し、構図をまったく新しくかえて彼は『箱』が出現する前に教室の窓からながめた裏山の風景を描くことにした。

*

 いつの頃からか聡たちの町にも『箱』が降りはじめた。青い大気の奧からにじみ出すようにして『箱』は現れ、誰かの手が注意深くとりあつかっているようにゆっくりと大地に置かれた。大きさや形はさまざまでもそれらはどれもこれも同じかすかに青みをおびた艶やかな銀白色をしていた。
 『箱』たちはなんだか紙ででもできているように悪気なく軽快だった。茅葺き農家のふるびたたたずまいとは対照的にそのどこまでもまっすぐな直線と平面は目に心地よかった。ふと顔を上げてその表面に映りこむ空と雲とを眺めるとき誰でも気持ちが晴れやかになった。大人たちは必ずしも『箱』をいとわなかったし、子供たちは素直に『箱』に夢中になった。それはいつでも素晴らしい何かを内側に包み込んでいるように見えたのだ。

*

 つぎの春にちあき先生は学校をやめ、聡たち五年生のクラスは二年生だったときの阿部先生がふたたび担任することになった。最初のうちはなんだか時間が巻き戻ったようでひどく物足りない感じがしたけれど、ふと気づけばランドセルの肩ベルトが穴三つずれていたし、下足棚の最上段だって楽に手が届くようになっていた。聡もクラスの友人たちも確かに成長し、女の子たちにいたってはもうちょっと近寄りがたいほど大人びてきていた。
 梅雨にはいり思い切り外で遊べないので子供たちはエネルギーをもてあましていた。それにくわえて聡がいっそう落ち着けないのは裕美ちゃんの様子がこのごろ少し変だからだ。いつもきちんと三つ編みにしていた髪の毛が櫛も入れずに乱れていることがおおくなった。カーディガンの肘が薄くなって袖もすこしほつれていたりする。顔色だってあまりよくない。授業中にそんな裕美ちゃんを盗み見ると聡はなんだか胸がつまって苦しくなる。こざっぱりしていた彼女の変化はクラスの女の子たちの注意をひきつけないはずがない。ひさしぶりの晴れ間の体育の授業のまえ、蒸し暑い校庭でさっそく多恵子ちゃんが仲間たちに情報通ぶりをひけらかしていた。
「……うちのおかあさんの高校の同級生なのよ……それでそのおばさんが裕美の家とも親しくしていてね――」
 ひそひそ話の横を通り過ぎようとしていた聡はその場でぴたりと足を止め、あらぬ方をながめるふりをしながら耳をすませた。
「店にしょっちゅうお客として来ていた人だったんだって。もういっしょに暮らしているらしいよ」
「へええ、ほんとにー? じゃあ見ず知らずの男の人が家のなかにいるんだ? なんかいやだろうね」
「しかたないじゃない。前のおとうさんが死んじゃってもうじき五年たつんだから、そろそろおかあさんがつぎの結婚を考えてもおかしくないころでしょ?」
「やさしい人みたい?」
「どうかな。知らない。なににしてもそう簡単に親しくなれるわけないんじゃないの? 彼女、おとうさん娘だったそうだし――」
「そっかあ。それで裕美このごろ変なんだ……」

 その日の下校時間、聡は意味もなく傘をくるくる回しながら校舎の前で裕美ちゃんを待っていた。そうしていっしょに帰るのはほんとうに久しぶりだと彼は思った。掃除当番の仲間たちからずっと遅れて出てきた彼女と並んで歩きながら、しかし聡は口を開きかねていた。裕美ちゃんはといえばふくらはぎをどろまみれにして校庭で野球をしている男の子たちをぼんやり眺めている。このごろ近眼になって以前ファウルボールに当たりそうになったことがあるという。聡くんはさりげなくそちら側を歩いて危険から守ってやっている形だ。すこし男の子を意識する。
「吉村くん、わたしって変かな?」きゅうに裕美ちゃんが言い出したので聡はとまどってその横顔を見つめた。傾いた西日がまぶしいのか、それともどこかが苦しいのか裕美ちゃんは額にしわをよせている。
「このごろ箱むすめ、って言われるんだ」
「箱むすめ?」
「みんなと話しているとき急にひとりで箱に入っちゃうからだって。自分じゃわからないんだけど」
「――多恵子ちゃんたちとうまくいってないの?」なんのことかピンとこないまま聡は遠慮がちに聞いた。クラスの女子たちのあいだの仲間関係はよくわからない。
「シカトされているとか?」
「ううん、そんなことないよ」
 それっきりふたりは黙って歩いた。ときどき背負いなおすランドセルのなかで筆箱がかちゃりかちゃりと音を立てる。
 背後から新聞配達のバイクがふたりを追い抜いていった。黒いアスファルトのうえを青白い排気がただよい流れた。けたたましい音が消えてしばらくして聡は裕美ちゃんがついてこないことに気づいた。ふりむくと道ばたにしゃがみこんでいる。
「どうしたの? 裕美ちゃん? 具合悪いの?」
 裕美ちゃんは何も答えない。ただその姿勢のまま凍りついたようにじっと地面を見つめている。膝の上でしっかりとにぎりしめた両のこぶしが血の気がうせて白くなっていた。聡が近づいてもまるで目をあげない。セーターの袖が少しまくりあがって白くて細い手首がみえる。そこに青黒いアザがあるのを見て聡は胃のあたりがぞくっと冷たくなった。
 まもなく裕美ちゃんはふらりと立ち上がり、まるで聡の顔を通り抜けて遠くを眺めているような目つきのまま言った。
「ごめん。いつもこんなふうなんだって。ときどき箱にはいってしまうの」
 聡は無理に笑うとうなずいた。
「昔から裕美ちゃんそうだったじゃない。なにかを空想しているとぼくがなに言っても耳にはいらないことがよくあったよ」
「……そうだったっけ」
「うん」
 それからふたりはまた黙って両脇に『箱』たちが並ぶ街道を茜に染まりかけた畝雲をながめながら並んで歩いた。

*

 農道をぐんじょう色のちいさな法被が並んでやってきた。赤白の引き綱を持つ低学年の生徒たちだ。ごたぶんにもれずこの町も担ぎ手に不足するようになり、いまはもっぱら子供神輿を鳳車にのせ町内をまわるだけ。行列をとりかこむ大人たちの数のほうが多そうだ。
 昼にとおり雨がぬらした地面がからっと乾き、河原からの微風が草いきれをはこんできていた。真夏の日ざしはきつく子供たちはあまり元気がない。ようやくお不動さまの祠のわきにたつ赤松の木陰に到着すると氷をうかべ瓶をならべたクーラーボックスのまわりに子供たちはいっせいに駆けよってきた。聡も親がPTAの役員をやっている関係で夏休みの一日、祭りの雑用を手伝わされていた。
 交通整理の赤い旗をにぎったこぶしで額の汗をぬぐい、冷えたラムネが一本のこらずうれてしまわないか横目で心配しながらふと顔をあげると、神社につづく土手ぞいの道を行く浴衣姿が見えた。藍染めの市松絣に欝金の夏帯が見ちがえるほどおとなっぽい。紅梅色の巾着袋をゆらしながら地面を見つめ足早にあるいていた裕美ちゃんがきゅうに立ち止まり、行く手の人影をうわめづかいで見あげた。やせた猫背のシルエット――さし出す白い手の甲に黒い毛が密生してる。竹笹の照りかえしでふたりの表情はよくわからない。しばらく裕美ちゃんのほうを見ていた男が何か言い、裕美ちゃんはためらいがちにこくりとうなずくと相手に近づき、長い腕がのびて手をとるのにまかせた。
「あれが笠原さんの旦那になるって人だよ。ちょっと無愛想だけど悪い噂もべつにないようだし、娘さんともうまくいってるみたいだし、まあ結構じゃないか――」
 大人たちの話に耳をすませながら、そうして飲むラムネはみょうに喉にまとわりついた。

 夏休みのあいだに裕美ちゃんのおかあさんが再婚したという噂が耳にはいった。新学期にはいっていく日か顔を見せたあと、裕美ちゃんはぱったりと学校へ来なくなった。夏風邪をこじらせたという阿部先生からの説明だったが、聡はみょうに胸さわぎがしてほとんど勉強が手につかなかった。
 一週間後の朝、台風の雨で増水した用水路に死体が浮かんだ。夜酒に酔って帰宅するとちゅう足をすべらせて溺れたのだろうと人々は考えたが、ひきあげられた背中に刃物で刺された傷があると知り困惑した。いまだかつて凶悪事件のおこったことのない静かな田舎町の国道ぞいに夜半の豪雨でも洗い流されなかった血痕が点々とあった。男は助けをもとめて診療所にむかうとちゅう出血多量で力つき流れに落ちたようだった。小さな町の中のことだから身元はすぐに明らかになり――そしてたまたまそれが裕美ちゃんの新しいおとうさんだったものだから聡たちのクラスは騒然となった。やがて裕美ちゃんのおかあさん本人が重要参考人として取り調べられていることがつたわると騒ぎは町中に広がった。おかあさんはそのまま本庁におくられて当然ながら裕美ちゃんはそれから二度と聡たちのまえに姿を見せることはなかった。

 二学期の半ばをすぎても教室といわず廊下といわず事件のうわさでもちきりだった。誰しもいちおうはじめは声をひそめていたけれど、そのうちにどうしても声高になってしまうのだった。多恵子ちゃんなんかとくにそうだ。
「――それってほんとうにほんと?」
「うん、ほんとにほんと! 自首する前の晩におかあさんがずぶぬれで家にやってきてそう言うんだって。娘の身を守るため刺しましたって」
「きゃっ――ドラマみたい!」
「それで夜が明けてからふたりで警察にいったんだって」
「でも、そんな大人もいるって聞いたことはあるけど、まさかねえ……」
「ううう、気持ち悪い。いくら義理の間柄だって……父親と娘でしょ?」
「ずいぶん前かららしいよ。いっしょに暮らすようになってじきに――おかあさん夜の仕事だから朝は寝ているでしょ――」
「げーっ」
「じゃ、はじめから裕美目あてだったってこと?」
「たぶんそうなんじゃないー?」
「信じらんない。うう、ほら見て――鳥はだたってる」
「ほらほら。わたしも!」
「だってだって――どうしてそんな気持ちになるのかな? あの裕美だよお?」
 すっとんきょうな由佳ちゃんの口調につい女の子たちもぎこちなく笑ってしまう。
「たぶん見さかいなんかないのよ。ヘンタイなんだし、だからあんたも気をつけなさいねー」
「なーに、それどういう意味よ」
「ううん、裕美みたいな内気なタイプのほうがかえってあぶないんだよ。大人しくてひとりで何かしていること多かったでしょ? 彼女」
「そうだったねえ」
「ぐっと耐えるタイプよね?」
「そうそう、そういえば掃除のパケツの水捨てさせたときも毎回文句言わずに黙ってやってたっけ。もともと彼女頭の回転ちょっととろいとこあったじゃない? だからあんなことされても誰にもうちあけないで、結局ああなっちゃったんだよ。だからさあ、やっぱり――きゃあっ!」
 最後の悲鳴は聡が通りすがりに多恵子ちゃんのスカートをパンツのゴムがみえるほどめくりあげたからだ。
「……何すんのよ! 吉村、バカ! このどスケベ!」
 どスケベとまで言われてもべつに腹もたたなかったが、はじめてめくったスカートの主が多恵子ちゃんだったことが聡はくやしかった。

 すぐにも飛んで行きたかったが両親にきつくとめられて一月後、いたたまれなくなった聡はないしょでひとり裕美ちゃんの家に向かった。小さなスナックだったそこはすでに寂れた廃屋になり、子供たちの間で幽霊屋敷とさえ囁かれはじめていた。夕暮れ時に全身ずぶぬれの男がしゃがみこんでいるのを確かに見たという子もいたが、やりばのない心持ちのいまの聡には気にもならなかった。下水蓋の上に自転車を止めカタバミやタンポポの葉をふみわけて裏にまわるとさびついたプロパンボンベの横の窓から彼は中をのぞきこんだ。暗い廊下の板張りの上に壊れた家具の一部らしい板が埃をかぶっておかれている。
 先に進むためには丈高く茂った雑草の茂みをかきわけなければならなかったが彼は歯をくいしばり頑固につきすすんだ。オナモミの実や蜘蛛の巣を頭からはらいつつようやくたどりついた出窓は裕美ちゃんと妹の部屋だったところだ。そこが背後の崖がじゃまをして日がさし込まないのでいつでもカビ臭くしめっぽい和室であることを小学校にあがるまえに何度か遊びに来て聡は知っていた。育ちすぎたユキノシタの葉と青黒いトタン壁の間に身を押し込むようにして、壊れた雨戸のすき間から彼は内部をのぞき込んだ。三畳間はがらんとして床全体にうっすらと白い埃がつもっていた。いまは襖のなくなった部屋の奥の押入の棚になにかきらりとひかるものを見つけて聡は目をこらした。ほの暗い空間にぽつんと置かれたそれは縦横二十センチほどの小さな方形の『箱』だった。

*

 いつしか月日がたち聡は中学三年になった。すでに町は近隣の山の斜面にいたるまで大小の『箱』で埋めつくされ、田畑は駐車場や空き地へと変わり、そうして都会への寡黙な通勤者となった町の人々といっしょに今年から聡もバスで三つ隣の町にある私立高校に通うことになっていた。
 春まだ浅いある日曜日。ふいに昔通っていた小学校を見たくなり聡は朝食のあと新雪をふみしめながらでかけた。前日雪を降らせた雲はまだ山向こうに残っているらしく予報では晴れのはずがときどき灰色の空にちらちら風花が舞っていた。
 校庭にはもう子供たちの長靴の跡が縦横に刻まれていて鉄棒のあるあたりには小さな雪だるまがいくつか小首をかしげていた。そのとき聡は見覚えのあるなつかしい後ろ姿を校門の脇で見かけ、うれしさに鼓動が高なるのを感じた。
「先生!」
 呼ばれてちあき先生はふりむき、いっしゅんこれは誰だったろうという表情で彼を見た。
「吉村です。四年生のときお世話になりました」
「吉村くん……」ちあき先生の顔にゆっくりと懐かしそうな表情がひろがった。
「見違えたわ――そうか。考えれば春から高校だものねえ」
 うなずくと彼は先生に歩み寄り並んで校庭の雪景色をながめながら話しかけた。
「先月町にもどられたって聞きました」
「うん、両親とちょっと相談ごとがあって。ついのんびりしちゃったけど来週になったら出ていくつもり。なんだかすっかり様子もかわっちゃたし」
 先生は学校を取りかこむ大きな『箱』たちを見上げるようにした。
「なんだか寂しいね。以前のままなのはここだけかな」
「……おかあさんになられたそうでおめでとうございます」
 硬いつぼみをつけた沈丁花に縁取られた通学路をゆっくり歩きながら聡はぎこちない口調で言った。
「ありがとう――町にもどったのはね、息子を一時両親にあずかってもらうためなの。離婚した女はなにかと大変なのよ」
 返答に困って聡はとっさに頭にうかんだことをそのまま話題にのせた。
「父方の従姉妹も去年離婚したんだそうです。結婚式のときにはぼくも初めて呼ばれていったんです。すごく料理が豪華でびっくりしたんですけど――結局あれはなんだったんだろう? 結婚て、すべてかならず上手くいくとはかぎらないんですね」
 ちあき先生がくすりと笑い、聡はまずいことをしゃべってしまったのかと心配になって足をとめた。
「吉村くんとこんな話する日がくるなんてねえ。ああ驚いた。わたしももう若くないってことかな……」
「先生はちっとも変わりませんよ!」否定の言葉に力がこもりすぎていたらしくちあき先生がおどろいてあげた目線ともろにであってしまって聡は赤面した。先生は微笑み、しばらくふたりは黙り込んで歩き、板張りの校舎の壁にそって右にまがった下足室の入り口まで来ると申し合わせたように足をとめた。なんとなく口をひらきかね、すのこの上に置き忘れられた上履きの小ささを半ば信じられない思いで聡が見つめていると背後からちあき先生がぽつりと言った。
「このごろ先生はね、吉村くん。『箱』には人間の夢がいっぱいつまっているんじゃないかと思えるの」
 ふりむくと雲が薄くなりその奧に青い空がのぞいて、ちあき先生は明るさとともに次第に白さを増しているように感じられる『箱』たちを見上げていた。
「だから空気のなかから湧き出て羽のように軽々と降ってくるのよ。そしてたぶん人の心のなかにも目には見えないけれど同じ『箱』があるんだわ」
 無数の小さな手で擦られつやつやした入り口の角の柱に手さぐりで触れながら独り言を言うみたいにして先生はつづけた。
「この木の感触は好きだな。なくなってほしくない――『箱』の手触りにはない吸いつくみたいなぬくもりがあるから」
「そうですか。でもぼくは『箱』を温かく感じることあります」
「そう? そうかな……わたしがそう感じるのは自分の個人的な体験のせいなのかも――でもね、どうしても先生、このごろ人の心のなかにも硬い『箱』を見てしまうのよ。硬い面が擦れ合ったり互いに角を押しつけ合うごつごつした痛みが感じられて……」
 柱をなでつつ先生は言葉をさがしているふうだった。
「最愛の人とひとつの『箱』の中身を共有できたらどんなにかいいのだろうけど、人はそれぞれ自分自身の閉ざされた『箱』を抱えて手放そうとしないものらしいの。たぶんそれは『箱』のなかに自分だけの夢がつまっているからでしょうね」
 うなずいたけれど、聡はちあき先生の言っていることがほんとうに自分に理解できているかどうかわからなかった。短い沈黙がつづいたあと不意に先生は小さな木造校舎をのぞきこむ『箱』たちをふりむき腕をぐるりとまわしてすべてを抱えこむような身ぶりをした。
「だからこんなにたくさんの『箱』が降ってくるんじゃないかな。ひとりひとりべつべつの大きな夢たちがこれだけこの町にはあるってことよね」
「じゃあ、ぼくの持っているのはたぶんこの町でいちばん小さな夢ですね」
 なぜかわからないまま聡は裕美ちゃんの家に忍び込んだいきさつを正直にちあき先生に告白したい気になった。
「いちばん奧の雨戸の閂が壊れたままなのを知っていたんです。それでその『箱』をそっと持ち出して、誰にも知られないよう勉強机の一番下の引き出しにしまってあります。ときどき机の上に置いてぼうっと眺めたり、手に持って感触を確かめたりしているんです。そうしていると冷たいはずの『箱』の表面がなんだかぽっと温かくなるように感じられて――いま先生に言われてようやくわかりました。あれは裕美ちゃんの夢なんだってことが」
「……裕美ちゃんの夢」
「小さな箱にすっぽりと入って隠れてしまいたい、というとても悲しい夢です。ぼくには何も話してくれなかったけど、彼女すごく辛いことがあったんです。新しく父親になった男に――おかあさんが怒りのあまり我を忘れて包丁を持ち出すようなことをされて……先生も聞いていますよね?」
 ちあき先生はぬかるんだ地面を見つめながら腕を後ろ手に組んでまるで幼い女の子がいやいやをしているようにゆっくり身体をゆらしていた。やがてため息をつくと、先生はうつむいた視線のままで言った。
「身を守ることのできない立場の者を傷つけるのはね、吉村くん。人としていちばん卑怯な行為よ。でもあれは先生をふくめてまわりの大人たちの責任でもあるの。もっと裕美ちゃんのことをよく見ていてあげるべきだったわ」
「まさか、先生のせいのわけありません。裕美ちゃんのお母さんが再婚したのは先生が学校をやめられてから後のことです――」
 でもちあき先生は首を振った。
「もう一年あなたたちを担任するという選択もあったの。でもなぜかあのときわたしは結婚をあせっていた。いまにして思えばもう失敗の予感があったのかも知れないな。そうして――教え子がそれほど辛い思いをしていたのに、遠く離れてわたしは自分のことだけで頭がいっぱいだった。せめてこの町にいたなら事態がそこまでなる前に何とか相談にものってあげられたかも知れなかったのに……」
 彼女はしばらく動かなかった。それから鼻を鳴らすような音をたてて顔をあげると聡に悲しげに微笑んだ。
「小さな『箱』にぬくもりを感じられる聡くんの優しい気持ちがいまの先生にはとってもうれしいな。あなたならいつか裕美ちゃんをその暗く小さな場所から連れ出せると思う。その日を信じて、それまで――吉村くん、その『箱』ずっと大切に持っていてあげて」
 聡は先生の目を見つめてこくりとうなずいた。
「先生……」
「なあに?」
「もし――いまのことがかなったなら、同窓会を開きたいと思うんです。来てくれませんか? ぼくがみんなを呼び集めます。秋桜の咲くころがいいですね。晴れた日に、むかし図画の時間にスケッチにいったあの裏山に――まだ『箱』の降っていないあたりまで登っていくんです……」
「いいわね。いまから目に見えるよう――ぜひ参加したいな。お願いするわ。吉村くん、わたしがあんまりおばあちゃんにならないうちに実現してね?」
「ええ。はい、まかせてください」
 白い吐息とともに笑いあい、それから黙ったままふたりは顔をあげて晴れてきた雲間からこぼれる日差しが『箱』たちを眩しく照らしはじめるのを待った。

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