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鯨時計

高本淳

「いい? 近代的な時計はそもそも時間より空間を計るための道具として発明されたの」
 広い食堂の片隅にケイコが娘たちの姿を発見したとき、姉のドリスは合衆国海軍の下士官たちに取り囲まれて『講議』のまっ最中だった。
「……たとえ羅針盤と信頼できる海図があったとしても、いま実際自分たちがどこにいるかを知っていなければ役にはたたないわ。安全に航海するために船長はつねに現在位置の緯度と経度をわきまえている必要があります。幸い緯度を知るのは簡単。人間たちは三千年も前からそれを知っていました。えーと、どうやるかご存じ?」
 四つ年下のセティスのまるで海軍アカデミーの指導教官にでもなったようなしかめっ面の前で、男たちは苦笑しながら互いの顔を見合わせ得意満面のドリィの弁舌にはますます拍車がかかった。
「えへん、簡単なことよ。北極星を見つけることはできるでしょう? 北半球ではただ水平面から見上げたその角度を測定すればいいんです。それがまさにあなたがいる地点の北緯になります。もし北極星が真上にあるなら、あなたは北緯九十度――つまり北極点にいるってことです……」
 母親が部屋を半ば横切るあいだに彼女の話はすでに佳境に入ろうとしていた。それほどこの『 下士官食堂 メス・デッキ』は広かった。なにしろ〈セオドア・ルーズベルト〉の乗員は 艦隊飛行士 アヴィエーターを含めて五千名をゆうに超えるのだ。
「難問は経度のほう。もしある天体の南中時刻を秒単位で精密に測定することができなければ、あなたは自分がその緯度線上のどこにいるのかを漠然としか知ることはできません。地球が赤道付近でほぼ音速で自転していることを考えれば、例えばこの時刻の数分のズレがどんな大きな距離になるか想像できるでしょう? 1分ごと十海里の誤差が積み重なれば、それはユカタン海峡を無事通過できるか、それともハバナの街のどまんなかに乗り上げてしまうかの違いになるのよ。――そこで必要とされるのが航海用の精密時計……もしそれが正確にグリニッチ標準時を指し示していてくれれば、船乗りたちは目的の天体の南中時刻を数秒以下の誤差で知ることが可能です。
 ジョン・ハリソンはまさにその目的のためにクロノメーターを作り出したの。時計が時刻よりも位置、時間よりも空間を計測するための道具であるというのはつまりはそういうこと……あ、ママ!」
 どうやって囲みを突破しようかとまどっている母親の姿を見つけたドリスがそう叫ぶと数十人の水兵たちはいっせいに立ち上がり、まるで海軍提督を迎え入れるかのように小柄な日本女性のために道をあけてくれた。人混みの苦手なケイコはいたく恐縮してほとんど怯えに近い感情をいだきつつ屈強な男たちの間をすりぬけ娘たちの席にたどり着いた。
「いい子にしていた?」
 背後からふたりの頬に交互にキスしてからケイコは兵士たちに急いで詫びた。
「すみません。せっかくのお食事時間なのに子供たちが邪魔をしてしまって……」
「……いや、とんでもありません。奥さん」
 錨を模した階級章つきの帽子を胸の前でもてあそびながらひときわ頑健な身体つきの下士官が答えた。
「わたしどもこそ大変楽しませてもらいましたよ。びっくりしました。賢い娘さんたちですね?」
「どうも、マコーミック伍長。でもまだまだ子供ですわ」
 逞しい軍人たちが笑顔で三々五々去っていく後ろ姿を見送った彼女はドリィの肩に手をまわしてそっと言い聞かせた。
「ねえ……あなたも自分の耳学問を披露する相手を選ぶことをそろそろ学ぶべきじゃない? なにも得意げに専門の人たちに船の進め方を教えてあげる必要はないとママは思うんだけど……」
「あら? 水兵さんたちは実務専門であまり航海理論には詳しくないのよ。それに士官の人たちも近ごろは電波航法にたよりきっていてひょっとしたら北極星を見つけることさえできないだろうってパパは言っていたわ。わたしはあの人たちに海に生きる者としての基本をたたき込んであげただけよ!」
 ケイコは溜め息をついた。
「それはそれはごくろうさま。たぶんそのうち海軍から感謝状をいただけるでしょう。……ところであなたがたのパパはどこへ行っちゃったの?」
「だめじゃない、ママ。ちゃんと船内放送を聞いていなきゃ」
 セティスが姉とそっくりな仕種でほつれた髪をかきあげながら言った。髪の毛の色はしかし母親似の彼女のほうがずっと暗い。
「パパならさっき呼ばれて 船長さん キャプテンのお部屋へ行ったわ」
「……セッティ、何度言ったらわかるの? 『 大 佐 キャプテン』じゃなくて『 提 督 アドミラル』でしょ!」
「そう? 〈アトランタ〉にいて聞き損ねたみたいね……わかった、じゃ行ってみるわ。それから――」姉にやりこめられてぶすっとした表情の下の娘のリボンをやさしく整えてやりながらケイコはつけくわえた。
「そのチョコレートアイスクリームを食べ終えたらふたりとも部屋に戻っていなさい。いい? 寄り道しちゃだめよ? 特に……」
「……フライトデッキにでてはいけない、ハンガーデッキで遊んではいけない、弾薬、ミサイル保管庫、機関室、ボイラー室、原子炉制御区、火器管制室、戦闘管制センター、およびその他もろもろ立ち入り禁止区域に近寄ってはいけない、でしょ? はーい、わかっていますって!」
 やれやれ……。彼女は思った。……子供たちを調査航海に同行させていることが果たして良かったのか、いつも悩んでしまうな……。わたしに似ず物おじしないのはいいけどちょっと一般常識や社会性に問題がありはしないかしら? むしろタンパのお祖父さんの家に預けて同じ年代の子供たちと一緒に学校に通わせるべきだったのかも知れない。まあ、いずれにせよいまとなっては遅すぎるけれど……。

 ブリッジまでは長い道のりだった。巨大な格納甲板を迂回したうえに飛行甲板に聳え立つ艦橋構造体アイランドそのものがちょっとしたビルほどの高さがあるのだ。〈アトランタ〉の船尾から船首まで十数歩で到達できるのとは大違いだった。かつてハンサー一家のささやかながら快適なスイートホームであった海洋調査船はいまでは海面から引き上げられて戦闘機の備品と一緒に格納甲板の隅の船台の上に虚しく鎮座している。
 ちょうど運悪く『 甲 板 洗 浄 ウオッシュダウン』の時間に重なってしまってフライトデッキに出ることはできない。しかしそのすぐ下の艦内通路は圧迫感があってケイコはそこを歩くのが大嫌いだった。なお悪いことにはすれ違うクルーたちがひとりのこらず挨拶をよこしたうえで彼女が通り過ぎるまで微笑みとともに見送るのだ。とりわけて容姿に自信があるわけでもなく幼い頃から一貫して目立たない少女として生きてきたケイコにとってこうした異例の注目を受けることはどうにもいたたまれない気分だった。
 ……この暮らし、あんまり長くもちそうもないな……。
 ほとんど舷窓がなく立ち入り禁止の場所だけやたら多いこの鋼鉄の巨艦の中に閉じ込められていると大人である彼女でさえ少なからず苛々し憂鬱な気持ちになってもくる。ましてカリブの陽光きらめく波しぶきのなかで野生児同様育った子供たちにとって航空母艦での生活は必ずしも楽しいものではないはずだった。

 急な階段をよじ登るようにしてようやくたどりついた艦橋に提督や夫の姿はなく、所在なく立ちつくす彼女に下士官のひとりがブリーフィングキャビンの位置を教えてくれた。言われるままふたたび階段を降り狭い廊下を幾つか折れたところでケイコは遠慮がちに扉をノックする。アレンバーク提督の声を確認してドアを開くと中は真っ暗だった。戸惑う彼女の耳にカチリと音が聞こえスクリーンに投影されている映像の反射で提督の顔が青白く浮かび上がった。
「ドアを閉じて空いている席におつきください、奥さん。いま遠征航海の成果を確認しているところです。狭いので気をつけて……できればそのへんにある靴とその中身たちを踏まないように」
 低い笑い声でそこに数人の男たちがいることがわかった。手探りで椅子の背をさぐるうちにしだいに目が慣れてきてケイコは彼らのなかにシュルツ、ルイス、ジュリアーニの各艦長たちを確かめることができた。夫のトムは提督の右隣。一人離れて投影スクリーン脇でコントローラーを握っているのは女性士官だ。とにかく艦隊の艦長全員がそろっているところを見るとこの集まりは内輪でありながらもわりと重要なものらしい。
「さて……これが問題の《昨日》のバハマです。一見したところいまわれわれがいる海域とそっくりです……」プロジェクターがカチリと鳴りもう一枚のデジタル写真と入れ代わった。椰子の茂る美しい島々を背景にして〈モントレイ〉が浮かんでいる。確かに無骨なタイコンデロガ級巡洋艦を除けばふたつの景色は区別がつかないほどよく似ていた。
「あの時点で全員が考えたのは――〈モントレイ〉がどこかへ行ってしまった、というものでした。自分たちが別の場所に到達したなどとは思いもしないのは当然です。地球をぐるりと一周したことは疑いようのない事実だったわけですから……」
 彼女の言葉を提督がひきついだ。
「あやうく《行方不明》になった〈モントレイ〉の捜索のために貴重な時間を無駄にするところだった。きみは実に有能な部下を持っているようだな、ワード少佐」
「ありがとうございます、閣下……確かにビーチャー少尉はときどきタイムリーを飛ばす男ではあります」
 翼の生えたヘリウム原子の肩章からケイコはこの少佐が電子戦関係の『オペレーション・スペシャリスト』らしい、と見当をつけた。
「それ以外のエラーやボーンヘッドがなければとっくの昔に大尉なんでしょうが……」
 提督は鼻で笑ったがそれは格別嫌味な感じではなかった。
「いったいどうやって彼は真相に気づいたんだ?」
「ドレーク海峡を通過するときに電波障害が不意に消滅したことがヒントだっだそうです。確かに仕事柄われわれは太陽活動にはつねに関心をはらってますし、この航海に出てじきにフレアが活発化したのでスタッフ全員で注目はしていました。しかしそれが突然終わったことと〈モントレイ〉の消失を関連づけようとは正直思いもしませんでした。ビーチャー少尉は磁気嵐の終了がパターンどおりに進まなかったことを非常に疑問に感じていたようです」
「そこであの《邪 魔 で く そ い ま い ま し い ラ イ ンインターラプショナル・ダムナブル・ライン》のアイデアをひねり出したわけだな?」
「ええ、《 世   界   変   更   線 インターユニバース・デバイド・ライン》です……そのとき通過していたドレーク海峡はわれわれが《  白 い 嵐  ホワイト・スコール》に遭遇したポイントとまさに同一経度上にあります……なにか奇妙な出来事がこの経度線上で起こっていると考えてもそれほど不合理ではありません」
「しかしあの男以外、誰もそこに思い至った者はいなかった。《昨日》のバハマか――確かに事実はちょっと信じられないものだったからな」
「地球は限りある球体であると考えてわたしたちは通常疑うことはありません。東向きにどこまでも進んでいけばもとの場所に戻ってくることは常識以前の事実です。それだけにわたしにとってもあの経験はショックでありました。乗組員全員そうだったはずです……」
「東は東、西は西、両者はついに出合うことなし……」
 トムの言葉にみなは救われたように笑った。
「キプリングですな? ハンサー博士。……しかしクルーたちにとって『出合うことなし』を受け入れるわけにはいくまい。東に行くにせよ、西に行くにせよ、いずれは自分たちの家族が待つ故郷に辿り着くと信じるほかはないわけだから……」提督は言い含めるように自らうなずいた。「彼らを不安にさせることこそ第一に避けなければならん。どんな場合でも艦長は進むべき航路を心得ている……あるいは少なくとも心得ているように見えるべきなのだ」
 部屋のなかを沈黙がつつみ、提督はいらだたしげに葉巻を……スライド上映のために貴重な一本を我慢しているらしい……もてあそびながら続けた。
「……それを踏まえたうえでわれわれはどう動くか? ――諸君の率直な意見を聞かせてほしい」
 この部屋に艦長がすべて揃っているわけをケイコは納得した。どうやらアレンバーグ提督は彼女たちの〈アトランタ〉も艦隊のなかの一隻として考えてくれているのだ……。
「わかっていることはごく僅かです、提督。東には望みはない――少なくとも四万キロ彼方までは――しかし西はどうでしょう? 大平洋の向こうがどうなっているか確認してみるべきではないでしょうか?」
「海の彼方で十二億人のわれらが中国の友人たちが待っているとでも? ルイス中佐?」
 生真面目そうな中佐の当惑に攻撃型原潜の艦長はにんまりと笑った。
「もしも彼らがああした国家体制のままならけっして原子力空母を手みやげに亡命したい相手ではないけれどね……」
「まさかそうはならんでしょう、ジュリアーニ大佐。海の向こうに中国があるならわれわれの同盟国もまた存在するはずですよ」
「それはわからんよ、ルイス中佐。もしもこのすべてが神の試みられたことであるのなら、あえて地上に非友好的な勢力だけを残しておくということもありうる」
「われわれは最後の審判に選ばれた『神の軍団』というわけですか?」
「あちらはあちらでそう思っているでしょうね」トムが皮肉屋らしいコメントをくわえた。
「ふん、ばかばかしい」
「まあ、それはおよそありそうもない事態です。しかし北大平洋上で〈アドミラル・クズネツォフ〉とはち合わせすることぐらいはあるかも知れない」シュルツ艦長が言った。「つまりわれわれ以外にもこの状況にまきこまれている者たちがいる可能性は多いにあるということです――そこにいられるハンサー夫妻のようにね」
 これにはみんなが同意した。
「少なくとも一度は大陸の西側に艦をまわしてみるべきでしょう。まんいち孤立した合衆国市民がいるとしたらわれわれには彼らを救う義務があります」
「しかし、中佐。それを言いだしたらきりがないのでは? あるいはわれわれは無限に広い世界に投げ込まれたのかも知れないのだから……」
「しかし、ベストはつくすべきでしょう。シュルツ艦長……」
「諸君の意見はよくわかった」
 提督の言葉で部屋の全員が黙った。
「――確かに不確定な要素が多すぎる。とはいえ部下の気持ちを考えるならとるべき道はそう多くはない。〈モントレイ〉を残して世界一周航海をこれ以上つづけることには無理がありそうだ。そうすればクルーの士気が危険なまでに低下してしまうだろう。こんど動くときは艦隊揃って『故郷を目指す』ときでなければならない――」
 彼は葉巻をくわえてライターを取り出した。いよいよ火をつけるのかとケイコは思ったがしばらくして提督はふたたびそれをポケットにしまった。
「わたしは全能の神がわれわれをお見捨てになるとは思わない。必ず道はあるに違いないのだ――いまはそれが見えないとしても」

 ブリーフィングキャビンを出たのち提督はケイコたちを明るく見晴らしのいいアドミラルルームに導いた。そこには戦術マップを映し出すための透過モニターデスクに大きな海図が仮止めしてあった。
「念のためご主人の記憶を確認していただきたいのです。あなたがたの航路および例の《白い嵐》に出合ったポイントですが、この海図に記されたとおりで間違いないでしょうか?」
 一緒についてきたワード少佐が尋ねた。
 ケイコは夫の手で記されたらしい〈アトランタ〉の航跡を辿った。出航したのはケープコッド……マイアミ、ナッソーに立ち寄ったあとサントドミンゴで海域への立ち入り許可の手続きを行いシルバーバンクに向う……。その珊瑚海での一月にわたるザトウクジラの調査ののち彼女たちの船は補給のためバハマに向い、その途上《白い嵐》に遭遇したのだ。
「間違いないと思います。ここ、タークスカイコス東の沖合で《嵐》にであいました……」
 夫にうなずくとケイコは相手の顔をもの問いた気に見つめかえした。
「わたしたちは《 I D L 世界変更線》の位置を正確に推定するつもりなんです。いまのところ三箇所の《特異点》が知られています。ひとつはわれわれの艦隊が《白い嵐》に遭遇した地点、あなたがたの遭遇地点、そして先程話題に出た磁気嵐の中断が観測された地点……これらはほぼ西経72度の経線上に並んでいるように見えますが、わたしたちはさらに百メートル以下の誤差でその位置を正確に把握するつもりです」
 ケイコは海図に描かれているもうひとつの航路を目で追った。東アジアで作戦展開中の米艦隊に合流すべくノーフォークを出てパナマに向った提督たちはノースカロライナ沖で《白い嵐》に遭遇した。この唐突な気象の変化をなんなく切り抜けたもののその直後、艦隊の航法と通信にかかわるあらゆるシステムが役にたたなくなってしまったのだ。
 ケイコはそのときの彼らの困惑と不安とをありありと想像できた。事態の異常さを悟ったアレンバーグ提督は急きょ帰還を命じ艦隊はふたたびノーフォークへ戻る。しかしクルーたちがそこに見い出したのは人跡未踏の動物たちの楽園へ変わり果てた母国の姿だった。いったい何が起こっているのか? 事態の全容を明らかにすべく艦隊は東海岸沿いにカリブ海に至る。しかし文明の痕跡は発見できず、またその先大平洋へ出ることもできなかった。パナマ運河はすでに存在していなかったからだ。
 その後の艦隊の航路は西を目指して地図の外へ向っていた。北米大陸の変容を確認したのち艦隊は一週間をかけてヨーロッパ、中東、アフリカの各地域を調査したのだ。その結果をうけて提督は〈モントレイ〉に再度大西洋を越えてアメリカに戻るよう命じた。フロリダ及びカリブ海において艦隊全員にいきわたる食料を確保すること――それがミサイル巡洋艦のクルーに与えられた任務だった。
 一方で空母〈セオドア・ルーズベルト〉と潜水艦〈ジャクソンビル〉の二隻だけとなった『艦隊』はインド、東アジア、極東を調査した後、さらにハワイ、アラスカを経由して西海岸を目指した。しかしメキシコを過ぎ南米大陸西岸に至るころにはすでに彼らは自分たちが広大な地球上で唯一残った人間集団であることを嫌でも確信せざるをえなくなっていた。
 ドレーク海峡を通過して世界一周航海の暗然とする成果とともに提督たちは大西洋に、そしてカリブ海に戻った。だが驚いたことにはそこに待つはずの〈モントレイ〉の姿はなかった。艦隊全体にほとんどパニックに近い混乱が広がりかけたとき、この少佐の部下のひとりが例の《IDL》による説明を思いついだのだ……。
「そのスタッフはよくそんな途方もないことを思いつきましたね?」トムは感嘆したように言った。
「ビーチャー少尉はある意味で非常に有能なスタッフです……ぎゃくにそれが禍いして上官泣かせの結果にいたることも多々ありますがね。まあ、とにかく彼の予想どおり艦隊は《西回り》でもとの世界に無事戻ることができました。〈モントレイ〉との再会はほんとうに感動的でした。あなたがた一家との遭遇はそれ以上に喜ばしかったですけど」
 そう言って微笑みながら――また例のあの《微笑み》、とケイコは思った――海図をまるめて彼女はアドミラルルームを後にした。
 窓の外では無数のスプリンクラーが飛行甲板全体を霞ませていた。提督はしばらく、ずぶ濡れになってデッキブラシで巨大な7と1の数字を研いている男たちを見るともなく眺めていたが、やがて言った。
「われわれが不在の間にあなたがたが〈モントレイ〉に到着されていたことはまさに天佑と言うべきものかも知れませんな。あなたがた一家の存在がどれほどクルーたちにとって励みになっているか計り知れない。考えれば不思議なものだ――わずか四人の家族が何千名もの乗組員をこれほど勇気づけるというのはね」
 いささか面映い思いでケイコはうなずいた。
「実際のところあれで艦隊の全員の気持ちがひとつになったように感じます。そもそも昔の人間であるわたしから見ればいまのワード少佐を含めて若い技術スタッフはみなエイリアンのようなものなんですよ。複雑な電子戦システムをこともなげにあつかう……ひとたび戦闘が始まれば提督と言えどもすべてを連中にまかせて傍観するよりないんですからな」
「ええ、どうもそのようですね」ケイコはかたわらの夫をちらりと見上げた。トムは大学で留学生だった彼女と出会う以前は海軍にいて、まさにそうした専門職――優秀なソナー担当員として潜水艦に乗り込んでいたのだ。彼がつねづね艦隊司令官よりソナー係のほうがはるかに重要なポストであると考えているだろうことは間違いなかった。
「狭い艦内で多種多様な技能集団をひとつにまとめておくためには訓練とルーチンワークで不満をこぼす暇もないほど忙しくしておくべきなのです。しかしいまはその方法はとれない……」
「でも提督はご立派だと思います。こうした困難な状況でクルーの士気がこれだけ保たれているというのは……血の通わない電子戦シテスムには到底望めないことですわ」
 思わぬ援軍を得たかのように提督は彼女をふりむき眉根の皺を解いて苦笑した。
「どうも、奥さん。お誉めにあずかって光栄です。……まあ、ひとつにはこのカリブの自然のお陰もあるんでしょう。ここはほんとうに地上の楽園のような場所ですからな」
「ここを投錨地に選んだご判断が正しかったということでしょうね――そうそう、そう言われて思い出しましたわ。提督、こちらからの要求ばかりみたいで申し訳ありません。ひとつだけお願いがあるんです……」
 猛将として知られるアレンバーグ提督がたじろぐ様子はちょっとした見物だった。ケイコの思いは相手にも伝わって老練な提督は自嘲ぎみに唇をゆがめた。
「あなたの戦術のセンスはなかなかのものですな。感心しましたよ……そう言えばわざわざ来られた用件をうかがっていませんでした。いったい何です?」
「ああ、そんなつもりではなかったんですけど……。あの、お願いっていうのは、じつは――子供たちにこんど上陸する部隊との同行を許可してやってほしいのです」
 妻の視線の端で夫は微かに首をふり、果たして提督は天をあおいだ。
「おお……それはどうかご勘弁ねがいます、奥さん。お子さんたちの安全にわれわれは責任を持てない」
「責任はわたしたちが持ちます。クルーの方々にご迷惑はおかけしません。お願いです。こんなふうに何週間も艦のなかに閉じこもってばかりでは娘たちの気持ちが塞いでしまいます」
「しかし熱帯のジャングルにわけいるのですぞ。何が起こるかわからないし……風土病に感染する怖れだってある」
「砂浜で遊ばせるだけで森の奥には入れません。風土病については、いまは三月です。雨期になるまで当分マラリアやデング熱の心配はありませんわ」
 提督は唇をかんだ。
「なるほど、あなたがたは生物学者一家でしたな……ハンサー博士がふたりいることをつい失念してしまう。熱帯の動植物に関する知識はあなたがた夫妻のほうがこの艦の誰よりも詳しいに違いない。だが、お子さんたちの上陸の件にかんしては……わたしの目が黒いうちはやはり駄目です」
「そこを曲げてなんとか……」
「そんなふうに東洋風に拝んだって無駄ですよ、奥さん。わたしは仏像じゃない。……駄目と言ったら駄目です!」

「……信じられる? ママ。このお船、『二号艇』って言うのよ。ひどいと思わない? まるで公園の池にある貸しボートじゃない?」外洋の大きな波に上下するユーティリティボートの甲板に身軽に飛びおりながらドリスが不満げに言った。「こんなんでいったいまともな船と言える?」
「ドリス……? 忘れてないでしょ? お約束よ」
 ケイコが指を1本立てて警告すると娘は大人しく肩をすくめた。
「はいはい、女の子らしく可愛く上品にね……安心して、ママを困らせたりしないわ。……まあ、なんてすばらしいお船! ああ、ジャック、こんにちは。どうもありがとう、ジョージ。マコーミックさん、よろしくねっ!」
 苦笑しながら伍長は最敬礼で迎えて少女を喜ばせた。
「……ねえ、ママ」つぎに吊り下げられてきたセッティは母親に抱きかかえられながらこっそりと言った。「ほら、あれ……鯨さんがいるわ」
 ケイコは娘の指さす彼方に滲むように浮かぶ黒い姿を認めた。ときどきびっくりするほど長い胸ヒレが波間から持ち上がり海面を叩く。するとすぐ側で同じようにしてずっと小さなヒレがぴしゃりと水をはねかえした。
「ほんと。傍らにいるのは子供だわ……ザトウクジラの親子ね」
 彼女はしばしそれに見とれていた。夫の専門はザトウクジラであり、彼女の専門は小型肉食鯨だった。あの《白い嵐》に出合う日までずっと一家は鯨たちとともにカリブの海の島から島へ渡り歩いていたのだ。
 またあのあわただしくも愉快な日々にもどれたらどんなに素晴らしいだろう? そんな母親の気持ちは小さなセティスにも感じられたようだった。
「わたしまた〈アトランタ〉を海に浮かべて暮らしたいわ」
 ケイコは小さな身体を抱き締めた。果たしてそんな日がふたたび来るのかしら……?

 ――まるで禅の修業僧のように足を組んで、ヘッドフォンをつけたままトムは瞑想の行をつづけていた。それが小一時間にも及ぶとさすがにケイコもほうってはおけなくなった。
「……シチューがすっかり冷えてしまったわ。トム、たまには息つぎに上がってこないと、自分が人間か魚かそのうちにわからなくなるわよ!」
「ぐびっ……」
「え?」
「いや、ただゲップをしただけ……ふう、まいったな。確かにシャチ一頭食べれそうな感じだ」
「そんなに集中していったい何を聴いているの?」
「いや……」ハンサー博士は疲れ切った様子で妻にヘッドフォンを手渡しながら言った。
「何も聴いていない……というより何も聴こえないんだ。このあたりの海域からすべての鯨たちが消えてしまったらしい」
「え? どういう意味?」
「遠く東のほうで微かに唄っているやつがいる……『ローリィ』だ。だがこっから西にかけてはしわぶきひとつ聴こえない」
 ケイコはいそいでヘッドフォンをつけるとじっと耳を澄ました。この水中集音機にはウッズホールからせしめた研究費をたっぷりつぎこんである。夫のかつての勤務先……攻撃型原潜〈シカゴ〉の聴音システムには到底及ばないだろうが、それでも広いカリブの海に分散するザトウクジラの声を一頭残らず録音分類するためには十分な性能をもっていた。しかしいまケイコの耳には近くのラグーンに寄せ返す潮の規則的なざわめき以外なにも聴こえてこない。たぶん夫の鋭い耳はこの冬一番の歌い手――尾びれの模様から彼女たちが『ロールシャッハ』と名付けた雄鯨の可聴域ぎりぎりの哀しげな通奏低音をからくも捕らえることができたのだろう。だがケイコにとっては広大な海がとつぜんがらんとした空き家になったも同然だった。その異様な感覚にうたれて彼女は息をのんだ。
「鯨ばかりじゃない。まるで生き物たちの気配がないっ……て、いったいどういうこと?」
 トムはシチュー皿を片手に戻ってきた。
「きっと何かに怯えているんだ、と思う。こんなの初めてだよ……もぐもぐ……みょっとみたら海底地震の予兆かな?」
 カリブ海をぐるりと囲む中米からアンティル諸島にかけての一帯は地震多発地域として知られている。可能性としてはもちろん考えられる。が、しかし……。
「……じつはそうは思ってないのでしょ?」
 夫は口いっぱいにほおばりながら躊躇いがちにうなずいた。
「む、みゅん……まからない。エルサルバドルの時はすぐ沖合いにいたのに……ほんなはんじじゃなかった……」
「ラジオをつけてみましょう。何かニュースを聞けるかも……ドリィ! セッティ!」
 セティスが船首ハッチから顔を覗かせた。額に皺がよっているのは書き取りの練習を命じられていたためだ。ドリスは後部デッキにいて双眼鏡を水平線から母親の顔に向け直した。
「ふたりともライフジャケットをちゃんと着ている? ドリィ、留め金は全部ちゃんととめてね……それから何か変わったものが見えたらすぐに教えて!」
「何かあったの?」
「べつに何でもないわ」ケイコは無理に微笑んで言った。「ただの出航の準備よ。午後からニュープロビデンスに向います。ひさしぶりに固い地面が踏めるわよ」
「アイ……ママ!」
 ふたりはラジオチューナーのスイッチを入れた。 狭 い 船 室 ドッグハウスにはふつりあいな大きさのボーズのスピーカーからアップテンポで少々押しつけがましいビートが流れだす。
「ジャマイカの電波か……」それから彼の眉が不審げにつりあがった。「……なんでだ? 低音部にバイアスがかかってるぞ」
 例によってケイコには感じとれなかった。それほど微かな歪みなのだろう。トムはアンプのスイッチやインディケーターを念入りに確かめて首を傾げた。「わけがわからないな……」チューニングダイアルを回すと騒々しいレゲエはきゅるきゅると目まぐるしく移り変わっていって、やがてものうげに天気予報を喋るアナウンサーの声にかわった。
「これはドミニカの局。べつだん変わったことはないようだわね……」
「しっ……」トムの指がわずかに動くとふたたびスピーカーからホワイトノイズが流れでた。「だんだん強くなってるみたいだ……こんどはきみにもわかるだろ?」
 ケイコは目を閉じて耳を澄ませた。なるほど低可聴閾ぎりぎりのところで……砂浜に打ち寄せ砂粒に吸込まれる波の音に似た雑音のなかに低い唸りが微かに混じっている。例えるなら遠い遠いシロナガス鯨の鳴き声……あまりに哀しげに切なく、スピーカーからではなく船底を通して海の中から響いてくるような……聞きようによってはかなり無気味な音だ。彼女は両腕が鳥肌たつのを感じた。
「……ねえ、どうせ歌声のサンプルが採れないならすこし予定を早めて出航しない? なんだか嫌な感じだわ」
 どうやら正体不明のその音は同様の印象を夫にもあたえたらしかった。
「そうだな。無用の危険を冒すことはない。こいつを腹におさめたらすぐに錨をあげよう」
 シルバーバンクは珊瑚礁が点在する浅い海であり大型船はもちろん〈アトランタ〉のような30フィートクラスのクルーザーでも針路を誤れば座礁の危険がある。ハンサー夫妻は十分安全と思われるポイントまで慎重にエンジンでの航行をおこなった。トムは艢で舵をあやつりながら深度計を見守り、舳先では毋娘三人が隠れたコーラルヘッドがないかおのおの海面の波に目を光らせていた。やがて水深は五十メートルを越え、さらに急激に深みを増し、海の色はターコイズからしだいに熱帯特有のねっとりとしたコバルトへと変わっていった。どうやら珊瑚の海を抜け出たらしいことを確認するとふたりは少なからずほっとしつつスクリューを畳み込んで帆走の準備にとりかかった。外洋にいるかぎりたとえどんなに大きな地震があろうとまず津波の心配はない。
「ママ……!」
 突然のセッティの声がケイコを呼んだのは、すでに数時間帆走をつづけ日が西に傾きはじめた頃だった。船は安定した風を受けつつ快走していたので舵を娘たちにまかせてケイコはキャビンで夕食の準備にとりかかっていた。夫はあいかわらずラジオが気になるらしく機械の前に座り込みイヤホーンで両耳を塞いで目を閉じている。濡れた手をふきながらケイコが後部デッキに顔を出してみると娘たちは立ち上がってマスト越しに針路前方の何かを見つめていた。
「どうしたの?」
「なにかしら……? あれ……」
 6才のときに麻疹にかかったとき以来聞いたことのないような妙に頼りない声でドリィがつぶやいた。ケイコはキャビンのハッチから身を乗り出すようにして娘の視線を追い――そして凍りついた。
 その日は雲一つない晴天だった。おそらく……五機のグラマン・アヴェンジャーがローダデイルから飛び立ったときもこんな好天だったことだろう……彼女はその時まで自分たちの調査航海が『バミューダトライアングル』のごく近くの海域で行われている事実をほとんど気にもとめていなかった。正規の教育を受け科学的な考え方をきちんと身につけた者がそのての法螺話にまともにつきあうべきではないという自負心もあったのだ……しかしいま彼女は自分のその信条が大いにぐらつくのを感じていた。
 なにもない空中から急速に雲が生み出される、という現象は湿った暖かい空気が冷たく乾燥した前線にぶちあたったときしばしば起こる。しかしそれらの気団が完全に平坦なひとつの平面で接することなどまずありえない。いま彼女の見ている光景はまさにそんな感じだった。誰かが目に見えない巨大な冷凍庫を急に開いた、というのが印象としてはいちばん近いのかも知れない……ただしその扉は成層圏にとどくほど大きいのだ。
 大気の無数のポケットから滲み出るように霞が続々とわき出し混じりあって途方もなく巨大な雲の塊が信じられないスピードで船の前方に生まれつつあった。太陽を覆い隠すにつれ急速に暗さを増していくその雲の柱は、最初ほの白く、みるみるうちに灰色に転じていき、内側から稲光に凄まじく照らされつつ巨大な積乱雲へと成長をはじめた。何十キロメートルもの高さにそそり立つ薄墨色の断崖からは突然海原から立ち上がったポセイドン神の濡れた総髪のような真っ黒い筋が無数に垂れ下がりつつあった。それらはナイアガラ瀑布を幾百倍凌駕する規模でいましも海面に叩きつけられようとしている大量の雨粒を含んだダウンバーストなのだ。
「……いったいぜんたいどうなっているんだ? ラジオが急に死んでしまったぜ。どこの電波もぜんぜん入ってこないよ」ヘッドフォンで耳を塞がれていたために何も気づかずにトムがデッキに顔を出した。その目前でケイコも子供たちもまるで金縛りにあったようにその壮大で恐ろしい光景を見つめつづけている。不審に思った彼がふりむこうとしたとき……最初の突風が〈アトランタ〉を襲った。
 激しく軋む音とともに船体は大きく左に傾き、あやうく海に投げ出されそうになったトムは命綱にしがみついてからくもデッキに踏みとどまった。
「あなた!  舵 ラダーをお願い! わたしは前帆ジブをたたむわ――ドリィ、セッティ! あなたがたはキャビンに入っていなさいっ! いそぐのよっ!」
 ケイコが呪縛をふりきって叫んだときはすでにうららかだった海は荒れ狂う嵐のそれに変じていた。クルーザーは狂ったメトロノームのように激しく左右に振れ動き波飛沫は滝となって頭上に降り注いだ。
「信じられない。こいつは……《  白 い 嵐  ホワイト・スコール》だっ!」
 帆綱を震わせる風の唸りと軋むマストの音にまけじと大声でトムはどなった。
「 ケイコ、気をつけろ! 帆 桁 ブームがまわるぞ!」
 風向きが急にかわりあおられた帆桁が凄まじい勢いで彼女の頭上をかすめた。
「だいじょうぶか?」
「……ええ!」
「頼む! 急いでくれ。早くセイルをたたまないともちこたえられそうもない!」
「パパっ!」
「中にいなさい! ドリィ!」
「わたしが操舵輪ラットを持っているわ! パパが  主 帆  メインセイルを下ろさなくっちゃ!」
 トムは一瞬躊躇った後、大きくうなずいた。「よしっ! 頼む! しっかり持って舳先バウを波の来るほうに向けろ。決して横波を被らないように」
「まかせて!」
「わたしもっ」
「おまえはまだ無理だセッティ……! そのかわりキャビンで 漏水 ビルジをポンプで抜いてくれ!」
 長女の胴衣にしっかりとロープを結びつけて舵をあずけるとトムは波間にキールが見えるほど傾いたクルーザーの上に腹ばい転げ落ちそうになりながら懸命に帆綱をあやつった。大粒の雨は激しくデッキを叩き周囲は夜のように暗く波はこの全長9メートルの小船を軽々と放り投げては波の谷間に落とし込んだ。彼らのうちひとりとして嵐が吹き荒れた数分の間に自分がなにをしていたのかを正確に覚えている者はいなかった。ずっと後になってケイコはその時のことを思い起すたびにいかに家族が心をあわせて危険に立ち向かったかを考え誇らしく感じるとともに背筋がひんやりともするのだった。〈アトランタ〉が無事だったのはひたすら奇蹟以外のなにものでもない。おそらくあと数分あの嵐が続いたなら奮闘虚しく船は転覆してカリブの水底深く引き込まれていたにちがいないのだ。
 《嵐》は始まったときと同じように唐突に終息した。雨が止み風がみるみる弱まった。ふたたび海はなぎ、いままでのことがまるで夢だったように――全身びしょぬれでぐったりとデッキに横たわったハンサー一家を十数分前と同じように暖かい陽光が照らしだした。ケイコは惚けたほうに座り込み、船尾側の海と空とがいまだに薄墨色にけぶっているのを見つめていた。雲の天幕の前に見事な虹のアーチがかかり、やがてまたたくうちにすべては薄れていき、数分のちにはふたたび暮れなずむ空がもどってきた。いまや嵐の痕跡といえば日射しをあびてきらきらと輝くデッキ一面の水滴以外にはなにもない……。
 だが喜びはつかのまだった。沈没こそ免れたもののそれ以来クルーザーの無線機はいっさい沈黙してしまったのだ。どんなに耳をすませてもすべての周波数で無意味な雑音が入るだけだった。まるで〈アトランタ〉を除く全世界が消滅してしまったように……。

「ライアン、舳先に立って水路を確認しろ!」
 伍長の声にケイコはわれにかえった。彼女たちの乗ったユーティリティボートは白い波頭が騒ぐ浅瀬を迂回しながら珊瑚礁の入り江にはいろうとしていた。
「アイ・サー……水深5フィート。舵そのまま」
「ジェームズ、エンジンを絞れ。ゆっくりやるんだ。浅瀬に気をつけろ!」
 上陸直前になってマコーミック伍長はやつぎばやに指示をとばした。以前ボートのひとつがこんな状況で船底を擦っているのだ。主に穏やかな外洋で使われる小型艇で人跡未踏の珊瑚礁の小島に乗り込もうというのだから彼が若干神経質になるのも無理はなかった。結局艦を離れてからほとんど小1時間たって、ようやくケイコたちの乗った小艇は真っ白な砂浜にしずしずと舳先を乗り上げ停止した。
「錨を下ろせ。エンジン停止。ライアン、おまえは船に残れ。念のため銃を持っていろ。リクルート三名は兵曹につけ。ジェームズ、さぼっている奴は尻っぺたをけっとばしていいぞ。残りはおれと一緒にこい。――それじゃ、奥さん。われわれは三時間ぐらいで戻ります。くれぐれもお子さんたちを森の奥に入れないでください。お気のどくですが提督に厳命されていましてね……」
「わかっています。聞いたわね?」
「アイ、ママ。わたしは浅瀬でお魚をとるわ」
 水兵たちは打ち寄せる透明なうねりのなかにつぎつぎと降りていった。腰までつかった彼らの周囲からひれを閃かせて小魚たちが逃げ散る。三月とはいえカリブの日射しは強く、岸を目指す男たちのたてる波が砂地に眩しい光の筋を作った。
「ねえ、マコーミックさん。ああした木に登るのは森に入ることにはならないでしょ?」
 ドリィは砂浜から大きくカーブして海につきだした椰子を指さして尋ねた。
「椰子に登るって?」伍長は驚いた。「女の子が? そりゃあ……どうなんです? 奥さん?」
「娘はよく〈アトランタ〉のマストに修理の手伝いで登っていました。ただし滑車とロープをつかってね」ケイコは笑った。「自分で登れる高さなら落ちてもせいぜい痛い思いをするだけでしょう……いいわよ」
「ありがと、ママ。せいぜい上品に可愛く登るわね!」
「やれやれ……まあ、母親がついているんだからおれが余計な心配することはないか。スパイクの予備はそこにありますからどうぞ自由に使ってください」
 彼はパラシュートの生地でできた大きな袋を大事そうに頭上にかかげながら船から降りていった。帰ってくるときにはそれはココナッツの実でいっぱいになっていることだろう。
 いまや艦の食料倉庫にココナッツは欠かせなかった。洋上の水兵たちにとって何よりもアイスクリームは貴重な資源であり牛乳にたっぷりと混ぜられることでココナツミルクはその埋蔵量を増してくれるのだ。
 そんなわけでセティスが浅瀬に立って銛を片手に小魚に狙いをつけるかたわらでドリスは大好物の資源を自ら確保すべく椰子の木登りに挑戦することにした。スパイクは残念ながら十一才の少女の足には大きすぎたので彼女は裸足になって幹を登った。最初は苦労したが身軽さゆえにコツをつかむとすぐに彼女は母親がはらはらするほど高いところまでよじ登ることができるようになった。とはいえ肝心の実をとる段階になってはじめてドリスは自分が大きなハンディキャップを背負っている事実に思いいたった。少女の手はまだ小さく十分な握力がないために大人たちがやるように片手でココナッツの実を捻り落とすことができないのだ。しかし落下という代償なしに両手を離すわけにもいかなかった。
 すっかり気落ちした少女は仕方なく収穫をあきらめ葉の茂る椰子の天辺に腰かけて眺望を楽しむことにした。さすがにこの高さまで登ると沖からの潮風がさわやかだ。眼下にはエメラルドグリーンの珊瑚の海を越えてきたゆるやかな波が砂浜に打ち寄せている。……この角度からだとセッティは大きな帽子のつばの中に隠れてそこから覗いている銛の先しか見えない。まるで翼で影を作り小魚をおびきよせているクロミノサギみたいだ。ママはジャングルの際の日陰にうずくまり周囲の植物や小鳥をしきりに観察している様子。ちょっと離れたところには薄青ねずみ色に塗られたユーティリティボートが真っ白な水底に影を落としている。銃を小脇に舷側に腰掛けて暇そうにこちらを見ているジャック・ライアンに彼女は手をふった。こんなにいいお日和なのにひとりお留守番で可哀想ね……それからドリィは目を少し遠くにやって突然怪訝な表情になった。
 ――おかしいわ? あそこにもなんだか船が一艘もやいであるみたい……わたしたち以外にこの島に来た人たちがいるのかしら……?

 ケイコはさっきからすぐ頭の上でホバリングしている小さな影が気になっていた。院生時代ゼミの課題との関連でちょっとだけ調べたことがあるブレイスのエメラルド――アイオハチドリによく似ているのだ。バハマにだけ住むこの極小の鳥は十九世紀の終わる前にすでに絶滅種に指定されていたはずだった。――しかしべつに驚くことではないのかも知れない。なにしろここの島々の海岸にはおびただしい数のモンクアザラシの群が見られるのだ……。
 この奇妙な無人の『世界』では人間によって絶滅してしまった野生動物たちがいまだに元気に生存しているらしい。……おそらく北米大陸には旅行バト、モーリシャスにはドードー、マダガスカルにはエピオルニス、オセアニアにはモア、そしてサイラシンがいることだろう。そればかりかカナダやシベリアではマンモスの勇姿を眺めることさえできるかも知れないのだ。
 そう考えるとなんだか嬉しくなる。いわばこの『世界』は生物学者にとっての天国なのだ。しかしそう感じられるのはたぶん幸運にもケイコたちが家族全員そろっているためだろう……肉親と引き裂かれている他の人々の気持ちはそれどころでないはずだ。間違いなく軍人としての自覚だけがそれを表面に出さないようにふるまわせているのだ。でもアレンバーク提督も気づいているようにその抑制もそう長くはもたないかも知れない。信じられるなにかの希望が必要だった。
 ――鍵はこの世界がどこまでもとの世界と同じでどこが違うのか? その違いはいったい何なのか?……を理解することだ。それができればあるいはふたたび戻る方法もわかるはず……たぶん……。
 椰子の梢から娘の呼ぶ声が聞こえ彼女は頭上をふりあおいだ。
「ママ、妙なの。むこうに別のお船があるみたいよ? 岬ひとつまわった隣の入り江……」
 ケイコは立ち上がった。
「船……ですって?」
「小型の漁船みたいに見える……」ドリスは椰子の幹をすべり降りながら言い、2メートルの高さから波間に飛び下りた。
「……あちちち」彼女は塩水のついた両手をふりまわした。「沁みるううっ!」
「あわてて降りるからよ。樹皮ですりむいたのね。……船って、あなたの見間違いじゃない?」
「うん……マングローブに隠れてよく見えないんだけど……いたっ!」
「傷だらけね。今度から手袋をすることだわ……」ケイコは娘の掌を見てやりながらつぶやいた。「……まさかと思うけど、《嵐》でここに運ばれた人たちがほかにもいるのかしら? 万一遭難者がいるなら確認しないと……」
 彼女はボートのライアン二等水兵にむかって叫んだ。
「娘が船みたいなものを見たらしいの。確かめるためにちょっと岬の向こう側へ行ってきます……すぐにもどるから、ドリィ。あなたはセッティと一緒にここにいらっしゃい」
「わたしも行く!」
「だめよ。ライアンさん、娘たちをおねがいしますね」
 砂浜を早足で歩きながら器用にサンダルを履いてケイコは入り江の端にのびる小さな岬を目指した。太陽はほとんど真上にあって白い砂は火傷しそうに熱くなっている。椰子の葉影を選びながら数百メートル歩いて彼女は岬の手前で森に分け入る小道を発見した。近くにこなければわからないほど狭いが下草や蔦が刃物で切られていてその切り口はすでに茶色く枯れている。あきらかにかなり以前に人間が作ったものだった。
 ケイコはもう娘の見た『漁船』の存在を疑わなかった。《嵐》は提督の艦隊とハンサー一家だけをこの世界に連れ込んだわけではなかったのだ。だがもしもこの島に先に漂着した遭難者たちがいるのならなぜ救いを求めて狼煙をあげるなり彼女たちの前に出てくるなりしないのだろう? 巨大な航空母艦が沖に停泊していることに気づかないはずはない。あるいはすでに誰一人残っていないのだろうか? ジャングルのなかで半ば白骨化した死骸に出合うことを想像しケイコは背筋が寒くなった。
 しばし躊躇ったあと彼女は思い切って小道に踏み込んだ。熱帯特有の腐敗臭をともなう樹液と土の匂いのなかを、道はわずかに登りながら森の奥へと続いている。木影に入ると暑い海岸を歩いて汗ばんだ背中がひんやり心地良く感じられた。突然頭上でけたたましいオウムの鳴き声が響き渡りケイコはびくりとした。その後の静寂のなかで微かにせせらぎの音が聞こえる……たぶん岬の反対側に海にそそぐ小川があるのだろう。
 木の葉をかきわけながらそうして数分歩いた後、突然ケイコの足が止まった。……血だ。
 ごくりと唾を呑み込み赤黒い滴りの染み込んだ地面を跨ぎこえる。道の先にはさらに大きな血溜まりがあって半ば乾きかかったそれに蠅がむらがっていた。腐臭が急に強くなってケイコは目の前をふさぐシダの葉をかきわけるのを躊躇った。その先にあるものを見たくない……。
 しかし彼女の手はひとりでに動いて茂みを押し退けていた。その先木立はまばらになり道は急激に下って目の前に磯浜と水面の一部が見えている。その岩の上にずらりと切り裂かれた血まみれの死骸……モンクアザラシが並んでいた。どうやら誰かがその肉を食用に処理しようとしていたらしい。
 彼女はすこしほっとして止めていた息を吐き出した。頭を砕かれたアザラシたちの姿は確かにおぞましいが人間のそれを見ることにくらべればはるかにましだ……しかしつぎの瞬間、ケイコの全身がふたたび凍りついた。
 突然、背後から銃声としか思えない鋭い破裂音が聞こえたのだ。間髪をおかずさらに1発……何丁かのライフルが同時に発射されたかのように不規則な銃声。そして最後にとどめをさすようにマシンガンの速射音が響き渡った。
 ――ドリィ、セッティっ! 心の中で悲鳴をあげ、振向きざまケイコはいま来た森の中の道を無我夢中で駆け出した。

 子供たちの身を案じてほとんどパニックに近い状態だったにもかかわらず本能的な何かが彼女の足をとめさせた。不意にいたたまれぬ危険を感じてケイコは夢中でかたわらの茂みの中に飛び込んだ。直後に荒々しい息づかいとともに幾つもの足音が前方から迫ってきて、いままで彼女が立っていた場所を銃を構え目を血走らせた一団の男たちが風のように走りぬけていった。緊迫したその表情からして、もしそのままはち合わせしていたら相手はこちらの武装の有無を確認もせずにいきなり発砲してきただろう……。
「セッティ!!」思わず小さな悲鳴をあげたのは、男たちのうち二人がしきりにもがく小さな身体を小脇にかかえているのを見たからだった。しかしその声は下生えを蹴散らす音にかき消され、ケイコが隠れ場所から飛び出したときにはすでに彼らの姿は密林の彼方に微かに見え隠れするだけとなっていた。
 一瞬ケイコは自分が完全にふたつの人格に分裂しているように感じた。ひとりは盲目的に男たちの後を追おうとし、いま一人はドリスの無事を確かめるべく浜辺へひきかえすことを要求していた。
「ママっ! 大変! セッティが……!」
 息をきらしたドリスの声が背後から聞こえたとき二律背反した要求に金縛りにあっていた彼女の呪縛がいっきに解けた。ケイコは振向くと胸に飛び込んできた娘を抱き締めた。
「ドリィ、無事だったのね! ああ! よかった……」
「ジャングルから急にあいつらが出てきて撃ち合いになったの。ジャックは撃たれちゃったわ……それでわたしたちを連れていこうとしたのだけど、暴れて必死に抵抗したらわたしだけ放り出していったの!」
 震えるドリスの身体を強く抱くといままでぽっかりと穴が開いていたように頼りなかったみぞおちのあたりが急に暖かくなりそこから自分でも驚くほどの冷静さと力とがわき上がってきた。
「彼らは船に向ったわ……銃を持っているからこのままではどうすることもできない。セッティを救い出すためには他の人たちの助けが必要だわ。いらっしゃい! こっちよ」
 ケイコは娘の手をひいて入り江へ向かった。波打ち際を濡れた砂をけちらしながら一気に疾走すると半ば海に飛び込むようにして彼女はユーティリティボートに泳ぎついた。
「ライアンさん! ライアンさん、しっかりして!」
 自動小銃を握り締めたままデッキの血溜まりに倒れていたジャックが半身を起し顔をしかめながら答えた。
「……ああ、奥さん。すみません! お子さんを連れていかれました。自分がついていながら面目ない……」
「そんなことは今はいいから! あなた、怪我はどうなの?」
「左の肩をやられたようです……」
 ケイコは手早く水兵のシャツをぬがせると傷の様子を確認した。
「弾は貫通している。けど出血が多いわ……救急セットはどこかしら?」
 彼は場所を教えケイコは手早く止血処置をしながらドリスに言った。
「あなた無線機使えるわよね?」さっきからしきりに呼び出しランプが点滅しているのだ。娘はほんの一瞬マイクを強く握り締め気持ちを落ち着けるそぶりを見せてからスイッチを入れた。
「もしもし? こちら二号艇です、聞こえますか? どうぞ!」
「よかった! 通じたか……きみはドリスか? さっきの銃声はなんだ? ライアン二等水兵はどうした?」
「ジャックは撃たれて怪我をしました。ママがいま手当てをしています。急に森の奥から男たちが現れて銃撃戦になったんです。それでわたしの妹がさらわれてしまったの。どうぞ」
「なんだって?」
 ケイコは包帯を巻くのを娘にまかせマイクをかわった。
「もしもし? 伍長。わたしです。ライアンさんは腕を撃たれていますが生命に別状ありません。あとの者は無事ですが……下の娘がさらわれました。相手は武装した五名の男たちのようです……」
 彼女は言葉をとめた。とつぜん甲高いエンジンの始動音が入り江に響き渡ったのだ。
「たいへん……出航するつもりだわ! もしもし? 岬の向こうに彼らのものと思われる船があります。いまエンジンをかけた様子です」
 マコーミックの状況判断は素早かった。
「わかりました、こちらにもエンジン音が聞こえます。どうやらわたしが戻っている時間はないようだ……よく聞いてください、奥さん。もしその船を逃がしたら娘さんを取り戻す望みはなくなる。あなたがそのボートで追跡するよりないと思います。操船の分らないところはライアンに聞いて、とにかく娘さんをさらった男たちを見失わないようにしてください。……わたしは艦に連絡して応援を要請します。しかし相手の船は武装されているかも知れない。くれぐれも距離を置いて無茶をしないで……できますね?」
「了解……やってみます。ドリィ、舵をおねがい。できるわね? わたしは錨をあげるわ。ジャック……大丈夫なようならエンジンの始動をおねがいします」
「まかせてください」苦痛を堪えて水兵は言った。

 ケイコたちがようやく珊瑚の入り江を抜け出たときにはセティスと正体不明の男たちを乗せた船は遥か沖合いを走っていた。ユーティリティボートはフルパワーで水を蹴立てていたがその距離はいっこうに縮まりそうもなかった。
「ありゃあ、ただの漁船じゃない。エンジンを積み換えてあるんだ……」
 大きく上下にジャンプする船の中で痛みに耐えながら呻くようにジャックが言った。
「たぶん……麻薬の密輸にたずさわっている連中でしょう。沿岸警備艇を振り切れるよう船を改造してあるんです」
「なんとしてでもついて行かないと……でも、あなたは大丈夫?」
「ぜんぜん問題ありません」とはいえジャックの顔は蒼白で額には脂汗が流れていた。
 バハマ諸島には七百二十三の島と二千五百の岩礁がある……見失ったあげくそれらのひとつに逃げ込まれたら捜し出すのはほとんど不可能に近い。先行する船が島影に隠れるたびにケイコは胸が潰れるような気持ちになった。ジャックを乗せたままこうしていつまでも追跡しているわけにもいかないだろう。この若者はかなり出血で弱っているはずだった。
 この艇のもうひとりの乗員もひどく気分が悪そうなことに彼女は気づいた。顔色は青ざめその脚が微かに震えている。
「……ドリィ?」
 娘はうなずいて気丈に前方を睨んでいたが堪え切れず嗚咽がもれて涙が頬を伝わった。ケイコは舵を握りながらさしまねくとその身体に片手を回し背中をさすった。
 ――もしもドリスがいなかったら逆に慰められる立場になっていたかも知れない。小さな身体を強く抱き締めながらケイコは思った。こんな活劇もどきの状況にいま自分がいることすら信じられない。けれど、セッティをこの手に取り戻すためなら自分はなんだってやるだろう……。

 ともすれば見失いそうになる男たちの船を追ってそうして永遠とも思える時間が過ぎたころようやくボートの無線機に聞き慣れぬ女性の声で連絡が入った。
「ライアン……聞こえます? こちらはヘイズです。いまそちらに向っているわ。聞こえたら一分間無線機を送信状態にして。あなたの位置を電波で確認するから」たちまちジャックはしゃきっと立ち上がりマイクを握り締めた。
「了解。待ちかねてましたよ、大尉。ターゲットはいま半海里先を逃走中。いそいでください……この艇ではとても追いつけそうもないんです」
「……よし、わかったわ。すぐ近くね。大丈夫、逃がしはしないから。こちらの速度は現在180ノットよ」
「……180ノットですって?」ケイコは驚いてたずねた。「ヘイズ大尉はいったいどんな船に乗っているの?」
「すぐにわかりますよ」ジャックは小さく笑って答えた。「ほら、もう見えてきた……」
 彼が指さす空の彼方に小さな黒い点があった。それはみるみる大きくなって、やがて轟音を響かせてユーティリティボートを追い抜いていった。
SH-60Bシーホーク……多目的艦載ヘリです。これで安心でしょう。ヘイズ大尉は艦隊随一のヘタコプター乗りです。もう見失いっこない」
 大尉はまたたくうちに漁船の背後に迫ると機体のスピーカーを通じて停船を命じるメッセージを送りはじめた。かなりの音量らしくきれぎれのスペイン語が激しいエンジンと波と風の音を通してここまで聞こえてくる。しかし男たちはそれを無視してひたすら走りつづけていた。
 確かに見失うことはないだろうけれど……ケイコはドリスに舵をあずけて双眼鏡を覗きながら思った。――延々こうして追いかけつづけてもらちはあかないわ。いったいどうするつもりかしら? まさか機関砲の弾を撃ち込むわけではないでしょう?
「――あの男たちが娘をさらったのはこういう事態に備えてなんだわ……艦載機に追いかけられることを予想していたのね」ケイコは唇をかんだ。「……奴らも《白い嵐》に巻き込まれてこの世界に送り込まれたのよ。わたしたちと同じく水と食料を求めてあの島に上陸してたに違いない」
「そこにわれわれの艦隊が突然あらわれてびっくり仰天して逃げ出したんですね……わけがわからずすっかり怯えているはずだ……」
 だからこそよけいやっかいだわ……ケイコは思った。説得に応じる気配がないのも当然だった。いったいつぎはどうすればいいのかしら?
 その疑問の答えはすぐに出た。シーホークは速度を上げ、怪我を忘れたようにジャックは身をのりだした。「……見てごらんなさい! 大尉がやっていることを!」
 ヘリコプターは大きく回転翼を傾けると漁船の周囲を旋回した。何度も繰り返し、まるで波間につっこむようにして舳先に接近し真っ白い波と飛沫を浴びせかけている。
「風圧で相手を押さえ込むつもりらしい。すごいな……大型ヘリであんな芸当ができるのはあの人ぐらいなもんです!」
 ケイコははらはらしていた。そうでもしなければあの船をひきとめることはできないだろうが……しかしそのために味方の兵士を生命の危険にさらしたくはなかった。万一ローターの先端が波頭に触れればたちまち機体は海面に叩き付けられてばらばらになるだろう。
「うまいぞ、相手がコースをかえた!」
 船足が落ちるのを嫌ったのだろう、漁船はヘリを大きく迂回し針路を斜め右に向けはじめた。
「ああして足止めしていればそのうち……」
 前方から微かに銃声が聞こえケイコははっとした。双眼鏡を覗くと操舵室のドアを開いて男の一人が上甲板に姿を現している。その手に握られた銃の先から白煙がぱっと広がるを見て彼女は叫んだ。
「危ない! 早く船から離れてっ!」
「くそっ! こっちは武器が使えない……いったいどうすればいい?」
 ジャックがうめき声をあげ、大尉のシーホークが舞い上がると同時に漁船はふたたびスピードを上げて逃走にかかった。ケイコは遠離りつつあるその船尾を恨めしい思いで見つめた。駄目だわ――とても停められそうにない。心の中に絶望感が広がるにつれ双眼鏡を握る彼女の指に力がこもり血の気のうせた関節がさらに白くなった。
 ……つぎの瞬間、大きく揺れる視野の中に唐突に巨大で真っ黒な影が出現した。一瞬ケイコの頭の中にザトウクジラのブリーチングのイメージが思い浮かんだ。が、すぐにそれが慣れ親しんだ愛敬ある鯨たちの跳躍ではなく、ロサンゼルス級攻撃型原潜のチタニウム合金の船体が海面を激しく切り裂いて緊急浮上した姿であることに気がついた。108メートルの長さの葉巻状船殻の前三分の一ほどが空中高く延び上がり凄まじい水飛沫とともに海面に落下したのだ。やがて数秒遅れて天地を揺るがす轟音がボートを震わせた。
 度胆を抜かれぼう然として双眼鏡から目をあげ、思っていたより二つの船の距離が遠かったことにケイコは気がついた。一瞬まるで潜水艦が漁船のすぐ鼻先に飛び出してきたように見えたのだが、しかしそれは望遠レンズごしの錯覚だった。もしも現実にそんなに近かったら小さな漁船はその衝撃だけで木っ端みじんに粉砕されていたにちがいない。二隻の距離は数百メートルは離れているだろう。それでも排水量6000トンを超える〈ジャクソンビル〉が押し退けた海水は膨大な量であり、小山のようなその水塊は崩れ落ち泡立ち騒ぎながら津波のように四方へ広がっていった。避ける暇もなく漁船はもろにそれにつっこみ大きく船体を揺さぶられた。船首に白波が砕け散り、急速に速度を落とした船の甲板を滝のように海水が流れ落ちる。つぎの瞬間大きく跳ね上げられた船尾に虚しく回転するスクリューが見えた。漁船は何度も何度も大波にもまれ、そのたびに彼女は娘の身を案じてはらはらした。
「波がきます……しっかりつかまって!」
 ジャックが叫び、ケイコが我にかえって舵輪にしがみつくと同時にユーティリティボートは激しく上下した。まるで巨大な手につかまれて乱暴にゆすぶれらているような気分だ。小柄なドリスは座席からほとんどもぎ離されそうになって小さな悲鳴をあげた。
「敵さんかなり浸水したな。喫水が下がって船が傾いている」どうやら体力の限界らしく濡れた舟底に身を横たえながらジャックが希望をこめて言った。「ハッチを閉じる暇がなかったんだ。機関部が水を被って使い物にならなくなっていてくれればいいんですけど……」
「いえ、そうはいかないようね……」ふたたび双眼鏡を覗きながらケイコは無念そうに言った。「白い煙を大量にふきだしているけどまだエンジンは動いている。でも船足は遅くなっているわ」
「船底に 水 ビルジが溜まっているみたい。ふらふらしてる!」強力な助っ人の出現にドリスはすっかり元気をとりもどしていた。
「安定が悪くなっているから以前のようなスピードはだせないはずです」
 真っ黒な〈ジャクソンビル〉の巨体が前方に立ち塞がっていたからやむなく漁船はとりかじをいっぱいにきり、ほとんど九十度転針して最寄りの島影を目指した。潜水艦の追撃をふりきるために浅瀬をめざしていることはあきらかだった。
「飛ばすからもうすこしだけ我慢してちょうだい。かなり相手の速度が落ちたからたぶん追いつけるわ!」ぐったりと横たわり疲れたように目を閉じている若者にそう断わると彼女はエンジン出力をいっぱいにあげ追跡を再開した。
「珊瑚礁をつっきって潜水艦の前に出るつもりかな?」波を蹴立てて進むボートの振動で声をふるわせながらドリスが尋ねた。
「いいえ、もう外海では逃げ切れないとわかっているはずよ。たぶんあの島の中に逃げ込むつもりでしょう」
 いま彼らが向っている島はかなり大きかった。セッティをつれたままジャングルに潜り込まれたらやっかいだ。絶対にそれを許すわけにはいかない……ケイコは祈るような気持ちでスロットルをいっぱいに開けつづけた。
 突然、相手の船が大きく揺れた。島をとりまく珊瑚礁に数百メートル乗り入れたあたりだった。つぎの瞬間夥しい白煙が船尾から立ち上り何かが爆発するように飛び散るのが見えた。
「……なにが起こったの?」ドリスの問いに大義そうに身を起して船縁の外を覗きながらジャックが答えた。
「浅瀬で舟底を擦ったんですよ。あの手の漁船は舵とスクリューが船底からつきだしてるからきっと滅茶苦茶になったでしょう……もう大丈夫です。スピードを落としてください。やつらはあそこから動けませんよ」

 漁船が座礁した場所にケイコたちが到着して間もなく〈モントレイ〉が島の背後から激しく波をかきわけながら出現し、ミサイル巡洋艦に搭載されていた二艘のユーティリティボートが新たに加わってケイコたちのそれとともに男たちの立てこもる漁船の周囲を遠巻きにとりまいた。
 驚いたことにはさらにそれにすこし遅れて〈セオドア・ルーズベルト〉までもがしずしずと巨大な姿を現したのだった。どうやらアレンバーク提督は7歳の少女のために全艦隊に出撃命令を下したらしい。確かにこの判断は誘拐犯人たちへの心理的な威圧としては絶大な効果を発揮したようだった。間もなく彼らは降伏の白旗をマストの上に掲げたのだ。
 ただちに完全装備の海兵隊員を満載したゴムボートが横づけされ男たちは武装解除されたうえで原子力空母に護送された。ライアン二等水兵はヘイズ大尉のシーホークで治療を受けるために運ばれ、ユーティリティボートに残ったふたりのもとに間もなく鴉の濡れ羽色の髪を潮風になびかせつつ朱色の毛布にくるまったセティスがまるで壊れものか何かのように丁重に届けられた。
「……セッティ……」ケイコはいまになって急に腰が抜けたように娘の身体を抱いたままボートの縁にへたり込んでしまった。
「ママ、……ちょっと。そんなに力をいれちゃ、くるしいよ。それに、なんでママが泣いているの? さらわれたのはわたしのほうなのよ!」
「あ、ごめん。……ママ、ほっとしたらなんだか気が遠くなりそうで……。あなた大丈夫だった? 怪我はない?」
「うん」セティスはうなずいてから思い出したように顔をしかめて続けた。「……でも鼻が曲がっちゃったんじゃないか心配。あの人たち半年ぐらい風呂に入っていないみたい……」 

「名前は知らないが〈ジャクソンビル〉のソナー係は相当切れる奴だな」
 トムはしきりに感心していた。「遠すぎず、近すぎもせず……あのポイントにぴったり浮上させる腕前は、しかしたいしたものだ」
 ケイコたちはほんとうに久しぶりに船室でのんびりしていた。ふたりの娘たちは〈モントレイ〉を表敬訪問していて昼すぎまで戻ってはこない。なにかと忙しく動き回っていたふたりにとってぽっかり空いたこんな時間は、なんだか《白い嵐》に巻き込まれて以来はじめての休日という感じだった。
「船長以下他のメンバーが優秀だったこともあるんじゃないの? マコーミックさんが言うには……」
 このゴールドベルク変奏曲のつぎに何を聞こうかな?とCDアルバムをめくりながらケイコが少し眠た気な声で反論しかけるとトムはふん、と鼻で笑った。
「あの男にゃあ潜水艦のことなんかわからないさ。他のメンバー? 連中はソナー係の耳を頼りに操船しているだけだよ……なんといっても娘が救われたのはそいつのお手柄さ」
 ――自分がソナー担当だったからって少しひいきめに見ているんじゃないの? それにどのみちあの船は長くは逃げられなかったのよ。燃料がほとんど底をついていたんだから……。
 そう言おうとしたとき船室のドアにノックがあった。ケイコが扉を開くといきなり目の前に薄褐色の巨大なトカゲがいた。
「きゃっ!」
 よく見るとそれは太い木の枝に乗っていて、それらはまた大きくて透明なプラスチック・ケースに入っていた。それをさも気味悪そうに捧げ持って敷居の前につっ立っているリクルート兵にはまだ少年の面影が残っていた。
「驚かせて失礼、奥さん。こいつをどこに置きますかね?」
 なるべく自分の身体からケースを遠ざけようと苦心している彼の背後からケイコのよく知っている声がそう尋ねた。
「ああ、びっくりした。……ようこそ、マコーミック伍長。いったい何なの? このトカゲは?」
「おふたりのところへ持っていくように言われましてね。何のことかはわたしも知りません。たぶんあとからビーチャー少尉自身が説明するでしょう」
「ビーチャー少尉?」どこで聞いた名か思い出そうとしているケイコの背後からトムが見かねて言った。「まあ、ともかくそのケースをどこかに置いてもらったら? そこの彼、顔色があまりよくないぞ」
「そうね、ごめんなさい。ごくろうさま、そこのテーブルに置いてくだい」
「……聞こえたろう? トカゲ殿を驚かさないようにそっとやるんだ」
 見るからに爬虫類が苦手らしい新兵はケースをテーブルに安置するとほっとした様子でそそくさと部屋から逃げていった。
「いらっしゃい、伍長……また新兵をいびってご機嫌のようね?」
「人聞きの悪いことを言わんでください。『鍛えている』んですよ、奥さん」
 ケイコは立ち上がって残った古参兵の逞しい手を握った。
「お久しぶりです。このごろなんだかんだ忙しかったので……お会いできて嬉しいわ」
「こちらこそご無沙汰しておりました。確かにお忙しいでしょう。あの事件以来、みなさんすっかり有名人ですね」
 ケイコは苦笑した。実際、彼女は自分で感じるところでは拷問にも等しい日々を強いられていた。麻薬密輸業者どもから全将兵が力をあわせ奪回した愛らしい少女の母親として連日のように艦内TV放送のスタジオにひっぱりだされていたのだ。
「有名人というならライアンさんも……その後、容態はどうですか?」
「ジャックならもうすっかり元気ですよ。むしろ少し輸血が多すぎたかも知れませんな。英雄気取りで肩で風切って歩いてます。傷がすっかり癒えたら大いに鍛えなおしてやらんといけません。どうも、ご主人……」トムと握手しながら伍長は言った。「しかしお嬢さんたちも忙しくて気の毒ですな。昨日〈ジャクソンビル〉にいたと思ったら今日は〈モントレイ〉ですか?」
「アレンバーク提督のご好意です。娘たちを退屈させないよう気をつかってくださっているんですわ」
 マコーミックはにやりと笑った。「それだけでなく提督、お子さんたちの姿を間近に見ることがクルーの士気を高めるのに絶大な効果があるってことに気づいたんですよ。実際、ワシントンD.C.が未開の原野に戻ってしまっているのを見ていらいこんなに部下たちの意気があがったことはありません……」
 そう言われてケイコは誘拐騒動の直後シーホークで戻った彼女たちを乗組員がレインボウ・ラインアップと拍手喝采で迎えたことを思い出していた。
「娘たちが思い上がってしまわなければいいんですが……なんだかちょっと怖い気もします。みなさん、なんでああまで娘たちに注目するのかしら……?」
「わたしにはわかるような気がしますよ、奥さん」伍長は少し真面目な顔にもどってつづけた。「いうなれば、あなたがたご一家はわれわれ軍人が守るべき善良なる市民の代表なんですな。その安寧のためにこそ自分たちの任務がある古きよき家族そのものであり、そして同時に何時か帰るべきわが愛する祖国の象徴でもある……」
 ケイコははっと胸をつかれた思いだった。
「そうなのね……あなたもご家族がいらっしゃるのでしょ? マコーミックさん」
「妻とは三年前死別しました。しかし下の娘はバージニアの大学にいて休暇のたびに会いにきてくれます」伍長は嬉しそうに胸元から取り出したペンダントを開いて見せた。「美人でしょう?」
 しばらくそれに見入ってのち伍長はトカゲのケースにそっと触れながら溜め息まじりに言った。「……まあ、難しいことはよくわかりませんが、あなたがたがこいつを研究することで国に帰る方法をなんとか見つけだしてくれるといいんですがね」それから彼は急ににやりと照れ笑いをした。
「それじゃわたしはこれで……リクルートたちをいびる楽しい仕事がひかえてますので」
 伍長が出ていったあとトムは腕を組み無言でトカゲを睨んでいた。
「『こいつを研究することで国に帰る方法を見つけだす』だって?」
「ビーチャー少尉って聞いたような気がするな」
「覚えていないかい? 例の《IDL》を発見した男だよ。確かに変人らしい。海軍士官が爬虫類おたくとはね……こいつはたぶんアノールトカゲだよ」

 まもなくやってきた当の本人は確かにいっぷう変わったタイプの将校だった。こんなに度の強いメガネをかけた軍人をいままで彼女は見たことがない。自己紹介しながら幾つも抱えた紙筒を床に落としていた。反対の脇にノートブックパソコンを大切にはさんでいたからだろう。握手する手は女性的でキーボードさばきはいかにも巧みそうだけれどオールなど握ったことすらなさそうだった。海軍士官というよりライナス・ビーチャー少尉はソフトハウスのプログラマーか何かのように見えた。たぶん艦での彼の仕事も実際にそれとおっつかっつなのだろう。彼は自分を戦闘管制センターの戦術行動管制官TAO――と言っても老子とは何の関係もないのだ、と紹介した。
「こいつはあの麻薬密輸業者たちの船にいたんです……アノールトカゲはマニアたちの間ではけっこう人気がありましてね。ネットオークションでも希少種には高値がついてます……」やっぱり爬虫類オタク。そしてパソコンおたく――ケイコは思った。「……最初ジャマイカオオアノールかなと思いました。でもよく見るとそうじゃない。 喉 び れ デューラップの黄色は同じですがこいつのにはストライプが入っています。それに連中はジャマイカには立ち寄っていないと証言しているし……このトカゲはキューバで捕獲したそうです。むろん本当かどうかあまり信用はできませんけど……」
「ちょっと待ってください、少尉。生物学者といってもわたしたち専門は爬虫類じゃなくて海生哺乳類、特に鯨です。アノールトカゲについてはむしろあなたのほうが詳しいんじゃないかな。どの種に属するか判断してくれと言うなら……」
 トムが釘をさしたがビーチャー少尉は首を横に振った。
「いえ、いえ。それをお願いにきたんじゃありません。ただわたしの話を聞いてどう思われるかご意見を伺いたいだけです。ひょっとしたらとても重要な事柄かも知れないので……」
 どこかしらこの少尉は途方に暮れているように見えた。ちょうど何か大切なものを発見したのにそれが自分でもいまひとつ信じられないでいる、という感じだった。
「まあ、わたしたちも一応アノールが生物学的にとても興味深い生き物であることは知っています。カリブ海一帯の島々に棲息するトカゲの一大グループで島ごとに独特の進化が見られることから……ちょうどガラパゴス諸島でのダーウィン・フィンチみたいに……種の適応放散と収斂進化といった生物進化のメカニズムを考える最良のサンプルのひとつです」
 ケイコがそう言うと少尉の顔がぱっと明るくなった。
「さすがですね……それだけご承知なら話が早い。このトカゲたちは島ごとに種類が違うし、また同じ島でも棲息する場所によって形や大きさが異なっている。だから詳しい者が見ればどこの島のどんな所で採られたトカゲなのか百パーセントわかるはずなんです……」
 ビーチャー少尉はケースの蓋をずらすと無造作にトカゲを掴んで取り出した。長さ五十センチもあるトカゲが激しく身悶えするのを見てケイコは――どうかこの部屋のなかで逃がさないでっ!と心で祈った。
「こいつは指先にやもりのような吸盤の役目をする『薄板』があります……四肢の長さから言って木の幹のかなり高い場所で暮らすトカゲだということがわかりますでしょ? ご存じのようにアノールトカゲは暮らす場所によって身体の大きさや形を様々に分化させています。地上近くにいる種族は外敵から逃げるためにもっと身体が小さく手足も長くなっているんです。でも……」
 彼はトカゲをケースに戻すと怒って口を開いているその頭を指先で軽くこづいた。
「この背中に注目してください。ダイアモンド型の模様が並んでいるのがおわかりですか? こいつは他の種類のトカゲにはないアノリス・サグレイ……つまりブラウンアノールの雌だけの特徴です。この種類は人間が持ち出さないかぎりはキューバ島にしか棲息しないはずです。加えて知られているかぎりでこんな大きなやつはいない。まず20センチを超えることはない小ぶりで敏捷なトカゲです。小さくて地味なために人気がなくペットショップではよくイグアナの餌として売られています。だからこんなサイズに育つなんてとんでもないことで――例えるなら猫ほどもある大きさの二十日ネズミが目の前にいることと同じです」
 最後の台詞をトムが聞き咎めた。
「つまり、少尉。あなたはこう言いたいのですか? 本来ならこんなアノールトカゲが存在するはずはない、と?」
「……おっしゃりたいことはわかると思います」少尉はなんだか困ったような笑いを口元に浮かべていった。「単にいままで見つかっていなかった新種のアノールトカゲがたまたま捕獲されたというだけかも知れない。わたしだって普通はそう考えるでしょう。でもね……」
 彼は制服のポケットから大切そうに一枚のCD-Rを取り出した。
「これを見てください。こいつはわたしたちがカリフォルニア半島に立ち寄ったときに上陸した部隊のカメラマンが撮ったものです。死んでからだいぶたっていてあまり状態はよくないんですが……」
 彼はノートブックパソコンの蓋を開きそれをドライブに挿入した。
「どう思われます?」
 カサコソという読み出し音に誘われるようにケイコは夫の肩ごしに覗き込んだ。どうやら沼地の草むらのなかで死んだ野生動物の死骸らしい。屍体あさりの動物に齧られたらしくかなり損傷しているが、非常に大きな生物であることは一緒に写っている兵士たちとの比較でわかる。
「象……犀かな?」
 ほとんど一分間黙りこんだのちトムは言った。
「いや、違うね。骨格がまったく別だ。こいつはきみの領分かも知れない――この歯の部分を見てごらん。こんな生き物は地上のどこにも存在しない……すくなくとも現在の北米大陸にはね」
 彼女はモニター画面をじっくりと観察した。海兵隊員と思われる一人の兵士がよく見えるように葦をかきわけている。頭部が白骨化しているため汚泥に半分埋もれた顎と、まるで日本の巻寿司を束ねたような独特の歯がはっきりとわかった。
「えっ? ……これって、まさかデスモスチルス?」
「そのまさか、だと思うな。この歯の並び方はほかの動物には見られない束柱目だけの特徴だ……まあ、仮にデスモスチルスそのものではなくともかなり近い亜種だと思うね」
 ビーチャー少尉はわが意を得たりという表情で大きくうなずいた。
「やっぱり絶滅したはずの動物の骨だったんですね?」
「――デスモスチルスは1200万年以上前、原因不明の理由で絶滅した謎だらけの哺乳類なのよ」ケイコは夢を見ているような気分で答えた。「日本で発見された絶滅大型哺乳類として以前かなり話題になっていた。この目で見るチャンスがあるとは思わなかったわ……」
「ということは……ぼくらはタイムスリップで過去の世界に送り込まれてしまった、ということなのかな?」
 本気とも冗談ともつかないトムの独り言にビーチャー少尉はにっこりと笑って答えた。
「まあ、その可能性もゼロじゃないけれど――たぶん真相は違うでしょう。……考えてみてください。わたしたちの艦隊は電波航法を使わずにずっと航海しているんですよ?」
「そうか……。もしも過去にタイムスリップしたとしたら天文航法の基本である北極星の位置がずれたりするはずよね?」
「そのとおりです。――まあ歳差運動は約二万六千年周期ですからたまたま現代と同じ星空が観測できる時代に行き着いた、という可能性もなくはないけど……」彼はここぞと身を乗り出した。「……そんな無理な仮定をしなくても、もっと単純でわかりやすい説明があります。このアノールトカゲはわれわれの世界のそれとは少し違う進化をとげているわけでしょ? つまり……無数に枝分かれしたなかでの別の可能性世界、パラレルワールドにわたしたちは投げ込まれてしまった、というものです」
 しばらく部屋の中を沈黙が支配した。やがてトムが咳払いをひとつすると言った。
「……まあ、突飛という点ではタイムトラベルとたいして違わないけどね。――そう考えれば、ここに人間がまったくいないのも……」
「ええ、アノール同様、たまたま霊長類の進化のプロセスがべつの道筋に逸れてしまったためです。たぶん人間を生み出した突然変異がここでは起こらなかったのでしょう」
 トムは腕組みをして考え込んだ。同じ生物学者として夫が何を考えているのかケイコは想像できるような気がした。チンパンジーとヒトが分岐したのはわずかに500万年前、遺伝情報の差は1.23パーセントでしかない……確かに敏捷なブラウンアノールを樹上性の大型爬虫類に変える差異よりははるかに小さいかも知れない。
「そうなんだわ。わたしはここの自然がもとの世界と違っているのはただ単純に人間がいないためだけだと思っていた。でも……」ケイコは自分の言葉がなんだか空中にふらふら漂っているように感じた。「もしこの世界が1200万年前別の進化の歴史へと枝わかれしたのだとしたら、ほかの生物種もずいぶん違っていてしかるべきでしょ? 例えば、ヒゲ鯨亜目と歯鯨亜目が分子系統樹の上で分れたのはやはり1000万年ぐらい前らしいって最近の研究もある。――でもちょっと前にわたしはわたしたちの世界のそれと少しも違わないザトウクジラの親子を見たわよ」
「それは簡単に説明できますよ」少尉は持参した海図を盛大に広げながら答えた。「ほら……われわれがここ“IDL”にごく近いところにいることを思い出してください。バハマ諸島やキューバ島はその西側――《今日》の世界にあり、ドミニカやプエルトリコは東側、つまり《昨日》の世界にあります……われわれがデスモスチルスを発見したのは東へ向う航海の途中でしたからあの動物は《昨日》に属するんです」
「それに対してセミクジラとこのブラウンアノールは《今日》に属している……《昨日》はあきらかに1200万年以前にわれわれの世界から分岐した。一方《今日》は歯鯨亜目とヒゲ鯨亜目が別れる1000万年以降、チンパンジーとヒトとが別の種に別れる500万年以前に分岐した世界ということになる……」しかたなく他人の意見を認めるときの口調でトムは言った。
「すごいじゃない? 東へ行くほど過去に枝分かれした世界ということ? じゃあひょっとして西に西に向って進めばわたしたちのもといた世界に戻れるかも!」
 勇み立ったケイコをなだめるようにビーチャー少尉は慎重にうなずいた。
「その可能性はあると思います。しかしこれだけの証拠では断言はできませんよ。たまたま隣あった世界がそうなっていただけで西に向って進むことでかえって故郷から遠くなってしまう可能性だってあるんですからね。いきあたりばったりで艦隊を進めるわけにはいかない、と提督なら言われるでしょう。〈モントレイ〉が同行するとしたらなおさらです」
「そうだったわ。……ルイス艦長の船だけがディーゼル機関なのね?」
「正しくはガスタービンエンジンですけどね。実用上の理由から海軍の艦艇はすべてジェット燃料であるケロシンを燃やせるように造られています。だから〈セオドア・ルーズベルト〉に積み込んである航空用燃料を利用すればかなり航続距離を伸ばすことはできる。とはいえもちろん原子力機関にはとうていかないません。……おわかりでしょ? 見込みだけで動くわけにはいかないんです――われわれにいま必要なものは闇雲な勘ではなく六分儀や航海用精密時計なんですよ!」

「『航海用精密時計』……か」
 ビーチャー少尉が夫婦水いらずのだんらんを完璧にかきまわして帰ったあともトムは顔をしかめていたし、ケイコはケイコでその言葉を繰り返していた。
「何者かがわたしたちの世界を剥ぎ取って壁紙みたいに張り合わせてしまったって?」
「うん……彼が言うにはそう考えるとわれわれがここに来てしまったわけも説明できる――」
 ふたりは少尉の言葉をじっくりと反芻していた……。

「――注目すべきなのは《嵐》そのものではなくその直前に起こっている大規模な静電妨害のほうです。あなたがたがシルバーバンクで経験したラジオの変調と同じものをわれわれもまた北大西洋上で観測しています。ふたつのポイントが何百キロも離れているのにもかかわらず良く似た唸りをともに聞いている。つまりこの現象は非常に広範囲におこったものであるということです」
 あの海の底から聞こえてくる啜り泣きのような無気味な音を思い出してケイコは背筋がむずむずした。
「そもそも静電気は密着したものが引き離されたときに発生する……あれだけのスケールで静電負荷をひき起すためにはとてつもなく巨大な何かを引き離す必要があります。たとえば世界そのもののような……」
 ちょっとの間三人は互いを見つめあったままだった。
「――つまりこの異変が起こったのはあの瞬間なんですよ。そして次にはふたたびつなぎあわされた――ただし、こんどは並列する世界と隣り合わせにね。ちょうどホームページの壁紙のパターンをつなぎ合わせたような具合です……」
「それじゃあの《白い嵐》は……?」
「カオス理論によれば気象現象はわずかな初期条件の違いを拡大する傾向がある。だからつなぎあわされたパターン同士――ふたつの可能性世界の境界付近では気圧や気温が不連続に変化しているはずです。当然それが平均化される過程で両方の大気が入り交じって激しい乱流が生じるでしょう。この乱流が《白い嵐》の正体なんでしょう」
 なるほどこのおたく少尉の頭はぶっとんでいるけど、その仮説はすべてをうまく説明しているかも――ケイコはひそかに感心した。
「互いに最悪の瞬間に最悪の場所にいあわせたわけです……うまく『世界』に乗っていれば新しい位置に無事嵌め込まれたでしょう。どこかにはアメリカ合衆国の描かれたパターンも存在するはずですから。しかしたまたま《IDL》の近くにいたためにれわれは運悪くまったく別のパターンに紛れ込んでしまったようですね」
「あなたの言い方をさっきから聞いていると……」ケイコはこの部屋にはかなり酸素が少ないみたいだわ、となぜか陽気に感じつつ尋ねた。
「わたしたちは途方もない力を持った何者かが意図的に作り出した世界に飛び込んでしまったと主張しているように聞こえるんだけど?」
 少尉は話が滑稽な方向に進むことを怖れているように真面目くさった顔つきで答えた。
「……わたしの仮説をまともにとるかどうか、そりゃあみなさんのご自由です。しかし現実にわれわれは無人の世界に送り込まれてしまっている。なにかとんでもないことが起こったことは確かなんです。そして少なくともこれらの現象の背後には間違いなく何かの意志なり知性なりが存在している、とわたしは信じています。それをやったのが悪魔か神か宇宙人か、なんてことはこのさい大して重要ではないでしょう?」
 それから急に何か心配ごとを思い出したかのように彼は華奢な手をもみあわせた。
「しかしね……こんな話をいきなり提督のところへ持っていっても相手にされそうにないんですよ。なにしろアノールと海イグアナの区別もつかないのがあの人たちですから。このトカゲや得体の知れない動物の骨の写真を見せたところで何の説得力もないでしょう。そればかりかへたをすると妄想を抱いていると思われて戦闘管制センターをおっぽり出されて厨房で皿洗いをするはめになるかも知れません」
「皿洗い見習いだろうね」トムがつぶやいた。
「ええ、皿洗い見習いです――今日ここへ来たのはわたしの仮説が少しは見込みがあるかどうか科学者であるおふたりに判断していただきたかったからなんですよ。たぶんおふたりの口添えがあれば提督を説得してつぎの実験に取りかかれるんじゃないかと思うんです……」
「『実験』?」
「《IDL》を突っ切る旅は両極に近づくにつれて行程が短縮されるはずです。極端な例、南極点の周囲を歩いて回るだけでいくらでも別の世界に移ることもできるかも知れません」
「なるほど……」防寒服を着込んで南極点をぐるぐるまわっているビーチャー少尉の姿を思い浮かべながらケイコは言った。
「でも、それって危険じゃないかしら? 《IDL》が極点でどうなっているか想像もつかないわ」
 少尉はあっさりと認めた。
「ええ、確かに危険かも知れません。でも幸いなことにこの艦には地域紛争に備えて改良型のUAV――無人偵察機が積んであるんですよ。わたしはそいつを飛ばして極付近での《IDL》の状態を調べてやろうと考えているんです……」

「どう思う? あの少尉は頭がおかしいのかしら……」
 トムは首をかしげた。「確かにごくわずかの証拠から完全な全体を推測してしまう特別の才能をもった士官はたまにいるんだ。軍隊というのは機密保持機能で成り立っているみたいな集団だけど、そんな情報の壁を推理の力だけで突破してしまう保安担当者泣かせの『問題児』のことはぼくも小耳にはさんだことがある。……でもあの男はちょっと違うな」
「いちおう『仮説』という言葉を使っているけど、本人は疑いのない真実と確信しているみたいね。自信満々という感じ」
「そのくせ妙にどぎまぎしている。なんだか……」彼は身をかがめてアノールトカゲを覗き込みながら言った。「……どこかからともなくやってきたインスピレーションに自分自身で驚いて途方に暮れているって感じだ。旧約聖書の預言者みたいだよな」
「神の啓示ってわけ? ふうっ――やっぱりイカレてるのかな?」
「しかし言ってることは首尾一貫してる……戦闘情報センターにいるぐらいだから無能じゃないはずだしね。間違いなくMITあたりを出た秀才だろう」
「あなたは信じるの?」
「うーん」トムは腕ぐみをした。「……とりあえずぼくらが使える『仮説』はそれひとつしかないからね。ひとまずその線で押していってみて、まんいち家に帰れるなら御の字ってもんじゃないか?」
 一瞬ケイコの脳裏に先程マコーミック伍長が見せたはにかんだ表情が浮かんだ。娘さんに会わせるために自分たちに出来ることがあるのなら是非ともやってあげたい。
「問題はどうやって家に帰るか?だわ」
「そうだ……仮にあの男が正しく、この世界が連続的に他の可能性世界につながっていて、それぞれが生物が分岐するのと同じようにわれわれの『世界』と過去においてさまざまに分岐した領域だとしよう。――ちょうどそれは進化系統樹の無数の枝先を上空から俯瞰するようなものだ。つまり生物の多様性こそがこうした『世界』の多様性そのものなんだ……」
 急に彼は活気づいたように部屋の中を往復しはじめた。
「彼の言うとおりナビゲーションが必要なんだ。自分たちがどこにいてどこに向っているかを知らずに航海することはできない。――そしてぼくたちは生物学者としてそうした世界を分類し印づける方法を知っているじゃないか?」
 ハンサー博士の脚がぴたりと止まった。
「世界たちの相関図――それぞれがどう分岐し隣りあっているか――それを示すことができればもとの『世界』にもどるための航海図を作ることもできるはずだ」
 夫の独白の行き着く先がケイコはわかるような気がした。
「それよ! ……いわば生物学的な『経度の発見』ね。そのためにまず必要なものは……もちろん」
 彼らは同時に同じ言葉を口にした。
「……分子時計!」

「大麻をどの島に隠したか連中はまだ白状しないのかね?」あいかわらず葉巻を指のあいだでこねまわしながらアレンバーグ提督は艦長に尋ねた。どうやら最後のハバナ産のそれに火をつける決心ができかねているらしい、と周囲は次第にわかってきた。
「がんとして口を割ろうとしません。まあ当然でしょう。認めれば自分たちの首に縄をかけるようなものですから」
「ふん……まあいい、そんなことはわれわれの仕事じゃないしな。児童誘拐と殺人未遂だけで十分だ……ただ残念なのはこの場で奴らに板の上を歩かせて鮫の餌にしてやるわけにはいかないことだ。遅かれ早かれ正規の裁判を受けさねばならないし、そのためにはまずもとの世界に戻らにゃならん……」手にした葉巻を愛おし気に眺めた後、提督は会議机の反対側を鷹のような目で睨んだ。
「そこでだ、少尉。三百二十万ドルするプレデターをおもちゃのように飛ばしたあげく三機も行方不明にしてしまったきみの『実験』とやらの始末はいったいどうだったんだ?」
 不意を打たれてびっくりしたビーチャー少尉は手許で揃えていた報告書類を床にばらまいてしまった。
「あ、はい! 提督。たしかにUAVはいくつか失ってしまいましたが、それにみあうだけの結果は出たと思っております……ぐっ!」彼はあわてて書類をかき集めようとして椅子の脚にすねを思いきりぶつけた。「くうっつつ……、……お、おかげでいわゆる《IDL》の性質についてかなり詳しいところまでわかりました……」
 トムは彼が涙をこらえているあいだ濃紺の分厚い絨毯にひざまずいて書類を集めるのを手伝った。この作戦会議室は艦の中にいるのが信じられないほど豪華なつくりで周囲の壁も調度もすべてぴかぴかに研き上げられたマホガニーでできていた。部屋の中央には頑丈な楕円机が置かれ、南北アメリカとヨーロッパおよびアフリカ大陸を含む大西洋全域の美しく巨大な海図が広げられている。机を囲んでアレンバーク提督、シュルツ大佐、〈モントレイ〉のルイス中佐、〈ジャクソンビル〉のジュリアーニ大佐、医療センターのシェパード軍医長、戦闘管制センターのワード少佐、ビーチャー少尉、そしてハンサー家の父と娘たち……ドリスはさきほどからリージェンシィチェアの背にもたれて掌の傷のかさぶたをこそげ落とす作業に熱中していたし、セティスはセティスで見事な象眼細工の天板にほおづえをついて難しい顔で書き取りのドリルをやっていた。
「《IDL》はやはり推定どおり西経72度の経線上に存在します。正確には……えー、」正確な数値を記した書類がどうしても見つからないらしく彼はあきらめた様子で記憶を頼りに説明をつづけた。「……まあ、ほぼバミューダ・トライアングルを貫くような形です。なぜこの位置なのかは説明できませんが、ひょっとしたらあのフライト19のアヴェンジャー編隊やアトランティス文明の消失とも関係しているかも知れません……」
「――あなたの推測はいいから事実だけを報告しなさい、少尉」ワード少佐が言いビーチャー少尉の顔が紅潮した。
「アイ・サー、……この不可知のラインは経線に平行に南北にのび緯度65度付近で極をぐるりと環状にとり巻く通過不能の《極圏の壁》の中に続いていると思われます。『思われる』と曖昧な表現をしたのは現在北半球は冬であり調査は南極付近でだけ行われたからであります……」
「その『極圏の壁』とはどういう性質のものか言うことはできますか?」
「非常に強力な低気圧の壁です。UAVはそれを通過することができませんでした。二機を失った時点でわれわれは南極大陸深部の調査をあきらめました。おそらく船舶による侵入の試みも同じ結果に終わるでしょう。〈ジャクソンビル〉の観測では海中にも同様に強い海流が存在するようですから……」
「ふうむ、極圏には『立ち入るな』ということか?」
 突然、カチリと音がして部屋にいる全員がそちらを見た。アレンバーグ提督がついに葉巻に火をつけたのだった。紫煙たなびく沈黙の十数秒のあと、提督は少し口調を変えて訊ねた。「質問をしてもいいかね? ビーチャー少尉」
 柔らかな言い方だったが艦長たちの視線がいっせいに少尉に注がれたのをトムは見逃さなかった。
「ど、どうぞ……提督」少尉の喉仏がふたたび上下した。
「今回の実験をわたしが許可したのはハンサー夫妻の推薦に加えて、事前にきみから無人機を、そして無人機だけを使って……いわゆる《IDL》の性質を確かめる、という説明があったからだ。そうだったな?」
「は、はい、そのとおりであります」
「しかるに実験の最終段階できみは自分自身ホークアイに乗り込んで《壁》のごく近くを飛んだそうじゃないか? ――それは事実なのかね?」
 「ええ……まあ、でもそれはすでにUAVを何度となく飛ばして最終的に安全であると思われる限界を確認しておりましたし――」
「しかし聞いた話ではプレデターのうちの一機は《壁》のはるか手前で消息を絶っているということだが?」
「はい――いえ、それは、その……おそらくエンジン故障で海面に墜落したのだと考えました。それをこの目で確かめる必要があったものですから……実際、そのUAVの残骸も確認しております」
「しかし哨戒機を飛ばす時点ではそれはきみには確信できなかったはずだ。あるいは《壁》の未知の性質によって破壊されたという可能性もあったのではないか?」
 ビーチャー少尉は宙に目を彷徨わせ『絞られているわねえ』という表情のドリスと顔を見合わせた。
「少尉! ハンサー家の子供たちに微笑みかけておらんでわたしの質問に答えたまえ!」
「はいっ! 確かにその時点では確信はありませんでした。しかし……」
「……しかし、誰かが《壁》に近づきその目で限界を確かめる必要があった、と言いたいのかね? だがなぜきみが自分自身で飛ばなければならんのだ? それともなにかね? ――MIT出の青二才が英雄になって男をあげる絶好のチャンスとでも考えたのか?」
「い、いえ。けっしてそんなことは……」少尉は頬をさらに紅潮させて言った。「正直なところ世界をこういうふうに変えてしまった方法を見つけだす何かの手がかりを得たくて矢も盾もたまらなかったのであります。《IDL》が何らかの超テクノロジーの効果であるならそれを作り出している力はたぶん極点から発しているはずですから」
「なるほど……そのためのE-2Cか? だが少尉、――その時点ではまったく不確かな自分の直感を確かめたいがために、きみが独断で有能なパイロットと貴重な機体とを危険にさらしたこともまた事実なのだ。しかもわたしがまったく知らないうちにだ……」
「ア……アイ、サー」
「わたしの艦隊に向こう見ずな英雄など必要ない。独断先行はチームワークを乱し艦を危険にさらすだけだ。そんなひとりよがりな奴はカタパルトで水平線の彼方へ打ち出してやってもいいぐらいだ」
「アイ、サー。申し訳ありませんでした」少尉の額に滲んだ脂汗の量にようやくアレンバーグは満足したようだった。
「……まあ、きみの功績は認めよう。おかげで艦隊はつぎに何をなすべきかわかった。それゆえ今回に限ってスタンドプレイには目をつぶっておいてやる、少尉。だがもし次に同じことをやったら――わたしは喜んできみを戦闘情報センターから叩きだし除隊するまでずっと炊事場で皿洗い見習いをさせてやるつもりだからな! ――入りたまえ!」
 提督は怒鳴り、少尉は凍りつき、ケイコがドアを開けて入ってきた。トムは無言の疑問符を視線で送り、彼女はにやりと笑いかえすと手にもったCDケースをひらひらさせた。
「やったの? ママ!?」ドリスが椅子から立ち上がり、セティスは母親にむかってダッシュした。
「やった、やったあ!」
 作戦会議室のなかでとつぜん欣喜雀躍しはじめたハンサー一家にいならぶ将校たちはあっけにとられて顔を見合わせた。
「いったい何事がはじまったのです?」
 ケイコは飛び跳ねるように部屋を横切ると手にしたCDケースをうやうやしくアレンバーク提督の前に捧げ置いた。
「『エメラルドシティの鍵』をどうぞ、提督」
 爆発でもするんじゃないかという顔つきでそれを見ながら彼は尋ねた。
「……何の鍵ですって?」
「『お家に帰る』方法を見つけだすための鍵ですわ。幸運にも〈アトランタ〉のコンピューターのハードディスクのなかに関連論文をダウンロードしたときのまま残っていたものです。つまり、そこに記録されているのはマイルカのミトコンドリア中のチトクロームb遺伝子の全塩基配列のデータなんです!」
「ほう、……それはそれは貴重なデータですね。しかし――『ミトコンドリア中のチトクロームb遺伝子の塩基配列』とはいったい何です?」
「『全』塩基配列……」シュルツ艦長がつぶやき提督は横目づかいにじろりと彼をにらんだ。
「つまりわたしたちが航海するために必要不可欠な道具としての精密時計……分子時計の言わばグリニッジ標準時とも言える大切なデータです」
「『分子時計』?」
「すべての生物がその遺伝子における分子進化の歴史を刻みつけている『時計』です」
 アレンバーグ提督は溜め息とともに椅子の背にもたれると皺の深く刻まれた額を大きな掌でなであげた。
「どうぞ、もうすこしわたしどもにもわかるようにご説明ねがいますかな? ハンサー博士?」
「よろこんでそうするつもりです。……でも、そのためにはまず分子進化とその中立説についてご理解いただかなければなりません……」彼女は数秒の間どこからはじめるべきか考えた。「みなさん木村資生博士のことはご存じですか?」
 将校たちは首をふり、アレンバーク提督がやむなく全員を代表して答えた。
「見当がつくのは彼がたぶんあなたと同じ日本人だろうということだけです」
「わかりました。それでは最初からお話しましょう。――1968年、木村博士はダーウィン進化論と一見相容れないように思える新しい進化学説を発表しました。つまりDNAの塩基レベルでの分子進化は必ずしも生命の適応能力とは関係なくほとんどが適者生存に関しては利益も不利益ももたらさない中立的なものである……と彼はその論文のなかで主張したんです。それはある意味で画期的なものでした。当時絶対視されていたネオ・ダーウィニズムではDNAの突然変異の蓄積こそが生命進化の原動力であり、それらは個体間の生存競争の勝敗を直接支配する要因であると考えていましたから……」
 提督はおちつかなげに身じろいだ。「わたしはいまだにそう考えていましたがね。――強いものだけが生き残る……ではないのですか?」
「残念ながら提督。現在ではそれは少々時代遅れの考え方と言わざるをえませんね。通常、DNAの構造配列は三つの塩基配列がひと組で特定のアミノ酸を指定するコドンと呼ばれる遺伝暗号をになっています……そうして細胞内の特定の部位でこれらコドンが読み込まれ翻訳されアミノ酸の鎖となって細胞構造や酵素を形作るタンパク質が合成されます。そのあたりはおわかりですわね?」
 提督は苦笑した。「おぼろげながら……いちおうハイスクールは出ているのでね」
「さぞ、ご両親自慢の息子さんでいらしたのでしょうね? 提督」ケイコは微笑んだ。「――ええ、さてこうしたコドンの三つ組みの塩基のうちのひとつがべつのものと置き換わった場合、それが指定するアミノ酸も当然変化します。結果としてその部分のアミノ酸が変化した新しいタンパク質が作られることになります。とはいえこれらから出来上ったひとつの酵素が以前とはまったく違う働きをするか?と言うと、必ずしもそうはなりません。むしろほとんどの場合、生体内での働きにはなんの違いもないのです……もちろん、その変化が致命的な影響を及ぼしたり、あるいは逆に環境への適応に有利に働くこともあり得ますが、大部分のコドンの変化、アミノ酸の置き換えはその個体にとって益も不利益ももたらさない中立的な性質のものである――と中立説は考えます。言い換えれば生命は絶えまなく自分自身を進化させているけれど、その変化は必ずしも生存競争に意味を持つとはかぎらない、ということです」
「なるほど……そうしたアミノ酸レベルでの置き換えはわれわれの身体のなかでもしょっちゅう起こっているのですね?」ルイス中佐が几帳面にメモを取りながら尋ねた。
「ええ、どんなに頻繁にそれが起こっているかを知ったら、きっと驚かれるでしょう。進化の過程で哺乳動物は推定ではだいたい二年に一個の割合でDNA塩基の突然変異を蓄積してきたと考えられています。当然これはわたしたち人間も同様です」
「ほう……そんなにね? わたしは遺伝情報というものはもうすこし……何というか、合衆国憲法のように世代を超えた不変なものと信じていたんだが」
「むしろ国際情勢のように絶えまなく揺らぎ変わりつづけているものであるとお考えになったほうが事実に近いでしょう、提督。だからこそ逆にそれは時間の経過を刻みつけたもの……時計として使えるんですわ」
「ふむ……それで『分子時計』というわけですか?」
「種の内部である特定のアミノ酸や酵素の置き換えが定着する確率が一定であると仮定すると、こうした変異の蓄積は時間の長さに比例すると予想されます。ぎゃくに言えば発生系統樹のごく近い位置にあるふたつの種が分岐した時期について、それぞれのDNAの配列の違いを詳しく比較することでそれが何時頃か相対的に決定できるわけです」
「なにをおっしゃりたいかしだいにわかってきましたよ」ビーチャー少尉が頬を紅潮させて言った。
「失礼、みなさん……わたしの専門は遺伝的アルゴリズムなんです。まあ、詳しい説明は省きますが、生物の進化を真似て自分自身の働き方をどんどん改良していくようなプログラムを開発するソフトウェア技術だとご理解ください。その研究のなかの重要なテクニックとして『グレイコード』という考え方があります――」
 彼は立ち上がると止める暇もあればこそ、いきなり机上の海図のど真ん中にへたくそな図形を描いた。
「これは立方体のワイヤーフレームです。ごらんのとおり立方体には八個の頂点があります。このそれぞれに三つひと組の二進数をあてはめます。つまり『0、0、0』、『1、0、0』、『0、1、0』、『0、0、1』、『1、1、0』、『1、0、1』、『0、1、1』、『1、1、1』……の8組です。これらはそれぞれ二進数で表された二の三乗イコール八ビットのアドレスと考えることもできます。注目していただきたいのはこれらの数字の組を『お互いに1つの数字だけ違う』相手と結び合わせて一本の『経路』を作ることができるという事実です。たとえば『0、0、0』から始め『1、0、0』へ行くとしたらつぎは『1、0、1』、そして『0、0、1』――『0、1、1』――『0、1、0』――『1、1、0』――『1、1、1』。おわかりでしょうか? これは通常の二進記法とは違う別の数え上げのやりかたです。これが『グレイコード』であり、興味深いことにこの数値で表現された『経路』は各頂点を一度だけ通って立方体をひと筆書きするやりかたそのものなんです」
 美しい海図を台無しにした大西洋上の立方体を呆然と眺めていた提督が怒りを堪えているかのように静かに尋ねた。
「だから、いったい、なんだと言うのだ?」
「はあ、……ですから、つまり――」
「わたしの理解が正しければ、ビーチャー少尉は遺伝子上の塩基配列をグレイコードに翻訳した道順で故郷へ戻る航路が示されている可能性について語っているんですよ」トムが話をひきついだ。「グレイコードは隣り合った組み合わせ同士では一箇所のコードだけが異なっている。つまりそれは塩基配列における突然変異の最小単位であり――言わば遺伝学的な《経度》の最小単位です」
 ケイコはうなずいた。「……おわかりでしょう? わたしたちがもといた世界に戻るためには、経度を記した《海図》と現在位置を知るための《航海用精密時計》とが必要なんです」
「うむ、それは当然のことです。奥さん」アレンバーク提督の目にようやく鋭い光が戻ってきた。
「……われわれは幸いもとの世界のマイルカの遺伝子塩基配列の一部のデータをここにこうして持っています。そしてこの世界の鯨たちの遺伝子サンプルを採集し、その同じ場所の塩基配列を調べる手段もまた持っているんです。最終的にたどり着くべきゴールはそのCD-Rデータに納められたチトクロームb全遺伝子千百四十対の塩基配列の実現している世界です。そこといまわれわれがいる場所との経度的な距離は遺伝子上の塩基のうちいったいどれだけのものが置き換わっているかという数で表現されます。――そうおっしゃりたいのでしょ? 少尉?」
 ビーチャ少尉は感謝の眼差しでふたりを見た。「そのとおりです……。いま博士はチトクロームb遺伝子の塩基対の数は千百四十とおっしゃいました。遺伝子をコーディングする塩基の種類は、えー……」
「アデニン、グアニン、チミン、シトシン」
「……の四つです。したがって最終的にグレイコードとして現される要素の数は、四の千百四十乗個になり……確かに膨大な数ですが、わたしたちは必ずしもこの千百四十次元超立方体のすべての頂点を通過する必要はありません。この世界の動植物はわれわれの世界のそれに非常に似ているので両者の遺伝学的距離はそれほど離れていないはずだからです――」
「ちょっと待って……あなたがたは鯨の遺伝子配列を調べるような複雑な生物学的実験をこの艦にある設備だけを使ってやろうというのですか? そんなことは大学の研究室レベルの設備がなければ無理じゃないのかな?」
 ジュリアーニ大佐が全員の顔を眺めまわしながら尋ねた。答えたのはトムではなくそれまでずっと沈黙していたシェパード軍医長だった。
「十分可能です、大佐。そして提督。ハンサー夫妻は昨日医療センターを訪ねてこられてわたしどもの設備について詳細に質問されたのです。いまになってようやくその理由がよくわかりましたよ」
「――なるほど、そういえばあなたがこの席に出席されているのはハンサー博士たちのご希望でしたね。シェパード大佐、それにしてもどうしてこうした遺伝子の解析設備をお持ちなんです? 偶然とも思えませんが?」
 軍医長は笑った。「ご存じではありませんでしたか? 〈セオドア・ルーズベルト〉の飛行甲板にスプリンクラーが設置されているのと同じ理由からですよ、大佐。艦隊に対する核攻撃と同様、化学兵器や生物兵器にたいする備えです。われわれの医療センターにはポリメラーゼ連鎖反応法や電気泳動法などによって様々な病原性細菌の遺伝子特性を解明するための設備があらかじめ用意されております」
 トムが最後にまとめるように言った。
「まずこの世界のマイルカの血液サンプル――あるいは組織の微小な一部でもかまいませんが――手に入れる必要があります。それを使って医療センターのスタッフにミトコンドリアのチトクロームb塩基配列を決定してもらいます。それらをこのデータと相互に比較すればいまいる世界がどれぐらいもとの世界と離れているかがわかる……つまりこの分子時計を利用することで並列世界相互のいわば《経度》的な関係を掴むことができるわけです」
「かんたんよね……つまり、『  鯨  時  計  ホエール・ウォッチ』ってことでしょ?」セティスがぽつりと言い、会議室の全員が少女の顔を見た。

 採血用の針を尾びれから抜くときも微かに身じろぎしただけでイルカは大人しくしていた。このあきらめのよさこそ彼らの高い知能の証拠なのだが、それがむしろ人間には愚昧さにも映る。いま少し生存のためにずる賢く振る舞えば一般の人たちもオオカミやキツネ同様彼らに一目置くのだろうけど……。ケイコは複雑な思いをこめてその身体をなでながら言った。
「はい、もういいわよ。いい子だったわね。ありがとう」
「それじゃ頭のほうを持ってくれ。噛まれないよう最後まで気をぬかずに……」彼女が血液サンプルの入った容器をケースにしまうのを待ってトムはイルカを包んだ防水布の持ち手を握った。足場の悪いゴムボートの上でにじるようにして後ろ半身を海につけた途端イルカは尾びれを力づよく振り動かしふたりは今日何十度目かの塩水を頭からかぶった。
「ふう……これでどうにか終わったわね」
 腰までしかない珊瑚礁の浅い海を最後の一頭が腹をこすりつけるようにしてゆっくりと泳ぎ去っていく姿を見ながらケイコはため息をついた。日の出前の薄明からいままで十時間以上ぶっつづけで慌ただしく動き回っていたのだ。ソロモン諸島のイルカ漁を真似て数十隻のボートが協力して行う囲い込み作業には〈アトランタ〉は無論のことすべてのユーティリティボート、動力付きゴムボート、あげくのはてに 提 督 用 搭 載 艇 アドミラルズ・ジグまで動員されたのだった。
「ごくろうさま。それじゃ帰りますか? 『わが家』に……」
 外洋に続く珊瑚礁の切れ目に錨を下ろした〈アトランタ〉にむかってふたりはひどく重く感じながらオールを漕いだ。網を留めてあるブイを押しやって囲い込みフェンスを越え、ようやく辿り着くとすでにクルーザーの甲板には娘たちが並んで待っていた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」ドリスが投げたもやい綱を受け取りながらケイコは言った。「あー、へとへと。やっぱりわが家がいちばんだわ!」
「ごくろうさまでした。パパ、ママ……これはご褒美ね!」
「あらあら?」娘たちがさしだす紙皿の上にはきちんとラップでくるまれたサンドイッチが乗っていた。脇には楊子に刺された大切りのピクルスさえ見える。
「ええー? これあなたたちがこしらえたの?」
「お姉ちゃんとわたしでね! 熱いコーヒーもあるわよ」
「さあさあ、ふたりとも早く着替えていらっしゃい。お昼まだなんでしょ?」
 ケイコは夫と顔を見合わせて破顔した。いやはや、こんな日がこようとは……。

 パンと材料の切り方がふぞろいでお世辞にも体裁よくはなかった。だが空腹でかぶりつく娘たち手づくりのサンドイッチがどうして不味かろう。そうして紺碧の波にゆれる〈アトランタ〉でケイコたちが夢中で遅い昼食をぱくついているところへジャック・ライアンを乗せたユーティリティボートがしずしずと近づいてきた。
「おやおや、優雅ですねえ……カリブの海に浮かぶヨットの上でランチタイムですか?」
「いらっしゃい、ジャック。……まあ、言われてみれば確かにそうだけどね。本人たちは空腹と寝不足で朦朧とした上に全身筋肉痛でこのまま寝込んじゃいそうな感じよ」
「お疲れ様でした。サンプルケースの回収にきました」
 ケイコは慎重な手つきで小さな保冷ケースを船から船へと手渡した。「……これだけあれば十分ね。医療センターの解析スタッフによろしく。ところで、さっそくこき使われているようね。英雄さん」
「やめてくださいよ、奥さんまで……。自主的にダイエットのために志願してるんです。ほんの少しベッドに寝ていただけで5キロも太ってしまったんでね」彼は微笑んだ。
「傷はすっかりいいみたいでよかったわ」
「あんなのはかすり傷ですよ。でも心配してくださってありがとうございます……それじゃ、失礼しますよ。こいつを生きのいいうちに届けないと伍長にどやされるのでね」
 ケイコは去っていくボートを見送った。それが目指す沖合いには〈セオドア・ルーズベルト〉が黒々としたシルエットになって浮かんでいる。全長三百三十三メートル、総排水量九万七千トンの巨艦も、しかし水平線まで広がる海の大きさの前ではほんのちっぽけな点でしかない。
 その《海》はいまや真に果てしのない広がりとなっていた。人間で溢れかえった七つの大陸ははるか遠く、いずこともしれぬ大海に浮かぶ一握りの島々にすぎない。この想像を絶した海原を越えて本当に故郷の岸辺に到達できるのだろうか?
「昨日の夜、ビーチャー少尉となにをこそこそ話し合っていたの?」かたわらの夫の手をさぐりながらケイコは尋ねた。「あなたがたが提督たちの前で振舞っているほどこの計画に絶大な自信をもっているとは思えないんだけど……。子供たちがイルカと遊んでいるいまが告白する絶好のチャンスじゃないかな?」
 苦笑いしてトムは彼女の手を握りかえしてきた。
「――まったく自信なんかないよ。昨日、ライナスと話したのはこのすべてが何を意味するんだろう?ってことなんだ」
 ケイコは相手の肩に頭をもたせかけて《告白》を聞く気持ちの用意をした。
「彼は遺伝学的アルゴリズムの専門家として生物進化のシステムを数値計算に取り入れる方法を研究してきた。そこでぼくは生物学者として逆にアルゴリズムを生物進化に応用することはできないのか?って自問したのさ」
「進化をプログラミングするってこと?」
「生物の進化がまったくの偶然にまかされているはずなのに目的論的に見えるのはなぜか?って、以前からぼくは不思議に感じていた。神か、悪魔か、宇宙人か――正体はともかく、世界をこんなに変えてしまったその存在は途方もない力を持っているに違いない。そこでこう仮定したらどうだろう? ――生命の分子的進化というのはじつは無数の可能性宇宙をまたぐ巨大な量子コンピューター内部で超並列処理されている遺伝学的プログラムである、と……」
 日射しは暖かく潮風はおだやかだったがケイコはぞくりと寒気がした。彼女はわざと軽い口調で反論した。
「ずいぶん気の長い話ね。何を計算するか知らないけれど結果が出るまで何億年かかることか……」
「うん、確かに途方もない想像だ。でもライナスは真面目にとってくれたよ。彼の話では遺伝的アルゴリズムの基本テクニックのなかに『オペレータ』というものがある……コードのなかの幾つかのビットをある確率で反転したり、ふた組のコードの一部を交換したりする操作だ。それぞれ『突然変異』と『交叉』と呼ばれている……」
 ケイコは笑った。
「本当に生物学の言葉を大真面目でプログラミングに使っているのね? まるで作業用メモリーのなかでバクテリアがうようよ増殖していくみたい……まあ『ウイルス』や『ワクチン』なんて完全に市民権を得たコンピューター用語もあるぐらいだから驚くこともないか……」
「生物学からプログラミングへ用語の移植は確かに面白いけど逆に考えるとかなり無気味だよ。――われわれが物理的な環境として捉えているものは、そのじつひたすら最適の解を求めるべく与えられた複雑な関数条件なのかも知れないんだからね。もしも少尉の言うとおりだとしたら、ぼくらの身体や意識――つまり環境と遺伝子型の間に介在するインターフェースとしての表現型――というのは幻にすぎない、ってことになるだろう。現実に存在し動いているのは分子レベルで絶えまなく進んでいる遺伝的な計算プロセスのほうであり、何者かが望んでいる解を求めるために延々と続く演算処理なんだ……」
 珊瑚礁の浅瀬でイルカと戯れている娘たちを遠く眺めながらケイコは尋ねた。
「……わたしたちの欲望や思考や感情っていうのはみんなそうしたプロセスの生み出す幻影にすぎないってこと?」
「あるいはね。もしぼくらの認識している世界すべてが情報であれば複数の宇宙をつなぎあわせるなんてことも不可能ではない。並列処理された演算の結果を別のメモリー領域に転送するだけの話だ。つまり『壁紙』って比喩はそれほど的外れなものじゃないかも知れない……」
「じゃあ、わたしたちはさしづめモニター画面のアイコン?」
 トムの笑いには若干神経質そうな響きがあった。
「アイコンならまだましかも知れないよ。少なくともユーザーにとって必要な存在だからね。少尉は今回のこれが一種の『交叉』オペレーションかも知れないと考えているようだ。そして彼の言うには基本的な問題は……人間という存在が生命進化のなかでなんらかの役割を持つのかどうかって点にある。われわれは確かに長い進化の末に出現したもっとも繁栄する種族だけど、その一方でおびただしい数の種――遺伝子コードの可能性を片端から破壊してもいる……ぼくらは演算処理によって最終的に求められる関数にとって相応しい個体群なのか、それとも問題を含んでいるから消去されるべき変数なのか? いったいどちらなんだろう?」
「うーん……ということは、あるいは提督の艦隊やわたしたちはバグのために消去されず新しいアドレスに転送されてしまった有害因子かもしれないわけね? ――つまり少尉はどこにも帰るべき故郷なんてない可能性もある、と考えているのね?」
 突然、トムは彼女を抱き寄せた。力強く抱かれながらケイコは夫の感じている不安と心細さとを共有していた。ほんの一握りの吹けば飛ぶような小集団――初めてアフリカから足を踏み出そうとして目の前に広がる広大な世界に怯え戸惑っている人間の祖先たちと同じ立場に、いま自分たちは置かれているのかも知れない……。
「あなたはどうなの? ――少尉の考え方に賛成?」
「……さあ、ぼくにはわからない。気にやんでも仕方ないことだしね。その答えはこれから始まる長い航海の果てにある――そう自分に言いきかせてるよ」
 それきりふたりは沈黙した。ゆったりとした〈アトランタ〉の揺れとともに夫の腕のなかに身をあずけながらケイコは陽光にきらめく波頭のはるか彼方をみすかしていた。

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