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銀河の時計直し

中条卓

みごとな「ヤコブの梯子」だった。

雲間から漏れる光の帯がまっすぐに地上まで射している。天使がそれを伝って降りてくる梯子というわけだが、おれにはむしろ天上から地表を照らす逆向きのサーチライトと思えた。坂道を自転車で下りながら、おれはそいつに見とれていたんだ。

はっと気づいて急ブレーキをかけたが遅かった。買ってから丸二年もろくに手入れしていない自転車はぎゃりぎゃりと嫌な音をたてるばかりで肝心のブレーキはなかなか効かず、ようやく効いたかと思うとすり減ったタイヤが斜めにロックしてアスファルトの表面をすべり始める。それでも自転車はどうにかこうにか、坂道の途中に突っ立って両手を空に向かって差し上げていたじいさんの手前で止まったんだ。自転車は止まったがおれの体は止まりきれず、よろけてじいさんの背中にぶつかり、その拍子にじいさんの手から何かが飛び出して夕日にきらめいた。

それは懐中時計だった…と見る間もなく地面に落ちてぱりんと音を立てた。ガラスが割れたらしい。

「すみません、お怪我はありませんか」
「いやこちらこそすみませなんだ。わしは大丈夫、それより…」と両膝をついて地面を探りはじめたじいさんは目が悪いらしい。おれは懐中時計を拾い上げてじいさんに手渡そうとしたが、割れたガラスで手を切ってはいけないと思い直した。
「時計ならここにありますが、ガラスが割れてしまいました」
おお、とうめいて両手を差し出したじいさんの両目は灰色に濁っていて、これでは何も見えそうにない。おれはガラスの面を上にして時計をじいさんの手に乗せてやり、
「気をつけて、指を切らないように」と声を掛けた。
じいさんは急いで時計を耳に押し当ててしばらくじっとしていたが、やがてがっくりと肩を落とした。
「止まってしまった…すみませんが、何時何分を指しているか教えてくれませんか?」
おれは文字盤を覗き込んだ。何のへんてつもない、やや大型の懐中時計でふつうに短針長針が備わっているが、数字の部分が変わっている。わけのわからない絵文字のようなものがぎっしりと描いてあって、しかも等間隔に並んでいない。八時くらいまではずいぶんまばらで、それから急に込み合って、十一時あたりになるともうほとんど真っ黒に見えるくらいびっしりと、細々とした図形が刻まれているのだ。おれの当惑を察したのか、じいさんは歯のない口をにっと横に開けて、
「文字盤は気にせんでくだされ。あんたの勘で読んでくれればよろしい」と言った。
「それなら、ええと、十一時五十八分とか五十九分とか、あと少しで十二時ってとこですね」
「そうですか。もう少しだったんじゃが」ため息をついた。

頭は打っていないにしても腰を痛めているといけないから病院で診てもらおうと勧めたのだが、じいさんは頑として首を縦に振らず、この時計の修理が先だと言い張る。ならば時計屋へ行きましょうかと言うと、いやこの時計の修理はわしにしかできんのじゃ、などと口走って歩き出そうとする。盲目でしかも頭のねじが少々外れているらしい老人をひとりにするわけにもいくまい。しかたなくおれは近くにあるという家までじいさんを送っていくことにした。

じいさんの言うとおりに細い路地をなんども曲がっているうちにおれはどこを歩いているのかわからなくなり、気がつくと見たことのない奇妙な建物の前にいた。まるでお堂のような正多角形の建物に洋風の屋根がのっかり、とがった屋根のてっぺんには風見がついている。横手の門をくぐって正面玄関まで、四角い敷地の角ひとつぶんの間に建物の壁面がふたつ。ということはつまり、正十二角形?

おれは玄関脇に自転車を置いた。花壇にはやけに背の高いヒマワリが揺れている。

うすぐらい廊下をじいさんはすたすたと歩いていき、突き当たりの重そうなドアを無造作に開いた。じいさんがもごもごと呪文みたいに何事かをつぶやくとぱっと明かりが灯り、機械仕掛けの人形みたいにぎごちない動作の老婆がお盆を持って現れた。すすめられるままコーヒーカップを手にとりソファに腰掛ける。老婆がじいさんに耳打ちするとじいさんは耳まで赤くして怒りだした。

「なんだと、急な修理が三件だ? この大詰めに、なんだってそんなものを押し付けて寄越すのだ」

ふたりがひそひそと相談を始めたので、おれは所在なく部屋を見回した。老婆が機械みたいに見えたわけがわかるような気がした。この部屋は時計だらけなのだ。壁という壁はおろか、暖炉の上や書棚、コーヒーテーブルの上にまでありとあらゆる時計がひしめいている。作業机らしい木製のどっしりした机には壊れかけの、いや、修理中のというべきか、ぜんまいやら歯車やそのほか名前も知らない部品をはみださせた時計がうずたかく積まれていた。このじいさんが時計職人だったというのは本当らしい。だが、いかれ方も相当なものだ。なにしろこの部屋にある時計のひとつとして同じ時刻を指していないのだから。それどころかテンポまでめちゃくちゃだ。あるものは秒針がほとんど見えないぐらいのおっそろしい速さで回転しているし、その隣では振り子が異様にゆっくりと振れている。

急ぎの修理を先にかたづけにゃならんがどうするかと訊かれ、どれくらいかかるかと聞き返すと「終わりまでには終わる」というわけのわからない返事。急ぎの用事もないので待ちますよとおれは答えた。じいさんの「修理」とやらに興味を引かれたし、退屈だったらこっそり逃げ出せばいい。見学させてくださいよと言うとじいさんは無言であごをしゃくり、次の間へ続くドアを開けた。

* *

おれは息を呑んだ。部屋のまん中にテレビに出てくる手術台そっくりの金属製のテーブルがあって、そこに裸の少女が寝かされている。あわてて振り返ったドアのこちら側には把っ手がなく、上で「手術中」の赤いランプが光っている。じいさんはいつのまにか緑色の手術衣に着替え、帽子にマスク、ゴム手袋というおなじみの外科医のいでたちだ。それにしても、なんでこの子は裸なんだ。いやそんなことじゃなくて、いったい全体これから何が始まるのだ?

「十七才女性、概日周期が二時間遅れています」これも緑の上下に着替えた老婆が壁に貼られたメモを読み上げている。ガイジツシュウキって何だ?
「この娘の睡眠と覚醒のリズムが二十六時間周期になっとるということじゃよ」灰色の目をむきながらじいさんが吠えた。
「毎朝眠くて起きられん。夜は夜で眠れない。そのうちにそれがだんだんずれて昼と夜が逆転してしまう。完全に逆転したかと思うと少しずつ良くなって、ある日突然、夜明けとともに目が覚める。二十四と二十六の最小公倍数は?」
「はあ?」
「十二かける十三かける二いこーる三百十二、つまり約二週間で繰り返される悲劇というわけだ。これを見なさい」
じいさんは蛍光灯で裏側から照らされたレントゲン写真が並んだ壁面を指差す。
「ショウカタイに小さな腫瘍があるじゃろ。これが原因じゃな」
あるじゃろって、あんた目が見えないんじゃないのかと言いかけておれは気絶しそうになった。じいさんがいきなり右手を娘の額に突っ込んだのだ。貫手というやつだ。ずぶずぶと手首までめりこませてひとしきりまさぐっていたかと思うと血だらけの手を抜き出した。人さし指と親指の間に何か赤黒いものをつまんでいる。老婆が差し出したプラスチックのトレーに豆粒ほどの塊を放り投げると乱暴に手袋を脱ぎ捨てる。娘はと見るとちょうど老婆がガーゼでその額を拭っているところだったが、額には穴が開いているどころか傷ひとつないのだった。じいさんが手術衣を脱ぎ捨てて次の部屋に急ぐのでおれは後を追った。

* *

次の部屋も手術室だったからおれはもう驚かなかった。驚かなかったといったら嘘になるが、なんだか感覚が麻痺してしまって、台の上に乗せられた裸の若い男を見てもさほどのショックは感じなかったのだ。

「破裂予定の動脈瘤が不発だったようです」
こんどは薄いピンクのパジャマみたいなのを着た老婆が息も切らさずに読み上げる。じいさんの方はブルーの手術衣だ。
「これのどこが時計なのか疑問かね?」
そんなことは考えてもいなかったのにじいさんがおれに尋ねた。目を白黒させているとじいさんは細長いチューブを男の鼻に突っ込み、自転車の空気入れを小さくしたようなポンプで空気を送り込んだ。
「目覚まし時計みたいなもんだ。脳の中に仕掛けられた時限爆弾じゃよ。目を覚ますのではなく覚めないようにする時計だから、目つぶし時計とでも言うかな」
ふぉっふぉっふぉっとマスク越しに笑う。おれはなんだか気分が悪くなった。

手術を終えたらしいじいさんがぱちんと指を鳴らすと壁の一面が明るくなってそこにビデオの映像が映し出された。手術台に横たわっている男が街を歩いている。裸ではない。ちゃんとスーツを着てネクタイを絞め、ブリーフケースを抱えている。出社途中なのだろう。八:一六AMという表示が右上隅にあり、反対側では 一〇・〇〇 SEC.という表示が減っていく。カウントダウンだ。五秒前になって突然男の足どりがふらつき、額に手を当てて顔をしかめた。そのまま崩れ落ち、カウントゼロで動かなくなる。暗転。

このじいさんの言うことがほんとうなら、今見せられたのはこれから起こること、未来の映像ということになる。そんなばかなことがあってたまるかと呟きながらおれはじいさんの後を追って次の部屋に飛び込んだ。

* *

そこには床がなかった。天井もなかった。音も温度もなかった。

ただ光の渦だけが暗闇に浮かんでいる。じいさんの姿は見えず、頭の中で声だけが響いた。

「これがあんたが今おるところじゃ。おおむね順調に動いとる。だが、あちらでは」声が促す方を見ると光の渦どうしが衝突している。
「ちと進み方が速すぎるでな。あのままではあのあたり一帯が重力崩壊に飲まれてしまう」

衝突していた渦どうしが再び離れていき、遠ざかったかと思うと動きが止まった。

「初速度を〇・一%落としてやるとしようか」

ここはひょっとして…ウチュウデスカ? とかすれた声でおれが言いかけたとき急に部屋が明るくなった。おれは最初に通された部屋のソファに腰掛けたままで、手にしたコーヒーがまだ湯気を立てている。

「ちょっとこっちへ来て手伝ってくれんか」

声を掛けられたおれはバネ仕掛けのように飛び上がり、ぎくしゃくとじいさんの作業机に向かった。例の懐中時計が万力で固定されていて、じいさんが手探りで壊れたガラスを外そうとしていた。背中ごしにルーペの中を覗き込むと、さっきはわからなかった文字盤の図案を見て取ることができた。アメーバみたいな原生動物から始まってシダみたいな植物や三葉虫らしきもの、わけのわからない奇怪な生物の群れのあとにはおなじみの恐竜、マンモス、毛むくじゃらの原始人らしきもの…

「なんだ、これって地球の歴史だったんですね」

おれは調子はずれの大声を上げた。なんだか気味が悪くて寒気がしたんだ。でもなんだって零時ちょっと前で止まっていたのだろう。

その時じいさんのひからびた手がおれの右手の人さし指をつかみ、恐ろしい力で懐中時計の方へと引っ張った。止まっている長針に指が触れる。氷みたいに冷たい、と思ったとたんに地面がぐらりと揺れる感覚があり、時計は零時ちょうどを指していた。

* *

おれは夢中でじいさんの手を振り切って十二角形の建物を飛び出し、めちゃくちゃに路地を曲がって気がつくと坂の上にいた。長いことじいさんのところにいたはずなのに、ヤコブの梯子は少しも形を変えていない。じいさんはあの梯子に向かって懐中時計を差し出していたのだ。まるで生け贄でも捧げるみたいに。でも、誰に向かって?

その時天上から朗々とこの世の終わりを告げるラッパの音が響いてきた。

(了)

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