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薔薇と黒龍の守り

桓崎由梨

  知鶴 ちづるの祖父が病気で倒れたのは、彼女が十一歳の時のことだ。祖父は高齢だったので、自分でも先が長くないことを悟っていた。積極的な治療を拒み、在宅ケアを望んだ。
 月に一・二度、ターミナル・ケアに理解のある内科医が、祖父の家を訪問するようになった。内服薬や点滴が持ち込まれ、治療は祖父の寝室で施された。病状は急激に悪化することはなかったが、祖父自身は着実に、花が萎むように衰えていった。
 知鶴は、病床の祖父を何度か見舞った。祖父母の家は、知鶴の家から電車で一時間ほどの場所にある。二階建ての小さな持ち家だ。四人の息子たちは、皆、独立してほうぼうへ散っているので、祖父母は二人きりで暮らしていた。
 祖父は寝床の上で、知鶴に様々な思い出話を聞かせた。海運業で財を成した祖父は、若い頃、仕事で欧米やアジアを飛び回っていたので、珍しい話をたくさん知っていた。加えて祖父は話し上手だった。普通の人なら自慢話になりかねない事でも、面白い小説のように、いくらでも語ることができたのだ。昔の日本や外国の様子は知鶴には理解できないことも多かったが、祖父が語るのを聞くのは楽しかった。時々は、長過ぎて閉口することもあったのだが。
 ある時、祖父は、知鶴に言った。
「おじいちゃんが死んだら、知鶴には形見として時計をやろうな。ろさがりかの絵がついた、綺麗な金ぴかの時計だ。おばあちゃんに言っておくから、他の人に取られないように、お葬式の時にこっそり貰って帰るんだぞ」
「『ろさがりか』って何?」
「それは、貰ってからのお楽しみだ」
 知鶴はしつこく食い下がったが、祖父は微笑するばかりで、何も教えてくれなかった。
 仕方がないので、知鶴は帰宅すると母のパソコンでインターネットに接続して、単語の検索をやってみた。平仮名で検索スペースに「ろさがりか」と入れてみる。結果はゼロ件。片仮名で入れて直してみると、ずらりと何件も記事が出た。
 ロサ・ガリカ・コンディトルム、ロサ・ガリカ・オフィキナリス……それらは、皆、薔薇の名前だった。オールド・ローズと呼ばれる、原種に近い種類の薔薇だ。色はどれも燃えるように赤かった。
 薔薇の花が描かれた時計をあげよう――祖父は、多分、そう言ったのだろうと知鶴は考えた。
 薔薇の時計。ロサ・ガリカ・コンディトルムの時計。丸い壁掛け時計だろうか。大きな柱時計だろうか。それとも、チェストの上に飾れる置き時計? 薔薇の絵はどこに描かれているのだろう。文字盤の上だろうか、それとも本体に描かれているのか……。

 しばらくして、祖父は静かに逝った。深夜、祖母すら知らない間に、ひっそりと一人で旅立ったのだ。
 知鶴は訃報を電話で知った。祖父が亡くなる時には、枕元に親戚一同が集まってじっと見守る――というイメージを何となく抱いていた知鶴にとって、祖父が誰にも看取られずに死んだことは、とてもショックだった。
「もっと、いろんな話をしたかったのに……」
 知鶴が泣きじゃくっていると、父が呟くように言った。
「おばあちゃんが寝ているのを起こしちゃ悪いと思って一人で逝ったんだろう。おじいちゃんは、そういうところがある人だったからな……」
 通夜の夜、知鶴は祖母に「おじいちゃんの時計はどこ?」とは言えなかった。背を丸め、寂しそうに弔問客の相手をしている祖母を見ると、とてもではないが、形見分けの話をすることなどできなかった。
 祖父は預けておくと言っていたのだから、祖母が、それをむげに他人に譲るとは思えなかった。四十九日には、再び、親戚一同が祖父母の家に集まることになっている。貰うならその時でいい、と知鶴は思った。今は、そんなことを切り出す時じゃない。
 だが、一週間ほどたった頃、今度は祖母が倒れた。祖父の四十九日が近くなっても、祖母は眠ったままだった。まるで、目覚めたところでもう何もいいことはないのだからこのまま放っておいてくれ……と言っているかのように。担当医は、祖母の意識が回復する見込みは極めて低いだろうと宣言した。知鶴は、薔薇の時計の在処を聞き出す機会を永遠に失ったと思った。

 祖父の四十九日、知鶴と両親は誰よりも早く祖父母の家に出向き、法要の準備を整えた。親戚たちが次々と祖父母の家にやってくると、知鶴の母はそのたびに玄関へ飛び出し、何度も頭を下げて丁寧な挨拶を繰り返した。知鶴は、久しぶりに、いとこたちと顔を合わせた。小さないとこたちは、法要の厳粛さなど理解せず、走り回り、はしゃぎ回った。
 約束の時間になると僧侶が訪れたので、皆は一階の仏間に集まった。仏壇の中には、祖父の位牌が置かれていた。口にこそ出さないが、その隣に、じきに祖母の戒名が並ぶことを皆は知っていた。長い読経が始まった。きつい焼香の煙が、部屋の中に充満した。
 僧侶が帰ると、知鶴の両親が皆を促した。「たいしたもんじゃありませんが、隣の部屋へどうぞ。食事を用意してますので」
 十二畳ほどの和室には、足の短い卓が持ち込まれ、上等の寿司と酒が並んでいた。いい匂いが、ゆらりと漂っている。
 女たちは台所へ立って吸い物の椀を揃えたり、お茶くみに追われたりした。知鶴もそれを手伝った。祖父が死んだ途端、誰もが遠ざかっていたこの家に集まり、盛んに飲み食いを始めたことを知鶴はしらけた気分で受けとめていた。おじいちゃんが死んでから賑やかにしてあげても何にもならないじゃない。それとも皆、本当は、おじいちゃんが死んで嬉しいのかしら……。
 釈然としないままに、知鶴は、座敷へ蜜柑を運んだ。卓の隅に籠を置いた時、背後で空気が動いたのを感じて知鶴は振り返った。だが、後ろには何もいなかった。知鶴は首を傾げた。今、確かに、人ではない何かが畳の上を歩いていったような気がしたんだけれど――この家には犬も猫もいないし、ハムスターや文鳥のような感じでもなかった。いったい何だったんだろう?
 腹が膨れ、酒が回ってくると、親戚たちの会話の内容に、ちらちらと本音が混じり始めた。母さんはもうだめなのかなぁ、やっぱりだめなんだろうなぁ、お医者さんが言ってるんだもんなぁ、人工呼吸器って家族の同意があれば外せるのかなぁ、あれ、痛そうだし可哀想だよなぁ。遺産相続の話も出た。家の権利書はどこにあるんだ、有価証券の総額は幾らぐらいになりそうだ? 形見分けの話も出た。母さんは翡翠の帯留めや指輪のいいのをたくさん持ってた筈だ、あれ、今でも値打ちあるのかね、嫌ですね、わたしに聞かないで下さいよ、そういうことは、やっぱり皆で決めないと。
「そういえば親父は時計をたくさん集めてたんだよな。あのコレクションなんか、値打ちあるんじゃないのか」
「時計ねぇ。ブランド物なら、そこそこ行くだろうけど」
「メーカーよりも雰囲気や装飾で選ぶ人だったからなぁ。まあ、一応、査定して貰うか」
「どこに置いてるんだ」
「二階にコレクション・ルームがあった筈だ。多分、そこにまとめてあるんだろう」
 知鶴は、そっと席を立った。話が盛り上がっている最中だったので、気にする者は誰もいなかった。
 居間を出て廊下を渡り、二階へ続く階段を急いで駆け上った。
 二階には和室が二つ、洋室が一つあった。知鶴は洋室のドアを開けた。その途端、わぁ……と感嘆の声をあげた。
 部屋中に、硝子張りのキャビネットとショーケースが並んでいた。まるで、時計専門店の売り場のようだった。本棚には、『世界の時計』というタイトルの分厚い写真集が何冊も置いてある。
 陳列されているのは、ほとんどが置き時計だった。動いているものもあれば、止まっているものもある。祖父の死後、電池が切れたものやネジ巻き式の時計から、順々に止まっていったのだろう。室内の時計の針は、どれもバラバラの時刻を指していた。
 知鶴は、部屋中の時計を眺め回した。振り子の部分がゆっくりと回転している置き時計、ステンドグラスで作られた壁掛け時計、陶器で作られた三人の天使が文字盤を支えている豪奢な時計、ピーマンのように歪んだ形の奇妙な時計、木彫りの大黒様の腹に文字盤が埋め込まれている不気味な時計、白い大理石の中に埋め込まれた時計。
 花模様が描かれた時計も幾つかあった。だが、薔薇の絵が描かれた時計はなかった。知鶴は戸棚の引き出しを開けてみた。腕時計のコレクションが並んでいた。月の満ち欠けが表示されるムーンフェイズ、文字盤が二つあるダブルフェイス、機械の動きが見えるスケルトン。知鶴も知っている有名メーカーの品がたくさんあった。両親や叔父叔母たちが欲しがるとしたらこちらだろう。
 すべての棚を開いてみたが、薔薇の時計はなかった。自分宛てのメモがついた箱でもあるかと探してみたが、それも見あたらなかった。
 失望感が胸の底でじわりと身じろぎした。ふと気づくと、室内がずいぶんと薄暗くなっていた。何十分ぐらい探していたのだろうかと思い、知鶴は自分の腕時計を見た。針は四時過ぎで止まっていた。周囲の時計を見回したが、どれもバラバラの時刻を指している。時計だらけの部屋にいて正確な時間がわからないというのは何とも奇妙な気分だった。窓の外は仄暗い。夕方の四時半頃だろうか。
 知鶴は念のため、他の二部屋も覗いてみた。和室はからっぽで、家具以外には何もなかった。押入の中を覗いてみたが、布団や衣装箱以外に、ぴんとくる箱はない。諦めて、階下へ降りることにした。心残りだったが、もう、どうしていいのかわからなかった。
 もっとちゃんと聞いておけばよかったのだ、と、知鶴は今更のように思った。時計のことだけではない。どうしてわたしは、もっと、おじいちゃんと一緒にいる時間を大切にしなかったのだろう。毎回会う時に、これが最後になるかもしれないと思っていたら、もっと違った過ごし方ができた筈なのに。ごめんね、おじいちゃん。わたしは、全然、時間を大切にできなかった。だから、時計を貰えなくても仕方がないんだ……。
 知鶴は、沈んだ気分で一階へ降りた。廊下を渡って和室の前まで戻ると、襖越しに中の会話が聞こえてきた。聞き覚えのない声だった。客が増えたのだろうかと思い、知鶴は耳を澄ました。
「とうとう、じいさん、いってしもうたなぁ」
「ばあさんも、もうすぐじゃのう」
「ここも、だんだん人がおらんようになって淋しいのう」
「次の居場所を探さんといかんなぁ」
「……は、誰の番かのう」
「三男の行雄じゃろう」
「それは、ちと早うないか」
「もう決まったことじゃ」
「そう、決まったことじゃ。ここに書いてある、書いてある」
 知鶴は、ゆっくりと襖を開いた。
 息を呑み、言葉を失った。
 十二畳の和室が、いつのまにか倍ぐらいの広さになっていた。中にいるのは見たこともない人物ばかりだった。黒い喪服ではなく、華やかな色の和服を着て、卓の前であぐらをかいている。卓の上には、さきほどまで知鶴が口にしていたのと同じように、寿司や吸い物が並んでいる。からのビール瓶や銚子が隅のほうへ寄せられ、女たちが、部屋の奥から次々と新しい酒を盆に乗せて運んでくる。
 よく見ると室内には子供の姿もあった。子供たちは奇声をあげながら走り回り、蜜柑や林檎を投げ合っていた。その顔立ちが、男児であり、同時に女児でもあることに知鶴は気づいた。新月が満ちてゆくように、あるいは満月が欠けてゆくように、子供たちの顔は右から左へゆっくりと顔面を滑り、男児の顔と女児の顔が徐々に入れ替わってゆくのだった。よく見ればそれは大人たちも同様だった。男の顔の上を女の顔が、女の顔の上を男の顔が、ゆるゆると滑って人相が入れ替わってゆく。喋り、笑い、寿司を食らいながら、彼らの顔はまるで回り灯籠の模様のように右から左へと動いてゆく。
 知鶴は、襖をぴしゃりと閉めた。心臓がきゅっと縮こまり、冷たい汗が背中に滲んだ。
「誰かが来たよ」
 と、襖のむこうで子供の声がした。
 知鶴はその場で凍りついた。足元から震えが這い上がる。
「あれは、長男の幸伸の娘やな」
 和室の中で、男の声が響いた。
「あら、わたし顔を見そびれたわ」
「ほな、ちょっと呼んでこよか。まだ、そのへんにおるやろう」
「呼んでこい、呼んでこい」
「わしも、ちょっと話をしてみたいわ」
 知鶴は襖が開く前に逃げ出した。隣の和室へ飛び込んだ。
 ――だが、襖の向こうに部屋はなかった。襖を開け放った先には薄暗い廊下が伸び、その両側には、先程と同じように襖が何枚も続いているだけだった。
 知鶴は眩暈に襲われた。必死になってあたりを見回した。部屋の中へ飛び込んだ筈なのに、どうしてまた廊下に出ているのか?
 あまりのことに立ち尽くしていると、背後から、
(ひた、ひた、ひた……)
 と、何者かが近づいてくる足音が聞こえた。首筋に冷気を感じた。しかし、振り向く勇気などなかった。知鶴は廊下を駆け出した。今度こそ、と思って襖のひとつを開いて中へ飛び込んだが、その先には、またしても薄暗い廊下が横たわっているだった。それを挟むように立ち並ぶ何枚もの襖、そして、背後から近づいてくる何者かの気配――。
 知鶴は全速力で駆け続けた。同じことを何度も繰り返した。廊下を駆け回り、手当たり次第に襖を開けて中へ飛び込んだ。だが、何度襖を開いても、そこに部屋はなかった。繰り返し繰り返し、薄暗い廊下と襖が出現するばかりだった。
 時がたつにつれて、廊下の暗さは少しづつ増していった。背後の気配はずっとついてくる。少しづつ距離を縮めてくる。知鶴はいつのまにか泣き出していた。だが、廊下と襖の迷路は終わらなかった。追ってくる者の気配も消えなかった。むしろ徐々にはっきりしてきた。
 耳の後ろに冷たい息が吹きかかる。戯れのように髪の先や足首が掴まれる。知鶴はそのたびに悲鳴をあげる。襖を開いて中へ転がり込む。再び廊下へ投げ出される。そこは前よりも一層薄暗い。それでいて決して真の闇にはならない。永遠に薄暮が続いてゆく。夕陽が地平線の向こうに呑み込まれた直後の薄暗さが、果てしなくどこまでも続いてゆく。
 何十回も同じ行為を繰り返し、もう駄目だ、走れない、誰か助けて――と叫びながら開いた襖の先に、ようやく十畳ほどの和室が広がった。
 薄暗い室内にはすでに人がいた。知鶴に背を向ける形で、一人の青年が畳の上に正座していた。青年は半袖の白いシャツを着て鼠色のスラックスをはき、両手を膝の上に乗せていた。髪は短く刈り込まれていた。若くとも、すでに大人であることが、後ろ姿だけでもはっきりとわかった。
 知鶴は畳の上にへたり込み、大声で助けを求めた。すると青年は、知鶴に背中を向けたまま静かに言った。
「大きな声を出してはいけない。わたしの顔も見てはいけない」
「……」
 青年は訊ねた。「出口を探しているんだね?」
「勿論よ!」知鶴は禁を破って叫んだ。「わたしはおじいちゃんの部屋で時計を探していただけなのに。いつのまにかこんなところへ来ちゃって……もう、わけがわかんない!」
 青年は、膝の上に乗せていた片手を背中へ回した。拳の中に何かがある。彼は知鶴に言った。
「これを持ってゆきなさい」
 知鶴は畳の上を這って、恐々と青年に近づいた。蕾が綻ぶように、青年の拳がゆっくりと開いた。
 掌の中から光が射した。知鶴は息を呑み込んだ。
 青年が持っていたのは金色の懐中時計だった。灰紫色の紐がついた蓋つきの懐中時計だ。その時計の表蓋と裏蓋には、薔薇の絵柄が刻まれていた。ロサ・ガリカ・コンディトルムが。
 知鶴は時計をひったくった。青年の背中を凝視した。「……おじいちゃん。おじいちゃんなの?」
 青年は振り返ることなく続けた。「知鶴は、やっぱり、こういう世界へ入り込みやすい性質を持っていたんだね。時計をあげると約束していたのは、こういう時のためなんだ」
 襖の向こうで足音が止まった。和室に入るのを躊躇うように、行ったり来たりを繰り返している。
 追ってきた者の苛立ちを感じ取り、知鶴は背筋が冷たくなった。畳みかけるように青年に訊ねた。
「わたしはこれをどうしたらいいの。どうやったら、あれを追い払えるの?」
 青年は言った。「知鶴は、腕時計や懐中時計のネジの部分を、なぜ『竜頭』と呼ぶのか、知っているかい」
「知らない」
「それはね、匠の作った時計の中には、時々、龍が閉じこめられているからなんだよ。時計の中でトグロを巻いている龍の頭を、しっかりと抑えて封じ込めているのが、竜頭と呼ばれる部分なんだ。おじいちゃんが時計を集めていたのは、ひとつには、ただ単に綺麗な時計が好きだったからだ。時計を見つめていると、時間が、自分の手の中にあるような気分になってくる。人の手ではどうしようもない時の流れを、いっときでも自由にしているような錯覚を味わうことができたからね。でも、本当の理由は、おじいちゃんも知鶴と同じで、こういう世界へ入り込みやすい性質を持っていたからだ。だからお守りになるものが必要だったんだ。いつでも持ち歩けるお守りがね」
 その時、知鶴の背後で、大きな音と共に襖が吹き飛んだ。風が激しく和室内に流れ込み、知鶴の髪と服をはためかせた。真っ白な霞のようなものが部屋へ侵入してきた。それはあっというまに知鶴の全身を包み込み、植物の青い匂いと、香炉から洩れ出すようないがらっぽい匂いをあたりに撒き散らした。
 青年が叫んだ。「知鶴、時計のネジを巻きなさい! 反時計回りに!」
 知鶴は夢中で言われた通りにした。竜頭はほんの少し巻いただけで、何かがほどけるようにすさまじい勢いで勝手に回り始めた。懐中時計の蓋が、熱湯で茹でられた貝のようにぱっくりと開いた。文字盤の長針と短針が、今にも壊れそうな速度で逆方向へ回転した。
 次の瞬間、懐中時計の中から小さな黒い龍が飛び出した。体中の鱗を黒曜石のように煌めかせながら、黒龍は知鶴の頭上でたちまち大きな猛々しい姿に変じ、霞の中で黒光りする顎を開いた。
 その直後、大音響があたりに鳴り響いた。落雷の音だった。知鶴は両手で耳を覆い、目をつぶってその場に座り込んだ。さらさらと降り注ぐ雨が、知鶴の全身をずぶ濡れにした。
 やがて、室内は静まりかえった。
 知鶴は、そっと顔をあげた。
 白い霞は消え去っていた。吹き飛ばされた襖の敷居に、ほんの少しだけ焼け焦げた跡が残っている。濡れたと思った自分の身体は何ともない。
「……やっつけたの?」
 知鶴は、傍らに立っていた青年を見あげた。青年はこちらを向いていたが、その顔には日本手拭いのようなものが巻き付けられ、表情は完全に隠されていた。
 青年は言った。
「やっつけたわけじゃない。元の場所へ戻って貰っただけだ。あれは、そんなに悪いものではないからね。土地と家に憑く神様みたいなものだから。知鶴にかまって貰いたくて、ふらふらとついてきたんだろう。もう心配することはないよ」
 知鶴は、胸が熱くなるのを感じながら言った。
「……あのね、おじいちゃん。わたし、もう一度だけおじいちゃんに会いたかったの。さようならって、ちゃんと、伝えたかったの……」
「ありがとう。でも、時計を渡したから、もう行かなくっちゃな」
「わたしは、これからも、こういうところへ来るの? いつも誰かに追いかけられて、怖い思いをしなくちゃならないの?」
「大丈夫、大人になったら、こういう場所へは来なくなるよ。知鶴は、おじいちゃんほど濃い血を受け継いでいるわけじゃないからね。今は、そういうのに魅入られやすい年齢なんだ。はたちを越える頃には、もう何も見なくなっているだろう。それまで、その時計を大切に持っていなさい」
「わかった。ずっと、大切にするわ」
「じゃあ、元の場所へお帰り」
 青年は、優しく知鶴の背中を押した。
 押されるままに、知鶴は廊下へ出た。畳の間を振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。部屋の中央には、瑞々しく露を帯びた青い桔梗の花が、鉄錆色の一輪挿しに生けられ、置かれているだけだった。
 誰もいない和室へ向かって、知鶴は、黙って手を振った。

 廊下を歩いてゆく知鶴の足元に、黒龍は、ゆるゆると付き従ってきた。両親や親戚たちがいる筈の部屋の前まで戻ると、知鶴は、黒龍に訊ねた。
「ここで間違いないの? さっきみたいに、また、変なところへ出たりしない?」
 黒龍は答えなかった。そのかわり、知鶴の足元から飛び上がると、小さく縮んで再び懐中時計の中へ潜り込んだ。あっというまの出来事だった。知鶴の掌には、ロサ・ガリカ・コンディトルムの時計だけが残された。
 知鶴は、スカートのポケットに懐中時計を滑り込ませた。腕時計を見る。時計は、いつのまにかまた動き出し、五時十分を指していた。
 襖を恐々開くと、そこには元通り十二畳の和室があった。知鶴のよく知っている人たちが談笑していた。両親や叔父や叔母やいとこたち。その顔はたった一つで、決して別の顔に変わったりはしなかった。卓のうえで散らかっている醤油皿やビール瓶が、涙が出るほど懐かしく感じられた。
 知鶴の父が言った。「どこへ行ってたんだ。お寿司も蜜柑も、もうなくなっちゃったぞ」
「うん。ちょっと、そのへんを散歩……」
 知鶴は言葉を濁して、座布団にすわった。
 叔母の一人が言った。
「今、おじいちゃんとおばあちゃんのアルバムを見てたのよ。若い頃の写真がたくさんあるの。見てみる?」
 ……若い頃のおじいちゃんなら知っている。さっきまで一緒にいたから――。知鶴はそう言いたかったが、黙って、おとなしくアルバムを受け取り、ページをめくった。
 白黒写真の中で笑っている若い祖父の姿を見て、あの日本手拭いの後ろには、本当にこの顔があったのだろうかと知鶴は思った。もしかしたら、あれは祖父の姿を借りた何か別のものだった可能性もあるのでは? そうだとすれば、あれは誰だったのだろう。自分を追っていた者と同じ存在だったのか?
 そう考え始めると、また、得体の知れない世界へ落ち込みそうな気がして怖かった。そして、今ここにいる両親や親戚たちも、本当に本物なんだろうか? と思ったりもした。

 祖母の死の五年後、知鶴は、再び葬儀に出席することになった。亡くなったのは叔父の行雄、交通事故死だった。
 それを、あの顔の動く者たちの会話で事前に知っていたことを、知鶴は生涯、誰にも話さなかった。

(了)

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