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楽園再び

木谷太郎

 あれは雪の日の出来事でした。一月の終わり頃、もしかしたら二月になっていたかもしれません。当時僕が住んでいたアパートは、いわゆる1Kタイプの部屋で、なかなかに広い六畳の和室と三畳くらいのキッチン、それにユニットバスという造りでした。以前に住んでいた部屋がカーペット敷きのワンルームだったんですが、これが狭くて……。キッチンも合わせてですから余計狭く思えたのかもしれませんが、六畳という触れ込みは眉唾でしたね。でも和室なら間違いなく六畳ですから。
 家賃は五万三千円。安いでしょう。前のワンルームが六万円でしたからね。あそこらではちょっとないと思いますよ。駅まで徒歩十分、JRの中央線だって辛うじて徒歩圏内ですから。それにあの収納の充実振りは特筆ものでしたよ。ふすま二枚分に引き戸が一つ。その上には天袋まで備え付けてあって、別にキッチンにも上下に物入れがあって……。なんだか宣伝くさいですね。まあ壁は薄っぺらだったので防音という点では今ひとつで、毎晩のように下の住人の歌声が聞こえてきたものでした。バンドマンらしかったけど話したこともなかったな。でも他の住人もそんな感じで没交渉でした。音は聞こえてくるけど、まあ仕方ないです。ああ、それにエアコンがなくて。夏はいいんですよ、南側と西側に大きな窓があって、風通しは抜群でしたからそれほど苦にはなりませんでした。ただ冬はやっぱり。壁が薄いっていうのもあるんでしょう。冷え込みがきつくてなかなかこたつや布団から出られない。厚手のカーテンを買ってきて少しはましになったのかな。
 そうそう、雪の日の話でした。朝早く目が覚めて、それでも薄ぼんやりと布団の温もりにしがみついてはいましたが、さすがに腹が減って渋々起き出したんです。といっても冷蔵庫の中身は飲み物ばかりで食べるものなんかないんですが。寝ている間に随分と口の中が乾燥していました。舌の先がひりひりと気持ち悪かったのでペットボトルのお茶を一口含み、それからのろのろ身支度を整えました。部屋の中だというのに、冷たい空気に締めつけられて、身体が縮こまって思うように動きません。僕は本当は変温動物で、この季節には昏々と眠りこけているのがあるべき姿なのではないかとよく思うのです。理不尽な進化の過程で、冬眠という快適な習性を忘れ去ってしまったことは人類にとって大きな損失だと思いませんか? 哺乳類でも冬眠を採用している動物いるでしょう?
 失礼。話が逸れてしまいました。その日は確か講義もなくて、もしかしたら学校はもう休みに入っていたかもしれません。だから部屋から一歩も出ないで冬眠を気取ることもできたのですが、やっぱり人間の身体の仕組みはそんな風にはできていないようで、とにかくなにかしら口に入れる必要に迫られたんです。出掛けに時計を見ると八時でした。ちょっと早いなと思いました。まだまだ寒い時間帯だし、近所の定食屋はもちろん開いていません。駅前まで歩けば牛丼屋がありますが、そこまで行くのも面倒です。結局のところ、地理的にも時間的にも、条件に適うのはコンビニしかありませんでした。油もの満載のコンビニ弁当では腹が膨れる以前に胸が一杯になってしまうこともしばしばで、あまり積極的に食べたいとは思いませんでしたが、どのみち他の選択肢も味に関しては大差ないのです。とにかくさっさと空腹を満たして甘美な眠りを貪ろうと、そう考えました。どうせまたすぐ脱ぐんだからと、それほど厚着もしませんでした。靴下を履いてパジャマの上からセーターを着て、またその上にフリースのジャケットを羽織りました。
 僕は玄関の取っ手を捻り一歩踏み出しました。が、何か抗うものがあって扉は開きません。鍵はかかっていません。見ればわかります。がちゃがちゃと取っ手を回して改めて確認すると、今度は力を込めて扉を押しました。かぼそい摩擦音に促され、不承不承に扉が動いて、急に手応えがなくなったかと思うと階下で微妙な物音がしました。流れ込む冷気に触れ吐息が薄く曇ります。扉と共に開かれた視線の先は、白白白白。雪でした。カーテンを締め切っていたので外の様子に気づかなかったのです。一晩のうちに積もった雪は十五センチほどあったでしょうか。足元を見ると扉の開いた形に曲線を描いて段ができていました。東京で暮らし始めてこれほどの積雪に出くわしたのは初めてでした。
 僕は背中を丸めて玄関の外に出ました。雪が舞っていましたが傘は持っていきませんでした。すぐですからね。鍵もかけませんでした。階段はもこもことした白い坂と化しており、僕は手すりを握り慎重に、一歩一歩降りていきました。その一歩一歩がくるぶしまで埋まり、靴の中に雪が入り込みます。手すりにも雪が積もっていて、指先がかじかみ痺れました。長靴などという機能的な代物はありませんでしたがせめて手袋くらい……、横着せずに着けてくればよかったと痛切に後悔しましたが、もう一度階段を上る気になれなくて、どのみちコンビニなんてたいした距離じゃないんです、ジャケットのフードをかぶり、僕はずぼっずぼっと飛び跳ねるようにして歩き始めました。
 辺りは驚くほどに静かで、まさにしんしんという風情で粉雪が降りしきっていました。「銀世界」という形容がありますが、そこまで美しくはなく、どんよりとした曇り空のせいか積雪は灰色がかって見えました。それでも雪化粧に覆われて、見慣れた町並みはいつもとはどこか違う、幻想的な雰囲気を醸し出していました。あらゆるものが雪に包まれ電線までもが白く弛んだこの世界に、僕はたった一人でした。灰に埋もれたポンペイの廃墟に迷い込んだかのようでした。角を曲がるごとに記憶にあるのとは違う、見知らぬ風景が現れて、僕は猫町を訪れた詩人の話を思い出しました。
 それにしても何回角を曲がったでしょうか。よくよく考えてみればいつもはコンビニへ行くのに、たった二回角を曲がるだけでいいのです。僕は内心舌打ちをしました。夢想に耽って道を間違えるなんて。たまにあることですが、しかしこんな軽装で雪のなかを彷徨っていては風邪をひいてしまいます。踵を返してまたずぼっずぼっと大股に歩き出しました。雪のせいかそこがどこだかよくわかりませんでした。とりあえずわかるところまで引き返そうと思ったのです。横着して迷ってもつまりませんからね。
 ところがどういうわけだか、歩けど歩けど見知った路地に出ることができません。不案内な道を歩いているときは普段より時間のたつのが遅く感じるものですが、そのときはどれくらい歩いていたものやら、まるで見当がつきませんでした。こいつはおかしいぞ。あまりの静けさに次第に不安になってきました。家を出るときは確か八時だったはず。通学や通勤で人の往来があってしかるべき時間です。それなのに辺りには誰一人としていないのです。雪の上には僕以外に人が通った形跡はありませんでした。来た道を戻っているはずなのに、そのときの足跡も見当たらないのです。
 僕はもう、ほとほと困り果てて、この柔らかい雪のベッドに身を投げ出して眠ることができたらどんなにか楽だろうと考えました。ひょっとしたら次に目が覚めるのは、ぬくぬくとした自室の布団の中かもしれない。試してみる価値はあるんじゃないかしらん。そのときは真剣にそう考えたんです。今なら二度と目覚めないほうに賭けますがね。幸い妄想を試す勇気もなく、僕はひたすらに歩きました。靴の底には雪だか氷だかがびっしりとこびりつき、足取りは重くなかなか前に進みません。着実に進んでいるのでしょうが実感が伴いませんでした。雪はしんしんと降り続けていました。頭や肩に積もった雪を時折振り払い、両腕を抱えるような格好で足を前にやります。雪を蹴る音と、自分の吐息が僅かに静寂を破っていました。もともと生まれも育ちも九州で、雪道を歩くこつというものを知りません。苛々して思わず悪態が口をついて出ます。独りで黙々と歩くのは苦手なんです。誰もいないのをいいことに思いつく限りの悪口雑言罵詈罵倒を並べ立てました。卑猥なアルファベット四文字とか下品なアルファベット四文字とかその日本語訳とか。普段はそんな言葉使いませんよ、もちろん。その種の語彙は貧弱なほうですから、やがて悪態の種が尽きてしまうと「蹄の形が合わないから不良馬場は走らん」とか「切れ味勝負だから馬場が荒れると走る気をなくす」などとうそぶいたりもしました。実感しましたね。よく競馬新聞とかに載っているじゃないですか、調教師のコメント。ああ、競馬はやらない? ならいいです。
 あとはホークスの応援歌を歌ったりして。おかげで気は紛れたのですがもはや自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのか、さっぱりわかりませんでした。ただ闇雲に突き進むだけで、気がついたときには他のどの道と交差することもない、長い長い一本道を歩いていることがわかりました。一本道といっても直線ではなく、常に奇妙な角度で歪んだそれは方向感覚を微妙に狂わせ、巧妙に僕の目をその先にあるものから遠ざけようとしているようでした。そうでなくても降りしきる雪が視界を狭めていました。寒さは厳しさを増し、集中力を奪います。なにやら白い大きなものの狭間を歩いていて、辛うじてそこを道と認識したに過ぎません。とにかく見渡す限り雪に覆われていて、道を挟んで並んでいるものが建設物やら丘陵地やら、判断する余裕はそのときの僕にはありませんでした。この町がどのような都市計画に基づき築かれたのかはわかりませんが、入り込むものを眩惑しようという意図であれば十分にその目的は果たされていました。
 さて、塔が現れたのはまったくの突然のことでうまく説明することができません。合理的に考えるならば、雪のせいで近づくまで気がつかなかったのだろうとか、曲がりくねった道ゆえの死角とか、色々と理由をつけることもできます。けれどもそのときのことを正確に述べようとすれば、目の前に突然それが現れたとしか言いようがないのです。果てしなく続くかと思われた例の歪んだ道に、突如として浮かび上がった塔は気づいたときにはもう目と鼻の先で、見上げたところで全容を掴むことは到底できませんでした。少なくとも、ビル、という感じではありません。ざっと見たところ幾つかの層と階段が、雪に覆われてデコレーションケーキのように折り重なり、ユカタン半島のピラミッドに似ているように思いました。傾斜は緩やかで、ピラミッドというよりも塔なんですが、ああそうだ、シュメールのジッグラトがああいう感じかもしれません。いや、実物は知りませんがね。僕の持つ建築知識といえば、ドームがビザンツ、尖塔がゴシックという程度で、そのどちらでもないことだけは確かでしたが、それ以上はよくわかりません。円筒形でも尖塔でもない角張った様式でした。寒さと疲労で心底まいっていた僕は、よろよろと這うようにして階段を上がりました。他に行くところはありません。疲労も極限に近づいていました。してみるとここが目的地に違いないと当然のように思ったのです。
 第一層の入り口は重々しい両開きの扉で閉ざされていました。遠きものは音に聞けとばかりに扉を乱暴に叩きましたが応答はありません。普段ならここで諦めるところですが、このときばかりは必死でした。勝手に上がりこむのは気が引けましたが状況が状況です。礼を尽くして説明すれば住人も、まあいるとすればですが、無下に追い返したりはしないでしょう。そう人情に期待して扉に手をかけましたが、これが不満げな音を立てるばかりで一向に動こうとしません。どうやら雪かきの必要がありそうでした。道具はありませんでした。僕はしばし逡巡し、というのは鍵がかかっていればまったくの無駄骨ですから、それでも意を決し、身を屈めて素手を雪の中に突っ込みました。創意工夫など何もなく、すくっては放り投げすくっては放り投げ、地道な作業を機械的に繰り返しなんとか扉を開けたとき、僕の乏しい体力はもう限界で、おかげで中の光景を目にしても落ち着いたものでした。そこでは直立した蛇のような生き物が忙しく動き回っていました。二本の腕と二本の足を備えていることから或いは蜥蜴かもしれませんが、にょろりと伸びた首は蛇のそれでした。僕はびっくりして、とはいえ大騒ぎする余力もなく、ただ呆然と立ち尽くしていました。爬虫類が苦手な向きには耐えがたい光景でしょうが、幸い僕に偏見はありません。彼らは科学者然としたいでたちで、盛んに鉱物を熱したり溶かしたり攪拌したり、あれこれと器用に実験している様子でしたが、やがて開け放された扉から冷気が吹き込むに及んでやっと僕の存在に気がつきました。一人が大急ぎでこちらにやってきて扉を乱暴に閉めます。その剣幕に驚いてへなへなと座り込む僕に、なにやら説教めいた口調でしゅうしゅうとまくしたてていましたが、哀れな闖入者がひどく衰弱しているのを見てとると、しなやかな動きでどこかへ去っていってしまいました。
 その間にも他の蛇人間たちは僕に見向きもせず自分たちの研究にかかりきりでした。しゅうしゅういう声で議論したり、薬品を調合したり。広大な広間は錬金術師の実験室を思わせました。塔の内部はなんらかの空調が働いているらしく、一定の温度が保たれていました。もっともそうでなくては蛇人間たちが冬眠もせず動き回れるはずもありません。彼らは随分と知能が高く文化も発達しているようでしたが、だからといって安心はできませんでした。マッドサイエンティストという嫌な言葉を思い出しました。それに僕だって子供の頃には意味もなく昆虫の標本を作って悦に入っていたものです。せめて言葉が通じれば、と思いました。彼らの口の構造がどのようなものかはわかりませんが、爬虫類まるだしの頭部から考えて、人間の言葉を発するには非常な困難が予想されます。あの蛇人間は何を伝えたかったのでしょうか。不安は募るばかりでした。
 ほとんど感覚を失った指先を両脇に入れてそう考えていると、一人の蛇人間がやってきて僕に杯を差し出しました。彼らの個体差を見分けられないので断言はできませんが、恐らくさっきの彼でしょう。恐る恐る受け取った杯は灰銀色の金属でできていて、湯気の立つなにやら得体の知れない乳白色の液体がなみなみと注がれています。蛇人間が飲め飲めという風にしゅうしゅう音を立てるので、僕は仕方なく、ぐいっと一気にやりました。味は、まあ、人間好みとはいきませんが、液体が喉元をどろりと流れ胃に達すると、じんわり暖かさが全身に広がり、なんともいえない幸福感に包まれました。どうやら防腐剤ではないようです。とりあえず今すぐ標本にされることはなさそうでした。
 ちょっとだけ元気を取り戻した僕は立ち上がり、親切な蛇人間に色々と尋ねてみました。ありがとう助かったよ、ここはどこですか? きみたちは一体何ものなの? どうやって帰ったらいいのかな? 言葉わかる? ああそう、わかんないのね……。身振り手振りの大熱演でしたが、蛇人間は困ったような表情を浮かべるばかりでした。まあ、それを表情と呼んでいいものやらわかりませんが。僕も困ってしまって、こちらは表情豊かにえへへと愛想笑いを浮かべたものです。しばらく気まずい思いで顔を見合わせていましたが、やがて蛇人間がささやかな提案をしてきました。要約するとこうです。客人よ、我々は親愛なる友人を歓迎するにやぶさかではありません。とはいえわたしは一介の研究員に過ぎず、あなたを遇する権限をもたないのです。上に担当のものがおりますので、どうかわたしたちの永遠の友好と平和のために話し合ってください。云々。いえ、これは僕の超訳というやつで、彼は実際しゅうしゅう言いながら広間の奥を指し示しただけでした。目を凝らして見るにその先には階段があって上層へ通じているようでした。偉大な両種族の記念すべきファーストコンタクトですから、外交官でもない彼が戸惑うのも無理はありません。僕はいわば全人類の代表というわけです。選ばれしものの恍惚と不安……。ポーツマスへ赴く小村寿太郎の重圧もこれほどではなかったでしょう。それにしても、偏見とは無縁の僕が全権大使の任につくことになったのは、偶然とはいえ人類にとっても蛇人間にとっても素晴らしい人選でした。大雑把に言ってしまえば、人類の約半分の性は爬虫類を忌み嫌っているし、世界で最も流通している書物は蛇を公然と中傷しているのですから。
 蛇人間は階段の下まで見送ってくれました。お互い何も言いませんでした。この善良な友人の厚意に報いるためにも両種族の友好に力を尽くすつもりでした。僕は彼に背を向けると片手を挙げて、アデュー、とだけ言いました。言葉は通じなくても気持ちは通じるはずです。階段を半ばまで上ったところで振り返ると、もう他の蛇人間たちと混じって忙しく働いている様子で見分けがつきません。僕はなんとなく寂しい気持ちで第一層を後にしたのでした。
 第二層に上がった僕が目にした光景は、下とたいして変わるところのない蛇人間たちの勤勉ぶりでした。あるものは黄緑色の小さな果実から乳液を抽出しており、またあるものは乾燥した楕円形の葉っぱを細かく砕く作業に没頭していました。どうやらここでは本草学を専門としているようでした。図書館にあるような背の高い棚が幾つも平行に並び、薬草の類が収められているのでしょう、蛇人間が台に上って引っかき回す度に、枯れたような匂いがかすかに漂いました。僕は遠慮がちに呼びかけましたが誰一人として応えるものはありません。ああ、いない、上ですかなるほどと、一人で大仰に呟いて納得すると、足早にその場を立ち去りました。
 第三層はさながら植物園の趣でした。擬似太陽が天井に輝き、ありふれた草花や見たこともない珍妙な草木が、碁盤割の通路を隔てて整然と生い茂っていました。カボチャ大のトマト、青いバラの花、畸形だかバイオだか知りませんが多くには品種改良が加えられているようで、蛇人間たちはここでも忙しく動き回り、植物の世話をかいがいしく焼いては細かにその様子を観察する風でした。あくまで科学の徒らしく、覚めた学術的なまなざしで奇怪な植物群を注視しては、なにやら熱心に手元に書き込んでいました。
 しかしながら一向に渉外責任者は姿を見せません。階段はどこまで続いているものやらまったくわかりませんでした。どうやら蛇人間はエレベーターや電話などの身近な発明にまるで関心がないようで大変に難儀させられました。僕のかよわい心肺機能は、どくっどくっと健気に脈打ち稼動し続けていましたが、全身を襲う倦怠感は否応なしに休息を促します。スト権を要求して譲らないふくらはぎを、次の階では休むからと宥めすかしながら鞭打って、やっとの思いで第四層に辿り着くと、まったく腹立たしいことに階段はさらに上層へと続いていましたが、それにげんなりする暇もなく、僕は眼前に広がる光景に危うく卒倒しかけるのでした。
 その階層は、無数の壜で埋め尽くされていました。大きさは千差万別でしたが、身の丈に応じた内容物が、透明な液体に漬かり浮き漂っていました。それは臓器であったり目玉であったり脳髄であったり、けれども最も多いのは五体満足な全身標本でした。恐ろしいことに二本足の動物も少なからずあったように思います。
 そして僕の目の前では、冷血なる蛇人間たちがまさにそのとき解剖実験を執り行っていたのです。被験者は巨大な蛙に似た未知の生物でした。幕内平均体重くらいはありそうなそのでかぶつは、口から麻酔ガスを吸わされ終始嫌らしい音でげっぷをしていました。切り開かれた白い腹の奥で脈打つ臓器といい、ぱくぱく開閉するえらといい、とても正視には耐えません。魂消るとはああいうことでしょうね。まさしく魂が肉体を離れていくわけですよ。僕は中世の貴婦人のようになよなよと崩れ落ちながら、もとより休息は望むところ、その場で突っ伏し、しばらくの間何を考えることもできず、ただただ身悶えていました。
 ところがそんな僕を蛇人間が発見してしまったのです。ちょうど手の空いていた蛇人間が、床に転がっている哺乳類を見咎め仲間たちを呼び集めました。これまで無視されてきたのも道理で、彼らは研究対象にしか興味を示さないのです。錬金術師が階段を示したのもここへ行くよう告げたに違いありません。生物学者たちは非情にも開腹中の蛙の化け物を捨て置いてしゅうしゅう議論を始めました。ちろちろと赤い舌が見え隠れするのが舌なめずりを思わせ、どうにも落ち着きません。僕はきちんと立たされ彼らの分析を受ける羽目になりましたが、やがて三本の壜が運ばれてきてまたしても卒倒しそうになりました。それぞれコーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドの特徴を示す男性の標本でした。ファーストコンタクトなど、もちろんとうに済んでいたのです。
 僕の恐慌をよそに、蛇人間たちの議論は次第に熱を帯びます。どうやら分類学上の問題について議論は為されているようでした。前二者との相違は彼らの目にも明らかであるらしく、モンゴロイドとの類似が顕著であると一方が主張すれば、他方は些細な違いに着目して新種の可能性を申し立てているようでした。見たところ、この標本の人物は北方騎馬民族系の顔立ちで、確かにあまり僕には似ていませんでしたが、だからといって新種扱いされてはたまりません。新種と断じられてはまず間違いなく壜詰めでしょうし、そうでなくても彼らのことです(なにしろ蛇蠍ですから)、解剖して調べてみようと余計な情熱を燃やさないとも限りません。麻酔が切れかけているのか巨大蛙が小刻みに震え、ぎぃぃぃぃ、と悲痛な声で鳴きました。僕は動揺しながらも精一杯目を細めて、努めて無表情を装い擬態を試みました。
 蛙の鳴き声に、蛇人間たちは幾分冷静さを取り戻しました。モンゴロイド説を主張していた蛇人間が居丈高に何か言うと、議論の趨勢は決したようでした。新種派はなおも好奇の目を僕に投げかけていましたが、それでもすぐに壜は片づけられ、皆各々の仕事に戻っていきます。独り残された僕は、ともかく科学の犠牲となることを免れ安堵する一方、これからどうすればよいのか途方に暮れるのでした。あれほど僕を高揚させた使命感は、独りよがりな幻想に過ぎなかったのです。急に心細くなって止めどなく涙が溢れ出してきます。しかしここにいても仕方がありません。解剖が終わったとき、生物学者たちは次の被験者を必要とすることでしょう。ぐずぐずしていては論争が再燃しないとも限りません。僕は涙にかすむ目で、また一歩一歩、階段を上り始めました。
 当てもなく塔を彷徨うのは大変な苦痛でしたが、それもすぐに終わりました。階段は次の第五層で行く手を大きな扉に塞がれていて、この先上層へは進めませんでした。僕は涙を両方の袖で交互に拭いました。扉の表面には、自らの尾を咥えて円環を成す蛇の紋章が彫り込まれていて、押そうが引こうが開く気配はありません。その階層には下に見られるような研究設備はなく、がらんとした殺風景な広間にたった一人、もうおなじみの蛇人間がじっと身じろぎもせず佇んでいました。
 相手が一人ということもあって、僕はおずおずと広間に踏み込みました。耐性がついて滅多なことでは驚かない自信もありました。上に進むにつれだんだんと狭くなってはいましたが、それでも一つの階層を独占する彼は一体何ものなのでしょう。近寄ってみると彼が目を閉じていることに気づきました。爬虫類に目蓋があるなんて知りませんでしたが、見たところあるのでしょう。床に座ったまま身動き一つしない姿はあたかも彫像めいて見えました。どこかのジャングルの奥深く、苔生す遺跡にひっそりと残された神像。或いは水源が枯渇し見捨てられた古代都市、砂漠の涯で半ば砂に埋もれた神々の似姿。下でこまねずみのようにくるくると動き回っている連中とは随分様子が違います。僕は密やかな畏敬の念を抱きつつ、それにしても眠っているのか瞑想しているのかと考えあぐねていると、突然蛇人間がぱっちりとその目を見開き、艶やかな黒目がぐるりと動きました。
 ぶしつけな観察を見咎められて少年のようにどぎまぎする僕を見据え、蛇人間は何か短く喋りました。しゅうしゅういう彼らの言葉ではなく、明らかに他の言語でした。戸惑う僕に彼は首を捻って赤い舌を出し入れしていましたが、またなにやら語りかけます。今度はなんと言ったのでしょう。母音が極端に弱く聞き取り辛いのですが、耳にたやすく馴染むこの言葉は……。「日本語! 喋れるのか?」
「UM,NNTK……」
 うむ、なんとか……、と言ったようでした。以下、適宜わかりやすく訂正します。
「見たとおり、我々は科学者の一族です。智慧の信奉者です。なんとなれば我々直立する蛇の創造主は、イグ、ケツァルコアトル、ククルカン、伏犠、すべての蛇神の父祖であり、智慧と淡水の守護者なのですから。さりとてその情熱の多くは自然科学の分野に費やされ、人文科学にまではなかなか及んでいないのが現状です。わたしなればこそこれの如き地方言語をも習得していますが、他のものは幾人かがシュメール語やアラム語を解す程度。それとて長年使う機会もなく、忘れてしまったものが少なくありません。
「ここは凍てつく常冬の大地。あらゆる冬と通じているゆえに、あなたのように迷い込むものも珍しくはありません。とはいえ、この言葉を使うのは久しぶりのことです。日本人と言いましたか。ふむ、大分混血が進んでいるようですが……。まあ、我々も人類が皮膚の下はそう違いがないことくらい知っています。解剖は随分とやりました。やり尽くしたと言ってもいいでしょう。目下のところ我々の関心は、人類には重点を置いていないのです。既に人類の身体構成組織から学ぶべきことはすべて学ばせてもらったし、人種ごとに雌雄一体ずつ標本も手に入れています。おかげであなたもここに無事辿り着くことができたというわけです。
「わたし? わたしはここで《賢者》に仕えています。日夜そのご機嫌を伺い、安逸に過ごせるよう取りはからっているのです。さしずめ道化といった役どころでしょうか。我々の神は今、永い眠りについており、わたしはその無聊を慰めるべく心を砕いているのです。
「そう。あなた方はすっかり忘れてしまっているようですが、人類との係わりも決して浅くはないのです。せっかくここまでやってきたのだから土産代わりに聞いていってはどうでしょう。そうです、もちろん聞くべきです。なにしろ人類は、《賢者》より智慧を賜った数少ない種の一つなのですから。どうもそれが自分たちだけの特権だと信じている節がありますが、まあそんなことはいいでしょう。
「遠い昔、我々がいまだ死と親しかった時代のことです。あるとき《賢者》は《暴君》の庭園を散策していました。神々、神性の存在数多ある中で、この《暴君》の権勢は地上において並ぶものがありませんでいた。なにしろ彼は他の誰より早く、所有と支配の概念を打ち出し、自ら率先して実行したのです。誰に諮ることもなく一方的に占有を宣言するや、地上で最も実り多く美しい土地を我が物としてしまいました。そして当時その地に生息していた尾なし猿を厳しくしつけ、園丁として奴隷のように使役したのです。尾なし猿は手先が器用で我慢強く、奴隷としては非常に優秀でしたから、庭園はますます美しく整えられていきます。《暴君》はそれを眺めては一人悦に入るのです。
「《暴君》は庭園の周囲を焔で囲み、自由な出入りを禁じました。禁止事項が多ければ多いほど差別が生じ権力が強化されるというのが彼の支配理念でした。この大袈裟な環境破壊には奴隷の逃亡を防ぐ意味もありましたが、可哀想な尾なし猿はそんなことを考える余裕も頭も足りませんでしたから、もっぱら侵入者を撃退しようという意図で設置されたようです。彼は幾分偏執的なところがあったようで、皆が自分の庭園を、権力を奪おうとしているのではないかと、四六時中強迫的な妄想に悩んでいたのです。
「一方《賢者》はそんな意図は露ほどもなく、ただ、お気に入りの風景の一望できる高台の木陰で休もうと庭園に入ったのでした。彼にとって所有だの支配だのは、《暴君》が勝手に言い出したことでまるで意に介していませんでした。庭園を囲む焔も、科学者である彼には障害となりえません。ふうっと息を吹きかけて雲を冷やしてやれば、水蒸気は凝結して雨となって降り注ぎ、たちまちに鎮火してしまいます。
「雨上がりの庭園は一段と美しく、そこかしこにたわわに実る色鮮やかな果実が、水滴に飾られて眩しく陽の光に輝いていました。呼吸をすれば清々しい緑の匂いが胸を一杯に満たします。そんな素晴らしい光景の端々で、尾なし猿たちがおどおどと働いているのが見えました。彼らは園の主の苛烈な支配に馴らされていました。厳格な《暴君》は、奴隷の粗相や反抗、怠慢に落雷をもって報いました。ときには気晴らしに雷を落とすこともありました。おろおろと逃げ惑う奴隷の姿を見ては快哉を叫び、大いに溜飲を下げるのです。長年の馴致は尾なし猿から思考と主体性を奪い、諦念を植えつけました。外界の存在を知ることもなく、ひたすらに主の怒りを畏れ、ただ無感動に日々の仕事をこなすのでした。庭園の美しさはひとえに彼らの犠牲の上に成り立っていたのです。
「そのときの《賢者》の胸中を測り知ることはわたしには到底できません。何か深い考えがあってのことか、もしかしたら気まぐれを起こしただけかもしれません。多くは語りませんが慈悲深い彼のことです、尾なし猿に憐れみを覚えたのかもしれません。また或いは科学者の冷徹な実験に過ぎないのかもしれません。
「彼は尾なし猿に向上心と思考力を付与しました。《暴君》によって禁断とされた果実を与えたとされていますが、恐らく前頭葉を刺激し発達させる作用があったのでしょう。自らの意志を取り戻した尾なし猿はもう奴隷の身に甘んじてはいませんでした。焔は消え、彼らの自立を妨げるものはありません。《暴君》のくびきから解き放たれた『人類』が、続々と庭園を去り世界中に広がりはびこっていく様を《賢者》は興味深く見守りました。その旺盛な繁殖力に相応しい世界を見出して、人類は爆発的に増殖していきました。
「当然の如く《暴君》は激怒しました。『貴様、なんてことしてくれたんだ!』激昂した彼はわめき散らしました。神々の言語系統は今に伝わっておらず、そもそも会話のような下等な表現方法をとっていたかどうか大いに怪しいものですが、しかしここは便宜上擬人化しておきましょう。似たような思念を持ったことは間違いないのです。『やつらは俺の末裔だぞ! 貪欲で、自分勝手で、手に負えない無法者なんだ! 下手に智慧をつけたら悪用するに決まっているじゃないか』そんな非難に耳を貸すでもなく、《賢者》はあくまで冷ややかに人類の放埓を観察していましたが、なるほど《暴君》とて考えなしに権力とやらを行使していたわけではないのです。彼こそ始原の教育者でした。子孫たちの性格を危ぶみ、矯正しようと試みた努力は認めざるをえないでしょう(ただし自分については頑としてその必要を認めませんでした)。果たして教師の手を半ばで逃れた人類は、小賢しくも彼の思想を踏襲し、力による所有の概念とそれに基づく支配を確立するに至ったのです。
「いまだ未熟で素朴な文化段階にあった人類は、実に熱心に神々に祈りました。《黒山羊》には豊穣を、《賢者》には魔術的な加護を(科学という概念を理解するにはあまりに未発達でした)、という具合です。しかしながら《暴君》は相変わらずの不機嫌でした。彼への崇拝が疎かにされていたというわけではありません。それどころか全知全能の裁きの神を自任する彼のもとには、煩雑な訴訟が連日のように押し寄せていました。水だ、国境だと所有権を主張しては争い、挙句、やれ怒りの鉄槌を、正義の雷をと、血生臭いことばかり奏上してくる連中には辟易していたのです。断罪は望むところでしたが誰かの思惑に乗せられるのは気に入りませんでした。近親憎悪とでもいうのでしょうか、我々には理解し辛い感情ですが、彼にとって自分の遺伝子が劣悪な形で発現し、猿真似に興じている様は耐え難い冒涜でした。神々の時間にしてみればあまりに短い周期で繁殖していく人類に刺激され、苛立ちは膨らむ一方でした。父祖の血脈に宿る狡知と欲望の赴くまま、人類はやがてすべての支配を欲するでしょう。遂には神々の領域を脅かすに違いありません。それは父なる《暴君》にとって火を見るよりも明らかなことでした。
「このような経緯があって、かの有名な大洪水は引き起こされたのです。子らの大胆な振る舞いに、とうとう我慢ならなくなった彼は、《風の乗り手》や《天水の運び手》といった眷属を地上に遣わしたのでした。風は嵐を呼び、降りしきる雨は大河を溢れ出て陸地を侵しました。荒れ狂う奔流は城壁を呑み、田畑を沈め、生けるものすべてを流しやり汚泥へと変えました。文字通り地上から生命を一掃してしまったのです。
「ようやくこの頃になって、さすがの荒ぶる神もやり過ぎに気づいたようでした。というのも、この大破壊の犠牲は人類のみならず、ひっそりと慎ましやかに暮らしていた他の動物たちをも巻き込んでしまっていたのです。下界には関心の薄い神々も、自分たちの末裔をゆえなく絶やされては黙っていないでしょう。粛清の熱も冷め、遅まきながら報復の可能性に思い至った《暴君》は、いつまでもぐずぐずしてはいませんでした。彼は裁判が大好きでしたが、自分が裁かれるとなると話は違うのでしょう。自分以外の裁判官を信用していなかったのか、はたまた自分のような裁判官に罰せられるのを嫌ったか、たちまち逐電してその行方は杳として知れませんでした。
「しかし慧眼というべきか、《賢者》はこの惨事を予見していたのです。大洪水の前、彼はシュルッパクの神官王ウトナピシュティムに告げました。家を壊し方舟を建造すべし、すべての動物を繁殖可能なだけ載せるべし、と。もちろん一つがいでは近親交配が避けられませんから。偉大な科学者である深淵の主の、なんと思慮深いことでしょう。果たしてシュルッパクの科学技術の粋を集めた巨大な方舟は大洪水を見事耐え抜きました。七日と六晩の後、雨雲の去った青空に虹色の蛇神が燦然と輝くとき、方舟の乗員は新世界の到来を知ったのでした。水位の下がるのを待って大地に再び降り立ったウトナピシュティムは、まず草食獣を、その数が十分増えてから狩猟動物を、順番に野に放ちました。こうして地上には、以前と変わらぬ生態系が復元されたのです。
「これが我々に伝わる大洪水の顛末です。なるほど、あなた方の神話ではノアの方舟と言う……。ええ、聞いたことがあります。しかしそちらの記録でも、より古いものにはウトナピシュティムの名は記されています。真実を知るシュメール人やアッカド人は《賢者》を崇拝していたのです……。もちろん方舟には人類も載せていましたから、雌雄四体ずつオス一号からメス四号まで、そのうちの一人がノアとかいう人物ではないでしょうか。彼らは実験用に購入されたもので、便宜的に番号を割り振って呼んでいましたから個別の名は我々の間には伝えられていないのです。
「現在《賢者》は生涯で何度目かの眠りの周期に入っています。彼がこの地を寝所に選んだとき、我々もまた住み慣れた土地を捨て、この凍土に移り住んだのです。『常冬の大地に春が訪れるとき、《賢者》が覚醒し衆生を蒙昧から解き放つ』そのような言い伝えも下等生物たちの間にはあるようですが、前半はともかく後半部は彼らの願望でしょう。神々という存在は、決してあなた方が願うほど面倒見がいいわけではないのです。《賢者》は比較的慈悲深いほうですが、それはむしろ気まぐれと表現すべきかもしれません。
「それにしても我々は考えるのです。人類はその飽くなき欲望を満たすべく、あらゆる価値観をかなぐり捨ててきました。謙譲とか慎みとか、そういった《暴君》のしつけの名残を一つ一つ打破し、欲望を基調とする新しい秩序を作り上げたのです。なんなら向上心と言いましょうか。極めて物質的な向上心ですが。
「しかしながらこの新しい思想が人類を幸福にしたかというと、必ずしもそうではありません。有限であるところの物質の多寡が幸福の尺度であるならば、幸福もまた有限でありましょう。となれば現在の価値観において不幸とされる人々に対して《賢者》は責任を負っているのです。《暴君》の信奉者の一部が言うように、確かに庭園にはある種の安息がありました。奴隷たちは卑屈に等しくそれを分かちあっていました。それを失うことになった原因は我々の神にあるのです。
「我々はあなた方が失ったある種の平安を望むならば返して差し上げようと思うのです。この果実を……。三階で取れたものです。あなた方の世界には存在しない植物の実です。ここを訪れた人間には皆、帰る際に渡すのです。これを齧るかどうかはよくよく考えてからにして下さい。忘却と、それに平安を得ることができるでしょうが、ただそれは決して万人にとっての幸福ではないのです。
「まあ、我々にとって知の探求のみがすべてであって、別段人間のためではないのです。あなた方が欲望の動物であるように、わたしたちを動かしているのもまた欲望、知識欲という狂おしい衝動なのです。老いとも、わずらわしい繁殖とも無縁であり(それが大洪水の際に結ばれた神との新しい約定なのです)、他に退屈を紛らわす術を知らないのです。とにかくもうお帰りなさい。無事戻れるよう道は開けておきましょう……」

 それからどのようにして部屋まで帰り着いたのか覚えてはいません。気がついたとき、僕はあの見慣れた六畳間の隅に丸くなって震えていました。パジャマにセーター、フリースのジャケットと出たときのままの姿で。ぞくぞくと嫌な感じで耳の後ろが痛み、どうやら熱があるようでした。顎をがくがく震わせながら布団にもぐりこんだ僕が、眠りに陥るまで朦朧とする頭で考えたのは、あれは本当に現実の出来事だったのかということです。もちろん夢や幻で片づけてしまうのは簡単です。譫妄状態ならおかしな夢を見たところで不思議はありません。毎日のように歩いている道で迷うことも、まあ、ありえないとは言い切れないし、それだって熱のせいかもしれません。少なくとも蛇人間がどうこうというよりは受け容れやすい発想でしょう。ええ、僕が本気であんな荒唐無稽を信じているとでも思いましたか? はは、そんなわけないでしょう……。しかしですね、右手にしっかと握った、りんごにも梨にも似た、拳大の果物、こいつは一体なんですかね。なんだと思います? 教えてくださいよ、鑑識の結果出たんじゃないですか? え、どうです、わからないんでしょう。この世界の植物じゃないからね。はは、ははは。
 ですから刑事さん、僕を裁く法なんてありはしないんですよ。ないですよね? あったら嫌だな。禁止薬物でもなんでもないんだから……。ええ、蛇人間がくれた果実、なかなか試す気になれなくて腐らせちゃいましたが幸い種が残ったもんで栽培したんです。色々とやってみたんですがね、ジュースにしたり、乾燥させたり。結局粉末状にしましたよ、持ち運びに便利ですから。確かに誤解されやすい形状ではありますよ。しかしもうわかったでしょう? これこそ免罪符です。楽園への入場券。まあ、片道切符ですがね。人類は遂に再び楽園を見出したのです。素晴らしいじゃありませんか。歌いますか? ご一緒に。ハーレールーーーヤ。
 売人だなんて人聞きの悪い、善意でお分けしているだけですから。実費だけですよ。非営利、もちろん商売抜きで。ええ、皆さん満足していますよ。いやあ、はっはっは、もう何を語ることもありませんがね、しかし恍惚の人はあれで幸せだって言うじゃないですか。生きながらに精神は楽園ですから。さらば物質文明、と落伍者は言った……。
 どうです、刑事さんも一服してみては? うちから押収したやつ。いや、大分お疲れの様子ですから。僕もいい加減眠らせてもらえると嬉しいんですがね。駄目ですか? ああそう。やれやれ。しかしもう、これ以上話すことはありませんな。どうせ分析だって無駄でしょうよ。あれが証拠にならないからこうだらだらと尋問を繰り返しているわけでしょう? だから自分で試してみて下さいよ。すべてはっきりしますから。それが一番手っ取り早いと思いますがね……。僕ですか? いや、まあ、いずれはと思いますがやっぱり自分は後回しですね。哀れな迷い子を残してはいけませんよ。
 それが伝道師の辛いところで……。

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