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魔法陣

高本淳

 

  道はしだいに険しくなり、ついにふたりはロバを降りて徒歩で登らねばならなくなった。急峻な岩場を縫うように続く山道はやがて石造りの門で終わり、目の前の古びた扉を初老の男は息を弾ませながら巡礼杖の石突きで叩いた。しばらく待たされ、ようやく小窓が開き現れた醜い顔にむかって彼は身分を名乗った。
「フランシスコ会修道士ノッティンガムのロジャー。神聖ローマ帝国皇帝ルードヴィヒ陛下のご書状注1をお預かりしてまいりました。こちらは連れの修道士見習いでトマスと申します」
 ベネディクトの僧服をまとったせむしの小男によってピレネーオークの重々しい扉が軋みながら開かれふたりは中庭に招き入れられた。ここでようやく彼らはバシリカ風の陰うつな修道院の塔をその目にすることができた。方形に積み上げられた花こう石の表面を二百年の歳月が茶色くまだらに汚していた。
「ようこそ、わが兄弟よ。主の御はからいでしょう。もっとも相応しいお方がもっとも望まれる時にたまたま当地へ立ち寄られたというのは」
 そう慇懃にむかえた院長はふくよかな顔だちに満面の笑みをうかべてはいたが、ときおり半眼にした上目遣いの目で探るようにこちらをうかがう癖がトマスはひどく気になった。
「と言われますと?」
「じつは四月程前、峠からさして遠くないところに古びた洞が見つかったのです。内部の壁は異教徒の言葉で埋め尽くされており若干の異国の品々もありました。わたくしどもの教区で発掘されたものである以上、当修道院に帰属するものであるはずなのですが、何ぶん異教徒にかかわる文物であり、またかなり古い時代のものとも思われます。そこでトゥールーズに連絡をとってその方面に詳しい聖職者の方に来ていただきました。しかしどうしたわけかその方は調査を途中で打ち切って急に帰ってしまわれたのです」
 ロジャーはかすかに興味をそそられた様子で修道院長を見た。
「このわたくしにその場所へ赴いて調べてみてほしいとおっしゃるのですね?」
「あなた以上に古今東西の文献に通じている者は他にいません。お願いできればこれほど心安んじることはありません――とはいえ、遠路はるばるいらしたあなたにこのような依頼は急にすぎました。すべては明日のこととして今宵はまずゆっくりと旅の疲れを癒してください」

*

 彼らにあてがわれた部屋は思いのほか立派な造りだった。中庭に向いた窓の柱状の枠には上部に帆立貝をあしらった紋様が彫り込まれてさえもいた。もともとは世俗の高位の者をむかえるために用意された部屋なのだろう。
「ロジャー修道士?」
 なにやら落ち着かないそぶりで寝台の上でそわそわしていた少年が尋ねた。
「なんだね? トマス」
「さきほどロバたちをあずけるおりに鍛冶場で細工師に聞いたのですが、そのドミニコ会からきたという僧はわずか一日の調査のあと洞窟から青ざめて戻るなり一言も喋らず翌日トゥールーズにあわただしく帰っていったそうです。何かよほど恐ろしい秘密を見たのだろうと彼は言っていました」
「……ふむ」
 トマスはさらに声をひそめた。
「修道院のなかにはあの洞にエルサレムから持ち出された聖遺物がしまわれていたという噂もあるそうです……それはほかならぬかの『聖杯』だったと」
 ロジャーは笑った。
「馬鹿なことを――雪解けの水が洞窟の入り口を塞いでいた岩を押し流し、たまたま羊飼いの少年が中に入って多数の古文書を発見した――それだけのことだそうだ。確かに教皇から解散を命じられた時点でテンプル騎士団注2が自らの財宝の一部をピレネー山中に秘匿したという話はある。しかし事実かどうかは誰も知らない。かつて彼らが東方から何か貴重なものを持ち帰ったというのはおそらく後世の人が面白おかしく言い広めたうわさ話だろう……」
「それならなぜその僧はあわてて帰ったのでしょう? しかもその後で例の異端審問官がわざわざ自ら発掘品をあらためにやってきていたそうです」
 少年はなにかの反応を期待するように老人に目をやったが相手はまったく動じなかった。
「まあ、トマスよ。心をしずめて修道僧の沈黙の誓いを思い出すがいい。長旅の疲れをとるためにも今夜は早く寝ることだ」
「はい、……そういたします」いささか不満げに答えたあとで彼はたずねた。「ところで明日は何時頃でかけられます?」
「朝のミサが終わったらすぐに」

*

 早朝であるにもかかわらず峠道にはすでにまばらな人影があった。未明のうちに梺の村を旅立ったサンティアゴ・デ・コンポステラ注3への巡礼者たちだった。ときおりは羊飼いに導かれた羊の群が朝焼けの山麓を綿のように埋めていた。しかしそれもこれもロジャーたちが峠道を山頂の方角へ外れはるかに渓流を見下ろすがれ場をたどるにいたって姿を消し、老人と少年は谷から吹きあがる冷たい風のなかをただふたり黙々と歩を進めた。
「あそこが目ざす場所のようですね」
 トマスが指さす先に小さな洞の入り口が暗く見えた。草木ひとつない岩場には初夏とはいえまだところどころ雪が残っていた。入り口の周囲に石を集めた低い囲いがあり、ふたりはそこに身をかがめてようやく冷たい風から逃れ一息ついた。
「ありがたい。だれかが薪を用意しておいてくれています。ひとまず暖をとりましょう」凍えた手をすりあわせながらトマスは嬉しそうに言った。ロジャーはうなずいたがほとんど上の空だった。少年は背嚢から火打ち石や火口を喜々として取り出した。バイエルンの上級武官の家に生まれた彼は自らの手で火を作り出すことにいまだに子供じみた喜びを感じているらしかった。
 値踏みするようにあたりの地形をながめていたロジャーは一塊のチーズを目の前に差し出されて我にかえった。
「まず食事を。いったん中にはいったらたぶんあなたは夢中になって食べることすら忘れてしまいそうだから」
 例によってよく気がつく若い弟子の言葉にロジャーは微笑み、主への感謝の祈りを捧げると羊の乳から作られた固いチーズと乾燥したパンを水筒の水で飲み下しながら言った。
「やはりこれはテンプル騎士団にかかわるものではないようだ。洞穴は地中深く岩盤を掘りぬいて作られている。表面の砂礫には乱された形跡はない。少なくとも数百年の歳月にわたり雨風に曝されたままのようだ」
「あるいは昔ローマ人たちによって造られた遺跡でしょうか?」
「おそらくな……さて、燭台に火を点してわたしにひとつ。おまえがひとつ。荷物はそこに置いたままでよかろう。入り口は狭く足下も悪い。身軽なほうがよい」
 小砂利で勾配のきつい洞の入り口をすこし下るとしっかりした石段があり、もうひとつ戸口をくぐると開けた空間に達した。ロウソクの明かりにゆらぐ周囲の壁には頑丈な木製の棚がしつらえられ、壷や書物や束ねられた羊皮紙が埃をかぶったまま置かれていた。一部には品々が運び出された跡がくっきりと残っていたが、それらはトゥールーズから来た僧が帰ってじきに厳重な監視のもとアヴィニヨン注4に送られたとのことだった。
「十字の跡から察するにここには聖遺物入れがあったようだ。こちらの丸い跡はたぶんオイルランプだな……盗掘を恐れたのだろう、ドミニコ会の者たちは換金容易な品物からまず運び出したとみえる。さいわい書物は手つかずのままだ。見たところギリシャ語とヘブライ語で書かれているな。多くが法律や商取り引きに関するもののようだが――おや? これはディオスコリデスの『薬物誌』だな……」老修道士は楽し気に書物の埃を吹き払った。「こちらは海図らしい。その隣にあるのは――なんとアルテフィウスの『知慧の鍵』ではないか? 文字どおり掘り出し物だ。こんな宝の山に踏み込んでいながら、あのトゥールーズの修道士はなぜあわてて帰ってしまったのだろう?」
 周囲の壁に描き込まれた文字はそのまま残されていた。ロジャーはロウソクの明かりを近づけると子細に観察をはじめた。
「おわかりになりますか?」
「しっ!……ふむ、これはアラビア文字だ。かなり前のものだな。薄れている部分もあるから判読するのには苦労しそうだが、おそらくその昔異教徒たちがイベリア半島を支配していた時代に書かれたものだろう。洞そのものはローマ時代のものらしい。後に峠を守備するイスラムの兵士たちが礼拝所として利用したのかもしれぬ。もしそうならこれらはたぶんコーランの一節のはずだ」
 岩に描かれた文字を老人が熱心に読み解こうと努めている間、トマスはひんやりとした薄闇の中、呪詛めいたいにしえの言葉に取り囲まれている居心地の悪さをまぎらわすべく、所在なげに岩の小部屋のあちらこちらを歩きまわっていた。
「ひゃっ!」
 少年が悲鳴をあげるとともに唐突に何か重いものが倒れる音がして一瞬のうちに洞穴が土煙で満たされた。
「どうした! 怪我はないか? トマス!?」
「お許しください。ちょっと壁に触ったらいきなり崩れてきて……」
 咳き込みながら弁解する弟子の姿がロウソクの明かりの中に浮かび上がった。ロジャーはほっと肩の力を抜いて安堵のため息をついた。
「トマス――この粗忽ものめ!」
 思わずついた悪態をいちおう天に詫びたあと、ロジャーは行いすませた修道士らしくもない笑いの発作を押さえるのに苦心しながらつけくわえた。
「若いおまえを連れてこんな墓場のような場所に入るというのがそもそも間違いだったな。しばらく外に出て焚き火の番でもしていたらどうだ」
「すいません、でも……ロジャー修道士――ここに何かあります」
「なにがあるというのだね?」
 埃はまだ室内いっぱいに漂っていたがトマスが崩した壁の穴の中を覗くには問題なかった。乏しい光のなかでも何かが薄闇のなかで燦然たる煌めきを発していることはわかった。
「なんとこれは! ――驚いたな」
 ロジャーはあらためて周囲を眺めまわし壁のその部分だけが他とは違って煉瓦を積み上げて作られていることに気づいた。まるでつい最近、何かを隠すために誰かが新しく壁を組み上げたかのようだった。床に落ちた煉瓦の破片はすっかり漆喰が剥がれていて、トマスが軽く触れただけで脆く崩れ落ちたのもなるほど道理だった。雪解け水が長い時間をかけて内部の亀裂を広げていたのか――それともあるいは……。
「そちらにまわりなさい。気をつけてすこしづつ剥がしてみよう」
 しばしのあいだ老人と少年は黙々と作業した。わずかの間に小部屋のなかは息をするのも苦心するほど埃が充満した。彼らは何度か外へ出てそれが収まるのを待たねばならなかった。

*

「いったいなんでしょう? ……こんなものいままで見たことがありません」
 ロウソクをかかげる手がかすかに震えていることで少年の困惑と恐れとは感じ取れた。ロジャーはひとつ咳払いをするといまや全体が見えるようになったつややかなその表面に指を触れた。方形のひと抱えほどある青緑色の半透明の板は老人の指先に固く冷たい感触をつたえてきた。
「幸いなるかな、トマスよ。異端審問官に任じられていたころは、しばしば宝玉に飾られた貴人が身ぐるみ引き剥がされるのを目撃したものだ――しかしそんなわたしでもこのような恐るべきものがこの地上に存在しうるとは思わなかった。これはエメラルドの単一の結晶だ。たぶん世界のすべてがこれひとつによって賄えるだろう。いや、そんなことは問題ですらないかもしれない――」
「ロジャー修道士?」
「恐らくおまえは耳にしたことがあるまい。異教徒の信仰にかかわるものだからな――かつて古代世界に人間と宇宙の深奥の秘密を探究した者たちがいた。彼らは聖書の予言者たちの上に自らを置くほど高慢であり、感得したと言う『真理』をさまざまな形で書物に書き残した。そのうちもっとも名高いひとりにヘルメス・トリスメギストスという男がいた。いや人ではなく神そのものであったという者もいるが――ともかく彼がしるした『ヘルメス書』は自らが邪神ポイマンドレースとの神秘的な対話によって知ったとされる黙示的な洞察が記されているという。それは彼の死後アレキサンドリアからエジプトに渡り長い間ギゼーのピラミッドに隠されていたとも伝えられているのだが……なによりその言葉は巨大なエメラルドの石板注5に彫り込まれているという話なのだ」
 不意に寒気を感じたかのようにトマスは衣の襟をかきあわせ、胸の前で十字をきった。
「――これがそれなのですか?」
「確信があるわけではない。しかしここに記されている文字はどうやら……」
 彼はロウソクを手に石板の表面をじっと凝視した。
「ローマ字にもギリシャ文字にも似ているが違う。わたしの記憶が正しければ古代フェニキアの文字注6だ。であれば本物の『ヘルメス書』である可能性は高い……これが隠されていた状況から見るとやはり噂どおりテンプル騎士団が東方から持ち帰ったものかもしれない。グノーシスの教えに忠実な彼らなら生命を賭してでも教皇庁には渡すまいとしただろうからな」
「すみやかに修道院長どのにお知らせするべきはないのでしょうか?」
「ああ――だが、すこし気になることも……」
「何がでございますか?」
 答えようとしてロジャーは躊躇い、やがて否むように首をふった。
「いや、わたしの思いすごしかも知れない。おまえが心配するまでのことではないだろう」
「ロジャー修道士?」
「やがてわかることだ。さあ、そのロウソクをこちらに。こんな機会は二度とはあるまい。かのエメラルド板をこの目で詳細に調べることができるのだ。なんという僥倖……ただ残念ながらさすがのわたしもこの石板に描かれた古代フェニキアの文言まではわからぬ」
 そう言いながらさらに炎を近づけつつ老修道士はゆっくりと頭を左右にふった。
「はて……妙だな」
「なにがでございます?」こわごわトマスがたずねた。
「なにか内側に描かれているのだ。奇妙なことだが彫り込まれているわけではない……琥珀のなかの虫のごとく――いやむしろ結晶内部の欠陥がたまたま文字として読み取れるかのようだ。光のあたる加減で微かにしか見えぬが……」
「何が描かれているというのです?」
「うむ……方形のなかに文字があるようだ。なんとか読めるかもしれない。そこにあるわたしの杖をこちらへ」
 ロジャーはロウソクの炎を動かしながらそこに読み取ったものを傍らの床の塵の上に書き記した。

「なんでしょうか? これは?」
 しばし遠い記憶を呼び起こすようにそれを眺めたのちロジャーはいった。
「魔法陣の一種だろうか。それぞれの升目のなかにあるのはおそらくヘブル文字で現された数だ。右上は『2』、左隣は『8』――以下、順に『16』、『20』、『28』、『50』、『82』、『126』とつづく……」

「しかしロジャー修道士。以前お伺いしたところでは魔法陣というのは各辺や対角線の数の和が一定になるということでした。ところがこれはまったくそうはなっていません。だいいち升目をすべて満たすには数字がひとつ足りません。空白の升目があるのはなぜでしょう?」
 いまさらながらロジャーはこの愛弟子の頭が俊敏に働くことに誇らしい満足を感じた。この時代、いくつかの数の和を頭のなかだけで計算できる人間はそう多くはいない。
「おまえの言うとおりだ。魔法陣にしては腑に落ちぬところがある。この『16』を表す文字が特に薄く描かれていて読みにくいのも不可解だ。あるいはなにか異端的な意味を含む象徴なのだろうか」
「悪魔との契約の徴であるかもしれません。であったらこんな場所に長くいてはなりますまい?」
 外の気配をうかがいながらトマスはささやいた。少年の恐れているものを察知してロジャーはあえて穏やかな口調で答えた。
「おまえがたまたま壁を崩し、こうしてこの物がふたたび人の世に現れたのは意味のないことではないのかも知れない。いま巷では異端審問の名のもとに罪のない人々が多数、炙刑の薪の上に送られている。われらの主がそれを嘆いてこれを人間のもとによこされたのではないのだろうか? それならわたしはこのメッセージを読み解く責務がある。おまえも知るようにわたしもかつて幾人もの人間をそうして裁いたのだから」
「お気持ちはわかります。でもこれは異教徒の著わしたものです。すべては神の忠実な僕を破滅させるための狡猾な悪魔の企てかもしれませんよ」
「トリスメギストゥスが異教徒ならアリストテレスもまたそうだ。十字軍によって攻略される以前のコンスタンチノープルには古今東西の先人の知恵が集積していたという。その輝かしい時代に貯えられたすべてがいまでは四散し永遠に失われつつあるのだ。かつてビザンチンでは小パウロ派やボゴミル派などのグノーシスの流れを組む人々注7がこうした貴重な文献をまがりなりにも伝えてきた。今になってわたしたちが、ただただ異端の名のもとにそれら古代の賢人たちの優れた言葉を地上から永遠に抹殺してしまって果たしていいものだろうか?」
「ロジャー修道士、そんな意見をだれかに聞かれたらどうします。破門の絶好の口実を与えかねませんよ」
 自分の忠告に老人が忍び笑ったのを聞き咎めてトマスはたずねた。
「なぜ笑われるのです? 思うにさきほどからなにか隠しておいでですね? それはなんですか?」
「勘のいいことだな」
「どうぞ教えてください。わたしはあなたの弟子です。それともわたしすらも信用できないとおっしゃるのでしょうか?」
「わが友トマスよ、確かに言うとおりだ。無用な心配をさせまいとの思いからだったが、すまなかった……じつはさっきふと考えたのだよ。だれかがすでにこれを見つけていながら、あえてわれわれによって発見させたかったのかもしれぬ、と」
「――どういうことでしょう?」
「おまえも知るように、先年ペルージャでの総会のおりフランシスコ会はキリストの清貧を信仰の真理として受け入れることを定めた。しかしこれはヨハネス教皇によって聖庁の権威を脅かすものと受け取られ会の決定は異端と断じられた。以来われら修道会はやむなくアヴィニヨンから距離をおき神聖ローマ帝国皇帝ルードヴィヒ陛下に接近することとなった」
「存じています」
「ヨハネス教皇と皇帝ルードヴィヒ陛下は司教の選出権をめぐって激しく対立しておる。皇帝側が有利になるような言動をつつしまぬフランシスコ会を教皇は目の上の瘤のように感じておられるだろう。それゆえ、あるいはこれはわたしや修道会を標的にしての巧妙な罠であるのかもしれぬ……」
「罠ですって? ――いったい誰の?」
「想像してみよ。仮にかのドミニコ会修道士がすでにこれを見つけていたとしたらどうだ? そのまま掘り出してトゥールーズに持ち帰っただろうか? 否、おそらく無理だ。これほどの価値ある財宝をドミニコ会が独占することを教皇庁も皇帝側も許すはずがない。修道会そのものの存続が危うくなろう」
「それならば、どちらかに献上し庇護を求めればいいのでは?」
「ああ、フランシスコ会が神聖ローマ帝国と親しくしているいま、ドミニコ会がこれを教皇に献上すれば彼らの立場はおおいによくなる。とはいえ、これは同時に異端の書物だ。教皇庁といえども軽率には受け取れまい……しかし、このものが異端の証拠品として送られてきたとなれば話はべつだ」
 トマスははっと青ざめた。
「もしもフランスシコ会に属するひとりの修道士が異端の道に魅せられ、このエメラルド板を隠匿しようとしていたとなれば、この度の皇帝側との会合を有利に進めたい教皇庁にとってまさに好都合ではないか?……」
「あなたを陥れる罠だと? でも同じたく鉢修道会である彼らがなぜそんな卑劣なことを?」
「ドミニコ会にしてみればこれを発掘してしまった時点でフランス王国と神聖ローマ帝国の覇権闘争の渦中に巻き込まれる危険をただちに感じ取ったろう。なりふりかまわず降りかかる火の粉をはらったとしても必ずしも咎められまい。加えてかの修道会の中でわたしを相手にそんな企みをめぐらしそうな人物にも心当たりのないこともない」
「――まんまとあの男の罠にはまったということでしょうか?」
 血の気のうせた少年の表情にロジャーは胸のロザリオにそっと触れて言った。
「心配するでない。トマスよ、まさか見習い僧であるおまえにまでは被害はおよぶまい。それに結局のところこれはわたしの懸念にすぎぬ。真実ときまったわけではないのだ――そもそも神につかえる身がそのような疑念に心をわずらわせてもなるまい。わたしは修道院長からこの洞穴のなかの文字の解読を依頼された。それに専念すればいいだけのことではないか――さあ、今は無用な疑いは忘れてわれらのなすべき仕事に集中しよう」
「……そうおっしゃられても、わたしは怖いんです。ロジャー修道士――べつに告発を恐れているわけではありません。人の与えられる恥辱なんてたかがしれています。ほんとうに怖いのは神のみ前にでて自分はつねに正しく生きたと証言できるどうかです。もしこれが本当に邪悪なものであったとしたら……?」
 ロジャーは微笑んだ。
「トマスよ、それこそ創造主の慈悲と全能を信じようとしない異教異端の考えではないのかな? たとえ悪魔がわれわれを陥れようと企んだとしても、それもまた人には計り知れぬ神のおぼしめしのうちに含まれるはずなのだ。好むと好まざるとにかかわらず、われわれは主を信じその御心のままに自らの運命を受け入れるべきなのだよ」
 トマスはほっと肩を落とした。
「そうですね……おっしゃるとおりです」
「それならできる間にこの石板の謎を解くことを試みてもよいではないか――小鳥ですら主の御愛にはぐくまれ生きている。ましてわたしたちが明日をのみ何を思いわずらう必要がある?」

*

「各行を加えたものはそれぞれ『26、98、208』、各列を加えたものは『192、36、104』です。さらに対角線に並ぶ数字の和は『156』と『126』――最後のものは左下の升目にかかれた数と同じになりますね。たまたまでしょうか?」
「うむ、ヘブライの数秘術であるゲマトリア注8は幾つかの整数に神秘的な意味をあたえている。例えば『2』は『分析』、『8』が『均衡』、『50』が『導き』……というぐあいに――だが、ここに記された数はどうもそうしたものではなさそうだな。そもそも、わたしはいろいろな書物で神秘的な力を発揮するといわれている魔法陣を見たが、こんな中途半端なものははじめてだ。まるで造りあげる途中で未完成なまま放棄されたように見える」
「そうですね。何といってもこの空白の升目が気にかかります。もしこれが完成されていないのなら、ここにはいったい何が入るでしょう?」
「何を入れても魔法陣にはなりそうもない。最大の数である『126』がこんな位置にあってはな」
「対角線にならぶ『16』『28』『82』を足すとその『126』になるわけですよね。ほかにも『8』と『20』で『28』、『2』と『20』と『28』で『50』というのがある。――でも『82』になる組み合わせはない。『50』と『82』との差は『32』だけれど、その『32』はここにはないから……そうか、もし『14』がこの空白のところに来れば――」
 そのときロジャーは壁に記された文字になにかヒントでもないかとわきの壁を眺めていたために弟子の様子には気づかなかった。あまりに長引いた沈黙でふとわれに返ったとき彼はトマスの蒼白な顔に浮かび上がった激しい怯えの表情にまず驚かされた。
「どうした?」
 答える言葉もなくトマスは震える指でエメラルドの石板をさしつづけていた。目を移したロジャーは少年と同じ驚愕と恐れとにおそわれた。暗緑色の結晶の内部にいまあかあかと燃えるひとつの線形が生み出されていたのだ。

「トマス……いったい何をしたのだ?」
「わ、わかりません。わたしはただ……この場所に『14』があればいいなと――そう思って表面にかすかに指を触れただけなんです」
 泣きそうな声で少年は弁明した。そのあいだにも新しく生み出された文字はさらに輝きを増し、白熱した鉄線がぎらぎらと輝くようにこの部屋の薄闇のなかに光を投げかけた。見つめているとあたかも彼ら自身が自らの肉体の内部から抜け出し、魂のみとなってその光芒の中心に渦を描いてまき込まれて行くような気がした。のみならずあきらかにロジャーはこの石室の中から無数の目に見えぬ糸のような光線が放射され外部のあらゆるものに絡みついていくイメージを感じ取っていた。それは巨大な力の感覚であり、老人はそれに圧倒され、心の底からわきあがる畏怖の念に叩きのめされた。
「見よ、トマス。魔法陣の左上の升目を! 『16』が消えていくぞ!」

 もともとその数字は他のものとすこし違って読み取りにくかったが、いまやその姿はさらに薄れていた。まるで池にはった氷のなかの瑕が水温が上がり氷が溶けるとともに埋められていくように、ロジャーたちが息を飲んで見つめるうちにその姿はエメラルドの中に消え失せていった。そしてそれと期を同じくしてこんどは燃え上がっていた新しい数字『14』が次第にその輝きを薄れさせはじめた。やがてそれは他の数字たちと見分けがつかないまでになり、ロジャーたちのまえにまるで以前からそこにそうしてあったかのように新たな『魔法陣』が石板の内部に出現していた。

注9

「ああ、神さま!」
「いったい何がおこっているのだ? 主の御技か? それとも……?」
 しかし彼がそう言い終わるまもなく、恐怖に震える口調で誰にともなく問いかけるトマスの声が重なった。
「……恐怖のあまり目が変になったのだろうか? なんだか――、溶けているみたいだ?」
 少年の見たものにまちがいはなかった。なめらかだったエメラルドの表面に無数の緑色の雫がもり上がりつぎつぎと流れくだりはじめていた。その数はまたたくまに増え、すでに刻まれた文字たちは見る見る鈍く浅いものとなりほとんど読み取ることすらできなくなった。そればかりでなく石板そのものの角も丸くなり全体に縮小しつづけていた。そして不意にロジャーはいつのまにかあたりに身の毛のよだつような異質な気配が漂っていることに気づいた。
「いや! 石板だけではない……」驚きや恐れを通り越してすでに心そのものが麻痺しつつある自分を感じながら彼はつぶやいた。「われらを助けたまえ、慈悲ぶかき神よ……なんと洞の壁までもが溶けはじめておる!」
 彼らを取り巻くコーランの語句がゆっくり歪みはじめていた。ちらつくロウソクの明かりのなかでいままで岩の中に閉じ込められていた無数の小さな黒い蛇がいっせいにのたうちはじめたようなその眺めは背筋が凍るほど恐ろしい光景だった。
「逃げましょう! 悪魔の罠にはめられたのです!」
 出口を振り向き歩を進めようとしてふたりは慄然とした。頑丈なはずの石の床がまるで泥炭のごとく足にまとわりつくのだ。支えを求めて伸ばした手の甲にふいに水滴が落ちた。いや――冷たい異様な感触にぞっとして腕をひっこめながらロジャーは考えた。水ではない。これは天井から滴り落ちる岩の雫だ!
 つぎの瞬間、頭上から滝のようにその嫌らしくねばつく液体が降り注いできた。トマスがなにかを叫んだがもはや聞き取れなかった。明かりの消えた暗闇のなかで溶解した岩に腰まで埋まりながらロジャーは絶望とともに妙に冷静に考えていた――さっきから感じている異質な気配のもとは嗅覚から来るのだと。この世のものならぬ不思議な臭気が鼻腔を満たすのを感じつつ彼はついに意識を失った。

*

 彼はロジャーであり、トマスであり、同時にそのいずれでもなかった。自己同一性をもたらすあらゆる肉体的記憶から切り離された存在――が彼であったからだ。そこは薄闇のなかに広がる無限の大地の上。空には瞬かぬ星々が輝き、天頂に小さく満ちた月があった。その荒涼たる世界のなかにただひとり佇む彼は、しかし孤独ではなかった。何か親しみ深く巨大な存在がすぐ傍らにあって自分を見下ろしているという確かな感触があったのだ。やがてその存在がみじろぎし『言葉』が暖かい感覚をともなって頭上からおりてきた。
 ――おまえは目覚めの夢のなかにいるのだ。子よ。
 ――ああ、父よ、おひさしぶりです。あなたと別れてどんなに長い時間がたっていたのか、ようやくいま思い出しました。しかしなぜ今これが?
 ――おまえが自らを束縛している世界という糸の結び目を解いたからだ。それはおまえの身体と魂をともに縛りあげ忘却と滅びの運命に陥れていた。
 ――それではようやくあなたのもとに帰れるのですね?
 ――いや、それはまだかなわぬ。おまえを縛る無数の糸はふたたびもつれまといつき新しい別の結び目を形作るであろうから。この自由は一瞬の幻にすぎない。おまえが真にそこから逃れうるのは物質宇宙の永劫の時の流れが止まるはるかな未来においてのみだ。
 ――するとこの記憶もまた失われるのでしょうか?
 ――おまえは忘れてしまうだろう。しかしおまえの魂の一部にわたしたちの会話の残響は残る。それは絶望の淵にあっておまえに希望の灯火をあたえるはずだ。だから聞きなさい。そして心に焼きつけるがよい。おまえがかつてわたしであり、わたしがかつておまえであったことを。はるかな昔、お前はわたしから別れ、物質的世界に魅せられて下降し、その有限性のなかに閉じ込められてしまった。しかしお前の本質は変わることなくつねにわたしのそれと等しい。いつの日にかおまえはわたしのもとに帰ってくるだろう。そのときまで、わたしは変わらぬ愛をもっておまえを待ちつづけている……。

*

 不意に我にかえってロジャーはあたりを見回した。誰かに何か大切なことを告げられたような記憶がかすかにあった。しかしそれは把握しようとするやいなや意識の指の隙間をすりぬけて消えていった。
 彼と弟子トマスは渦巻く黒雲の下、果てしなくつづく沼地に浮かぶ小島の中央の丘に穿たれた洞窟のすぐ外に立っていた。太陽はなく世界は闇に沈んでいた。しかし不思議な光があたりを薄明るく照らし出していた。やがて彼はそれが泥の表面が発する燐光であることに気づいた。
 ――ここはどこだ? カニグー山は? そもそもラングドックの峰々はいったいぜんたいどこにいったのか?
 その疑問は言葉として綴られようとする傍らからつぎつぎに薄れてゆき、儚く散り散りになっていった。『カニグー』も『峰々』も意味のない音の羅列にすぎなかった。もちろん世界はいまだ知られざる神秘によって満ち退く広大な泥の海と、そこを浮遊する様々な浮き草、熱水の湖のほとりに繁茂する密林、そしてわずかに顔を覗かせた金属の島々とから成り立っている。注10そそり立つ大地などというイメージは想像することすらできない不条理なものだった。
 そしていましも目の前の、その地平線まではるかにひろがる泥の海の中から島に上陸しようとしている一行がいた。絶えまない雷光に照らされながら彼らの刺だらけの馬は一頭一頭、細かいヒゲのついた游泳脚を不機嫌そうに震わせて海の泥をふるいおとしていた。
「先頭にいるのは異端審問官のエイブラハムです」
 トマスの声がいつもよりくぐもって聞こえたように感じてロジャーはちらりとそちらに目をやり――なぜか一瞬異形のものを見た気がしてぞっと寒気を覚えた。
 ……妙な気分だ。たぶん九死に一生を得たばかりだからかも知れない。何気なくそう考えロジャーはふいに顔をしかめた。『九死に一生』? なんのことだ? なにか危険なことが最近起こっただろうか? 記憶をまさぐっても何も心当たりはなかった。彼は力なく頭をふった。その動作にともなって視界がぶれ――世界を支えている認識の柱が脆く崩壊しそうな心細い感覚にロジャーは困惑した。
「……彼とは旧知の間柄だ。わたしの資格をはく奪した張本人だからな。それだけで満足せずいまだに執念ぶかく策謀をめぐらしているらしい」
 妙な不快感をぬぐいさるべくロジャーは言うまでもない事実をあらためて少年に説明した。
「やはりあれは罠だったのですね……」言いよどんでトマスもまたなんとも説明しがたい表情をした。
「いま『あれ』って言いましたよね。わたし?」
 しかし少年の戸惑いはそこで中断された。師の宿敵が近づいてきたからだ。額の角のあいだに開いた呼吸孔からいまだ荒い息をはずませている馬の首ごしに異端審問官は冷たく鋭い牙を見せ微笑んで言った。
「これはこれはフランシスコ会のロジャー修道士。こんなところで何をなさっています?」
「ご兄弟のうえに神の祝福を。教区の修道院長さまから依頼をうけたのです。牧童が見つけた洞の中に刻まれた文言の調査を行うようにと」
「ほう? して、なにか新しい発見はありましたか?」
「……いいえ、なにもさしたるものは」ロジャーの微かな躊躇にエイブラハムの笑みがかき消すようになくなった。
「内部をあらためてよろしいですな?」
「どうぞ。お気のすむまで――」
 老修道士は一歩退き異端審問官へ道をゆずった。エイブラハムは彼の顔を油断なく凝視したまま表向き慇懃に頭をさげつつドミニコ会修道士の僧服の裾をたくしあげ洞穴へと入っていった。――と、みるや幾呼吸も経ぬうちにとびだしてきた彼は、おおいに取り乱した様子でロジャーを詰問した。
「……きみはあれをどこへやった?」
「『あれ』と申しますと?」
 演技ではなく心底困惑しながらロジャーはたずねた。いっしゅん怒りの形相とともに激しい言葉を浴びせかけようとして、不意にエイブラハムは自分のなかに言うべきなにごともないのを悟ったかのようだった。力なく口を閉ざすとこの異端審問官は途方にくれた様子で立ちつくし、はるかな地平線に目をさまよわせた。その逆とげのある尻尾は内心の動揺を示して苛立たし気に左右にくねくねといつまでも揺れ動いていた。




注1 皇帝の書状 
  フランシスコ会総長ミケーレは厳格主義派のつきあげでやむなくペルージャでの宣言を行ったものの自身は教皇庁との和解を望んでいた。そのため単身アヴィニヨンに赴く覚悟でいたのだが、皇帝側は彼が容易く(フランス国王に忠実な)ヨハネス教皇に屈してしまうことを恐れた。そこで双方の使節団が中立的な場所で事前の会合を開くことを提案し、その候補地の選定を博識で人望のあるロジャー修道士に一任した。<本文へ戻る>

注2 テンプル騎士団 
  12世紀はじめ聖地エルサレムをめざす巡礼者を異教徒や盗賊から守る目的で設立された修道騎士集団。エルサレム王よりソロモン神殿を与えられたことからその名(『タンプリエ』)で呼ばれる。やがて貿易や金融にもたずさわり銀行制度をはじめ兵器、建築術、薬学、航海術などイスラム世界のすぐれた文物を西ヨーロッパに紹介することに貢献した。しかし経済的、政治的に中世世界全体に大きな影響力を持つにいたったが為に権力者たちに警戒され、1312年異端の名のもと教皇によって解散を命じられた。<本文へ戻る>

注3 サンティアゴ・デ・コンポステラ 
  イベリア半島西端に位置するローマ、エルサレムに並ぶカトリック三大巡礼地のひとつ。九世紀初頭十二使徒のひとり聖ヤコブの墓がここで発見されて以来、ヨーロッパ全土から数多くの巡礼者がこの地を訪れている。<本文へ戻る>

注4 アヴィニヨン
  教皇はこの時代バチカンではなくアヴィニヨンにいた。1305年から1377年までのいわゆる『アヴィニヨン捕囚』。<本文へ戻る>

注5 エメラルド板
  もっとも古い時代にまで遡る魔道書。エジプト文字あるいはギリシャ文字で記されていたとも伝えられる。のちの時代に『ヘルメス書』としてアラビア語やラテン語に翻訳されたものが幾つも伝わっているものの、それぞれ内容がまったく異なっているために実際にヘルメス・トリスメギストゥスなる人物が著わした原典が存在するのかどうかすら定かではない。<本文へ戻る>

注6 フェニキア文字
  海洋貿易を行うフェニキアの商人たちはさまざまな異民族と取り引きを行う必要から表音文字を作り出した。もともと彼らの文字には母音を表す記号はなかったが後にギリシア人によって母音記号がつけくわえられ今日のアルファベットの基礎ができた。<本文へ戻る>

注7 小パウロ派、ボゴミル派
  グノーシスという言葉は狭義には原始キリスト教成立の時代にそれへの反動として生まれた種々の異端、異教の教理を指す。小パウロ派、ボゴミル派はまさにこの意味でのグノーシスの系譜を継いでいる。しかしより広義には錬金術やオカルトなど、キリスト教と自然科学に結びつくヨーロッパの正統な知的系譜に対する補償的な部分を包含する概念として用いられている。<本文へ戻る>

注8 ゲマトリア
  今日『ゲマトリア』と言えば、タロットカードによる占いに代表されるように、数そのものに神秘的な意味と力を認めたうえで人の運命を推し量る数占い一般のこと。しかし本来はアレフ=1、ベート=2、ギメル=3といった具合にヘブライ文字のアルファベットひとつひとつに数を対応させつつユダヤ教典トーラ(モーゼ五書)を神による暗号として読み説くためのカバラ伝来の技法だった。<本文へ戻る>

注9 描かれた数たち
  これらの数は魔法数および魔法核に関係している。それらについては以下の理化学研究所のサイトをご覧ください。
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2002/020404/
魔法数に『14』が加わる、ということは上のページの解説中の1D5/2軌道がそれより低エネルギーの1P1/2軌道に接近し、2、4+2、6個の核子がそれぞれ殻を形成するということを意味します。これによって必然的に魔法数16は存在できなくなり、そのかわり14個の陽子/中性子を持つ元素――つまりケイ素が魔法核を持つようになります。
 以上の変化は核子に関わるもので核の周囲をめぐる電子がつかさどる化学反応とは直接関係はありません。したがってこれによる影響は必ずしも自明なものではないのですが、ひとつの可能性としてケイ素がいまより安定した――言い換えるとより結合力の弱い――性質をもつようになることが想像されます。もしそうなれば岩石の主成分である二酸化ケイ素ははるかに低い温度で結晶状態を崩し溶解するようになるでしょう。
さらにひょっとしたらそれは簡単に水に溶けるかもしれません。そしてもし水中に多量のケイ素が含まれているなら(ケイ素が炭素とよく似た化学的性質を示す以上)生命はむしろこちらを基本物質として利用するでしょう。地殻を構成する元素のなかでケイ素は炭素よりはるかに多量に存在するわけで、わざわざ少量しか分布しない炭素を使う理由はないからです(偶発的な生命誕生の瞬間に炭素が関わる化学反応よりケイ素がかかわるそれのほうが圧倒的に大きな確率でおこるはずだから)。<本文へ戻る>

注10 熱水の湖、金属の島々
  ケイ素生命は炭素を固定しないので大気中に大量の二酸化酸素が存在するはずです。温室効果によって気温は上がり蒸発した水が作る雲がすっぽり地球を包み込むでしょう。ただ太陽より距離があるために金星のように水(正しくは水素)を失わずにすむかも知れません。地表の温度もたぶん金星ほどには上がらないでしょう(さもなければそもそも生命が発生できない)。ただ陽が射し込まないので光合成は不可能です。したがってこの世界の生命は細胞内部に硫黄代謝のための特殊な機構を持つ『植物』と、それを持たず『植物』の作り出す栄養を利用する『動物』とからなるでしょう。
地殻は薄く主に鉄やアルミニウムなどの金属酸化物から構成されるはずです。褶曲によりその一部が溶けた二酸化ケイ素の海のなかに突き出し島となっているでしょう。マントルから供給される物質はしばしば巨大なクレーターを穿つ水蒸気爆発をともなって噴出し『海水』に大量の養分を供給するでしょう。場所によっては豊富に硫黄分を含む二酸化ケイ素飽和水を満たした熱い湖が生じ、水の乏しい世界で生命のオアシスとなっているかもしれません。<本文へ戻る>

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