穏やかな流れの中にいた。
その穏やかさが心地よくて、首までどっぷりとその流れに浸っていたのだけど。
その中に降って湧いたように響いたのは同じリズムを刻む音だ。しかも、その音がどんどんと大きくなっていく。
穏やかだった世界が音によって荒らされ、心地よさは消え去った。
もう朝かあ……。
カーテンの厚い布地をそれでも透過してきた日差しに、ため息にも似た吐息を漏らす。体が欲するがままに伸びをして、数度瞬きするとどことなくぼんやりとした視界が焦点を結んだ。
今日は休みだっけ、とほんの少し期待した自分をせせら笑う。が、それでも後少しぐらいはとわずかばかりの期待を胸に、視線の先の時計を凝視した。
だが時計の針が指し示した時間は、あまりにも無情だった。
「何で……?」
慌てて目覚まし時計を探せば、奇妙な動きをする秒針と、壁の時計とは全く違う長針と短針の位置関係が目に入る。
どちらが正解かはその秒針の動きを見れば一目瞭然で、まだどこか呆けていた頭は一気に覚醒した。
「ヤバっ!」
ベッドから飛び降りると同時に、パジャマのズボンを脱ぎ捨てて、引き裂くような勢いで上をはぎ取る。
昨夜、念のためにと鴨居にひっかけていたブラウスとスーツを手にすると、そのまま洗面所に向かった。
途中、テーブルにのっけておいた映画のパンフや本が音を立てて落ちたけれど、気にしている暇はない。帰ってから片づければいいことだ。
手早く衣服を傍らのフックにひっかけて顔を洗う。
飛び散った水滴をタオルで拭って鏡に視線を移せば、寝起きで最低の自分の顔が映っていた。
だが、今日はそれを嘆いている暇はなく、もっとも簡単な方法で見られる状態にしていくしかない。
こんな時に魔法でも使えれば……。
先週見た映画に出てきた魔法使いの、 変化 の魔法を思い出して、つい願った。
あの魔法を使えば、艶の無くなった肌も、たるみが出てきた下あごの皮膚も、そして目立ち始めた染みまでもが無くなって、20代前半の頃のように見られるものにできるだろう。何より顔の造形すら変えることができる筈だ。
それこそ、誰が見ても見惚れるほどの女性へと。
だが脳裏に浮かんだ理想の姿は、口の端を歪めた笑みとともに消えていく。
そんなバカなこと、起こりっこない……。
幾度も夢見て、叶わなかった過去が現実を意識させた。
頭が夢の世界に入っていても長い年月を繰り返して習慣となった行為は、狂いもなく顔を作っていく。
顔さえできれば、後は服を来て出て行くだけ。
なんとか間に合いそうだとホッと安堵して、もう一度だけ鏡を振り返る。
どうにかしたい顔は、けれどいつもと同じ顔のままに鏡の中を横切っていった。
あれだけバタバタしていても、母屋の奥で寝込んでいる両親はまだ起きてこない。
もっとも勢いよく玄関を閉めたから、その音でさすがに目は覚ましているかも知れないけど。
おはよう、と朝の早い近所のおばさん達に挨拶を返して、勢いよく道を駆けていく。
駅まで5分弱。
始発に近いこの時間、まだ人気の少ない駅に飛び込んで荒い息をどうにか整えた。
「欲しいよなあ、空飛ぶほうき……」
そうすれば駅までなんて一瞬なのに。
いや、駅どころか会社までもだ。
──ドアを開けたら会社だった。
夢みたいなあのドアは、子供の頃より今の方がよっぽど欲しいと願ってしまう。
だけど、やっぱりそんなドアはどこにもないし、空飛ぶほうきもやはりない。
金属質のブレーキ音を響かせて入ってきた電車は、早い時間のせいもあってがらがらだ。難なく空いた席に腰を下ろせる。と──。
ああ、彼がいる。
途端に顔が綻んだ。
思わず浮かんだ笑みを隠すように顔を伏せて、けれど斜め向かいの最近ちょっと気になる彼をちゃっかりと盗み見る。
どこの誰かとも判らない。
必ず毎朝この時間の電車で、少なくとも私が乗る駅の手前で乗ってくるらしい彼。
乱れもなくスーツを着込んでいて、すらりとした長身に整った顔立ちはモロ好み。
実を言うと30分後のもう一本──いや、さらにもう一本遅い電車でも会社には間に合うのだが、彼を見たいがためにこれに乗っているのだ。
毎朝の寝不足状態の頭も、彼に逢えばすっきりと冴え渡る。
そして、いつかきっと──そんな涙ぐましい努力を伝えることができたなら。
『つきあってくれませんか?』
なんてベタなお願いをすることができたら。
──だけど。
「無理……」
口の中で転がる言葉をごくりと飲み込む。
ずっと与えられることだけで生きてきた。
子供の頃からずっと、話しかけられないと友達を作れなかった。
好景気の時に入れた会社で、言われるがままに仕事をして。何の機会もなかったから、ずっとこのまま。
そう、きっとずっとこのままでいるしかない。
そんなもう30の大台に乗ろうかという私が、どう見ても20代前半でしかない彼に声をかけたからって、望む返事がもらえるわけがない。
それこそ、魔法でも使って、奇跡でも起きない限り。
誰にも気づかれないように小さくため息を吐いた拍子に、激しくなった振動にカクンと体が揺れる。もう何年も乗り続けた電車が今どの場所を走っているかなんて見なくても判るのに、つい外へと視線を移した。 穏やかな川面にたゆたう小舟と釣り人が目に入る。電車が動くにつれて、川沿いの竹林が大きくなってきて、その合間に農作業用らしい古ぼけた掘っ立て小屋も見えてきた。
それが、何となくだが、この前見た映画に出てきた魔法使いの小屋に似ていると思う。とたんに、魔法を使える自分の姿が脳裏に浮かんだ。
キレイに変化できたら……きっと彼と恋人になれるのに……。
杖を振ったら一瞬にして、誰もが振り返るほどの美人になっていました。なんて夢みたいな事が叶えば……。
だが、すぐにバカみたいと口許が苦笑に歪んだ。
そんな事が可能な筈ないじゃない。願っただけで叶うなんて、この世にそんなおいしい話が有るはずがない。
子供の頃に描いた未来の想像図は、結局何一つ現実にはなっていなかった。
こうやって、電車に揺られないと会社にすら行き着けない。
30年も生きているのに、まるで子供のようなことをしていると自分をせせら笑うと、振り切るように視線を外へと向けた。
もうそろそろ次の駅に着くのだろう。
電車の揺れが穏やかになり、窓の外を流れる家々の様子がはっきり判った。
と──。
線路から少しだけ離れたところに公園が見えて、こんな早い時間なのに、老人達がゲートボールを楽しんでいる姿が見えた。
その中にいる数人の老婆。
その姿に、先日見た映画に出てきた老魔法使いの姿が重なる。
ああ、もう……毒されている。
面白く楽しめた映画だったけれど、あれ以来、魔法が使えたらどんなに便利だろうということばかり考えてしまう。
そんなことある訳がないのに、夢でしかないのに──と、バカにはしてみても、願うことは止まらない。
ああ、でも──と、ふと、気が付いた。
考えるだけなら自由よね。
誰にも喋るわけではないし、頭の中を覗かれる訳でもない。
どんなにバカな願いをしても、結局は自分の頭の中での出来ごと。
それが夢だと判っていれば、いいんじゃないの?
夢は夢に過ぎなくても、だからこそ、夢見ることは自由だと思うし。
『話しかけられたい』
何よりも叶えたいそれは一つめ。
『つきあってと言って貰って、OKって返事をしたい』
二つめ……三つめ。
『デートもしたい。──お年寄りに席を譲るような優しい彼の傍にいるのが相応しい相手になりたい……』
素敵な彼に相応しい相手だと思われたいから、だから。
『この硬い髪がもっとしなやかになって、頬にあるちっちゃな染みも消えて。それに、洋服のセンスも、お化粧も……シンデレラのように誰もが見返るほどな美人になりたい。そのためにもお金はたくさん。お酒も強くて、飲まれたりしない。──
一杯のワインで真っ赤になってへろへろになるなんて、それじゃあムードなんてないものね……それから……』
一つの願いは次の願いを誘う。
もういくつ欲する物を上げただろう。
『やっぱり付き合うって言ったら、あれも……ねえ』
それは可愛らしい内容から、口に出すのもはばかられるような淫猥なものまで多岐にわたっていって、なんだか人の目が気になって熱い顔を俯かせた。
『たった一晩でも……いいから……。きっと望まれたら、私の性格なら逆らえないから……』
自分の中にこれほどまでの欲望が埋まっていたとは思ってもみなかった。
さすがにそこまでくると羞恥心が勝ってきて、小さく咳払いをして意識を変える。
『え〜と、仕事ももっと要領よくできるようになって。そういえば英会話……しなきゃいけないんだっけ……』
先日お達しがあった「受付での英会話」講習会の話を思い出す。
『面倒だけど、英会話できるとハクはつくわね。これもパパッと魔法で覚えられたら楽なんだけど……』
何もかも、願うがままにものにできたら。本当に、面倒な事なんて何も無くなるのに。
そう思って、ため息を吐きかけて──だがすぐにその息を飲み込んだ。
何かが視界を横切った、と、真正面を見据えた途端に妙な違和感に襲われたのだ。
視界に入ったのはいつもの電車の中の風景。
けれど、どこか違う。
目を凝らしているのに、近い人がぼやけて見える。
寝起きの直後のようにうすらぼんやりした中で、ひときわはっきり見えたのは老婆。
その老婆を、私は見たことがあった。
『お前は、今時珍しい』
低い声音。掠れて震える調子まで、あの老婆と一緒だ。
その老婆の持つ節くれ立った杖までもが、記憶にあるのと寸分違わない。その杖が、私に向けられる。
『大人になってなお魔法を使いたいと願うのはね。戯れに願う奴は多々いるが、お前は本当に使いたいと願っている。今時そんな奇特な奴はいないでのう』
面白い奴だと低い声で笑う。
そんな様子まで一緒で。
そんなバカな、と声も出せないほどに驚く私の前で、彼女がニイッと口の端を歪める。
その表情も、そうだ──あの映画に出てきた魔法使い……。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
嘘だ、こんなの夢に違いない──だって、こんな事あり得ない。
そう願って固く目を瞑る。
今度目を開ければ、何もかもいつもの通りになっているはずだから。
なのに。
『夢じゃないよ。これは現実だ。現実だから、私がいる』
震える声が、無理矢理に瞼をこじ開けさせた。
まだ──いるっ!
老婆が笑みを浮かべたままに私を見つめていた。
ヤダ……怖い……。
現実を見失った恐怖に支配されて、逃げたいと思うのに体が動かない。
『いっそのことお前を魔法使いにしてやりたいが、そこまでの素質はなさそうだ。だから、私が叶えてやろう。ほら見てごらん』
節くれ立った杖が目の前を一閃した時には、思わず目を瞑った。
光を遮ったのに、なお明るい瞼の裏で幾つもの星が散っている。その中の一つが、一際強く輝いた瞬間、声が響いた。
『お前の願いは叶ったよ』
言葉に重なる笑い声が気持ち悪い。
『……ああ、面白い』
微かに聞こえたその言葉の意味を理解しようとして、だが、急にふわりと気色悪い浮遊感に晒された。
意識がそちらに持っていかれて、恐怖にさらに固く目を瞑る。
と──。
「……××駅〜、××駅です。お降りの方は……」
聞き慣れた車内放送にハッと我に返った。
耳に甦るざわめきに、音も消えていたのだと気が付いた。
慌てて目を見開くと、視界の全てが動き出していて、乗降する人たちの足が前を通り過ぎていく。
夢……?
いきなり睡魔から引き戻されたときのように意識がはっきりしなくて、私は思わず額に手を当てた。
いつの間にこんなに汗を掻いたんだろう?と思うほどに、当てた手のひらが濡れている。
「夢よね……」
妙な夢だった。
願いが魔法で叶うなんて、そんなバカなことはあり得ない。だからこそ、戯れに願っていたというのに。
ふと視線を巡らせば、ここは彼が降りる駅だった。視線がプラットホームを歩く彼の姿をとらえる。
ほら、ご覧なさい。
夢だったのよ。
願いが叶っていたならば、彼は私の所にきているはずだから。
こんなことあり得ないと判っていたのに期待はあったようで、肩に入っていた力がゆっくりと抜けていく。けれど、子供じみた夢を見たものだと思うと、自分でも呆れて可笑しくて。
だから、くすくすと声を押し殺して笑ってしまっていた。
「つきあわない?」
何度目だろう?
見たこともない男が私の前に立ちふさがる。
そんな事言われるような態度なんてとっていないと、拒絶の意志を現そうとしているのに、何故だか首がちゃんと横に振れない。
結局、必死になって振り払って逃げ去った。
最初に何かおかしいと気が付いたのは、電車の中で物珍しそうに見られていると思った時。
その後、その視線は激しくなって、とうとう声をかけてくるようになってきた。
もう何回逃げてきたか判らない。
それでも近づいてくる男に、激しい恐怖が湧いてきて、私はただひたすら走っていた。
誰か助けてっ!
そう叫びたかったけれど、私を見る視線がみな無性に怖かった。そのせいで、悲鳴は言葉にならなくて、誰にも縋ることができない。
せめて会社の人間でもいれば、と思うけれど、こんな早い時間だと見知った顔など一人もいない。
どうして、こんな。
いきなりこんなことが起きるなんて、その原因が判らない。
「これから一緒に遊ばない?」
「きゃっ」
いきなり腕を掴まれ、勢いよく路地に引っ張り込まれた。追いつかれたのかと振り向けば、そこにいるのはさっきと違う男だ。
酒臭い息に、疲れ切った様子は朝帰りでもしようとしているのか。
なのに、私を見つめる目はやけにぎらぎらしている。
「何なの、一体……」
走って乱れた髪を邪魔だと掻き上げようとした手が、だがその感触に気が付いた途端止まった。普段はごわついていて、セットするのも苦労する髪が、毛並みの良い猫の毛のように指を柔らかく心地よくくすぐる。
「こ、れ……?」
指に絡まる髪を目にして、私は叫びたい衝動に駆られた。
子供の頃から欲して止まなかった髪質。これは私の髪ではないっ。
なのに引っ張れば確かに痛みが頭でする。
間違いなく私の髪だ。
「まさか……」
不意に思いついた考えの、あまりの事柄にくらりと目が眩んだ。
信じられないと小さく首を左右に振る間も、彼、は近づいてくる。
そう、だ──この男も『彼』なのだ。
『彼』という人称で呼べるもの。
それは、私が望んだ『彼』とはまったく違うものであったというのに。
だけど、まさしく『彼』で。
頭の中に、あの老婆の笑い声が幾重にも重なって響き渡る。
「俺といるとさあ、きっと楽しいよぉ。だから、つきあおうよ?」
「嘘よ……こんなの違う」
こんなこと、願った訳じゃない。
「なんかさあ、つきあいたいって思うんだよ、なんでか判んないけど。とめらんねーの」
私はこんなこと願った訳じゃないのに。
「ほら、行こうよ、いつまでもつきあってあげるよ」
好色そうな笑みが、近づいてくる。
触れられた肌が、現実を認識する脳が、恐怖に震えていた。
「あ、あ……」
逆らえない恐怖。
私はあの時、何を願っていた?
いくつも瞬いた星はどんな願いだった?
どうすればいいの?
判っていた答えが頭の中に即座に浮かんできて、絶望に打ち震える。
「つきあお?ねっ!」
冷酷な笑みが私をあざけって、視線がなぶるように全身を犯していく。
掴まれた強い力がもう逃れることなど無理なのだと知らしめる。
絶望に支配させられ、力を失った私の口が、まるで操られるように勝手に言葉を紡いだ。
いつもと変わらない街で、噂がゆっくりと広まっていた。
『この街のどこかに、思わず振り返るほどの美人がいる。
彼女が視界にはいると無性に話しかけたくなり、そして話しかけるとつきあいたくなる。
そんな彼女を見つけたら、欲望のままに「つきあいたい」と欲すればいい。
そうすれば、必ず「OK」と返ってくるだろう。
彼女は、決して、逆らわない』 |