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手紙

憑木影

 

 拝啓 斉木美奈子様
 突然このような手紙を受け取って、あなたはどう思われるでしょうか。あるいはたちの悪い悪戯だと思い、怒っておられるかもしれません。
 何しろあなたにとって私は死んだはずの人間なのですから。
 私はあなたにとって、一体どういう人間だったのでしょうね。恋人、それとも友人、もしくはただの同僚でしょうか。
 あなたにとって私がどういう人間であったかは、今となってはよく判らないことです。でも、私にとってあなたがとても大切な人であることは間違いありません。あるいは愛以上に、深い感情を抱いているといっていいでしょう。
 だから。
 そうであるからこそ、こうして手紙を書いています。本当にこの手紙があなたに届くのか、自信があるわけではないのですが。何しろ私とあなたの間に横たわるのは、死という名の深淵なのですから。
 前置きが長くなってしまいました。
 そろそろ用件に入りましょう。
 あなたは目覚めなければならない。その深く果てしのない眠りから。
 そのためには、魔法使いと会う必要があります。

 暦の上ではもう春だとはいえ、山上の空気は十分冷たかった。屍衣のように純白のコートを身に纏ったその男は、ゆっくりと木立の間を歩いてゆく。その右手にはアタッシュケースが提げられていた。白いコートは穏やかな春の日差しを受け、深緑の宇宙を渡ってゆく月のように輝いてみえる。
 唐突にその建物が現れる。山奥深い、観光地から少し離れた場所に、その奇妙な館はあった。林に囲まれたその大きな館は、知らずに見ると夢の中にだけある幻影が突然現実に現れたように思える。
 かつて大富豪が別荘として建てたといわれるその館は、豪華客船を模して造られていた。山中の森林という純緑の海を渡ってゆく巨大な船ということらしい。
 甲板に立った白衣の彼は、その大きな建物を見渡す。建てられたのは随分前のはずだが、緩やかな曲線をもつ結構瀟洒な外観を持っていた。ただ、建てられた時にはおそらく洗練されたデザインだったのかもしれないが、長い年月がある種の風格のようなものをあたえている。
 そう喩えて言うなれば。
 深緑の海底に沈んだ難破船とでもいうような。
 その死にも似た静寂を纏った建物の甲板を、彼はゆっくりと歩んで行く。風もとまり空気は重く淀み、陽の光さえなぜかここではくすんで見えた。あたかも緑の海底のように。
 彼の前には、巨大な扉が聳えている。頑丈そうな木材で造られたその扉は、巧みな螺旋模様の彫刻がなされていた。どこか呪術的結界のように来るものを拒むような、重々しさがある。
 彼は、静かに、そう恋人の手に触れるようにそっとその扉に手をかけた。青白い呪術紋様が浮かび上がり手と扉の間に一瞬火花がはしる。彼は白いコートのポケットから手のひらに収まるサイズの携帯端末を取り出すと、片手で操作した。その小さなディスプレイに呪術紋様が浮かび上がる。それと同時に扉の表面に浮かんでいた紋様が、光を発して消滅していった。彼は再び扉に手をかける。
 溜め息のような音をたてると、扉はゆっくりと開いていった。

 窓の外では雨が降っている。空は重苦しい雲に覆われているらしく、朝のはずなのに陽の光は差し込んでこない。私は深海のように重苦しい水に閉じ込められたその部屋の中で、手紙を読みえた。
 私は、その手紙をデスクに置くと溜め息をつく。もうかれこれこのホテルに閉じ込められて一週間になるだろうか。外部との連絡手段はコンピュータを利用した通信と手紙だけだ。
 奇妙なことに、ここには電話回線が引かれていない。特別にアンテナを建ててもらい、研究所のサーバへは無線LANによって接続できるようにしてはいるが。まあ、観光地から少し離れた山の中はそんなものだということか。
 色々な事務的な連絡は、毎日配布される宅配便によって行われている。その事務連絡を記述した書類の束に混じって、その手紙はあった。
 私の同僚であり、そして友人である、もしくは恋人であったかもしれない男、田端秋夫からの手紙。秋夫は事故で死んだ。
 私たちの働いていた生物化学研究所。色々な安全保障上の問題から人里から遠く離れた山奥に造られたその研究所はある事故によって、新種のウィルスに汚染されてしまった。そのウィルスに冒された秋夫は死んだ。逃げ延びた私は、その研究所の近くにあるこのホテルへ逃げ込むはめになった。
 ホテルといっても元々うちの会社の保養所のようなものであり、一般客が訪れることはほとんどない。本来夏場の限られた時期にのみ営業するホテルなので、春先の今の時期は私達避難してきた所員以外の客はいないし、スタッフも最低限の人数しか働いていなかった。
 豪華客船を模して造られたというこのホテルは結構ユニークな造りになっており、一般開放すれば意外と客は入るのかもしれない。でも、観光地から離れたこの場所では難しいのだろう。
 そもそもこのホテルはある大富豪が、別荘として建てたものだ。元々の持ち主が死んだのちに、ホテルとして造り直されたらしいがそう長い間営業されることもなく閉鎖されたらしい。その建物をうちの会社が買い取ったということだ。
 事故のあった研究所から私達はこのホテルへと移された。私たちはこのホテルで研究作業は続けることができる。サーバと無線LANで接続されているおかげだ。
 けれど、ここから出ることは禁じられている。私達もウィルスに汚染されている可能性があるためらしい。
 私は手紙をもう一度手にとる。悪戯としてもひどく奇妙な内容だ。魔法使い。一体何のことだろう。
 私は溜め息をつくと立ち上がった。ホテルを出ることはできないが、この建物の中は自由に動くことができる。気晴らしに散歩でもしようと思った。

 白衣の男は、玄関を抜けてエントランスホールへ入る。エントランスホールはホテルのロビーらしく左右に受け付け用のカウンターがあり、そして中央には下方へ向かって降りてゆく螺旋階段がある。天井はガラス張りで、明るい日差しが輝く柱のように降り注いでいる。
 この建物は中心に大きな円形の吹きぬけがあるようだ。山の斜面に建てられたこのホテルは、最上階に入り口とエントランスホールがありそこより下に客室がある。
 白衣の男は再びポケットから携帯端末を取り出す。その端末を操作し、メールの文章を呼びだした。

 to 椿美智夫教授
 fm 田端

 事情があって電話で連絡をとることができません。何しろ電話線も繋がっていないような特殊な場所にいるもので。
 直接お会いしたときに詳しいお話をさせてもらうとして、とりあえず事のあらましだけを少し書いておきます。
 南極で見つかった未知の生命体の話はご存知でしたよね。私たちの研究所は前にお伝えしたようにその生命体を調べていました。そしてその調査に量子コンピュータを使用していたのです。
 そもそもそれが間違っていたことに気がつくのに、少し時間がかかりました。
 その代償を私たちは支払うことになります。
 ひとつの命を失うという形によって。
 私たちは魔法によって媒介してゆくウィルスを解き放ってしまったのです。そして、それを再び封印するためにあなたの力を必要としています。
 さて、本題にはいります。
 先日送っていただいた斉木美奈子の端末からのアクセスログを確認しました。事態はやはり私が想定していたとおりの状況になっているようです。椿教授、電子工学とオカルティズムの融合を試みられているという、あなたのお力を借りる必要があるようです。私のいるこのホテルへ来てください。
 このメールには三つの添付ファイルがあります。
 ひとつめは、私のいるホテルに入り込むためのキーとなるプログラムです。私はウィルスが外へ漏れるのを防ぐため、即席の魔法によってホテルを封じています。
 ふたつめは、私のいるホテルのある場所を示す地図と、内部の見取り図。
 みっつめは先日おつたえしたワクチンの仕様書となります。
                                        』
 白衣の男はメールにつけられた添付ファイルをひらく。ディスプレイに表示された見取り図を見ると、男は携帯端末をしまって歩き出す。
 中央の螺旋階段に囲まれた吹きぬけを覗きこむ。吹きぬけの最下部はホールになっていた。ちょっとしたコンサートがひらけるくらいの広さはあるだろうか。
 男はそのホールに黒い影をみた。薄くぼんやりと浮かぶ黒い影。男はふっと笑みを浮かべ、その螺旋階段から離れる。

 私は部屋を出ると、このホテルの中心にあるホールへ出た。螺旋状に上昇していく階段に囲まれた円形のホールは結構広い。四、五十人は入ることができるだろうか。
 この建物を建てた富豪はきっとここでパーティーを開いたり、ホームコンサートを行ったりしたのだろう。
 天井まで吹き抜けになっており、ガラス張りの天井から重い雲に覆われた空が見える。緩やかに湾曲する壁面には客船らしく丸い窓がつけられていた。私はその海底を思わせるほど重い静けさに満ちているホールへ向かって螺旋階段を降りてゆく。
 一階のホールへ私はたどり着いた。そこには決して現れる事のないであろう楽団を待つ、椅子が並べられている。私は椅子の一つに目を止めた。
 影が座っていた。
 いや、影のように漆黒のマントを身に纏った男が座っている。奇妙なことにその男に見覚えがない。今、このホテルには私たち研究所のスタッフしかいないはずなのだが。
 私は背後からその男へ近付く。私の気配を感じたのか、男は突然立ち上がった。そして私のほうを振り返る。
 彫りの深い端正な顔だちの男だった。男は軽く会釈する。
「こんにちは、斉木美奈子さんですね」
 私は頷く。
「私は、長曽我部元春といいます、あ、長ったらしい名前なんで元春と呼んでください」 
 私の怪訝そうな表情を見て、元春と名乗った男は笑みを浮かべる。
「田端さんから、手紙をもらったんでしょ」
 私は頷く。
「私ですよ、魔法使いっていうのは」
「あなたがあの手紙を」
 元春は手を上げて、私の言葉を遮った。
「田端さんに会いたくないです?」
 私は幻惑を感じた。
「会えますよ、魔法を使えばね」
 私は首を振る。
「魔法なんて無いですか? でも、あなた達ですよ。悪魔の封印を解いたのは」
「南極で見付けたあれを言っているの? あれはただの翼竜です。ウィルスに冒されて変形していたけれど」
 元春はどこか皮肉な笑みを見せる。
「四肢は人間にそっくりでも?」
「ただの奇形です。それにしても、なぜそんなに詳しいんですか?」
「田端さんに、聞いたんですよ」
 元春は真っすぐ私を見つめた。
「あなたはあれを本当に、翼竜の死体と信じていますか?」
「あれは」
「でもあなたは」
 元春はマントの内側から水晶の球を取り出す。無数の虹を閉じ込めたように輝くその球体は私の心を吸い込む。
「夢を見たのでしょう」
「ゆ、め ?」
 突然。
 私は水晶球の中にいた。
 空気は結晶化し、硬質の輝きを放っている。それらは無数の星となり、銀河のきらめきをみせながら闇の中へと砕け散っていく。そして闇が降りてきた。
 私は闇の中にいる。
 四方は黒い巨大な山脈に囲まれていた。そして、足元には生き物のような炎が渦を巻いている。それは触れるものを死滅させる深紅の竜たちだ。
 空は灰色の雲に覆われている。その雲の切れ目から刃に切り裂かれた傷痕のように赤い空が見えた。その灰色の空の下。巨大な黒い影がある。
 聳えたつ漆黒の塔。
 しかし、それは人の姿をしている。そしてその背には、竜の翼があった。そう。まるで私たちが見た、あの氷河の底から現れた死体のような。
 空の果てから無数の光が飛来してくる。私はそれが何か知っていた。なぜなら、それらは嘆きの歌を歌っているからだ。
 それらは死せるものたちの魂。
 それらは、私の目前に立つ闇色をした巨人に呼ばれた者たちだ。嘆きの歌を放つ光は深紅の竜へ、飲み込まれてゆく。
 そして、闇が。
 傷痕のような口を開いて。
 笑った。
 天空高く。その最も高い天頂に。白い影がみえる。
 どこか凶悪な殺戮の気配を持つ。死滅の天使のような。
 そしてその白い影が光につつまれ。
「どうです、斉木さん」
 唐突に幻影が消えた。目の前には笑みを浮かべた元春がいる。
「今のはいったい」
「魔法ですよ。といってもたいした魔法じゃない。意識の蓋をあけただけです」
「私の意識?」
「まあそうです。魔法とはね、意識の蓋をあけるようなものです。そこには死者がいたり、悪魔がいたり、天使もいたりするわけで。つまり、私はあなたの心奥深くから死者を呼び出すことができる。で、どうします?」
「え?」
「田端さんに会いますか?」
 私は無意識のうちに頷いていた。元春は満足げに笑みを浮かべる。
 そのとき。
 私は何かぞくりとしたものを感じ、振り向く。
 ホールを取り巻く螺旋階段の最上方に、白い影がいた。薄く陽炎のように揺らぐ白い影。私はなぜかその影から凶悪な気配を感じた。白い影はじっと私たちを見下ろしているような気がした。
 ふっと、影が消える。
「今のは」
 私の問いに元春は苦笑のような笑みを浮かべて答える。
「このホテルは古く特殊な場を造っているんですよ。それで、色々なものが呼び寄せられてくる。まあ、気にしないほうがいいでしょう。では行きますか」
 私は眼差しで問い掛ける。元春はにこやかに答えた。
「私の部屋ですよ。降霊術の支度がしてあります」

「悪魔の封印を解いただと」
 その窓から差し込む光をうけ薄く輝いている白衣に身を包んだ男は、薄く笑う。おれは肩を竦める。
「まあ、ものの喩えだよ。やっかいなことが起こったのは確かなんだけどね」
 男は冷たい眼差しで、おれを見る。
「田端さん、長曽我部を雇ったんだろう」
 おれは頷く。
「ああ。けれど今回の件は特殊だからね。彼に聞いたんだ。自分に何かあったときにはあなた、椿美智夫さんに頼めとね」
「やつは十分有能な霊能者だ」
「そうはいっても、とり憑かれたのがコンピュータだからねぇ」
 椿は苦笑を、冷たい美貌に浮かべる。
「悪魔にコンピュータが憑かれることはない」
「だから悪魔はものの喩えなんだって。ウィルスだよ、とり憑いたのは」
 椿は肩を竦める。
「それなら私の専門外だ」
 おれは溜め息をつく。
「まあ、全体的に馬鹿げた話なんだけどね。今回おれたちの使っていたのが量子コンピュータというのが間違いの元だった」
 椿は冷たく言い放った。
「量子コンピュータもアルゴリズムに差異があるだけで、本質的には」
「量子的重なり合い状態を利用しているため平行して処理ができて高速化されるだけで、電磁気的なビットのオンオフだけで動作するという点は同じ。そんなことは専門家のおれが一番よく知ってる。まあ、聞きなよ」
 椿は肩を竦めた。
「問題はその量子的重なり合い状態というやつでね、結局のところ人間の頭の中と量子コンピュータの中でおきているのは、よく似たことといってもいいんだ。つまりはこういう事だ。どちらも量子的重なり合い状態が存在し、そこから収縮することで思考を行う」
 椿は片方の眉をあげる。少し馬鹿にされてるような気がした。仕方がない。そういうことが起こっているのだから。
「あんただってシュレディンガーのニアダイキャットくらい知ってるだろう。量子的重なり合いとはつまり死んでいる猫と生きている猫が重なり合っている状態。収縮するというのは生か死が決定されるということ」
「単純化しすぎた説明だが、いいたいことは判る」
 椿は薄く笑った。
「あんたの恋人、斉木美奈子はシュレディンガーの猫というわけだな」
「そうだ。量子的重なり合いから収縮へ向かうには、ある力が介在する。その原理は不明だけれど某かの力が介在するのは間違いない。カオスから秩序へ向かう複雑系として表象されるような力。エランヴィタールとでも喩えるしかないような」
 椿は笑った。
「そんな喩えじゃ、ベルクソンが泣くぞ」
「泣かしとけ。おれたちの相手にしているは哲学者ではなく悪魔だ。エランヴィタールを食い尽くし量子的重なり合いからの収縮を疎外する悪魔」
「量子コンピュータも悪魔に食われたというのか」
「そうだ」
 おれは椿の右手を見る。
「で、頼んだものはできてるよな」
 椿は頷くと、アタッシュケースを開いて見せる。そこに収められては、ノートパソコンだ。
「心霊的なロジックを持ったワクチン。私にしても初めて作ったものだ。保証はできないが」
 おれはノートパソコンを起動すると、ソースコードをざっとチェックする。
「十分だ」

 私は元春の部屋へ入る。部屋の造りはどこも大体同じだ。ただ元春の部屋はベッドが取り除かれており、代わりに大きなテーブルが置かれている。窓は分厚いカーテンで覆われており、部屋は薄暗い。まあ、カーテンがなくても雨に沈んでいるこのホテルには薄闇が満ちていたが。
「そもそも、魔法というものはね。降霊術なんですよ」
 元春は機嫌よくしゃべり続けている。
「ジョン・ディー、スウェーデンボルグ、それにあのアレイスター・クロウリーといった歴代の魔法使いが何をやっていたかというと、とどのつまりは降霊術なんです。そもそも降霊術、て何か判りますか?」
「死者を呼び出したり、そういうのじゃないですか?」
「うーん」
 元春は少し首を傾ける。
「死者に限定すると少し違うかな。悪魔や天使、精霊。様々な異世界の存在と交信を行う。現代でもウィッチ・ドクターやジャングルの奥地に住むシャーマンは異世界との交信を行っています。つまりアルターな世界との接続」
 元春は喋りながらセッティングを始める。テーブルの上に、ノートパソコンを置くと起動をかけた。無線LANのアンテナが立てられているのを見ると、ネットワークに接続されているようだ。
「人間の頭の中にはね、量子的重なりあいが存在するという説がある。つまり元々人間の頭脳はアルターな世界へと繋がる可能性があるんです。しかし重なり合いが収縮することにより、意識は現実へ接続される。収縮が阻害されると、どうなると思います?」
「それが魔法と仰るんですか?」
「多分、統合失調症のような病も似たような現象だとは思ってるんですけどね。あくまでも想像にすぎませんが。脳は色々な平行世界へと繋がる可能性を持っている。思考すると同時にそれは単一の世界へと収縮する」
 ノートパソコンの画面に五芒星の画像が浮かび上がる。そこには様々なルーン文字の呪文や絵文字が書き込まれていた。魔法陣と呼ばれるものなのだろうか。元春はそれを見て、満足げに頷く。
「さて、死者の世界もそうしたアルターな平行世界のうちのひとつ。で、これからこのノートパソコンを死者の世界へと接続しようと思うのですが」
 元春は、液晶ディスプレイの上部にテレビ電話システム用のカメラを接続する。そして、ヘッドホーンとマイクが一体化したヘッドセットを私に手渡した。
「この降霊システムは私の友人、プロフェッサー椿の考案したものなんですけどね、使ってみてください」
 私はそのヘッドセットを装着する。
「魔法というのは本来言語をウィルスのように作用させ、アルターな世界との接続を実現するものですが、あなた方は困ったものをこの世にもたらした」
 私は元春を見る。元春はにっこりと私に微笑みかけた。
「あなた方が、南極で見つけたあのウィルスですよ」
 突然。
 ノートパソコンにウィンドウが開き、男性の顔が表示される。それはよく知っている男の顔だった。
『よう、美奈子』
 男の言葉に息をのむ。
「秋夫なの?」
『やっと話ができる』
「ちょっとまって。一体これはどういうこと?」
 いくつかの可能性が考えられる。もっともありそうなのは
『そうじゃないぜ』
 私の考えを読んだような言葉に、私は息をのむ。
『おれの画像と音声を合成し、実際に喋っているのは別の人間。そう思ったんだろ。まあそう思うのは無理もないよな。何しろ君はおれの死体を確認したはずなんだから。多分』
 秋夫は、皮肉な笑みを見せる。
『おれが、君の死体を確認したようにね』
「一体何を言っているの?」
『君だって、コペンハーゲン解釈が何か知っているだろう。平行世界は生と死が同時に存在する状態を作り出す。そのどちらかに収縮させるのは』
「観測だっていうの? まさか」
『そうだ。おれたちが見つけ出したウィルスはその収縮を阻害する』
「でも」
『どちらに収縮するかは、つまり死んだのがおれか君か、それは誰が決定するのかということだろう』
「そうよ。あなたはあなたの平行世界にいて、私は私の平行世界にいる。どちらも、現実のはず」
『そうだといいたい。だが、残念ながらそうじゃない』
「どういうこと?」
『君の世界は、収縮していない。君の端末は多重のアクセスを行っている。同時に何人もの君がアクセスしているようにね。君は、一意に収縮できない世界に存在している。それに』
「それに?」
 秋夫は不思議な笑みを見せる。
『見たんだろう、夢を』
「ゆ、め ?」
 画面が歪み、無数の色彩が乱舞し始める。
 私の周りに紅蓮の輪が生じた。全てを蹂躙する炎の輪。その輪は次第に広がって行く。
 闇色の空が落ちてきた。

 白衣の男は、その部屋へ入った。
 誰もいない部屋。
 カーテンによって窓は覆われているが、その隙間から陽ざしが幾筋か差し込んでいた。
 中心に大きなテーブルが置かれている。そして、そのテーブルにはノートパソコンが置かれていた。そのディスプレイには時折女の顔が浮かび上がり、それが消えると男の顔が浮かび上がる。
 白衣の男はテーブルの前に立つ。テーブルの向こう側に影がある。その影がじっとこちらを見つめていた。
 白衣の男は、影に語りかける。
「長曽我部だな」
(やあ、椿さん)
 その声は椿の心の中に直接響く。
「なんという様だ。霊能力者が霊となるとは」
(いやあ。それにしてもコンピュータに悪魔が憑くなんて、完全に僕の守備範囲外ですもの)
 椿はテーブルにアタッシュケースを置く。そこからノートパソコンを取り出した。
「そんなものが守備範囲になる人間なんていないさ」
(そりゃそうですけどね)
 椿はケーブルでパソコン同士を接続してゆく。そして、自身のノートパソコンを起動した。
「始めるぞ」
 影は頷くと、薄闇の中へと消えていった。

 闇が。
 巨大な闇が私の前に聳えている。
 高層ビルのように大きな闇。
 竜の翼を背にもつ巨人。傷痕のような口が笑う形に歪んでゆく。
 炎の竜たちが私の周りを乱舞する。その狂気の舞踏は大地を嘗め回し、焼き尽くしていった。獰猛な火焔のメエルシュトロオムが私の周りを蹂躙している。
 空は鈍い灰色だ。
 灰色の空には真紅の亀裂が蜘蛛の巣のように、巨人を中心にして走っている。私は巨人を見上げた。そして、巨人も私を見つめている。
 その遥かな高み。
 そこを目指して、幾すじもの光が走ってゆく。
 嘆きの歌を放つ、死滅した魂。
 その魂たちは流れ星となり、巨大な漆黒の影へと吸い込まれる。
 私は、見た。
 その頭上に、白い影が現れるのを。
 終わりの時を告げるために降臨した大天使のように。
 白い影は、巨人の上に現れる。
 その手にした鞄が、ゆっくりと開かれた。
 そこから闇が、溢れ出す。
 私たちは、闇に飲まれた。
 静かで永劫の闇。

 おれは、自分のパソコンからリモートでワクチンの実行結果を確認すると、ヘッドセットをはずす。一夜漬けに近い形で作ったワクチンだったが、なんとかなったらしい。
 おれは溜息をつくと、自分のパソコンを終了させる。
 おれは友人を、同僚を、あるいは恋人を永遠に失った。それが正しいことかは判らないが、おれたちの解き放ってしまった悪魔を封印するにはそれしか方法がなかったのは確かなことだ。
 突然。
 どさり、と部屋の外で音がした。
 おれはドアをあける。いつものようにホテルへ宅配便で配達される書類の束がついたようだ。書類の束を拾いあげると部屋へ戻る。おれは、その書類を仕分けて行くうちに、ひとつの封筒に目をとめた。
 差出人はこう書かれている。

 斉木美奈子。

 おれは封を切ると、手紙を読んだ。

 拝啓 田端秋夫様
 突然このような手紙を受け取って、あなたはどう思われるでしょうか。あるいはたちの悪い悪戯だと思い、怒っておられるかもしれません。
 何しろあなたにとって私は死んだはずの人間なのですから。
 私はあなたにとって、一体どういう人間だったのでしょうね。恋人、それとも友人、もしくはただの同僚でしょうか。
 あなたにとって私がどういう人間であったかは、今となってはよく判らないことです。でも、私にとってあなたがとても大切な人であることは間違いありません。あるいは愛以上に、深い感情を抱いているといっていいでしょう。
 だから。
 そうであるからこそ、こうして手紙を書いています。本当にこの手紙があなたに届くのか、自信があるわけではないのですが。何しろ私とあなたの間に横たわるのは、死という名の深淵なのですから。
 前置きが長くなってしまいました。
 そろそろ用件に入りましょう。
 あなたは目覚めなければならない。その深く果てしのない眠りから。
 そのためには、魔法使いと会う必要があります。

 おれは口元に笑みが浮かぶのを感じた。これから起きるであろうことは大体想像がつく。おれは立ちあがった。魔法使いに会うために。

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