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天使の島

高本淳

 

 家々の軒をなぞるようにアダムはゆっくり双眼鏡を動かしていった。波静かな入り江にそうように教会を中心にして入植者たちの小屋が立ち並んでいる――一見穏やかな風景だ。しかし子細にながめてみるとほとんどの扉や窓が打ち壊され、うち数軒の壁が黒く焼けこげていた。本土からこの島への唯一の交通手段である船着き場とそれに隣接する広場は教会の陰に隠れて山頂からではみえない。そこに墜落した衛生局のオーニソプターが鐘楼をいただく屋根のむこうにわずかに翼の先端をのぞかせていた。
「隊長。本部とのコンタクトがとれました」
 アキツの声に彼は双眼鏡をおろしてふりむいた。彼が操作する通信装置のなかに見かけない若い女性の姿が浮かび上がっていた。
「どうぞよろしく。わたしはMDPOのエリカ・ウォン。都市連合評議会からこの作戦の指揮を一任されました」
 MDPO? なじみのない組織名と相手の若さにアダムは怪訝そうに眉根をよせたが、すぐいつもの職業的無表情にもどり科学技師階級をあらわす白いユニフォーム姿に形どおりの敬意をしめしつつ応えた。
「部隊長のアダム・シェリングです。よろしく、ウォン博士……」
「エリカでけっこう。あなたがたのような有能なスタッフの協力を得られて幸運と思っています。今回の任務の重要性はすでにご存じでしょう。残念ながら事件の性質上わたしたちのできることは離れた場所からの参考意見の提示に限られます。実際の活動にともなうリスクはすべてあなたがたが負わなければなりません」
「承知しています」彼は周囲で耳をすませているだろうアキツ以下五人の部下たちに聞かせるように答えた。「われわれはそうしたことに対処する訓練は十分つんでいます」
「わたしもそう聞いています――さて、現在のところ事態はかなり深刻な病理的クライシスと予想されます。わかっているのは一週間ほど前その島に未知の伝染病が発生したということ。病態に関する報告は錯綜していて何か進行しているのかはっきりとらえきれていません。しかし急激な身体組織の変形と精神的錯乱が伴った急性疾患であるのは間違いないようです。連合衛生局北米支部はこの疫病にコードネーム『ガダラ』を与え調査チームを派遣しました。しかし係員二名は到着してまもなく連絡をたってしまいました。昨日になって島の上空を飛んだ偵察機がそのうちのひとりからと思われる微弱な電波をキャッチしましたが確認する前に通信は途絶しました」
「ちょうどいま彼らの機を確認したところです――事態は衛生局の予想を超えていると理解すべきでしょうか?」
「なんとも言えません。ふたりのサポートスーツはあなたがたのものと同様、考え得るかぎりでの最上の防疫システムが組み込まれていました。しかしどんなに周到な準備を整えても人為的ミスによる生物汚染の可能性はゼロにはなりません。あるいは彼らは注意深さがすこし足りなかったのかも知れない。どうかくれぐれも慎重にふるまってください、シェリング隊長」
「アダムと呼んでください。もちろん――」重々しくうなずいてアダムはつづけた。「慎重にやりますよ。いまから偵察ロボットを送り出します。映像はリアルタイムで見ていただけるようになっています。なにか気づいた点やアドバイスがあったらどうぞ――カミンスキー、蚊トンボをスタートさせろ」
 昆虫のそれに似た半透明な翼を甲高い音とともに羽ばたかせておもちゃのようなロボットが木々の上をふらふらと入り江にむかった。軽量で華奢な機体が風にあおられて左右にふらつくたびにアダムはひやりとしたが、カミンスキーの操縦はいつものように的確だったらしくやがて手元のモニタースクリーンに村の家々が映し出されはじめた。
 双眼鏡で見て取ったようにそのうち何軒かは完全に燃え落ちていた。焼け跡のなかにちらりと炭化した人骨が見えたような気がしてアダムは目をこらしたが探査機の飛行速度が速いために確認することはできなかった。
「教会の屋根を越えて広場の上に出ます」
 つぎの瞬間、取り囲む部下たちが小さく息をのんだ。画面の中央にオーニソプターが巨鳥の死骸のように横たわっていた。羽ばたき式の翼は急角度にねじまがり、その影のなかにサポートスーツをつけた男の死体が手足を折りまげるようにしてころがっていた。
 沈黙のなかでエリカの声がした。
「……どうやら局員のうちひとりの消息は確認できたようです。何が起こったかはともかく――彼らには離陸許可はでていなかったはずです」
「つまり水際でかろうじて伝染病の拡大が防がれたということだな」あえて冷静な口調でアダムは言った。「とはいえそれをやった人間に特別褒章をやれそうもないが」
 それ以降の探索はこれといって付け加える成果なしにおわった。村は静まりかえって何一つ動くものの気配はなかった。仮に生存者が隠れ残っていたとしても表に出てくる力はないということかも知れない。その確認には家々を一軒ずつのぞいてみるほかないだろう――アダムは決断した。ロボットカメラはそのまま村の広場に下ろされ、死んだような家並みを映すだけになった画面から視線をひきはなすと彼は言った。
「まずあの墜落機の搭乗員の死体を調べてみよう。下りの山道では互いに十メートル以上間隔をあけてすすむこと。前の者を援護できるよう武器はいつでも撃てるよう準備しておけ――それじゃ、行くぞ」

*

 山頂から下る道は荒れていたが、たまに利用されるようで下生えに覆いつくされずにいた。山腹をくだるにつれ両脇の雑木林はしだいに開け、掘り出された切り株が傍らに積まれた耕作地らしきものも見え始めた。アダムたちがこの災害の犠牲者を最初に発見したのはそうした林道沿いに立つ一軒家だった。扉や窓は閉ざされていたが武器を構えた仲間に囲まれたジェイコブが慎重にノブをまわすと軽くきしみながらドアは開いた。
「だれかなかにいるか?!」声をかけ数秒待ってからアダムは部下たちに突入を合図した。入り口を入ってすぐの居間に人気はなく手づくりらしい質素な家具にうっすらと埃が積もっていた。最後に掃除をされてから何週間もたっている様子だった。部屋をねめまわすアダムに隣室からストロングの緊張した声が聞こえた。
 居間につづく寝室に入ると彼とアキツがベッドを囲んでいた。男がひとりうつぶせにその上に倒れている。ちらりと見ただけでもその姿はどこか異様だった。ためらっているふたりを押しのけアダムは間近に立った。着用している植民者風の衣服から見てこの家の主だろうか。
「エリカ。村に入る手前の小屋で男性の遺体を発見しました。全身がみょうな具合にねじれている」
「見えます。どうやら全身の骨格が変形しているようね。死体の姿勢をかえてみてくれますか? 前頭部を観察したいのです」
 彼が部下とともにうつぶせの男を仰向けたとたんにサミュエル・ストロングが息を飲みつつ思わず後ずさりした。
 鬱血で真っ黒に変色しもとの容貌を判別するすべはなかったが、それでも大きく傾斜した額や大きく張り出した頬骨は見分けられた。それらはどうひいき目にみても人間のそれとは思えなかった。くわえて頭蓋骨の左右が明確にずれていた。そのため頭頂部がむりやりねじ曲げられたように見えた。そもそも男の全身の骨格がそんな感じだった。
「……いったいここで何がおこっているんだ?」
 だれも答えられないうちにあきらかに恐怖の感情を押さえようとしているジェイコブの声が隣室から響きわたった。「隊長! きてください! 見てほしいものがあります」
 小屋の背後につながる扉のまえに青ざめた顔のジェイコブが立っていた。つね日ごろ敬虔かつ穏やかな彼がこれほど取り乱しているのは珍しかった。
「たぶんもうひとりの住人を見つけたんだと思います」
「たぶん……?」扉のむこうは台所で食卓をかねているテーブルのむこうでスツールに座るようにして壁にもたれた死骸があった。一目見てアダムは言葉を失った――誰にしろ恐怖と滑稽さを同時に感じるとき、その感覚をうまく表現することはできない。粗末な農家の台所のスツールに腰掛けたまま絶命しているのは、自分の目を信じるなら……ピーター・ラビットの母親うさぎだった。
「アダム――聞いてますか?」エリカの声に我に返った。目の前のものはリアルタイムで彼女も見ることができる。アダムはつとめて冷静に答えた。
「ごらんのとおりです」
「もっと近づいて観察させてください。興味深い症例です」
「――『興味深い』?」とつぜん感じた理由のない怒りといらだちがぎゃくに気持ちを奮い立たせた。アダムはためらう自分をはげましつつテーブルをまわると不気味なものの間近に立った。
 誰かが戯れにこしらえた等身大のぬいぐるみにすぎないと思いたかった。このあたりの住民が好んで身につける新大陸開拓時代風のレトロな婦人服の上に柔らかい茶褐色の体毛で覆われた獣の頭部があった。使い古されたスツールのうえに何気ない様子で腰を下ろしたその姿はこんな状況でなければたぶん微笑みをさそっただろう。しかし作り物でない証拠に力無く開いた口からはみでた舌はすでに腐敗変色してふくらみ、人間とは形の違った手の指にはよごれた鋭いかぎ爪がのびていた。
「ナノスキャンの必要があります」
 アダムはいつのまにか集まった部下たちを順に値踏みするようにながめた。アキツ、ストロング、ジェイコブ、デイビッド――どの顔も目撃したもののショックで視線がおちつかなかった。生体プローブを埋め込むようなデリケートな作業をまかせられそうもない。残る一人……過去の負傷で脳の半分を人工組織におきかえているカミンスキーは感情表現にとぼしく闘争心にいささか欠けるところはありながらその冷静な判断はつねに信頼できた。
「オーケイ、カミンスキー、手を貸してくれ」

*

 小屋の裏手の庭には花壇があり三つ並んだ真新しい盛り土の上にそれぞれ小さな十字架がたてられていた。この家の子供たちだろうか――まずまっさきに小さい者たちが病にたおれ、やがて両親もその後を追ったのだ。この奇病があんなぐあいにおぞましいメタモルフォーゼをもたらすのなら、わが子をみとる彼らはどんな思いだったか? しかしそうして佇むアダムの意図をエリカは完全に誤解しているようだった。
「子供たちの死体を掘り出すのは後にしましょう。いまは生存者の捜索が先決です」
「……了解。捜索を再開する」
 端末のスイッチを叩きつけるように切り替えるとアダムは部下たちをうながし歩きはじめた。
 前もって本部は詳細な地図を仕立てあげていたから以後道に迷うことなく半時間もたたぬうちにアダムたちは村の広場にたどり着いていた。
「――外側から破壊された様子はない。あきらかに人為的ミスによる墜落だ」アキツがオーニソプターの機体を調べながら独り言をつぶやくような調子で説明した。「合成筋肉に十分アイドリング時間を与えず飛び立つとまれにこうなる。よく言う『こむらがえり』ってやつです。バイオメカの強みで見かけほどのダメージはないからまた飛べるでしょう――それにしてもなんでこの衛生技師は仲間をおきざりにしてまでそれほど急いで飛び立とうとしたのかな?」
「ふん、臆病風にふかれたんでしょ?」
「ちがうな。デイブ」
 アダムは構えていた銃を背中に回すとかがみこんで間際まで見下ろしていた足下の死体を調べはじめた。持ち主が死んだために疑似生命を持つスーツは生き生きとした表面の色を失いすでにその活動を停止していた。しかし一見してはげしい損傷を受けた様子はなかった。
「この男は墜落の衝撃で死んだわけじゃないようだ」
 死体をあおむけると砕けたフェイスプレートのなかいっぱいにこびりついた血痕が赤黒く固まっていた。
「機から這い出したところを撃たれたんだ――あわてて飛ぼうとしたのはたぶん武器を持った何者かに追われていたためだ」
「衛生局はヘルメットを撃ち抜くほど殺傷力の高い銃器は持ちこんではいないはずです」エリカの声が言った。
「このあたりにもたまに海賊がやってくるからな。村人も自衛のための武器を隠し持っていただろう」
 彗星核による衝突の冬以降、長いあいだ人間社会は弱肉強食の掟に支配されていた。そして旧世界が過剰に生産し蓄えていた各種武器は諸国家の崩壊の後はあらゆる土地に散逸した。いまだにそれらの武器を大切に使いつづけている孤立した集団も数多くあった。
「気にいらねえな。まだ軍用ライフルを持ってそこらをうろついている奴がいるかもしれないってことじゃねえか」
「そのとおりだ。デイビッド。だから無駄口をたたかず周囲に目をひからせていろ――錯乱したうえに銃を持っているとしたら少々やっかいかもしれん。もっともまだ生きていればの話だが……」
「もしそうならここで何が起こったかについての貴重な証人です。なんとしてでも無事に保護していただきたいですね」
 もれそうになった呪詛の言葉を飲みこみ部下たちに向きなおると何食わぬ口調でアダムは言った。
「みんな聞いたな。誰であれ生存者に出あったら身柄を安全に確保することをまず優先するんだ」
「なこと言ったって……相手がいきなりぶっぱなしてきたらどうするんです? 遠回りに取り巻いてみんなで愛の歌でも歌って聴かせますか?」
「ああ、必要ならそうすることになるだろう」そう言いながら油断なく銃を構えつつアダムは言った。「あとは成り行きで各自最善と思える行動をとれ――おれにも先の見当はつかない。さて……まずは目と鼻の先にある教会を調べるぞ」

*

「ああ、ああ」
 ジェイコブがあえいだ。
「こりゃひでえ。――神様!」
 アダムは背後から大柄な黒人の腕をそっとつかむと言った。
「ジェイコブ、おまえは外を見張っていろ」
 教会の内部はひどいありさまだった。ほとんどの内装がはぎ取られ、むき出しにされた壁に赤黒く乾いた血で涜神的的な言葉が書きつらねられていた。
「いやはや、なんてことだ……」
 表によろめき出ていったジェイコブに代わりこんどはデイビッドが呆然とした表情で進み出た。彼の目は魅せられたように祭壇の上を凝視している。遠目には解体されかけの家畜の身体に似たものがそこに置かれていた。
「デイブ、あまり近づくな」
 アダムの声にびくりと立ち止まり、我にかえった様子で彼は振りむいた。ちらりと舌が乾いた唇をなめた。
「犯罪現場を不必要に踏み荒らさないようにしろ」
「……はい、隊長」
 うなずきながらもいまだデイビッドは抗しがたい力で邪悪な暴力の中心に引き寄せられているかのようだった。
「ここはもういい。カミンスキーだけ残り他の者は別の部屋をしらべるんだ」
 なんとも言えぬ表情でふりむきつつ部下たちが礼拝所の左右の扉に消えるのを見送ったのちアダムはおもむろに尋ねた。
「どう思う?」
 灰色の瞳にほとんど表情を浮かべることなく周囲の床を詳細に調べてまわった後、カミンスキーは静かに答えた。
「争った形跡はありませんね。この女はこうなる前に意識を失っていたか、あるいはすでに死んでいたんでしょう」
「だとしたら後者であることを望むね」
 さすがに血の気の失せた面もちでアダムは祭壇の上の犠牲者をながめた。若い女性――薄い眉や黒ずんだ乳首が妊娠の兆候をしめしている。あの小屋の住人のような身体の変形はみられない。だがその喉元から下腹までを何者かが一直線に切り裂き、臍の緒ごと胎児を両脚の間にひきずりだしていた。
「もうすこし近づいてください。詳しく見たいので」
 不意にエリカの声がした。これを冷静に観察できるというなら――アダムは作戦責任者の人選をおそまきながら認めてもよいと思った。
「通常なら八ヶ月前後。ただし人間の胎児とは思えないほど変形しています」
「例の夫婦と同じ症状ですね」
「しかし母体はごく正常にみえる」
「隊長、わたしの見るところこれは狂信的な悪魔崇拝者のしわざです」
 カミンスキーは周囲の壁の血文字を見回しながら言った。
「しかし信心深いはずの入植者たちがなんで……?」
 イヤフォンに遠慮がちな咳払いがひびいた。
「意見を聞いてもらえますか?」
「もちろん……アドバイスはいつでも歓迎します。エリカ」
「教会内部のありさまから見て『ガダラ』が村全体を汚染したことは確実と思われます。もし生存者がいるなら捜索の時間は限られると想定すべきでしょう。われわれとしては可及的すみやかなる保護を望みます」
「遠回しな言い方はやめて、具体的になにを?」
「部隊をふたつにわけて効率よく捜索を行ってほしいということです」
 しばし逡巡したあとため息をつきアダムは答えた。
「わかりました。ご要望どおりにしましょう」
「しかしそれでは各自のリスクが増します。隊長」
 カミンスキーの反対をアダムはおしきった。
「だが彼女の言うことももっともだ。衛生局員の生き残りを救うにはたぶん時間的な余裕はそれほどないだろう……」
 彼は無線を切り替え全員に告げた。
「捜索を手早くきりあげろ。五分後に表の広場に集合」
 各自の復唱のあと遅れてひとりストロングから了解の連絡がはいった。
「どうした? サム?」彼は相手の荒い息づかいに眉をひそめた。「気分が悪そうじゃないか?」
「すいません。隊長。ちょっと寒気がするんです」
「寒気だと? ――いまどこだ?」
「鐘楼へ上る階段の途中です」
「カボチャ頭め……作戦前のミーティングで確認した事柄を忘れたのか? いますぐ降りてこい!」
 数分後彼が姿をあらわしたとき、若者のおぼつかない足取りにアダムは事態の深刻さを悟った。
「どんなぐあいだ?」
「申し訳ありません。あまり芳しくないみたいです、隊長」
 答えて進もうとした彼の膝の力ががくりとぬけた。へたりこんだ部下のもとに駆け寄るとアダムは相手を抱きかかえた。
「スーツの表示ではかなり熱があるな」
「ちくしょう! やっぱり感染したんだ!」
「おちつくんだ、サム。結論をいそぐんじゃない。――みんな聞こえるか? すまん、手をかしてくれ」
 祭壇からいちばん遠いベンチに若い兵士を横たえたアダムはふたたび本部に連絡をとろうとしたが、エリカはすでに一部始終を見ていたらしい。
「うっかり尖ったものでスーツのシールドを破ったりなどしていませんね?」
「何も覚えはないそうだ」
 エリカはため息をついた。
「それなら感染の可能性はちょっと考えられない。サポートスーツのフィルターは5ナノメートルの大きさの分子までカットできます」
「それじゃなんで発熱したんです?」
「わかりません。このクライシスの正体がはっきりしないかぎり何事も断言はできない」もう議論は打ち切りだというきっぱりとした口調でエリカは言った。「いずれにせよ今できることは多くありません。彼はここに残しあなたがたは村の調査を続けたほうがいい。容態は常時こちらでモニターしているから心配はいりません」
 アダムは本部との単独通話モードになっているのを再度確認してから言った。
「しかしもし彼が『ガダラ』に感染していたら――われわれすべてに同じ危険があるということだ」
「仮にそうだったとしてもいまは手の打ちようがありませんよ。わたしたちにはほとんどこの病についての知識がない。それを補えるのはあなたたちだけです」
 奥歯から絞り出すように了解のむねを伝えると彼は部下たちにむきなおった。
「可哀想だがストロングはここに置いていく。これ以上人手を割くわけにはいかないからな。まんいちに備えて銃をわたしてやれ。サム――ひとりで大丈夫だな?」
「大丈夫です。隊長、……問題ありません」
 その言葉とは裏腹な心細げな若者の表情にあえて微笑みかけてアダムは言った。
「よけいな心配はするな。任務の前に誓いあったことを思いだすんだ。おれたちは全員そろって帰還する――さ、みんな。仕事をつづけるぞ」

*

 教会を中心に東西ふたつの方向にむかってアダムたちはしらみつぶしに家々の調査をおこなっていった。さまざまな場所で彼らは村人たちの変わり果てた遺体を目撃しあらためて慄然とした。多くの者がまるで雑多な動物をでたらめに継ぎ合わせたキメラのように見えた。一方でなぜかこれといった身体的変化の見られない村人もいた。しかしそうした遺体もナノスキャンにかけると脳組織の大幅な変化が見られた。アルツハイマー症患者の脳との類似性をエリカは指摘した。すみやかに失われていく記憶に加えて周囲の人々が異形の怪物へと変化していく状況。これらの患者が激しい恐怖とパニックにとらわれたとしても何ら不思議はなかった。焼けこげた家や遺体の損傷の程度からも村人たちが互いに激しく争った様子がうかがえた。
「進化しているんだわ……」
 ようやく入り江の端にたどりついたアダムにそうつぶやく言葉が聞こえた。
「なんですって? エリカ?」
「ああ、ごめんなさい。会話スイッチが入っていた――しかたないわね。これはまだ検証されていない仮定の話なのでそのつもりで――どうやらこの村を襲った病原体はその性質をどんどん変化させているようなのです」
「どうぞもう少し詳しく」
「スキャンされた遺体を推定死亡日時順に並べて分類してみたのです。すると組織の変形の激しいものほど早い時期に死亡していることがわかりました。これは病原体が人間の身体に急速に適合しつつあるということを意味します。はじめのうちはそれは人体や器官をやたらいじくり回す結果宿主は死に病原体も共倒れになってしまう。でも後のほうでは感染した村人は身体組織そのものの著しい変形は見られません。変異は主として生殖細胞でひきおこされ宿主は生き延び奇形は次の世代にくり越される。この病原体は後になるほど人間という種をより効率的に利用するよう適応進化しているのでしょう――猛烈なスピードでね」
 アダムはうなった。
「それが正しいとしたら衛生局員のかたわれがいまだ生きながらえている可能性は大きいな。たぶん彼はいちばん新しい感染者だ……最終的に『ガダラ』はどんな影響を与えると思います?」
「はっきりと言い切る自信はありませんが中枢神経系が冒されることで人格の激しい変容が引き起こされるようですね。抑制心が失われ欲望のままにふるまうようになる。あの教会の内部の様子を見れば想像がつくでしょうが」
「身体を獣へと変えかつ心の奥底に秘められた魔性を引き出す……『ガダラ』の名前は奇しくも当を得ていたわけだ」
 とつぜん回線に緊急通話がわりこんできた。「失礼。部下からです」数秒間耳をすませた後アダムは言った。
「どうやらその生き残りが見つかったらしい。村の反対側です」
 入り江をぐるりとまわるのに十数分を要した。村の広場を通りぬけるとき彼は大儀そうに教会の表に顔をのぞかせたサムに声をかけた。
「寝ていなくて大丈夫か?」
「まだすこしふらつきますが、だいぶましになりました。生存者がいたそうですね?」
「ああ――しかしおまえは一緒に来なくていいぞ」
 広場に置かれていた偵察ロボットが不意に息をふきかえし、はばたきながらアダムたちの向かう方向に飛び去っていった。若者は小さく歪んだ笑いを浮かべた。その表情を作戦に参加できない無念さととらえたアダムは言いふくめるように命じた。
「別命あるまでここで待機しているんだ。気持ちはわかるがおとなしくしていろ」

*

 一軒の半ば崩れた家を物陰に身を伏せた部下たちが取り囲んでいた。カミンスキーはひとり離れ偵察カメラのコントローラーを操作している。デイビッドに小屋の向こうへ回るよう命じたあとアダムはジェイコブに這いよると声をかけた。
「怪我はなかったか?」
「近づいたらいきなり撃たれたんです。こいつに当たらなかったらアウトでした」脇腹ぎりぎりの縁に銃弾の食い込んだ防弾チョッキを指し示して彼は答えた。「神のご加護ってやつです」
 部下の肩をたたきアダムはつぎにディスプレイゴーグルをかけたカミンスキーのそばに移動した。
「内部の様子は?」
「――生存者一名は家の西側の部分に立てこもっています。ちらりと見たところやはり衛生局員の片割れのようです。さっきまで屋根の焼け落ちたほうにいたんですが蚊トンボが飛んでいるのを見てそちらに移動しました。それからぜんぜん姿を見せません。取り囲まれているのを知っているくせにまるで動かないところを見るとかなり弱っているのかも知れません」
「そんな様子だったのか?」
「赤外映像でみたところ体温は高いようです。動きも若干緩慢でした。あるいはひどくクールなやつでわれわれをワナにかけるつもりかもしれませんが」
「どのみちただひとりの生存者を撃ち殺すわけにもいかん」彼は空をちらりと見上げて言った。「日が暮れると面倒なことになるな。多少の危険は覚悟する必要があるようだ」
 彼は本部のエリカに聞かせるように言った。
「――これから説得と救出のためにあの家に入るつもりだ。もし相手が撃ってきたら応戦しろ。しかしこちらからは撃つな。わかったな?」
「アダム? 生存者保護のため万全の努力をしてください。ただし無茶はだめです」
「わかっています。うつ手はありますよ……カミンスキー、おまえの蚊トンボを家のなかにつっこめるかな?」
「……できると思います」
「相手は監視されることを嫌ってロボットのカメラアイを狙うはずだ。その隙におれが内部に突入する」
「悪くないかも知れませんね」
「わたしもご一緒させてください」アキツの声がわってはいった。
「……いいだろう。だがタイミングを逃すなよ」
 彼がカミンスキーにうなずくと家の上を旋回していた偵察ロボットが翼をひらめかせつつ方向を変え、二度三度弾みをつけるようにしてからいきなり高度をいっきに落とすと家の中に姿を消した。
「いまです! やつは蚊トンボを撃とうとしています」
 アダムは隠れていた茂みを飛び出すと家までの数十メートルを一気につっぱしった。いきなり銃声が数発とどろき一瞬ひやりとしたものの、かまわず彼は走り続け、そのまま壊れた戸口から飛び込んだ。
 彼がそうして焦げくさい食器棚の背後に身を伏せ、つづいて来たアキツがストーブの横に陣取るのと同時におそまきながら数発の弾丸が彼らの脇の空気を切り裂いた。
「撃つな! おれたちは敵じゃない! あんたを助けにきたんだ」
 アダムは薄暗い家の奧に向かってどなった。
「言っていることがわかるか? おれたちは味方だ」
 かなり長いあいだ暗がりに潜む相手からはなんの反応もなかった。しびれをきらしたアキツがそうっと首をのばしかけた時、ふたたび銃声がしてストーブの鋳鉄の表面で激しく火花が散った。彼はあわてて身をふせると毒づいた。
「聞いているのか? おれたちは敵じゃない! ここには誰もあんたを傷つける者はいない。だから銃を置くんだ」
「だめだ。すっかりイカレちまってる」
 アキツがそうつぶやいたとき、突然暗がりの奧から声が聞こえた。
「――おれたちの正体を知らない」
「なんだって? なんて言ったんだ?」
「あんたはおれたちのことを何も知らない。いまこの大地のうえで起こりつつあることを何も知らない。でもおれたちはあんたのことをよく知ってるよ」
「驚いたな。まともに話せるんだ。しかしあいつ、何を言ってるんだか?」
「し、だまっていろ。アキ。やつにしゃべらせるんだ――そんなら聞かせてもらおう。あんたは何者だ?」
「まずはあんたたちのことを語ろうじゃないか。カマエル」
「カマエル? そんな名前の者はここにはいない。おれはコマンド部隊長のアダムだ」
「カマエル、アダム、なんでも同じさ。最前線に送り出されるのはいつでも下っ端ときまっている。同情するよ。堕天使が多いのも無理はないな。十四万四千人の部下を任せられてさぞ得意なんだろうが、所詮使い捨てられる駒なのさ。あんたらはね」
「十四万四千人の部下? いったい何の話だ?」
「たぶん彼は 能天使 パワーズのことを言っているのよ」
 ヘルメットのなかにエリカの声が響いた。
「天使の階級の第六番目。いつも最前線で悪と戦う天使たちのこと」
「われわれを天使と思っている?」
「どうやらそういうことのようね」エリカの声は微かに楽しげだった。
 やれやれ――アダムはうなずいた。なるほど。下っ端の天使か。妄想にしても的を射ているかもしれない。たしかにいちばん損な役まわりだ、おれたちは。それから彼は不意に気づいて言った。
「ということは――そっちの正体もなにやら見当がつくというものじゃないか? 以前、聖書のガダラの町のくだりを読んだことがある。あんたは実はひとりじゃない。軍団なんだ――そうだろ?」
 夕暮れがせまり家のなかの闇が深まりつつあった。彼はいまここにいる部下が福音書的な恐れに気持ちを乱されることのないだろう日本人アキツである偶然に感謝した。ジェイコブだったらたぶん怯えてものの役にたつまい。おりあるごとに自分の勇気を証明したがるデイビッドもまた逆の意味で危なかった。
「教えてくれ。今回のこの騒ぎはおまえたちの邪悪な企てなのか? ひとつの村をこんなふうにして――いったい何が狙いなんだ?」
 闇のなかから低い笑い声がした。
「この疫病を地上すべてに広めることか? それならなぜわれわれが到着する前にさっさと飛びたってしまわなかった?」
「飛び立とうとしたところを邪魔立てされたんだよ。生き残ったこの衛生局員はオーニソプターの操縦ができなかったんだ。どじな話さ。しかしまあ役にはたったな。あんたらをひきとめておくための囮としてね」
 アダムはふいに背筋が寒くなるのを感じた。すでに相手の言葉は単なる妄想とは思えなくなっていた。
「囮? いったいどういう意味だ?」
「うすうす感づいているのだろ?」
 舌うちしながら彼は通信機の通話相手をきりかえた。しかし幾度呼びかけても何の応答もない。
「もう手遅れだよ。残念だな。あんたはここに足止めだ」
――オーニソプターはまだ飛べる。アキツが言った言葉を思い出し彼は唇を噛んだ。
「くそ!」まんまとはめられたのだろうか……アダムは思った。偵察機が捉えた途絶した通信からはじまってすべて罠だったとしたら? この周到さと狡猾さは指紋のように明晰に敵の正体を示しているようだった。だが言い伝えが正しいなら彼らは必ずミスを犯しているはずだ。そうとも……まだなにか方法が残っているにちがいない――世界を救い、部下を救う方法が。
「カミンスキー! 聞こえるか?」彼はマイクにささやいた。「蚊トンボはまだ反応しているか?」
「モーターは壊れて飛ぶことはできません。カメラも破壊されました。しかしバッテリーはまだ生きてます」
「ライトは?」
「たぶん大丈夫でしょう」
「それじゃおれがそう言ったら一度に全部のライトをつけるんだ。いいな? アキ、合図と同時にここを出るぞ。――1,2,3,いまだ! 点灯しろ!」
 写真撮影用のライトがいっせいに点った。その光に照らされてサポートスーツをまとった男が目をほそめつつ銃を構える姿が浮かびあがった。ヘルメットはなく髪を振り乱した蒼白の悪鬼の形相。一瞬のうちにそれらを瞳に納め、闇雲に飛来する銃弾のなかアダムはアキツをともなってからくも家から転がりだした。
「全員、援護射撃だ! アキ、広場まで走るぞ! ついてこい! 後の者は家をかためていろ。ぜったい奴を逃がすんじゃないぞ」

*

 息をきらせながらアダムたちが村の広場に到着したとき、すでにオーニソプターは黄昏空を背にゆっくりと羽ばたきを開始していた。駆け寄ろうとしたふたりの脇をレーザーパルスがかすめ、あわてて身をふせながらアキツが沈痛な声で言った。
「だめです! あの翼の動きからみるともうアイドリングは完了している。まにあいません!」
 じょじょに加速する機の開いたキャノピーのなかを確かめるまでもなかった。それを扱えることを知っていて、奴らははじめからサミュエルに狙いを定めていたのだろう。
「サム! 止まるんだ!」
 アダムは叫んだが、コクピットの人影は身動きひとつしなかった。
「……まずいわ。このまま行かせたら――」
「黙っているんだ、エリカ」
 上官への遠慮をまるで感じさせない容赦ない口調でアダムは言った。
「アキ……」
 低い姿勢のまま背後をふりむきアダムは言った。
「その銃には赤外自動照準がついていたな?」
「ええ――」
「よこすんだ」
「しかし……隊長!?」
 アダムは目を閉じ息を整えると静かに言った。
「もうほかに手はない。サムは完全に心を乗っ取られている。このまま行かせてあいつを堕天使にしてもいいのか?」
「いつから聖職者になったんです? 隊長、」
「アキ――教会の中で行われたことを思い出せ。汚染が広がれば世界中で同じことが起こりかねない。今サムを行かせれば本当に『奴ら』は対抗不能な軍団になってしまうかも知れないんだぞ」
 日本人青年の切れ長の目が薄闇のなかで白く光った。
「了解しました。だったらわたしが――」
「いや。これはおれ自身でかたをつけるべきことだ」
 何度かつばを飲み下した後、アキツは決断したようにショルダーベルトをはずした。差し出された狙撃銃を受け取るとアダムはすばやく、しかし慎重に飛翔をはじめようとする機上のシルエットに狙いをさだめた。
「神よ……許し、力を与えたまえ!」
 茜の雲間に射撃音がひびくとオーニソプターは急に方向を変え、ぎこちなく羽ばたきながら円を描くようにして血のように深紅に染まった水面に着水した。沈痛な顔つきでアダムはいまだオゾンの匂いがきつくまとわりつく銃をアキツに投げ渡し、入り江に背をむけると最後まで振り返ることなくその場を立ち去った。

*

 部下たちは今度の件についていっさい触れようとはしなかったが、以前のように隊長に軽口をきく者はいなくなった。日が暮れ野営の準備が終わったあともアダムは自然に他の隊員とは距離を置き、遺体に惹かれてやってくるかも知れない野犬たちを遠ざけるための焚き火の前にひとり座っていた。
 かさり。
 背後の足音にふり返ったアダムはいっしゅん立ち上がりかけ、やがて肩の力を抜いてふたたび火にむきなおった。
「――たちの悪い冗談は勘弁してほしいな」
「こんなことで動揺するとは思わなかったのです――鍛えられた経験豊富な戦士であるあなたが」
 彼は肩をすくめふたたび傍らに来た者の姿にちらりと目をやった。サムのサポートスーツが立っている――どこかしら女らしい動きで以前の持ち主のかわりにそれを本部から遠隔操作しているのがエリカ・ウォンであることが彼にはすぐわかった。
「なんの用だ? わざわざ皮肉を言いにきたのじゃあるまい?」
「ちょっと話し合いたいことがあって……。音声だけじゃなく身体があったほうがいいと思いました。もし気にさわるようならやめますけど」
「かまわないさ……座ったらどうだ」
 スーツはまるで中身があるように自然な動きで腰をおろした。極端に軽い疑似生命体をリモートコントロールでそうしてあつかうにはかなりの熟練をようする。アダムはうなずいた。
「あんたは見かけほど若くないな……エリカ。ナノ療法か。実際は幾つだ? 百才をこえているのか?」
「ノーコメント――めざといのね、隊長。そんなあなたならこれからわたしが話すことにすでにある程度の予感があるんじゃないかしら?」
 アダムは傍らの枝で炎をつつきながら答えた。
「はじめから今回の任務にはどうも妙なところがあると感じていた。おれたちにはすべての情報が与えられていない――そういう疑いがふっきれなかった」
「なぜそう感じたのです?」
「たとえばあんたさ。MDPO――火星開発推進機構がなんでこの事件に首をつっこむ?」
 サムのスーツは上体をひきおこすと微かに両肩を落とした。ため息をついたという意味のボディランゲージだ。
「最初から話しましょう。まるで見当はずれの話題みたいだろうけど黙って聞いてください……最新の物理学理論ではわたしたちの宇宙――素粒子を含むすべての時空は高次元空間のスピンネットワークによって記述されていることがわかっています。いわば神がプログラムしたライフゲームというわけです。そうした超空間に描き込まれた指令コードを想像してもらえますか? もしそこからの制御情報を非局所的な手段で生物のDNA内部に直接伝達するようなプロセスがあったら?」
「夢物語だな」
「そうかも知れない。でも……そうしたやりかたこそわたしたちMDPOが火星テラフォーミング・ナノロボットを制御する唯一有望な手段と考えてきたものです。分子サイズのナノロボット自身に複雑な論理制御回路を埋め込むのは不可能。でも多数のマシンによる共同作業をコントロールする指令システムを欠くわけにはいきません。そこでわれわれは超次元のスピンネットワークそのものに制御アルゴリズムを書き込むというアイデアを思いつきました。そして実際に試してみると、それらはただひとつの点をのぞいて実にうまくいきました」
「ただひとつの点?」
「なぜか肝心のコードがいつのまにか書き換えられてしまうのです。わたしたちは失敗の原因を懸命に探りました。そしてわかったことは――すでに誰かがそこに別のシステムを書き込んでいた、という驚くべき事実です」
 アダムは薄ら笑った。
「つまり……今回の事態はあんたがたが火星でやろうとしたことをいちはやくその誰かは地球でやりはじめた、ということなのか――かならずしも笑えない話だな」
「そう――あの病原体は患者自身のDNAの非遺伝子領域から直接組み立てられたのではないかとわれわれは考えています。感染ではなく……だからこそサポートスーツの防疫機構が働かなかったんです」
 ぱしり、とアダムは小枝を折った。
「あらかじめそれを知っていればなにもサムを犠牲にする必要はなかった。衛生局員たちが連絡を絶ったときからあんたらはその可能性を疑っていたのか? にもかかわらずわれわれに知らせないまま同じ危険に立ち入らせたわけか?」
「証拠がなかったのです。確信が得られたのはサミュエル・ストロングの発病によってです。それにいったん生成された『ガダラ』病原体は通常の感染によって広がる……もしあなたがあそこで彼を止めなかったらクライシスは爆発的な速度で全世界にひろまったでしょう。あなた方が与えてくれた時間で対抗策を考えることができるかもしれない――とはいえそれらをもって自己弁護するつもりはありません。あなたたちにはほんとうに申し訳ない結果になりました」
 折った枝を乱暴に炎に投げ込むとアダムはしばらくのあいだ沈黙し、それからふたたび冷静な口調にもどってたずねた。
「いったいぜんたいいつ誰が『ガダラ』の制御情報を――その別の次元空間とやらに書き込んだんだ? なぜ? それにどうやって?」
「わかりません。ひょっとしたら人類が誕生するはるか前からそうした仕組みが存在していたのかも知れない――遺伝子にゆさぶりをかけ種の多様性を確保するための手段として。カンブリア紀やペルム紀や白亜紀の大絶滅の直後、生物種の爆発的な増加を演出したものの正体はじつはこうしたプロセスが生み出したホメオボックス変容因子だったのかも知れません。地球の全生命が所持する膨大な量の情報がいったいどこから生み出されたのかをも、そうした仮説は説明してくれます」
「つまり……神のライフゲーム?」
「ええ、二重の意味でね」
「しかし、それがなぜ今になって?」
「たぶん彗星核の落下が引き金をひいたのでしょう。それ以前から地球上の生物種はじょじょに減少していたところに衝突の冬がいっきに事態を押し進めた。それで緊急用システムが目覚めたのだとしたら……。たぶんこれは地球生態系そのものにそなわったバックアップ機構なんです」
「隊長――」
 突然アダムの無線にカミンスキーの声がわって入った。
「いまナノ処理がおわりました」
「ごくろうだった……結果はどうだ?」
「すいません。デスマスク作成は失敗しました。脳の損傷と『ガダラ』の作用でニューロンネットワークの死後コピーは実行不能です。残念ながら二度とサムの記憶と人格はもどることはありません」
「そうか、……了解した。世話をかけたな。カミンスキー」
 アダムは深く長いため息をつくと焚き火をじっと見つめながらつぶやいた。
「部下をこの手にかけてまで――おれはいったい何と戦ったんだ? すべては悪魔の邪悪な企てだったのか? それとも大地を復活させるべく神のご意志なのか?」
「わかりません。――たぶんそれこそ人間がつねに問いかけられている根元的な問いなのでしょう。ちょうど 能天使 パワーズが困難な立場にいるのと同様に。彼らは悪の侵入に備えて最前線で戦うことを強いられているがゆえに善悪の狭間で揺れ動くことを宿命づけられてもいるという。アダム……わたしたち人のこの星の上でのあり方そのものがそうした矛盾を含んでいるんじゃないかしら?」
 長いしじまの最後にアダムがぽつりとたずねた。
「われわれはこれからどうなる?」
「あなたがた全員はこの島にしばらくとどまってもらうことになります。保護された衛生局員の生き残りと同じく病原体はあなたがたの誰かの体内に潜んでいる可能性がありますからね。ただ……非局所的な感染に対して物理的な隔離はあるいは無意味なのかも知れません」
「そして――そのあとは?」
 彼のかたわらでサポートスーツは不安げに膝を抱きかかえるポーズをとりエリカの声で答えた。
「いままさにわたしたちは終焉を目撃すべくメギドの丘に集っているのかもしれない。わたしも知りたいのです。そして――そのあとは?」

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