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リング

doru

 私がその男に出会ったのは地獄に送る道であった。私は現世では岡引をやっている。 私は閻魔様の役人を兼ねているのを除けば、ごく平凡な男であると思っていた。
 その日も地獄から生暖かい風が吹く穏やかな日であった。けれどもあの世への最初の関所では私の同僚たちが仕事の合間を盗んで、一目この男を見ようとちらりちらりと視線を送ってくるのがわかった。それというのもこの男が地獄の中でも滅多に落ちない無間地獄へ行くか、そうではないか、同僚たちで話題になっているからである。私はあまりよく知らないがこの男の場合は刑罰のつけ方が少し特殊であるらしいのだ。
「おい食べるか?」私は次の関所へと続く道中、岩場に腰掛けると男に声をかけ懐から小刀とりんごを出した。
「へい、ありがとうございます」男は私に礼をいい、皮をむいたりんごを受け取り食べている。私は男の様子を見た。目の前の男は傲慢でも、かといって恐縮しているようでもなく、何かわりきったような感じを漂わせていた。私はこの男が無間地獄に行くだけの理由を持たぬまま行くのではないかと思った。だが同僚たちの間では、この男はまれにみる大悪党だと言う。閻魔様の裁きで一番深い地獄――無間地獄――に落とされるであろうと思われていた。
 私はこの男に興味を持ち、もう一人の同僚が少し遠くできせるをふかして休んでいるのを横目で見ながら、男と一緒に岩場に腰掛け、そのまま話を聞くことにした。
「昔、ずっと昔岡引をやっていたことがあります。そうずっと昔の話です」男は親しそうに私を見て言った。
「ずっと昔岡引の頃私には娘が一人いました。目の中に入れても痛くないほど可愛がっている娘でした。器量は十人並といったところでしたが、気立てだけは誰にも負けぬほどよい娘でした。その娘がある夜誰かに殺されました。その時からわたしは鬼になりました。人の身でありながら鬼になったのです。そして娘が殺されたわけを探す旅に出たのです」私を見る男の顔が一瞬壮絶なものになる。わたしは一応調書を見たが、生前この男が岡引だったという記録はなかった。私が怪訝そうな顔になったのだろう。男はそれを察して、「調書にも載っていないずっと昔の話ですよ」とこともなげに言った。
「私は、あるとき、どぶ堀に浮いている死骸を見つけました。その死骸は顔が潰れ誰であるのかわかりませんでした。男は誰かに殺されたのは間違いないようでした。それというのも首に刃物で切られた深い傷があり、それが命取りとなったものと思われたからです」
 ここで男はりんごを齧った。しゃりしゃりと美味そうに食べている。死者とは言え、現世と同じように物は食べるし、腹は空く、拷問にあえば痛みはあるし、血は流れる。
 男は思い出すように遥か遠くを眺めていた。わたしは男にますます興味を持って話を続けるように促した。
「その男はもの言わぬ死骸としてそこにいました。もし言えたのならどんなことを言うだろうかと思った私は死骸を十手でつついてみました。ちょっと笑える光景でしょ。大のおとなが死んだ人間が生き返るのじゃないかと思って、商売道具の十手で触っているのですよ。それというのもその死骸がまだ完全に死んでいないように見えたからなんですよ」男の話は途中で途切れることになった。

 私は目覚めた。私は現世ではただの岡引である。汚いせんべい布団から抜け出すとそこらにある冷や飯をしょぼしょぼ食べる。温かい味噌汁が食べたいと感じた。私には家族はいない。いや昔いることはいたがみんな死んでしまった。胸にきりきりと激しい痛みが走る。もうあれからずいぶんたつのにまだ心が痛むのか。わたしは娘の仏前に手を合わして少し泣いた。かかあがはやり病で死んだとき、幼い娘を大事に育てていこうと自分を励まし、こうして岡引をしていくことができた。これもみんな娘がいたからだ。その娘がこの世からいなくなった今わたしは生きているのか死んでいるのかわからない状態だ。ただ惰性でこの世では十手持ち、あの世では死人をしかるべき場所に送る下っ端役人、私は眠ることでこうしてこの世とあの世を行き来することができるのだった。

 その日は何事もなく終わり、わたしは眠る。またあの世へと続く道をあっという間に通りこし、魂はあの男の元へと走った。男は何事もなかったかのようにくつろいでいる。もう一人の同僚はもともとあの世の世界の人間なので、消えることはないが、私は双方の世界をまたにかけている関係上、あの世の仕事をしている時は、予備に一人役人がつくことになっている。
「はやかったですね」と男は言った。
「さてといきますか」男は腰をあげた。男はまだ三途の川を渡っていない。遠くに薄紫色の橋が見える。それは生前良い行いをしたものだけが通ることのできる橋である。私は今までこれと言った良いことも悪いことも行っていない。私は死んでこの河を無事に渡ることができるかどうかわからない。そう考えていると「私には関係ない橋です」男はきっぱりと言った。男は深い河にざぶんざぶんと躊躇することなく入っていった。私もつられて入っていく。同僚は河に入るのを嫌がって橋から渡ろうとする。
「足元に気をつけろ」と私は声をかけると、いっているそばから身体ががくんと傾いた。つい油断して足を滑らせて深みにはまってしまったのだった。泥水が口や鼻から大量に入ってくる。苦しいこんなところで私は死んでしまうのか。私は水中でもがき、気が遠くなっていった。

 どれぐらいたったのだろう。私は水辺で寝ていた。あの男はと見ると、私が目覚めるのを心配そうに見ていた。「助けてくれたのか」私は聞くと男はうなずいた。私がここで溺れ死んでいたら現世の私の身体はしんのぞうが止まっていただろう。
「逃げることはできたがあなたを見殺しにすることはできなかった」男は言うと遥か遠くでどす赤黒く染まった山を眺めた。
「あの山が気になるのか……。あれは無間地獄の入り口だ」私は助けてくれたお礼に地獄の説明をすることにした。
「おまえは死んだが、厳密にいうと完全には死んでいない。完全に死ぬ途中だと言っておこう。死んで七日目に今渡った三途の河を越える。そして七日に七をかけて、閻魔様の裁きを受けて完全に死ぬということだ。それまで極楽に行くものも地獄に行くものも同じ道を通る。それだけは間違いない。そしてお前が行こうとしている地獄には七層の界があって、六界まではある一定の期間拷問を受けたら何かに転生することができる。だが、最後の一界、無間地獄だけはその名の通り永遠に拷問を受け続け、転生もすることができない無間の地獄だ」私は男にこうかいつまんで説明しただけで男が行くと噂されている無間地獄の恐ろしさを思い出し気分が悪くなった。
 それ以後、私たちは何事もない道中で、閻魔庁についた。閻魔様おつきの役人の口から延々と罪状が読まれる中、男に殺されたものの中に私の娘の名前があった。わたしはこれまでにない怒りと殺意が男に対してわきあがった。今まで男に持っていた親しみも消え、残っているのはどうしようもない怒りだった。
「きさまぁ、よくもやってくれたな。娘をかえせ!」わたしは懐の小刀を取りだし、男に掴みかかった。一度死んだものを殺したとて、もうどうすることもできないとわかっていても、理性と感情は違う。娘を殺した男に傷の一つでもつけないと気かすまなかった。
 男の罪状とどこに行くか――無間地獄に決まっている――に関心を持ち、面白そうに裁きを見物していた同僚の役人たちが次から次にと出てきた。止めようするものと向かっていこうとする私、双方揉みくちゃになり、やがて、ぶすりという音が聞こえ、私の腹から生暖かいもの、血が流れて、目の前が暗くなった。私はどうやら死んだらしい。

 かがり火がたかれている。見ると私は上半身裸で弓矢を打っている。私はどこかの武士になっていた。私はまたこの身体に転生する前のことを思い出していたようだ。
 あの世の役人としてしてはならぬことをして死んだ私はもうあそこの役人にはなれない代わりに別の転生をした。そして今は別の身体に別の顔を持つ男として生き返っている。普通のものは前世のことなど忘れているのだろうが、私は覚えている。私はよほど業が深かったのだろう。夢を見るようにときどき前世のことを思い出すことができるのだった。矢を放つ。何本かが当たり、何本かが外れる。汗が流れる。汗がかがり火に照らされて光っている。身体の弱い妻が乾いた手ぬぐいを持ってきている。私は手ぬぐいをとり汗をぬぐう。それを嬉しそうに見ている姑がいる。私は笑う。妻も笑う。姑も笑っている。傍目から見ればごく普通の武士の家族に見えるだろう。
 真夜中、私が一人で書物を読んでいると誰かが障子を開ける音がする。この開け方は妻ではない。姑だった。寝間着に身を包んで私にいきなり接吻をし、舌を入れてくる。 私は姑の胸に手を入れると乱暴に揉んだ。姑が嬉しげなあえぎ声を出す。いつからこうなってしまったのだろうと疑問に思いながら、姑と身を重ねた。
 私は姑にこんなことはもうやめよう、私は妻を好きなのだと言ったことがある。姑は私の汗をぺろぺろ舐めながら、離れられるのと笑った。それは妖艶で残酷な笑いだった。姑は私も知り得ない何かの手段で病弱な妻の命をこの世につなぎとめているらしい。姑はつなぎとめるには力がいるらしく私自身を触媒にして、妻に薬として毎日飲ませていると言う。そのために私は嫌々ながら姑と毎夜身を重ねるしか方法がないのだった。
 ことが終わった後、私たちがまどろんでいると乱暴に障子が開いた。寝間着に大量の血を吐き、鬼の顔となった妻だった。血を吐いたことで姑が調合した眠るための薬が効かなかったのだろう。寝室に私がいないことで不審に思ったのかそれとも以前から私達の関係を勘づいていたのかもしれない。後者なら妻は今までどんな思いをしていたのだろうか。昼間は仲のいい夫婦のふりをし、夜間は自分の母親と身を重ねる夫を持つ女。私は妻を好きだっただけに心が痛んだ。
「裏切り者!」妻はそう叫び、やせ衰えた身体のどこにそんな力があったのだろうか。あらん限りの力を出して、私を槍で突いた。そして驚く自分の母親の命も奪った。私達を殺した後、私の下半身をずたずたに突き刺したところで、妻は力の元の怒りが消えぬまま体力を消耗したのか大量の血を吐き絶命した。一つの部屋に三人の血まみれの死骸が転がった。

 私はこのようにさまざまな形で蘇り死んでいき、殺したり殺されたり何回も何回も数え切れないぐらい転生した。それは怒りと憎しみと哀しみに彩られたものであった。 だが死ぬたびに少しづつ確実に下へ下へと落ちていく。これも岡引だった頃に殺された娘のために――好きな女はできたが、本当に愛していたのは私の娘だけだった。私は娘を愛していたのだ――私の運命を変えた男にどうして何の落ち度もない娘を殺すようなことをしたのか聞くために落ちていくのである。あの男に憎しみはないと言えば嘘になるが、娘を殺したわけを聞くために、私は転生するたびに思いつく限りの悪事を働いた。時にはあたりをふらふら歩いていた町娘を殺したこともあった。今の私の最後は博打で負けた腹いせにやくざの三下に待ち伏せされて首を切られ顔をずたずたに潰されてどぶ河にほうりこまれて死んだのだった。
 とうとう私は最下位の地獄、無間地獄に送られるらしいと地獄の役人たちが噂をしているのを聞いた。私は笑った。無間地獄に送られるのならそれでもいいと思った。生きていても地獄、死んでいても地獄、それならいっそもうこれより下がない地獄の下の下まで降りて、再び転生することのない無間地獄に行ってみるのもいいかもしれない。そうすればあの男に逢い、娘を殺したわけを聞けるからである。そう思うと私は少し胸のつかえがとれたような気がした。
「おい食べるか?」私は少し影のある役人に声を掛けられた。目の前の役人に親密感を覚えた。
「へい、ありがとうございます」りんごを受け取りながら、この役人なら私のことを少しぐらい知らしてもいいだろうと思い、今までの話をはじめることにした。

「昔、ずっと昔岡引をやっていたことがあります。そうずっと昔の話です」

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