『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
「結婚して欲しい」
ミレイの様子を窺いながらケインが声をかけた途端、彼女の手がゆっくりと自らの顔を覆っていった。その指の隙間から覗く瞳が、これでもかというほどに大きく見開かれている。
「ミレイ……これを」
その表情に嫌悪や拒絶を感じないことに勇気を出して、ケインは手の中に大切に持っていたエンゲージリングを差し出した。緊張のあまり震える指を、自らの意思でコントロールすることができない。
そのケインの指先では、ブラックダイヤ製のリングが艶のある漆黒の輝きを放っていた。
ブラックダイヤの加工は難しく、普通はペンダントトップや飾り石として使用される程度の形状をしている。それなのにケインが出したエンゲージリングはそのものがブラックダイヤというかなり値の張るもので、公立大学の貧乏教授が購入するにはかなりの無理があった。
それでも買いたいと思ったのは、ミレイが漆黒のブラックダイヤが好きだと知っていたからだ。
その価値をよく知っているミレイの手がためらいがちに伸びてくる。紅いルージュの口元が興奮のせいか微かに震えていた。
「……私で……いいの?」
エンゲージリングに指が触れた途端、ミレイの視線が窺うようにケインに向けられる。
そんな彼女の表情に魅入られているケインにとって、その質問は愚問でしかなかった。
「もちろん」
ケインが頷く様を見たミレイはそれでもまだためらいを見せていて、幾度か指を曲げ伸ばしした後にようやくエンゲージリングを取り上げた。
しぱらくそれを嬉しそうに眺めていたが、何かを思いついたのか不意に微笑み、ケインへとエンゲージリングを差し出した。
「あなたが……はめてくれる?」
口許には笑みを浮かべているというのに、感極まって潤んだ瞳からは今にも涙がこぼれそうだ。そんな姿にも魅入られながら、ケインはその手からエンゲージリングを受け取った。
指先につまんだそれを、ゆっくりとミレイの左の薬指にはめていく。関節の僅かな引っかかりに、サイズを間違えたかとひやりとしたこともあって、ケインの頬は知らず知らずの内に強張っていた。
緊張のあまり心臓は高鳴り、頬が熱くて堪らない。
それでもはかったようにぴったりと収まった指輪にほっと安堵の吐息をこぼしながら、うっとりと指を飾るそれを見ている彼女を見つめる。
小さく息を吐いたミレイは、ケインに潤んだままの瞳を向けた。
「ありがとう……」
感極まって震える声に胸打たれて、思わずケインは彼女の唇に触れていた。
プロポーズの成功に浮かれて過ごした1週間は、突然の来客によって終わりを告げた。
今ケインは、大学の研究室を訪れてきたその客の言葉に、驚愕のあまり全身を震わせていた。彼らの来訪目的はプロポーズのよろこびなど簡単にかき消せるほどのものだったからだ。
「本当に、私の?」
声までもが震え、手に握った契約書が微かな音を立てる。何度読み返してもその内容におかしな所はないというのに、それでも問いただしてしまう。
「はい。当方は今回の作戦に博士の計画を実行する予定でございます」
柔らかな物腰なのに鋭い雰囲気が見え隠れするこの男達は、連邦でも一二を争うほどの財力を持つグレゴリア財閥の現当主の代理だった。差し出された身分証明書は本物で、別に政府発行の証明書すら添付されているほどの念の入れようだ。
その彼らが、ケインの計画を実行して欲しいという。しかも、そのための費用は全て彼らが持ってくれるのだ。
諦めかけていた夢だった──だが。
「黒曜石の……リングを……指にはめる……」
夢が現実のものになろうとしていた。
普段ケインは、星の軌道計算とその人為的な移動方法について研究していた。その中でも特に注力をしていたのが、『黒曜石のエンゲージリング』に関する事柄だ。
直径が約50km、中心の穴は約30kmで表面が艶やかな漆黒色をしているリング状の天体は、『黒曜石の指輪のようだった』という発見者の記録からその名が付けられた。
もともと珍しい形という程度でしか人々が認識していなかったそれを一躍有名にしたのは、ある調査船の報告書の内容にある。
黒曜石のようだと発見者が見たその色は、実はブラックダイヤの色だったというそれ。
60%は下らないとされた埋蔵量を聞いて各国がこぞって目の色を変えたのは、そのリングがどこの領宙圏内でもなかったからだ。
宝飾品としても人気があり、工業材料としても他の鉱物以上の高付加価値を持つブラックダイヤとなると、所有権を巡る争乱が起きるのは必須の事態だ。
だからリングによる争乱を恐れた連邦が慌てて作り上げた規約が存在していて、それは100年たった今でもその効力を発していた。
それが、
『黒曜石のエンゲージリングを指にはめた者がその所有権を有する』
というものである。
この規約は、確かにリングによる争乱の発生を確実に抑えていた。
連邦にしても本音のところは、しかるべき権力と金を持った国家か企業体がそれを成功させて所有権を保有するだろうと考えていた。
だが、実際には失敗の事例集ばかりが増えていくというお粗末な結果になっている。
連邦の公式発表では、100年の間に作戦行動に出たのは58件とされ、その全てが失敗している。しかもその作業に関連する死者は1000人以上となっていた。それほどにリングを『指』にはめる作業は連邦の予想以上に困難を極めていた。
だから、いまだに誰もリングを所有できていないのが実情だ。
そのリングにはめる『指』にしても何度も壊れて代替わりをしている。『指』とはもちろん生物の指でない。今『指』として指定されているのは、リングの近くにある筒型人工衛星の胴体部だ。研究用として建造後、その役目を終え廃棄寸前だったそれは、この規約のお陰でリングとともに今や有数の観光スポットとなっていた。
もっともリングに人が降りることは、その自転の不安定さ、その界隈で起こる電子機器の異常などのせいで、かなりの設備と装備がないと無理だった。だから訪れた観光客は、船でリングや『指』を周遊するしかない。それでも時折見られる作業風景に、それが全て無と化してしまう未来を声高に噂して楽しんでいた。
成功する筈がない。
そんな風潮の中で、その規約に挑戦することは営利が目的だけでなくなってきているのも実情だ。計画の中心にいる学者や冒険者にしてみれば、難攻不落であったリングを手に入れた、という名誉こそが欲っしてやまないものになっていた。
それは、ケインにとってもしかり。
いつか自分の理論を試してみたいという欲求に身を焦がしながら、だがそれにかかる膨大な金銭問題をどうすることもできないジレンマ。夢を叶えられる未来があるとは思えないのに、だがリングを見る度に心の奥底から『挑戦したい』という気持ちが込み上げてくる。
どうすることもできないのに心はいつも前に向かいたがって、そのジレンマにケイン自身が傷つけられるはめになっている。そんな中で疲れ切った心が、他のことに癒しを求めたのは必然だった。
ミレイとつきあい始めて、彼女の明るさと前向きな姿勢に惹かれていって──彼女とともに過ごす未来にはきっとあるだろう幸せに縋りたくなってきた頃。
きっとそうすることが自分にとっての幸せなのだと、ケインは彼女にプロポーズしたのだった。
それなのに、夢が夢で無くなってきた。
机上に置いた契約書を何度も何度も目と指で追う。
一番の問題であった資金は、これで何の問題もなくなった。
その対価は、成功した後に発生する利益を相手に譲るというもの──つまりリングの譲渡だ。億万長者の未来を捨てはしても、それに対する礼金は一生かかっても使い切れないほどでまったく問題はない。
それよりも夢が叶うのだから、そんな些末なことなど気にかける必要もなかった。
「いかがでしょうか?作戦が失敗であってもその賠償は不要です。もっとも博士の案でございましたら、失敗することなどないと確信しております」
プライドを心地よくくすぐる言葉に背中がむず痒くなりながらも、反射的にこくりと頷く。
自信はあったが、金が無くて実行に移せなかっただけ。だがもうその心配はない。グレゴリア財閥がスポンサーとして名乗り出たのだから、こんな心強いことはなかった。
契約書にはすでにグレゴリア財閥の現当主のサインが入っていた。後はその下に自らの名をサインすれば契約は完了する。
今すぐにでもサインしたい。
その激しい衝動をケインはかろうじて抑えつけていた。
契約事項に入っている守秘義務とそれに伴う拘束期間の項目も何度も確認する。このままサインをすれば、この後──つまり作戦が終了するその日まで、ケインは彼らの研究施設に拘束されてしまう。その間誰にも会うことができず、極秘に行動するために親しい者達にも別れの理由すら伝えることはできないという。
グレゴリア財閥の計画をライバル他社に真似されては困るという、しごく真っ当な理由がそこに存在した。
ためらうケインに男が誘うようにいう。
「申し訳ないのですが、博士に考えて頂く時間をとることができない、というのが現状でございます。実は連邦の方から極秘に入手した情報でございますが、リーディス財閥からリングを手に入れる申請がなされているようなのです。どうやらそちらはフェイジュン博士を 招 聘 したようです」
「フェイジュン……」
その名にケインの焦燥感は一気に増した。
ケインのライバルともいうべき彼は、何かにつけケインを敵視し邪魔をしてきた。そんな相手に先を越されたのかという激しい焦りが、ケインの手を動かす。
「先を越されたのは痛いですが、彼らは決して成功しないと私どもは考えております……」
その声はケインの思考を縛りつけていく。その言葉が終わる頃には、黒いインクが契約書にケインの名を綴っていた。
フェイジュンの理論よりこちらの方がはるかに優れているのだ。
夢を奪われたくなぞなかった。
漆黒のリングが背後の星々を隠している。
見慣れた風景を、ケインは飽くことなく見続けていた。
リングの作業を開始してから、既に3年の月日が経っている。
フェイジュンに先を越されて作業への取りかかりが1年遅れた時には、ずっと焦燥感に駆られ続けていた。自然にリングを見る目も険しくて、フェイジュンに対する呪いめいた呟きすら漏れることもあった。
だがそれが失敗に終わって自らが作業に入ると、リングを、成功を祈る言葉ともに見つめるようになっていた。
「……後少しだ」
作業はほぼ終了していた。
後は『指』にリングをはめればよい。
2年程前に行われたフェイジュンの作戦は、『指』がリングに入る直前に外壁の一部が接触し弾かれてしまうという失敗で終わった。リングのコントロールに使う制御装置の配置ミスが主たる要因で、そのせいで磁場が激しく混乱しリングが制御不能になったのだ。
ケインはそれをすぐ近くで観察していた。
成功するはずはないと踏んでいたからこそ、フェイジュンの作戦行動の全データを収拾するよう手配していて、そのデータから失敗に至った要因を発見した。そしてそれを使って自らの理論を確固たる現実の物へと変えていくことができた。
何度も何度もシミュレートして、ほんの少しでも成功率が上がるのならと見直しをする。その成功率がコンマ1%でも上がればほっと安堵し、下がれば必要以上に狼狽えた。
時が経つにつれ、ケインの中にあった自信が溶けるように無くなっていく。
先人達と同じように自らも失敗するのでは、という不安に押しつぶされそうになると、ケインはいつも指にはめられたエンゲージリングを見ていた。それはもう癖のようなもので、いつからそんなことになったのかは判らない。
だが、その行為は昔彼女に指輪を渡そうとした時のものと似ているという自覚はあった。
彼女が受け入れてくれると信じていたというのに、だが気が付けばそれが無くなっていて、そんな自信のなさを、買ってきたエンゲージリングを見つめることで奮い立たせていたあの時と。
あの時のエンゲージリングが今はケインの小指にあった。
理由を言えないケインに向けるミレイの驚愕と怒り、そして混乱。『エンゲージリングは返せない』と言い張るミレイの指から奪いとった時、その瞳の込められた感情は激しい怒りだったように覚えている。
それも当然だと思う。
彼女にとって、ケインとの結婚は本当に夢だったのだろう。再生医学専攻の医師である彼女は、仕事も大切なものだったが、それ以上に温かい生活も夢見ていた。それをあの1週間の間にケインは知らされて、それを共有していたというのに。
それなのに、ケインはミレイより黒曜石のリングを取った。何よりもそれがケインの本当の夢だったからだ。
拘束される期間を待ってくれ、などとはいえなかった。
失敗すればケインにはもう何もない。何もかも捨ててそれに挑戦したのだから、失敗してしまうとそこには何も残らない。落ちぶれた敗残者に、彼女とともに暮らす生活力などありよう筈もなかった。
せめて契約の話がミレイにプロポーズする前だったら……と何度も思ったが、結局は考えても 詮 ないことだと諦めた。
それでも、今この時、不安に自分を見失いそうになった時、ケインは指にはめたエンゲージリングを目にして、ミレイの時は成功したのだからと、そんな関係のないことをこじつけのように考えた。
リングを『指』にはめる。
それに成功するしか、ケインに未来はなかった。
ゆっくりと『指』が動き始めた途端、司令船内にどよめきが響く。ケインを含め、作戦の主要メンバーがそこで動向を見守っていた。
補強した骨組みはどんな衝撃にも堪えられるだろうし、姿勢制御のバーナーは寸分のズレもなく設置されていて、『指』を指定の場所へと移動してくれるだろう。
それでもその巨体が動き始めるまでは不安で一杯で、無意識のうちに右手の指が左手にあるエンゲージリングをまさぐっていた。
「『指』の回転制御、カウント開始、10,9,8……」
オペレーターの規則正しい声を、ケインは声もなく聞いていた。
司令船の背後を映すスクリーンには、報道関係も含めた多数の宇宙船が表示されている。
作戦行動があるたびに全宇宙にこうして報道されるのは通例で、人々は成功を祈りつつも、失敗する瞬間を今か今かと見入っているというわけだ。それは高視聴率をいつも確保するほどの人気ぶりだった。
だが今のケインは、そういう好奇の目は全く気にならなかった。目の前のリングと『指』を凝視し、きつく握りしめた手の平にはじっとりと汗が滲んでいる。
「回転開始」
『指』の各所に取り付けられたバーナーが明るく輝いた。
その力を利用してゆっくりと『指』が回転を始める。それはバーナーの輝きが増すごとにその速度を上げていった。
ケインの計画は、ある意味単純明快なものだった。
『指』をリングと同じ方向に回転させ速度を同期させた後、リングに『指』の方を差し込んでいく。そしてあらかじめもっとも安定すると算出したポイントで、数千点以上設置したアンカーを突き出しリングを固定する。後は『指』の回転をゆっくりと停止させ、リングの回転をも止めればいい。
単純だが、この方法では『指』がもたないといわれていて、あえてそれを実行する者はいなかった。
ケインはそれをクリアするために、1年間ひたすら『指』の補強に明け暮れた。
人工衛星である『指』を、最高硬度を持つブラックダイヤを含有するリングに差し込むのだから、多少の補強ではもたないことは判っている。しかも『指』は、過去幾度も繰り返された作戦でかなりのダメージを負っていた。
ケインの計画では『指』の補強費用だけでも、新しい人工衛星を複数設置できるほどの天文学的な数値だった。それがグレゴリア財閥という金蔓によってクリアされた今となっては、足りないのは時間だけだったといえよう。
だからこそ同時進行で行われたリング側の制御装置の設置も、数が半端なものではないが故に突貫工事で進められた。しかもその特異な重力体系によりリング上での作業は難航を極め、幾度も作業は中断した。
だが、それももう過去のことだ。
「回転速度、リングと同期しました」
「センサー確認。『指』異常なし」
どうやらもちそうだと、司令船内にほっと安堵の空気が流れる。
「第一段階はクリアした。次は、リングの中に『指』を進める」
ケインの指示に、担当者が答える。
「推進装置オールグリーン」
「リング、『指』ともに座標軸固定されています」
コンマ数度の僅かな角度異常があれば、『指』はリングの内壁に接触しバラバラに分解してしまうだろう。
和んだ雰囲気は、一瞬のうちに息をするのも苦しいほどの緊張に変わった。オペレーターの一人が、無意識のうちに額の汗を拭う。
「進入角度、固定。外界要因は全てクリアされています」
「『指』の先端がリング内壁に入ります」
ケインの目がスクリーンに釘付けになる。誰かがごくりと息を飲む音がやけに大きく響いた。
最後尾に増強された姿勢制御バーナーと推進エンジンが、いくつもの噴射炎を煌めかす。その推進力によって『指』はゆっくりとリングに入っていった。
それを肉眼的に映すスクリーンの隣では、別のスクリーンが磁場や引力の見えない要因を線として認識できるよう表示している。
「きつい…か……」
『指』の周りの線のどれもが激しい渦を描いていた。それがリングと『指』両方にひどく干渉しているのが判る。それは設計値以上だった。
その模様を見ていると、双方がまとっている僅かな大気が嵐を起こしてその音が無音の空間にあるにもかかわらず聞こえてくるような気がする。
互いを弾き飛ばそうとし、だが溶け合おうとするように絡み合う大気の渦。それに弾かれた小さな岩石や剥がれた外壁が周辺を勢いよく飛び交う。
「危険ですので、下がります」
操船担当者達の間で交わされる声が、ケインの耳を素通りしていく。。
僅かな動きがあるたびに、ケインの心臓は跳ね、全身に嫌な汗が吹き出した。
『指』がリングの装着を嫌がるように振動する。嫌だと身悶える『指』に対して、ケインの指示により細かな変更が行われ、姿勢を制御させる。
それは、嫌がる娘に無理矢理リングをはめようとしているような、そんな錯覚を見ている者に与えた。
古来より人は結婚の証として指にリングをはめてきた。それはある意味拘束の証でもあったのではないかとケインは考えている。相手が結婚していると示すことにより、他の人間を牽制し、はめられた者はそのはめた者の所有であると知らしめる、証。
今『指』にリングをはめれば、『指』もリングも、そしてそれを成し遂げたという名誉もケインのものになる。
3年前ミレイの指にエンゲージリングをはめた時より、もっと大きな緊張にケインはとらわれていた。
不安とより以上の期待で目が眩みそうになり、無意識のうちにきつくイスの肘掛けを掴む。
「接合ポイントまで後20秒」
オペレーターの声が緊張で掠れていた。
ポイントが近づくにつれ、双方の嵐が互いを傷つける。
リングの薄い大気が激しい乱気流によって荒れ狂い、地表を覆っていた岩石が舞い上がりぶつかり合って砂塵となって黒い嵐を作り上げていた。
ぼんやりとした輪郭に嵐に引き剥がされた外壁が突き刺さっていく。
その最たる現象がスクリーンに映し出された。
最大級の破片がリングの地表に到達するかと思われた途端、黒い嵐に遮られ、激しく弾き飛ばされたのだ。
大きな塊が一瞬のうちに粉砕される。
その衝撃が重力圏内に納まっていた高濃度の砂塵にも影響を与え、重力に逆らって宇宙空間まで舞い上がる。一気に上昇した黒い雲は、自らを戒めていた重力の枷を外した悦びそのままに宇宙空間を突進した。
「リングから飛来物っ、このままだと我が船に直撃しますっ!!」
漆黒の破片と金属色の破片をまとわりつかせ、触手を伸ばすように伸びてくる雲。
その砂塵の正体はブラックダイヤを含む細かな石だ。
ブラックダイヤが超高速でぶつかれば、大気圏突入可能の宇宙船であっても無事ではすまない。
「回避っ!!」
恐怖にかられた操舵士の必死の叫び声は、伸びてきた触手に魅入られていたケインを現実へと引き戻した。
「あっ……」
「間に合わないっ!!」
ケインの間の抜けた悲鳴と操舵士の恐怖の悲鳴とが絡み合う。
「シールド最大っ!!」
誰の声だったのか?
とっさにシートにしがみついたケインは全身を振り回されるような激しい震動に襲われた。自らの体重を支えきれない指が、簡単に椅子から引き剥がされる。
宙に浮いた体は体勢を変える間もなく壁に激突した。
「がッ!」
衝撃で肺の空気が一気に押し出され、口から唾液と血が混じって飛んだ。
襲ってきた激しい痛みは全身がバラバラになりそうな程で、呼吸することもままならない。
「博士っ!!」
誰かの声がケインを呼ぶ。
それに励まされるようにうっすらと開いた視界は、どこまでも赤かった。
「被害状況の報告っ!!」
「左舷前方が酷いっ!」
どこか遠くで声が聞こえるのを感じながら、ぴくりとも動かない体をケインは必死で動かそうとしていた。
「博士っ!動かないでっ!!」
制止の声はケインの耳には届いていない。ただ、前方に見えるその光景に手を伸ばそうとしていた。
赤色の世界で黒い塊が暴れている。
跳ねるようにあちらこちらに回転するそれは、暴れ回るロデオの馬のように見えた。黒い馬に黒い騎手。暴れる馬を必死で押さえている騎手のように……。
「博士っ!!成功ですよっ!!リングは『指』にはめられましたっ!!」
歓喜の声が、ようやく耳に届く。
……では、あれは……。
霞がかかる視界に再度目を凝らして見つめれば、それは確かに『指』とリングの姿だ。
成功した……。
途端にふっと体から力が抜けた。
がくりと崩れ落ちるケインを後目に、逃れようと暴れるリングから『指』は決して離れようとしなかった。
何度も呼ぶ声を聞いた。
その度に起きようとしたが、なぜだか体が動かずにそのうちにまた意識を手放してしまう。
『ケイン……もう離さない』
懐かしい声音のそんな言葉を聞いたのは夢だったのか現実だったのか。
いろんな出来事が曖昧なままに過ぎていくような、そんなあやふやな状態だった。
『ありがとう、戻ってきてくれて……』
その意味もよく判っていないのに、何故かそんな筈はないと心が否定する。だがその言葉は、夢の中にしてはひどく印象的だった。
過ぎる日々が──いや、時という観念はなく、ただ何もかもが夢うつつでしかない。
ところがある時、急に目覚めなければならないと意識がはっきりと要求してきた。
鮮明になった意識に、存在感のなかった体が急に重みと触感を訴えてくる。まとわりつくように触れる感触に、ケインは自分が液の中に沈んでいるのを察した。
そういう使われ方をする溶液に心当たりは一種しかない。
再生液──機能そのままにそう呼ばれる溶液の存在を、ケインは知っていた。
ならば、自分はいつからここにいるのだろう?
曖昧な記憶を探す手かがりを求めて、辺りに目を凝らす。
だが目は、焦点をあわすことすら困難で物の形がぶれてしか見えない、そんな視界の中に入ってきた影がどうやら人らしいと判ったのは、その曖昧にしか見えない形からだ。
それに向かって手を伸ばそうとして、固い何かに遮られる。それが再生容器の透明な壁だと気が付いて、その壁面を手で探った。
顔の辺りまで持ち上げた腕が、目の前にあるというのにぶれて見える。
だが、白く見える肌の色に妙にくっきりと黒い線が見え、思わず目を見張った。他にもコードのような物が幾本も絡まっているが、その黒い物だけは用途が判らない。
それが気になって焦点のあう距離に近づけてまじまじとそれを見つめた。
すぐにそれが細い腕輪だと知れて、だが、何故こんなものがここにあるのだろう?と今度は訝しげに首を傾げる。その拍子に、小さな泡が幾つも顔の横を昇っていった。
不定型な泡が波打つように形を変えていく。
近くから遠くへゆっくりと移動する泡を目が追って、そのお陰なのか人の形に焦点をあわせることができた。
だからそれが誰なのか、そしてその表情がどんなものなのか、がはっきりと判る。
「ミレイ……」
『私が判る?』
ミレイは嬉しそうに笑っていた。
手首につけられた黒いリングは外せない。
再生途中のまだ子供のように細い手首のときにはめられたリングは、大人の腕になった時には抜くことができないようになっていた。
黒い透明感のあるリングの材質の名は、ブラックダイヤ。
硬くて加工が難しいそれは、ある圧力下で一定の温度をかければ切削することができる。そうやって無垢の塊から削りだしたそのリングは、ケインの腕についている限り加工することはできない。つまり切断して外すことはできない代物となっていた。
ケインの担当医に選ばれたミレイにとって、再生中のケインの手首にそれをはめることは容易なことだ。
そして、ケインの小指にはめられていたあのエンゲージリングは、今はミレイの薬指にはめられている。
ミレイは、ケインの左手の残骸からそれを見つけ出していた。
「嬉しかったの。何も言わずにいなくなってしまったあなたが戻ってきたって。本当は恨んでいたはずだったのにね。この指輪を見つけた時に、もうそんなことは忘れちゃって、ただただうれしくて仕方がなかった。せっかくここに戻ってきたあなたを、二度とどこにもやりたくないって思った。だから、もう絶対に外れないエンゲージリングをあなたの腕にはめることにしたの。だって指だったら外れちゃいそうですもの」
楽しそうに、そして愛おしげに手首のリングを見つめるミレイに、ケインは何も言うことはできなくて曖昧な笑みを向けるしかない。
一度手痛い別れを経験したミレイは、頑ななまでにケインが離れることを嫌っていた。
絶対に外すことのできないそのリングは、ミレイにとってケインと共にあるために二度と離さないという証のようなものなのだ。
きっともう別れることも許されないだろう。
外せないのか?と問うた時の彼女の鬼のような形相は二度とは見たくない。怨念よりも厄介な代物だと、それを知ったごく親しい友達は言ったけれど。
だが、ケインはそれを受け入れるしかないのだと思っていた。
もうミレイから離れるつもりはない。
黒曜石のエンゲージリングを指にはめる夢は叶った。
ならばケインに残された夢は、ミレイとの幸せな日々だけなのだから。
[了]
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