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ケイコの環 -リング-

高本淳

 銀色の荷電粒子遮蔽シートで包まれた円筒の表面に気密グローブの指をすべらせていて、ふいに寒々とした思いにうたれわたしは身震いした。ケイコが思う存分リングを作れる世界にするんだ――そうパパは言っている。でも彼女は『スタッビィ』のペイロード区画に置かれたこのコールドスリープチューブのなか。そこからでられるのはずいぶん先のことになるにちがいない。
 同様に孤独な眠りのなかでパパもママもジミィもわたしも冷たく暗い2:3海王星共鳴軌道をはるばる渡って来た。その間に外の世界はどんどん変わっていき、カロンの保育センターで一緒に育った幼なじみたちはもう見知らぬ青年や娘になってしまっているはずだ。そう考えるとがらんとした虚空のただなかにぽつんとひとりいるみたいでたまらなく寂しい。
 そんなときわたしは自分を『大草原の小さな家』の主人公ローラであると想像してみるのだ。わだちの跡ひとつない荒野にたった一台の幌馬車を乗り入れ、地平線まで見通せる草原に丸太小屋を建てて……そんなイメージはいっときわたしを勇気づける。でもすぐにまた詰め物をした気密隔壁に囲まれた現実がもどってくるのだった。新大陸開拓時代の人々の孤立無援の暮らしぶりといまのわたしたちのそれとは確かによく似ているかもしれない。でもいっぽうで船のインフォカムには太陽系世界のありとあらゆる情報がリアルタイムでとびこんでもくるのだ。ガリレオっ娘たちが血眼になって追いかけまわすバーチャアイドル、ティタニアではやりの“ゼロG”カット……インディアンの赤ちゃんを見せてあげるなんてたわいもない約束事に喜ぶローラのような純朴さを保つことは残念ながらわたしにはできそうもない。
 そんなあれこれが胸の奥にあったためだろう、さしわたし3キロの氷の塊を最初にモニタースクリーンで見たとき、わたしエリザベス・ランバートは――親しい友人たちから遠くひき離されたことへのかすかな恨みをこめて――ローラたちの住む田舎町の名にちなんでそれを『ウォルナット』と名づけたのだった。でも娘の皮肉に気づくはずもないパパとママはこの名前がけっこう気にいったようだった。たしかにクルミの実みたいに小さなこのエッジワース・カイパーベルト天体EKBOをわたしたちはこれから人間の故郷とおなじぐらい住み心地のいい場所に仕立て上げなければならないのだ。

*

 冷凍食材を手探りで調理機に入れながらわたしはモニター画面を見つめている。放熱板を広げた重いD−D融合炉パイルを船から取り外そうと奮闘しているパパとママとドローンたちの共同作業は背後の舷窓からも見えるけれど、ぐるぐる回るその光景を眺めているとなんだか宇宙酔いになりそうで嫌だったのだ。でもジミィはといえば断熱透明樹脂の表面を鼻息で曇らせながらまるで平気な様子で窓にかじりついている。闇の底でするどく光る星々を目にすると心の底まで凍える気がするわたしに比べ、五歳年下の弟は生まれついての『彗星核農牧民』の適性を持っているらしい。とはいえ生理年齢十歳になったばかりの彼に作業のすべてを理解するなんてことはさすがに無理というものだ。
「ねえ、おねえちゃん……なんでパパたちパイルをあんなところへ運んでいるの?」
「ウォルナットの横腹へまわるためじゃない。スピンアップの軸をあっちにとる必要があるから」
「そうなの? なんでもいちばん長い軸のまわりに回転させるのがいちばん楽なんじゃなかった?」
「――『ローション瓶』効果よ」姉としてのちょっとした優越感を込めてわたしは宣言した。
「なにそれ?」
「パパかママに教わらなかった?」彼は首をふり、わたしは念のためにたずねてみた。
「ジミィ、あなたシャワーのあとスキンローションをつけたりしないの?」
「まさか。女じゃあるまいし!」
「ふうん、なるほどね――なんでいつもあんたの頬がそんなにかさかさしているかわかったわ。船の中はひどく乾燥しているからつけたほうがいいわよ。さもないとたぶんそのうちやっかいな皮膚病を患うわ」
「ほっておいてよ! もう赤ちゃんじゃないんだから」
「ならご勝手に。ま、手袋の漏れは自分でふさぐことね――それはともかく、いちどセンターシャフトあたりの微小重力環境で試してごらんなさい。一杯詰まったローションの瓶をいちばん長い縦軸のまわりに回転させることはとても簡単なのに瓶に中身が半分だけのときはひどく難しい。それはむしろ横倒しになって重心を通る最短の軸のまわりを回転したがるの。つまり核が溶けたウォルナットは半分ローションのつまった瓶と同じようにふるまうわけ……」
 黙ったまま彼はシャワールームにすっ飛んでいき、わたしはちょっとあせりつつフリーフォールブラをちゃんとランドリーボックスにしまっておいたかどうか記憶を確かめた。
 やがて納得して戻ってきた弟とわたしはその後モニターごしにマニピュレータをのばした作業艇がドローンたちの手をかりながら真っ黒な凍土の上に杭を深く打ち、さらにそれらに渡した調整ケーブルにパイルを結びつけるまでを眺めた。何週間かして激しい勢いで噴出する揮発性ガスのジェットが静まるころ融合炉は自分でうがったプールのなかに沈み、そうして水という天然の減速材が中性子を防ぎ止めてくれるおかげでパパたちは安全に他の作業を進めることができるようになる。疲れ知らずのドローンたちがつぎに『赤道高地』にスピンアップエンジンをとりつける準備のためその場から別れていったあと、ようやくパパとママは食事のために船に戻ってきた。

「……連邦大学がガリレオ探査機木星系到着350周年を記念してちょっと面白い公募をしているの。太陽系のいろいろな場所にいる子供たちにレポートを書かせて自分たちの暮らしぶりを報告させるんだって。最優秀賞に選ばれたら奨学金をもらってアンフィトリテで特別聴講生になれるかもしれないわ」
 そう切り出すとパパのフォークの動きがとまった。
「ベス、あなたエウロパへいくつもりなの?」
 そうたずねたママのほうを向き、でも内心はパパに聞かせるつもりでわたしは答えた。
「もちろんどうなるかまだわからないけど、応募してみてもいいかなと思って」
「カイパーベルトの片田舎から花の都へ出られるチャンスというわけ?」
「そう。おのぼりさんになれるの……」わたしは頬を赤らめた。
「ふん」ようやくパパが口を開く。
「連邦議会がトリトンに移ってもう十年だ。大学がウイリアム・ラッセルに引っ越すのもそう先のことじゃあるまい。はるばる木星系くんだりまで行く必要がなぜある?」
「だからこそガリレオ世界を見学できるのもいまのうちなんじゃない?」
 わたしの反論にパパはむっつりタラの白子をアンチョビ・ソースにからませはじめた。言うまでもなく、いよいよこれからウォルナット――ほかならぬわたしが名づけた新世界――の開拓作業の本番という肝心のときに、とそう思っているはずだ。このまま食卓の沈黙がつづけばつぎには微惑星の正確な重心に掘削ドリルの先端をとどかせる方法についての講釈がはじまるだろう。さもないと氷が溶けたときにバランスが崩れてウォルナットはカオス的なとんぼがえり運動を永遠に続けるようになってしまう。そうなったらせっかくそれまでやった仕事がすべて無駄になる……うんぬん、云々。わたしはボーリング技術のうんちくを聞かざるをえなくなるまえに残りの手札をさらすことにした。
「……でもいますぐってわけじゃないの。応募締めきりは再来年の十二月だから」
「だったらまだまだ先の話じゃない?」
「うん……」と言いつつわたしはパパがうっかりカイパーベルトで広く使われている春分点起算の海王星暦で考えてくれることを期待していた。実際はそれは冬至点プラス10日起算の木星暦だから締め切りまであと七百標準日もないのだ。

 はたして両親がどう考えているのかわからないままその日は終わり翌日からパパたちは掘削にとりかかった。わざわざ説明してもらうまでもなく微小重力環境のなかで1500メートルの穴を正確に掘抜くのが容易でないことはわかる。それに加えてたびたび『キック』――突発的な揮発性ガスの噴出がおこるのでふたりは一瞬も気をぬけないにちがいなかった。そうしたジェットはうっかりするとボーリングやぐらを脱出速度をはるかに超える勢いで吹き飛ばしかねないのだ。そもそもそれら有機物を含む混合気体はみすみす宇宙空間に捨ててしまうべきものではない。融合炉を点して出来たトリチウムとヘリウム3とともにこの揮発性物質から精製された炭化水素化合物がトリトンのデベロッパーへのわたしたちの返済の一部になるのだ。そんなわけで掘削用のパイプは多重構造になっていてドリルの歯が極低温で欠けたりしないよう温かい泥水を循環させつつ噴出するガスを集めて船内の変成プラントに送り込む仕組みになっている。パパたちはモニター画面のなかで目まぐるしく動くプラント内圧や軸回転数や掘削深度の数値を同時ににらみながら何日も何日も奮闘した。

「さあ、あとは機械たちにまかせてわれわれ人間はひと眠りすることにしようじゃないか」
 ある日ずいぶんと疲れた、でも少なからず満足げな口調でパパが言った。彗星核農牧民の仕事のうちいちばん難しい部分がようやく終わったのだった。すでに掘削パイプはウォルナットの正確な重心に届いていて融合炉で暖められた温水が周囲の氷を融かしはじめていた。内部の空間が噴出したガスの圧力を十分余裕をもって受け止められるほど拡大したので、すべてをコンピューターにまかせてひと休みできる段階に達したのだ。
「いずれにせよこれ以上わたしたちにできることはない。年が明けて注文しておいた追加の重水素が届くまではね」
 そう聞いてわたしは急に心細くなった。いまD−Dパイルが燃やしているのはスタッビィの残存燃料なのだ。何かの事故でそれが底をつくまえにカロンからのペレットが届かなければ確実にわたしたちは凍え死ぬことになる。それを知りながら人工冬眠の長い眠りにつくのはいかにも不安だった。ママはそんな娘の気持ちをさっしたのだろう、自由落下でもつれたわたしの髪の毛をなでつけながらこう話してくれた。
「あなたぐらいの年にわたしのママ、つまりあなたのおばあちゃんたちは最初のEKBO資源開発移民としてカイパーベルトへ乗り出したのよ。理屈ではうまく行くはずになっていても、すべてが未知の環境ではじめて農牧場をつくりだすことは想像をこえて大変なことだったと思うわ。幾家族もが思いがけない不幸にみまわれて身内を失ったり全滅したりしたそうだし……でもそうした人たちの努力と挑戦のおかげでわたしたちはいま何をどうすべきか彼らよりはるかによく心得ている。だから安心して眠ることね。一眠りして目覚めればそこにはわたしたちだけのために用意されたひとつの世界が待っているはずよ」

 そうしてわたしたちはコールドスリープチューブにはいり……目がさめたときウォルナットはすでに新しい軸を中心に安定した回転をはじめていた。揮発性ガスは無事に抜けきってカイパーベルト天体内部の空洞は再凍結したダストマントル層でおおわれていた。まだ人間用の通路は掘削中だったのでドローンたちのカメラアイを通して眺めるほかなかったけどサーチライトが内壁に作る遠い小さな光の環が内部空間の広大さをわたしに教えてくれた。ママの言葉のとおりほんとうにそれはひとつの世界だったのだ。
 そしてその世界には『海』もあった。彗星核の成分の60%を占める多量の水がそこを満たしていたのだ。もっともそれはまだ海水とは呼べない炭素とさまざまな化合物の塵を含んだ渦巻く真っ黒い泥水だったけれど……。ドローンたちはその上に長いケーブルを渡して太陽灯を設置する用意をはじめていた。わたしはパパとママをすこしでも疑った自分を恥じた。すべてが順調に運んでいると知ることは心やすらぐ。とはいえ太陽灯が運び出された後のがらんとした空間にひとつ取り残されたケイコのコールドスリープチューブを見るのはひどくさびしくもあった。
 ほっとしたことにカロンが送りだした金属重水素ペレットのタンクはすぐ近くまでやってきていた。パパは作業艇を出して回収にいったが、曳かれてくるのを見るとそれはそれは大きなタンクでほとんどスタッビィの居住区画に遮蔽水槽を加えたものと同じぐらいあった。でもいまやD−Dパイルはウォルナットの自転軸上にあり大人しくプールの中に沈んでもいたからややこしいモーメントや放射線の問題はほとんどなかった。パパは軌道と速度を調整しウォルナットの自転にあわせてゆっくりと回転させながら運んで正しい位置に見事に固定した。そうしてわたしたち家族は燃料切れで凍え死ぬ不安から解放されたのだった。追加のペレットタンクもすでにカロンからここへの軌道上にいくつも飛んでいるはずだから定期的にそれらと交換することで望むだけこの場所でがんばることができる。もちろんその支払いがすでにある借金にどんどん加算されていることも忘れるべきではないのだろうけど……。

 やがて世界を創造する作業はふたたび大切な部分にさしかかった。スピンアップだ。寒暖の違いによって海水の循環をうみだすためには適当な大きさの重力が必要だからわたしたちはウォルナットをもっとはやく自転させなければならない。でももともとカイパーベルト天体というのは氷とドライアイスをやわらかく握りしめただけのものだから強い力が加わればすぐにバラバラになる。再凍結した氷のクラスターが内側から補強しているけれどなにかの理由でスピンアップでかかる力が片寄ればわたしたちの世界はあっというまに砕け散ってしまうのだ。パパたちはほんとうにゆっくりとスピンアップエンジンを稼動しつづけ、一日一日水素イオンの目に見えない噴流がすこしづつ微惑星の回転速度をあげていった。この推進剤は豊富にある『海水』を電気分解してつくられたのだ。そして副産物の酸素はふたたび海水にまぜられて溶け込んだ炭素を二酸化炭素に変えて分離する役割をはたす。同時に太陽灯の放つ紫外線が微量ながらも有毒なシアンガスを分解してくれる。なるほど気のきいたやりかただけど、計算どおりいったとしてもすべて長い時間がかかるプロセスだ。でもこの作業だけは機械にはまかせられない。ときどきウォルナットの表面に亀裂が入り揮発性ガスのジェットが吹き出してスピンアップのバランスを崩そうとしたりするからだ。
 とはいえどんな大変な仕事でもいつかは終わるときがくる。そうしてわたしたちがこの足で自分たちの土地を踏むことができる日がとうとうやってきた。

 海はねっとりした重油かなにかのように世界をおおっていた。うねうねと波立ち騒ぐその円筒形の黒い泥水の“ほら”を見上げると巨大な生き物の体内にでもいるような無気味な圧迫感がある。背後にはダストマントルの氷壁が数百メートルの高さにそびえていた。こちら岸は近すぎて形が歪んでしまっているが対岸のそれはくっきりと海に縁どられた不自然な正円として見える。いまはすすけたようにまっ黒だがやがて酸化され白くなっていくはずだ。
 世界の軸を通るケーブルにずらりとならんだ太陽灯に照らされてパパたちはゆったりと波うつどろりとした海の間近にいくつもの影を落として立っていた。自転軸から三百メートルほど低いだけのこの場所では波は化け物みたいに大きくなるからわたしとジミィは波打ち際に近寄らないように言いわたされていた。重力は小さくとも海水そのものの質量は変わらない。すべりやすい足場の上で打ち寄せる波は人ひとりを深い海の底に引き込むのに十分な力をもっている。もし気密服ごと海底に転がり落ちたら自力では上がってこられないだろう。この海は岸辺を離れると急激に深くなっていてわたしたちは切り立った断崖の縁にいるのも同じだった。
 パパとママが海面に下ろそうとしているのは黄色い小さなゴムボートだ。船外活動用の頑丈な気密服を着たふたりがそんなぶくぶくした空気袋を水に浮かべようとしているのはなんだか滑稽な眺めだった。海面のうねりに悩まされつつなんとか無事ボートを海に浮かべてのちパパはわたしたちのほうを見て手をふった。
「いってらっしゃい、パパ」
「ほんとうに気をつけてね?」
 ママとこつんとヘルメットを打ちあわせるとパパは波の合間をみはからってすばやくボートに乗り込み電動モーターを全開にして沖をめざした。ママはダスト浄化のためのバクテリアを散布するのに岸からではなくわざわざ沖にでようとするパパのやりかたに不満なのだ。ふたりが昨日の夜それについて珍しく激しくやりあっていたのをわたしは聞いていた。太陽灯で暖められた海の水は氷の岸辺で冷やされ重くなって沈む。両極から流れ込んでくる冷たく重い海水は赤道で合流し、あとからやってくる流れに押し上げられる形でふたたび海面をめざす。つまりそこには『赤道湧昇流』によってわけられる二つの循環が生じるのだ。だから確かにパパの言うとおり片側の岸からただまいただけではバクテリアはいっぽうの循環流にとらわれて海の半分にしか広がらないだろう。赤道を越えてボートから散布することではじめて海全体にバクテリアを拡散し効率よくダスト浄化作業をすすめることができる。
 でもいまボートで沖に出ていくというのは少なからず危険な行為だった。まんいち転覆して投げ出されたら重い気密服を着こんだパパの身体は石のように海中に沈んでいってしまうはずだ。凝固点よりたいして温度の高くない海水は伝導と対流によって効率的にスーツの熱を奪うから、酸素がつきる前にバッテリーあがりでパパは凍りついてしまうに違いない。しかし迅速に救助しようにも無線はとどかず海水は多量のダストのために黒くにごっていて視界はきかない……。ママはそう言ってパパに反対していたのだった。
 でもそんなママの心配をよそにパパは円筒形の海を縦横に横切ってあちらこちらでバクテリアの培養ユニットをしずめてまわった。海の反対側でそれをしているときはわたしたちは顔を上向けて頭上1キロ彼方で逆立ちしたパパの点のような姿を見つめた。やがてすべての作業を終えたパパのゴムボートが波しぶきを盛大にあげながら反り上がった海面の坂を下ってきた。わたしはようやく緊張を解いてジミィと顔を見あわせて笑いあった。
 ――そのとき世界が揺れた。
 わたしと弟は足の下の地面が不意に盛り上がり、つぎにまた無気味に沈みこむのを感じた。不安定な裂け目をおしわって噴出した突発的な揮発性ガスのキックだ、と気づいたのはずっと後になってから。そのときはわたしたちは何がなんだかわからないまま地面に投げ出され海に転がり落ちないよう必死になって鳴動する氷にしがみついているばかりだった。
「こわがらないで、ジミィ。 手をはなしたらだめ。しっかりつかまってなさい!」
 ママが何か叫んでいる。横目で海のほうを眺め、無人で波間をただよっているボートをちらりと見た瞬間、わたしの頬から血の気がさっとひいた。
 振動が収まるまえにママはすでにロープの端を腰に巻きつけていた。ジミィにその場を動かないように言い聞かせてから手伝いに走りよるあいだ膝ががくがく震えるのをどうしようもなかった。
「昇降ケージのプーリーからケーブルを外してかわりにこのロープの端を結びつけて! 海に入ったら通信はできないわ。パパを見つけたらひっぱって合図するから巻きあげるのよ。わかった?」
「ママ……っ!」
「なに?」
「な、中ではたぶんリスト端末は見えないよ……」
 ママは一瞬唇をかみしめ、それから酸素残量表示を見つめながら意を決した口調で言った。
「四十分たったら合図がなくても巻き上げてちょうだい。いい?」
 青ざめた顔でうなずいたあとママはこちらの目をのぞき込みフェイスプレートを軽く叩いて――わたしはママを誇りに思う――にっこりと笑った。
「なんて顔をしているの? 大丈夫、それまでにはかならず見つけるわ」
 それからママは後ずさるようにしてゆっくり海の中にはいっていった。わたしとジミィは低重力のなかで懸命に足をふんばりながらロープを送りだした。ロープは果てしないほど長かった。そうしながらわたしはママとパパのいる下の様子を想像した。一寸先も見えない極寒の暗闇。ほんの数メートルに接近するまで無線も使えないだろうから、ふたりは何百平方メートルという海底の斜面を這い回りながらほとんど手探りでおたがいを捜さなければならない。それとも……わたしは歯をくいしばってその可能性を頭から追いだした。パパは転がりおちたときひどい怪我をしたかも……。
 ほんの数分が一時間にも感じるってことはほんとうにあるものだ。わたしは静かにしゃくりあげているジミィの肩を抱いてはげましながら長い長いその時間に耐えた。そのとき何を考え何を感じながらそうしていたかいま思い出そうとしてもできない。記憶にあるのはそうしているうちにふいにわたしはママが潜っていってすでに三十分がたってしまったのに気づいてがく然としたことだ。あの時点での酸素残量が予備タンクも含めて五十分。船へもどるための時間を考えればあと十分がぎりぎりのタイムリミットだった。
 そう思ったとたんまるで魔法のようにこんどは時間が速く過ぎるようになった。五分をわった頃にはいら立ちと不安で自分がいまにもその場に倒れて死んでしまいそうに感じたほどだ。リスト端末に表示される数字が最後の一分を切り、そして残りが十秒になってまるで自分ひとりが全宇宙を背負っているような泣き叫びたくなるぐらいの痛烈な孤独感にわたしはおそわれた。ママはパパをまだ発見できないでいるんだ! でもいまママを引き上げなければわたしたち全員が酸素切れで死んでしまう。……ためらうことは許されなかった。
 自分のものでないような手を無理矢理動かして昇降ケージの巻き上げモーターのスイッチをいれた。ロープは恐いぐらいのスピードで巻き上げられはじめた。それが切れるんじゃないかと不安でほんとうにインナースーツの背中に冷汗がたまっていくのがわかるほどだった。そうしてほとんど呼吸すらできずに見守る長い長い時間の後、黒い海面に炭素で汚れた白いヘルメットがふたつ浮き上がった……。
 ママはパパを見つけていたのだった。でも低重力下にもかかわらず長いロープの重みと摩擦のために合図を送ることができなかったのだ。岸にはいあがったパパとママに駆け寄りわたしたちはひとかたまりになって抱きあった。でもそこで喜びをかみしめている時間はなかった。全員の酸素がほとんど底をついていたからだ。

 手足の指の軽いしもやけをのぞいてパパに怪我はなかった。再凍結した斜面はなめらかで気密服にはたらく浮力も作用して滑落の衝撃は大きくはなかったようだ。ただ寒さに加えて完全な暗闇と孤独感がひどくつらかったとパパは告白した。たぶんわたしたち家族への信頼がその時のパパを支えていたのだと思う。それがあったからこその冷静さがパパの生命を救ったのだ。パパはその場を動かず可能なかぎり小さく縮こまり、生命維持装置から空の酸素ボンベを取り外して居場所を知らせるために海底の氷床をそれでこつこつ叩き続けていた。ママは気密へルメットを通じてかすかに聞こえるその音を頼りに比較的短時間でパパを見つけだすことができたのだった。

 いつもよりずっと遅くなった夕食のあとかたづけを手伝った後、わたしはパパとママにこういって切り出した。
「こんどのことで切実に思ったの。彗星核農牧民の苦労をみんなに知ってほしいわ。それがどんなに大変で危険な生き方であるか……でも同時にどんなに大切で誇りある仕事であるかを。わたしたちが生産する食料が太陽系のほとんどの人々を養っているっていうのにカイパーベルトでの暮らしはあまりにも知られていない。ネットでの会話を聞いているとまるで帝国主義時代のヨーロッパ社会が植民地のネイティヴに対して抱いていたようなイメージをもっている人だっている。そんなことがこれからもつづくのはよくないことだわ」
 パパは口を開こうとしてためらったすえやめ、かわりにママがこうたずねた。
「やはりここをでていくつもりなのね? ベス」
 わたしはうなずいたあと、ふたりを安心させるようにつけくわえた。
「でもいますぐアンフィトリテへ飛んでいくつもりはないの。まだまだパパとママを手伝いながらここで学ぶことがたくさんあるってわかったから。応募はつぎの機会にまわすことにしました。わたしたちの暮らしぶりを知らせることを始めるのはまずわたし自身がもっともっと勉強するべきだし、だからこそ大学へ行くのはウォルナットがりっぱな農牧場になるのを見届けてからでも遅くないって思うの」
 パパはママの手をにぎって顔をみあわせ、それから微笑みながらわたしに言った。
「エリザベス、あらためて礼を言うよ。おまえがあのとき正しく決断してロープを引き上げなかったらランバート一家は全滅していただろう。わたしもまたあの暗闇の中にすわっているあいだにいささか考えるところがあった。農牧民の暮らしはたしかに危険ととなりあわせだ。自分の子供に――いや誰にでも強いるべき生活じゃない。おまえの人生はおまえたちの自由にすればいいさ。どこへ飛び出して行こうとわたしはもう反対するつもりはない。もっとも大切なひとり息子はどうやらいまのところ父親のあとをつぐ決心でいるらしいけれどね……」ジャグラーよろしくドレッシングの瓶を投げあげているジミィを見て頭をふりながら苦笑し、それからまじめな表情にもどってパパは念をおした。
「だが、ほんとうにいいのかい? おまえにとってまたとないチャンスなのに?」
 わたしはパパの目をしっかりと見つめかえし、もういちど自分自身を納得させるようにうなずいた。
「たぶん、あせっていたの。わたし……なんだか自分が農牧民の暮らしに向いていないんじゃないかって、とても不安だったの。それで近道を選びたかったんだと思う。でもこんどのことですこし考えがかわったみたい。地道に通信教育で大学の受験資格をとったほうがのちのちのためにむしろいいって思えるようになったの……」
 照れてすくめるわたしの肩にやさしく腕をまわしながらママが言った。
「――あなたが敬愛しているらしいローラ・インガルスの娘はジャーナリストになったわ。遅かれ早かれあなたがそうした道をめざすのじゃないかと思っていました。それはそれで決して楽な生き方とは思わないけれど、人生の可能性を満足するまで試すのは大事なことよ。自分のベストをつくしてごらんなさい。それでもし行きづまるようなら――その時にはいつでも戻ってくればいいの。ここはあなたたちの家なんだから」
「ありがとう。ママ、パパ!」
 そうしてわたしはこのレポートを自分のために書きつづけることにしたのだ。

*

 窓の外は明るくここが水深五百メートルの『深海』であるということをわすれてしまいそうになる。海中に林立するケーブルにとりつけられた太陽灯は氷におおわれた地球の極海よりずっと効率よく光合成を促進し、多量に含まれる窒素を利用してクラスター氷壁のなかで植物プランクトンたちは活発に成長して低温の海に多量の酸素を供給している。生まれたばかりのウォルナットの海はゆったりとした海水の循環のなかで静かにたゆとうているけれど、そこにはもう植物プランクトンから小魚、そして死骸を分解する環形動物、細菌にいたる確実な食物連鎖がうみ出されているのだ。そして小魚を食料とするより高次の補食者も……。
 すばやく動く影がひとつ砂地の上を通りすぎた。海水をにごらせていたダストが吸着凝縮された灰色の砂が一瞬舞い上がりふたたびゆっくりと沈む。その海底すれすれを矢のように突進していたケイコは突然白い身体をひるがえし淡い翡翠色の空間いっぱいに大きな輪を描いてみせた。長い眠りからめざめたにもかかわらずその動きはほんとうにはつらつとしている。腹部から尾のつけねにいたる白い肌の下に浮き出るたくましい筋肉。それと対照的に産まれたての赤ん坊みたいに愛らしい瞳とうっとり微笑んでいるかのようなくちびる――だが彼女がそうやって生きる喜びを全身であらわす姿にわたしは少しばかり気押されてしまう。全長4メートルにとどこうとするシロイルカ、ケイコの大きさのためではない。そうやって世界を愛でることができる彼女の純粋さが少しまぶしいのだ。ここ数年つぎからつぎへ立ちあらわれる難題に家族全員必死で対応しているうちに、ひょっとしたら農牧場をつくることの本当の意味をわたし自身見失いそうになっていたのかもしれない。

 どうしてだれもかれも例外なく彗星核農牧民はシロイルカを飼いたがるの? ――そうたずねるわたしに、たぶんそれはしょく罪であると同時にわたしたちの誓いなのさ……とパパは答えた。
 むかしむかしあるところにセントローレンスという川があり一万頭のシロイルカたちが住んでいた。しかし肉や脂めあての乱獲によって百年ばかりの間にその数は五百頭を下回るまでになってしまった。そこで自らの行為を悔いた人間は彼らの捕獲を禁止し保護しようとした。しかしなぜかシロイルカの頭数はいつまでたっても増えなかった。病気や死産が異常に多かったのだ。科学者たちが調査を重ね上流の工業地帯から流された廃液が原因だとわかったときにはすでに遅かった。それら有害物質はシロイルカたちの体内に蓄積し脂肪分の多い母乳をつうじて世代を追うごとにしだいに濃縮されていった。やがて人々はもうセントローレンス川では新しいシロイルカの子供の姿を見ることができないのに気づいた……。
 パパの言わんとしたことはよくわかる。彼らの姿をまぢかに見ることがわたしたちに過ちを思い出させるのだ。かつて地球でそうだったようにもし人間がただ自然から一方的に奪うばかりだったら……ウォルナットをはじめとする農牧場の小さな生態系はあっというまにバランスをくずし消えうせてしまうだろう。わたしたちはつねに過去の失敗をかみしめ思慮深く謙虚な管理者としてデリケートなこれらの小世界をとりあつかわなければならない。そしてその営みがうまくいっているどうかを教えてくれるのもまた食物連鎖の頂点にいるシロイルカたちなのだ。

 ようやく満足したケイコはゆったりとした動きで居住ドームに泳ぎよってきた。つるりとしたその頭部の呼吸口からぼこりと泡が立ち上るとすぐにきらきら輝くリングとなって天使の環のように彼女の頭上を浮遊する。水深による圧力差が表面張力にうち勝つことでこのリングは形成され、同時にそこに生まれる渦によって安定して存在しつづける。こうしてケイコがリングを作れる世界であるからこそわたしたちの海は生命をはぐぐむことができるのだ。ウォルナットのスピンがうみだす深度による適切な圧力勾配こそ海水の循環を保障し海洋生態系をささえる必要条件なのだから。
 しだいに薄くなりながらも直径を増していく銀色の環をケイコはつくづくとながめている。もちろん超音波もつかってあれこれ自分の作品の形や動きを鑑賞しているにちがいない。イルカたちのこの遊びはたぶん人間の芸術文化に匹敵するものなのだろう。どんなにがんばってもわたしには彼女のようにみごとなリングは作れない。でもそのかわりわたしたちはケイコが快適に暮らし思う存分リング遊びを楽しめる環境そのものをつくりだすことができる。そう……もう見失ったりはしない。彗星核農牧民はただ太陽系の食料市場に流通する商品を生産しているだけではないのだ。わたしたちは生命に満ちあふれたひとつの世界をデザインし創造する。そしてそれはケイコのリングと同様、たぶんその制作者の――ローラの一家のように新しい世界を切り開こうとするわたしたちの、生きざまを語るほどに価値あるものであるにちがいない。

 かん高いホイッスル音でわたしはふりむいた。床のまん中にあるプールからケイコが丸い頭をのぞかせてさかんに鳴き声をあげている。わたしがそうして書き物をしているときまって彼女はここにやってきていっしょに遊ぼうと誘うのだ。
 ――わかった、わかった。いまいくわよ!
 最後の文章をいそいで打ち込んだらウォームスーツにゴーグルと人工のエラをつけて……さあ、彼女とわたしの美しい世界を一周する海中散歩にでかけることにしよう。

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