指が触れた瞬間、恋をした。それは幸福の始まりでもあり、不幸の始まりでもあった。彼女は音つかいであり、ぼくは言葉つかいだった。ぼくは彼女の奏でる音に魅せられ、彼女はぼくの語る言葉を理解しなかった。けれどもぼくは言葉つかいだったので、語る以外に自分を伝える方法を知らなかった。伝わらない言葉を幾重にもかさねて、ぼくは彼女への思いの丈を語った。彼女はぼくの言葉を理解しなかった。けれどもぼくが隣で語ることを、遮ることはなかった。ぼくの言葉が途切れるとき、彼女は音を奏でた。
風に流れる彼女の音。
ぼくは彼女の肩を抱き、彼女はぼくに体を寄せた。ぼくたちは幸福だった。少なくとも2人きりでいたときは。
指が触れた瞬間、やつが彼女に恋をしたのがわかった。やつの幸福の始まりであり、ぼくの不幸の始まりでもあった。やつは踊りつかいだった。やつが彼女の音に合わせて、体を動かし始めたのが見えた。彼女は最初はとまどいながら、やがてまるで当然のことのように、ぼくの知らない音を奏で始めた。たぶんやつにだって理解できるわけがないだろう彼女の音。
それがむだな行為なんだと言うことは、ぼくにはできた。言っても彼女に届かないことはわかっていた。けれどもぼくは、それを言った。ぼくはそういうふうにしてしか、彼女と交われなかった。
ぼくの言葉では追いつかない彼女の変化が、耳に届く。
そしてぼくは、彼女には届かない、一方通行の通信を送り続ける。
やつが踊っているのが見える。彼女の目がやつのしぐさをなぞっているのがわかる。彼女の音が、やつの動きにそい始めたことは、音つかいでないぼくにだってわかった。
ただ繰り返すばかりのぼくの言葉。
きみは、ぼくのそばに、いたい?
ぼくの言葉を理解しないまま、彼女はぼくの肩に寄りかかる。
彼女を見送ったあと、ぼくは部屋に戻り、自分の指を見た。そしてやつの指を思い出した。冗舌なほどに語るやつの指、しぐさ、体。そして無骨なぼくの指は、何も語らない。
そして、ぼくの言葉は彼女に届かない。ぼくの抑揚のない言葉では、彼女の耳に届かないのだ。ぼくは音を操れない。
それでは彼女はどうなのだろうか。彼女は、ぼくの耳には届かない音を、やつの動きから感じとっているのだろうか。
ぼくにはわからない。ぼくにはかれらの心の機微はわからない。けれどもぼくはそれに名をつけることはできる。
恋、と、ぼくなら名づける。
ぼくはその言葉を指でなぞり、記憶した。
彼女はぼくのいないところでやつと会いだした。
そしてばかなぼくはそれを言葉にしたのだ。ひとつ、ひとつ。音が欠けた言葉を。ひとつ、ひとつ。
恋、と、ぼくは名づけた。
これが彼女とやつの関係だ。そしてぼくの。彼女の出す音に寄り添えないこと、それがぼくの最大の不幸だった。ぼくは彼女を聴くことしかできなかった。聴いていることを伝えることすらできなかった。
ぼくは言葉をよりどころに、彼女の音を理解しようとした。
歌、と、ぼくは名づけた。
けれども、ぼくの言葉は、歌にはならなかった。彼女の音にのらなかった。彼女は不思議そうにぼくの言葉を眺めるだけ。彼女の音が、途方にくれて途切れたのを、ぼくは聴いた。ぼくは泣きそうな思いで彼女を抱きしめた。彼女はぼくを哀しげな目で見る。そして、音は途切れたままだ。それが、いまの、ぼくと彼女との関係だった。
このまま彼女のそばにいるのは辛い。けれども彼女から離れることも、辛くて選べない。ぼくは迷った。迷って、迷った。
そしてぼくは諦めた。ぼくは言葉を諦めた。ぼくは言葉で彼女を縛ることを諦めた。
彼女は言葉を発さなくなったぼくを不思議そうに見る。ぼくはそんな彼女に向かって、もう、ごめんよ、とさえ言わない。
ぼくは言葉を諦めたのだ。
途切れ途切れに、彼女の音が聞こえる。ぼくを心配してくれているのだろうか。ぼくは彼女の髪をなでる。その髪が音を放つのをぼくは聴く。
ごめんよ、とは、ぼくは言わない。言っても、彼女には届かない。こんなにぼくを気づかってくれているのに、ぼくは何ひとつきみに伝えることができない。
言葉では間に合わない。それ以外のものでも、今のぼくでは、きみに伝えることができない。
ぼくは彼女の髪をなでる。そして同じように、いや、ぼくなんかよりもはるかに彼女の音に同調させて、彼女の髪をなでたであろう、やつの指を思う。その動きを思うだけで、ぼくの心まで震える。ぼくにはできないこと。やつにはいとも簡単に。
彼女の髪が震える。震えて音を放つ。
やつとの約束の時間なのだ。
そしてぼくは彼女を引き留めない。
彼女は哀しそうにぼくを見る。ぼくは笑って彼女を送り出す。胸が軋む感覚がする。彼女も痛そうな顔でぼくを見る。
ぼくはそれには名前をつけない。けっして。
ぼくが言葉つかいになることを選んだのは偶然だった。では、その偶然に終止符を打とう。彼女のそばにいるために。彼女を失わないために。
すでに失っているのだ、とは、ぼくは言わない。
夢、と、言葉つかいなら名づける。
夢つかいになっても、よかったのだ、ぼくは。そうならなかったのは偶然だった。
では、その偶然に終止符を打とう。
ぼくはありったけの言葉を思い起こす。彼女を表現するありったけの言葉を思い起こす。たぶん、これが、言葉つかいとしての、ぼくの、最後の、言葉。
指、肩、髪、瞳、爪、肌、耳、項、ひとつひとつ彼女の見せた瞬間瞬間を言葉にするたび、彼女の像が思いもかけないぐらいの鮮やかさでよみがえった。ぼくはそのひとつひとつに涙した。
彼女の聴かせてくれた音も、ひとつひとつ、よみがえる。
ぼくはそれさえも無理矢理に言葉に置き換えた。そうすることでしか、ぼくは彼女を理解できないのだ。怒、麗、魅、陽、浮、実、影、媚、詩、吾、瞑、杖。
そして、いったい、それに、どんな意味があるというのか。ぼくはぼくのやり方でしか彼女を見ないのだ。そして現実の彼女はぼくの言葉なんか欲しがらない。
ぼくの知らない音を出して、ぼくのできない動きをして、いま、彼女はやつといて幸せなのだ。
胸が軋む感覚がする。
けれどもぼくはそれに名前はつけない。けしてけっして名前をつけたりなんかしない。
ぼくは眠る。彼女を失わないために。ぼくは眠る。幸福そうな彼女を見るために。
夢、と、言葉つかいなら名づける。
ぼくは夢を見始めた。そこには、彼女がいた。やつもいた。当然、ぼくもいた。車座に座っていた。みんな、待っていた。これから起こることを、期待して、待っていたのだ。けれども、何も起こらない。所詮ぼくの見る夢なんか、そんなものなのだ。結局のところ、言葉をもたないぼくにできることなんて、そんなものだ。言葉を操っていたころは、まだそれだってコミュニケートの手段だった、それがうまく機能していたかどうかはともかく。それさえ欠いたぼくの見る夢は、そのひとつひとつが、あまりにも断片的で、あまりにも個別的で。自分でも、夢を見ることで何かがまとまるというような、楽観的なイメージをつかめない。
ぼくは、そんな、不安定な夢を、日々つくり出しては眺めている。ただ、彼女に会うためだけに、夢をつくりつづけているのだということはわかっている。そういうのも、悪くはない。夢のなかで、彼女は音を奏でない。ぼくも言葉を交わさない。それでも、それなりに、ぼくは彼女に恋をするのだ。夢の恋なんていうのは、こんなものなのだろう。それで、何か困ったことが起きているような気にも、実のところならない。
ぼくは調べ始めた。ぼくの夢を現実に近いところに出現させるために、たくさんの人たちの、現実を。それは言葉だったり、音だったり、映像だったりした。ぼくは、それを収集して、取り込んだ。とはいえ、所詮、夢なので、細部はほんとうにいい加減だ。ぼくの主観だってどうしようもなくはいっているし。客観的な世界のコピーだなんてことは、まったくない。この夢は、ぼくの夢なのだ。彼女がいて、ぼくは彼女とうまくいっている。少なくとも、表面的には。
ときどき、現実の彼女が、ぼくの夢を覗きにくる。とくに腹立ちがあるわけでもなく、ただ、不思議そうな顔をして、夢の住人と接触する。何も言わないぼくに、彼女も何も言わない。でも、なんだか、安心しているような顔をしている。どうして? と訊きたいところだけれども、それはもうしないことにしたので。彼女も、その理由をわざわざぼくに説明する必要はないと思っているようだ。
あたしも、夢をつくれるかな、と夢の彼女が言う。
そりゃ、できるんじゃないの? ぼくにできたぐらいなんだから。
でも、音を捨てなきゃいけないのよね。
いや、それは、ぼくはそういうふうに自分に枷を強いたんだけれども、別にいいんじゃないかな、音をつくりながら、夢をつくっても。
わたしの夢に、あなたは来てくれる?
それは、夢のなかのぼくが、ということ? それとも、夢の外のぼくが、ということ?
彼女は少し考えて、それは違うものなのかな、と呟いた。
夢の彼女の前に、現実の彼女がいて、彼女は音を奏で始める。夢の彼女はその音には興味がないようだ。二重唱とか、してみないの? と訊いたけれども、おもしろくなさそうに首を振る。だって、所詮あたしでしょ。そんなことないよ、だって、きみはぼくの夢だし、彼女はぼくの夢ではないのだから。でも、所詮、あたしなのよ。
ぼくには彼女の言葉がなんだか難しく思える。そもそも、彼女が言葉でもってぼくとコミュニケーションしようとしていることを、いぶかしく思う。
あたしにだって言葉はあるのよ、と夢の彼女は言う。必要なかったので、使わなかったのだけれども、と。そういう感じは今のぼくにはよくわかる。ぼくにだって、音はあった。踊る体だってあった。ただ、それを使うことができなかっただけだ。
彼女の言葉は、今のぼくには苦痛だ。ぼくはただ、夢を見たいだけなので。せめて歌ってくれればいいのにと思う。けれども彼女は、気が向かないから、と首を横に振る。それはそうだろう。所詮、彼女は、ぼくがつくりあげた夢なのだから。でもそれが夢であろうと夢でなかろうと、今のぼくにはそんなに違いはない。ただ、できれば、言葉を使うことをやめてほしいと思うだけだ。
ぼくの夢に、彼女はたくさんいることがわかった。ヴァリエーション、といえば聞こえはいいのだが、どうも質の悪いコピーであるように思われる。彼女たちは音を奏でる。けれども、その音たちが、ひとつとしてコンビネーションをつくり出さないのだ。これが、夢つかいとしてのぼくの限界のような気もする。所詮、ぼくに、音は操れないのだ。
彼女たちは、それぞれ別の方向を向いて、それぞれ別の音を出している。はっきりとした、不協和音だ。ぼくは、それを聞くのが、そう不愉快でもない。むしろ、彼女たちが他と合わせることなしに、自分の音にだけ意識を集中しているさまは、小気味いいほどだ。現実の彼女が遊びに来る。すごく居心地が悪そうに、ぼくの隣に腰を下ろす。来たくなければ来なければよいのに、と思う。彼女は彼女のほうで、自分がここにくる意味がぼくにわからないなんて、信じがたいとでも言いたげだ。別にぼくたちは会話をするわけではないけれども、ぼくに、彼女の音が突如理解できたわけですらないんだけれども、でも、そういうことは、なんとなくどうでもいいような気がしてきた。彼女が何者であろうと、ここはぼくの夢なんだ。だったら、ぼくの夢のルールに、彼女は従っていて、いい。でなければ、そもそも、ぼくの夢のなかに、彼女が入ってくる意味がわからない。
あなたは、歌わないの? そう問われて、ぼくは、嫌だからね、と答えた。どうして? と問う彼女に、ぼくは、それではやつに勝てないからだよ、とは、答えない。答えるかわりに、夢のルールを少し複雑にしてみた。彼女は喋ろうと試みて、それが無理であることに気づいた。音を奏でることさえも、彼女にはできなくなったみたいだ。彼女は、ぼくに、うらみがましそうな顔を向けた。ぼくは、彼女に、踊らないの? と訪ねた。彼女は、嫌だからね、と答えた。どうして? 嫌なのよ、少なくとも、あなたとは、そんなふうにしたくない。けっこう。彼女はもう、ぼくの指し示すとおりにしか、言葉を操れない。
ぼくの夢に、やつはまったく出てこなくなった。最初のころは出てきていたのだが、輪郭だけの、あまりにも不完全きわまりないものにしかならなかったので、無理に登場させるのをやめたのだ。そうすると、おもしろいもので、現実のやつもぼくの夢には興味を示さない。なるほど、ぼくの夢は、彼女とやつとの距離を、意図してはいなかったものの、少なくとも形だけは遠ざけるのに成功したようだ。
そうして、ぼくは嬉しくない。ぼくの夢の外では、相変わらずやつと彼女との恋は続いている。彼女の音は変わった。やつの踊りも変わった。ぼくだけが変わらない。変わらずに、ずっと中途半端な夢を見続けている。
もう、誰も夢に現れなくてもいい、とさえ思うことがある。
ぼくは夢のなかで、眠る。ぼくは諦めることを、諦めているのかもしれない。
夢のなかにいることが多くなると、ときどき、現実への帰り方がわからなくなる。最近では、彼女の先導なしには、夢から戻ることができなくなってきた。その彼女にしろ、帰り方は曖昧だ。ぼくには、その彼女が、夢の彼女か、現実の彼女か、判断ができない。
夢のなかで、彼女はとても親切になることがある。とても、辛辣になることもある。ぼくはそのどちらの彼女にも、心が動く。彼女は、ぼくが自分のことを愛しがっているのを、非常によく知っている。これが、現実の彼女ならいいのに、と思う。けれども、現実に戻ると、彼女は相変わらず哀しそうな目でぼくを見る。ぼくはその目を記憶する。
やつがやってくる。夢つかいなんかろくでもないと、ぼくに説教をする。ぼくはその説教を知っている。むかし、ぼくが言葉つかいだったころ、それに類する言葉をぼくはたくさんたくさん吐き散らしていたから。ぼくが、言葉を使わなくなったとたん、なぜみんながこうも簡単に言葉を使い始めるのか、ぼくには不思議だ。でも、その言葉には、意味がない。言葉つかいでないかれらの言葉は、単なる音でしかない。ぼくはその違いを知っている。とてもよく知っている。
だから、やつがいま窮地に陥っていることも、わかってしまった。やつは彼女とうまくいっていないのだ。けれどもやつはそれを言葉にすることができない。そしてやつは彼女に暴力をふるったのだ。やつには、そうすることでしか、感情を表現できなかったから。そして、それでは、彼女には伝わらない。
今はもう、彼女は、誰かのためにとか、何かのためにとかいう理由なしでは、音を奏でない。自分のためには、音を奏でない。そしてぼくの夢にときどき現れては、意味のない言葉を使ってぼくにからもうとする。ぼくにはそれは非常な喜びで、そして際限のない苦痛だ。ぼくの耳に、彼女の言葉は、もう届かないのだ。
彼女は苛々している。仕方がないので、ぼくは彼女を抱きしめる。けれども、それは彼女の欲しいものではないのだ。彼女は怒る。彼女は泣く。
夢を見せてよ、と彼女は言う。夢を見せてよ。わたしに都合のいい夢を見せて。わたしが安心できるような夢を見せてよ。
困ったことに、ぼくは彼女のその申し出を受け入れてしまう。
彼女が、ぼくの夢に住みつきだした。ぼくは、それを、嘆くべきことだと理解している。けれどもその実、ぼくは喜んでいるのだ。
朝は、彼女とともにやってくる。夢のなかの彼女が、ゆらゆらと形をもち、音を奏で始める。なるほど、確かに、彼女の音はこんなだった。ぼくは少し安心して、夢のなかで目を覚ます。夢は、あちらこちらに綻びがあるものの、そんなに悪くない。少なくとも、彼女が夢のなかで安住するのに、邪魔になるものがあるようには思えない。
間違ってはいない。これがぼくの望んだ結末なのだ。ただひとつ違っているのは、夢のなかで、彼女は幸せそうではないことだ。それとも、これこそが、ぼくの望んだ彼女なのだろうか。
彼女が指を立てる。彼女に合わせて、ぼくも指を立てる。彼女の指が、円を描く。ぼくも彼女に合わせて、円を描く。おもしろいでしょ、と彼女が言う。何が? おもしろいでしょ、彼に教わったのよ。誰に? ぼくの問いに、彼女は答えない。
指を立てる。円を描く。彼女が何を望んでいるか、ぼくにはわからない。
彼女がぼくの夢に、やつをつれてくる。相変わらず輪郭のはっきりしないやつが、ぶっきらぼうに、ぼくの手をとる。
触れた瞬間、やつが夢であることがわかった。
おもしろいでしょ、と彼女が言う。
君の夢だったのか? いったい、どこから?
彼女がぼくの手をとる。
触れた瞬間、夢であることがわかった。
そりゃそうだ、これはぼくの夢なのだ。
ぼくは曖昧な気分で彼女を抱きしめる。彼女がぼくに口づけをする。
触れるたびに、それが夢であることがわかる。
ぼくの手は、彼女の体をなぞり、やつの息を感じる。つながっているのだ。夢が。誰の夢に? どこまで?
おもしろいでしょ、と彼女が言う。
困ったことに、それはもう、ぼくの言葉なのだ。
そして、ぼくは、彼女に合わせて、指を立てる。ゆっくりと円を描く。これは、やつの指だったもの。いつのまにか、彼女の指になったもの。
やつにはもう、指はない。やつには、もう、彼女が殴れない。指で語ることもできない。
そのかわりに、ぼくが指を立てる。それが、ぼくの夢なのか、彼女の夢なのか、もしくはやつの夢だったのか、あるいは別の人の夢のなかなのか、もうぼくにはわからない。
でもつながっていることはわかる。円を描いて、つながっている。
だからこそ、彼女はぼくの言葉で喋り始めたのだ。
夢のなかで、ぼくたちは車座になって手をつないでいる。ぼくたちは歌をうたい、その手を歌に合わせて、挙げたり下ろしたりする。そうして、ぼくたちはゆっくりと回り始める。
回転する。
彼女が微笑んでいるのが見える。いや、もう、ぼくの目には、それが彼女の顔かどうかすらわからない。
回転する回転する回転する。
唐突に、夢から覚める。
彼女も、ぼくの隣で、夢から覚める。彼女は慌てて、あ、あ、と声を出す。大丈夫、それはきみの声だよ、とぼくは言う。彼女はまだ不安そうに、あ、あ、と声を出している。
ぼくもつられて、あ、あ、と声を出してみる。これが自分の声かどうかは、ぼくにはわからない。けれども彼女は、大丈夫よ、と言う。それですっかりぼくは安心してしまう。
怖い夢だったのよ、と彼女が言う。何度もあなたを呼ぶのに、あなたは返事してくれないの、まるであたしの声が聞こえないみたいに、へんなの。ふうん、とぼくは答える。あなたがたくさん出てきたのよ、それで、こう、輪になって、なんだか歌っているの、それで、あたしはそのなかに入れてくれないの。ふうん、とぼくは答える。
彼女はぼくの両の手をとる。そしてゆっくりと回り出す。彼女は真剣な顔で、こんなふうだったの、おもしろいでしょ、と言う。それが彼女の声なのかどうなのか、またぼくにはわからなくなり始めている。けれどもぼくは安心している。少なくともぼくたちは今ここで2人きりで、だからぼくは幸福なのだ。
けれども、困ったことに、彼女は、その動きを止めない。そして、歌い出す。
そしてさらに困ったことに、ぼくは、その動きを止める言葉を知らないことに思いいたる。ぼくは止まりたい。けれども止められない。
ぼくは、夢のなかで、言葉つかいを諦めたことを後悔した。でももう遅い。
夢が、また、回転し始める。
おもしろいでしょ、と彼女は言う。
回転する回転する回転する。
そして指が離れた。
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